世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史1971

第1問

解答は、〔A〕、〔B〕、〔C〕、〔D〕、〔E〕の順序に書け。

〔A〕宋代の儒学(儒教)の特色を、唐代までのそれと比較して、100字程度で記せ。

〔B〕元王朝の政治権力が、中国の伝統的文化、特に、儒学(儒教)に対してとった態度を、清王朝の政治権力がそれに対してとった態度と比較して、100字程度で記せ。

〔C〕明代の儒学者のうちの特色ある2人につき、その学説・思想を60字程度で記せ。

〔D〕清代の儒学(儒教)の特色を、その末期に起った新しい傾向にも触れつつ、60字程度で記せ。

〔E〕五・四運動の前後の時期に起った儒学(儒教)批判・旧道徳批判に関し、代表的な思想家または作家を少なくとも2人挙げて、100字程度で記せ。

 

第2問

 次の文章を読んで文中の空欄(1)〜(4)の中に適当なことばを入れ、下線を施した(イ)〜(チ)の部分について、下記の設問に答えよ。

 キリスト教が人間に与えた最大の贈物の1つは、民族や国家をこえた人類という思想であろう。しかしこの思想が実現さるべき十分な条件が整えられたのは、第2次大戦後に聞かれた[ (1) ]公会議によるものであった。この公会議を召集したヨハネス23世は、会期中に、回章“地上の平和"を発して、キリスト教会内の分裂を克服し、他宗教のもつ真理性を容認して、全世界の善意ある人々が、進んで世界平和実現のために協力しあえるように、と求めた。教皇パウルス6世のもとに幕をとじた同公会議は、最後に、“信教の自由に関する宣言"を採択して、前記回章の要請にこたえた。

 キリスト教はユダヤ教を母胎として生れた。しかしながらキリスト教が[ (2) ]思想を特色とするユダヤ教とは異なって、より普遍的な人類思想の宗教となりえたのは、(イ)個人の信仰に寛容な世界帝国ローマと、その中で栄えたコスモポリタン的なヘレニズム文化の影響によるところが少なくない。しかしローマ帝国もヘレニズム文化も、ともに多神教を基礎にもつものであるから、(ロ)キリスト教がその人類的立場を貫くためにはいくたの困難があった。キリスト教がローマ帝国の国教となったのちにも、キリスト教に対する反感は容易に消えなかった。聖アウグスチヌスが“神の国"を著わしたのは、[ (3) ]族によるローマ攻略が神々の信仰をすてたことに対する神罰であるという非難にこたえるためであった。

 (ハ)ゲルマン民族のキリスト教改宗後の中世ヨーロッパには、キリスト教をおびやかす他の宗教は存在しなかったが、(ニ)キリスト教会そのものが却って東西に分裂した。西方のキリスト教世界は、はじめ、外民族の侵入に抗し内部の安定をはかるに忙しく、外部世界の事情にくらかっか。イスラム教がユダヤ教の系譜をひくことを知るものはなく、大部分の人々はこれを多神教であるとさえ信じていた。従ってイェルサレム王国を建てた[ (4) ]が、無類の残虐行為を行なったのも不思議ではなく、そこにキリスト教ほんらいの人類思想が発揮されなかったのも肯かれる。また(ホ)中世の異端に対する残酷な処置も人類思想の未発達と関係があろう。

 異端に対する憎しみは、キリスト教のばあい、それが同じ一神教内の意見の分裂であることによってとりわけはなはだしい。(へ)カトリシズムに対するプロテスタンティズムの激しい敵対意識は、ここから理解できる。しかしヨーロッパ人は(ト)この血で血を洗う対立と争いを通じてはじめて、(チ)人類愛に立つ寛容の思想に達したのであった。ただこの寛容思想は、とかくヨーロッパ内部だけにとどまり、他の世界にひとしく推し及ぼされたとはいえない。この欠陥を補い、キリスト教の人類思想が真にその名に価いするものとなるため、その条件を整えたものが,第2次大戦後のキリスト教会内の動きであったといえよう。

〔設 問〕 

(イ) この条件を利用して布教活動に従事した最も重要な使徒の名を記せ。

(口) この困難のうち、キリスト教徒にたいし最大の迫害を行なった皇帝の名を記せ。

(ハ) キリスト教に改宗したゲルマン諸民族のうち、異教から直接ローマ教会の教えに改宗した民族の名称を、2つ記せ。

(ニ) この分裂を促した、8〜9世紀にわたる最も有名な事件の名を記せ。

(ホ) 残酷な処置を受けた異端の名を1つ記せ。

(へ) プロテスタンティズムに対抗するためとくにつくられた、カトリック教会内の組織の名を記せ。

(ト) この争いを原因として17世紀に起った国際戦争の名称を記せ。

(チ) カトリックとプロテスタントめ抗争期において、ここにいう寛容の思想に達した有名なヒューマニストの名称を1人あげよ。 

 

第3問

  現在の国際連合においては、5つの国が安全保障理事会の常任理事国として、重要な地位を占めている。ところでこの常任理事国のうち、アメリカ、ソヴィエト連邦、中国の3国は1919年にはヴェルサイユ条約の調印国ではなく、また同時に成立した国際連盟にも加入していなかった。このことは、2つの世界大戦の間の時期に、国際政治や国際経済の上で、大きな変化が起りつつあったことを示しているといえよう。この3国のそれぞれについて、1919年当時におけるヴェルサイユ条約との関係を述べ、その後、国際連合成立の時期にいたる国際的地位の変化を、下記の事項に言及しながら簡単に説明せよ。(字数指定なし、約600字として書くのが妥当です)

 ドーズ案 不戦条約 武器貸与法 五か年計画 ソヴィエト連邦の国際連盟加入 独ソ戦争 ワシントン会議 抗日民族統一戦線 カイロ会談

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[第1問の解き方]
[A]唐の儒学と宋学とを比較するのであれば、内容(主張)は内容で比較しなくてはならない。唐までの儒学が人間関係論「仁」「礼」の主張で宇宙のこと人間の本質はどこにあるかと深く入り込まないことを特徴としています。また宋学が四書中心であれば、訓詁学が五経を重視していたことを書くべきです。

[B]儒学に対して双方の王朝がどうしたのか、そして科挙に対してどうしたのか、対照的に書けたらベストです。庶民文化(演芸・小説・曲芸)に対してとう゛双方がちがったのか書けるか?

[C]王陽明と李贄(李卓吾)について書くといい。というのは考証学の先駆者(顧炎武・黄宗羲)たちを登場させると次の問題とぶつかるからです。

[D]清朝の儒学が3期あることを知っているだろうか? 17世紀は反清復明の思想をもつ顧炎武・黄宗羲らの先駆者がいて、18世紀は清朝に仕えたおとなしい考証学者たちで、銭大キン、戴震、段玉裁など編纂事業につくした非政治的傾向をもつ考証学者たち。これを純粋考証学というひともいる。ところが19世紀になると武力にまさる西欧にたちうちができず、国粋主義的な言論が出ざるをえなかった。つまり宋学(洋務運動)であり、公羊学(変法運動)であつた。考証学派あきらかに衰えた。

[E]陳独秀・魯迅・胡適の作品をあげてかんたんに説明する。

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(わたしの解答例)

第1問

〔A〕唐までの儒学は魏晉南北朝の老荘的な解釈をうけつぎ五経を重視した訓詁学が発展した。宋学は仏教に影響され唐代までの儒学になかった理論として宇宙の原理や人間の本質を哲学的に探究し、四書を重視した新しい儒学となった。

〔B〕元朝は儒学を軽視し科挙を一時実施せず、復活しても差別的な試験しか行わなかった。関心がないため編纂事業もおこなわなかった。清朝は儒学を尊び科挙を全面的に実施し、中国の古典の大規模な編纂事業をおこなった。

〔C〕王陽明は宋学の南宋の陸九淵の心学を継承し、知行合一・致良知をとく実戦的な陽明学を大成した。陽明学左派の李贄は女性尊重・童心説を唱えた。

〔D〕清初は、陽明学の主観性を批判し実事求是の考証学ができた。清末の列強進出の危機には華夷思想を説く朱子学と、改革を認める公羊学が復興した。

(別解)清初は実事求是の考証学ができ、18世紀に純粋考証学となって編纂事業につくし、清末には華夷思想の朱子学と、改革を認める公羊学が復興した。

〔E〕陳独秀は雑誌「新青年」を発刊して儒教の倫理に代わる科学と民主を唱えた。胡適は論文「文学改良芻議」を発表し白話を唱えて文学革命がはじめた。魯迅は白話の小説『狂人日記』『阿Q正伝』を発表して儒教の食人性を告発した。

第2問(1)バティカン (2)選民 (3)西ゴート (4)第1回十字軍

設問(イ)パウロ  (ロ)ディオクレティアヌス帝 (ハ)フランク族、アングロ・サクソン族 

(ニ)聖像破壊論争 (ホ)アルビジョア派 (ヘ)イエズス会 (ト)三十年戦争 (チ)トマス=モア

第3問

条約・連盟については、米国は孤立主義のため、中国は五・四運動があり、ソ連は招かれなかったため調印しなかった。前二者は単独講和となった。米国は戦後国際政治を指導する。軍縮はワシントン会議が皮切りとなり、ヴェルサイユ体制を西半球で支え、28年の不戦条約の調印にこぎつけた。連盟に不参加でありながら各委員会にはオブザーバーが出席していた。またその工業力は世界第一位でありドーズ案・ヤング案で西欧復興の担手となり、大戦後の安定に寄与した。恐慌は世界を混乱に陥らせたが、しだいに回復した。第二次大戦に際しては英国の窮状に武器貸与法で支援をはじめ、西欧をドイツから解放した。東アジアでも日本から朝鮮・中国・東南アジアを解放した。ソ連は初め孤立していたがNEPで回復し、コミンテルンを通して世界に共産党を創設した。ラパロ条約でドイツが承認してから西欧諸国の承認を得た。30年代の五か年計画で農業国から工業国に変貌して反ファシズムの牙城となり、一時はソヴィエト連邦の国際連盟加入も実現した。独ソ戦争に耐えて攻め、東欧を解放しドイツを敗戦にもちこんだ。中国は軍閥割拠の状況であったが、20年代後半の北伐で国民党による一応の統一をなしとげ、30年代の恐慌期には法幣を発行し、戦中に不平等条約の撤廃にこぎつけた。また共産党との内戦の後に、抗日民族統一戦線によって日本の侵略に対抗し、カイロ会談では蒋介石が戦争指導の一翼をになった。