世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

京大世界史2012

世界史B(4問題100点)
第1問
 中国の「三教」、すなわち儒教・仏教・道教のうち、仏教・道教は大衆にも広く浸透し、中国社会を変容させてきた。仏教・道教が中国に普及し始めた魏晋南北朝時代における仏教・道教の発展および両者が当時の中国の政治・社会・文化に与えた影響について300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問
 次の文章(A、B)を読み、[  ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(15)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 7世紀前半アラビア半島にイスラーム教がおこり、(1)イスラーム教徒たちは8世紀前半までに中央アジア・インド西部からイベリア半島に達する大帝国を築いた。その版図には先進文明が栄えた諸地域が含まれ、これらの文化遺産とイスラーム教・アラビア語が融合したイスラーム文明がおこった。
 9世紀前半[ a ]朝の(2)バグダードでは、主に哲学・科学に関する[ b ]語文献が組織的にアラビア語に翻訳され、またインドの天文学・数学などもとり入れられ、イスラーム教徒の学問が飛躍的に発達した。この[ a ]朝期には非アラブ人イスラーム教徒も活躍するようになり、古代以来のイラン地域の帝国統治・官僚制の伝統が取り入れられただけでなく、イラン系改宗者が要職についた。非アラブ人は学者としても活躍し、代数学で有名な数学者・天文学者[ c ]や後の偉大な哲学者・医学者イブン・シーナーは中央アジアの出身であった。
 (3)イスラーム教に関わる学問ではアラビア語学・コーラン解釈学に基づいて神学・法学が発達し10世紀までに今日につながるスンナ派の主要な法学派が成立した。10世紀末シーア派のファーティマ朝は新都カイロに[ d ]学院を建設して教学の中心とするが、(4)これに対抗する[ e ]朝は、11世紀後半、領内の主要都市に学院を建設して、スンナ派の神学と法学を奨励した。また広大なイスラーム世界では地域・民族の特色を加えた文化が形成されるようになり、(5)各地で個性ある宮廷文化・都市文化が栄えた。10世紀中央アジアの[ f ]朝の宮廷ではペルシア文学が盛んとなり、これが西方にも広まって隆盛を極め、15世紀末までにはオスマン朝や[ g ]朝で本格的なトルコ文学がおこった。いずれも(6)アラビア文字を使用し、アラビア語から大量の語句を借用した言語」によるものである。インド亜大陸ではイスラーム教とヒンドゥー教両方の要素が融合された文化が生まれ、16世紀初頭には[ h ]がイスラーム教の影響のもとにヒンドゥー教を改革し、シク教をおこした。


(1) このときのイスラーム王朝の首都はどこか。都市名を記せ。
(2) その後イベリア半島のトレドを中心に、逆にアラビア語文献がヨーロッパのある言語に翻訳され、後世に大きな影響を及ぼした。その言語は何か。
(3) イスラーム教に関わる各分野の学識を十分に持ち、信仰を指導する人々を総称して何と呼ぶか。
(4) これらの学院は、この建設活動を指導した宰相にちなんだ名称で呼ばれた。その名称を記せ。
(5) 11世紀後半、現在のモロッコに建設され、13世紀後半までベルベル系王朝の首都として繁栄したのはどこか。都市名を記せ。
(6) ほかにも同じ特徴を持つ言語がイスラーム世界に成立した。
 (ア) 10世紀以降のイスラーム教徒の商業活動の影響で東アフリカの海岸部に成立した言語は何か。
 (イ) ペルシア語の影響下にムガル朝期のインド亜大陸で成立し、現在パキスタンの国語となっている言語は何か。

B 1844年、清とアメリカ合衆国の間で[ i ]条約が締結された。中国とアメリカの関係はこの条約によって本格的に始まったといってよい。軍事力を背景に中国に進出した(7)イギリスやフランスなどとはちがい、中国とアメリカの関係はおおむね友好的であった。1872年、清政府は初めて海外留学生を派遣したが、留学先はアメリカであった。また、1848年のゴールド・ラッシュや、1869年に完成した[ j ]建設のため、数万人におよぶ中国人がアメリカに渡った。
 アメリカが本格的に中国進出を図るのは1898年の[ k ]戦争により(8)フィリピンを領有して後のことである。ヘイ国務長官は1899年に門戸開放と機会均等を列国に対して提唱した。翌年、(9)義和団事件が起こると、アメリカはフィリピンに派遣していた軍の一部を割いて、義和団鎮圧に参加した。1901年、清は11か国との間に北京議定書(辛丑和約)を調印、多額の賠償金を負わされた。同年、林 (糸+予、りんじょ)と魏易は[ l ]の著作『アンクル・トムの小屋』を翻訳し、中国人の運命をアメリカの黒人と重ね合わせ、同胞の奮起を促した。
 1905年に中国各地で反米ボイコット運動が起こったのは、当時のアメリカが帝国主義列強の一員として中国の利益に対立する存在となっていたからである。また、1904年にいわゆる排華移民法(1882年制定)の二度目の期間延長が決まったことも、大きな要因であった。一方でアメリカは義和団賠償金の一部を中国に返還し、中国人学生のアメリカ留学事業に充てた。留学生たちは帰国後、社会の様々な方面で指導的役割を果たし、アメリカの影響力が増大した。たとえば、1922年に制定された(10)新しい教育制度はアメリカをモデルとしていた。
 1927年に蒋介石が南京に国民政府を樹立、翌年北京を占領して北伐を完成させると、アメリカはいち早く新政府とその関税自主権を承認した。しかし、アメリカが極東で重視したのは日本との関係であった。1931年に(11)満洲事変が起きた際にも、アメリカは日本を非難しただけで事実上日本の行動を容認した。日中戦争が始まり、蒋介石は政権を南京から武漢、ついで[ m ]に移し、日本に徹底抗戦した。アメリカはようやく中国との関係を重視し、[ m ]の政権を積極的に支援するに至った。(12)日本の降伏後、中国では内戦が勃発、1949年に中国共産党は中華人民共和国を樹立し、蒋介石率いる中国国民党は台湾に逃れた。まもなくして(13)朝鮮戦争が始まると、中華人民共和国は朝鮮民主主義人民共和国を、アメリカは大韓民国をそれぞれ支援した。中華人民共和国とアメリカは(14)ベトナム戦争でも対立を深めた。1972年、アメリカ大統領[ n ]が中華人民共和国を訪問し、国交正常化への道が開かれた。その後、フォード大統領、カータ一大統領の中華人民共和国訪問を経て、(15)1979年に両国は国交を結び、30年におよぶ対立関係に終止符を打った。


(7) 清との間で結ばれ、天津の開港を定めた条約の名称を記せ。
(8) このとき、フィリピン共和国の大統領となり、アメリカと戦った人物の名を記せ。
(9) アメリカなど8か国は共同出兵して義和団と清軍に対抗した。以下の国のうち、8か国連合軍に参加しなかった国はどれか。
 (ドイツ、スペイン、イタリア、オーストリア)
(10) プラグマティズムを大成したアメリカの哲学者・教育学者で、1919年から1921年にかけて中国に滞在し、中国の新しい教育制度に大きな影響を与えた人物の名を記せ。
(11) 清の最後の皇帝で満洲国執政に就任した人物の名を記せ。
(12) 日本が降伏にあたって受諾した米英中3国による対日共同宣言の名称を記せ。
(13) 大韓民国を支援した国連軍の最高司令官で、日本占領時の連合国軍最高司令官であった人物の名を記せ。
(14) 1960年12月に結成され南ベトナム政府軍、および同政府を支援したアメリカ軍と戦った組織の名称を記せ。
(15) このときの中国共産党主席の名を記せ。

第3問
 16世紀から17世紀にかけて、南北アメリカ大陸には、スペイン、ポルトガル、オランダ、フランス、イギリスがそれぞれ植民地を建設したが、18世紀後半以降、これらの諸国とアメリカ大陸の植民地との関係は大きく変化しはじめる。18世紀後半から19世紀前半にかけて、北米のイギリス領13植民地と南米のスペイン領植民地で生じた変化および、その結果成立した支配体制の特徴について、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問
 次の文章(A、B、C)を読み、下線部(1)〜(26)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 民衆や虐げられた人々の反乱は政治・社会の変化を促し、またその時代を特徴づける事件でもあった。古代ローマの奴隷は紀元前2世紀に、シチリア島で大規模な反乱を起こしていたが、(1)前73年の反乱には数万人の奴隷が加わり、各地でローマ軍を破ったのち、(2)前71年に鎮圧された
 中世後期のヨーロッパ封建社会では黒死病の流行による農業労働力減少などにより、領主に対する農民の地位は改善されたが、領主が封建支配の再強化を企てると、農民は各地で反乱を起こした。(3)フランスでは1358年に「ジャックリーの乱」と呼ばれる農民反乱が生じ、イギリスでは1381年に(4)ワット=タイラーが指導する反乱が起こった。これらの反乱は、領主の不当な徴税を拒否し、また農奴制の廃止を要求した。いずれの反乱も諸侯や国王により鎮圧されたものの、農民の地位向上の流れはとまらなかった。(5)15世紀前半に神聖ローマ帝国東部で生じた宗教的反乱は農民のみならずドイツ人の支配に対するこの地域の人々の民族的な反発と結びついて、広範囲な反乱となった。
 宗教運動と結びついた農民反乱としてもっとも大規模なものは、宗教改革時代の(6)ドイツ農民戦争である。農民戦争はドイツ西南部から中部にかけて広がり、地方ごとに軍団に組織された農民は、ルターらの主張した(7)福音主義に基づく様々な改革要求を掲げて蜂起したが諸侯の同盟軍に個別的に撃破された。しかしエルベ川以東の農村社会を除くと、農民戦争後も農民の領主に対する地位は必ずしも改悪されたわけではなかった。また中世後期から宗教改革期にかけてドイツでは、(8)都市においても中・下層民による蜂起や市政改革運動が起こったが、農民反乱と連帯することはほとんどなかった。


(1) この奴隷反乱の指導者の名を記せ。
(2) この反乱の鎮圧に貢献し、のちにパルティア遠征で戦死した、第1回三頭政治に参加した政治家の名を記せ。
(3) ジヤャックリーの乱では、このころにフランスで行われていた戦争の災禍も、農民の不満の一因であった。この戦争名を記せ。
(4) 聖書を根拠に人間の平等を説いたとされる、この反乱の思想的指導者の名を記せ。
(5) (ア) この反乱が起きた地域の名を記せ。
  (イ) この反乱のきっかけを与えた宗教改革者の名を記せ。
(6) ルターには批判されることになる、急進的改革思想を持つ農民戦争の指導者の名を記せ。
(7) (ア) ルターが聖書を信仰のよりどころとするために行った、後世に大きな影響を与えた業績を挙げよ。
  (ィ) 14世紀にイギリスで聖書の尊重を唱えて(ア)で問うたルターの業績と同様のことを試みたとされる神学者の名を記せ。
(8) 中世都市の市政改革運動でしばしば中心的な役割を果たした手工業者の組織は、何と呼ばれるか。

B 歴史は包摂と排除のプロセスを繰り返してきた。古代ギリシア都市の市民は、(9)異民族をバルバロイと呼んで軽蔑し、自分たちの文化的優越を誇った。帝政期ローマの東部で勃興したキリスト教は(10)ユダヤ教内部の改革運動にとどまらず、外部にも積極的に布教することによって信徒を増やした。こうして4世紀には帝国の国教となったキリスト教は新たな包摂と排除のプロセスを開始した。
 7世紀に興ったイスラーム教の影響はイベリア半島に及び、(11)この地の帰属をめぐり、キリスト教陣営との間には争いが長く続いた
 正教会と分裂したローマ=カトリック教会は、その影響力を維持すべく、内部の異質な分子を排除しようとした。(12)13世紀からは、異端審問が各地で猛威を振るうようになった。16世紀には宗教改革が起き西欧はカトリックとプロテスタント諸派がモザイク状に混在する世界になり各地で新たな包摂と排除の動きが展開した。宗教改革の影響もあり(13)16、17世紀には魔女狩りが盛んに行われた
 宗教や思想とは違う形の包摂と排除もある。(14)フランス革命期、国民議会は人権宣言を採択したがそこに女性の権利は明示されなかった。オランプ=ド=グージュは「女の人権宣言」を出してその欠落を批判したが、ほどなくして断頭台で刑死した。(15)19世紀のとくに後半以降には女性の参政権獲得運動が各地で繰り広げられることになる。排除された者による包摂の要求である。古代ギリシアにも見られた異民族への蔑視の態度は、近代になると、科学の装いをもって現れる。博物学や人種論は、(16)アジアやアフリカの人々に対するヨーロッパ人の優越意識に根拠を与えることになった。よりあからさまに感情的な要素が強かった包摂と排除の動きは、ナショナリズム熱である。これは、西欧の諸地域では国民国家の形成をうながし、(17)東欧やバルカンにおいては諸帝国の体制の動揺をまねいた
 両大戦を経て、20世紀半ば以降のヨーロッパは排除ではなく積極的な包摂の方に傾いている。EUはまさにその象徴である。ただ、そのEUといえども、包摂と排除のサイクルから抜け出すことはそう簡単なことではない。


(9) 古代ギリシア都市の市民は、これに対して自らを何と呼んだか。
(10) この宗教にあって、律法を詳細に研究しそれを厳格に守ろうとした人々は、イエスの論敵となったことでも知られる。かれらのことを何派と呼ぶか記せ。
(11) 1492年にグラナダは陥落した。このときまでイベリア半島に存在した最後のイスラーム王朝名を記せ。
(12) フランス南部で大きな勢力となったが、教皇やフランス王から弾圧され衰微した異端の名を記せ。

(13) (ア) 魔女狩りは新大陸でも行われた。とくに有名なのはマサチューセッツ北東部のセーラムで17世紀末に起きた事件である。この地に生まれ魔女裁判や魔女集会に取材した作品も書いた『緋文字』で知られる作家の名を記せ。
 (イ) 1950年代にアメリカ合衆国で吹き荒れた、現代の魔女狩りともいわれる「赤狩り」を扇動し、この運動を表す言葉の語源にもなった連邦上院議員の名を記せ。
(14) フランス革命で女性の果たした役割は大きい。たとえば、1789年10月5日の女性たちの行動により、ルイ16世は人権宣言への署名を約束することになった。十月事件ともいわれるこの出来事は何か。
(15) 第一次世界大戦を経て、イギリスやドイツでは女性の選挙権が認められることになった。ドイツでは1919年、男女普通選挙権による憲法制定国民議会選挙が実施され、ヴァイマルに召集されたその議会で大統領が選出された。この人物の名を記せ。
(16) こうした優越意識は恐怖感の裏返しでもあった。19世紀末以降欧米でたびたび噴出した、中国人や日本人に対する否定的な議論を何と言うか。
(17) この地域に大きな版図を有していたオーストリア=ハンガリー帝国は、第一次世界大戦に敗れた。そして戦勝国側とオーストリアが結んだ講和条約により、同国の版図は縮小されドイツ系住民が多数を占める共和国となった。この条約の名称を記せ。

C 現代社会は膨大な電力消費の上に成立している。電気の発見は、人類史において火の発見に匹敵する出来事である。「電気」の英語electricityが琥珀(こはく)を意味する古典ギリシア語elektronに由来するように(18)摩擦帯電現象は古代ギリシアでも知られていた。しかし(19)石炭を燃料とする蒸気機関に代わって電動機が実用化されたのは19世紀後半である。「発明王」エジソンは(20)1882年に電力供給を目的とした火力発電をニューヨークで始めているが、先進工業諸国で一般家庭に電灯が広く普及したのは第一次世界大戦以降である。
 この大戦中に勃発したロシア革命の指導者レーニンは「蒸気の世紀はブルジョアジーの世紀、電気の世紀は社会主義の世紀」のスローガンを好んだ。自立的な機関とちがって集中的に管理された送配電システムは個人主義的な階級文化に終止符を打つと期待したのである。1920年の国家電化計画に際してレーニンが発した「共産主義とは、(21)ソヴィエト権力プラス全国の電化であるという言葉にもそうした思いを読み取ることができる。このような(22)電力供給事業を社会経済システムの基盤とみなす発想は国家体制の違いを超えて広まった。日本でも電源開発としてのダム建設は盛んに行われたが、1950年代後半には安価な石油を燃料とした火力発電所が急増した。しかし、(23)第四次中東戦争以降は状況が一変し、供給の安定性経済性の観点からエネルギー源の多様化が図られた。
 アメリカで核分裂連鎖反応の実験が成功したのは第二次世界大戦中だが、やがて原子炉で発生する熱を利用した原子力発電の計画も始まった。(24)冷戦下の核兵器開発競争の中で、1954年に実用レベルの原子力発電所を世界にさきがけて稼働させたのはソヴィエト連邦である。一方、第二次世界大戦の敗戦国ドイツでは原子力発電のスタートは遅れていた。しかし、(25)1958年にヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)が発足すると西ドイツは積極的に技術開発を進め、原子力発電の比重を高めてきた。しかし、(26)1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故を受けて、西ドイツ、そして後の統一ドイツでは環境問題への懸念から脱原発への関心がしだいに高まった。


(18) 琥珀の摩擦実験を行ったとされる古代ギリシアの哲学者で、万物の根源を水と考えた人物の名を記せ。
(19) 1830年に営業運転が始まった蒸気機関車による鉄道はリヴァプールとどこを結ぶ路線だったか。その都市名を記せ。
(20) この年にスタンダード石油トラストを組織してアメリカの「石油王」となった実業家の名を記せ。
(21) 第一次世界大戦末期にドイツにおこった革命運動の組織で「ソヴィエト」のドイツ語訳にあたる名称を記せ。
(22) アメリカ合衆国のニューディールの中で、電力供給による大規模な地域開発などを目的として1933年に設立された組織の名称を記せ。
(23) (ア) この地域紛争でエジプト・シリアと交戦した国はどこか。
  (イ) (ア)で問われた国を支援する諸国に対して原油の輸出停止を行った組織の名称、を記せ。
(24) 「ソ連水爆の父」と呼ばれた原子物理学者で、後に市民的自由を要求して反体制活動を行い.1975年にノーベル平和賞を受賞した人物の名を記せ。
(25) 西ドイツは西ヨーロッパへの統合に向かった。この時期の西ドイツ首相の名を記せ。
(26) 当時のソヴィエト連邦の最高指導者が打ち出した情報公開をすすめる政策の名称、を記せ。
………………………………………
コメント
第1問
 課題は「魏晋南北朝時代における仏教・道教の発展および両者が当時の中国の政治・社会・文化に与えた影響」でした。わたしが予想した問題は「魏晉南北朝から宋にいたる中国の歴史において、仏教はどのように受容されたか」でした。京大のよりもっと拡大した問題でした。京大のは時間をもっと圧縮して、道教も問うています。類題としては1994年度の「4世紀から5世紀中葉にいたる時期は、中国史上まれにみる大分裂時代であった。この時代の特色を、民族・地域・宗教文化の3つの側面から」というのと似ていますが、宗教だけにしぼっている点は違っています。京大は過去問を解いても本番では解けませんよ、とこのブログで何度も書いてますが、これもやはりそうでした。
 課題は8つあります。1仏教の発展、2政治・3社会・4文化に与えた影響、そしてこれの道教版4つとで8つです。全部は書けないとしても課題は8つでした。予備校の解答を見て、この8つが書いてあるか点検したらボロが見えてきます。自分の答案を検討するさいの視点にもなります。

 1 仏教の発展は、二人の亀茲からきた僧の仏図澄(布教)・鳩摩羅什(訳経)、仏図澄の弟子の道安、道安の弟子の慧遠、慧遠が白蓮社結成と浄土教の基礎をつくったこと、達磨の禅宗布教、逆に渡印した僧として法顕と、仏典(律)をもちかえる等があります。
 2 政治的影響は、前秦苻堅(鳩摩羅什が国師)や北魏皇帝たちの保護、北魏太武帝の廃仏、南朝では梁の武帝による保護・建寺があります。胡漢(遊牧民と農民)の民族共存のための政治思想・鎮護国家思想としても利用されます。
 3 社会的影響という表現は京大ではよく問われる問い方です(過去問の1991、1993、1998、2008、2010)。「社会」って何? という説明が拙著『世界史論述練習帳new』(パレード)にあります。かんたんには政治以外のすべてですが、も少ししぼると、それは民族・身分・経済・文化も入ります。この問題の場合は文化が別に問われていますから省いて他を考えてみます。すると国家権力に加わらなかった貴族・庶民に仏教の浸透が見られます。とくに貴族は格義仏教といって老荘思想で仏教の意味(義)を探究する(格)ことがはやりました。もともとある儒教とも内容は同じなのだ、言い換えにすぎないとする儒仏一致論が説かれ出します。孔子は仏てもあると。
 火葬は仏教とともに日本に普及しますが、中国の場合はこれは広まりませんでした。火葬は身代を傷めるよくない行為と見られ、土葬がつづきました。仏寺が都市の中に造られ、寺を中心に祭礼や市場が開かれるようになります。しかし、このあたりは教科書にデータがありませんから、上の貴族について書けたらベストとしましょう。
 4 文化的影響は、敦煌莫高窟窟(千仏洞)のような仏画(人物画・宗教画)・彫刻に見られ、石窟寺院(雲崗・龍門)も造られ、インド文化(ガンダーラ・グプタ様式)が入ってくること、法顕の『仏国記』のような旅行記などが挙げられます。山水画の起源は仏画や彫刻に見られる植物文装飾から、と指摘している方もおられます(京大系の歴史書であるアジアの歴史と文化シリーズ2『中国史・中世』p.85)。

 なお、ある予備校に「漢代に伝来した仏教」という要らないことを書いている解答例もありますが、一言。用語集の「仏教伝来」という漢の項目に「漢代に西域経由で伝来したが、一般には普及しなかった」と断定的に書いてありますが、これはまちがいです。下のその根拠になる記述が引用されていますが、この程度で仏教伝来をいうのは虚偽です。

 明帝(57-75)は夢に金人(きんじん、仏像)の長大にして、項(うなじ)に日月の光あるを見て群臣に尋ねた。あるものは、「西方に神あり、其の名を仏という。陛下の夢みたものはこれではないだろうか」といった。そこで使を天竺に送り、その道術を問い、其の形象を伝え図る。

 しかしこの仏教渡来の伝説は史実を伝えたものではなく、後世に創作されたものであろう(『中国の歴史3秦漢』講談社、p.370)。

 5 道教の発展は、後漢末の五斗米道(天師道)が基になり、北魏太武帝に保護された寇謙之が教団にします。それには中国古来の神仙思想・道家思想・陰陽五行説・呪術などが加わり、仏教から輪廻・業報・解脱・衆生済度などの教理を取り入れ、儀礼も取り入れたと見られています。当時の宗教のごった煮、宗教のデパートです。清談を道教の影響例として書いている解答例がありますが、まだ道教ができてない段階で影響は言えません。
 6 政治的影響は、北魏で一時的に国教化され、太武帝による廃仏、北周の武帝による廃仏があったこと。
 7 社会的影響は、不老長生と現世的利益を願う教えは、民衆(商人・農民)のなかに深く浸透したこと。
 8 文化的影響は、儒教の道教的解釈、葛洪の『抱朴子』(養生法、錬丹術(れんたんじゅつ)が書いてある本。錬丹術とは薬の製法で、薬を霊薬(仙丹)といい、服用すると不老不死の仙人、500歳、1000歳も生きられる仙人に変身する)。除災のために御払い(露払い)、天文(占星術)・医学の発展、易による自然・人間観察的なものもできあがります。


第2問
A いつもの空欄・下線設問です。

問(1) 「このとき」とは「8世紀前半までに中央アジア・インド西部からイベリア半島に達する大帝国」なのでウマイヤ朝の首都はどこか、という問い。イベリア半島にジブラルタル海峡を越えたのは711年で、これは東でインダス川を越えた年でもあります。

空欄a 後のバグダードが都の王朝です。

問(2) 「アラビア語文献がヨーロッパのある言語に翻訳」とは「12世紀ルネサンス」のこと。レコンキスタで半島中部まで進出し、トレド(マドリードのすぐ南)で東方学院が設けられ、ここに学僧たちが集まってラテン語に翻訳してます。

空欄b 「12世紀ルネサンス」の前に「アッバース朝ルネサンス」と呼ぶくらいにギリシア語文献の翻訳が盛んでした。その翻訳所をバイト=アル=ヒクマといいます。古代のギリシアの学問は、アラビア語、そしてラテン語という順に継承されました。

空欄c 代数学といえば、フワーリズミーです。「ふわあ、リズミカルな代数学」と覚えましょう。そんなものあるか! と馬鹿にしながら。

問(3) 「学識を十分に持ち、信仰を指導する人々」はイスラーム教に僧侶というものがないので事実上の僧侶にあたるひとたちでもあり、官僚・政治顧問・裁判官・学者・モスクの導師になったりします。ウラマーは職業名ではなく、中国でいえば士大夫・読書人にあたる知の担い手です。政治的には、軍人支配者にとって政権の正当性を確保するために、ウラマーの支持を必要としていました。この役割も中国と似ています。「うらャまシィ(身分)」と覚えます。

空欄d 「カイロに」とあるのでイスラーム世界の最高学府とみなされているアズハル大学。

空欄e 「11世紀後半」とあるのでセルジュク朝(1038-1194)。スタートの1038年は西夏の成立と同年(『世界史年代ワンフレーズnew』の語呂は「成果(西夏)競る(セル)父10さん3は8)。

問(4) 宰相とある。セルジュク朝の大学で個人名がついているものは、現在のバグダード大学の前身でもあるニザーミーア学院。かれニザームル=ムルクの墓は仕えたスルタンのマリク=シャーの傍らにあるが、スルタンのものより立派だという。

問(5) 「11世紀後半……13世紀後半」とはムラービト朝・ムワッヒド朝のこと。「ベルベル系王朝の首都」はどちらもマラケシュ。マラケシュは、カサブランカの南約250kmに位置するモロッコの古都。家々の壁はすべて赤っぽい色で統一されているため、赤い街として名高い。いや白や青で塗りたくった通りもあります。色の街です。

空欄 f 「10世紀中央アジア」の王朝とは、874年からのサーマン朝か、940年からのカラ=ハン朝か。後の「ペルシア文学が盛ん」というところからは、トルコ系の後者より、前者はイラン人王朝なので前者が正解。

空欄g こんどは「トルコ文学」とあるのでトルコ系の王朝。オスマン以外で「15世紀末までに」とあれば、15世紀末(1500)に滅んだティムール帝国がふさわしい。ティムール自身は文字が読めなかったようですが、トルコ語とペルシャ語を自由に話し、歴史についての知識はかなりのものであったと伝えられています。城を攻め、反抗すれば徹底的に殺して切り取った首を積み上げるのが趣味でした。

問(6) (ア) 「10世紀以降……東アフリカの海岸部に成立した言語」とあるので、「海岸に住む人」の意味するスワヒリ語。

 (イ) 「ムガル朝期……現在パキスタンの国語」はウルドゥー語。民族が次々と入ってきて愚人の間で形成された言語らしい。中国でも後漢末以降、北から五胡が侵入して現在の簡略な抑揚の中国語ができます。

空欄h 「シク教をおこした」開祖を問うています。ナーナクはセンター試験でも2回出題されてます(2000,2003追)。

B 
空欄 i 「1844年、清とアメリカ合衆国」とあるので望厦条約。「アメリカ」の「ア」と望厦条約の「ほうか」→あほーか条約」と覚えるよう拙著『センター世界史B各駅停車』で書いてます。フランスとの黄埔条約と区別するためです。

問(7) 「イギリスやフランス」が関係し、「天津の開港を定めた条約」とあるので、アロー戦争の後の条約です。天津条約(1858)は批准できなかったため、改めて結んだ条約(1860)の中にありました。

空欄 j 「1869年に完成……数万人におよぶ中国人」の他にアイルランド移民も加わってます。『世界史年代ワンフレーズnew』の語呂は「鉄道で、人1は8ロ6ケ9ット」。

空欄K 「1898年……(8)フィリピンを領有」だから米西戦争。『ワンフレーズ』の語呂は「米西は突1破8キュ9ーバ8」。

問(8) 「大統領となり、アメリカと戦った人物」アギナルドはアメリカと協力してスペイン追放に成功し、1899年1月に共和国の成立を宣言したのですが、これを無視してアメリカがマニラに入城してきて、共和国側を入城させないことから双方で戦闘(フィリピン=アメリカ戦争)が始まりました。けっきょく入城できず、米国の占領下にかれました。

問(9) 「8か国連合軍に参加しなかった国はどれか(ドイツ、スペイン、イタリア、オーストリア)」という私大的な奇問。8か国全部の覚え方は「独米伊日英仏露オ→どべいにエプロンを(『日本史年代ワンフレーズ』)」でどうでしょう? スペインがはずれます。

空欄l 女性作家で秘かに北に黒人たちを逃亡させる組織の一員でもありました。ストウ「夫人は書いた時点では奴隷制反対者ではなかったものの、この作品に対する南部奴隷州の非難にたいして、本格的に奴隷制について調べだし、小説よりも実際はもっと残酷であり不正であると訴える『アンクル=トムの小屋への鍵』という本を出しています(1853)。(『各駅停車』の記事)」。

問(10) プラグマティズムといえばジョン=デューイという教育学者・哲学者を想起できたか? 胡適がコロンビア大学で学んでいます。日本にも来てから中国に行き講義をしてます。ジョン=デューイが、"The School and Social Progress."(1915年刊行)で、

 To study history is not to amass information, but to use information in constructing a vivid picture of how and why men did thus and so;achieved their successes and came to their failures.

 と述べてから1世紀経ってます。日本ではこうした歴史教育は未だに実現していません。この京大の問題自体がそれをよく示しています。名前だけ知っててどないするん? とデューイが怒ってきそうです。

問(11) 「清の最後の皇帝で満洲国執政」は溥儀という漢字が書けたかどうか。かれが書いた『わが半生』(ちくま文庫)は人間的な正直な告白録になっています。

空欄m 日本の奇襲攻撃にたいして「南京から武漢、ついで[ m ]に移し」と南京で南京(虐殺)事件が起き、その後退却させられた姿です。重慶まで退避しました。日本では今でも南京事件はなかったと虐殺数にこだわっているひとが後を絶たないですが、この時に参戦した日本兵のあまりに多くの証言があるので、それは読みたくない、史実は無視したい、という選択的逃亡でしょう。
http://www.history.gr.jp/~nanking/books_shougen_kaikosha.html
 逃げないで、松岡環著『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言』(社会評論社)を読むべし。

問(12) 「米英中3国による対日共同宣言」ならカイロ宣言も入りますが、下線部分は「日本の降伏」勧告宣言ですから、ポツダム宣言です。

問(13) 「大韓民国を支援した国連軍の最高司令官で、日本占領時の連合国軍最高司令官」という容易な問題。朝鮮戦争で仁川に上陸してから北朝鮮軍を鴨緑江まで追いつめた将軍です。

問(14) 「1960年12月」というのは表向きの数字で、ファン・バン・ドン元首相が、前年の1959年につくったのだ、とNHKの映像では証言していました(『社会主義の20世紀』第5巻・日本放送出版会)。日本の教科書でも以前は実状が分からず、詳説世界史でも「反政府の南ヴェトナム解放民族戦線が結成された」(1981)とあったのが、「ヴェトナム民主共和国(北ヴェトナム)の支援を受けて、60年ヴェトナム共和国(南ヴェトナム)に南ヴェトナム解放民族戦線が結成され」(1997)となりました。気をつけなくてはいけないのは、南ヴェトナム解放民族戦線が正しく、「民族解放戦線」ではないことです。アメリカ側はこの組織をベトコン(ベトナムのコミュニスト)と呼んでいました。

空欄n 「中華人民共和国を訪問」した最初のアメリカ大統領です。ウォーターゲート事件で失脚した共和党大統領です。日本の首相も後で駆けつけました。

問(15) 「このとき」とは「1979年に両国は国交」の中国共産党主席・華国鋒は細かい。できなくても1点だけの減点。毛沢東の隠し子でないかと噂される理由は、その恰幅のいい顔立ちとからだつき、また同じ湖南出身であることから。


第3問
 課題は「18世紀後半から19世紀前半にかけて、北米のイギリス領13植民地と南米のスペイン領植民地で生じた変化および、その結果成立した支配体制の特徴について」でした。
 時間は、「18世紀後半から19世紀前半」、テーマは「北米のイギリス領13植民地と南米のスペイン領植民地で生じた変化および、その結果成立した支配体制の特徴」です。ここでいう「特徴」とは、相違点に等しい表現です。というのは、二つの違うタイプの植民地の変化と結果の「特徴」ですから、相違点です。たんに何か一つのテーマをあげて特徴を問うた場合は、その内容を説明したら済みますが、対照的なものを二つあげて特徴といった場合は、その対照性、つまり相違点を意識して書くことが課せられます。もともと植民地の地理的人的な違いがあり、植民地政策がイギリスとスペインでは違いましたから、独立運動のかたち(契機・担い手・支援)も違い、結果としての体制も違うわけです。
 この問題の類題は京大になく、東大過去問(1998)に次のようなものがありました。

 18世紀から19世紀末までのアメリカ合衆国とラテンアメリカ諸国の歴史について、その対照的な性格に留意しつつ、ヨーロッパ諸国との関係や、合衆国とラテンアメリカ諸国との相互関係のあり方の変化を中心に、下に示した語句を一度は用いて、解答欄(イ)に15行以内で記せ。なお、使用した語句に必ず下線を付せ。
  プランテーション、パン・アメリカ会議、南北戦争、ウィーン体制、自由貿易主義、モンロー宣言、クリオーリョ、米英戦争

 この東大のは2世紀全部に言及しなくてはなりませんが、京大のは18世紀前半、19世紀後半は無視していい時間設定です。東大の方が「対照的な性格に留意」という京大の「特徴」より明快な問い方をしています。しかし二つの地域をとりあげて「特徴」を書かなくてはならないとしたら対照的性格、すなわち特徴とほぼ同じでしょう。ところが予備校の解答は、要らない独立経緯をグダグダと書いて、そこにどういう対照性があるかも言及せず、たいてい両方の共通点をあげています。違いを書いていても一方で書いて他方で書かないためにどういう違いなのか分からないものもあります。
 13植民地について、「七年戦争後、……パリ条約で独立が承認された」と独立の経緯を書いているものがほとんどですが、本来「変化」とは経過を書かなくても良いものです。変化する前と後がどう違っているのか明らかにすればよく、経過は求められていない問題です。
 また独立過程を書いて満足してしまってますが、問われているのは「独立」だけではありません。ぼかしていて「変化」といっているのです。独立も入りますが、独立後もある訳です。合衆国の独立は18世紀後半ですが、南北戦争まで言及しなくても、19世紀前半の米英戦争による変化、ジャクソンニアン・デモクラシーと産業革命(工業化)も言及すべきでしょう。またスペイン領ラテンアメリカの場合は、19世紀前半が独立期なので、18世紀後半の植民地時代の変化が書けるとベストです。上の東大の過去問でも18世紀のラテンアメリカを書いた答案は皆無でした。下に対照表にしてみます。

    合衆国        スペイン領ラテンアメリカ
植民地 英国の有益な怠慢   絶対王政
時代  タウンミーティング  官僚制(ペニンスラールの支配)
    植民地議会      啓蒙思想の普及・西欧留学
独立期 重商主義       プランテーション搾取
担い手 プランター・民兵   クリオーリョ
支援  全欧州        モンロー宣言・英国の軍事・経済支援
    植民地人と英国    同国人同士の抗争
結果  多民族統一国家    同民族多国家(国民国家の形成に失敗)
体制  三権分立・連邦制   民主的憲法と独裁
    人民主権・革命権   憲法と社会の乖離
その後 ジャクソン民主主義  カウディーリョ(軍事的指導者)の専横
    米英戦争と経済的自立 英国の経済的支配    
    産業革命       モノカルチャー経済

 受験場でこれらのことを全部想起できなくとも、ほんの一部でも対照的に書けたら良答になります。
   

第4問
A
問(1) 「この奴隷反乱」とは「前73年の反乱」と年代が書いてあるので容易でした。「スパルタ・ゼミ73」が『ワンフレーズ』の語呂。剣奴、グラディアトールの反乱ともいうものの、ここでは指導者のスパルタクスを挙げます。前に書いてある「シチリア島で大規模な反乱」はローマ側からは第一次奴隷戦争(前135-132)で、第二次奴隷戦争(前104-100)もシチリア島でした。とくに第一次のローマ軍の苦戦はグラックス兄弟の改革を促したものです。

問(2) ヒントは「反乱の鎮圧に貢献し、のちにパルティア遠征で戦死した、第1回三頭政治に参加」と与えられています。さてポンペイウスかクラッススか。反乱鎮圧のために北部からポンペイウスが南下してきますが、クラッススは南部から追いつめて勝利してます。この後で三頭政治が始まり、「クラッススはパルティア遠征の指揮を任されましたがパルティア軍の指揮官との会談中に謀殺されたようです(『各駅停車』の記事)」。ローマ市で初めて消防隊をつくつて儲けた(?)ことでも知られています。なぜかは「世界不思議発見」で出ました。

問(3) ジャックリーの乱は『ワンフレーズ』語呂で「ジャック貧1民3小5屋8」で、百年戦争のスタートは「百年も、戦1さ3さ3ぐ9」なので、百年戦争が該当します。

問(4) 「ワット=タイラー」の「思想的指導者」は、「アダムが耕しイヴが紡いだとき、だれが貴族(領主)であったか"When Adam delved and Eve span,who was then the gentleman?"」と問うた人物。

問(5) (ア)(イ) 「起きた地域」とは発端地。フスの処刑の後、これに抗議するプラハ市民が暴動をおこし教会や市庁舎を襲撃して反乱が始まるので、プラハ市でもいいのですが、「地域」は広そうな表現なので、フス派のいる地域として、ボヘミア、ベーメンが妥当でしょう。このフス戦争(1419-36)が「広範囲な反乱となった」のはフス派の優勢でほとんど戦争が展開し、神聖ローマ帝国側として5回もこのフス派を討つための十字軍を派遣しながら倒せませんでした。フス派軍は、シュレジエン、ハンガリー、オーストリアなどにしばしば遠征し、北方ではプランデンプルクの国境に迫り、西に向っては大挙ザクセン、テューリンゲン、フランケン地方を侵し、1432年にはオーデル河畔のフランクフルトからベルリンの北まで進撃しました。双方とも戦い疲れて止め、ギブアップ、というくらい長い広い戦闘をくりかえしました。一橋2011年度の第1問にこれの論述問題があります。

問(6) 「急進的改革思想を持つ農民戦争の指導者」はセンター試験でもよく問われてきました。2000年、01年、05年、07年、08年、10年と。

問(7) (ア) 「聖書を……、後世に大きな影響を与えた業績」は次の問(ィ)にもヒントがあります。翻訳です。それまでウルガータというラテン語の聖書に使われていたところに俗語と軽蔑された口語訳が作られました。その前任者が(イ)ウィクリフです。聖書は一般人が知らなくてもいい書物だったのですが、聖書を知らないでなんでクリスチャンじゃ、という疑問から聖書主義がスタートします。 

問(8) 「手工業者の組織」はドイツ語でツンフト Zunft です。英語風には「同職(手工業)ギルド craft gild」でもいい。商人の親方が独占していたところに、手工業の親方たちも市政に参加できるようになる「市政改革運動」ではあったのですが、職人・徒弟が参加できないという点では民主化もわずかなものでした。

B 
問(9) 「自らを何と呼んだか」という問いで、ヘレネス。「ヘラス」はギリシアの地を意味する。土地は「減らず」と覚えます。

問(10) 「厳格に守ろうとした人々」はパリサイ派(パリサイ人)で、「イエスの論敵」としては「白く塗りたる墓」と批判にされます。表向ききれいだが、中が腐っている、という意味です。そういえば原発のすがたも白いドームのかたちをしいていて、中身は腐っているどころか猛毒がうごめていています。毒発と名称変更した方がいい。

問(11) 「1492年にグラナダ……最後のイスラーム王朝」という易問。ナスル朝もセンター試験頻出王朝です。最近では、2002年追、04年、07年、09年、11年と。不思議なことに東大2012年度第3問・問(6)に「グラナダにあるアルハンブラ宮殿はイベリア半島最後のイスラーム王朝の時代に建設された。1492年、スペイン王国によって攻略されたこの王朝名を記しなさい」という問いがあります。東大の第3問は京大対策になります。

問(12) 「フランス南部……教皇やフランス王から弾圧」はアルビジョア十字軍が派遣されたことを指しているので、地方名からアルビジョワ派でも、宗派名からカタリ派でもいい。

問(13) (ア) 『緋文字』の作者はホーソン。これはさすがにセンターで出たことはありません。頻度2ですから。
 (イ) 連邦上院議員の名もセンターでは出たことがありません。橋下タイプの国粋主義扇動家で、だれもかれもが「真っ赤」だと恣意的にでっちあげた男です。京大には「マッカーシズムは正しかった」という政治学の中西輝政(名誉教授)がいます。史実無視のぼけた学者です。

問(14) 「1789年10月5日……十月事件」と問われても分かりませんが、革命中の女性の行動といえばパンがないとヴェルサイユにもらいに行ったおかみさんたちの「行進」しかありません。

問(15) ヴァイマルに召集されたその議会で大統領、とは初代大統領なので、エーベルト、次がヒンデンブルク、そしてヒトラーが大統領を廃止して首相と合体したヒューラー(総統、「指導者」の意味)になります。

問(16) 下線部「アジアやアフリカの人々に対するヨーロッパ人の優越意識」「中国人や日本人に対する否定的な議論」は○○論といわれるもの。Yellow Peril(Yellow Terror)と恐れられた、というか、恐ろしいと煽った、というのが史実。白禍論という反論ももちろんあります。

問(17) 「オーストリアが結んだ講和条約」という易問です。「サン紳士」のような名称です。

C
問(18) 「琥珀の摩擦実験」は知らなくても「万物の根源を水」はかんたん。「垂れ水」と覚えます(『各駅停車』にあり)。

問(19) 「リヴァプール」港のすぐ東に産業革命の中心都市があります。

問(20) アメリカの「石油王」となった実業家は、スタンダード石油会社は石油市場の90%を支配する企業になったため、反独占の運動がおきる原因となりました。創業者の名を冠したビル前でクリスマス・ツリーの点灯がよくテレビに映し出されます。

問(21) 「ソヴィエト」のドイツ語訳は、少々難問だったかも。私大ならよく出ます。

問(22) TVAは今はピリオドなしでも正解です。テネシー川流域開発公社、テネシー峽谷開発公社でも可。

問(23) (ア) 中東戦争は何次であれ、イスラエル王国とアラブ諸国の戦いです。下の(イ)もヒントになってます。
 (イ) 原油の輸出停止を行った組織は、石油を産出しなくても加わっているOPECより政治的な「アラブ」名が入った組織です。

問(24) 「原子物理学者で……ノーベル平和賞」もそれほど難問ではないですが、関心がなければ難問だったかも。

問(25) 「1958年」当時の西ドイツ首相は、キリスト教民主同盟の党首で戦後初の首相(任1949〜63)でもあります。センター試験では2002年と05年に出ました。

問(26) 「情報公開」のロシア語です。センター試験でも2001年追と11年本でも出ました。毒発にとって情報公開ほど嫌なものはないようです。危険性をカムフラージュするために、東大・京大の教授たちが弁論をつくして、失敗しました。事故で学問は真理追究のためでなく金目当てであったことがばれてしまいました。誰一人、その職を辞任した、という話がないのが日本の無責任さの凄いところです。
 日本人は上へ行けば行くほど無責任になるようなシステムづくりが得意なようです。太平洋戦争中、合衆国陸海軍は26人の指揮官を更迭して勝利しますが、日本の陸海軍はだれ一人更迭されず敗戦します。