世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

京大世界史2001

第1問(20点)

 9世紀以降、バグダードやコルドバを中心に急速に発達したイスラム文化は、その後も発展を重ね、世界の文化の進展に様々な影響を及ぼした。
 このイスラム文化について、次の4点に注意しつつ、300字以内で述べよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。
 1 発達・発展の過程。どのような過程を経て発達・発展したか。
 2 内容と特徴。どのような分野が優れ、どのような特徴を持っていたか。
 3 担い手。どのような人々を中心に発達したか。
 4 他文化への伝播・影響。何をどこに伝え、どのような影響を及ぼしたか。

 

第2問 青色は下線部にあたります(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[    ]内に最も適当な語句を入れ、かつ下線部(1)〜(17)についての後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 漢を再興した[  a  ]が朝廷を置いた洛陽は、続く魏・晋王朝の都にもなった。(1)左思の「三都賦」が愛読されて、「洛陽の紙価を貴からしむ」という言葉を生み出したのは晋代のことである。しかし、まもなく起こった(2)永嘉の乱にはじまる五胡十六国時代では、北族支配下の地方都市に転落する。南遷した東晋王朝による洛陽回復も一時的なものに止まった。
 洛陽が首都の地位に返り咲いたのは、北魏の第6代皇帝孝文帝が(3)南朝征討を口実にして強引に挙行した(4)遷都による。これは漢化政策の一環であったが、王朝の東西分裂の遠因ともなった。そのうち西魏の系統を引く隋・唐が統一を回復すると、洛陽は西京の長安に対して東都と呼ばれた。副都とは言っても、(5)穀倉地帯である南方により近いこともあって、唐朝の前半期には皇帝が臣下を引き連れて洛陽に滞在することもしばしばであった。(6)則天武后の時代には「神都」と呼ばれて事実上の首都だったこともある。北魏以来の仏教文化も健在で、南郊の[  b  ]の造営も続いていた。
 安史の乱以後、洛陽の政治的地位は低下する。中央政府に反抗的な(7)節度使たちを牽制する重要な位置を占めていたものの、皇帝が行幸することはなかった。しかし、(8)官界から身を引いた士大夫たちの隠退の地として愛された。
 黄巣の反乱軍から投降した[  c  ]が904年に朝廷を洛陽に遷したが、やがて自らの王朝をつくると、洛陽から程遠からぬベン州(開封府)を都とした。洛陽に首都を置いた後唐を除き、宋朝に至るまでそれが続く。この東京に対して、洛陽は西京とされたが、唐の時代以上に官僚の隠退の地という性格を強めていく。神宗が起用した[  d  ]による政治改革に反対して朝廷を去った司馬光が(9)『資治通鑑』を編さんしたのも洛陽においてであった。「中原(ちゅうげん)」という言葉が狭義には洛陽一帯を指すように、洛陽は長く天下の中心と意識されてきたが、宋代以後歴史の表舞台となることはなかった。   

(1)この作品を収めた『文選』の編集の総裁は誰か。
 (2)310年、動乱の洛陽にやってきて以後、仏教の普及に努めた西域出身の僧侶の名を答えよ。
 (3)当時の南の王朝は武人の蕭道成がはじめたものである。その王朝名を答えよ。
 (4)北魏のそれまでの都はどこか。
 (5)穀倉地帯と長安・洛陽を結ぶのは大運河であるが、そのうち長江とつながる江南河の起点はどこか。
 (6)則天武后がつくった王朝の名を答えよ。
 (7)10節度使を置いて、その強大化への道を拓いた皇帝の名を答えよ。
 (8)その一人で、「長恨歌」の作者は誰か。
 (9)この本の記述の始点は、春秋時代の強国晋の臣下であった三家が諸侯として認められた時点に置かれている。その三家がそれぞれつくった国の名を答えよ。

B 地中海から紅海・ペルシア湾・アラビア海を通ってインドにいたり、さらに東南アジアをへて中国に達する航海路は、海の道とも呼ばれ、東西をむすぶ役割をはたしてきた。かなり早い時期から、(10)海路を利用した例がいくつもみられるが、とくに8世紀以降はムスリム商人が[  e  ]と呼ばれる帆船を使って海上に進出し、中国の沿岸各地にもやってきた。
 その刺激もあって、中国も次第に海上交易に目を向けるようになり、(11)おもな港湾都市には貿易管理を担当する[  f  ]がおかれる一方、(12)中国商人も東南アジア方面に出かけてゆくことになった。13・14世紀には、モンゴル世界帝国が出現し、内陸ルートとも完全につながって、(13)海上交通はいっそう活発となり、(14)東西の文化が交流した
 ところが、明になると、(15)中国人の渡航を認めず、[  g  ]貿易以外の外国との取り引きを禁止した。この政策はその後も堅持され、1517年に[  h  ]人が広東付近に来航したのを皮切りに、(16)ヨーロッパ商人がつぎつぎと来航するようになっても、その基本姿勢は変わらなかった。しかし、16世紀後半になると、民間人の渡航も許されるようになった。
 清に政権が交替すると、台湾を根拠地として大陸反攻をはかる[  i  ]を孤立させるため、清は(17)1661年に中国沿岸の住民に内陸部への移住を命じる法令を出した。しかし、それも1684年には解除し、翌年には広州など4か所に[  j  ]を設けて、海外交易を統制・管理する方針に転換した。

(10)インドから海路で中国に帰った4〜5世紀の仏教僧は誰か。
 (11)南宋から元にかけて、中国最大の貿易港はどこであったか。
 (12)中国側の輸出品の主なものを2つ挙げよ。
 (13)13世紀末に中国にやってきて、大都(現在の北京)の大司教となったイタリア出身の人物は誰か。
 (14)文化交流の結果として、1280年に中国で暦がつくられた。その製作者は誰か。
 (15)この政策を、ふつう何というか。
 (16)このうち、スペインはフィリピンを根拠地に間接的に中国と交易したが、そのさいスペイン側が対価として出したのは何か。
 (17)この法令は何というか。

第3問(20点)
 16世紀から19世紀前半にかけてヨーロッパが海外に膨張していく過程で、新しい性格を持つ奴隷制が広がっていった。近代奴隷制と呼ばれるものである。この奴隷制の拡大に関わった国々を明示しつつ、近代奴隷制の特徴と展開過程を300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問(30点)
 次の文章(A、B、C)の[    ]の中に適切な語句を入れ、下線部(1)〜(17)についての後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 雄弁家として知られるローマ共和政時代末期の政治家キケロは、紀元前106年にラティウム地方の小さな町アルビヌムに生まれた。民衆派のリーダーとして有名な(1)マリウスと同郷であり、出身家系もマリウスと同様、貴族に属してはいなかった。しかし、キケロは法廷弁論家として成功を収め、その成功によって国家の公職にも当選した。政治家としての栄達を求めたキケロは、ついに前63年に共和政ローマの最高公職である[  a  ]に就任した。この年、当時の政治体制に不満を持った貴族カティリーナが国家転覆を企てたが、キケロはこれを未然に防いで「祖国の父」の尊称を得、その名声は頂点に達した。
 だが、前60年に(2)ポンペイウス、カエサル、クラッススの実力政治家が密約を結んで「(3)第1回三頭政治」を始めると、キケロは政治活動から離れざるをえなくなり、またカティリーナ陰謀事件の時の非常処置を問題にされて一時ギリシアに亡命せざるをえなくなるなど、不遇の日々を送ることとなった。
 キケロが再び政治の世界に復帰するのは、独裁政治をおこなっていたカエサルが暗殺された前44年である。この年の[  a  ]になっていたアントニウスは、カエサルの後継者を自認して権力を握ろうとした。これに対し、キケロは共和政を守ろうとして、得意の弁舌でアントニウスを攻撃し、アントニウスと対立していたカエサルの養子オクタウィアヌスに期待した。一時キケロの活躍でアントニウスは窮地に陥ったが、カエサルの部将[  b  ]が仲介してアントニウスとオクタウィアヌスが和解し、前43年にこの3者による「第2回三頭政治」が成立すると、事態は急転した。除かれるべき政敵のリストに入れられたキケロは、アントニウスの放った刺客によって殺害されたのである。
 キケロは中世においても、ローマの作家としては(4)詩人ウェルギリウスとともによく読まれたが、しかし彼の政治家としての側面は忘れられ、(5)修辞学の基本書の作者として尊敬されていた。キケロが西洋の思想と文化に真に大きな影響を持つようになったのは、(6)主要な著作や弁論の写本が発見されて、彼の人と思想の全体が明らかになるようになったルネサンス時代以降のことである。

(1)マリウスは兵制改革をおこなったことで知られる。
  (ア)その内容を簡潔に記せ。
  (イ)この改革はその後の共和政ローマの歴史的展開に大きな意義を有することになった。これについて要点を簡潔に説明せよ。
 (2)ポンペイウスが滅ぼしたヘレニズム諸王国の一つの名を記せ。
 (3)この政治体制によって権限を与えられたカエサルが展開した、最も重要な政治的軍事的行動は何か。
 (4)ウェルギリウスの有名な作品の名を一つ記せ。
 (5)中世の学問体系では、専門領域に移る前に修辞学や文法などを習うことになっていたが、これらの諸学はまとめて何と呼ばれたか、記せ。
 (6)キケロの友人宛の書簡を発見したのは、人文主義の先駆であるとともに、理想の恋人ラウラヘの思慕を歌った抒情詩集『カンツォニエーレ』の作者としても知られる人物である。その名を記せ。

B 15世紀末、フランスは、それぞれ領土をめぐって争いのあったイギリス、および神聖ローマ帝国と和を結び、ブルターニュ、ブルゴーニュ両地方を併合して、フランスのほぼ全域の統合に成功した。同じ頃、イベリア半島では、スペインが、最後に残ったイスラム支配地の[  c  ]を陥落させ、レコンキスタを完成する。国土の統一後、両国はさらに対外的な領土拡大の鉾先を、イタリア半島に向けた。1494年、フランス王シャルル8世は、1482年以来、スペインのアラゴン王家の支配下にあった半島南部の(7)ナポリ王国の王位継承権を主張して、イタリアヘの遠征を開始した。
 こうして始まったイタリア戦争は、16世紀の半ばまで4次にわたってくりかえされ、およそ半世紀間、イタリアは外国の軍隊による戦場と化した。1527年には、(8)皇帝の軍隊によって、教皇庁のあるローマが包囲され、破壊と略奪にさらされる事件も起きた。こうした戦乱は、絶頂期にあったルネサンス期のイタリアをしだいに衰退に導いた。また、イベリア半島の2つの国による、新たなアジアヘの航路の開拓は、それまでイスラム圏の商人との取引を通じて、東方貿易を独占してきた北イタリアの商人の経済的な地位を、相対的に引き下げることにもなった。1571年には、スペインを主力とした、教皇、[  d  ]共和国との連合軍が、オスマン帝国の海軍を[  e  ]の沖で破り、スペインによる東地中海の制海権が確立した。こうして、イタリアはヨーロッパの歴史の新しい展開から取り残されることになる。
 いっぽう、イタリア戦争の開始にさいし、フランスの軍事行動がイタリアの政治秩序を混乱させることを懸念したスペインや神聖ローマ帝国は、教皇やイタリア諸都市と結んで軍事同盟を結成し、征服したナポリ王国からのフランスの撤退を迫った。ところが、イタリア北部で[  d  ]共和国の勢力が強大化すると、こんどはフランスを取り込んだ新たな同盟を結成することになる。勢力の均衡維持のために、情勢の変化に応じてつぎつぎと国家間の関係が再編される、近代的な国際関係の原理が、(9)北イタリアの諸都市国家で育まれてきた徹底した世俗的国家観ともあいまって、ここに開始されたといえよう。
 18世紀の末、イタリアは再びフランスの軍隊の侵入にさらされる。ナポレオンの遠征である。イタリア方面軍司令官に任命されたナポレオンは、ロンバルディアを征服、ミラノ、ジェノヴァ、ローマに従属共和国を樹立し、さらにエジプトに転進する。(10)イタリア、エジプトでの軍事的成功は、ナポレオンに国民的人気をもたらし、(11)1799年のクーデタで、彼が政権を奪取するひきがねとなった。1801年にナポレオンは、フランス革命以来とだえていたフランスと教皇庁との関係を、宗教協約(コンコルダート)によって修復し、翌年には(12)教皇領を復活して、イタリアに新秩序を築くことになった。

(7)この王国の領土に、12世紀、ノルマン人が建国した国を何というか。
 (8)この神聖ローマ帝国皇帝は誰か。
 (9)これについて、国家における君主の役割を中心に論じたイタリアの思想家は誰か。
 (10)この軍隊が、イタリア、エジプトで戦った主要な国は、それぞれどこか。
 (11)このクーデタを何というか。またクーデタによって倒された政府は何と呼ばれたか。
 (12)1859年のイタリア統一戦争以後の、イタリア統一過程における教皇領の位置について簡潔に記せ。

C 長年スペインとポルトガルの植民地支配のもとにあったラテン・アメリカでは、18世紀末から独立の気運が高まり、やがて各地に新しい国家が誕生した。フランス領であったハイチでは[  f  ]に指導された黒人の独立運動が成功したが、スペイン領であったところでは、植民地生まれのスペイン人である[  g  ]が運動の中心となった。アルゼンチンやチリで活躍したサン・マルチン、ベネズエラやコロンビアで活躍した[  h  ]らはみなそうである。
 しかし独立は、ただちに民主的な社会の成長、あるいは自立した経済の発展をもたらすものではなかった。まず、国内では[  g  ]の地主階級が政治や経済の実権を握り、独立以前と同じ大土地所有制が続いていたため、多数の貧しい農民の状況はほとんど変わらなかった。他方、海外からは、独立の動きを支援した二つの有力な国が、その大きな影響力を各国に及ぼすことになる。そのひとつイギリスでは、外相そして後に首相を務めたカニングが、自由主義的外交を展開して(13)諸国の独立を支援した。また、いわゆる北の巨人、アメリカ合衆国は、モンロー宣言でヨーロッパ諸国の西半球への干渉を拒否する一方、西半球に勢力を拡大していく姿勢を明確にしはじめたのである。やがてアメリカはメキシコ領であったテキサスを併合し、アメリカ・メキシコ戦争でさらに(14)広大な領土を割譲させた
  アメリカの膨張で国土が半分以下になったメキシコでは、社会が混乱した。その後、自由主義勢力が力を伸ばして内戦状態を収拾したものの、やがてここに経済権益をもつ(15)ヨーロッパ諸国が介入し、その一国は皇帝さえも擁立した。メキシコ人は介入に抵抗し、まもなくこの(16)ヨーロッパの勢力は撤退したが、こんどは抵抗のなかで重要な役割を演じたディアス将軍がクーデタで政権を握った。独裁者となったディアスの下では、鉱山業と鉄道を中心にアメリカやイキリスの資本が投下され、経済開発が進められた。
 一方、スペインの植民地支配が続いたキューバでは、1860年代に独立を求める反乱が生じ、いったんは鎮圧されたものの90年代にふたたび大きな反乱が起こった。キューバのプランテーションに投資し、また1889年に[  i  ]を主催してラテン・アメリカ地域への経済進出を意図していたアメリカ合衆国は、この反乱を機にキューバに介入し、1898年のアメリカ-スペイン戦争をへて結局はキューバを事実上の保護国とした。さらにアメリカは、セオドア・ローズヴェルト大統領の下でモンロー主義を拡大解釈し、西半球諸国へのみずからの干渉を正当化する新しい方針を発表して、カリブ海一帯に進出し始めた。二つの大洋を結ぶためにコロンビアの一州を独立させ、[  j  ]の建設に着手したことはその一環である。
 独裁の続いていたメキシコでは、1910年になって(17)革命が起こった。激しい政治変動の過程ではアメリカの干渉も受けたが、1917年には新しい憲法が制定された。これは土地が本来は国家に属すると定めて土地改革に根拠を与えるなど、民主主義的な色合いを強くもつものであった。このような変化は、その後、徐々にラテン・アメリカ諸国に広がっていくことになる。

(13)イギリスがラテン=アメリカ諸国の独立を支援した背景を簡潔に記せ。
 (14)このときアメリカが割譲させた地方名を記せ。
 (15)介入したヨーロッパの国の名を二つ記せ。
 (16)介入を打ち切らせることになったヨーロッパ内部の事情について簡潔に記せ。
 (17)このなかで、土地改革を主張して農民反乱を指導した人物の名を記せ。

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コメント
第1問
 イスラム文化(文明)が未出題分野であることは、すでに「対策」の中で指摘していたものでした。
 「イスラム文化について、次の4点に注意しつつ」と要求が多いです。しかし教科書には答えのすべてがのっています。結局、必要だったのは、4つの要求を短文で次々と書きつづっていくことでした。
 これらの要求のうち「過程」は流れですが、後の「内容と特徴」「担い手」「伝播・影響」は流れではありません。なんでこんな当り前のことを言うかというと、昨年度のところでも書きましたが、世界史の論述は流れさえ判っていれば書けるよ、と甘い見方をしている高校教師がおり(これはわたしが教えている予備校生から聞いていますし、かれらの書く答案を見ても判明します)、時間をとめて一般化した表現が必要であることを、この問題は教えています。
 また昨年度まで具体例を書かせることに主眼のあったのとちがい、あまり具体例を書き込むと必要な4つが書けなくなる可能性をもっています。要求が抽象的です。イスラム文化の一面を書かせるのでなく、全面を書かせようとした広すぎた課題だったためです。具体例を書きだすとアップアップになります。実際に書いてみたらいいでしょう。
 「影響」が西方だけに終わらないようにしたいものです。東方にも多くの影響があります。東方を見逃した予備校の解答例がありますから、それらのホームページでとくとご覧あれ。
第2問
A 私大の問題にもよく出されるタイプの歴史的な都市(本問は洛陽市)の回顧史です。洛陽は「九朝古都」といわれ、九つもの王朝がここに都を置いた都市です。問題も「楽よーッ」という感じ。  
空欄a は「漢を再興した」とあるので後漢であり、建国した皇帝はだれかという易問。  
空欄b も前文の「北魏以来の仏教文化も健在で、南郊の」というのは北魏が「造営」したものを想起すればいいわけで、北魏の前半の都(問4)の平城近郊に造営したのが雲崗石窟、とすれば南に遷都した洛陽の南郊には何か。雲から龍がでてきます。  
空欄c も前文「黄巣の反乱軍から投降した」とあり、その後に「やがて自らの王朝をつくる」とあれば、朱温が唐朝に投降してもらった、うさんくさい名前です。  
空欄d は、空欄の前後に「神宗が起用した」「政治改革」とあるので新法の人物。  
問(1) 『文選』編纂の「総裁」といわれると、そんなにおおげさな職責だったのかと驚くが、知っている名前はひとつしかない。   
問(2) 西域出身で名高い僧侶は教科書で二人いますが、「仏教の普及に努めた」とあれば布教僧をさします。鳩摩羅什は訳経僧で、時代も「310年」ではなく、前秦の苻堅に捕らえられたのが384年、前秦が滅んだ後、後秦によって国師として長安に迎えられたのが401年です。399年法顕がインドに向かうのとちょうど入れ違いになる僧侶。  
問(3) これは細かい。「当時」は前文の孝文帝がいつごろの皇帝か知らないと判りにくいですが、孝文帝といえば均田法開始の皇帝でもあるからおぼえておくといい(485年、語呂は「均田4箱」。在位は471〜499年)。「武人の蕭道成」とあるが読めなかった受験生もいるでしょう。「しょうどうせい」と読みます。奇問狂問です。479〜502年のたった23年しかつづかなかった「斉(南斉)」です。  
問(4) 既述。
問(5) 大運河の最南端の都市はどこか、という問と同じ。  
問(6) 武周革命という言い方もあります。唐朝の血をひかぬ武后には唐朝の皇帝を名乗るのは無理であり、新たな王朝名を必要としました。周をおこした武王の子孫であるとでっちあげ、弥勒仏の下生(げしょう、この世に生まれる)として崇めさせる、というなんとも奇妙奇天烈な創作でした。この創作を可能にするには恐怖政治が背景にありました。そのオドロオドロしい世界をのぞきたくば、津本陽『則天武后』(冬幻舎文庫)を読まれたい。  
問(7) これは安史の乱のときの皇帝です。714年から置きました。  
問(8) 作者は「詩と酒と琴」を「三友」とした豪快な詩人。  
問(9) 司馬遷が「三晉」と呼び、司馬光がこれを発端として戦国時代がはじまったとした三国です。

B 海の道をテーマにした問題。  
空欄e は細かい。もっともセンター試験にも出されたことがあります(2001年度世界史A)。  
空欄f と空欄j「貿易管理を担当する」役所は玄宗が広東に置いた(714年)のが最初とされます。これは清朝では海関と呼び名が変わります(空欄j)。  
空欄g 自由な貿易を禁止したという文脈の中で、従来から中国中心(中国側が品物の種類・数量・人員を指定してくる)の貿易が外交もかねて行なわれました。  
空欄h このヒントは後の「ヨーロッパ商人」と問(16)に「スペイン」とあるから、それ以外のものと推理できます。  
空欄i は後に「1661年」とあるのでまだ鄭成功は生きています。1662年5月に亡くなっているから、鄭氏でもいいですが、ここは個人名にしたい。空欄jは既述。  
問(10)行路は陸路だったのが帰路は海路だったという坊さんのことは問(2)で既述。  
問(11) 泉州だということがパッと判るかどうか。これはマルコ・ポーロやイブン=バトゥータらが「ザイトゥーン」呼んで世界一繁栄している港としてその盛況を証言しています。  
問(12) シルクロードは海にもおよび、陶磁の道はアフリカ東岸にまでいたっています。  
問(13) これは一般に中国にはじめてカトリックを伝えた宣教師はだれか、という問ででてくる人物。わたしは北京でこのひとが建てた教会を訪れたことがあります。今も現存しています。  
問(14) 授時暦の製作者を問うています。冬至の決定にイスラムの天文学を応用したらしい。  
問(15) 「中国人の渡航を認めず」だけでなく、外国人が中国に勝手に来校することも禁じている政策です。日本では鎖国といいます。  
問(16) 西欧人には売るものがない。スペインは現生(げんなま=金銀)をもってきました。  
問(17) これも細かい質問。台湾を根拠地にして復明を図ろうとするものを海岸に近づかせないための方策です。福建・広東両省を中心に東南5省の沿海住民を30里奥地へ強制移住させ、無人化して貿易・渡航を禁止し、鄭氏の孤立化をはかっていました。京大の中国史は私大的なデータも学んでこいということでしょう。多くはセンター試験レベルですが、満点をとるために。

第3問
 2000年の年末は、合衆国の大統領選挙の投票集計をめぐるニュースに集中しました。フロリダ州の開票を手作業で確認するパンチの押し具合が問題でした。しかし、ここに奴隷制の後遺症を読み取った人はどれだけいたでしょうか? 
 テクノロジーの最新国になぜ、パンチに穴を空けて投票するなどと前時代的なものがあるのか。機械はもちろん開票作業が早いからですが、その他に、文字・スペルが正しく書けない文盲に近い黒人たちが大勢いることも理由なのです。かつて奴隷であった黒人たちは、名前を持つことや読み書きを禁じられていました。奴隷解放後もつづいた差別と貧困によって教育水準は低くおさえられました。一説ではゴア候補は、このためにフロリダで27,000票も失ったらしい。
 さて、この問題のテーマ「近代奴隷制」には三つの要求があります。「関わった国々を明示」、「特徴(古代中世の奴隷制とのちがい)」、「展開過程(流れ)」です。第1問とともにうるさい要求です。時間ははじめに「16世紀から19世紀前半」とありますから南北戦争(1861〜65)に言及する必要はありません。
 さて問題のテーマ「近代奴隷制」には三つの要求があります。「関わった国々」、「特徴」、「展開過程」です。このうち「特徴」の要求は難しい。これをまともにとるか、まともにとらないで、たんなる「内容説明」になります。しかしまともにとるなら、文脈からは、古代中世の奴隷制とのちがいになります。
 「特徴」がどれだけ書けたかで差がつきそうです。というのは貿易にかかわった国々、展開過程のところでは、三角貿易やインディオに代わる労働力であること、鉱山や棉花栽培に酷使された点はだれでも書きそうですから。
 問題文に「新しい性格を持つ奴隷制」「近代奴隷制」と「16〜19世紀前半」のものを定義していますから、「新し」くない奴隷制、「近代」でない奴隷制、すなわち15世紀以前の古代中世の奴隷制を考慮しないかぎり「特徴」は浮かび上がってきません。
 古代であれば、ギリシア・ローマを想起します。中世であればイスラムとの貿易に主に東欧スラヴ人が奴隷としてイタリアやドイツ商人によって売られています。古代中世とも、たいてい白人の奴隷です。一部に黒人もいました。このことを踏まえて「近代」奴隷制とはどう違うのか考えましょう。
 問いの順どおりに書くより、国々→展開過程→特徴、という順のほうが書きやすい。国々は、教科書にも書いているようにポルトガル→スペイン→イギリス・フランスとすればいい。フランスはわたしの教科書には書いてない、というなら「奴隷貿易がさかんとなった……イギリス・オランダ・フランスが積極的に参加しはじめた」と書いた教科書もあることを指摘しておきたい(山川『新世界史』)。ピークをなした18世紀後半から1810年までの半世紀だけでフランス人が運んだ黒人は60万人弱にたっします(イギリス人が150万人強、ポルトガル人が100万人強)。1人25ポンドで買った奴隷は新大陸で150ポンドに売れました。フランスの奴隷船の船主たち(ブルジョア層)は自分の船に「ヴォルテール号」「ルソー号」「社会契約号」などと命名していました(ルソーが奴隷を運ぶ、という図は差別を土台にして平等を主張する西欧人らしい象徴画です)。時は啓蒙思想の流行期でした。この貿易で港のナント、ボルドー、ル・アーヴル、ルーアンが繁栄しています(M.Beaud A History of Capitalism 1500-1980 Macmillan Press)。
 展開過程は、いわゆる流れであり、16世紀からはじまって、どうして19世紀まで継続・発展したのか、その理由としての奴隷制の必要性や使役場所、生産させたものなどをあげていきます。これは教科書に充分データがあります。奴隷貿易という項目がたいてい載っているし、南北戦争のところでも説明があります(『詳説世界史』なら645字)。
 特徴(特色)を、『新明解国語辞典』は「ほかのものと違って(すぐれて)いる点」と定義しています。「ほかのものと違って」という語句の中に、比較の思考があり、比べた上で、一方のすぐれた点、変っている点をとくに強調して述べることです。特徴らしきものを書いたら採点官はわかってくれるだろう、というのは甘い。しっかり明解に書いたほうがいい。
 構想メモは左に旧奴隷貿易、右に新奴隷貿易として比較の表をつくってみましょう。「旧」はすぐ浮かびませんから、分かっている「新」のすがたを思いつくままメモしてみます。その上で左も類推していくと現われてくるものです。(旧)を少しでも触れて、(新)を書くと「特徴」が明解に出せます。なお下のメモのすべてを書く必要はありません。

(旧)            (新)
白人ほか          黒人が主
周辺地域          アフリカ大陸から
ムスリム・キリスト教徒   アフリカの諸王国が売り手
いろいろな国々       買うのは西欧人・アメリカのプランター
諸々の商品の一つ      膨大な数(西欧全人口の5〜6倍)
死なせない(損失になるから) 途中(大西洋)の大量死亡と投棄
影響少ない         (影響)アフリカの疲弊(人口激減)・その文化破壊
               貿易国の強勢(ベニン・ダホメー・ヨルバ王国など沿岸国)・内陸王国の衰退
               輸入地の混血とアフリカ文化の移植
               輸入港(リヴァプール・ブリストルなど)に莫大な利益(→産業革命の資本へ)     

第4問
A 文章に合わせて下線設問と空欄を説明します。
  (1)下線設問(ア)は、マリウスの兵制改革として名高いもの。これは(イ)とも関連しています。教科書では改革がどのようなものであったか、いまひとつ不明解です。アフリカに出兵するさいに、徴兵したのでなく志願兵をつのり、集まった無産市民兵で軍団を構成しました。このことが慣例となり、兵役は義務として市民がになうものでなく、給料をもらって戦地におもむく志願兵(形としては傭兵ですが、しかしローマ軍ではある)がになうものに変わったのです。職業軍人制といってもいい。失業者に仕事を与えたことになります。戦利品(土地)の分け前ももらえました。とすると、たんまりもらえる将軍には恩義を兵士たちは感じ、将軍がなにかに立候補するときには投票する。こういう風にパトロネジといって私的な庇護関係(親分・子分関係)がつくられていきました。これが地中海全域に拡大し、私兵を権力闘争のための軍事力として動員しました。「内乱の一世紀」は、こうした少数の有力政治家・軍人を頂点とする複数の権力ピラミッド間の闘争でした。
 空欄a はやさしい。リキニウス法によって平民からも一人選ぶことになりました。
 問(2) セレウコス1世が建国した当時とはちがう、だいぶ縮小したシリアを前64年にほろぼしました。
 問(3) カエサルは三頭政治のときには他の二人のように軍事的功績をあげていなかった。前58年からガリア遠征がはじまります。
 空欄b はこの後の文章に「この3者による「第2回三頭政治」」とあるのでやさしい。
 問(4) もやさしい。たくさんの作品の中のひとつしか教科書にはのっていない。アエネーイス、アエネアスともいう。センター試験でもすでに3回出題されています。
 問(5) 英語ではliberal artsリベラル・アーツという。中世の大学の基礎科目です。
 問(6) 『カンツォニエーレ』は教会でであった娘に恋をした詩人の苦悩詩です。

B 空欄c は「最後に残ったイスラム支配地」でナスル朝の都です。
 問(7) ルッジェロ2世が初代の王となるシチリア王国とナポリ王国の合体国家。
 問(8)前文に「1527年」とあり、このころの神聖ローマ皇帝はだれか、という問。1519年からスペイン国王カルロス1世(1516〜56)は皇帝となります。神聖ローマ皇帝はドイツ語表現が通例。ルターとウォルムス国会で対決した、アウグスブルク和議のときの皇帝、といえば判るのではありませんか。空欄d前文に「1571年」とあるので、空欄eのほうが先に判るでしょう。そうすると西欧側の戦力でスペインでも教皇でもないとすれば、「アドリア海の女王」といわれる海港都市です。この空欄dは後の文章でも「イタリア北部」とヒントがあります。
 問(9) 「君主の役割を中心に論じたイタリアの思想家」といいながら当時は劇作家として名を成した人物。もちろん『君主論』の著者です。
 問(10) 「イタリア、エジプトでの軍事的成功」と「成功」まで下線が引いてあります。問は「主要な国」。イタリアは侵入してきたオーストリア軍との戦いがあり、これはいいとしましょう。エジプトはどうか。当時オスマン帝国領であり、ここのマムルーク軍と戦って勝ち、エジプトを占領する。マムルーク軍は火砲の威力の前に崩れ、カイロを明け渡しました。ただちにナポレオンは軍事政権を樹立し、イスラム教を公認し、トルコの圧制を排して人民の解放と近代化を推進しました。カイロ入城後まもなくアブキール湾でイギリスのネルソン艦隊にフランス海軍が撃滅されたため、本国との連絡を失い、孤立を余儀なくされました。「成功」にこだわれば、答えはオーストリアとオスマン帝国(トルコ)です。
 問(11) はやさしい。「クーデタ」と名のつくものは一つしかない。
 問(12) 1861年のイタリア王国成立時点では、まだ教皇領は西海岸がのこっていました。それが普仏戦争でドイツ帝国と組み、西海岸も奪いローマ市も占領しました。事実上教皇領はなくなりました。教皇はヴァチカン宮殿にこもることになります。1929年のムッソリーニとのラテラン条約により領土喪失は年金で補償をしてヴァチカン市国が成立しました。問題文には「統一過程における」とあるのでラテラン条約に言及する必要はないです。
C 空欄fは細かい。 奴隷でありながら反乱を指導しました。フランス語で「抜け穴(ルーヴェルチュール)」の意味をもつくらい神出鬼没のゲリラ戦でフランス軍を悩ましました。
 空欄g 個人名でないことは後の「みなそうである」という文章で判ります。植民地生まれの白人地主の総称。
 空欄h ボリビアの国名で今もその名が残っている人物。
 問(13) イギリスに産業革命がおこっていた時期です。
 問(14) 西海岸の広大な州の名前。
 問(15)  3国が派兵しています。
 問(16) 奇問に近い。メキシコ干渉を充分説明された受験生はどれだけいるでしょうか? といってもメキシコ干渉(遠征)当時のヨーロッパの事件を推理する他はない。1866〜67年が撤退の時期でこの頃の事件にあたりオーストリアにもフランスにもかかわることがらといえば、ビスマルクの行った戦争しかないでしょう(普墺戦争は66年6月から7月)。それより前、南北戦争を終えたばかりの合衆国はナポレオン3世の行動を許さず、国境に軍隊を集結させて撤退を迫っていました(66年の2月から)。フランス軍は撤退しました(67年3月)。
 空欄 i 空欄の前の年号か後の「経済進出を意図」かで判らなくてはならない。
 問(17) メキシコ革命には多くの人物がかかわっているが農民反乱とあればひとりです。
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第1問(君の解答)
第2問
A a 光武帝(劉秀) b 竜(龍)門石窟  c 朱全忠  d 王安石
問1 昭明太子  問2 仏図澄(ブドチンガ)  問3 斉  問4 平城   問5 杭州  問6 周  問7 玄宗  問8 白居易(白楽天)  問9 韓・魏・趙
B e ダウ(船) f 市舶司 g 朝貢 h ポルトガル i 鄭成功 j 海関 問10 法顕  問11 泉州  問12 陶磁器・絹  問13 モンテ=コルヴィーノ  問14 郭守敬  問15 海禁  問16 (メキシコ・墨)銀  問17 遷界令 
第3問(君の答え)
第4問
A
空欄 a コンスル(統領、執政官)  b レピドゥス
問 (1)(ア)無産市民を集めて武器をもたせローマ軍として雇った。
 (イ)雇った軍人はしだいに有力将軍の私兵と化し、それを背景に将軍たちの内乱を招いた (2) セレウコス朝シリア  (3) ガリア遠征  (4) アエネイス(アエネアス、アイネーイス)  (5) 自由七科  (6) ペトラルカ
B
空欄 c グラナダ d ヴェネツィア e レパント
問 (7) 両シチリア王国  (8) カール5世  (9) マキァヴェリ  (10) オーストリア、トルコ(イギリス) (11) ブリュメール18日のクーデタ、総裁政府  (12) 1861年に東海岸の領土をうばわれ、71年の普仏戦争でヴァチカン宮殿以外の西海岸の領土も奪われた。
C
空欄 f トゥサン=ルーヴェルチュール g クリオーリョ h シモン=ボリバル i パン=アメリカ会議(汎米会議) j パナマ運河
問 (13) 市場・原料供給地として重要視していたから  (14) カリフォルニア、ニュー=メキシコ  (15) イギリス、フランス(スペイン)  (16) 普墺戦争でオーストリアが敗北し勝利したプロイセンが台頭したため (17) サパタ

京大世界史2002

第1問(20点)
 隋を受け継いで大帝国を樹立した唐は、近隣の諸国や諸民族に大きな影響を与えた。唐の文化を受容し、あるいは唐と政治的関わりをもったモンゴル高原、チベット、雲南地方の諸国や諸民族の7世紀から9世紀にかけての興亡について、300字以内で述べよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問(30点)
 次の文章(A、B)を読み、内に最も適当な語句を入れ、かつ下線部(1)~(15)についての後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 中国においては、その南北で風俗・景観・生産に大きな差異がある。たとえば農業では、あわ・きび・[  a  ]などは主に北部の畑作地帯で作られ、稲は主として南部で作られる。その境界は、だいたい淮河付近にある。平和が回復した宋の時代には、(1)産業が盛んになったが、農業においては江南地方の開発がめざましかった。米作では技術改良や新田の開発が進んで、米の生産高が増大し、長江下流域は穀倉地帯となった。「蘇湖(蘇常)熟すれば天下足る」のことばは、それを物語る。江南ではまたこのころ[  a  ]の栽培も行われるようになって、その経済力は華北地方をしのぐほどになった。さて米の生産量はその後も拡大したが、(2)長江下流域では商品作物の生産が増えた結果、長江中流域の[  b  ]地方が、新たな穀倉地帯として浮上した。宋以後の王朝、とくに現在の北京に首都を置いた元・明・清朝にとって、江南地方の穀物をいかに首都に輸送するかは、重要な問題であった。
 (3)
モンゴルは、アジアとヨーロッパにまたがる空前の大帝国を建てたが、13世紀後半に即位したフビライは、大都(現在の北京)に遷都して元朝を開いた。(4)その後南宋を滅して、その領土を併合すると、江南の穀物を大都に送るために、新たに運河を開削して、それを利用する方法や、[  c  ]による方法を試みたが、最終的には後者の方法により輸送した。元に代わって中国を統一した明朝は、その初期には南京を首都にしたが、(5)甥(おい)の建文帝から帝位を奪った永楽帝は、早くから北京を事実上の首都としたので、江南の穀物を北京まで輸送しなければならなくなった。永楽帝は元のときに掘られた運河を開削し直して、(6)北京から江南地方まで現在とほぼ同じコースを通る大運河を完成すると、[  c  ]をやめて、大運河で穀物を輸送した。17世紀前半に明が、[  d  ]の反乱により滅亡すると、(7)清朝が東北部から本土に進出して、北京に遷都した。清もまた大運河を利用して、江南の穀物を北京に輸送した。大運河は物資輸送の大動脈であるとともに、交通路としても利用され、官僚・商人・兵士・農民・(8)外国人その他大勢の人びとが、ひんぱんに往来した。

(1)宋では産業が興って、商業が盛んとなり、銅銭を主とする貨幣経済が発達して、紙幣も使用された。宋代に使われた紙幣の名を2つあげよ。
(2)明代の長江下流域の農村で発達した主な家内工業を2つあげよ。
(3)モンゴル軍は、ヴェトナムに数回侵入した。(ア)当時ヴェトナム北部にあったヴェトナム人の王朝は何か。また、(イ)この王朝時代に漢字をもとに作られた独自の文字は何か。
(4)元では、旧南宋領にいた人びとは、身分的に最下位に置かれていた。かれらは、何と呼ばれたか。
(5)この内乱を何と呼ぶか。
(6)大運河は、現在の山東省を通る。そのコース沿いにかつてあった湖を根拠地に、主人公たちが活躍するのを描いた口語体の長編小説は何か。
(7)北京に入城する以前に組織された清の軍事的・社会的な組織を何と呼ぶか。
(8)イギリスが貿易交渉のために派遣した大使らが、帰国するために1793年大運河を通行した。この大使は誰か。

B ギリシア系の[  e  ]朝の滅亡後ひさしくローマ帝国およびビザンツ帝国の支配下にあったエジプトは、7世紀半ばアラブ・イスラム軍によって征服され、ここにエジプトのイスラム時代がはじまった。
 9世紀になるとエジプトに独自のイスラム王朝が成立し、10世紀後半には、(9)
北アフリカにおこったシーア派のファーティマ朝がエジプトを占領した。(10)ファーティマ朝君主はカリフを称してアッバース朝カリフに対抗し、首都カイロはシーア派文化の中心となった。しかし、エジプトのシーア派化はあまり進行せず、1171年にクルド人の武将[  f  ]がファーティマ朝を滅ぼし、スンナ派のアイユーブ朝をひらいた。アイユーブ朝は十字軍との抗争に苦しみ、マムルーク(奴隷軍人)を多数登用して彼らの勢力増大をまねいた結果、1250年マムルーク軍団によって政権を奪われ、マムルーク朝が成立した。マムルーク朝は、1258年モンゴル軍が[  g  ]を占領すると、アッバース朝カリフの子孫を保護し、またモンゴル軍をくい止めてシリアを守った。以後マムルーク朝はエジプトとシリアを領土とし、また(11)地中海とインド洋を結ぶ商業路を支配して経済的な繁栄を得た。
 15世紀になると小アジアに拠点をおくオスマン帝国が強力となり、(12)
1453年コンスタンティノープルを征服してビザンツ帝国を滅し、1517年にはマムルーク朝を滅ぼしてエジプトとシリアを領土に加えた。オスマン帝国はスレイマン1世の時に最盛期を迎え、ヨーロッパにおける領土を拡大する一方、東方では、(13)イランのサファヴィー朝から領土の一部を奪った。しかし、強盛を誇ったオスマン帝国も17世紀になると衰退のきざしが現われ、18世紀末には弱体化が明らかとなり、(14)エジプトでは、ナポレオン軍の侵入をゆるした。このような政情のもとで1805年エジプト人の支持を得て[  h  ]がエジプト総督(太守)となり、近代化のための様々な改革を行った。彼は対外政策にも積極的で、アラビア半島に出兵して[  i  ]王国を一時的に滅亡させ、またスーダンを征服した。
 1869年のスエズ運河開通はエジプトの軍事上・交通上の重要性を増した。帝国主義諸国の関心が高まる中、イギリスがスエズ運河会社のエジプトの持ち株を買収して発言力を増し、(15)
1882年にはエジプトを軍事占領下においた

(9)ファーティマ朝がおこったのは北アフリカのどこか。現在の国名で記せ。
(10)この頃ファーティマ朝やアッバース朝のほかにも、君主がカリフを称したイスラム王朝がある。(ア)その王朝名を記せ。また、(イ)その王朝の首都はどこか。都市名を記せ。
(11)15世紀末からヨーロッパのある国がインド洋貿易に参入し、1509年ディウ沖の海戦でマムルーク朝軍を破った。(ア)その国の名を記せ。また、
(イ)その国が1511年に滅ぼした、東南アジアの貿易の中心であったイスラム国家の名を記せ。
(12)のちに「征服王」と呼ばれた、この時のオスマン帝国君主の名を記せ。
(13)オスマン帝国軍は一時的にサファヴィー朝の首都を占領した。この時占領されたサファヴィー朝初期の首都はどこか。都市名を記せ。
(14)(ア)ナポレオンのエジプト遠征の時に発見され、古代エジプトの神聖文字を解読する鍵となったものは何か。また、(イ)1822年神聖文字の解読に成功したフランスのエジプト学者は誰か。
(15)イギリスは1881年におこった反英反乱を鎮圧してエジプトを軍事占領下においた。この反乱を指導したエジプトの軍人は誰か。

第3問(20点)
 17世紀に入ってオランダ、イギリス両国は、いちじるしい対外発展を開始した。このことを背景として、以後17世紀末までの両国の関係について300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問(30点)
 次の文章(A、B、C)のの中に適切な語句を入れ、下線部(1)~(21)についての後の設問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A ローマ帝政の初期にパレスチナで成立したキリスト教は、その後ローマ帝国に広がり、さらに中世以後のヨーロッパにおける社会、政治、文化に大きな影響を与えた。(1)ローマ帝国ではキリスト教はしばしば迫害をうけたが、4世紀初めの[  a  ]帝による大迫害の後は、キリスト教徒を敵としては帝国維持が困難であると考えたコンスタンティヌス帝によって313年に公認され、また392年には国教とされた。こうして国家と結びつきながら社会に定着していったキリスト教は、帝政末期には都市を中心とした教会組織の形成と、(2)教父たちの著作活動、そして(3)教義の統一のための公会議によって、その基礎を固めていった。民族移動期の混乱を経て、新しい社会と国家の形成が進められたフランク王国においても、教会、とくに修道院は重要な役割を果たした。カール大帝(シャルルマーニュ)は(4)修道院文化が発達していたイギリスなどから学僧を招き、カロリング・ルネサンスと呼ばれる文化的興隆をもたらした。この時期においてより重要なのは、カールの皇帝戴冠によって、ローマ教皇と皇帝の二つの普遍的権威を軸とする、西ヨーロッパ世界の基本秩序が成立したことである。しかしこの聖・俗両権威の関係は、しばしば対立をも生じさせ、11世紀にはローマ・カトリック教会の改革と世俗権力からの自立化をめざす教皇グレゴリウス7世は、聖職叙任権をめぐって神聖ローマ皇帝[  b  ]と対立した。この対立は1122年のヴォルムス協約によって一応終結するが、その後ローマ教皇の権威は十字軍運動を通じて上昇し、(5)インノケンティウス3世のころには全盛期を迎えた。しかし十字軍の終焉や各国王権の発展にともなって、教皇の普遍的権威は下降を始める。(6)1303年のアナーニ事件と、これに続く「教皇のバビロン捕囚」、そして40年にわたる教会分裂は、ローマ・カトリック教会に大きな動揺をもたらし、これに対する厳しい批判も現われた。15世紀には(7)ローマ・カトリック教会再建の試みもなされたが、根本的な改革は実現されず、宗教改革時代を迎えることになる。

(1)その原因の一つに、皇帝のためのある儀礼をキリスト教徒が受容しなかったことが考えられる。この儀礼とは何か。
(2)400年ころアウグスティヌスが著した自伝的著作は何か。
(3)ネストリウス派を異端とした5世紀の公会議の開催地はどこか。
(4)その代表的人物を一人挙げよ。
(5)この教皇がイギリス王ジョンを破門した理由を簡潔に記せ。
(6)この時のフランス王は誰か。
(7)教会分裂を克服した15世紀初めの公会議の開催都市はどこか。

B 近代初期のヨーロッパにおける芸術家や思想家の活動は、しばしば権力者の宮廷の世界と密接に結びついていた。聖俗の有力者は、自らの威信を高めるために学芸を保護し、芸術家や学者のパトロンとなった。たとえばルネサンス期のフィレンツェでは、(8)メディチ家がブルネレスキ、ボッティチェリ、ミケランジェロなどすぐれた建築家や画家に活動の場を提供し、また(9)人文主義者によるギリシア古典の研究を援助した。イギリスでも、(10)16世紀後半から17世紀初頭にかけて.エリザベス1世の宮廷を中心に、詩人エドモンド・スペンサーや劇作家シェイクスピアらが活躍した。17・18世紀には、各国の王権は、絶対君主としての威光を示すために宮廷に文化人を集め、その才能を積極的に活用した。(11)絵画の分野では、フランドル派のルーベンスやファン・ダイク.スペインのベラスケスらが宮廷画家として活躍した。フランスでは、ルイ13世が登用した宰相[  c  ]によってアカデミーが設立され、フランス語の統一がはかられた。つづく(12)ルイ14世はヴェルサイユ宮殿を造営し、「太陽王」としての絶対的な権力を演出するために多くの画家や文筆家を動員した。コルネイユ、ラシーヌ、モリエールらの劇作家が活躍し、フランスの古典主義文学が最盛期を迎えたのは、この時代である。
 18世紀にはいると、造形芸術の分野で、前の時代にくらべてより繊細で優美なロココ様式が流行した。宮殿建築としては、(13)
フリードリヒ2世がポツダムに建てた[  d  ]宮殿やマリア・テレジアが完成したウィーンのシェーンブルン宮殿が、その代表的な例である。理性を重視し、非合理的な慣習を批判した啓蒙主義者たちも、宮廷の世界と無縁ではなかった。フリードリヒ2世や(14)エカチェリーナ2世ら啓蒙専制君主たちは、ディドロやヴォルテールと交際し、新しい思潮をとりこみながら国力の強化に努めた。19世紀に市民社会が成長し、新たな文化の担い手となるにつれて、宮廷に代わる新たな学問・芸術の場が形成されていった。しかし、宮廷文化のなかで発達した礼儀作法は、宮廷の外で暮らす一般の人びとにも部分的に浸透し、市民社会のマナーとなって受け継がれていくのである。

(8)この家の出身の教皇が、サン・ピエトロ大聖堂の改築費用をまかなうためにドイツで販売を許可したものは何か。
(9)人文主義者の活躍はアルプスの北でもみられた。ギリシア・ローマの古典や聖書を研究する一方、聖職者の道徳的堕落をたくみに風刺して名声を博したロッテルダム出身の人文主義者は誰か。
(10)この時代のイギリスでは、ルネサンス的な宮廷文化が開花する一方で、経済的な変化にともなって職を失って移動する人びとも増大した。この問題に対処するために制定された法の名を記せ。
(11)これらの画家たちに共通する様式を何と呼ぶか。
(12)財政面では、ルイ14世は財務長官コルベールを重用して、国力の強化をはかった。コルベールの行った政策の内容を簡潔に説明せよ。
(13)フリードリヒ2世は、マリア・テレジアによるハプスブルク家の家督継承に異議を唱え、そのために戦争が起こった。この戦争の結果、フリードリヒ2世がハプスブルク家から獲得した領土はどこか。
(14)西欧の先進的な文化に強い関心を示したエカチェリーナ2世は、他方でロシアの伝統的な農奴制を強化した君主でもある。彼女の治世下に勃発し、鎮圧された大規模な農民反乱の指導者は誰か。

C 19世紀後半のロシアでは、(15)農奴解放が部分的に行われ、世紀末までに工業化もある程度進行していたが、専制政治への不満が高まっていた。このような背景のもと、1905年には日露戦争を契機としてロシア第一次革命が勃発した。しかし、まもなく首相となった[  e  ]は、革命の結果開設された国会を抑制し、富農育成を目指す農業改革を行ったため、社会的不満は解消されなかった。一方、19世紀を通じて、ロシアは南下政策を試みていたが、イギリスやトルコの抵抗に遭い、数度の挫折を経験した。ロシアを取り巻くこのような国際情勢は、世紀末から徐々に変化し始める。欧州の勢力均衡に腐心していたドイツの帝国宰相ビスマルクが、海外への勢力拡大を企図する皇帝[  f  ]と対立して辞職したことから、(16)ドイツ・ロシア間の条約は更新されなかった。ドイツの勢力拡大を危惧するロシア、フランス、イギリスは徐々に外交的に接近し、1907年に(17)英露協商が締結されたことで三国協商が成立する。この間、ロシアが南下政策をなお推進しようとし、ドイツ、オーストリアを中心とする勢力とのバルカン半島を巡る緊張が高まったことが、第一次世界大戦勃発の背景となった。
 弱体化していたロシアの支配体制は、総力戦となった第一次世界大戦を生きぬくことができなかった。1917年の三月革命によって帝政は倒れたが、革命で成立した臨時政府は戦争を継続し、このことが十一月革命の大きな原因となった。十一月革命で成立したソヴィエト政府は、ドイツとの単独講和を結んだ。ソヴィエト政府は、反革命勢力の抵抗と列強による軍事干渉を耐えぬき、その後は国内経済の発展に努めた。1928年には(18)
五カ年計画が開始された。ソ連は徐々に(19)国際社会における孤立を脱しつつあったものの、世界経済からの孤立が逆に幸いして(20)世界恐慌の悪影響を受けなかったため、数次の五カ年計画のもとでソ連経済は発展した。国力を蓄えたソ連は、第二次世界大戦勃発とともに、周辺諸国に武力で侵攻した。(21)ヴェルサイユ体制の下で新たに誕生していたヨーロッパの独立国の多くが、ソ連とナチス・ドイツによって再び独立国家の地位を奪われることになった。

(15)1861年に農奴解放令を発した皇帝の名前を記せ。
(16)この条約名を記せ。
(17)この協定によって、イギリスとロシアは、ある国における、それぞれの勢力範囲の設定に合意した。この国の名を記せ。
(18)第1次五カ年計画で重点的に推進された政策を簡潔に説明せよ。
(19)ドイツは、1922年にソヴィエト政府とラパロ条約を締結し、列強の中でいちはやく革命政府との外交関係を樹立した。この理由を簡潔に述べよ。
(20)世界恐慌の悪影響を緩和すべく、ドイツの賠償支払いの一時猶予を行ったアメリカ大統領の名前を記せ。
(21)これらの中で、第二次世界大戦勃発までに、ドイツが一部領土を併合し、残る領土を保護国化した国の名を記せ。


コメント
第1問
 やさしそうに見えてやさしくはない。
 「やさしい」感じがするのは、唐と周辺民族だから、なんとか書けそうな問題であるからですが、300字を満たせるだけのデータを持ち合わせたものは少ないのではないか。想起しやすい、とは思えない。それと、問題が唐の周辺の民族の興亡史ではあるものの、「.……大きな影響を与えた。」という導入部の文章につづいて、その影響の中身は「唐の文化を受容し、あるいは唐と政治的関わりをもった」とあり、これをある程度書かなくては課題に正確に応えたことにはならない。関係をもとにした興亡史です。唐との文化的・政治的関わりも書かなくてはならない。たんに唐を無視して周辺国の興亡史だけであれば300字も要りません。文中に「あるいは」とあり、文化でも政治でもどちらか書けば点はくれそうですが、どちらも影響・関係があるばあいは書いたほうが良いに決まっています。

 

 じゃ突厥の唐文化受容は?
 ウイグルの唐文化受容は?
 チベットの吐蕃の唐文化受容は?
 雲南の南詔の唐文化受容は?

 つまり政治的関係や興亡はなんとか書けそう、でも文化的影響はなかなか想起できないのではないでしょうか? 
 「突厥の唐文化受容」なんてどこにも書いてない……でしょうか? たとえば、教科書『詳解世界史』p.34に「7世紀後半のアジア」という地図があり、そこに東西突厥の首都が示してあります。遊牧民の首都? この意味はなんでしょう? オルホン碑文には漢字とともにアラム系文字の突厥文字が記してあります。もちろんウイグルも首都をもち、漢字のように縦書きのウイグル文字もつくりました。マニ教を国教といっていいくらいに信奉していましたが、これは安史の乱とかかわったことと関係があります。やはり受容はありますね。
この二つのトルコ系民族がブレーンでもあったソグド商人の交易によって中国からの多くの物産を受容していたことも知られています。とくに絹を代表として、種々の織物、金銀の細工物、容器、仮面、装身具、皿、留め金などが入ってきています。突厥・ウイグルが代わりに出すものは馬でしたから、こうした交易を絹馬(けんば)貿易といいます。
 唐という東アジアの中心国が繁栄することで、周辺民族は唐と対立しながらも、唐の制度・文化を導入して周辺民族みずからの国家の成立・成長をとげていった時期でした。とくに文字・都市をもたない部族段階の北アジア遊牧騎馬民族が、文字・都市をもつようになった点は歴史家たちが「文明化の過渡期」と評価する時代です。つまり征服王朝(遼金元清)のときは、完全に文字・都市をもつどころか独自の種々の文化と強力な君主権力をたてて中国という文明国と変わらない国をつくることができました。この征服王朝へいたるまでと、柔然までの部族時代までのあいだに、このトルコ系民族(突厥・ウイグル・キルギス)の時期があったということです。

 部族(文字・都市なし、シャーマニズム、部族連合)……匈奴・鮮卑・柔然
 
過渡期(文字・都市あり、マニ教、ただしまだ部族連合)……突厥・ウイグル・キルギス
 
征服王朝(文字・都市あり、仏教・ラマ教、中央集権国家)……遼金元清
 注:シャーマニズムはシャーマンという霊媒師(みこ)が仲立ちとなって神霊や祖先の霊などと心を通わせる宗教。経典・教団・寺院がない段階の原始的な宗教。これらの組織をもった宗教がマニ教・仏教など。
 なお、チベット民族運動のほうからいえば「文化の受容」に中華思想をみるでしょう。

 インターネット上の解答を検討するときは、次のようなことが書かれているかどうか確認してみるといいです。欠陥だらけだということを発見するでしょう。政治的関係だけ書いた後に文化的関係も書いたり書かなかったりと整合性がありません。分析の甘さを見れば、解答の甘さにも反映していることが分かります。

 モンゴル高原:
  唐の文化受容→
  唐との政治的関係→
  興亡→
 チベット:
  唐の文化受容→
  唐との政治的関係→
  興亡→
 雲南:
  唐の文化受容→
  唐との政治的関係→
  興亡→

第2問

 古代はみな「大麦」が専門家の説。小麦が普及するのは唐代になってから(問題は時期が宋以前だから、これでもかまわない)。古代の貧しいひとびとの主食は豆。だから豆(まめ)でもいい。問題文にある「きび」は黍と稷とある。ともに「きび」と読む。前者は「もちきび」ともいい、後者は「たかきび」「うるちきび」といってちがう種類で穀物としては上等品。
 洞庭湖の北が湖北省、南が湖南省、この二つの省を合わせたいいかた。
 漕運(そううん)はまちがい。海運であれ運河をつかうのであれ都に納税のための穀物を輸送することを漕運というからです。問われているのは「方法」。「海運」も正確にはふさわしくない。陸運に対して使うことばで、運河も船を使う海運なのです。これは問題文のこの空欄の前にすでに書いてあります。後の問題文にも「[ c ]をやめて、大運河で穀物を輸送した」と出てきます。すると沿岸の海しかないから、答えとしては、たんに「海」か「海路」がふさわしい。問題文の作者が誤解していなければ……。
 王朝を直接倒した反乱はこれしかない。中国共産党が高く評価している反乱です。「殺人せず、愛財せず、姦淫(かんいん)せず、略奪せず」と軍律をきびしくし、農民の支持を得たからです。「良い鉄は釘にはならない。良い人間は軍人にはならない」というくらいに中国では軍人・兵士を嫌っていましたが、李自成の反乱軍はちがっていたのです。共産党の紅軍の規律でも、三大規律として「一.行動は指揮にしたがう。二.労働者、農民のものはなに一つとらない。三.土豪からとりあげたものは公のものにする」と。さらに六項注意は「一.寝るために借りた戸板はもとどおりはめておく。二.寝るために借りた“わら”はもとどおりにくくっておく。三.言葉づかいはおだやかに。四.売り買いは公正に。五.借りたものは返す。六.こわしたものは弁償する。」(野村浩一著『人民中国の誕生』講談社学術文庫)。日本人なら、こんなこと守って戦争できるかい、とふてくされそうです。平時でも守ったほうがいいよ、といってあげたい人が回りにいるでしょう? とくに五と六ですね。

下線設問
(1) 北宋と南宋の紙幣です。このHPの我楽苦多教室→紙幣箱に香港で買った模造品がありますから、ごらんください。  
(2) この設問の文章のことがあるからこそ、空欄bの穀倉化があったことをおぼえてほしいものです。下流(江南)の工業化→中流(湖広)の穀倉化です。
(3)(ア)マルコ=ポーロの『東方見聞録』ではモンゴル人の馬とヴェトナム人が駆使した象との戦いが描かれています。この本の中ではもっとも生き生きした描写のあるところで、「嘘八百」のマルコが戦場にいるかのようです。
(3)(イ)このモンゴル人の侵略に刺激されて民族文字をつくったのであろうと歴史家はみています。
(4) 淮水より南にいたひとたちです。(も)蒙古→(し)色目人→(か)漢人→(な)南人という順で下降します。おぼえかたは頭文字をとって「モンゴル(人第一主義)は、もじかな(文字仮名)」です。モンゴル人にとっては遊牧的であることが人間としてまっとうな生き方であり、中国人農民のように家畜に必要な草を刈ってしまい畑にするのは許せないのです。マルコは本の中で中国人のことを「マンジ」と呼んでいますが、これは中国人を「蛮人」と呼んでいたことからきているらしい。遊牧民にとって農民は野蛮人でした。  
(5) 「靖難」は「靖康」のように元号ではなく、スローガンからきています。燕王(後の永楽帝)が「宮廷の困難を靖(やす)んずる師(リーダー)がわたしだ」と。高原に帰還しなかった多くのモンゴル兵を燕王はかかえていて、これが役に立ちます。皇帝位簒奪(さんだつ)劇です。 
(6) 奇問に近い問題。いくらかヒントは「主人公たち」と複数形になっていること、「長編小説」であることくらい。ま、捨ててもいいですね。すべての奇問に付き合う必要はないのです。これ一問できなくたって合格できます。しかしこの小説のファンであれば、けしから~ん、ということになるでしょうか? 「湖を根拠に」で分かるじゃないか、ととがめられそうです。しかしこれで分かるひとはマニアです。水の滸(ほとり、岸辺)の話しやないか、と。梁山泊という湖のほとりに集まった武人たちの物語。私大の問題では「北宋末の反乱を元にした小説はなにか?」と問われます(1995年甲南大学文系、1995年関西大学経済学部、1997年法政大学経営学部など)。
(7) ヌルハチが創設したもの。清の軍事組織で、平時は行政組織をかねます。1旗は7500人の軍団で、それが8つあった。8つの軍団は黄・白・紅・藍の4色の軍旗と、それぞれの色の旗に縁をつけた計8つの旗で区別しています。どれにも中には龍が刺繍してあります。
(8) ヒントは「1793年」、つまり18世紀末に乾隆帝に会いにきたイギリス最初の使節です。西欧ではルイ16世が処刑されて対仏大同盟がむすばれヨーロッパ中が戦争に巻き込まれる年です。それに対してワシントン大統領が中立宣言を発して孤立主義外交のはじまりにもなった年。

 クレオパトラ7世の自殺。最近、独のエジプト博物館からクレオパトラの直筆文書が見つかったというニュースがありました。自殺の2年前のものらしく、文書はパピルス紙にギリシア語で書かれています。この文書はローマの軍人カニディウスと家来らに対してエジプトが貿易の自由と免税を認める内容で、「穀物の輸出、ワインの輸入を認め、エジプト国内に所有している畑で取れる穀物に課税される税金を免除する」とあり、文書の最後に「そのように計らえ」という署名があるそうです。亡国の危機にあったプトレマイオス朝を守るため、ローマに対する懐柔策として打ちだされた政策らしい。(アサヒ・コムのニュース記事から)
 空欄の前の「1171年にクルド人の武将」とありますが、「クルド人」と年代から、また後の「ファーティマ朝を滅ぼし」からはサラディンしか答えはないですが、さてこの「1171年に」は正しいのか? 教科書にある1169年は実権を掌握した年で、1171年はファーティマ朝を滅ぼした年、ということで正しい。
 アッバース朝の都です。この空欄の後の文章に「アッバース朝カリフの子孫を保護し」とあるよに、子孫はメソポタミアからエジプトに亡命してきたので、カリフ家はカイロで生きつづけることになります。イスラム世界の教科書では日本とちがい、フラグがアッバース朝を滅ぼした、としないでバグダードからカイロに遷都した、と表現しています。これを知っておくと、後にやってくるオスマン=トルコ帝国がスルタン=カリフを名乗る根拠が分かります。
h 空欄アリーの後の「近代化のための様々な改革」とは、西洋式の陸海軍の創始、造船所・官営工場・印刷所の建設、教育制度の改革を指します。原料の棉花は十分ありますから産業革命をエジプトでもおこそうと機械を買っています。そのために多くの外国人を登用しています。軍人・官吏・技術者などをヨーロッパからきてもらい重用します。地租改正をおこない農民を直接支配下におき、農産物の専売制度や徴兵制も導入しています。まるで日本の明治維新みたい。日本より半世紀も先んじた維新です。しかし借金がかさみ失敗におわります。  
 半島の東部におこりサウード家の支持をえた原理主義(ムハンマド時代の原始イスラム教に帰るべきだと説く主義)の宗派です。この宗派をつけて○○○王国といいます。サウディアラビア出身のオサマ=ビンラディンの起源をたどればここまでいくでしょう。このワッハーブ派(王国)はムハンマド=イブン=アブドゥル=ワッハーブ (1703~92) を始祖とする一派で、聖人崇拝、聖人廟への巡礼を禁じ、『クラーン(コーラン)』の定めた禁酒の規定を守ることを説きます。19世紀初頭にはアラビア半島西部のメッカとメディナを占領します。で、この聖地を奪回せよとアリーにオスマン帝国は指示します。

下線設問
(9) 歴史地図を見ていると容易な問題。969年にカイロ市を、970年に現在のイスラム教世界最高学府となるアル=アズハル大学をつくっています。教祖ムハンマドと妻ハディージャとの間に生まれた娘にファーティマという子があり、これを母とする子孫だと名乗ります。ファーティマは教祖の娘の名前なのです。はじめからカリフを名乗る勇ましさにも理由があったということです。
(10)(ア) イベリア半島のカリフ国「西カリフ国」のこと。後ウマイヤ朝のスタート時点ではカリフを名乗っておらず、謙虚にアミール(総督)称号でした。ところが10世紀になり、問題にもあるようにファーティマ朝がカリフを名乗ったことに刺激をうけ、アブド=アッラフマーン3世が929年にカイロとバグダードに対してカリフを名乗りだします。10世紀になって突如3カリフ時代があらわれたのです。カリフの権威失墜ともとれます。このアブド=アッラフマーン3世は実は母がフランク人の女奴隷であり、青い目で金髪をしていたそうです。それでゲルマン人と見られたくなくて髪の毛を黒く染めていたそうです。愛妾を6321人もかかえていたという豪傑らしい。徳川家斉が40人の側室をもっていて日本では豪傑といわれますが、そんなの目じゃない。中国の皇帝なみです。イスラム教徒は妻は4人までではないか? 4人の妻をもってみたい、とお思いの諸君は金がかかって仕様がないことを肝に銘じるべきです。平等に愛せよ、と戒律はなっていますから。実際は二人目以降の妻たちは一人目の奥さんの召使いのように扱われるのが現実らしい。また4人といっても正妻であり、他は金さえあれば何人でも妾がもてる、というのが現実です。あ、なにか話しの流れがおかしくなってきました……。
(10)(イ) 約40万人と数えられるこの都は当時西欧最大の都市です。道路は舗装されており、高校・大学にあたる学校が17校もあったというのです。70を越える図書館があり、王宮図書館は40万冊の蔵書を数えた、と。多くの文化人が集まったことでも知られています。コルドバ生れでは、イブン=ルシュドがもっとも名高い哲学者です。イブン・ザイドゥーンのような宮廷詩人もいます。外科医ではアブー・アルカーシムが知られていました。
(11)(ア) 前半の問題文で国名はでてきますね。(イ)の文章もヒントです。「1509年ディウ沖の海戦でマムルーク朝を破った」は習ったでしょうか? あまり知られていない戦いです。しかし世界史の中では、西欧がアジアに対して軍事的勝利をおさめ、これから大航海時代がはじまることを告げる重要な戦いで、本当はどの教科書にも書いてあってもいいのではないかと思います。エジプトとインドの貿易に西欧が割って入った事件です。かつて防衛大学で出題されていました。これは不思議ではありませんが、私大でも出題されるようになりました。1994年度慶応・文学部、1995年度の明治・農学部と法政・文学部、1997年度同志社・法学部、1997年度早稲田・教育学部、関西学院大学は好きなのかよく出す大学です(91,94,97,98,01)。山川の用語集は説明が不十分です。ポルトガルがマムルーク朝艦隊を撃破、とありますが、マムルーク朝とインド側の「グジャラートの艦隊」が連合していたのに負けています。このグジャラートは半島の名前でインドの西海岸を見るとこの半島が見つかるでしょう。この半島の南端にディウという島があります。前年の1508年の戦いではポルトガルは負けたのですが、この戦いで戦死した息子の復讐をはたすべく父アルメイダが大艦隊を率いて1509年に再びやってきて望みを果たします。詳しくは『ポルトガルとインド 中世グジャラートの商人と支配者』(M.N.ピアスン著、生田滋訳、岩波現代選書)。
(11)(イ) この王国の成立年代(1400年頃)はハッキリしませんが滅亡はハッキリしています。アルフォンソ・デ・アルブケルケの率いる艦隊が約100年のこの王国の歴史を終わらせました。ポルトガルはこの王国から略奪のかぎりをつくします。その証拠はマラッカ海峡に難破していたポルトガルの船フロール・デ・ラ・マール号で、金・宝石を最低でも10億ドル(1300億円)相当を積んでいました。嵐にあって沈みます(1512年)。ざまあ見ろ、という事件もあったのです。 
(12) 「征服王」というあだ名を知らなくても、問題文の「1453年コンスタンティノープルを征服」でわかるはず。かれはコンスタンチノープルに入城すると、大地にひざまずき、「ムハンマドの預言はここに成就した」といったそうです。ムアーウィアがこの都市の攻撃をはじめてから約800年もして、やっとイスラム教徒の手に陥落しました。
(13) イル=ハン国の都と同じです。マラガ(メラガ)でもいいが、知られていないので、後に(1295年)ガザン=ハンがここに首都を遷してから栄えた都市でいいのです。1597年、サファヴィー朝のシャー=アッバース1世が都をイスファハンに遷すまでです。
(14)(ア) 私大ではこの石の現物はどこにあるか? という問いまで出ています。(1994年立命館・法学部、2000年慶応・文学部)大英博物館でわたしも冷たい石を触ってきましたが、結構大きい石でした。こんな感じです(http://www.crystalinks.com/rosettastone.html)。
(14)(イ) 語学の天才でないと文字の解読はできないようです。シュリーマンの『古代への情熱』を読んだ人は感嘆せざるをえないですが、このヒエログリフの解読者もそうです。10歳になる前に、ラテン語・ギリシャ語の初歩を習っていました。11歳になるとヘブライ語を学び始め、13歳からは兄からアラビア語、シリア語、カルデア語を学び始めています。なんでこんなこと並行してできるの? とため息がでますが可能のようです。兄も学者で、グルノーブル大学の文学部教授でした。その口添えもあり、答えの人物は18歳で古代史の助教授になっています。おおーッ。
(15) ナイル川デルタ地帯にある村長の息子として生まれた人物。ムハンマド=アリー朝でエジプト人は必ずしも優遇されていなかったのが、スルタンによって登用の機会が増えたり減ったり、ということがおきエジプト軍人の不満がたまっていきます。それが反帝国主義、反王朝へと民族運動にまで発展してしまいます。かれは軍事裁判で死刑判決を受けますが、実行されずセイロンに流刑となり1901年に19年ぶりに帰国が許されますが、もう政治に顔を出す空気は残っていなかったそうです。

第3問
 わたしが教えてた京大志望者には、「17世紀の中葉には、その後のヨーロッパ史を決定づけるような大きな変動がおきている。そこで17世紀のイギリス・フランス・ドイツでおきた変動とその後に及ぼした影響について、300字以内で述べよ。」という創作問題をやらせました。ぴったりは当たっていませんが、これは論述としては創作といいながら、ありきたりのテーマでもあります。17世紀は「諸革命の群生」として学界では知られた特異な世紀だからです(『十七世紀危機論争』トレヴァー=ローパー編、創文社歴史学叢書)。今年の京大の問題は「関係」でした。

 まず問題の「対外進出」を少しくわしく見てみましょう。
 まずイギリスの進出です。
1600.東インド会社設立 07.ジェイムズ・タウン 12.スラート(印) 19.バミューダ諸島 20.プリマス植民地 25.バルバドス 29.バハマ諸島 32.リーワード諸島 39.マドラス(印) 49.アイルランド征服 50.アンキラ 51.航海法、セント・ヘレナ 52.第一次英蘭戦争 55.ジャマイカ 61.ケープ・コースト、ボンベイ(印) 63.カロリン、王立アフリカ貿易会社 54.ニューアムステルダム占領 65.第二次英蘭戦争 72.ヴァージン諸島、奴隷貿易独占権、第三次英蘭戦争 90.カルカッタ(印)
 ステュアート朝の時期とあいだの共和政期(1649~60)との双方にまたがって対外進出が滞りなくおこなわれています。
 次はオランダの進出です。
1600.オランダ船リーフデ号が豊後に漂着 02.東インド会社設立、モルッカ諸島 05.アンボイナ島 14.ニューネーデルランド 19.バタヴィア、アフリカ黒人をアメリカに陸揚げ 21.西インド会社設立 23.アンボイナ事件 24.台湾、マンハッタン島、ポルトガル領ブラジルに侵入 37.エルミナ(ポルトガルの奴隷貿易基地) 40.スリナム 41.マラッカ、平戸のオランダ商館を長崎の出島に移す 42.オーストラリア(新オランダ)、ニュージーランド 55.ハドソン川河畔のスウェーデン植民地を占領 56.コロンボ 77.ジャワ島マタラムに侵出
 17世紀の前半に進出が集中していることが分かります。
 対立はアンボイナ事件を代表とする衝突だけではありません。ともに毛織物工業国であり、オランダが中世以来の技術は高く、加工工業で利益をえていました。未仕上げの英国の織物を購入して付加価値をつけて輸出しています。毛織物の市場をめぐっても対立していました。アンボイナ事件による英国人の虐殺にたいして賠償金を要求していますが、オランダは不払いを決め込んでいます。それに北海の漁場をめぐる問題もありました。これらが英蘭戦争の要因となります。

 ここから次のように、この17世紀の両国の関係は展開したといえるでしょう。
 16世紀における宗教戦争においては、新教国として反スペイン・反カトリックの友好関係にありながら、17世紀前半にともに海外進出をさかんにした結果、宗教より利益を優先するように変わっていき、世紀後半には対立が深まっていったといえます。世紀後半の末期にはカトリック・フランスの台頭があり、再び手を結ぶことになった、と総括できます。世紀後半の英蘭戦争でも一貫して両国は対立ばかりしていたのではなく、1668年にイギリスとオランダが、フランスに対抗してハーグ同盟を結んだ例があるように、迷いがあります。第三次英蘭戦争(1672~74)は、フランスのオランダ戦争(1672~78)と重なっていますが、年代を見るとわかるようにイギリスはルイ14世に利用されると危惧して早々と和解しています。
 まとめると、全体の流れは、
(1)
<前提>新教国として反スペイン・反カトリックの友好関係
(2)
17世紀前半の両国の対外進出と対立……アンボイナ事件
(3)
17世紀後半の対立の激化……三次の英蘭戦争
(4)
反仏のために連合……名誉革命

 こうした関係は政治的な外交関係ばかりですが、人的交流が双方のあいだにあったことも結果的に対立を和解に導いたといってもいいでしょう。それはいろいろいな著書にありますが、たとえば、駿台のガンダルフ(映画『ロード・オブ・ザ・リング』で主人公フロドに助言を与える指導者)といっていい山本義隆師の著書『熱学思想の史的展開 熱とエントロピー』(現代数学社)に科学者同士の交流が描いてあります。
 「科学思想面においてもオランダは、大陸のどの国よりイギリスと密な交流を維持していた。とくにライデン大学は「大陸におけるニュートン主義の普及のための一つの──当面は唯一の──中心」(ピーター・ゲイ)であった。17世紀後半にベーコンとボイルの経験論は、イギリス以上にオランダで評価されていた。ロックも一時オランダに亡命しているし、そのロックにニュートン力学の正しさを請け合ったオランダ人ホイヘンスは、逆にイギリスを訪れ王立協会の会員にもなっている。また、スコットランドの初期ニュートン主義者ピトカリンは1692年に1年間ライデンで講義しているし、逆に、1715年から一年間イギリス大使を勤めた「オランダにおける最初のニュートン主義者」グラーベサンドは、デザギュリエの講義に出席し、またニュートンとも会見し、帰国後ライデン大学で数学と天文学を教えている」と。
 こうした科学者だけでなく思想家・政治家・非国教徒・ユダヤ人にとっての避難所をオランダは提供していました。特に革命時(1640~90)はそうでした。宗教的差別をしなかったからです。ガリレオはオランダでしか自分の研究書を印刷できませんでした。デカルトもオランダにわたり『方法叙説』『省察録』を出版しています。上記にあるロックはチャールズ2世に追放されて、オランダに亡命し名誉革命で帰国します。光と影の芸術家レンブラントは破産して移り住んだのはアムステルダムのユダヤ人街で、そこで多くのユダヤ人と知り合いになり、ユダヤ人を描いています。「ユダヤ人の婚礼」「アムステルダムのラビ」「ユダヤの青年」です。いやレンブラントが描いた多くの聖書物語の人物は、かれがよく知っているユダヤ人の日常生活のひとびとでもあったのです。かれが住んだ家のさほど遠くないところにアンネ=フランクの隠れ家もあります。スピノザが生まれた家も近くにありました。オランダ東インド会社の株の4分1をユダヤ人がもっていました。1598年にオランダで初めてシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)が建てられています。
 政治とは無関係な交流が結果的に対立国を和解させる、という例はいくつか歴史に見られることです。インターネットで国を超えた関係ができていくと、和解の実現は20世紀までの歴史より早いかも知れません。
 さて各予備校のこの問題の答案を見て、なぜ英蘭両国が対立から友好関係に変わったのか理解できないのではないでしょうか? できごとの羅列になっています。結局「関係」はハッキリしない。

第4問

a
 この皇帝の「大迫害」があったにもかかわらず「キリスト教徒を敵としては帝国維持が困難」という理由は、この皇帝の大迫害が困難を証明したからです。その迫害は、教会の破壊、聖書の焼却、キリスト教公職者の地位剥奪、信徒の法律的保護の剥奪、信徒奴隷の解放禁止という法令をだし、それがさらに硬化して宮廷内教徒を処刑、聖職者を逮捕・拷問・処刑となります。しかし4人の皇帝のうち西の正帝や副帝は法令の一部しか実施せず、末端の官僚たちは無視したという事例があり、皇帝暗殺をねらったとみられる宮殿の火災が頻発します。約500人くらいは殺したそうですが、全人口(約5400万人)の7~12%(「住民の1割」詳解世界史)とみられるローマ帝国のキリスト教徒では微々たるものでした。迫害したガレリウス帝自身が311年に寛容令を発してキリスト教徒の存在をみとめ、その後の抗争に勝ちのこったコンスタンティヌス帝が313年にミラノ勅令を発して宗教自由の原則をみとめます。コンスタンティヌス帝の母ヘレナは解放奴隷でキリスト教徒でした。
 この皇帝とグレゴリウス7世とのおぼえかたは一橋大学の2002年度の解説にあります。  
(1) キリスト教徒はローマ帝国に対して不忠実であると見られただけでなく、宗教的にも嫌われていました。ローマの多神教には祭壇があり、祭祀があり、儀礼があり、神殿があったのですが、キリスト教には見えない神を崇めている以上、こうした宗教的な装置をもたないため無神論にひとしい、と見られました。またその秘密の集会では近親相姦がおこなわれ、幼児を誘拐してその血をすすっていると噂されました。ディオクレティアヌス帝になると、皇帝をローマの神々の代理として「主にして神」と呼ばせることになり、これまで死んでから神々の列に加えていたはずの皇帝たちを生きているうちから礼拝の対象とするかたちに変わったのです。皇帝崇拝が強制され、皇帝にたいして臣下は跪拝礼をしなくてはいけなくなります。カエサルに仕えるのか神に仕えるのかの決断は、現代でも信徒が迫られる問題です。
(2) マニ教からキリスト教に改宗する過程を描いたものです。ミラノ司教アンブロシウスの影響を受けてキリスト教への傾斜を深めていきました。この司教はテオドシウス帝を皇帝にしたてはキング・メイカーでもある有力者です。改宗前にアウグスティヌスはテオドシウス帝からも改宗を勧められています。 (3) 公会議の開催地はみなトルコ西部小アジアに集中しています。ニケーア(ニカイア)公会議(325)も、この設問のエフェソス公会議(431)も、単性論を異端にしたカルケドン公会議(451)も。キリスト教の中心がいまとちがいトルコにあったからです。
(4) 781年イタリア訪問中にパルマでカール大帝と会い、翌年から招請され、アーヘンの宮廷学校の校長として迎えられます。大帝の文教政策に協力し、失われていたローマ時代のラテン語復興につとめます。いわゆる「カロリング・ルネサンス」の中心人物です。
(5) この教皇はジョン王だけでなく、離婚間題でフランス王フィリップ2世にインターディクト(聖務禁止の罰則)を下しています(1201)。ジョン王は英国国王に戴冠権をもつカンタベリ大司教の叙任権をめぐる争いをしています。教皇は破門をもって対抗した(1209)ので、1213年に教皇の臣下となることで許してもらい屈服しました。 
(6) 三部会を初めて召集し、アヴィニョンに教皇庁を移した国王です。カトリックの王であるにもかかわらず(宗教改革はまだ先ですが)フランス王権の教皇に縛られない独立した状態を求めて成功した人物。この人物が代表する考え方をガリカニズム(フランス人中心主義)といいます。
(7) 1414~1418年に南ドイツのこの都市で開かれました。神聖ローマ皇帝ジギスムントの圧力により、ピサの教皇ヨハネス23世がカトリック教会の分裂(シスマ)を止め統一を実現し、またウィクリフやフスらの異端の根絶をはかるために召集しました。


 ルイ13世の宰相が問われています。ルイ14世の宰相はマザランです。まちがえないように。「マザコンの14世」とおぼえるとまちがわない? この答えの宰相は肖像画で見たらわかるように聖職者です。教皇につぐ枢機卿の地位にありました。この宰相の能力が大きすぎたためルイ13世にルイ14世のような「親政」がないのです。この宰相を辞めさせて、ルイちゃんが親政しなさいと諌めたのが母のマリー=ド=メディシスでしたが、ルイ13世は宰相に頭が上がらなかったのです。生涯、劣等感を抱いて死んだそうです。進言を聞いた宰相は母親も追放します。
 ロココ様式の代表的宮殿です。華麗な花模様・草模様のたれさがる部屋が教科書の写真にのっています。あんなところで男が暮らすのか、というのは日本人の野暮な感想でしょう。ヴォルテールは2世に招かれて作文を教えて難儀したとのことで、この王の虚栄心を嫌ってスイスに逃げていったそうです。

(8) 「この家の出身の教皇」とはレオ10世です。目の前にサン=ピエトロ大聖堂という巨大なビルのような教会を見れば、どれだけの費用がかかったのかと、だれでもため息をつくはずです。答えとして「免罪符」という表現はまちがった表現です。罪は日本的に「免れ」水に流されることはないのです。かならず償わなくてはならないのがキリスト教です。  
(9) 私大ではロッテルダムというかれの出身都市そのものを問う細かい問題もあります。「ギリシア・ローマの古典」に関しては『文章用語論』があり、また「聖書を研究」に関しては『校訂ギリシア語聖書』があり(ルターが学ぶテキストです)、「聖職者の道徳的堕落」に関しては『(痴)愚神礼賛』があります。  
(10) 英語で Poor Law といわれるものです。囲い込み(エンクロージャー)のために農村から追い出された貧民を各地の教会が面倒をみなさい、という法律です。
(11) 先に紹介したレンブラントもその中に入れる様式です。絶対主義最盛期の様式ともいいます。つまり、どっか誇張があるのです。これらの画家の絵を見ると一目瞭然です(こちら http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/rubens/)。これらの絵を見たらわかるように、人物を画面一杯に描いており、赤・黒というどぎつい色を多用しています。題材としては静かなレンブラントを別にすれば、物語のクライマックスを劇的に表そうとしていることがうかがえます。 
(12) コルベール主義ともいう財政政策です。教科書では「国内の商工業を育成し、東インド会社などの特権会社を振興した(詳説世界史)」「保護貿易や、特権マニュファクチュアの育成がはかられた(詳解世界史)」という風に国内と対外政策の両方があげてあると良いでしょう。決して貿易政策だけで終わらないように。重商主義とは「商」業だけ「重」視した政策ではありません。国内産業の保護政策も加えないと、貿易差額だけでは利益は得られません。やはり売れる商品もつくらなくてはならないのです。フランスの国内マニュファクチュアは英蘭のように民間人が自発的に(これをかんたんに「下から」といいます)おきたものではなく、政府のほうから資金をだし指導して工業を振興しようとするものです(これをかんたんに「上から」といいます)。どこかの予備校の解答に「王立マニュファクチュア」というのをあげたのがありますが、フランスは王立・国立・特権と3種類の特権的なものをつくりましたから、この一部だけあげるのはまちがっています。つまり「王立」は政府が全面的に資金をだすマニュファクチュアですから「保護・育成」は必要ないのです。「国立」は政府と民間が半々で、「特権」は全部民間資本ですから、後半の2者が「保護・育成」の対象になります。
(13) この土地をめぐる戦いは3回にわたっておこなわれました。第1次は1740~42年。プロイセンがマリア・テレジアのオーストリア相続を認める代償にここを占領します。これがオーストリア継承戦争の発端となります。第2次は1744~45年。勝敗はなしでした。第3次が1756~63年。オーストリアがフランスと同盟してでもとりかえしたかったのですが、結局負けます。この土地を地図で確かめたことがありますか? 現在大半はポーランド領 です(ポーランド名シロンスク) 。ポーランドのどの辺りか地図で確かめてください。山岳地帯というイメージですがオーデル河畔の低地は肥沃な土地で、農耕も牧畜も盛んです。地下資源も、石炭・鉄鉱・亜鉛など産みだしています。
(14) 私大ではプーシキン著『大尉の娘』の主題となった反乱はなんですか? とも出題されます。露土戦争を展開していたエカチェリーナ2世はこの反乱鎮圧のために戦争を早期に終わらせ鎮圧に向かわせました。


 この首相のおこなった二つのことは重要です。政治と経済です。「国会を抑制」はへんな表現ですが、国会を解散し、国会の協賛を経ずに新選挙法という悪法を発布します(地主1票は農民540票にひとしい)。1906年には農業改革を実施し、従来の村落共同体(ミール)を廃止して自作農を創設していきます。うまくはいかなかったのですが。  
 ビスマルクを辞めさせた皇帝です。理由に売春婦がからんでいた、というのが最近のニュースです。「ビスマルクが皇帝のスキャンダルをもみ消す」というもので、皇帝がひそかに寵愛していた売春婦から情事をねたにゆすられ、「国家の一大事」を察知した鉄血宰相ビスマルクがもみ消しに奔走していた、と。ビスマルク財団が保管する関係資料から、皇帝の隠されたスキャンダルを実証する脅迫の手紙や口止め料の領収書などが発見された。ツアイト紙によれば、皇帝から「ミス・ラブ」と呼ばれていた高級売春婦は、皇帝から届いた恋文や皇帝の「変わった性癖」を暴露すると脅して金品を要求。事態の深刻さを知らされたビスマルクは、若き皇帝の火遊びをいさめたものの聞き入れられず、一計を案じて1889年にフランクフルトの宮殿でこの売春婦に2万5000マルクの口止め料を支払い、手紙も買い取ります。しかし、これがきっかけで皇帝とビスマルクは疎遠となり、ビスマルクの失脚を早めるきっかけとなった、と。

(15) この法令のために「解放皇帝」ともいわれます。クリミア戦争の末期におやじ(ニコライ1世)が死去し、おやじの尻ぬぐいをさせられた皇帝です。 
(16) 空欄fの皇帝が短絡にロシアとの関係を蹴ってしまった。かれ自身の、ドイツを世界中に書き込みたい、ビスマルクは欧州の安全ばかりに気を取られていて海外に雄飛できない。また国内にはこのうつけものの野望を支持する産業界の発展があり、やれやれ、行け行けと声をあげていました。
(17) カージャール朝(1796~1925)の国です。  
(18) 五ヵ年計画の説明ですから「計画経済」ということばは要りません。第一次は、社会主義的工業化といって、重工業の発展のための基礎的な機械(生産手段生産部門)をつくることでした。それと農業の集団化でコルホーズ(集団農場)とソフホーズ(国営農場)です。前者はミールを解体して(ストルイピンの解体は成功せず革命のときにミールは復活しています)、国家管理の共同体に仕立てたものです。後者は国営農場と訳すように模範的農場としてつくられたもので、大半は前者でした。
(19) 下線を含めた文章が「ソ連は徐々に国際社会における孤立を脱しつつあった」だから、「孤立化を回避」というのでは答えになりません。ともに第一次世界大戦による敗北と、第一次世界大戦を利用して革命にこぎつけた両国が疎外されたり孤立した状態におかれていました。孤立化から脱却しつつあった中で、またそのひとつとしてラパロ条約があるのだから、「この理由」はもっと具体的なことを書くよう求めています。ドイツにとってはフランスの対独包囲網に風穴を開け、ソ連領内で秘かに再軍備をはかり武器を製造することでした。ソ連は戦後経済の復興と赤軍の強化を考えておりドイツ軍部に訓練をしてほしかった。互いの軍事と経済の欲望が合致した結果がラパロ条約です。
(20) 恐慌開始のときの大統領です。通常の景気後退にすぎないと甘く見ていたために被害をひどくしてしまった大統領です。国民にむかって演説するときは「自らの問題を解決するために政府を当てにしてはならない。……解決する力は、……個人と地域社会が、自らの責任を果たすかどうかによって明らかになります」と。明らかになったのは、倒産・失業者はますます増えつづけ、自分が落選することでした。どこかの首相も似たようなことを言っています。痛め痛め、と。  
(21) ミュンヘン会談の結果、ドイツにズデーテンを割譲することになった。この割譲をせまられた国は何? という問い。ナチス・ドイツはズデーテンだけでなく、西側のボヘミア・モラビアの全域をとってしまい、東のスロヴァキアを保護国化しました。独裁者の脅しに対する誤った譲歩(宥和政策)は一国をつぶしてしまいます。   

解答例 2002
【1】
    (君の答え)
【2】

a 小麦(大麦/麦/豆) b 湖広 c 海(海路) d 李自成
(1) 交子・会子  (2) 綿織物業・絹織物業  (3)(ア)陳朝 (イ)字喃
(4) 南人 (5) 靖難の変 (6) 水滸伝 (7) 八旗(制) (8) マカートニー


e プトレマイオス  f サラディン(サラーフ=アッディーン)  g バグダード
h ムハンマド=アリー  i ワッハーブ
(9) チュニジア  (10)(ア) 後ウマイヤ朝 (イ)コルドバ 
(11)(ア) ポルトガル (イ)マラッカ王国  (12) メフメト2世(メフメット2世)  
(13) タブリーズ  (14)(ア)ロゼッタ石(ロゼッタ=ストーン) (イ)シャンポリオン
(15) アラービー(オラービー)=パシャ(アフマド=アラービー)

【3】
    (君の答え)
【4】

a ディオクレティアヌス  b ハインリヒ4世  
(1) 皇帝崇拝 (2) 告白(告白録) (3) エフェソス (4) アルクィン
(5) ジョン王がカンタベリ大司教の叙任権を譲らなかったため。  
(6) フィリップ4世 (7) コンスタンツ

c リシュリュー d サンスーシ(サン=スーシ)
(8) 贖宥状 (9) エラスムス (10) 救貧法 (11) バロック様式  
(12) 国内では特権的なマニュファクチュアを保護・育成し、対外的には保護貿易をおこなった。
(13) シュレジエン(シレジア/シロンスク) (14) プガチョフ

e ストルイピン f ヴィルヘルム2世
(15) アレクサンドル2世 (16) (独露)再保障条約(二重保障条約/再保険条約)
(17) ペルシア(イラン) 
(18) 重工業の発展のための基礎的な機械をつくることと、コルホーズとソフホーズという農業の集団化。
(19) ドイツは国防軍を秘密裏に再軍備したく、ソ連は経済建設のためドイツとの協力を欲していた。
(20) フーヴァー (21) チェコスロヴァキア

京大世界史2004

 

第1問(20点)
 セルジュク朝、モンゴル帝国、オスマン朝は、ともにトルコ系ないしモンゴル系の軍事集団が中核となって形成された国家であり、かつ事情と程度は異なるものの、いずれも西アジアおよびイスラームと深くかかわった。この3つの政権それぞれのイスラームに対する姿勢や対応のあり方について、相互の違いに注意しつつ300字以内で述べよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[  ]内に最も適当な語句を入れ、かつ下線部
 (1)〜(14)についての後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。
A 碑文を石に刻んで立てるという行為は世界各地で行われてきた。中華世界もその例外ではなく、碑刻には様々な意味が付与されてきた。
 まず、(1)始皇帝が天下統一後行った巡幸の先々で石碑を立てたように、時の支配者の権威の誇示ということがある。始皇帝と同じく泰山で封禅(ほうぜん)の儀式を行った唐の[ a ]の皇后武氏は、のちに革命に備えて則天文字を作った。この文字を刻んだ碑が盛んに作られたのにも、政治的な意味がある。
 軍功を記念して石碑が作られることもしばしばであった。匈奴遠征を行った竇憲(とうけん)の功業をたたえて班固が作った碑文は范曄(はんよう)が著した史書[ b ]に載せられている。また、唐朝の政府軍が節度使の反乱を平定した時、これを記念して(2)韓愈が作った碑文は後世まで名作とうたわれた。
 周辺諸国にも、立碑の象徴的意義は理解されていた。730年代に(3)オルホン河畔に立てられた碑文は突厥の復興を称揚したものであり、823年[ c ]と唐の講和を記念してラサに石碑が立てられたのは、国内に向けて平和外交を強調したものとも考えられる。
 宗教関係の碑文も数多い。その中には、政府の保護下にあることを誇示するために作られたものがある。(4〉西域取経の旅から戻った玄奘の求めに応じて皇帝が作った(5)「大唐三蔵聖教序」は碑に刻まれて、仏典翻訳事業への支持を示すものとなった。781年に立てられた「大秦[ d ]流行中国碑」もキリスト教ネストリウス派の中国伝来以後の歴史を述べた後、立碑時点における政府の保護を強調している。
 石碑は儒教の経典のテクストを確定するためにも使われた。2世紀後半に帝都[ e ]に(6)「熹平(きへい)石経」が作られ、その近くに241年[ f ]王朝のもとで石経碑が立てられた。これは儒教に限られない。唐代には、(7)『老子』に対して皇帝自らが付けた注釈が石に刻まれて、天下に公表された。仏教の石経の代表例としては、(8)現在の北京郊外の房山で隋代以来長期にわたって刻まれたものがある
 石碑は多くの人の目に触れるので、碑文が称賛する対象や立碑にかかわった人々の権威を顕示することになる。また、書物が希少で失われやすく、書写を重ねるうちに誤りが多く生じた時代には、石碑の恒久性と安定性に大きな価値が認められていた。
 実際には、政治情勢の変化や戦乱により碑が倒されて、権威の誇示という立碑の意図が必ずしも生かされないこともある。しかし、いったん埋もれたネストリウス派の碑文が数百年の時を経て(9)17世紀前半に再発見されたケースのように、当事者のおもわくを超えた反響を呼ぶこともある。記録性という点で、石碑がすぐれた媒体であることは否めないのである。

(1)始皇帝の丞相で、この碑文の字を書いたとされるのは誰か。
(2)彼と同時代の人で、古文復興の担い手として並び称されたのは誰か。
(3)この碑文の一面に刻まれた漢文を書き送った、当時の皇帝は誰か。
(4)玄奘が5年間学んだ、当時のインドの仏教教学の中心僧院の名称を答えよ。
(5)この文章は、のちに東晋時代の名筆が書き残した字を寄せ集めて、改めて碑に刻まれた。その名筆とは誰か。
(6)この石経の文字を書いた大学者蔡 (巛+巴、さいよう)は、元代末期に江南で書かれた長編戯曲の中で妻を裏切る出世主義者として登場する。その戯曲の題名を答えよ。
(7)1973年に漢代の諸侯家の墓から、『老子』の古いテクストが出土した。この時同じく出士した文献の中に、戦国時代に合従策を説いたとされる人物の活躍を記したものがある。その人物とは誰か。
(8)なかでも、11世紀には盛んに石経が作られた。当時、この一帯を支配していた王朝名を答えよ。
(9)この時、碑文の拓本を広めるのに尽力したキリスト教徒で、『農政全書』などの著述があるのは誰か。

B 中国明朝の外交政策は、伝統的な朝貢政策をべースにしつつ、中国人の海外渡航を禁止したうえで朝貢に伴う貿易だけを認め、これをもって周辺諸国・諸民族をコントロールしようとしたところに特徴がある。この政策は、自らの文化を周辺の「野蛮人」のそれに比べて格段に高いものとする華[ g ]思想(中華思想)に裏打ちされたものであったが、現実には格段に強力な軍事力を背景としてはじめて有効であった。永楽帝が[ h ]を南海に派遣して朝貢を促すことができたのも、また(10)ヴェトナムが反抗的であるとして大軍を派遣しこの地を国内に組み入れることができたのも、当時なお強大な軍事力があったからにほかならない。ところが1449年になると、(11)皇帝自らがモンゴル討伐に出て、逆に捕虜にされるという大事件が起こっている。この事件の発端は、モンゴルが明朝の朝貢規定に従わないのみか朝貢の道筋で殺戮(さつりく)を行い、さらに幾度も侵略を繰り返していたところにある。また、東南アジアの一朝貢国であり、かつ明朝に忠誠を誓って何度も[ i ]を受けた国でもある[ j ]が[ k ]によって1511年に占拠された時には、明朝は保護義務があったにもかかわらず、見殺しにするしかなかった。このような外交政策は、16世紀中頃に東シナ海沿岸で[ l ]が猛威をふるった後に一部変更を余儀なくされ、(12)中国人の海外渡航は許可されるにいたったが、外国人が中国に入る時には、少なくとも表面的には進貢を目的としてやって来たとしてはじめて可能であった。(13)ヨーロッパからキリスト教の布教のためにやってきた[ m ]会士も、その例外ではない
 清朝の外交政策は、いくつかの点で明朝のそれとは異なっている。最も大きな違いの一つは、モンゴルやチベットを服属させて[ n ]とし、朝貢国とは違う管理をした点である。しかし、朝貢政策を外交のべ一スとした点では変わりがなく、また厳重な貿易統制を行った。これが可能であったのは、強大な軍事力がその背景にあったからである。イギリスは19世紀のはじめに[ o ]使節団を送り、より自由な貿易を求めようとしたが、清朝はこれを朝貢使節と見なしただけでなく、皇帝に対して無礼であるとして北京から退去させた。最終的に朝貢が廃棄されるのは、(14)朝鮮の支配権をめぐって日清戦争が勃発(ぽっぱつ)するまで待たねばならなかったのである。

(10)その後、明朝の占領軍を撃退して成立した王朝名を答えよ。
(11)(ア)この事件を何と呼ぶか。(イ)また、この時にモンゴル側の事実上の指導者であったのは誰か。
(12)海外へ渡り、そこに住み着いた中国人を何と呼ぶか。
(13)宣教師が中国で作った世界地図の名称を答えよ。
(14)朝鮮のこの時の国王は誰か。

第3問(20点)
 4世紀のローマ帝国には、ヨーロッパの中世世界の形成にとって重要な意義を有したと考えられる事象が見られる。そうした事象を、とくに政治と宗教に焦点を当てて、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問(30点)
 次の文章(A、B、C)の[  ]の中に適切な語句を入れ、下線部(1)〜(17)についての後の設問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A シベリアという地名は、(1)16世紀、ロシアのウラル山脈以東への進出にともなって征服されたシビル=ハン国の名称に由来する。ロシアは、毛皮や鉱物資源を求めてシベリアの開発を進め、17世紀前半には太平洋岸に達した。このためアムール川(黒竜江)流域をめぐって中国と利害が衝突し、1689年に清朝とのあいだでスダノヴォイ山脈(外典安嶺)を境界とする条約を結んだ。
 18世紀にはいると(2)ロシアは2度にわたってカムチャツカの探検を組織し、アラスカに到達した。伊勢国出身の船頭、大黒屋光太夫が遠州灘で遭難し、アリューシャン列島に漂着したのは、18世紀末のことである。光太夫はシベリアを横断してロシアの当時の首都[ a ]に至り、(3)エカチェリーナ2世に拝謁したのち、1792年に帰国した。1847年、初代東シベリア総督に任命されたムラヴィヨフは武力でアムール川地方を占領し、(4)1858年に清朝との間に条約を結んでアムール川以北をロシア領とした。さらに(5)1860年の北京条約によりウスリー川以東の沿海州がロシア領となった。1891年よりシベリア鉄道の建設を始めたロシアは、(6)1896年中国領内を経由して沿海州に至る[ b ]の敷設権を獲得し、1903年にこれを完成した。シベリア鉄道は日露戦争にさいして兵員や物資の輸送に利用されたが、ロシア革命後の対ソ干渉戦争によって大きな被害を受けた。
 19世紀をつうじてシベリアは、ツァーリの支配体制に反抗する政治犯の流刑地でもあった。デカブリストの乱やポーランドの反ロシア蜂起の参加者たち、1870年代の(7)ナロードニキ、90年代以降のマルクス主義者をはじめとする革命家たちの多くがシベリアに送られた。

(1)このときシビル=ハン国の首都を占領し、ロシアの本格的なシベリア進出のきっかけをつくったドン=コサックの族長は誰か。
(2)この探検によって、北極海と太平洋を結ぶ海峡の存在が確認された。この探検隊の隊長の名を記せ。
(3)大黒屋光太夫は、日本に対して通商を求めるロシアの使節の船で帰国した。この使節は誰か。
(4)この条約は、イギリスとフランスによる中国への侵略戦争に乗じて締結された。この戦争の名称を記せ。
(5)1860年に建設が開始され、のちにロシアの極東政策の拠点となる沿海州の港湾都市の名を記せ。
(6)同じ頃、ヨーロッパのある国が西アジアヘの進出を図り、アナトリアからペルシャ湾に至る鉄道の敷設権をオスマン帝国より獲得した。この国の名称を記せ。
(7)この人々の考え方を簡潔に説明せよ。

B 17世紀から18世紀にかけて、北米大陸の大西洋岸にイギリスが建設した各植民地は、成立の経緯も、経済的基盤も、支配のあり方もそれぞれに異なっていた。ロンドン会社による入植が行われたヴァージニア植民地では、[ c ]のプランテーションが成功し、大土地所有が進んだ。一方、(8)ピューリタンによって建設されたマサチューセッツ植民地では、宗教的な規律が重視される政教一致の体制が築かれ、またそれを嫌う人々によって他の植民地が分離、成立した。カトリック教徒が入植したメリーランドや、クェーカー教徒によって建設されたペンシルヴァニアもあった。独立前、最後に建設されたジョージアの場合は、当初、本国の債務者監獄の囚人を解放して入植させ、同時に南からのスペインの侵攻に備えるために計画されたものであった。
 このようにばらばらな北米大陸の植民地に一体感をもたらしたのは、むしろイギリス本国が植民地に課した重商主義的な規制であったといえよう。1651年の航海法をはじめ、17世紀後半から18世紀前半にかけても重商主義的な立法は存在したが、それが厳格に強制され、また(9)新たな規制および課税の攻勢がかけられるようになったのは、(10)七年戦争の結果、北米大陸にあったフランスの脅威が取り除かれて以降のことである。植民地は本国議会に代表を送っていないにもかかわらず課税されることに強く反発し、(11)抵抗を開始した。本国政府は抑圧をもってそれに応え、対する各植民地は代表を[ d ]に送って、1774年、最初の大陸会議が開かれた。こうして植民地間の結合がもたらされたのである。
 (12)本国との戦争、独立宣言の公布を経て、1783年パリ講和条約でアメリカ合衆国の独立が承認された後も、かつての植民地は州として、個別の政治体としての性格を維持した。1787年に開かれた憲法制定会議では、(13)中央政府の権限を強化しようとする人々と、制限しようとする人々との間に対立が見られたが、翌年発効した合衆国憲法は、権限を中央政府と各州に分配しながらも、外交や軍事、課税にとどまらず、州際通商の規制など比較的広範な権限を中央政府にあたえ、アメリカの統合を目指すものであった。

(8)これらの植民地が存在した地方を何と呼ぶか。
(9)この時期の規制・課税立法の例を一つあげよ。
(10)このできごとについて説明せよ。
(11)この時期の抵抗の例を一つあげよ。
(12)この戦争の期間中、本国からの独立と共和政の樹立の正当性を主張して大きな影響のあったトマス=ペインの著作は何か。
(13)この人々を何と呼ぶか。

C つぎの文章は、(14)(15)後年ノーベル文学賞を受賞することになる作家が、1947年に発表した寓意小説の冒頭部分から引用したものである。舞台は、この作家が生まれ育った故郷にある一港町であり、かつてヨーロッパで(16)黒死病とも呼ばれて恐れられていた伝染病に仮託され、人生そのものにつきまとう死や病などの「悪」、そして貧困や戦争などの社会悪に対して、人間はいかに立ち向かうべきなのかが問われている。

 この記録の主題をなす奇異な事件は、194*年、オランに起こった。通常というには少々けたはずれの事件なのに、起こった場所がそれにふさわしくないというのが一般の意見である。最初見た眼には、オランはなるほど通常の町であり、(17)アルジェリア海岸におけるフランスの一県庁所在地以上の何ものでもない。(宮崎嶺雄訳)

(14)作家名(ア)と、小説名(イ)を記せ。
(15)(ア)この小説にうかがえる文芸・哲学思潮について、それが一般に何と呼ばれているかを明示したうえで、その思潮の特徴を簡潔に説明せよ。
(イ)この思潮を20世紀中葉のドイツにおいて代表する人物で、ナチスの積極的加担者であったと後に批判されるようになる哲学者の名を記せ。
(16)この伝染病の病原菌は、ある日本人学者によって1894年香港で発見された。かつて彼が師事していたドイツ人で、細菌学の祖と呼ばれる人物の名を記せ。
(17)(ア)1954年に始まったアルジェリア戦争では、アラブ世界がアルジェリア民族解放戦線側に有形無形の支援を行った。1956年、この支援に対抗することを目的の一つに、フランスはイギリスとともにアラブ世界への軍事介入を行う。この介入によって起きた紛争が一般に何と呼ばれているかを明示したうえで、その紛争へのイスラエルの関わり方と、その紛争の終結にいたる過程を、簡潔に説明せよ。
(イ)アルジェリアは1962年に独立する。当時のフランス大統領の名を記せ。
………………………………………
コメント 
第1問
 問題は三つの王朝・国(セルジュク朝、モンゴル帝国、オスマン朝)の「それぞれのイスラームに対する姿勢や対応のあり方について、相互の違いに注意しつつ」というものです。
 比較の問題です。「相互の違いに注意しつつ」をどれだけ出せたかで差がつきます。三つの王朝・帝国について「イスラームに対する姿勢や対応」を書いてもだめです。それが「違い」を表していないとだめです。もし三政権の対応を書くだけでいいのなら、この「違い」という要求はなくても良かったはずです。実際、違いを求めない類題が一橋の2004年度の問題にあります。それは「この三つの王朝の崩壊過程から、イスラーム世界の近代は生まれる。その一つは、イスタンブルを首都とするオスマン朝であるが、あとの二つの王朝は何か。その名前を述べ、それぞれの王朝の成立経緯(いつ、誰によって建設され、どの地域を、どのような理念で統治したのか、など)を簡潔に述べなさい」というものです。ここには違いが要求されていません。京大のこの問題も「それぞれの対応のあり方について述べよ」で問題文は終わってもよかったのですが、「相互の違いに注意しつつ」と踏み込んだ要求をしています。「注意」したかどうかは、心の中のことでそんなの分かりっこない、というとらえかたなら甘いですよ。答えというものは、文章で「注意(東大がよく使う用語なら「留意」)」したことを表現しないと応えたことにならないのです。過去問でも京大は違いを要求しています(1992、1997)。
 自分の書いた解答が問題に対応した解答になっているかどうかを判断するひとつの方法は、解答の文章に題をつけてみることです。友人に付けてもらうともっといいでしょう。「三政権のイスラームへの対応の違い」という題はつきますか? 三政権のイスラームとのかかわり、という題にはなるでしょう。それぞれの対応は書いていても「違い」は書いてありますか? A朝は□□したが、Bはそうせず、○○した、とかC帝国は●●だったが、A朝は△△だった、と。こう書かないのであれば 、採点官におまかせ、ということになります。解答した受験生に代わって採点官が違いを探してくれるのでしょうか? まさか。違いではなく共通点を書いていませんか?
 宗派は宗派で、カリフに対してはどういう態度をそれぞれがとったのか、またスルタン位はどうなのかを検討してください。ばらばらに書いても比較したことになりません。ちなみにイル=ハン国の7代目ガザン=ハンがイスラム教を国教にしたときの宗派はスンナ派です。 弟の8代目オルジェイドゥ(知らなくていい名前)のときにシーア派に変更します。
 比較の問題は、すこし考えたら出てきます。考えなかったら出てきません。これは学生であるとないとは関係のないことです。どんなに長いこと教師をしていようと無思慮な「教育(?)」をしてきたものには困難です。受験生の方がときにすぐれた解答が書ける理由はこの差です。
 違いは、ある一点に視点をさだめて三つの政権の対応を比べたらいいのです。
 たとえば、カリフに対する三政権の対応を比べましょう。セルジュク朝はスルタンの称号をもらってカリフから政治的権限をうばったものの、カリフを保護しました。が、イル=ハン国はカリフを殺しています(アッバース朝滅亡、これには異論がありますが、ここは一応教科書に合わせておきます)。オスマン朝はカリフ家の存続していたカイロを占領し(1517)、後にこれを根拠にスルタン・カリフの両称号を名乗ります(18世紀)。保護・殺害・僭称の違いです。
 イスラーム教という宗教にたいしては、セルジュク朝は初めから信仰し、イル=ハン国は初めキリスト教と友好関係を保ってイスラム世界とは対立していたのを転換し、途中から信仰します。オスマン朝は初めから信仰し、スルタンがカリフを名乗って教主にまでなりました。
 シーア派にたいしては、セルジュク朝はシーア派のブワイフ朝を追放し、イル=ハン国はシーア派になり、オスマン朝はシーア派のサファヴィー朝と対立しました。
 さらにムスリム(イスラム教徒)との融合という面では、セルジュク朝はニザーミーヤ学院をつくってイスラーム学術の振興につくし、イル=ハン国は自民族への信仰の拡大と、中国の画家を連れてきたためミニアチュール(細密画)ができあがります。オスマン朝は現地のこどもたちを徴集して強引にイエニチェリ(軍人)や官僚に仕立てました。それぞれ学問・芸術・軍事政治と分野は違い、自発と強制の違いはあるものの融和に成功しています。
 イスラーム世界の中では、セルジュク朝もイル=ハン国も王朝としては短命で分裂していきましたが、オスマン朝は稀にみる長期の政権となり、かつ広大な領域を支配しつづけ、イスラーム世界に安定をもたらしました(三つの比較ですから、このように二つが同じで他のひとつと違うというばあいもあります)。
 とまあ、いろいろあるはずです。ひとつでも書いたらいいのです……。

第2問
A 第1問問が中国史でなかったため、ここでA・Bともに中国史となり、いかにも京大の中国史重視があらわれた部分です。第1問は昨年も一昨年も中国史でしたから、今年はちがうと見ていました。それでこんどは中国史がここに集中しています。碑文について説明しながら設問を出しているので、表向きは難しそうな早稲田・立命館風かと思いきや、意外とかんたんな設問が並んでいます。こういう問題文を見て、早稲田・立命館のように中国史を細かく勉強せなあかん、文化史講座をとれ、とわめく先生がいるかも知れませんが、問題をよく見たらそんなものでないことが判明します。

 下線(1) 空欄・下線に分けないで問題文にあわせて上から順にいきます。下線(1)は設問の問題文に「始皇帝の丞相」とあり「碑文の字を書いた」のは誰かは分からなくても答えられる易問です。センター試験では1988年度に出ています。
 空欄a 問題文の「唐の[ a ]の皇后武氏」から武后さんの旦那だ、と推測がつきます。高祖(李淵)・太宗(李世民)とつづいて、3代目の皇帝です。周辺の侵略戦争がある程度成功して各地に都護府を設置することにになった皇帝です。この夫婦はセットでセンター試験1992年度に出ているくらいの基本人名です。
 空欄b 「班固----范曄が著した史書[ b ]に」とあり、ちと難しい。それでも班固につづく史書とみて『漢書』につづく次の書だと推理したら答えがでてきます。
 下線(2) 韓愈に「彼と同時代の人で、古文復興の担い手」とあり易問です。韓愈・柳宗元とつづきでおぼえておくべきものです。センター試験の1991年度に二人はセットで名前が出ています。
 下線(3) 難問みたいな問い方ですが、しかし下線部分の文章や設問文より、下線部前の「730年代」のほうがヒントです。ここから755年の安史の乱を想起することはそれほど難しくはないでしょう。乱のときの皇帝はだれか、という問です。 もちろん皇帝と乱はセットでセンター試験にはよく出されています(1992 、2001追、 2003)。
 空欄c 空欄の前の「823年」で分からなくても、後の文「ラサに石碑」とチベットの都市をあげていますから、チベットを唐の時代に統一した政権の名称は出てきますね。唐と吐蕃の関係もセンター試験でよく出ています(1989、1991、1992、1997、2001)。
 下線(4) 玄奘が学んだ僧院の名前という易問です。この寺院についてもセンター試験では過去3回出しています(1991、1992、2000追)。
 下線(5) 難しそうな「大唐三蔵聖教序」のことをきいているのではなく、東晋の名筆はだれかと、書聖といわれる『蘭亭序』の作者を問うています。これも易問です。しつこいですが、これもセンター試験では出ています(2001追、2003)。漢字が正しく書けるかどうかのほうが問題です。
 空欄d この用語を全部書かせると、なかなか正しく書けない碑文の名前です。大秦中国流行碑、中国大秦景教碑、景教中国流行碑とか、採点していて楽しくもある学生たちの迷いです。センター試験でもこの用語全部では出題されたことありませんが、空欄の解答になる景教自体は、なんども出ています(1990追、1993、1996追、1997、2002追)。
 空欄e これも空欄の前の「2世紀後半に帝都」とあるところがそのまま答えを導きだしてくれます。この都市は地図でも正誤判断の文章でも7回、センター試験で出ています。
 下線(6)「熹平(きへい)石経」とは難しそう、しかし設問では「元末……戯曲」とあるので、前漢末の王昭君の物語・元曲『漢宮秋』ではない、とすれば『琵琶記』か『西廂記』か。この二つの物語の内容を知っているかどうかが問われています。どっち? センター試験では後者が出たことがありますが(1997)、前者はありません。用語集の頻度からは出題されても不思議ではないくらいの未出題基本データです。夫は科挙に受かったまま高官になるべく故郷に残した妻娘をおきざりにして重婚罪を犯しており、故郷では姑の面倒をみた後、家を出て琵琶を鳴らしてお金をもらいながら、帰ってこない夫を探して三千里という話です。
 空欄f 空欄の前の「その近くに241年」がヒントです。洛陽を含む華北を支配した三国時代の王朝はなんですか、という問です。魏蜀呉のうちどれですか、というかんたんすぎる問です。
 下線(7) 老子とは関係のない合従策を説いた人物を問うています。合従策で秦を阻止しようとした人物です。センター試験でも出たことがあります(1998追)。
 下線(8) 設問文では「11世紀……この一帯を支配していた王朝」ですから北京(燕州)と大同(当時は雲州)のあいだの地域十六州をもっていた王朝です。これもセンター試験では出過ぎています。燕雲十六州も2回出ています(1992追、2003)。
 下線(9) 『農政全書』はだれが書いたか、という易問です。センター試験では3回(1990、2000追、2001追)出ています。作者も3回出ています(1990、2000追、2002追)。
 これで判明したように、いくらか答えに迷うのは空欄bと下線(6)だけではないでしょうか。
第2問
B 「朝貢」という名の中国と周辺国の独特の外交関係をテーマにした問題です。
 空欄g 中華思想を他の言い方でなんといいますか、という易問。1997年度のセンター試験では「朱熹(朱子)は、華夷や身分の別を否定し、平等を説いた。」とまちがった文章で出てきているものです。
 空欄h 永楽帝という皇帝名があれば派遣された人名は容易でしょう。センター試験でも6回出ています(1988、1992追、1993追、1999追、2001、2002追)。この鄭和の一行がコロンブス以前にアメリカ大陸に到達したと主張しているのが、ギャヴィン・メンジーズ著、松本剛史訳『1421―中国が新大陸を発見した年』(ソニーマガジンズ)です。
 下線(10) 永楽帝の明朝軍を追放してできたヴェトナム王朝名です。漢字が正しく書けるかが問題でしょう。センター試験では問題文に出たことがあり(1992)、正誤判断しなくてはならない問題文にはでたことがありません。しかし頻度(山川の用語集では頻度19)からは基本的なもので、これからの出題が予想されます。
 下線(11) 下線の前の年代「1449(石敷く)」がヒントです。(イ)は事件名、(ロ)はオイラート部の君主名ですが、「事実上の指導者」とややこしい表現をしている理由は、まだ正式にハーンになっておらず、事件の後の1453年が即位の年です(もちろんビザンツ帝国滅亡・百年戦争終結の年)。ただし翌年殺されます。センター試験では事件名が2001年に出ています。
 空欄 i 「を受けた」という表現で分かるかどうか。冊封です。それほど難しい語句ではありません。センター試験でも出ています(1988、1992追、1995、2001追)。冊封の「冊」とはその際に金印とともに与える冊命書、つまり任命書のことで、「封」とは皇帝の家臣の国「藩国(地方の国)」として認めること、換言すれば、「封建(封土/封邑)」することです。前漢のときに、郡国制というのをならいますが、これの拡大版です。つまり中央には郡県制を、そして周辺には封建制をとるという二重の統治方式があったのですが、それを中国大陸につながっている周辺国にも広げ、さも自国の領土の一部であるかのようにして家臣国として認めてやる、という偉ぶった外交関係を表しています。しかし周辺の小国にはこの世界の中心とみなしていた大国の中国から認可を受けて国内統治に利用しているわけで、それなりの利点があったのです。
 空欄 j ヒントは空欄Kの後の「1511年に占拠され」です。16世紀の初めにやつてくるひとびとによって滅ぼされることになった国はどこか。東南アジア最初のイスラム政権としても名高い王国です。センター試験頻出国といっていいものです(1990、92追、96、97追、99追、2000追、01、02追、03、04追)。
 空欄k これは国でも人名でもいいですが、国名がかんたんです。
 空欄 l 空欄の前の「東シナ海沿岸」と空欄の後の「猛威をふるった」で、ああ、あの海賊のことだ、と推理できるでしょう。またしつこくセンター試験を言わなくても出ています。
 下線(12) これも説明の不要な易問です。
 下線(13)空欄m  (13)の漢字が正しく書けるかどうかだけの易問です。地図の名はセンター試験では3回出ています(1988、1992追、2001)。
 空欄n 清朝の周辺の自治国をなんというか、という問です。理藩院が管理した地域です。センター試験では4回(1991追、1994、1996、2003)です。
 空欄o マカートニーはルイ16世処刑の年1793年に訪れ乾隆帝に会っていますが、この空欄の前に「19世紀のはじめ」とあるのでマカートニーの後にきたひとだと推測できます。センターでは2003年に出ている人物です。マカートニー→アマースト→ネーピアの順(まあね)です。私大だったらこの3人ともおぼえなくてはなりませんが、センター試験ならはじめの二人でいいです。
 下線(14) 日清戦争勃発当時の国王名です。Aの空欄a と同じ答えです。お父さんの実権者・大院君はセンター試験で3回も出ていますが、このひとは出たことがありません。ちと細かい。でも細かいのはこれだけです。

第3問
 この問題は東大の過去問とよく似ています(1978)。

 つぎにかかげる8つの事項は、すべて、ある同一の世紀に属している。それは何世紀か。その世紀における、これらの事項が関係する地域の特徴を論述せよ。その際、この世紀に見られるそうした特徴が、それ以後の発展に対してどのような影響を与えたかという点に、とりわけ留意すること。 
 キリスト教の国教化 フン族の西方移動 コンスタンティノープル遷都 コロヌスの土地緊縛令 西ゴート族 キリスト教徒大迫害 ニケーア公会議 ドミナートゥス

 東大は「特徴」を書かせた上で後世への「影響」はなにかと問うていますが、この京大のは「4世紀のローマ帝国には、ヨーロッパの中世世界の形成にとって重要な意義を有したと考えられる事象が見られる。そうした事象を、とくに政治と宗教に焦点を当てて、300字以内で説明せよ」と「中世世界」とリンクになることにしぼらせ、「重要な意義を有した」事象を書けと、古代と中世の関連づけを求めています。たんに古代ローマ帝国の4世紀の歴史を述べただけでは解答としては不完全です。東大は「それ以後の発展」とばくぜんとした問い方ですが、京大は「中世世界の形成」ともっと歴史的な時間・空間を指摘しています。
 さて中世世界とはなんでしょうか? これがやっかいです。分かりますか? これが分からないと、4世紀の何を書くかが決まりません。4世紀のローマ帝国についてなんでも書いたら、自然と後の中世につながるんじゃないの……という甘い期待のもとに書かざるをえません。
 一橋でも、過去問にこんな問題を出しています(1992)、

 「古代」、「中世」、「近代」という時代区分はヨーロッパ史をモデルに設定されたもので、非ヨーロッパ世界の歴史に対して、それをそのまま適用することはできない。しかし同時に、非ヨーロッパ世界の多くが、その前後の時代と異なる「中世」的な時代をへたこともまた歴史的な事実である。そこで、イスラム世界を例に、以下の二つの字句を説明するなかで、「中世」という時代の政治体制、思想状況の特徴を述べよ。なお、その際、字句は重複使用してもよく、また、字句の下には下線を付せ(200字)。(指定語句)マムルーク スーフィー信仰

 この問題は拙著『練習帳』にも扱いました。そこでは古代・近世と比較してあいだにあたる中世とはどんなイメージをもてばいいのか説明しています。ここには、中世を分裂・割拠、封建制、王権弱体、教皇と皇帝、家臣はわずか(家臣の自立)、戦士(王・騎士)に実権、と政治上の項目をあげています。この問題のばあいは東ローマ帝国(ビザンチン帝国)については省いていますが、京大の今回の問題のばあいは西ヨーロッパとは限っていません。『練習帳』でも、p.92で「ヨーロッパとあれば東欧も入れる」と注意を促しています。
 中世世界の政治と宗教について、すぐ想起できなければ、4世紀のあとの5世紀、6世紀を考えてもでてきます。ただし世紀、世紀で論述問題は出題されるのに、通常のまとめのノートのような要約した参考書で勉強してきたひとには、ぱっと受験場で世紀ごとのデータがおもいつかないはずです。受験勉強の方法がまちがっているからです。教科書の巻末についている年表よりもう少し教科書のデータを網羅した年表ののった図説の年表を利用して、世紀ごとに歴史の流れがどう展開するか、あえていえば「世紀の概念」というものを通常からつかんでおかなくてはならないのです。拙著『センター世界史B 各駅停車』(パレード)ならつかめます。しかし勉強法はこれ以上は省きます。
 なによりゲルマン民族の国家建設がすすんでいます(415 西ゴートの建国、429 ヴァンダルの建国、443 ブルグントの建国、481 フランクの建国、493 東ゴートの建国)。さらにこれらの国々のうち、6世紀にはユスティニアヌス帝の東ローマ帝国にヴァンダルと東ゴートは吸収されます。北ではフランク王国だけが成長していきます。ここに統一のない西欧と統一のとれた東欧(東ローマ)が表われています。皇帝権の保持されいる東にたいして西は皇帝はいなくなり(476 西ローマ帝国滅亡)、官僚制も東にのこり、西ではローマ教会にうけつがれるだけです(ヒエラルヒー/教階制)。皇帝教皇主義は東にあり、西では教皇と弱体なゲルマンの王たちが対等な関係になります。もっと全体的には地中海を土台としたヨーロッパ政治はアルプスの北にゆっくり移行する契機でした。それでも中世前期は東ローマ帝国に軸があります。というのはゲルマン人の王たちは東の皇帝に総督の称号をもらって自己を正当化し権威づけるという、権威の面では800年のカール大帝まですべて従属した地位にあったのです。ゲルマンの王たちはカール大帝も含めて東の皇帝を「父よ」と呼んでいました。東は東で強力な皇帝権をバルカン半島出身の軍人によって常備軍をかため、能力主義の官僚制を徹底させていきます。
 宗教の面では、東西にちがう傾向が表われてきます。五本山のうちのローマだけがゲルマン人に囲まれた中で生きていかなくてはならなくなり、政治的バックボーンであった皇帝の保護を失います。だからこそ、いずれフランク王国に頼ります(山川の教科書『世界の歴史』に「フランクと協力して勢力を拡大したのがローマ教会である」とある部分)。東の四本山は皇帝の保護下にあります。ローマ教会は孤立した中でひとつの政治勢力として成長しゲルマン諸国に影響をあたえていきます。西は古代ローマ帝国の公用語たるラテン語をつづけ、東は7世紀に住民のことばギリシア語に変更します。西は支配者ゲルマン人の信仰しているアリウス派(三省堂『詳解世界史』「アリウス派を多く信奉していた他のゲルマン諸族よりもはるかに強力となったフランク王国は、西ヨーロッパに君臨する基盤を築いた」)やケルト人の信仰する土着の宗教(ドルイド教、これは書けなくてもいい名称)と対立・融合があり、東はシリア・エジプトに普及した単性論と対決します。異端との対決は中世1000年間の一般的な傾向でした。
 これらの5世紀以降にあらわれる傾向、つまり中世世界に見ら傾向は4世紀にすでに表われいるはず、という問題です。さかのぼって4世紀を見れば(見る、というほど4世紀の事象・傾向・世紀概念が読者にありますか)、これらの傾向の源流になるものが容易に出てくるのではないでしょうか? こういう中世へのつながりがほんの申し訳程度しか書いてないものがネットに模範解答として出ています(K、S)。 

第4問
A 
 ここも下線・空欄を別々に説明せず、問題文に合わせていきます。
 下線(1) シビル=ハン国を征服したという部族長名です。この人物はセンター試験で4回(1988、1991追、1994追、2004)出ています。征服したかどうかは怪しい面をもっていますが、これはエピソードとして聞く機会もあるでしょう。
 下線(2) 海峡の名前になっているのでかんたんです。センター試験で問題に出たことはありませんが、「ピョ一トル1世は,イェルマークに命じて,カムチャツカを探検させた(1991追)」とまちがった文章の中に示唆されてはいました。
 空欄a 空欄のあとのエカチェリーナ2世はピョートル1世の後の皇帝ですから首都はもうモスクワではありません。まちがえて、この首都の名前をピョートル1世の名前をとったとおもっているひともいます。このホームページの「疑問教室」→「欧米史の疑問」のところで、もともとオランダ商人たちが開いた聖ペテロ(サン=ペテロ)市場の名が由来です、と答えています。センター試験では3回(1990、2000追、2002追)出ています。
 下線(4) この条約の理由となった英仏との戦争は何か、という易問です。6回もセンターで出ています。
 下線(5) ウスリー江以東、すなわち沿海州も獲得したため、最南端に位置し、シベリア鉄道の終着駅でもあります。「征服せよ(ウラジ)東方(ウォストーク)を」というロシアの侵略の意図を露骨に表した都市名です。センター試験でも4回(1988、1998、2000、2002追)出ています。
 空欄b シベリア鉄道につながる東アジア東北の鉄道名です。これもセンターでは3回(1988、1994、2002追)出ています。
 下線(6) 3B政策の鉄道です。カイザーひげと呼ばれるひげをはやして見映えを気にした威張りくさった男が皇帝になっている帝国です。センター試験では8回出ています。
 下線(7) 「ナロードニキの考え方」を説明しろという要求です。センター試験では6回(1990追、1994、1995追、1997追、2000、2004追)も出ています。この2004年の追試問題に「ナロードニキは,農村共同体を基盤とする社会主義を構想した」とあり、これをそのままでもいいでしょう。「ロシアのナロードニキは、農村共同体(ミール)を基盤にして社会を改革しようとした(2000)」も似た文章です。「ナロードニキは、農村共同体(ミール)を基礎に、西ヨーロッパと同じような資本主義が実現できると主張した(1994)」は資本主義のところがまちがいです。ここは農村共同体(ミール)と社会主義の二つがあって2点でしょう。
B
 空欄c 教科書で「ヴァージニアをはじめとする南部では,黒人奴隷を使用し,タバコ・米などを栽培する大農園がさかんであった」(山川・高校世界史)、「アメリカの南部では、タバコ生産を中心に奴隷制のプランテーションが発展してきた」(三省堂・詳解世界史)とあり、南部に属するヴァージニアははじめから綿花栽培でないことを示しています。19世紀からさかんになるのが綿花です。それまではインディアンから栽培方法を教えてもらったタバコ・米でした。センター試験ではタバコはいろいろなかたちで出ていますが、ヴァージニアと結びつけたものはありませんでした。ちと細かい。
 下線(8) 「ピューリタン」が主に住む地域の名前です。センター試験で出題されたことはないものの頻度からは出題されても不思議ではないデータです。ワスプ(WASP=White Anglo-Saxon Protestant)の地域でもあります。
 下線(9) 設問文の「この時期」は後の下線つき文章に「七年戦争の結果……以降のこと」とあり、まさに独立戦争勃発の原因となる税法であることが推測できます。ひとつだけあげたらいいので、易問です。センター試験では印紙法が5回、茶法が1回出ています。砂糖法やタウンゼント諸法(当時のイギリス蔵相の名タウンゼントのとった諸法のことで、紙・ガラス・ペンキなど日常的な品物に関税を課し、税収を植民地の駐屯軍や官吏の給与にあてるつもりだった)などでもいいでしょう。
 下線(10) 七年戦争は三大陸の戦争ともいうように、インドでのプラッシーの戦いとともにアメリカではフレンチ=インディアン戦争が戦われ、パリ条約が結ばれました。その結果としてイギリスはフランスから大きな土地をとりあげます。その地名をあげるといいのです。「フランス領ルイジアナのミシシッピ川以東は、パリ条約の結果イギリス領となった」と。これは1994年度のセンター試験追試の四択文そのままです。 
 下線(11) 課税に抵抗した例を、ということで印紙法一揆でもボストン茶会事件でもいいでしょう。とくに後者はセンターでは3回出ています。
 空欄d はワシントン市が完成するまで合衆国最初の首都にもなる町です。これもセンターで3回出ています。
 下線(12) 迷っているひとびとを愛国派に向かわせようとするパンフレットです。センターで6回も出ています。岩波文庫にある翻訳を読んでもらうのが一番ですが、つぎのページにもあります。いかに説得的な訴えであるかが分かるでしょう。
 http://www.bartleby.com/133/
 下線(13) アメリカ史ではヨーロッパ史とちがい「連邦」は中央集権を意味しています。この連邦の後に政府を加えて「連邦政府」と考えるとわかりやすい。ヨーロッパでは連邦がつけば地方分権を意味しています。ネーデルラント連邦共和国、イギリス連邦、ドイツ連邦などです。答えの用語はセンターで2回出ています。
  
C 奇をてらった設問のしかたです。
 下線(14)(15) ヒントは「ノーベル文学賞」という有名人、下線(16)の「黒死病」、引用の中の「アルジェリア……フランス」、下線(16)の設問(イ)に「ナチスの積極的荷担者」などです。これで分からなかったら仕方ない諦めるのが良いでしょう。できないものはほっておく。一応フランス人の作家で、黒死病と関係のある作品を書いている、ということが推測できます。センター試験でも出題されたことはありませんし、これからもないでしょう。これもちと細かい。
 作品の概略は以下にあります。
http://homepage2.nifty.com/tosyo/book16.html
 カミュへの批判はつぎが面白い。
http://home.att.ne.jp/sun/RUR55/J/camus.htm
 (ア)「思潮」はすぐ分からなければ、(イ)の「思潮……ドイツにおいて代表する人物」も大きなヒントです。いかにもドイツ人らしい肺活量の要る発音のひとです。この思潮はセンター試験では1回出ています(2003追)。
 (イ)この人物はセンター試験では出る可能性は低いでしょう。すでにサルトルの方が出ています。設問文の「ナチスの積極的荷担者」という部分は、ヴィクトル・ファリス著・山本尤訳『ハイデガーとナチズム』(名古屋大学出版会)、小俣和一郎著『精神医学とナチズム、裁かれるユング、ハイデガー』(講談社現代新書)などの本で知ることができます。このような哲学者の過去を問うような問い方は京大としていいのでしょうか? 京大医学部は日中戦争のさなか人体実験のために多くの医師を満州国に派遣しました(常石敬一著『七三一部隊 生物兵器犯罪の真実』講談社現代新書)。そのことについて京大はいつ弁明をしたのか? そういうことを自ら問う勇気はあるのか、と疑問に感じます。
 下線(16)「黒死病とも呼ばれ」という文章は少しおかしい。厳密には黒死病はペストの一種であって別名ではない。中世の黒死病にあたるのはペストの中でも腺ペストといって肌が黒紫色に変色するもの。症状を如実に描いているのはコニー・ウィリス著、大森望訳『ドゥームズディ・ブック』(早川文庫)で、そこには「オレンジのサイズにまで成長する横痃(おうげん、リンパ節の腫れ)、口いっぱいになるほど腫れあがる舌、体全体を真っ黒に変える皮下出血」と描いています。最近になってペスト菌というものが本当に原因であったということをDNAレベルで確かめられた、というニュースが以下にのっています。
http://www.appliedbiosystems.co.jp/website/jp/biobeat/contents.jsp?BIOCONTENTSCD=20642&TYPE=B
 「ある日本人」とは北里柴三郎のこと。かれが学んだ先生のドイツ人「細菌学の祖」を問うています。風邪をひいているような名前です。センターでも1回(2000追)出ています。
 下線(17)(ア)スエズ動乱(スエズ戦争/第二次中東戦争)はナセルのスエズ運河国有化宣言からおきてきた事件です。この問題のポイントは「イスラエルの関わり方」が、イスラエルから先ず攻撃をはじめたことが一つ、「終結にいたる過程」は、米ソの反対か国際的な非難、あるいは国連の停戦決議があることと、3国の撤退の三つです。センターでも4回この戦争の過程について問うています。
 (イ)このアルジェリア戦争を利用して大統領になった人物です。アルジェのコロン(フランス人植民者)たちが植民地政庁を襲って軟弱な第四共和政でなく強力な政府を、と蜂起した側がド=ゴール政権を要求してきたために下野していたド=ゴールが推されて登場したものです。いや、これはド=ゴール自身がしくんだという説もあります。フランス人は長い間このアルジェリアの独立戦争を、独立のための戦いでなく、たんなるテロだといっていました。カミュだけが特殊ではなかったのです。フランスが独立戦争と認めたのは1999年です。このずぶとさ ! フランスだけではないが……。センターではフランスとアルジェリア独立の関係は9回(1993、94追、06追、98追、2000、2000追、01、02追、04追)もきいています。ド=ゴールとの関係も「フランスのド=ゴール政権は、1962年に植民地アルジェリアの独立を承認した」(1998追)と正しい文章で出ています。

 第2問第4問の2問で60点分あり、センター試験のような基本的な勉強していたら50点くらいとれることは分かったでしょうか。後の第1問第3問の論述で半分以上得点できるかに合否がかかっています。

解答例………………………………………
第1問
   (きみの答え)
第2問

A
空欄 a 高宗 b 後漢書 c 吐蕃 d 景教 e 洛陽 f 魏
下線(1)李斯 (2)柳宗元 (3)玄宗 (4)ナーランダー僧院 (5)王羲之 (6)琵琶記 (7)蘇秦 (8)遼 (g)徐光啓
B
空欄 g 夷 h 鄭和 i 冊封 j マラッカ王国 k ポルトガル(アルブケルケ) 1 倭寇(後期倭寇) m イエズス n 藩部 o アマースト 
下線(10)黎朝 (11)(ア)土木(土木堡)の変 (イ)エセン(=ハン) (12)華僑 (13)坤輿万国全図 (14)高宗

第3問
   (きみの答え)
第4問

A
空欄 a (サンクト=)ペテルブルク b 東清鉄道
下線(1)イェルマーク(エルマーク) (2)ベーリング (3〕ラクスマン (4)アロー戦争(第2次アヘン戦争) (5)ウラジヴォストーク(ウラジオストック) (6)ドイツ
(7)ロシアの農村共同体(ミール)を基盤に、西欧とは異なる社会主義社会の建設をめざした。
B
空欄 c タバコ d フィラデルフィア
下線(8)ニューイングランド (9)印紙法(砂糖法・タウンゼント諸法) (10)フランスはカナダ・(ミシシッピ以東の)ルイジアナなど北米の広大な領土を失った。
(11)ボストン茶会事件 (12)『コモン=センス(常識/良識)』 (13)連邦派(フェデラリスト)
C
下線(14)(ア)カミュ (イ)ペスト  (15)(ア)実存主義 自分の主体性と自由を回復しようとする思想一般/人間の実存を思考の中心にすえた哲学/現実的・具体的な個別者「私」の存在を強調する/人間存在を不条理な存在とみなし、その在り方を追求する/現実的存在におかれた個別的主体としての人間のあり方を問う哲学。 (イ)ハイデガー(ハイデッガー) (16)コッホ (17)(ア)スエズ戦争(第二次中東戦争/スエズ動乱) イスラエルが先ずエジプトを攻撃し、米ソの反対、国連の即時停戦決議などの国際世論に負けて英仏イスラエル軍は撤退した。 (18)(イ)ド=ゴール


   (きみの答え)
第4問

A
空欄 a (サンクト=)ペテルブルク b 東清鉄道
下線(1)イェルマーク(エルマーク) (2)ベーリング (3〕ラクスマン (4)アロー戦争(第2次アヘン戦争) (5)ウラジヴォストーク(ウラジオストック) (6)ドイツ
(7)ロシアの農村共同体(ミール)を基盤に、西欧とは異なる社会主義社会の建設をめざした。
B
空欄 c タバコ d フィラデルフィア
下線(8)ニューイングランド (9)印紙法(砂糖法・タウンゼント諸法) (10)フランスはカナダ・(ミシシッピ以東の)ルイジアナなど北米の広大な領土を失った。
(11)ボストン茶会事件 (12)『コモン=センス(常識/良識)』 (13)連邦派(フェデラリスト)
C
下線(14)(ア)カミュ (イ)ペスト  (15)(ア)実存主義 自分の主体性と自由を回復しようとする思想一般/人間の実存を思考の中心にすえた哲学/現実的・具体的な個別者「私」の存在を強調する/人間存在を不条理な存在とみなし、その在り方を追求する/現実的存在におかれた個別的主体としての人間のあり方を問う哲学。 (イ)ハイデガー(ハイデッガー) (16)コッホ (17)(ア)スエズ戦争(第二次中東戦争/スエズ動乱) イスラエルが先ずエジプトを攻撃し、米ソの反対、国連の即時停戦決議などの国際世論に負けて英仏イスラエル軍は撤退した。 (18)(イ)ド=ゴール

京大世界史2008

第1問
 宋代以降の中国において、様々な分野で指導的な役割を果たすようになるのは士大夫と呼ばれる社会層である。彼らはいかなる点で新しい存在であったのか。これについて、彼らを生み出すにいたった新しい土地制度と、彼らが担うことになる新しい学術にも必ず言及し、これらをそれ以前のものと対比しつつ300字以内で述べよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問
 次の文章CA,B) の[ ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(13)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 前3世紀の末、匈奴では[ a ]が出てモンゴル高原を制覇した。匈奴の東にあって強盛を誇った東胡は、[ a ]の親征で壊滅したが、その残存勢力のうち、今日の内蒙古自治区東部のシラ=ムレン河流域に逃れたものが烏桓(うがん)および鮮卑であるとされる。
 鮮卑では、後2世紀の半ば、檀石カイ[木偏+鬼](だんせきかい)が出てモンゴル高原を統ーした。檀石カイの死後、統一は破れたが、このころから部族首長の地位が世襲されるようになった。(1)4世紀のはじめ、内乱で衰退した西晋はさらに匈奴の攻撃で滅亡し、五胡十六国時代が始まる。このころ、今日の内蒙古自治区東部から河北省北部・遼寧省にかけて鮮卑系の慕容(ぼよう)部・段(だん)部・宇文(うぶん)部があった。慕容コウ[皇+光]は燕王を称し、段部・宇文部を破って華北平原に進出し、(2)高句麗を攻撃して、その都城を破壊した。一方、今日の内蒙古自治区中部にあった[ b ]部は、西晋を援助して匈奴と戦いその首長イ[けものへん+奇]盧(イロ)は315年に代王に封ぜられた。
 351 年、テイ[人偏のない低]族の苻堅(ふけん)が長安で自立して皇帝を称した(前秦)。三代目の苻堅は、前燕・代および(3) 河西回廊にあった前涼を征服して華北を統一し、(4)東晋併合を図って南下したが383年ヒ[三水+肥]水の戦いで大敗し統一は瓦解した。[ b ]部では珪(ケイ)(道武帝)が代国を再建し、ついで[ c ](今日の山西省大同市)に遷都して国号を魏と改めた(北魏)。三代目の(5)太武帝は、439年に華北統一を達成した
 契丹の出現はこの北魏の時代である。慕容コウに敗れた字文部の残存勢力が、さらに道武帝の攻撃で分解し庫莫ケイ[三水のない渓](こばくけい)・契丹が成立したとされる。シラ=ムレン・ラオハ河流域にあった契丹は北魏から東魏、ついで東魏に代わった[ d ]に朝貢した。6世紀後半には西魏や突厥の攻撃を受け、高句麗や突厥に帰順することもあったが、やがて隋ついで唐に朝貢するようになった。(6)648年、契丹の大賀(たいが)氏は松漠(しょうばく)都督に任ぜられたが、当時の契丹はなお諸氏族のゆるやかな集団であるに過ぎず、唐との関係も不安定であった。8世紀に大賀氏が断絶すると、遥レン[夫+夫+車]氏(ようれんし)を首長とする部族連合が形成された。この時期の契丹は、唐に朝貢する一方で、9世紀半ばまでモンゴル高原を支配していた[ e ]にも服属し、官印を授けられていた。907年、迭ラツ[束+リ](てつらつ)部の[ f ]は、遥レン氏に代わって可汗の位につき、916年には皇帝を称し、神冊(しんさく)の年号を立てた。[ f ]は(7)渤海に親征して926年にこれを滅ぼし、長子の倍(ばい)を東丹(とうたん)国王に封じて旧渤海領の統治にあたらせたが、凱旋の帰途に死んだ。帝位を継承した次子の徳光(とくこう)は倍と対立してこれを[ g ]に亡命させ、936年には石敬トウ[王+唐](せきけいとう)を援助して[ g ]を滅ぼし、その代償に長城以南の燕雲十六州を獲得した。


 (1) この内乱の名を記せ。
 (2) 前漢時代に設置され、高句麗によって313年に征服された、西晋の朝鮮半島支配の拠点はどこか。その名を記せ。
 (3) 前秦はさらに西域の亀茲国(今日のクチャ)に遠征した。この時、前秦軍の捕虜となり、のちに長安で大乗仏教の漢訳に尽力した人物の名を漢字で記せ。
 (4) 東晋に仕えたがのちに辞職し、六朝第一の自然詩人・隠逸詩人と称された人物の名を記せ。
 (5) (ア) 太武帝に仕え、廃仏を勧めた道士の名を記せ。
  (イ) このころモンゴル高原を制圧し、北魏としばしば交戦した民族の名を記せ。
 (6) 唐は周辺民族の首長に都督・刺史などの官職を与え、間接支配を行った。これらの都督・刺史を統括するため、唐が設置した機関の名を記せ。
 (7) 渤海国の建国者の名を記せ。

B モンゴル帝国時代、有名無名の西方の人々が東方へ旅をし、そのうちの幾人かは旅行記をのこした。「アッシジの聖者」と称された[ h ]が創設した托鉢修道会の会士であった[ i ]の旅行記はその旅程が極めて入念に記録されている。
 (8)フランス国王[ j ]の命令を受けた[ i ]は、1253年5月7日(9)コンスタンティノープルから乗船し長途の旅に出立した。彼はクリミア半島に上陸後、北方に向かいヴォルガ川を渡河し、8月の初めにこの方面の支配者であった[ k ]の幕営地に到着して、5週間滞在した。(10)9月15日ここを発って東に向かい、 12月27日大草原の幕営地にあった大ハーン[ l ]の宮廷に到着、翌1254年1月4日ハーンへの謁見を許された。4月5日、彼は首都[ m ]に入り、 5月30日にはハーンの命令で(11)イスラム教徒、仏教徒を相手に宗教論争を行った。7月8日、首都近くの草原に宮廷を移していたハーンから最後の贈り物を受けたのち、二日後の10日に首都を発って帰還の途に就いた。9月15日には[ k ]の幕営地に到着、その後[ k ]がヴォルガの下流に建設した町サライを経て、カスピ海の西岸を南下し、アラス川をさかのぼって1242年以来この方面のモンゴル軍を指揮していたバイジュに迎えられたのは、11月の下旬のことであった。ついで、[ i ]はアナトリア(小アジア)へと進み、(12)マンズィケルトの古戦場の近くを過ぎて、1255年4月末にコンヤに到着した。(13)コンヤのスルタンとの面会ののち、地中海に出て船にのり、キプロス島を経由して、アンテイオキアに到着した。[ i ]を派遣したフランス国王はすでに帰国していたが、同年8月15日、[ i ]は第一回十字軍が建国した[ n ]の最後の拠点とはなっていたアッコンの町の説教師に任命された。彼の旅行記はこの時点で終わっている。


(8) このフランス国王のエジプトへの侵攻に際し当時の支配者が死亡したことを契機として、エジプトでは王朝が交代した。新たに樹立された王朝の名を記せ。
(9)  (ア) 当時コンスタンティノープルを支配していた国家の名を記せ。
 (イ)[ i ]はこの都市の最も重要な聖堂でミサを行ったと述べている。その聖堂の名を記せ。
(10) [ i ]が長距離を順調に旅行できたのは、モンゴルの駅伝制度のお陰であった。この制度のモンゴル語の名称を記せ。
(11) この論争において[ i ]は、西方では異端とされていたキリスト教の一派の神父たちと不本意ながら協力しなければならなかった。
(ア) この一派は中国では何と呼ばれたか。その名を記せ。
 (イ) この派を異端とした公会議の名を記せ。
(12) 1071年のこの戦いは、東方の遊牧民族が大挙してアナトリに流入する契機となった。この遊牧民族の名を記せ。
(13) コンヤを首都としていた王朝の名を記せ。

第3問
 古代ギリシアの代表的なポリスであるアテネ(アテナイ)は紀元前6世紀末からの約1世紀間に独自の民主政を築き発展させ、さらにその混乱をも経験した。このアテネ民主政の歴史的展開についてその要点を300字以内で説明せよ。句読点も字数に含めよ。説明に当たっては下記の2つの語句を適切な箇所で必ず一度は用い、用いた語句には下線を付せ。
   民会 衆愚政治

第4問
 次の文章(A、B、C) を読み、下線部(1)〜(23)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 宗教改革以降のヨーロッパでは、宗教上の対立にもとづく戦争や抑圧がしばしば生じる一方、異なる宗派間の共存を制度的に保障する取り決めも必要に応じて結ばれた。しかし、信仰の自由が個人の権利として認められるまでには長い時間を要した。以下に引用する史料1)は(1)1648年に締結された講和条」、2)は1781年に公布された勅令、3)は1829年に成立した法律の、それぞれ一部である。

1) 第5条 帝国の両宗派の選帝侯、諸侯、等族の聞に存在していた不平不満が大部分(2)当該戦争の原因および動機であったので、彼らのために以下のことを協約し、調停する。
 第l項(前略)(3)1555年の宗教和議は、1566年アウクスブルクで、またさらにさまざまな帝国決定で承認されたように皇帝および両宗派の選帝侯、諸侯、等族の全会一致で受け入れられ、可決された条項において有効と宣言される。

2)(4)良心に対する圧迫はすべて有害であること、また、真のキリスト教的寛容が宗教と国家に多大な利益をもたらすことを確信し、余は以下の決定を下した。プロテスタントとギリシア正教徒に対しその宗教の流儀に従った私的な礼拝行為を全面的に許可する。(中略)ただし公的な礼拝行為を行うことができるという特権は、今後もカトリックのみに許される。

3) (5)幾多の議会制定法により、ローマ・カトリックを奉じる陛下の臣民に対して、他の臣民には課せられない一定の拘束および制約が課されてきた。(6)このような拘束および制約は今後撤廃されることが適切である
(引用は歴史学研究会編『世界史史料』第5・6巻岩波書店刊による。文章は一部改変した箇所がある。)


(1) (ア) この講和条約は何と呼ばれるか。
 (イ)  (ア)の講和条約によって独立を承認された国をlつ挙げよ。
(2) この戦争は何年に始まったか。
(3) (ア)この宗教和議の内容を簡潔に説明せよ。
 (イ) 1648年の講和条約では1555年の宗教和議で認められなかった宗派が公認された。この宗派の名称を記せ。
(4) (ア) この決定を行った君主は、啓蒙思想の影響を受けながらオーストリアの国力を強化しようとした。この君主の名を記せ。
 (ィ) 1772年、(ア)の君主はプロテスタントのプロイセン国王、正教徒のロシア皇帝と結んである国の領土の分割を行った。この国の名称を記せ。
(5) ここで言及されている法律のうち、公職就任者を国教徒に限定した1673年の法律の名称を記せ。
(6) カトリック教徒に対する差別を撤廃する法律が制定された背景には、1801年に併合したある地域の住民の反発を抑える意図があった。この併合された地域はどこか。

B ウマイヤ朝の時代に、イスラム世界は北アフリカを経てイベリア半島まで拡大した。これにともなって、(7)サハラ砂漠を南北に縦断する交易が活発化し、サハラ砂漠の南西縁にはサハラ縦断交易を経済的基盤とする王国が出現した。(8)11世紀にベルベル人が興したイスラム王朝がニジェール川上流域からイベリア半島南部にいたる広大な地域を支配して以降、(9)サハラ南西縁の王国の支配者はイスラム教を受け入れた。(10)ニジェール川大湾曲部に栄えた交易都市では、建築などに独自の様式をもつイスラム文化が発展した。
 15世紀後半以降、西方イスラム世界は大きく変化していく。(11)イベリア半島ではレコンキスタが完了し、イスラム勢力は北アフリカへと後退した。いっぽう、16世紀から18世紀にかけて環大西洋貿易が発展するつれ、(12)西アフリカは南北アメリおよびヨーロッパとの三角貿易に組み込まれていった。(13)西アフリカのギニア湾岸地域には奴隷の輸出を経済的基盤とする王国が出現した。数千万の人口を奴隷として奪われたアフリカの社会は大きな打撃を受けた。
 19世紀はじめに奴隷貿易が廃止された後工業化を経たヨーロッパ諸国は、アフリカを一次産品の供給地および工業製品の市場と見なすようになった。(14)1880年代から第一次世界大戦にいたる間に、ヨーロッパ諸国はアフリカのほぼ全土を植民地や保護国として分割した


 (7) サハラ縦断交易によって、西アフリカからサハラ以北にもたらされた、主たる交易品は何か。
 (8) この王朝の名称を記せ。
 (9) 14世紀に最盛期を迎えた王国の名称を記せ。
 (10) 代表的な交易都市の名称を記せ。
 (11) イベリア半島における最後のイスラム王朝の名称を記せ。
 (12)  (ア) 18世紀に黒人奴隷貿易の中心地となったイングラド北西部の都市の名称を記せ。
 (ィ) 西インド諸島のプラテーションで輸出向けに栽培された、主る商品作物は何か。
 (13) 現在のナイジェリアにあたる地域で、16〜17世紀に、おもポルトガルとの奴隷貿易で栄えた王国名称を記せ。
 (14) (ア)タンジール事件およびアガディール事件において、フランスとドイツとの争い対象なった地域は、どこか。
 (イ) この時期に西アフリカで独立を維持した国の名称記せ。

C (15)経済面ならびに文化面で世界が一体化する動きは20世紀後半以降におおきく進展した。
 まず経済面では、第二次世界大戦後、自由貿易体制の構築を目指す(16)「関税と貿易に関する一般協定」(GATT) などによって一体化の動きが徐々に進んでいった。1980年代になると、(17)社会主義諸国においても市場経済の導入が進んだ。さらに、 1990年前後に東欧社会主義圏および(18)ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連邦)が解体し、ついで(19)GATTを継承した新機関が1995年に設立されると、この世界一体化の動きはますます加速した。
 文化の世界一体化も、第二次世界大戦後、急速に進んだ。(20)科学知識や思想、娯楽などが短時日のうちに人類に共有されるようになった。とりわけ、世界経済の中心の一つであるアメリカ合衆国から発信される生活文化、いわゆる(21)「アメリカ的生活様式」の影響は大きく、大量生産・大量消費に基づくこの生活様式にあこがれる人々は少なくない。このような生活様式が拡大するにつれ地球規模の環境破壊が進行し、(22)環境保全が人類全体の課題と認識されるようになったが、これも、思想の人類共有化の一例である。
 だが、経済の世界一体化は、経済強国に有利に働く一方で、(23)途上国の経済的困難を増すことにもなった。また、文化の世界一体化についても、各国・各民族の文化を衰退させる側面を持っていることがしばしば指摘されるようになった。


 (15) 世界の一体化は、近年の情報技術の革新によってますます深まっている。このような世界の一体化現象は何と呼ばれるか?
 (16) GATTに加え、国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(IBRD)との創設を主導し、第二次世界大戦後の国際経済管理体制の指導権を握ったのはアメリカ合衆国であった。この管理体制は、後者2機関の創設会議が開かれたアメリカ合衆国の地名にちなみ、何と呼ばれるか。
 (17) 中国の市場経済化は、1978年末に開かれた共産党第11期中央委員会第3回全体会議以降始まった新政策の帰結であった。この新政策は何と呼ばれるか?
 (18) 解体の背景には、計画経済の行き詰まりと、膨大な軍事費の重荷があった。軍事費を軽減させるために、ソ連邦は1986年にアメリカ合衆国と核軍縮条約を締結した。この条約名を記せ。(1986→1987のミス)
 (19) この新機関の名称を記せ。
 (20) DNAが二重らせん構造になっていることが1953年に提唱され,2003年には,ヒトのDNA解読計画が世界各国の研究者の協力で完了した。DNA二重らせん構造を提唱した科学者二人の名前を記せ。
 (21) 両世界大戦間期のアメリカ合衆国では、大衆のあいだで、ジャズがひろく楽しまれるようになった。当時のアメリカ合衆国において、ジャズの普及をうながしたメディアをレコードと映画の他に一つ記せ。
 (22) (ア)豊かな生活を将来の世代にも保証するために環境保全に留意しつつ節度ある経済開発に努めるべきだという考え方が、1980年代に広まり、1992年の国連環境開発会議(地球サミット)などを経て人類の共通理念となった。この考え方を要約する用語を記せ。
 (ィ) 地球温暖化防止のため二酸化炭素など温室効果ガスの排出削減を先進工業国に義務づける議定書が、1997年に80数か国の合意を得て採択され、2005年に発効した。この議定書は、これが採択された会議の開催都市にちなみ何と呼ばれるか。
 (23) 経済発展から取り残された地域では、経済混乱から内戦にいたる場合も少なくない。アフリカの一国で、1962年にベルギーから独立し、1990年代前半に大量虐殺と大量難民の発生をともなう内戦が勃発した国の名を記せ。
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コメント 
第1問
 京大は過去問を出さない、ということをたびたび書いていますが、この問題も過去にありません。唐宋比較の問題は過去に出題されたことはあります。しかしその過去問を解いていたらこの問題が解ける、という問題ではありませんでした。1990年の問題はこうでした。

 唐から宋への時代の変化を政治・軍事制度の側面から具体的に300字以内で述べよ。

 これは政治と軍事の制度変化を求めた問題であり、これが解けたら今年の士大夫の土地制度(経済)と学術(文化)は解けることになりますか? どの予備校にも大学対策授業として過去問を説明する講座がありますが、まったく無駄なわけです。それでも毎年、こうした講座が成立するのは、だれも当たってないじゃんと訴える者はいないので無意味な講座が続行されることになります。毎年受験生は変わるので嘘がつづけられます。ある予備校の今年の予想に「2007年度の〔 I 〕は前近代の中国史から出題されただけに、最近の傾向からいけば、2008年度の〔 I 〕はイスラーム史から出題される確率が高いと予想されるが、中国近現代史にも注意したい。」とありましたが当たっていませんでした。
 ただ唐宋変革は論述としてはありきたりの問題であり、拙著『世界史論述練習帳new』の巻末「基本60字」にも、政治12・13(p.4-5)、経済5・7・8(p.11・12)、文化6-8(p.16)と短文の問題があります(カッコ内の数字はページ数)。
 この問題で根本的に分かっていなくてはならない問題文中の用語は「対比」です。これは比較して相違点を表わすこと。「比較」という頭の作業が要ります。拙著でタテに線を引いて左右をメモする、という方法を書いているヤツです。この単純な方法を身につけていないと、唐と宋のことを適当に書けば「対比」したことになるのではないか、と甘い解答をつくることになります。拙著のいちばん最後にこの「比較しなさい」という形式の解き方を説明しているのは、いちばん困難な作業であるからです。比較ができたら論述の方法論は卒業、といっていいものです。このHPの参考書のコーナーで他の参考書の批評をしていますが、そこで見られる弱点は比較の問題であることが分かります。何年も世界史を教えてきてもこの比較ができない教師はいます。その実例がそれらの参考書です。できてない例は模試にもあります。身につけた受験生の方が優れた答案を書いたりします。

 土地制度とはなんでしょうか。土地政策とはどうちがう? 政策は時の国家・政府が施行する土地の分配政策です。制度はこの政策そのものを指すこともありますが、政策がなくても制度は問われます(一橋、1988-3)。この場合は人為的なものでなく自然にできあがった仕組みです。たいてい大土地所有(制度)となります。京大の今年の問題の場合は、唐に土地政策(均田法)があり、宋に土地政策はありませんが制度(形勢戸・佃戸関係、という均田法が崩れてできた、いわば自然にできた制度)はあります。
 
 支配層(士大夫とそれ以前の貴族)にかかわりながら、土地制度について唐宋を対比をするとは、唐の土地政策である均田法と、それが中期(唐末五代)から崩れて宋ではどういう土地制度になったのかをのべて相違点を表わします。
 かんたんには均田法が両税法で崩れたことを書けばよく、もっとつっこめば公有制から私有制に変わった、という土地はだれのものかの根本を書きます。両税法はたんなる租庸調からの課税変化を意味するだけでなく、土地の私有制を公認した法でした(拙著の知識編、中国経済7「租庸調と両税法の原則の違いを述べよ」p.16、右17に解説)。
 しかしこれだけでは、支配層とのかかわりが表れていません。といってもネット内の解答は均田法崩壊を説明しているものばかりで、支配層だった貴族と均田法のかかわりわりについて書いたものはありません。それでは課題の「以前のものと対比しつつ」に応えたことになりません。均田法では、貴族に大土地所有の保証があります。官人永業田=売買自由、職分田=俸給に該当、公廨田(こうかいでん)=公費用などがそうです。すでに魏晉南北朝の時代から大土地所有者である貴族に対して、このように、さらに土地を与えています。隋唐は貴族連合政権ですから当然ともいえます。ところが宋の士大夫は自ら働いて、占城稲も導入し、二期作・二毛作も推進する働き手であった庶民出身の地主です。
 必ずしも大土地所有下の労働者がだれかは土地制度にかんして不可欠ではないのですが、広くとれば書いてもいいでしょう。しかし日本史なら荘園の働き手として奴婢はいいとして中国史の場合はいいか?(あるネット内の解答にあり) これはまちがい。詳細ですが、部曲(ぶきょく)が正しい。部曲は小作人と奴婢のあいだくらいの人たちで、小作料を払えなくなって隷属した荘園の働き手です。貴族の荘園の働き手で、いちばん多いのは小作人(佃戸)で、つぎが部曲、そして奴婢です。奴婢は家内奴隷で畑で耕すものは少なかった。小作人が働き手であることは教科書も書いてます。つまり宋の佃戸と同じです。佃戸という言葉は西晋の時代からあります。
 教科書『詳説世界史』の記述にある魏晉南北朝・唐初期・唐末の順に3つの記述をピックアップしてみます。

大きな荘園をもつ貴族は,多数の隷属民を従え……広大な荘園をもって隷属的な農民に耕作させていた……佃戸へと没落する均田農民もふえた。そして国家の規制力が弱まると、貴族・豪族や有力農民層がこれらの農民をとりこみ、大土地所有にもとづく農業経営(荘園制)を発展させていった。

 ここでいう「隷属民/隷属的な農民」とは奴婢ではなく小作人(佃戸)や部曲です。つまり貴族も佃戸、士大夫も佃戸を使っています。これでは対比にならない。けっきょく大土地所有下の働き手を書く意味がないのです(部曲のことが調べたければ、平凡社百科事典の「賤民」のところが分かりやすい)。このことは専門書を見るともっとハッキリします。「荘園の耕作には多くの部曲・奴婢などの賤民が従事し、また佃戸、佃客、荘客などとよばれる農奴的な小作人が使役され、唐代には(ここからが肝心なところ〜〜中谷の注)生活に苦しんで流亡した農民の多くが荘園にはいって佃戸となり、それがしだいに一般化する傾向にあった。これら佃客は主人から住居として客坊を与えられ、国家に対する税役の義務がなかったが、だいたい収穫の半分を主人に納め、牛、農具、種子などを借りた場合は六割を徴収され、そのほか主人の要求に応じて無償の労務を提供し、王公、貴族、官僚らは、このような荘園の経営によって大きな利益を収め、豪奢な生活を営んだのである」と(山川・世界各国史9『中国史』p.157-8)。

 課題の「士大夫……彼らはいかなる点で新しい存在であったのか」という問いがカヴァーする内容は広いから、「門閥貴族……世襲的特権……科挙に合格して官僚となり」というのは対比的な書き方にはなっていても、科挙を持ちだしたら唐にも科挙があり、それとどうちがうのか説明しなくてはなりませんが、そういうことを説明した解答も見当たりません。「以前のものと対比」という課題を軽く見ているためでしょう。合格した京大生と食事した折に、授業中に教授が、新聞に載っている予備校の解答は40%くらいの出来だね、と馬鹿にしていたと話してくれましたが、さもありなんです。

 さてもうひとつの課題である学術の対比に移ります。学術とはなんでしょうか。学問の言い換えでもありますが、学問にプラス芸術も入れます。あまり「学術」という表現は使わないものですが、京大系の学者が書いた「アジアの歴史と文化」シリーズ3『中国史〜〜近世1』(同朋舎出版)の中の論文「学術思想の新傾向」というのがあります。つづく論文には「宋元の文化」として文学と美術の説明があります。士大夫が課題なので、かれらの文学や芸術に言及することは宋以降の文人の生き方として不可欠でしょう。「学術」とあるのに文学・芸術に言及した解答がネット内のものにないのは解せない状況です。合格した受験生に再現してもらった(再現してもらった当時は合否は不明でしたが)答案には書いてあります(以下)。

士大夫を生み出した土地制度は佃戸制である。唐末五代の均田制崩壊の中成立した。以前の均等配分に近い土地所有が変化し、大土地所有者と従属する小作農民という構図ができあがった。のちに彼らは、南宋の朱熹が創始した朱子学を学び、科挙に合格することで中央政権への発言権を増していった。以前の貴族中心の政治運営とは異なっている。占城稲の導入などで江南開発を促進、一部では手工業を発達させ、経済発展の原動力となった。華北中心、農業主体の以前とは変化が見られる。文化面においても、文人画や陶磁器など国粋的な文化の担手に彼らはなった。唐代の貴族的かつ国際的な文化のあり方から大きな変化があり、士大夫は新しい存在だった。

 学問だけであれば、訓詁学と宋学(朱子学)でいいのですが、「以前のものと対比」ということであれば、あるネット内解答のように、訓詁学と宋学という用語を並べただけで対比したつもりでいるのは呆れた解答です。日本の都市を対比しなさい、と問われて東京と大阪の名前をあげただけで対比したことになりますか? 「対比しつつ」とは用語の羅列では済みません。内容のちがいに入らないと対比という思考をしたことになりません。
 それより訓詁学を貴族はホントに学んだのでしょうか? 『五経正義』を編集していますが、これは科挙の教科書であり、科挙を受験するのは下級貴族か地主・豪商の子弟です。支配層になったいわゆる「門閥貴族」は科挙抜きの無試験(恩蔭/任子)コースで士官できますから、訓詁学は学ぶ必要がありません。かれらが入れ込んだのは道教であり仏教であり、文学では詩でした。下級貴族とて科挙の受験科目は、秀才科(策論=政治論議)・明経科(経書暗記力)、進士科(詩賦=古体の韻文)の3科目でしたが、ほとんどの受験生が挑んだのは進士科という詩文を課す試験であり、訓詁学にあたる明経科ではないのです。たとえ科挙で合格しても唐代には二次の吏部試があり、この二次で合格しないと士官はできません。この吏部試は身言書判といって貴族風の身振り、言葉の上品さ、美しい書体、法の判断を見るもので、それも試験官は門閥貴族です。つまり訓詁学のような学問はほとんど要らなかった。唐末に「韓愈が提唱した古文運動そして儒教への復活主義は、見方を変えれば、反貴族主義」という卓抜な見方さえあります(気賀澤保規著『絢爛たる世界帝国・隋唐時代』中国の歴史6、講談社)。韓愈・柳宗元の二人が儒学復興運動をしたことは儒学がいかに尊ばれなかったかの証明でもあります。
 完全なまちがいではないとしても、支配層貴族が訓詁学を学ばなかったのであれば、ますます「学術」は学問より芸術・文化の方に比重をおくほうが正しい対比対象になります。内藤湖南が論文「近代支那の文化生活」で「古代より近代ほど官吏の作つた詩文集が非常に多い。漢の時代に名宦であつた人に詩文集などは殆んどないのでありますが、宋以後の人で苟くも有名な官吏をして居つた人に詩文集のない人は少ない。」(『内藤湖南全集 第八卷』筑摩書房)というくらい「詩文」が盛んでした。

 タテ線を引いて左右を埋めてみましょう。こんなに多くは要りませんが。文学・美術も入れてみます。
唐貴族)       (宋士大夫
訓詁学         宋学・歴史学
五経正義(五経重視)  四書(四書集注、四書重視)
道教の影響       仏教、とくに禅宗の影響
字句の解釈       思弁的傾向──注1
詩           詞
駢文(四六駢儷体/美文) 古文(唐宋八大家)──注2
書           画(文人画・山水画)・飲茶と陶磁器
写本による書物の伝播  版木(印刷)による流布
唐三彩・漆器      白磁・青磁
仏教彫刻・人物画    水墨山水画──注3
(文化全般)国際的   国粋的(征服王朝の圧力と愛国心/華夷の別を強調)

注1 「思弁的」という理由は、天道(宇宙の原理)や性(人間の本性)という唐までの儒学が対象にしないものを扱い政治・史学・人生観などをつつむ思想になったこと。唐までは、科挙を受ける受験生だけの学問であった儒学が、宋では比重はもっと大きくなり、宋学は宇宙・自然の見方とも通じる世界観であり、政治学であり、生きた方を示す倫理でもありました。皇帝独裁体制の支配の原理として「理」をもちだし、理の配分は中華皇帝→官僚→漢人→周辺民→動物→植物と少なくなっていく、と。これは文明の度合の序列でもある、と。
注2 吉川幸次郎は、韓愈・柳宗元が復興運動をしても主流とはならなかった唐代に対して、宋になり欧陽脩らが古文を主流にしたてることをこう述べています。「唐の散文は……韓愈らが[古文]の名で、自由文体による随想と伝記の文学を創始したのが、詩の洪水の中に孤立してある。しかしこの[古文]の文学も、唐末には継承されず、一時中絶していたのを、継承し普遍にしたのは、宋の文学者たちである」と『宋詩概説』(岩波文庫)にあります。 
注3 鑑賞者にとどまらず製作者として芸術活動に参加するのが宋代士大夫の生き方でした。学問をおさめるだけでなく、琴棋書画(きんきしょが、音楽、囲碁、書道、絵画)をたしなむのが士大夫として当り前のことでした。

第2問
A 外字の多い詳細な人名の出てくる私大の問題のようです。昔(センター試験以前)は京大の問題文といえば、それだけで歴史の新しい見方を示したり、平易な語句でありながら格調の高い文章でしたが、今はペダンティック(一般のひとが知らない学問や知識を異様にひけらかす)な劣化したとしかいいようのないものです。出題者が変わったようです。 
 空欄・下線は出た順で説明します。
空欄 a 前に書いてある「3世紀末(前209、陳勝呉広の乱と同年)」と後の東胡征服がヒントです。この後に書いてある「シラ=ムレン河流域」は、過去の京大にもよく出されています。地図で確かめるといいでしょう。遼河の上流です。 

下線部(1) 「4世紀はじめ(290/300〜306年ですから、まちがいとはいえません)」の「内乱」で西晋が東晋になる内乱は、西晋が封王の制という封建制をしいたことから8人の王たちがおこしたものです。

下線部(2) 313年(ミラノ勅令)という年がヒントであり、設問文「朝鮮半島支配の拠点」も。楽しい浪人という字を書きます。 

空欄 b 「315年に代王」がヒントにならならなくても、下のもうひとつの空欄bの後の「珪(ケイ)(道武帝)が代国を再建し、……国号を魏と改めた(北魏)」とヒント出すぎです。ただ「跋」が正しい漢字で書けるかどうか。足偏の横は点付きの友でなく、犬に斜めの刃で斬り殺すかたちです。

下線部(3) 下線部の文章出羽から無くても設問文で分かります。「亀茲国(今日のクチャ)……長安で大乗仏教の漢訳」とあるので「三論宗の祖」どころか東アジア仏教の祖ともいいたい坊さんです。亀茲は、もっと前に訪中した仏図澄の出身地でもありました。

下線部(4) 東晋の詩人(365頃〜427)で「六朝第一の自然詩人・隠逸詩人」、教科書では田園詩人と書いたものが多いひとです。次の王朝である宋の謝霊運(385〜433)とまちがわないように。東晋という文化人の多い王朝です。詩の異様さは『陶淵明』(中公新書)という面白い伝記で読めます。

空欄 c 大同市の近くにかつて白登山の戦い(前200年、冒頓単于と劉邦)があったところであり、近くに雲崗石窟寺院があります。

下線部(5) (ア)太武帝は廃仏(仏教弾圧)の最初に登場する皇帝です。かれの下で使えた坊さん(道教の場合は道士といいます)の名前です。このひとによって道教教団もできたとされる人物です。
 (イ)北魏が南下した後をまとめた民族名です。北アジア(モンゴル高原)史の順は、匈奴→鮮卑→柔然で基本です(拙著『センター世界史B各駅停車』p.33の表)。

空欄 d これは少し細かいが、推理はかんたん。北魏が分裂して西魏と東魏になり、西魏から北周に代わり、ここから隋という統一王朝が登場する、いっぽうの東魏は「北○」に代わった、この字は何?

下線部(6) 6つ置いた周辺民族統治機関の名前。

空欄 e 「9世紀半ば」がヒント。この時期にキルギスに追い出されて「西走」といわれる。いっぱんに840(はしれ)年説をとり、これがトルコ人大移動の発端となり中央アジア・西アジアにトルコ人時代がおきてきます。中国内の身近なところにいるのは新疆の自治区を構成しています。  

空欄 f 916、926、936年と10年おきに建国、渤海征服、中国領獲得と出てくる契丹(遼)の歴史の始まりです。ここは建国者のところ。916年(語呂は「アホは黄9色16い」『世界史年代ワンフレーズnew』から)のアホ建国者は漢字が正しく書けるかどうか。アホはもちろん阿呆のことでなく、「阿保機」です。これはアブーチ(掠奪者)という遊牧民としては尊称です。

下線部(7) 渤海の建国者も漢字が正しく書けるか? 「祚」という字は示す偏でも「ね偏」でもいい。

空欄 g 燕雲十六州を契丹(遼)に割譲する理由となったのは後晋をつくる際に、前王朝を倒す援軍を契丹に頼んだからでした。この前王朝は何かという問いです。五代十国の五代の王朝(後梁後唐後晉後漢後周)は覚えましょう(後「こう」と呼んで、後を省き、「梁・唐・晉・漢・周」と)。
B
空欄 h フランス人という意味のイタリア風に呼んだ人名です。父が呉服商でシャンパーニュに行き見そめたフランス人女性とのあいだにできのがこの子です。この両親の家を出て托鉢修道会をつくります。

空欄 i 同じ修道会なので、ここはカルピニかルブルクかは迷うところですが、下の文章に「フランス国王の命令を受けた」とあるので、ルブルク(ルブルク/ウィリアム=ルブルク/ギョーム=ド=ルブルク/リュブリュキ)と決まります。決まらない? カルピニを派遣したのは教皇インノケンティウス4世でグユク-ハーンに会いますが、ルブルクを派遣したルイ9世(位1226〜70)はモンケ=ハーンに会います。どれか一方をしっかり覚えておくといいのです。ルイ9世の「ル」、ルブルクの「ル」をとって、「ルンルンモーケ」と(『センター世界史B各駅停車』p.43、モンケ=ハーンはセンター試験では細かいので、拙著には載せていませんが、ここではこう覚えましょう)。

空欄 j この国王は十字軍の第6回、第7回の指揮者です。どこの君主もパレスティナに行かなくなったのに行くと決意したこ国王を教皇は聖人としました。サン=ルイ(聖人ルイ)ともいい、パリの発祥地シテ島のとなりの島ににもサン=ルイ島と名づけられています。ブッシュが小泉の自衛隊派遣を歓迎してこの小泉を米国で歓待したすがたは放映されていました。どちらも手前勝手な派兵であったという類似現象で、少数派で慰めあっています。

下線部(8) 十字軍がエジプトに? と疑問におもったひとは勉強のし直しです。十字軍が初めに戦うのはセルジュク朝ですが、その後はカイロの3王朝(ファーティマ朝・アイユーブ朝・マムルーク朝)と戦います。というのはこれらの3王朝はエジプトだけの支配者でなくパレスティナももっていたからです。歴史地図をご覧あれ。アイユーブ朝かマムルーク朝かは、年代がヒントです。モンゴルの世紀は13世紀、この時期の王朝交代とあればマムルーク朝です(マルーク、一1つ2小5丸0、この語呂も『世界史年代ワンフレーズnew』から)。

下線部(9) (ア)「1253年」ということは、第4回十字軍がここにラテン帝国(1204-61)を築いてジェノヴァとともに帰還してくるニケーア帝国(ビザンツ帝国)は1261年なので、この間はラテン帝国の支配でした。わたしはこの帝国が発行したコインを持ってます。変に中がくぼんだ独特の貨幣です。
(イ)ユスティニアヌス再建という寺です。かつては立っていなかった塔がいまはイスラーム教徒の支配下にあるので付け加えられました。

空欄k 「支配者」を人物ととればバトゥ(バツ/抜都)ですが、国ととればキプチャク=ハン国です。どちらでも可能でしょう。ただこの下にも2回空欄kがあり、どうも人物名の方がいいようです。

下線部(10) 駅伝制のモンゴル語名ということで、站赤と漢字で書く字のカタカナです。今年の東大ではこの駅を通るパスポート(公用で旅行する者が携帯した証明書)である牌符(はいふ)も問われました(第3問・問6)。

空欄 l ルブルクが会った「大ハーン」は誰か、という問いです。京大は中国史でもセンター試験レベルの基本的なことを問うてきたのですが、次第に細かくなってきています。

空欄m 首都とあるので、オゴタイ=ハンが造ったモンゴル帝国の都です。漢字で和林と書いてもいいのですが。

下線部(11) 「不本意ながら協力しなければならなかった」異端とされていたキリスト教の一派は何か、という問題です。西欧で異端となったのはアリウス派・ネストリウス派・単性論派などですが、東方に来ているのはネストリウス派です。モンゴルの宮廷にネストリウス派の信徒がいました。トゥルイ家がそうです。ハイドゥの反乱のときに協力したナヤン家もネストリウス派でした。また大都からラッバン=ソーマというローマ教皇に会いに行った僧侶もネストリウス派でした。(ア)この中国名という問い。京大の百万遍の南にある総合博物館には、長安の大秦寺(教会)に建てた石碑・大秦景教流行中国碑のレプリカがあり黒い石が立ってます。わたしは長安の拓本をもってます。(イ)公会議は431年(『世界史年代ワンフレーズ』の語呂「Fフォア3+1」)です。Fに似た名前の都市で開かれました。現在のトルコ西部・小アジアの海岸にあります。パウロはここからコリントの信徒にたいして手紙を書いています(『新約聖書』コリント人への手紙)。

下線部(12) 840年から始まった移動がここまで到達しています。空欄eの民族運動です。わたしがもっている現トルコの教科書の1ページ目に、われわれトルコ人の起源は552年である、と突厥建国の年を記しています。

下線部(13) これはできなくてもいい問題です。「コンヤ」は山川の用語集では頻度3のデータです。答えのルーム=セルジュク朝(1077〜1308)は頻度が4です。コンヤを主な私大の問題で調べてみましたが、最近約20年間で出題した大学は皆無でした。法政の経済学部(1997年度)で文章の中に1回出てくる程度でした。これはセルジューク朝が細分化したもののひとつで、問題文の戦い(1071)の後にさらに西に進出しニケーア(325年ニケーア公会議を開催)に都して建国しました。これが十字軍遠征を呼び起こすことになり、十字軍に押され都をコンヤに移したものです。モンゴルの侵攻で衰えたことから、仕えていた部族長オスマンが新たに台頭します。「ルーム」とはローマ領(東ローマ帝国/ビザンツ帝国)の地であることを示しています。ルーマニアという国もこの名を冠しています。
 こういう問題を出して、悦に入っている出題者に以下のような問題を出しておきましょう。
 ヤッシーを都にした国は? カイルワーンを都にした国は? シシアを都にした国は? デヴァギリを都にした国は?
 ちょっと狂ってきました。

空欄 n これは変な問題とおもった受験生もいるでしょう。イェルサレム王国はサラディンに奪われた(1187)のですが、アッコン(現アクレ)に逃れて仮のイェルサレム王国が存在したのです。ホントのイェルサレムにいずれは帰ると。南宋の都・杭州(臨安)を行在(キンザイ)と呼び、仮の都という意味で呼んだのと似ています。マルコ=ポーロが来たときもキンザイという表現で出てきます。けっきょく帰れなかった運命も似ています。

第3問
 これは時代と内容の似た問題が過去にありました(1989)。こうです。
  
 パルテノンは紀元前447年から432年にかけて造営され、今日までアテネの繁栄の記念物として残っている。その造営の当時、アテネの政治や経済は、どのような状況にあったか。100字以内で説明せよ。

 この問題を解いていたら今年の問題が解ける……、というのは甘い見方です。この問題は前5世紀の後半だけを問うていること、経済も含むこと(これは難問)、100字の短文であることが今年の問題とちがっています。
 とくにちがうのは余りに短くて素通りしそうな文字に「独自の」ということばがくっついていて、民主政という政治だけの発展とあり方を問うています。答案を見るとき、独自性をどれだけ指摘できているか検討するといいでしょう。「独自の」ということはアテネだけの、広くとればギリシアだけの、という他の時代や国の民主政と「比較」した視点が必要だということです。ネット内の解答をご覧あれ。まるで教科書の本文をそのまま写しただけで、独自性を出しているものがどれだけあるか……、実に貧しい解答であることが判明します。合格した受験生の再現答案と比較するとより鮮明です。

紀元前6世紀末には民会が政治的決定を行う直接民主制が確立、クレイステネスの改革で五百人評議会や陶片追放など民主政徹底政策がとられた。しかし参政権は武装自弁可能な有産市民のみにかぎられていた。紀元前500年アケメネス朝との間にペルシア戦争が勃発、サラミスの海戦でアテネは大勝したがその戦艦のこぎ手が無産市民であったため彼らの参政要求が強まった。その後アテネはペリクレス時代と呼ばれる民主政の黄金時代を迎える。民会には無産市民を含めた男性市民が参加した。しかしペロポネソス戦争後デロス同盟の盟主「アテネ帝国」として暴走し、デマゴーゴスによる衆愚政治の常態化によりアテネの民主政は混乱、衰退した。

ネット内の答案を模範にしたら危ないですよ。
 時間は、「紀元前6世紀末からの約1世紀間」です。テーマは「独自の民主政を築き発展させ、さらにその混乱をも経験した。このアテネ民主政の歴史的展開についてその要点を」というもの。指定語句が二つ「民会 衆愚政治」です。
 時間的にはクレイステネスとその姪を母とするペリクレスの時代という時間です。クレイステネスで民主政の基礎ができ、それがペルシア戦争に勝利したアテネは最盛期にはいり、それが「混乱」という面ももっていたことを示す、という一見やさしい問題でした。時間的に「6世紀末」がクレイステネス(前508の陶片追放、『世界史年代ワンフレーズ』なら、陶片に木5の0葉8)を指すことが分からなかった受験生もいたようてす。年代を覚えなさいよ。これは基本的な年代ですから。
 クレイステネスについては二つの事業をあげなくてはならないでしょう。部族制改革と陶片追放です。前者はアテネを構成しているイオニア人の4部族のボスたちがそれぞれ100人ずつ代表をだす400人評議会であったものを、貧富差(都市部・内陸部・海岸部)も考慮して全アッティカを150区に分け、これをまとめて10区(10部族と呼んだ)に編制替えしたものです。10区から1人の将軍、50人ずつの代表をあつめて500人評議会を構成する、という大胆な改革でした。このクレイステネスの改革をあるネット内の解答では「貴族の勢力を抑え民主政の基礎を確立」(T)と説明していますが、ここで貴族をもちだしてきてはいけません。100年ほど前のソロンの改革で貴族・平民の区別はなくなり財産による4階級に変わっているのですから。
 この改革で民主政治の基礎ができたといっても、欠点がありました。それはソロンの改革のときにできた4階級のすべてに被選挙権があったのではないことです。これはペルシア戦争の漕手の活躍で解決します。
 しかしペルシア戦争(前500〜前479)の後にいきなりペリクレスの時代(前443〜前429)が来るのではありません。その前にエフィアルテスの改革(前462)があります。アテネの元老院(長老会)にあたるアレオパゴス会議の権限を縮小し、民衆裁判所(民衆法廷)の設置や民会に全権を握らせたことです。この改革のためにエフィアルテスは暗殺されます。さらにアルコン職を農民級(第三の階級)にも開放するという改革(前457)があり、ペリクレスの提案でできた市民権法(前451)は両親ともに市民出身者に市民権を限定(外人との結婚を事実上禁止)するという閉鎖的市民権を確立します。この閉鎖性も「独自」性のひとつですが指摘した解答は見たことがありません。
 用語集でデロス同盟は、「前478年頃結成。ベルシアの再攻にそなえ,アテネを中心に結成された軍事同盟。最盛期にはエーゲ海周辺の約200のポリスが加盟したといわれる。本部はデロス島におかれた。加盟ポリスには,艦船・兵員か軍資金を提供する義務が課せられた。前454年以降は同盟の金庫がアテネに移され,アテネが他のポリスを支配する「アテネ帝国」に変質していった。」
 とけっこう詳しく説明していますが、この中に書いてある「アテネ帝国」について言及した答案もネット内のでは見たことがありません。受験生の再現答案には書いてあります。教科書・三省堂のには「アテネは盟主の立場を利用して、加盟国に対する支配を強化し、同盟の資金を流用して国力を高めた」、山川の『新世界史』には「事実上のアテネ帝国をつくり」と書いてあります。つまりこの民主政はきわめて侵略的で横暴な面を最盛期にもっており、それが市民の支持を受けて実施されており、それを推進した人物がペリクレスです。ペリクレスが再建したパルテノン神殿の費用も同盟金庫から出ていることは名高いところです。
 なにもペリクレスが死んでから衆愚政治に陥るのではなく、もともと衆愚政治に陥りやすい傾向を内包していています。代議制ではなく直接民主政治である、ということは専門的な法の知識をもっているものがなく、官僚制の未発達という点からは行政の専門家もいない素人の集まりであり、弁論の力でどうにでもなるとおもっているソフィストの活躍期でもあります。戦争による略奪の欲望が支持を受けます。民主政最盛期とはそういう大衆の愚劣さが如実に出てくる可能性をもった時代です。
 ペリクレスをトゥキディデスは高く評価していますが、ペロポネソス戦争の末期に参戦し、その後の混乱の中で師のソクラテスを処刑され、亡命を余儀なくされたプラトンからすれば、アテネを混乱にまきこんだペリクレスは大衆迎合の政治家でした。ペリクレスは、「(アテネの人間を)、より粗暴な性質のものにした……、より不正で、より劣悪な人間にした……政治家としては有能ではなかった」とカルリクレスとの討論の中でソクラテスの口を借りて表明しています(プラトン著『ゴルギアス』岩波文庫p.247)。
 ペロポネソス戦争をはじめたのもペリクレスです。最近出版された『戦略の形成』(中央公論社、ウィリアム・マーレー/マクレガー・ノックス/アルヴィン・バーンスタイン共著、p.82)でも、ペロポネソス戦争について「ペリクレスの戦略はその出発点から失敗を運命づけられており、疫病の流行が始まる以前から既に破綻をきたしていた」と分析しています。
 ネット内の解答ではペリクレスが死んでから衆愚政治に陥った、とばかり書いていますが、この衆愚政治はペリクレスの時代そのものでもあります。それが「独自の民主政」ということです。たとえペリクレスを評価したとしても一人の将軍の死で崩れる民主政とは何なのか? 戦況のまだ良かったときに病死したためペリクレスを誉めたたえていますが、もし敗戦まで生きていたら同じ評価が下されるか怪しいものです。ヒトラーも戦争の初期に病死していたら、ヒトラーさえ生きていたら第三帝国の繁栄はつづいたのに、という評価があるかもしれません。ヴァイマール民主政の危うさは、アテネ民主政でも言えそうです。 
 さて今年の問題は拙著『世界史論述練習帳new』巻末「基本60字」の問題「市民権・民会・民衆裁判所・官吏の選び方などから、古代ギリシアの民主政治は近代民主政治に比べてどのような特色と限界をもっていたか説明せよ。(指定語句→法前平等・衆愚政治)」(p.40、右頁に解答解説)を解いていたら容易だったでしょう。独自性は近代と比較して明らかになります。

第4問
A 
(1)(ア)「宗教上の対立にもとづく戦争……1648年」とあるので三十年戦争の条約であることが判明します。ここにいたるまでの戦争を助長したのは何かと問うた問題が東大にあります(2006年第1問)。(イ)すでに独立している国二つ、スイス(バーゼルの和約、1499)とオランダ(ネーデルラント連邦共和国、1609)のうちどれかひとつを書けばいい。オランダは1609年の休戦で事実上の独立をしているのですが、三十年戦争とともにスペインとの戦闘が再開しました。

(2) 三十年戦争の年代(年号)は、「三十年もと1ろ6い1や8」(『世界史年代ワンフレーズ』の語呂)でかんたんでした。

(3) (ア)アウグスブルク和議と名前は出していないが、この和議の内容です。個人の信仰の自由はなく、カルヴァン派は他も認めずルター派かカトリック(旧教)の二つだけしか認めない、という内容です。領主の信仰が領域を支配する、という領邦教会のはじまりでした。都市では都市の市参事会(親方の集まり)が決定しました。
(イ)それが1648年に認められたのはカルヴァン(カルバン/カルビン)派でした(第28条)。ただし個人の信仰の自由(寛容)はまだでした。ドイツで個人の信仰の自由を認めるのは寛容令(1781)まで待たねばなりません(史料2)。

(4)(ア)共同統治者であった母マリア=テレジア(位1740〜80)と子ヨーゼフ2世(位1765〜90)とは時期が重なります。どちらでもいいとは言えますが、改革で熱心だったのは息子の方です。母親がなくなった1781年にこの寛容令を出しています。この史料集の解説によれば、商工業者としてすぐれていた非カトリック教徒(カルヴァン派・ユダヤ教徒)を利用したくてこの勅令を出したのだと実利目的を説明しています。
(イ)ポーランド分割ということば知らない受験生はいないでしょう。年代的には「1772年」,93年,95年(『ワンフレーズ』語呂は、夏72草93球9根5)ですから、これは母子ともに関係しています。

(5) 「1829年に成立した法律」は以前の法を否定したもの。それは「1673年の法律」で何かと問うています。中国では三藩の乱の開始の年でもありました。

(6) 今もカトリックの西隣の島国です。クロムウェル征服で名高い島です。イギリスとアイルランドの関係史はまだ京大は出していませんが、いずれ出るでしょう。

B イベリア半島との関係なので西欧史の分野に入っていますが、どちらかといえば問題の全体は第2問に移してもいいものです。
(7) 「縦断」貿易のことを商品の名前から塩金貿易といいます。以北に行った南のサハラでとれるものは黄金です。南下する商品の塩はモロッコの岩塩です。教科書でも「黄金の国」マリ王国という表現で出てきます(詳説世界史)。拙著『センター世界史B各駅停車』(パレード)では「14世紀にはこの国の王が300ポンドの金塊を100頭のラクダ一頭ごとに積み、さらに500人の奴隷にそれぞれ6ポンドずつの金ののべ棒をもたせてカイロ、そしてメッカへと向かい、その道すがら湯水のごとく金をつかい喜捨をしていきます。この金の行列のため、カイロでは金の価格が暴落しその相場の動揺は12年間もつづいたそうです。」(p.172-173)と書いています。この国の王はマンサ・ムーサ(カンカン・ムーサ、位1312-37)といいます。私大ではよく出てきます。早稲田・社会学部(2002)と関学のA日程(2008)の問題に、「マリ王国最盛期に,メッカに巡礼し大量の金を奉納したことで知られる王はだれか選べ」というのがあり、マンサ=ムーサを選ばせています。

(8) 「11世紀にベルベル人」でムラービト朝と分かります。語呂(『ワンフレーズ』)は「村人、十10五5郎6」です。ムワッヒド朝は、「むわっ酷(ひど)、ひ1ど1さ3○0」で12世紀です。

(9) 上でもう説明してしまいました。ニジェール川上流の国は3つ、ガーナ(8世紀)→マリ(12世紀)→ソンガイ(15世紀)という順は前掲書でも覚えるべきこととしています(p.173)。

(10) トンブクトゥでは機織りマニュファクチュアや多くのモスクやマドラサ(学校)が存在しました。この都市はセンター試験にも出ています(03追)、

遊牧民の宿営地であったトンブクトゥは、[ ? ]王国やソンガイ王国の時代には、岩塩と金との交易で繁栄を極めた。ここにはイスラム諸学の学者が招かれ、宗教・学芸都市としてもその名は広く知られた。

 という風に。

(11) アルハンブラ宮殿をつくった王朝です。半島のイスラーム王朝の覚え方は、ウマイヤ朝→後ウマイヤ朝→ムラービト朝→ムワッヒド朝→ナスル朝です(「うう、むむ何するん?(『各駅停車』p.150)。

(12) (ア)産業革命のときには資金と綿花を運ぶ港町です。マンチェスターが背後に控えています。ビートルズ生誕地です(前掲書p.365)。設問のように奴隷貿易の港として学ぶかどうか。用語集では「奴隷貿易で飛躍的に発展し始め……」とあります。
(イ)砂糖プランテーションのサトウキビ、タバコ・プランテーションのタバコ、綿花プランテーションの綿花のどれでもいいでしょう。(ア)リヴァプールとの関係でいえば産業革命のとき最初に綿花という原料を提供したのはジャマイカの綿花でした。インドでも合衆国でもなく。

(13) 用語集頻度4の詳細なデータです。山川の教科書にはこのベニン王国そのものの記述がなく、三省堂・帝国書院・東京書籍のものにはありました。ヨルバ人(族/王国/王朝)もナイジェリアですから答えになります。キューバの黒人はこのヨルバから売られてきたひとたちです。奴隷貿易のアフリカ諸王国を載せた教科書の地図は見つかりませんが、以下にはあります。
http://www.unesco.org/culture/dialogue/slave/images/Apdf.PDF

(14) (ア)2つの事件は港町の名前です。スペインやポルトガルの南にあり、北アフリカ西部の国です。ドイツ帝国のヴィルヘルム2世が徴発しにきたところです。スペインはこの国の北端セウタを今も領有しています。
 (イ)アフリカで独立を維持できたのはリベリアとエチオピアの2国だけでしたから、答えは前者になります。このリベリア(自由の国)の中身は合衆国の一州のようです。その理由は拙著『各駅停車』p.173に書いてあります。

C
 出題者が替わったためか異様な問題も出題されました。また50年前から今日までは歴史ではない、ジャーナリズムにすぎない、という通念もやぶった現代常識テストみたいなものになりました。世界史の問題でなくてもいいものばかりです。

(15) これは世界史の問題なのでしょうか? もちろん教科書にも載っている用語ではありますが、とくに世界史の問題として問わなくてもいいものです。

(16) 国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(IBRD)の創設会議による体制は何か、という問題です。世界の45か国が集まって戦後の世界経済の復興について会議が開かれました。第二次世界大戦の原因は世界恐慌にあり、それを放置するとまた戦争が起きる、という反省からできた体制です。1オンス35ドルの固定価格で金につながる「準金本位制」をつくります。しかし海外派兵と戦争のやりすぎでドルの国際的信用が低下し,ニクソンのときにこの関係を止めにして体制は崩壊します(ニクソン・ショック/ドル・ショック、1972)。アメリカ経済の不安定さは今も続いています。

(17) 「1978年」は日中平和友好条約がこの年の8月に結ばれています(語呂、日中平和、ぼ1く9ナン7パ8[『ワンフレーズnew』から])。「新政策」が「中国の市場経済化」を促すものとすれば「四つの……」という政策です。近代化といわないところが中国独特の表現です。これは近代化は中国にとってアヘン戦争以降の半植民地化の過程=近代と一致していて、良いイメージにはならないから使いません。解答は「改革開放(政策)[用語集では頻度1]」でもいいのですが、具体的にはこの「四つの……」でもいいのです。

(18) 1986年の米ソ間核軍縮条約は何かという問題で、この年代1986年がまちがっていて、翌年の1987年でした。これはわたしがミスしてきた経験からすれば、単なるミスではなく、出題者自身がよく知らないことを問うときに起きる現象です(語呂は「中距離、一1区9離87れよ」[『世界史年代ワンフレーズnew』]から。この語呂本を出題者にささげたい。解答なし、とした予備校もありました。それでもいいでしょう。

(19) 「GATTを継承した新機関が1995年」の名前。頻度6。

(20) 頻度0。できなくていい問題です。「1953年……DNA二重らせん構造を提唱した科学者二人」はケンブリッジ大学にいたイギリス人フランシス=クリックとアメリカ人ジェームズ=ワトソンという若い研究者で、居酒屋イーグルで「生命の秘密」ほ発見したと報告しあったのが最初。しかし、このDNAは、スイス人フリードリヒ=ミーシャーが白血球からかDNAを分離することにすでに成功していた(1869)ものの、このDNAの重要性は認知されていなかったためで、再発見されたのです。ミーシャーはDNAといわずヌクレインと呼んでいました。

(21) ヒトラーもつかった宣伝用具です。1906年に実験に成功。1920年米国で放送が開始され,同年の大統領選の開票速報がきっかけで急激な普及を見た……というのが常識的な説明です。

(22) (ア)「将来の世代にも保証するために環境保全に留意しつつ節度ある経済開発」という考えをどういうか。東京書籍(旧版の教科書)の注に「リオ宣言では,環境をそこなうことなく開発をすすめることが持続的な発展につながるという「持続可能な開発」という考え方が,理念として示された。」とあるくらいが唯一の記述です。用語集頻度0。

 (イ) 「地球温暖化防止会議」の開催都市にちなみ何と呼ばれるか。○○議定書というやつ。『不都合な真実』を書いたゴア副大統領(当時)もこの町に来て演説をしていきました。頻度4。

(23) 映画『ホテル・ルワンダ』でも知られた内戦です。この紛争でツチ族への憎しみをあおるラジオ放送を流したことが、一般のフツ族までもが虐殺に走ることになったそうです。

 解答の不出来を見て出題者は常識がない、と嘆いたことでしょう。さて、どちらに常識がないのか?
………………………………………
解答例
第1問
  (君の解答)。
第2問
A a 冒頓単于 b拓跋 c平城 d北斉 b ウイグル f耶律阿保機 g後唐
(1)ハ王の乱 (2)楽浪郡 (3)鳩摩羅什 (4)陶淵明(陶潜) (5)(ア)寇謙之 (イ)柔然 (6)都護府 (7)大祚栄
B
hフランチェスコ lルブルック Jルイ9世 kバトゥ lモンケ mカラコルム nイェルサレム王国
(8)マムルーク朝 (9)(ア)ラテン帝国(イ)聖ソフィア大聖堂(ハギア・ソフィア聖堂) (10)ジャムチ (11)(ア)景教 (イ)エフェソス公会議 (12)トルコ人 (13) ルーム=セルジューク朝 
第3問
  (君の解答)
第4問
A (l) (ア)ウェストフアリア条約(イ)スイス(オランダ)  (2) 1618 年
(3) (ア)諸侯にカトリック・ルタ一派いずれかの宗派を選択する権利を与えたが,個人の信仰の自由は認めなかった。(イ)カルヴァン派 (4) (ア)ヨーゼフ2世 (イ)ポーランド (5) 審査法(審査律)  (6) アイルランド
B (7)金 (8) ムラービト朝 (9) マリ王国 (10)トンブクトゥ (11)ナスル朝 (12) (ア) リヴァプール (イ)砂糖(サトウキビ)/タバコ/綿花 (13)ベニン王国/ヨルバ王国(朝) (14) (ア)モロッコ (イ)リベリア
C (ア)グローパル化 (16)ブレトン=ウッズ体制 (17) 四つの現代化(改革開放政策)(18)中距離核戦略兵器(INF)全廃条約 (19) 世界貿易機関(WTO)  (20) クリック、ワトソン (20) ラジオ (22) (ア)持続可能な開発(発展)  (イ)京都議定書 (23) ルワンダ

京大世界史2007

第1問(20点)

 中国の歴代王朝は北方民族の勢力に悩まされ続けてきた。自らの軍事力のみでは北方民族に対抗できなかったので、さまざまな懐柔策や外交政策を用いて関係の安定を図ってきた。歴代の王朝が用いた懐柔策や外交政策について、紀元前2世紀から16世紀に至るまで、できるだけ多くの事例を挙げて300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問(30点)
 次の文章(A、B)の[  ]の中に適切な語句を入れ、下線部(1)〜(14)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

 トルコ民族は(1)北アジアの騎馬遊牧民として台頭して以来、ユーラシアの草原地帯やオアシス地帯で広範に活動し、特に言語面で、その地の住民をトルコ化した。古くはインド=ヨーロッパ語族が居住した中央アジアは、やがてトルキスタン、すなわち「トルコ人の居住地」と呼ばれるようになる。  
 トルコ民族はモンゴル高原北部に興り、その一集団、突厥が6世紀中ごろ北アジアと中央アジアをあわせた大遊牧国家を建設し、8世紀半ばにはウイグルがモンゴル高原に王国を建設した、(2)ウイグルは都城を築き、文化面でも繁栄したが、9世紀に同じトルコ系の[ a ]に圧迫され、その一部は中央アジア東部(東トルキスタン)へと移動した。一方、中央アジア西部(西トルキスタン)では、9世紀末にイラン系イスラム王朝のサーマーン朝が成立した。 10世紀末にトルコ系イスラム王朝の[ b ]朝がサーマーン朝を滅ぼすと、この王朝のもとで、中央アジアのトルコ人たちのイスラム化が進展した。
 11世紀前半に西トルキスタンからイランに進出したトルコ系の[ c  ]朝は、さらに西進して1055年バグダードに入城し、(3)その君主はアッバース朝カリフからスルタンの称号を授けられ、イスラム世界に大きな影響力をもつようになった。これに加えて、9世紀にアッバース朝のもとで始まったマムルーク(奴隷軍人)の制度が、トルコ民族のイスラム世界への進出を促進した。この制度は、異教の世界から奴隷を購入して軍事力の中心とするというもので、トルコ人マムルークはときに有力となり、王朝を創始することもあった。例えば、サーマーン朝のマムルークがガズナ朝を興し、[ d ]朝のマムルーク軍がマムルーク朝を興した。
 13世紀半ばユーラシアの広大な地域がモンゴル帝国に組み込まれるが、モンゴル軍には多くのトルコ人が含まれ、中央アジアや南ロシアにおいて、おおむねモンゴル支配階級はトルコ化した。西トルキスタンでトルコ化したモンゴル貴族の子孫ティムールは、1370年[  e ]を都としてティムール朝を興した。(4)ティムールが西アジアに遠征してイランを併合すると、やがて領土内にイラン=イスラム文化が繁栄したが、同時にトルコ文化も発展し、中央アジアの古典トルコ語が確立された。16世紀はじめティムール朝は、[ f ]=ハン国領に興ったトルコ系のウズベクに滅ぼされた。  一方、13世紀末小アジア西部のトルコ系イスラム辺境戦士(ガーズィー)集団から興った(5)オスマン朝は、14世紀半ばバルカン半島に進出し、1453年にはビザンツ帝国を滅ぼした。16世紀はじめにはマムルーク朝を滅ぼしてイスラム世界の中心的存在となり、第10代君主[ g ]のときに最盛期を迎え、(6)イスラム法に基づく司法・行政制度が発達した。隆盛を極めたオスマン朝ではあるが、1699年の[ h ]条約で東ヨーロッパの領土の一部を失い、勢力を弱めることになった。

 
(1)北アジアの騎馬遊牧民に先んじて、前6世紀ごろイラン系の騎馬遊牧民が南ロシア草原を支配するようになり、その影響が北アジアにも及んだ。この騎馬遊牧民の名称を記せ。  
(2)ウイグルの繁栄には中央アジア出身のイラン系の商人たちが貢献した。広範な商業活動で知られる、このイラン系の人々は何人と呼ばれるか。  
(3)この王朝のもとで、西アジアの主要都市に学院が建設され、スンナ派の学問が奨励された。これはシーア派のある王朝に対抗するためであった。このシーア派の王朝の名称を記せ。  
(4)ティムール朝に併合される前、イランでは、モンゴル帝国を構成するある国家(ハン国)の支配階級がイスラム化し、イラン=イスラム文化を発達させていた。この国家の名称を記せ。  
(5)(ア)オスマン朝がバルカン半島に進出してから、ビザンツ帝国を滅ぼすまで首都とした、バルカン半島東部の都市の名称を記せ。   
 (イ)オスマン朝はバルカン半島進出後、最初は捕虜、後には徴用したキリスト教徒の子弟を、改宗させ訓練して常備歩兵軍を組織した。オスマン朝軍の精鋭とされる、この軍団は、何と呼ばれるか。  
(6)一方でオスマン朝は、国内のキリスト教徒やユダヤ教徒の共同体に大幅な自治を認めた。この公認された宗教共同体は何と呼ばれるか。

 イギリスの外交官であったある人物が、「ランカシャーの全工場といえども、この国の1省に十分なほども靴下の材料を製造することができない」と述べたのは、(7)中国に対する戦争の勝利の後のことであり、この言葉は、広大な中国市場への、イギリス人の期待の大きさを物語っていた。しかし、現実にはイギリス工業の主力であった[ i ]製品の対中国輸出は、期待されたほど伸びなかった。その原因としては、中国農村の家内工業との競合や、開港地が限られ、それ以外での外国人の[ j ]の自由が認められていなかったことなどが考えられ、そこでイギリスはさらなる市場開放に向けて交渉を行った。しかし、当時イギリスは(8)ヨーロッパで戦争を行っており、このため大規模な艦隊を送って惘喝(どうかつ)外交をする訳にはいかなかった。交渉は不調に終わった。事態が動いたのは、(9)ヨーロッパの戦火がやんだ年のことだった。広州の官憲がイギリス人を船長とする中国船を臨検、船員を逮捕したところ、イギリスはこれを口実に再度の戦争を挑んだのである。(10)イギリス派遣軍全軍の中国到着はかなり遅れたが、フランス軍とともに広州を占領、[ k ]にまで進み、この地で条約を結んだ。しかし、中国軍が批准書の交換を武力で阻んだため、再び戦端が開かれた。英仏軍は首都を占領し、2年前の条約とともに、いっそうの権益を認めさせる新条約を中国に強いた。
 この二つの条約は、中国のその後の政治・経済、そして国際関係に大きな影響を与えた。開港地が華北や(11)長江流域の主要都市にまで拡大され、長江の航行が開放されたことは、外国の経済進出を格段に容易なものとした。また、首都における外国公使の常駐や(12)外交を専門に担当する政府機構の設立は、中国と[ l ]使節と呼ばれる外交団を中国に送る周辺国家とが形成していたアジアの国際秩序、すなわち「華夷秩序」の崩壊の開始を告げる出来事だった。  事実、その後三十数年の間に、列強はこうした周辺国家を次々に支配下に収めていった。東南アジアでは、イギリスが三度の戦争の末に[ m ]を植民地としたほか、フランスはフランス領インドシナ連邦を成立させ、さらに[ n ]をこれに編入した。中央アジアにあっても、二つのハン国を保護国としたロシアが、[ o ]=ハン国を併合したのである。また東アジアでは、日本が琉球を領土に組み込んだのち、(13)最後まで「華夷秩序」内にとどまっていた国も、そこからの離脱を強制されることになった。ここに「華夷秩序」は完全に崩壊した。  
 そして民衆の排外運動がもたらした対外戦争の結果、20世紀はじめには、(14)中国は首都とその外港を結ぶ地域で外国軍の駐兵権を認め、巨額の賠償金支払いのため関税収入を外国に差し押さえられた。中国は、完全に「不平等条約体制」のもとに置かれるのである。

 
(7) この戦争の名称を記せ。  
(8) この戦争の名称を記せ。  
(9) この年は何年か。  
(10) イギリス派遣軍の全軍到着が遅れたのは、イギリスから中国への途上に位置する地域で、イギリスの支配に抵抗する反乱が起こったためである。この反乱の名称を記せ。  
(11) この主要都市の一つは、当時太平天国軍によって占領され、その首都とされていた。この都市の現在の名称を記せ。  
(12) この外交を専門に担当する政府機構の名称を記せ。  
(13) この国は、「華夷秩序」からの離脱の数年後、国号を改めている。この新たな国号を記せ。  
(14) この駐兵権や賠償金の支払いを認めた条約の名称を記せ。

第3問(20点)
 第二次世界大戦後の世界は、アメリカ合衆国とソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)がそれぞれ資本主義圈と社会主義圈の盟主として激しく対立する、いわゆる二極時代で幕が開いた。だが1950年代半ばになると二極構造に変化がきざし、1960年代以降、その変化は本格的なものになった。 1960年代に世界各地で起きた多極化の諸相を、300字以内で具体的に説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問(30点)
 次の文章(A、B、C)の[  ]の中に適切な語句を入れ、下線部(1)〜(20)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

 西洋における君主権力の発生過程を考えると、多くの場合、君主権力が軍事的指導者の地位や権限に由来するものであったことがわかる。国家の存亡や安定がしばしば、対外防衛や征服、膨張のための戦争と密接に結びついていたからである。古代ローマの(1)第2回三頭政治を行ったオクタヴィアヌスは、宿敵アントニウスとクレオパトラを滅ぼし、カエサル暗殺後の内乱を制した軍事的実力により、元老院からアウグストゥスの尊称を与えられ、帝政をひらいた。アウグストゥスは(2)共和政ローマの主要な権限のみならず、軍事力が重要な意味をもつ属州をも管轄下に置くことにより、あらゆる権限を掌握した。ローマ帝国における軍隊と皇帝の密接な関係は、(3)3世紀の軍人皇帝時代には、各地の軍団がその指導者を皇帝に擁立し、半世紀間に26人の皇帝が乱立するという、混乱した事態をももたらした。
  ゲルマン民族移動期に部族を率いた軍事的指導者の権限が、定住後に君主的権力へと発展することは、とりわけ長距離の移動を行った東・西ゴート族やヴァンダル族の場合に明らかである。このことは(4)長距離の移動、植民、征服によって各地域に国家を建設したノルマン人の指導者についてもあてはまる。
  しかしそのような軍事行動をともなう長距離移動を行わなかった(5)フランク族の王たちも、戦士集団を率いて征服や略奪を行う軍隊の長であり続けた。また962年にローマ教皇により皇帝戴冠を受けたドイツ(東フランク)王国のオットー1世は、(6)当時ヨーロッパ中部に侵入をくり返していた非キリスト教民族を955年にドイツ南部のレヒフェルトで破った。このときオットーは兵士たちから「皇帝」との歓呼を受けたと伝えられるが、ここにも輝かしい戦勝をあげた軍隊指揮者が皇帝として讃えられる習慣がみられる。
  このように軍功が政治的指導者や独裁者を生み出すという事例は、近代のナポレオン=ボナパルトや(7)20世紀の幾人かの政治家にも見出され、決して古代や中世に限られる現象ではない。


(1) オクタヴィアヌス、アントニウスとともに第2回三頭政治を行った人物の名を記せ。
(2) 共和政ローマの国政全般におよぶ最高の公職の名称を記せ。
(3) 3世紀には帝国の社会経済的基盤も変化する。農業・土地制度における変化を30〜40字程度で述べよ。
(4)(ア)9世紀にノヴゴロド国を建設したと言われるノルマン人の指導者の名を記せ。
 (イ)10世紀初めに北フランスにノルマンディー公国を建設したノルマン人の指導者の名を記せ。
(5) フランク王クローヴィスは軍事的征服以外にも、以後のフランク王権にとって重要な意味を持つ選択を行った。それは何か。
(6) この民族の名称を記せ。
(7) 第一次世界大戦中の軍功により国民的英雄となり、ワイマール(ヴァイマル)共和国の大統領になった人物の名を記せ。

B アメリカ大陸の西に広がる大洋の存在は、16世紀前半にヨーロッパ人に知られるようになった。 1513年、スペインの探検家[ a ]はパナマ地峡を横断し、新大陸の彼方に望見した海洋を「南の海」と名づけた。この大洋を船で横断し、「太平洋」と命名したのは、(8)ポルトガル人航海者マゼラン(マガリャンイス)である。しかし、太平洋に点在する島々やオーストラリア大陸について正確な地理的認識がヨーロッパにもたらされたのは、ようやく17世紀から18世紀にかけてのことであった。1642年、オランダの探検家[ b ]は、オーストラリア大陸の南方の海洋を東に向けて航海し(9)ニュージーランドに到達した。また、(10)1760年代後半には、フランスとイギリスがそれぞれ太平洋に探検隊を派遣した。フランスのブーガンヴィルは、1768年にタヒチ島を経由して太平洋を東から西に横断した。(11)哲学者ディドロは、この航海によって知られるようになったタヒチ人の暮らしぶりに刺激を受けて、ヨーロッパ文明の退廃と偽善を批判する『ブーガンヴィル航海記補遺』を著した。イギリスからは、1768年、ジェイムズ・クックがエンデヴァー号を指揮して太平洋に向かい、タヒチ島を経てニュージーランドを回航したのち(12)1770年、ヨーロッパ人としてはじめてオーストラリア大陸の東の沿岸を探査した。その後、クックはさらに2度にわたって太平洋の航海を行い、それまでヨーロッパで知られていなかった多くの島の存在を確認したが、1779年、3度目の航海の途上に(13)ハワイで島民に殺害された。クックの航海は、イギリスの太平洋への勢力拡大政策の一環として行われたが、専門家による天体観測を行い、動植物にかんする膨大な資料を収集するなど(14)科学的探検を目的とする航海のはじまりとしての側面ももっている


(8)(ア)マゼランは、ポルトガルから亡命し、スペイン国王の援助をうけて1519年にセビリャを出航した。当時、スペインは新大陸の西側の海洋を自らの勢力範囲に含まれるとみなしていた。その根拠とされた条約の名称を記せ。
 (イ)マゼランの太平洋横断の目的地の一つはモルッカ諸島であったといわれる。香料諸島とも呼ばれるこの島々は、16世紀から17世紀にかけてヨーロッパ諸国の争奪の対象となった。 17世紀前半にオランダがイギリスをこの地域から排除するきっかけとなった事件の名称を記せ。
(9) ニュージーランドは、イギリス政府の派遣した代理総督と先住民の首長たちとの間で1840年に結ばれた条約によってイギリスの植民地となった。この先住民は何と呼ばれるか。
(10) これらの探検に先立って、両国間では、1756年から7年間にわたって海外の植民地をめぐる戦争が行われた。1763年にパリで結ばれた講和条約によってフランス領からイギリス領となった植民地を1つ挙げよ。
(11)  彼とダランベールが中心となって1751年から72年にかけて編纂された書物の名称を記せ。
(12) イギリスの植民地となったオーストラリアでは、19世紀末以降、有色人種の移民を制限する政策がとられた。この政策は何と呼ばれるか。
(13) ハワイは、1898年にアメリカ合衆国に併合された。同じ年に、米西戦争の結果としてスペイン頭からアメリカ領となったマリアナ諸島中の島の名称を記せ。
(14) 1831年から36年にかけて、イギリスの生物学者ダーウィンは、海軍の測量船ビーグル号に乗り組んで南半球を周航し、動植物の調査を行った。ダーウィンはこの調査からえた着想を理論化し、1859年にその成果を書物として刊行した。この著書の題名を記せ。

C 1776年、北アメリカ大陸の13植民地の指導者たちが、本国イギリスに対して示した(15)独立宣言は、近代世界史の大きな転換を告げるものであった。
 1787年につくられたアメリカ合衆国憲法は、共和政体という新しい政治原理のもとで(16)連邦統治機構の構成と権限を明記した。連邦共和国としてのアメリカ合衆国はその憲法の批准をへて発足した。 1789年のことである。  
 誕生した統一国家は、その後、西に拡大していった。経済的改善を目指す農民あるいは移民が西部移住の主力であった。特に19世紀に入って、アレガニー山脈を越える(17)西部への進出が本格化した。1821年にはミシシッピー川を越える最初の州として、ミズーりが州に昇格した。しかしその時期から奴隷制を否定する自由州と、それを認める南部奴隷州との対立が表面化していった。新しい州に奴隷制を認めるか否かの論争であった。 1850年(18)カリフオルニアが州に昇格する際にも論議が起こった。1854年、奴隷制の拡大を争点として起こった(19)全国政党の再編は、自由州と奴隷州の対立を決定的とする転機であった。
 19世紀の世界における最大の内戦であった南北戦争後、合衆国の工業化は急速であった。戦前から綿工業などが北部に発速したが、戦後の工業化は(20)鉄鋼業、機械産業、さらに食肉産業といった多様な分野におよび、1890年代には合衆国は世界第一の工業国家の地位を手にしていた。工業化とともに、(21)全国的交通体系の形成、また都市化が進行した。フロンティアの消滅を記載したのは、1890年に行われた国勢調査の報告書である。その記述は、大西洋から太平洋におよぶ強大な近代国家の誕生を告げる宣言でもあった。

 
(15) アメリカ独立宣言書に盛り込まれた思想には、イギリス啓蒙思想の影響が大きい。代表的なイギリス人啓蒙思想家の名を1名記せ。  
(16) アメリカ合衆国憲法が定めた連邦統治機構を30字程度で説明せよ。  
(17) (ア)西部への進出によって1830年代、アメリカの政治制度に重要な変化が起こった。その新しい政治のあり方は何と呼ばれるか。    
(イ)1840年代、西部への領土拡張の際に広く語られた言葉を記せ。  
(18) アメリカ合衆国はカリフォルニアを割譲によって得た。割譲の原因となった出来事の名称を記せ。  
(19) 1854年に成立した全国政党の名称を記せ。  
(20) 南北戦争後、鉄鋼業において台頭した代表的企業家の名を記せ。  
(21) 1869年に完成した新しい全国的交通体系の名称を記せ。
………………………………………
コメント
第1問
 試験の直前にある学生が予想についてきいてきました。ある予備校(この名前は隠しておきます)で、こんどの京大の世界史は、貨幣史とアイルランド史がでると予想しました、先生はどうおもいますか、というのです。
 笑っちゃいました。アホなこと抜かす、という感じです。だいたい予備校の経営母体が何か特別に発表するようなかたちで、ここが出るはずだと予想を立てることはありえないし(あえていえばいつも当らない模擬試験)、それは講師個人の意見にすぎない、それもなんら京大を研究していない講師の予想だ、でまかせの予想だと答えてやりました。ワラをもつかみたい受験生に安易におもいついた予想を語っているのです。予備校講師の軽薄な性格と無責任さをよく示すことでもあるでしょう。あはっ、わたしも軽薄な生業(なりわい)の中にいます。
 さて、今年の出題からも分かるように、狭いテーマではなく、中国史に通底するテーマを出しています。これはこれまでにも、昨年度の「1910〜50年代の西アジアの分割・独立・離脱」というテーマも、2004年の「セルジュク朝・モンゴル帝国・オスマン朝の対イスラーム政策」でも、2003年の「宋明清の皇帝権強化制度」でも見えるように、教科書の一部を書かせたら済むようなものでなく、できるだけ長い時間に共通するものを探させようとしています。中国史なら、こういうタイプのテーマで未出題なのは、江南開発史、商業史、儒教の思想史などいくつもあります。貨幣史もテーマとしてあってもいいのですが、少しテーマが小さぎるのではないでしょうか。今年は外交史でした。もちろん過去にない問題です。第2問や第4問にもありません。
 課題は、「歴代の王朝が用いた懐柔策や外交政策について、紀元前2世紀から16世紀に至るまで、できるだけ多くの事例を挙げて」とあり、中国でもありきたりのテーマではあります。ただ「懐柔策や外交政策」という言い方が錬られていない表現です。懐柔策も外交のひとつであれば、「懐柔策を含む外交政策」という表現がふさわしいとおもわれます。
 それは戦争や外征や討伐や征服などどいう軍事行動を意味しないことは明らかです。導入文に「軍事力のみでは北方民族に対抗できなかった」とあるからです。この問題に答えるときに軍事行動のことは書かなくていいのです。「外交」とは戦争ではない関係づくりの方法てす
 しかしネットの解答例を見たら、戦争が臆面もなく書いてあります。問題を読んでないみたいですね。もちろん受験生の多くもこんな風に書いたであろう、まずい答案です。王朝ごとに積極策(軍事力)と消極策(外交)を並列して書いているものもあります。そんなことでは解答になりません。「消極策(外交)」の中身を問うているのですから。まして「積極策(軍事力)」をどれだけ書いても得点にならない。

 (1)前漢武帝は匈奴に攻勢をかけるべく張鳶を大月氏に派遣し、烏孫との同盟は成功して匈奴の動きを牽制した
 (2)武帝期から積極策に転じ、西域諸国と連携をはかるため、張騫を大月氏に派遣し、後漢は班超を西域都護に任じた
 (3)武帝は匈奴を挟撃するために張騫を大月氏へ派遣し、衛青・霍去病を匈奴討伐に派遣して勝利した
 (4)積極策に転じた武帝は匈奴挟撃を図って張騫を大月氏へ派遣した
 (5)明の攻勢でモンゴルは漠北に去ったが
 (6)元を追放した明の初期はモンゴルの北元などを積極的に討伐した
 (7)元を駆逐した明
 (8)北元やオイラト・タタールに対し積極策で臨んだが
 (9)西晋では八王の乱が勃発すると、諸王が北方民族を兵力として利用したため五胡の侵入を招いた……

 いったいこれらの解答のどこが懐柔策であり、外交政策なんでしょうか? いや外交の前提として書いているのだ、とすれば長すぎるものもあります。300字の中で外交に集中しないといけません。
 もう一つ注意しなくてはならないのは、中国にとって「外交」とは、中国を中心とした主従・上下の関係であることです。册封体制といっているものです。郡国制の拡大・国際版です。あくまで中国が世界の中心とおもいこみ、またそれを周辺の国々に強制・強要することです。それを逆転させたのが遼以降の征服王朝でした。このあたりがしっかり書けるかどうかです。
 たんに「和約を結んだ」では戦争が終わった、というだけでどういう関係、すなわち外交関係=上下・主従関係になったのかを書かないと不充分な解答になります。
 (1)冒頓単于に敗北し、和親策をとって貢物を贈った
 (2)匈奴に敗北し、和親策を締結して貢物を贈った
 (3)吐蕃とも会盟した。北宋は遼に対して澶淵の盟、南宋は金に対して紹興の和を結び、毎年絹・銀を贈ることで国境の維持をはかった
 (4)北宋は契丹の遼と澶淵の盟を、タングートの西夏と慶暦の和約を結んで 
 (5)タタールのアルタン=ハンとも和約を結んだ 
 (6)アルタン=ハンとは和議を締結した                  

 これでは結局、関係(外交)はどないしたん? という疑問が残ります。採点官がここまで見るかは分かりません。甘く寛容な京大のことですからここまでは見ないともいえます。しかし京大の手心に期待しないで、ここは厳しく行きましょう。というのは第2問のBの中国近代史の問題文にはしきりに「華夷秩序」ということばが出てきてアヘン戦争・アロー戦争の敗北によって、「中国と[1]使節と呼ばれる外交団を中国に送る周辺国家とが形成していたアジアの国際秩序、すなわち「華夷秩序」の崩壊の開始を告げる出来事だった」と説明しているのです。第1問はこの「華夷秩序」の歴史について書く問題でもあります。
 懐柔策を含む平和的な「外交」について、時間順に追いかけてみましょう。もちろん時間順でなく、懐柔にもいろいろな手があり、政治的な主従関係、経済的な供与(歳幣、歳貢)、社会的な対応とあり、こうした分野別でもいいのですが。
 前200年という時間に「前2世紀から」という課題に該当する事件があります。この年に白登山の戦いがあり、これは冒頓単于の指揮する匈奴と劉邦のひきいる前漢軍が戦います。匈奴40万(当時の世界最大の軍団)と劉邦は32万の大軍同士でした。しかし前漢軍は包囲され、「漢宗室劉氏の女性を匈奴単于の夫人とすることの外、毎年、絮(わた)・(糸+會きぬ)・酒・米、その他食料を匈奴に供し、両者は匈奴を兄とし、漢を弟とするという、漢の側にとってはきわめて一方的なものであった」と京大教授が書いています。こうして女性(こういう女性をとくに公主といいます)をふくみ貢納品をおさめて臣従したかたちで和議となりました。これを武帝が逆転しますが、さきほど書いたように武帝の討伐は懐柔でも外交でもないので書かなくていいのです。
 むしろ前漢末(前33年)に分裂した東匈奴の呼韓邪単于(こかんやぜんう)が長安まで挨拶に来たほうびとして、王昭君という公主を嫁がせたことは元曲『漢宮秋』で知られています。王昭君を書いた答案を見ませんでしたが、なぜでしょうか? 漢が主であり、東匈奴が従の外交関係です。これはこの東匈奴が南北に分裂したときも南匈奴を服属させることにつながります。
 五胡十六国時代(現中国の表現では東晉十六国時代)は「北方民族」の華北における建国期ですが、かれらに対して漢人はどういう態度をとったのでしょうか? この時代について言及した解答は一例ありましたが、「諸王が北方民族を兵力として利用したため五胡の侵入を招いた」というのは外交政策でも懐柔策でもありません。前の教授は「五胡十六国時代は北中国への非漢系5民族の侵入によるものと単純に解すべきではなく、すでにそれ以前より多数の北方系諸民族が中国内地に強制移住や導入の形で入っており、漢人支配の下で賎民視されてきたことに対する民族的自覚の高まりによる自立という側面を見落してはならない」と書いています。さらに「曹操は、一般の郡県とは別に匈奴諸部落を5部の特別区に分割して支配し、晋代にもこの統治方式は受け継がれた」と述べ、かれらが奴婢・小作人に転落していったことを加えています。つまり北方民族を隷属化したということです。
 また華北を支配した北魏では逆で、漢人貴族との姻戚関係がすすめられ漢人のほうが隷属化していったのです。こうした鮮卑族の漢人支配を継承するものが隋唐政権でした。
 隋唐の政策のひとつが突厥対策でしたが、隋は離間策をこうじて臣下とし、後継者争いの機を利用して服属させます。唐は攻撃した上で羈縻(きび)政策という間接統治のかたちをとります。すなわち都護府をおき、北方民族の長を唐の地方官「都督(ととく)・刺史(しし)」としてあつかう方法でした。解答に都督・刺史の名はなくてもよく、たんに地方官とした、羈縻州の支配下においた、でいいです。
 五代十国時代における後晋(突厥)の遼への燕雲十六州割譲は北方民族同士のやりとりであり、これは漢人側の懐柔策にはなりません。むしろその後にできた北宋がどれだけ十六州をとりかえそうと挑んでも敗北をなめつづけ、とうとう遼にたいして澶淵の盟を結んで、宋兄遼弟の関係をむすびました。先にあげた著者はこう書いています「宋から遼へ歳幣として銀10万両(3,7トン)、絹20万匹(2,500km)という莫大な物資を毎年おくることを条件とするものであった。そして、宋を兄とし遼を弟とするほぼ対等の両国関係は、伝統的中華意識からすれば、宋にとって大変な精神的屈辱であった」と。この遼との関係である「兄弟」を書かない答案ばかりがネットにのっています。しかしわたしが教えた学生は再現答案でしっかり書いています。
 次の金との関係でやっと南宋が金に対して臣下の礼をとったとの解答が見られます。金について関係(外交)を書いたのなら遼はどうだったのか、と気がつかないのでしょうか? このことについて「淮水を国境とする講和条約を締結(注:講和条件は銀25万両(後に20万両に減額)、絹25万匹(後に20万匹に減額)をおくること、宋は金に対し臣下の礼をとるという屈辱的なものであった(後に叔姪関係))」と前掲書に書いてあります。
 なお征服王朝に数えない西夏とは従来どおりの華夷関係、すなわち宋を主とする関係でした。これも言及していいでしょう。  
 過去問に、「明のモンゴル政策(1995)」があり、永楽帝の積極策と以後の消極策と長城構築を書かねばなりませんでした。この問題では、こうしたことは書かなくていいでしょう。また北元については一時的な対応なので書かなくてもいいでしょう。けっきょく蒙古に追いやりました。むしろその後のオイラト・タタール部にたいしてどうしたかでしょう。茶馬貿易による懐柔を目論んだのですが、そのもつれからオイラトのエセンの侵入を招き、土木の変がおきました。その後は明は消極策に転換し、長城の大規模な修築を行っていきます。16世紀、モンゴルのアルタン汗の侵入に悩まされて和解して明朝側から「順義王(じゅんぎおう)」として册封し、つまり臣下の礼をとらせ、その居城に対して帰化城(きかじょう)の名をおくったり、交易を認めて懐柔策としました。
 また女真族が東北で台頭しつつありましたが、羈縻政策をとって支配下においていました。野人女直部、海西女直部、建州女直部がそれです。いずれこの中の建州女直部からヌルハチ(1559〜1626)が登場します。ヌルハチは1583年から活動を始めています。「北方民族」はモンゴル高原の遊牧民だけを表わしていないから、この狩猟・農耕を兼ねた民族について触れてもいいはずです。


第2問
 解説の順は、空欄→設問ではなく、文章中に問われる順でいきます。
設問(1) 下線「北アジアの騎馬遊牧民」にかんして「前6世紀ごろイラン系の騎馬遊牧民が南ロシア草原」とあるのでスキタイです。前6世紀は、早くとる学者は前8世紀からだそうです。「南ロシア」はウクライナです。エルミタージュ美術館にスキタイの遺留品がたくさん貯蔵されていて日本でもなんども展示されています。たいていその黄金の品物の解説には、ギリシア人がつくったもの、とあります。スキタイとギリシアの交流の結果です。ウクライナの穀物とギリシア人製作の黄金製品が交換されていました。スキタイ人の文化は動物意匠(デザイン)と青銅器(アキナケス剣)をもつことで知られ、それがシベリアにまでひろく伝わっていて、かつてはスキタイ文化といっていたものを最近は「スキト・シベリア文化」といっています。匈奴がその文化の影響をうけた民族です。また西方ではアッシリア帝国のサルゴン2世もアケメネス朝ペルシア帝国のダレイオス1世も倒すことのできなかった勇猛な騎馬民族でした。センター試験(追試も含むと)でも6回でています。
 スキタイのコレクションは、ここ→ http://www、pitt、edu/~haskins/  
設問(2) 「イラン系の商人たち」といえばソグド商人です。1994年度の京大の過去問に「アム・シル両河地方を中心に.古くから東西交易に活躍したソグド人が使ったソグド文字」という文章がのっていました。また2003年度の設問にアラム系文字として中央アジアの文字の例としてかれらのソグド文字を書かせています。センター試験ではソグド商人は5回、文字は1回でています。商人たちの中心都市であるサマルカンドは頻繁にセンターででいます。  
空欄a 「9世紀に同じトルコ系の[ a ]に圧迫され、……東部(東トルキスタン)へと移動」というならキルギスです。「同じトルコ系」とは蒙古は6世紀の突厥、8世紀のウイグルとトルコ系つづきでした。世紀の9世紀は840年(語呂は「ウイグル走84れ0」、語呂は『世界史年代ワンフレーズ』から引用)としっかり覚えておくべきものです。問題文にあるように、これから以降西アジアにはトルコ人時代が到来するからです。キルギスはセンター試験では5回。  
空欄b 「10世紀末にトルコ系イスラム王朝の[ b ]朝がサーマーン朝を滅ぼす」は上の空欄aのトルコ人がつくった最初のイスラム王朝です。つまりカラ=ハン朝です(語呂はカラカラ苦9笑40)。カラ=ハン朝もセンターでは3回、サーマーン朝は7回出題歴があります。つまり京大の第2問はセンター試験レベルですよ、と言いたいのです。  
空欄c 「11世紀前半……トルコ系の[ c ]朝は、さらに西進して1055年バグダードに入城し、……スルタンの称号」とあるのでセルジューク朝ですね。王朝の樹立は1038年(これは西夏の成立と同じ。語呂は成果競[せ]る父10さん3は8)です。バグダードはアラブ人アッバース朝がつくって、イラン人のブワイフ朝がます入り(946)、このトルコ人セルジューク朝が、そしてモンゴル人のフラグが入ってきます(1258)。これはイスラム世界の民族興亡の順とも重なっています。  
設問(3) 「シーア派のある王朝」ファーティマ朝のほうが先に学院を建設しているからです。アズハル大学です(972)。このシーア派の学院に対抗してニザーミーヤ学院(現バグダード大学の前身)を設立しました(1067)。センターではアズハル大学は5回、ニザーミーヤ学院は1回出ました。ともに出題の新しい年度は2004年です。  
空欄d 「マムルーク朝」の前が何王朝かという問。カイロの3王朝は「フアマ」と農民のような順です(ファーティマ朝→アイユーブ朝→マムルーク朝、この覚え方は拙著『センター世界史B 各駅停車』にあり)。  
空欄e これは設問(2)でも出てきました。また首都が好きなセンター試験では7回も出ました。サマルカンドを都にしていたホラズム軍はここを砦にして戦った跡があり、大きな石がごろごろころがっています。それはモンゴル軍が投石器で飛ばした巨大な石でした。徹底的に破壊されます(1220)。この破壊された都市をティムールが再建します。  
設問(4) あまりにもかんたんな問題です。かんたんすぎることは良いことです。  
空欄f 「16世紀はじめティムール朝は、[ f ]=ハン国領に興ったトルコ系のウズベク」とは変な設問です。このハン国はすでにないはずで、ティムールがもともとここにあった西チャガタイ汗国から自立し、その後に東チャガタイ汗国・イル汗国と征服してつくった帝国でした。以前に滅ぼした「ハン国領に興った」という問は成り立つでしょうか? 解答は「(西)キプチャク」かもしれませんが、それなら空欄[  f ]の前に「ティムール帝国の発祥地」という説明的な語句が必要でした。あるいは真面目にとると、シャイバニ=ハン(シェイバニ=ハン、シャイバーン=ハン)領とします。というのはこの王朝(1500〜99)は帝国下に自立したシャイバーニー=ハン(1451〜1510)がサマルカンドを占領して滅ぼしたからです。この王朝はまたたくまに3分してブハラ(ボハラ)=ハン国、ヒヴァ=ハン国、コーカンド=ハン国となりますが(下のBの末尾の問題)。こういう問題は解けないときは無視するのが一番でしょう。1点ですから時間をかけるのがもったいない。  
設問(5) (ア)初めは小アジア側のブルサを都にしていましたが、このアドリアノープルに移りました(1366)。この都市はローマ皇帝ハドリアヌス帝が創建した都市として知られています。あのギリシア独立を承認した条約(1829)調印の都市としても知られています。今はエディルネといっている町です。
 (イ)これもやさしい問題です。イェニチェリ軍とは「新軍」の意味です。英語 janissary (トルコ兵)はこれのなまった言い方です。  
空欄g 「最盛期」とあるので「第10代」は知らなくてもスレイマン(シュレイマン)1世がでてくるはず。  
設問(6) ミッレトと日本人には言いにくい発音のことばです。   
空欄h これもセンター試験に出たことのある用語です(2002)。オスマン帝国からハンガリーを奪い返した条約でした。カルロヴィッツは現ハンガリーにあるドナウ川河畔の都市です。

B 

設問(7) この戦争はマカートニー派遣以来のイギリスの願望でした。これから中国市場が開けてわんさと売れるぞと期待したことばです。それに問題文の後にはアロー号事件とアロー戦争のことが書いてありますから、アヘン戦争が解答です。  
空欄 i 外交官のことばにある「ランカシャー」という地名はマンチェスターという産業革命の中心都市のある州名です。イギリスの産業革命による綿布を「ランカシャー綿」ともいいます。  
空欄 j ヒントは「開港地が限られ、それ以外での外国人の[ j ]の自由……さらなる市場開放」という空欄の前後の文章です。アロー戦争の後の天津・北京条約で認められたことがらは何か、と考えてもいいでしょう。キリスト教布教の自由でもなく、アヘンの公認でもなければ、商人が内陸に入っていくことのできる自由(権利)です。
設問(8) アヘン戦争(1840〜42)と虎門寨追加条約(1843)・望厦・黄埔条約(1844)の4条約の後の交渉の頃。またアロー戦争(1856〜60)直前の頃のヨーロッパでの戦争ということです。1853〜56年の戦争です(語呂は「栗見や、一1箱85実3」)。  
設問(9) 「事態が動いたのは、(9)ヨーロッパの戦火がやんだ年」にアロー号事件が起きたことを以下で説明していますからアロー戦争はいつからか、という問と同じです(語呂は「アロー、暗1夜8行5路6」)。京大が何年かと年代を問うた例は過去にもあります(1994、96、99、2000、2003)。珍しい問題という訳ではありません。  
設問(10) クリミア戦争の地域から中国に来るとすれば、地中海か(スエズ運河はまだない)、アフリカ回りで来るとしてもイギリスの「支配」する植民地を想起すればインドでの反乱ということになります。最近はこのセポイ(シパーヒー)の反乱をインド大反乱、1857年の乱、インド独立戦争といろいろな呼称がでてきました。どれでも可です。  
空欄k 条約締結の地名です。それは皇帝のいる北京に近いところまで攻められたための降参でした。天津は「天子の港」の意味です。白河で北京から降ると河口に天津市がきます。地図で確かめよ〜。  
設問(11) 太平天国の首都「天京」の現在名です。かたんすぎます。  
設問(12) これもかんたんですが漢字が正しく書けるかどうか。1996年の第2問Bでも、「1861年には[ h ]という官庁を新設し外交に当たらせることになった。。これ以後、清ははじめて外国を対等な国家として交渉するようになるのである。」とこの空欄に総理各国事務衙門(総理衙門)を入れさせています。 センター試験でも出ました(2007)。  
空欄 l 「外交団を中国に送る周辺国家」とあるえちの外交団を何「使節」というか、という問題です。朝貢使節しかありません。  
空欄m 「東南アジアでは、イギリスが三度の戦争」といえばビルマ戦争しかありません。この表現はミャンマー戦争でも英緬(えいめん)戦争でもイギリス・ビルマ戦争でもいいのです。  
空欄n 連邦を成立(1887)させてから、ラオスを編入(1899)という順です。センターの追試でも(2003)、インドシナ連邦「成立後、ラオスが編入された。」を正しい文章として選ばせています。  
空欄o ウズベク族の3ハン国をさいごに併合したのは何ハン国かという問でもあります。ヒヴァ(1512)→ボハラ(1599)→コーカンド=ハン国(1710)の順にできましたが、併合されたのはボハラ(1868)→ヒヴァ(1873)→コーカンド=ハン国(1876)の順でした。どちらも最後がコーカンド=ハン国です。  
設問(13) 「最後まで「華夷秩序」内にとどまっていた国」とは李氏朝鮮のこと。これが大韓帝国と中国の支配から離れて皇帝を名のりだしました(1897)。大韓帝国は97年と98年のセンター追試、2012年の本試に出ています。  
設問(14) なにより「駐兵権」とあれば北京議定書(辛丑条約)です。このときの賠償金といえば京大にとって深いかかわりのあるものがあります。京大人文科学研究所(旧館)はこの金で建てられました。

第3問
 京大は「似た問題をだすから過去問の古いものをやっとけ」とあるヨビで言っているそうですが、この問題は過去問といったいどう似ているのか、過去問の実例をあげてほしいものです。こんな問題はまったくありません。第2問や第4問にもありません。ヨビの講師であっても過去問を研究していない講師はたくさんいて、いいかげんなことをしゃべっています。なんども言っているように京大は過去にない問題をつくることを決意しているのです。過去問を解く意味は、少なくともこれまでのところまったくありません。わたしが教えている受験生が問題があたったといっているのは、過去問にない問題ばかり京大志望者に解かせているからです(合格メールを見よ)。拙著『世界史論述練習帳』に京大の過去問を載せていますが、この問題をよく見て、他の大学(東大・一橋・筑波)の問題のうち京大らしい問題を解くのがひとつの方法です。
 京大の過去問は、筑波大、阪大、北海道大、名古屋大などを受験する学生には良問ですから、解いてほしい問題です。それぞれの大学の中で京大未出題の問題を解くといいです。
 さて課題は「1960年代に世界各地で起きた多極化の諸相」を描け、というものでした。どこかの参考書みたいに1950年代を考慮したり言及したりする必要はまったくありません。問題をよく読んでいないようです。「二極……変化がきざし、1960年代以降、その変化は本格的なものになった。 1960年代に世界各地で起きた多極化の諸相」とあるように「本格的なものになった」1960年代だけ書けばいいのです。
 問題は1960年代というイメージができるか、またこの年代のできごとが浮かぶかどうか、浮かんでも、それが1960年代かどうか、自信がないと書きにくい問題でした。自信がなくても、だいたいそうだったろうと決意して書かなくてはなりませんが、自信があればより良いのは当然です。
 年代に関しては、中谷まちよ著『世界史年代ワンフレーズ』を推薦しています。この年代でのできごとで、この本にのっているものをあげると、
60年代の前年にあたる「アフリカの年」(1960)、コンゴ動乱(1960)、ベルリンの壁(1961)、アルジェリア独立(1962)、キューバ危機(1962)、ケニア独立、0AU(アフリカ統一機構)(1963)、部分的核実験停止条約(1963)、マレーシア連邦(1963)、UNCTAD(国連開発貿易会議)(1964)、ブレジネフ体制(1964)、パレスチナ解放機構(PLO)(1964)、公民権法(1964)、北爆(1965)、日韓基本条約(1965)、シンガポールの分離独立(1965)、文化大革命(1966〜1976)、EC(1967)、第3次中東戦争(1967)、ASEAN(東南アジア諸国連合)(1967)、プラハの春(チェコ事件)(1968)、核拡散防止条約(1968)、(仏の)五月危機(1968)、ニクソン大統領(1969)、(西独の)ブラント内閣(1969)、サダト大統領(1970)、(チリの)アジェンデ政権(1970〜73) 

 以上ですが、だいたいこういう「19○○」という年代の語呂は、「行く……」「人来る……」「人苦労……」とどれもこれも同じような語呂が並んでいて、受験場ではかえって似た語呂では迷います。中には「19」という数字を省いた語呂もあり、そうなると19世紀(18○○)との年代もごっちゃになります。それに対して『世界史年代ワンフレーズ』がそれらの類書といかにちがっているかを実感してもらうといいでしょう。『ワンフレーズ』は「19」を省かない独特な、それでいてかんたん明瞭な語呂をのせています。どんなに意味付けた俳句のような語呂でも、いざというときにパッと浮かぶ語呂であるかどうかが語呂の優劣の決め手です。     

 「二極構造に変化」とは、米ソのそれぞれに権威を失墜させるようなできごとがあり、この米ソに対抗する国なり勢力なりが出てきて、独自の行動をはじめて米ソが制御できない事態をあげるといいのです。また二極の米ソのことだけ述べてもだめです。「第三世界」とくに西アジアや南アジアのことも触れないと、「世界各地で起きた多極化」の「諸相」が満たせません。
 米国なら、キューバ危機がおき身近かに社会主義政権ができて軍事的脅威も加わりました。さらにヴェトナム戦争が本格化し、北爆がはじまりました。それは同時に世界的な反戦運動をおこすことにもなりました。じっさいテト攻勢に遭い、パリ和平会談に応ぜざるを得なくなりました。北爆と反戦運動をあげた解答がネットにないのは不思議です。1968年からは金ドルの交換は事実上停止となりました。ヴェトナム戦争による経済的破綻が明らかになってきました。これをあげた解答は皆無です。
 ソ連にとっては、キューバ危機そのものが失策としてフルシチョフ失脚の原因となり、ブレジネフが引き締めにかかります。またベルリンの壁を築いたこと、また「プラハの春(チェコの自由化運動)」に介入して、これもソ連という社会主義圏の盟主としての威信をそこないました。米国と同様なすがたがそこにあります。
 米国から距離をおこうとする現象としては、なにより西欧がECを結成してその経済圏から離れていきます。「第三の大国」といわれるヨーロッパ経済圏の登場です。またフランスのド=ゴールは独自の外交(共産主義中国の承認、NATO脱退、部分的核実験停止条約に反対、アフリカ独立の承認)や、西独のブラント内閣の東方外交は米国離れの現象です。日本の60年代における経済成長もアメリカの経済を脅かします。さらにアラブ人たちは第三次中東戦争に敗北したことからOAPEC(1968)を結成して反イスラエル・反米国陣営を築きだします(石油ショックは1973年なので書いてはいけませんが)。
 ソ連からの離脱の傾向は、中ソ論争・中ソ国境紛争(新疆とウスリー江)・文化大革命で顕著となり、とくに「プラハの春」に対する弾圧に対して中国はソ連を「社会帝国主義」と非難しました。この「プラハの春」についてはアルバニアやルーマニアも反ソ的な言動をおこないます。
 また非同盟諸国首脳会議がティトー・ナセル・ネルーらが音頭を取って開かれました。60年代にアフリカ諸国の独立はつづき、アフリカ統一機構やASEANの結成などの組織もできました。こうした動きも二極構造を崩す傾向でした。

第4問
A 下線設問だけの問題。
下線(1) 第2回三頭政治ということなので、レピドゥスだけが欠けています。第一回はボクラカエ(ポンペイウス・クラッスス・カエサルの頭)、第二回はアンオクレ(アントニウス・オクタヴィアヌス・レピドゥスの頭)と2つともまちがわないように覚えとかなくてはならない。センター試験でもすでに6回でています。
下線(2) コンスルは、日本語訳では統領や執政官です。かの『NEW青木』では、コンスルを「日本の内閣に相当します」(p.76)とまちがった説明をしています。この問題の問い方のように「最高の公職」とあるように組織としての内閣でなく首相や大統領にあたります。
下線(3) 「3世紀……農業・土地制度における変化」とあるので、変化する前→後、という順で書くと明快です。働き手は奴隷から小作人(コロヌス)へ、これをラティフンディウム(ラティフンディア)制からコロナートゥス制へ、と書いてもいいです。またつくる作物がオリーブ・ブドウという果樹栽培から小麦を生産する穀物栽培に変ります。どちらも大土地経営ですから変化になりません。
下線(4)(ア) リューリク(リューリック、ルーリック)です。9世紀とは、リューリクがつくったノヴゴロド国は862年、オレーグがつくったキエフ公国は882年です(『ワンフレーズ』の語呂は、いっしよにして信子[ノヴゴロドのこと]、春86に2母88に2)
 (イ) 指導者の名はロロ(ロロー、ロベール1世)。ロロの物語は拙著『センター世界史B 各駅停車』に(p.206)、

 セーヌ川の河口をなんども襲い、西フランク王にノルマンディー公国を認めさせます(911)。ロロが国王に臣従の礼をする際、国王の足に接吻することを求められましたが、ロロは拒否して、部下に接吻を命じました。部下は接吻するためにひざまずくふりをして、とつぜん国王の足をもちあげて逆立ちにし、接吻の礼をしたそうです(^_^;)。どちらに実権があったかを示す話です。

下線(5) 「王権にとって重要な意味を持つ選択」といっても、クローヴィスが選択した行為は、教科書では「正統派のアタナシウス派に改宗した。これはのちにフランク王国がローマ人貴族を支配層にとりこんで、西ヨーロッパの中心勢力になる原因となった。」ということぐらいしか書いてない。このうち最初の文章を書けばいい。
下線(6) 後の文章に「レヒフェルトの戦い」があるからマジャール人と分かります。マジャール人というと何か未開な民族の名前のようですが、現在でもハンガリーの正式名は「マジャール国」です。
下線(7) 初代大統領エーベルトでなく2代目のひと。いかにもドイツ人らしいいかつい名前のヒンデンブルクです。拙著『各駅停車』ではその立派すぎるヒゲの似顔絵とともに、以下のように説明しています(p.339)。

共和国の初代大統領エーベルトが盲腸炎で亡くなり、1925年の大統領選挙では、大戦中の参謀総長でタンネンベルクの英雄となったヒンデンブルクが当選します。ドイツ人の復讐の意志をあらわした選挙結果でした。 ★(おぼえかた)ヴァイマル共和国の大統領はエーベルト→ヒンデンブルク→ヒトラー(大統領を廃止して総統)の順 →エヒヒ

B 空欄と下線設問の両方です。
空欄a 太平洋という茫洋とした海を「望見(発見)」してボーッとしたひとです。バルボアのことは拙著『各駅停車』では「★太平ボア」と覚え方をのせています(p.245)。
下線(8)(ア) 前年の教皇子午線に不満で、ポルトガルに近い都市で改めて地球の線引きをスペイン・ポルトガル両国でした条約です。問題文をポルトガル・サイドで言い換えれば、この条約でブラジルがポルトガル領と決まったものでもあります。
(イ) マゼランはマラッカ王国征服のときには参加していても帰国してしまったので、友人が、ここは天国や、となんども手紙を出してきていて、それでこんどは西回りで行こうとしたのが、いわゆる「世界周航」といわれる航海でした。このこととは関係なくオランダ・イギリスの争奪戦は何かと問うています。ここでしかとれないという香料がたくさんとれる島の名前です。過去問(1993)にも「当初協力的であった両国の関係は(3)1623年の事件をきっかけに悪化して、イギリスは香料貿易から撤退し」という下線設問として、同じ答えを書かせています。「しだいに関係は悪化し、1623年に起きた[ a ]事件をきっかけに」と空欄を埋めさせる問題(1999)もありました。なお、この島の名前はアンボンともいい、それでいえば第二次世界大戦中での日本軍の捕虜虐待は映画『アンボンで何が裁かれたか』になりました。オランダを支援すべく南のオーストラリア軍が行ったものの捕虜となり、過酷な待遇・労働・処刑で532名のオーストラリア兵のうち、 戦争が終って3年後に生き残ったのはわずか123名という悲惨なものでした。
空欄b 17世紀はオランダの世紀(タスマン)、18世紀はイギリスの世紀(クック)という順がそのまま表わされた文章です。その中に、この空欄「1642年、オランダの探検家[ b ]は、オーストラリア大陸の南方の海洋を東に向けて航海し(9)ニュージーランドに到達」という人物。島の名前タスマニアでも知られています。タスマンは細かい。センターで出題されたこともありません。捨てててもいい問題です。
下線(9) これも難しい問題ですが、「マオリ」はセンターでは5回(95追、01本、03本、09本、11本)で出ていて必須用語です。オーストラリアの先住民アボリジニとまぎらわしい。だから拙著『各駅停車』にも覚え方として、★アボリジニはオーストラリア、マオリはニュージーランドの先住民、と示しています(p.453)。
下線(10) パリ条約はたくさんありますが、入試上もっともよく出題されるのがこのパリ条約です。いろいろな意味があるからです。七年戦争・フレンチ=インディアン戦争・プラッシーの戦いの総合条約であり、この年からが勝利したイギリスの産業革命がはじまります。つまり、この条約の年からが「近代」という時代区分のスタートにもなるエポック的条約・年代です。スペイン継承戦争・アン女王戦争で獲得したハドソン湾岸・アカディア・ニューファウンドランドとまちがわないように。カナダ(全域)か、広大なルイジアナです。ミシシッピ以東のルイジアナです。以西はナポレオンのときに買収します。
下線(11) 『百科全書』を諸子百家の「百家全書」と書きまちがわないように。現在のフランス語版のこの百科全書は「L'Encyclopedie de Diderot & d'Alembert」とディドロ・ダランベールの百科全書と呼ばれています。→こちら http://diderot、alembert、free、fr/  この『百科全書』について拙著『各駅停車』では、

この執筆に多くの啓蒙思想家が参加したため、啓蒙思想家は百科全書派ともいわれます。実践的な面は、本文17巻に加えられた図版11巻に当時の先進技術がイラスト化して紹介することで表れています。執筆者の中には科学者、数学者もいますが何より一番多いのは職人たちでした。万学の集大成でもあり、「啓蒙思想のピラミッド」ともたとえられます。

と解説しています(p.272)。

下線(12) 有色人種を排斥する移民制限→禁止(1901)という白人だけが移住許可という法です。その意味のまま「白いオーストラリア(豪州)主義」を白豪主義といいます。
下線(13) 「マリアナ諸島中の島」といわれると迷ってもグアム島と教科書に書いてあるので、そのまま書けばいい。
下線(14) ダーウィンの著書といっても一つしか知らないから、それを書けばいい。年代は、『ワンフレーズ』に載っていないですが、追加したこのホームページには載っています(種の起源、一1番8根5源9)。

C 下線設問ばかり。
下線(15) 独立宣言書の上から3〜5行目のところに、なぜイギリス本国と戦っているかの理由を説明した部分にロックの思想は書いてあり、たいてい教科書にもその部分が引用されて資料として載っているはずです。『詳説世界史』なら以下。

 われわれは次のことが自明の真理であると信ずる。すべての人は平等に造られ、造化の神によって、一定の譲ることのできない権利を与えられていること。その中には生命、自由、そして幸福の追求がふくまれていること。これらの権利を確保するために、人類の間に政府がつくられ、その正当な権力は被支配者の同意にもとづかねばならないこと。もしどんな形の政府であってもこれらの目的を破壊するものになった場合には、その政府を改革しあるいは廃止して人民の安全と幸福をもたらすにもっとも適当と思われる原理にもとづき、そのような形で権力を形づくる新しい政府を設けることが人民の権利であること。

 ここに自然権・社会契約説・革命権の3つのことが述べられているのを確かめられますか?
下線(16) 三権分立がもっとも明快につくられた組織として名高い憲法です。先の教科書では、 合衆国の行政権は大統領のひきいる政府がにぎり、立法権は連邦議会(各州2名ずつの代表からなる上院と人口比例による代表が集まる下院)にあり、司法権は最高裁判所が行使し、相互に抑制しあうことによって、権力が一つに集中することをさける三権分立の原則を定めた。 と説明しています。東京書籍なら「人民主権・連邦主義・三権分立を骨子とする合衆国憲法が制定された」とだけ説明していて、とてもこの教科書は薦められません。
下線(17) (ア) あくまで1830年代という歴史の中での表現ですから、たんに民主主義では解答としては不充分です。建国当初から民主主義ですから。「新しい政治のあり方」と問うています。どこが新しいかは拙著『各駅停車』(p.432)に書いてあります。
 (イ) 今年(2007)の東大にも同問がありました。「当時の白人たちは、アメリカの西部への拡大を神から与えられた「使命」と考えていたとされるが、この「使命」を端的に示す用語を記しなさい」と。最近は史家たちは「明白な使命」と訳さないで「膨張の天命」と意訳しています。
下線(18) 「割譲」せざるをえない方法、すなわち戦争です。戦争の名を書け、という問題でもあります。戦争の原因となったテキサスを強引に併合され、そしてこのカリフォルニアとニューメキシコも「割譲」となりました。これは現在の合衆国の地図で確かめたら、いかに大きい地域かが分かるでしょう。現在の州名でいえば、カリフォルニア州・ニューメキシコ州・テキサス州だけでなく、ネヴァダ州・アリゾナ州・コロラド州・ユタ州もふくんだ地域です。計算してみると、テキサス州もふくんで日本の全面積の6.6倍です。
下線(19) カンザス・ネブラスカ法に反対したひとびとがつくった政党です。リンカンの政党は?
下線(20) 鉄鋼王といわれたのがカーネギー、石油王といわれたのがロックフェラーです。カーネギーはもうけた金の一部をかれが乞食少年のときに買えなかった本を無料で読めるための施設・図書館建設に費やします。カーネギー資金援助により建築された図書館は合衆国で2,509、これを含めて全世界に2,811箇所もつくりました。とてつもない。
下線(21) 年代もヒントです。スエズ運河完成と同じ年です。『ワンフレーズ』のゴロは、人1は8ロ6ケ9ット。

京大世界史1998

第1問(20点)
 紀元前から官僚機構を完備させた中国では、官吏登用制度が各王朝の政治・社会や文化に大きな影響を与えた。紀元前後から20世紀初めまでの官吏登用制度の変遷について、300字以内で述べよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。
  

第2問(30点)
次の文章(A、B)を読み、[  ]内に最も適当な語句を入れ、かつ下線部(1)〜(8)についての後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 現代の欧米で使用されている言語、例えば英語の中には、sugar(砂糖)、chequ(小切手)、algebra(代数)など、アラビア語から入った単語がかなり見られる。この事実は、西洋キリスト教世界の文化も、イスラム世界の文化を取り入れつつ発達してきたものであることを物語る。
 それでは、西洋はどのような経路で(1)イスラム文化を取り入れてきたのか。この点で、大きな役割を演じたのは、スペインとシチリアである。8世紀の初頭、スペインに上陸したイスラム教徒は、西ゴート王国を減ぼし、同じ世紀の半ばには、独立した王朝としての[ a ]を成立させた。
 その後、12世紀頃から、キリスト教徒による国土回復運動が進むにつれ、イスラム教徒の支配地域は徐々にスペイン南部へと縮小していったが、彼らの活動は実に(2)15世紀の末まで続いた。この間、[ b ]をはじめ、トレド、グラナグ、セビリアなどの諸都市では、高度のイスラム文化が栄え、これを学ぶために西洋各地から多くのキリスト教徒がスペインに留学し、(3)哲学・医学など、当時世界最高の知識を故国へと持ち帰った。
 一方、地中海最大の島シチリアも、9世紀前半からイスラム教徒の支配下に入り、[ c ]が到来する11世紀後半まで、2世紀半にわたるイスラム教徒の支配が続いた。(4)シチリア回復後のキリスト教徒の君主たちも、熱烈なイスラム文化の愛好者として知られ、シチリアに栄えたイスラム文化は、(5)スペインのイスラム文化と共にイタリアに伝えられ、ルネサンスなど、西洋の文化の形成に大きな影響を与えた。

(1)イスラム文化は、各地の伝統的な文化を接取して発達した融合文化であった。その典型的な1つの実例として、15世紀頃のエジプトで今日の形にまとめられた有名なアラビア語の文学作品の名をあげよ。
(2)15世紀のナスル朝の時代に完成し、今もグラナダに残る華麗なイスラム宮殿の名をあげよ。
(3)哲学・医学などのアラビア語の著作は、11〜13世紀、ラテン語に翻訳され、以後、西洋の大学で教科書として長く使用された。このような著作の著者として、西洋でも名高いイスラム教徒の名を1人あげよ。
(4)このような君主としてよく知られるルッジェーロ2世が、12世紀前半に建てた国家を何と呼ぶか。
(5)古代の中国で発明され、8世紀のバグダード、12世紀のスペインを経て、13世紀のイタリアにその製法が伝えられた物がある。それは何か。

B 中国では明の中期以降、産業が飛躍的に発展する。農業では桑・綿花・茶・たばこなどの商品作物の栽培が各地に広がりつ手工業においても、農民の副業として、綿織物業などが盛んになった。産業の発展にともない、商品の流通が活発となって、全国的な販売網が形成され。塩の販売権を獲得した[ d ]と新安(キ州)商人は、国内の商業界を二分する勢力となった。やがて各地の都市で、同業者や同郷人が互いの結束をはかるために、[ e ]を建設することが広まった。
 この結果、貨幣経済が地方まで浸透し、銀に対する需要が高まったが、明・清両朝は、銀の多くを外国に依存していたので、外国との貿易も盛んになった。明は初め朝貢貿易のみを許し、それ以外の貿易は禁止していた。沿岸の住民の中には、密貿易を行なうものが少なくなかったので、16世紀後半には禁令を緩和して、かれらが東南アジアなどに渡航することを認めた。西欧諸国の中ではいち早く、ポルトガルが中国近海に現われ、[ f ]に居住権を認められ、住民との間に貿易を行なった。
 清は17世紀後半に住民の海外渡航と、外国船の来航を解禁したが、やがて西欧諸国に対しては、貿易港を広州一港だけに制限した。この時期には(6)オランダ・イギリスが、積極的に中国貿易を行なったが、最終的にはイギリスが他国を退けて、優位を確立した。他方清は陸路を通しても、外国との間に通商を行なっている。ロシアとの間には1689年に[ g ]を結んで国交を開き、北京で貿易を行なうことを許したが、後には国境に場所を移した。なお清の朝貢国であった(7)朝鮮は、定期的に北京に使節を派遣したが、これらの使節は、本来の使命以外に、(8)中国の商人との間に貿易を行なって、絹織物・絹糸などを購入した

(6)オランダが、アジア貿易の根拠地としたジャワ島の都市はどこか。
(7)朝鮮において官学とされた思想は何か。
(8)17・18世紀の朝鮮の使節は、貿易のために主に銀を持って行ったが、朝鮮が銀を輸入したのはどこの国からか。

第3問(20点)
 20世紀の2つの世界大戦の間に、イタリアとドイツでは、ファシスト党とナチスがそれそれ一党独裁を実現し、ファシズムと呼ばれる全体主義国家体制を樹立した。このような国家体制が両国において成立した理由について、19世紀後半の国家統一以来の両国の歴史を視野におさめながら、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。
  

第4問-(A)(15点)
 次の文章(a〜c)を読み、下線部(1)〜(9)についての後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

a ギリシア本土の諸ポリスの対立・抗争が激しさを増していた紀元前4世紀半ばに、北方のマケドニア王国が勢力を急速に拡大してきた。(1)とくにその王フィリッポス2世は抵抗するポリスを戦いで打ち破り、ギリシア世界を支配下に入れた。その後まもなくフィリッポスは暗殺されたが、その子アレクサンドロス3世(大王)は父親の遺志を継いでマケドニアとギリシアの連合軍を率いて東方遠征に向かい、遠征の目的であったペルシア帝国打倒を果たした後も東方への進軍を続けて、インド西北部まで達した。10年に渡る遠征の結果、ギリシアからオリエント世界に及ぶ大帝国が生まれた。アレクサソドロスは新たな政策を次々と断行したが、若くして病没し、(2)その死後部下たちの争いが生じて大帝国は分裂した。(3)アレクサンドロスの東方遠征以降の約300年間は今日ヘレニズム時代と呼ばれているが、(4)この時代にはギリシア文化が普及して、オリエントの要素と融合し新たな文化を生み出した

(1)フィリッポス2世をギリシアの自由と独立の敵として打倒することを呼びかけたアテネの有名な弁論家は誰か。
(2)部下の一人が支配するようになったエジブトでは、首都が大いに繁栄して、自然科学の研究も盛んになされた。その中心となった首都の施設の名を答えよ。
(3)ヘレニズム(ヘレニスムス)の概念を初めて用いた19世紀ドイツの歴史学者は誰か。
(4)この時代の文化を代表する彫刻を一つ挙げよ。

b (5)527年に即位したビザンツ(東ローマ)帝国皇帝ユスティニアヌス1世は、治世初朗の反乱鎮圧に成功すると、ロ一マ帝国の旧領の回復に乗り出した。そして、北アフリカのヴァングル王国、イタリアの東ゴート王国を征服し、地中海を内海とする大帝国を再建した。また、国内ではトリボニアヌスらに命じて大規模な法典編纂事業を行い、(6)首都に壮大な聖ソフィア聖堂を建てさせた。しかし、ユスティニアヌス帝の死後、広大な領土の支配は崩れ、やがてイスラム教徒の進出によってビザンツ帝国の支配は大きく後退することとなった。

(5)この皇帝は、即位後まもなく、古代から続いていた有名な学問所を閉鎖させた。この閉鎖された学問所の名を記せ。
(6)聖ソフィア聖堂はビザンツ式建築の代表例とされるが、このビザンツ式建築の特色について簡潔に説明せよ。

 封建社会が安定した11〜12世紀の西ヨーロッパでは、外に向かっての拡大運動が引き起こされたが、その最大のものが十字軍遠征である。(7)ビザンツ皇帝の救援要請に応えて、教皇ウルバヌス2世は1095年のクレルモン公会議で、聖地奪還をめざす十字軍遠征を提唱した。そして、その翌年に出発した第1回十字軍は、聖地を奪取してイェルサレム王国を建てた。しかし、(8)その後イスラム教徒が勢力を回復したため、幾度も十字軍遠征が行われることとなった。13世紀後半まで7回の十字軍が起こされ、一時聖地を奪回したことがあったものの、ながく維持することはできず、また(9)次第に当初の理念も失われるようになって、結局遠征は失敗に終わった。

(7)ビザンツ皇帝はなぜ救援を求めてきたのか。その理由をごく簡潔に記せ。
(8)12世紀後半にイェルサレム市を奪回したイスラム教徒勢力の指導者の名を記せ。
(9)第4回十字軍は聖地に向かわなかった。この十字軍の遠征の経過と背景について。100字以内で説明せよ。

第4問-(B)(15点)
 次の文章を読み、下緑部(1)〜(9)についての後の問に答えよ。解答ほすべて所定の解答欄に記入せよ。

 ヨーロッパでは、(1)中世末から16世紀にかけてイギリス、フランス。スペインなどで国王が諸侯や騎士をおさえて権力を強化する一方、教皇の権威の低下や宗教改革によってラテン・キリスト教文化圏の精神的な一体性が揺らぎ始めた。こうした動きを背景に、個々の国家が独立した政治的主体として国際秩序の形成に関与する主権国家体制が生みだされた。そのきっかけとなったのは、(2)1494年に始まった国際戦争であった。この戦争では、ハプスブルク家とフランスのヴァロワ家とがヨーロッパの覇権をめぐって争い、イギリス、ヴェネツィア、ミラノなども加わって複雑な外交をくりひろげた。最終的に1559年のカトー=カンブレジ条約によって講和が成立するまでの間に、旧教国であるフランスはハプスブルク家に対抗するためにドイツの新教勢力や(3)東方の非キリスト教国とも同盟を結んだ。こうして、(4)特定の一国が強大とならないように各国が主義や体制の違いをこえて同盟し、互いに牽制(けんせい)し合うことによって国際秩序を維持しようとする考え方が生まれた。(5)17世紀前半の三十年戦争においてもフランスは、ハプスブルク家の強大化をおそれてデンマーク、スウェーデンなどの諸国とともに新教徒側を支援した。その後、ヨーロッバの国際関係は、大陸ではフランスとハプスブルク家との対抗関係を基軸に展開する一方、海外では植民地の支配をめぐってオランダとイギリス、次いでイギリスとフランスとの対立が強まり、ヨーロッパ本土の戦争と海外の植民地争奪戦はしばしば密接に結びつきながら進行した。(6)18世紀にはいると中・東欧でプロイセンとロシアが台頭し、ヨーロッパ大陸の国際関係にも変化が生じた。18世紀末にはポーランドがロシア、オーストリア、プロイセンの領土拡張の犠牲となり、また、(7)フランスで革命が勃発すると、革命に反対する諸国とのあいだで戦争が始まった。革命によって主権在民の原則が確立されたフランスでは、諸外国からの干渉に対する戦いは、王朝の利害に基づく従来の戦争とは異なり、市民的軍隊による国民戦争の性格を帯びた。列強の軍事的包囲を持ちこたえたフランスはやがて攻勢に転じ、ナポレオンは国民軍を率いて大陸制覇に乗り出した。この戦争によって革命の理念が大陸の諸国に拡大する一方、(8)諸国民のあいだではフランスの軍事的支配に対する反発も生まれた。ナポレオンの没落後、革命前の王朝を正統とする復古的な考え方に基づいて国際秩序の再建が図られたが、(9)自由主義やナショナリズムの勃興によってこの体制も徐々に崩壊に向かった

(1)ばら戦争後のイギリスで集権化を推し進めた王朝の初代の国王は誰か。
(2)〔1〕この戦争の名を記せ。
   〔2〕この戦争の危機に対処するためには、宗教や道徳にとらわれずに行動する政治指導者が必要であると説き、近代政治学の先駆者となった思想家は誰か。
(3)この国が1535年にまずフランスに認め、その後イギリスやオランダにも与えた特権は何と呼ばれるか。
(4)この考え方の核となる概念は何か。
(5)〔1〕この戦争の惨禍を見て、国際間で守られるべき法規の確立を主張したオランダの法学者は誰か。
 〔2〕この戦争を終結に導いた講和会議は、最初の近代的な国際会議ともいわれる。この会議で結ばれた条約の主な内容120字以内で説明せよ。
(6)プロイセンの勢力拡大に直面したオーストリアはついに宿敵フランスと同盟を結び、孤立したプロイセンはイギリスと結んで戦争を起こした。この戦争の名を記せ。
(7)フランス革命による国際関係の変化をふまえて、恒久平和の達成こそが国際政治の中心的課題であり、そのためには自由な国家間の連合が必要であると説いたドイツの哲学者は誰か。
(8)スペインでもナポレオンの支配に対する民族主義的抵抗が起こった。この抵抗運動を主題とする「5月3日の処刑」をはじめ、民族文化をふまえて幻想的・風刺的作品を描いたスペインの画家の名を記せ。
(9)この体制にいち早く打撃を与えたのは、ラテン・アメリカ諸国の相次ぐ独立であった。この時期、アルゼンチン、チリ、ペルーなどの独立運動を指導した人物の名を記せ。

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コメント
第1問

 素直なわかやすい要求です。時間が「紀元前後から20世紀初めまで」、テーマは「官吏登用制度の変遷について」です。明清の科挙がどれだけ書けるかで少しは差がつきます。
 科挙に受かるとどんなことが起きるか?
 ここに科挙に合格して帰郷する朱徳という人物の記録がある。
 「甥のひとりは、遠方から手を振り叫ぶ朱徳をみとめると、手を振りかえすことも忘れて、野良を飛び走って家に向い、それから、まるで大騒ぎになり、何もかもきりきり舞だった。朱が家に着くまでには、全家族が二列にならんでいて、彼が近づいてゆくと、彼に向ってうやうやしく頭をさげた。息子としては扱わず、養父が礼をしながら家にみちびき入れ、広間のいちばん上席にすわらせた。まわりの家族のものみんなの眼は誇りにかがやき、みな、貧者が高貴権勢の人に話す時の、かしこまった敬語で、彼に話しかけた。……家中が清掃され、彼のために特別の御馳走がつくられ、また、家のだれもが、かつて自分ひとりの室など持ったことがなかったのに、彼だけのために特別の室が取ってあって、そこには、家中での最上等の寝台と卓と椅子とがそなえられていた。なおその上に、ただ一つの上製の寝床用の敷物も彼にあたえ、また、夜の灯火というぜいたくを満たさせるために、種油を使用する裸のランプまでがあった」(アグネス=スメドレー著、安部知二訳『偉大なる道-朱徳の生涯とその時代-』岩波文庫)
 この後に朱徳のどんでんがえしが待っているのだが、面白い伝記なので読む人に知らせないほうがいいだろう。この短い抜粋だけでも、今の日本で大学に受かるのとは大部ちがうらしいことは判ってもらえるのではないか。
 さてこの科挙を制度史として書かせる問題。
 第一文の「紀元前から官僚機構を完備させた中国では、官吏登用制度が各王朝の政治・社会や文化に大きな影響を与えた」は科挙の重要性を述べて前置きとしている。まだ問題には入っていない。もしこれも問題要求に含めるとすれば、300字で書くことはほぼ不可能である。要求は「影響」ではなく「紀元前後から20世紀初めまでの官吏登用制度の変遷について」である。純粋に制度史である。「変遷」の理由も要求していないが、文章としては出てこざるをえない面がある。
 教科書で充分解ける易しい問題だ。
 ポイントは七つ。1 前漢の郷挙里選、2 三国魏からの九品官人法、3 隋からの科挙の開始、4 宋の殿試、5 元の中断、6 明清の継承、7 1905年(20世紀初頭)の廃止。注意しなくてはいけないのは、どの制度の変遷にも変遷の王朝・時期がちゃんと示されているかどうか、である。長い時間的流れの問題は数字なり時代表現を文章中に入れこむことは必須である。
 教科書の例をあげてみよう。以下は『詳説世界史』山川出版社のもの(駿台としてこの教科書を推薦していない、たんに多くの学生が持っているからという理由だけ)。
 1 官吏の任用は地方長官の推薦(郷挙里選)に拠ったため、地方で実力を持つ豪族は官僚となって権力をにぎった。
 2 三国の魏から九品中正がはじめられた。これは地方に中正官をおき、人材を9等級にわけて推薦させるのであるが、結果的には有力な豪族の子弟を推すことになり……
 3 隋……九品中正の法を廃止して、試験によって広く人材を求める科挙が実施された。……唐は隋の制度をほぼそのまま採用しながら、……科挙制を強化する
 4 (宋の科挙の注)皇帝みずから試験官となり宮中でおこなう最終試験の殿試も宋代にはじまり、君主独裁制を強化した。
 5 元……はじめは科挙もおこなわれず、中国の士大夫とくに儒者が打撃をうけた。
 6 洪武帝は……朱子学を官学とし、科挙制をととのえ、清は中国統治にあたって明の制度を採用しながら、……科挙をさかんにおこない、学者を優遇し、学問を奨励した。
 7 義和団事件後の清朝は、官制を改め、科挙を廃止する(1905年)などの改革を進めた。
 これを「……」や( )を除いて全部そのまま単純につなぎ合わせると381字になる。字数オーバーである。
解答例 1
前漢の武帝は、地方長官の推薦によって地方豪族を官僚とする郷挙里選をはじめた。三国の魏からはじめた九品官人法は、地方に中正官をおき、人材を9等級にわけて推薦させるのであるが、結果的には門閥貴族を育成した。その弊害を打破すべく隋は試験によって広く人材を求める科挙を実施した。唐も隋の制度を採用する。宋代には皇帝みずから試験官となり宮中でおこなう最終試験の殿試もはじまり、君主独裁制を強化した。しかし元では初めは科挙もおこなわれず、中国の士大夫に打撃をあたえた。明の洪武帝は朱子学を官学とし、科挙制をととのえ、清は明の制度を採用し科挙をさかんにおこなった。義和団事件後の清朝は、1905年科挙を廃止する。(299字)
 より制度の中身に肉薄した解答にすると次のようになる。
解答例 2
前漢の武帝の時代に、郷挙里選という地方官が有徳者を推薦する官吏登用法が施行された。これは地方豪族の中央政界進出につながった。魏の文帝が中正官を派遣し有能者を9段階に分けて推薦する九品官人法を創始したが、この制度は門閥貴族の台頭を促した。この門閥貴族の弊害を打破するために、隋の文帝から始められた試験選抜による科挙は、唐を経て宋代で殿試が加えられて、皇帝独裁体制を支える制度として完成した。その結果、家柄ではなく知識が支配階層の条件となった。科挙は元で一時中断されたが、のち復活し、明清ではより複雑な制度に発展した。しかし知識や制度の固定化を招き、清末の列強の進出に対応できず、1905年に廃止された。(300字)
解答例 3
前漢は地方官が豪族と合議のうえで有徳な人材を推薦する郷挙里選をはじめた。三国魏は中正官を派遣して豪族の世論を聞き、官僚候補生を才徳に応じて九段階に分け推薦する九品官人法をはじめ南北朝に継承されたが「上品に寒門なく」の弊害が生まれた。隋唐は試験による選挙によって門閥貴族を牽制しようとしたが、高官は貴族が合否を決め、かつ恩蔭があった。宋では中央の高官は殿試という皇帝による試験によって選んだ。元は初め科挙を実施せず、復活しても漢人南人には不利であった。明は科挙を全面的に復活し、本試験前に学校試を加え、次の清朝はより複雑なものにした。科挙は西欧進出と日清戦争の敗北から改革を迫られ1905年に廃止した。(300字)
 解答例3のコメント:例2とともに九品官人法という表現にして九品中正法としていないが、正式名称は前者である。
 例3の「隋唐による選挙」といって科挙と言っていないのも、当時の表現は選挙で、科挙は宋代からであるため。
 「高官は貴族が合否を決め」は吏部試のことを言っている。宋代に皇帝臨席の試験である殿試がはじまるが、その前に中央の官僚は門閥貴族が試験官である吏部という人事院みたいなところで、「身言書判」といって、身なり、言葉づかい、字の美しさ、法の知識を問う試験があった。この門閥貴族の人事権を奪ったのが殿試であり、皇帝が及落の決定権をもつことで、及第者はそれを恩義に感じ、皇帝から合格の宴会に呼ばれた受験生は「骸骨」を捧げることを誓うのである。
 「恩蔭(おんいん、任子にんし)」とは裏口入学の制度で、これが幅を利かしていて隋唐時代は合格者も少なく、いかに門閥貴族を牽制しようとしても無理であった。しかし試験の合格者の実力はじわじわと効いてきて、しだいに重きをなす。とくに則天武后の選挙官僚の多用が知られている。
 元ははじめから科挙をおこなわず、1313年に実施しはじめたが、蒙古人や色目人は倍率が低く易しく、漢人・南人には不利であった。合格しても低官にしかなれなかった。科挙は前後8回おこなわれているが、及第者の総計は278名で、これは宋代の1回分の合格者にも及ばなかった。しかし朱子学が科挙の標準テキストとして採用された初めてのケースではあった。
 「学校試」とは、受験生の数が増えてしまったため、本試験の科挙の前に、学校試(童試)というものをおいた。もともと科挙を受験する資格として学校で勉強することは必須ではなかった。偉い先生について勉強してもいいし、受験勉強としての機関であった学校でまなんでも、独学でも構わなかった。しかし明朝が学校の卒業生に限ることにしたため、学校に入って卒業することが、科挙受験の条件になった。
 それが清朝になると、学校試も三つになり、順にあげると、県試→府試→院試、これで合格すると県学、府学などに配属されてその生員(学生)となる。生員は官吏に準ずる待遇を与えられる。さてこんどは本試験の科挙試で、まず郷試。これに合格すると挙人の資格をもらい、会試の合格者は貢士と称せられる→殿試に合格すると進士という称号を受け、高級公務員に任用される資格を得る。
 科挙は従来から行政・財政などの実務のかかわりのない教養試験であり、西欧の圧力の下では役に立たなくなり、1905年に廃止し新大学の卒業生を採用する。日清戦争の敗北と日露戦争の日本の勝利から、多くの中国人留学生が、この時期に日本にきた。科挙廃止後は、とくに多くなり約1万人の留学生が日本に来ていた。日本には日本の理由があった。三国干渉に対する不満と列強の中国分割が日本の進出の余地をなくすという「危機感」と、支那保全と言いつつ、留学生を積極的に受け入れて中国抱き込みを図るのが得策だとの思惑である。東海の島国に学ぶことの屈辱を覚えながら中国人はやってきた。
第2問 イベリア半島史はすでに10年ほど前に二回出ている(87、88)。ここでは特にイスラム文化を重点にした問題である。
 問(1) 条件は多く「各地の伝統的な文化を摂取して」「15世紀頃のエジプトで今日の形にまとめられた」「有名なアラビア語の文学作品」とあれば、『千夜一夜物語(千一夜物語、アラビアンナイト)』しかあげることはできない。もっとも教科書には「16世紀初めのカイロで現在の形にまとめられた」(詳説世界史B、山川出版社)、「16世紀初頭に」(新世界史B、山川出版社)、「マムルーク朝が滅亡したころ(1517年、これは著者の注)に現在のかたちにととのえられていたものと推察される」(世界史B、第一学習社)とあり、「15世紀頃」という大まかなものではない。また、「最後の仕上げは海路で行なわれ、そこにマムルーク朝が、16世紀初めにオスマン・トルコ帝国に征服された頃には、もはや大体、現在のような形を整えていたらしいというのが、最も有力な説である」(『新潮世界文学小辞典』新潮社)とある。平凡社の東洋文庫のなかに、前島信次・池田修訳の『アラビアン・ナイト』18卷があり、その中に、コーヒー・煙草の話しが出てくるので、16世紀でしか書けないもの含まれている、との指摘がある。片意地な受験生でなければ、答えるに特に問題ではないが……。  
 空欄a 「8世紀の初頭……同じ世紀の半ば」に成立した王朝とあるから、756年にできた後ウマイヤ朝である。
 問(2) イベリアのイスラム王朝としては最後の「15世紀のナスル朝の時代に完成し」、その都でもあって「今もグラナダに残る華麗なイスラム宮殿」とあれば、これも容易でアルハンブラ宮殿しかない。柱がたくさん立っている中庭の写真が教科書にカラーで載っている。ほとんどは14世紀にできたものだそうで、130×180mの敷地に建っている。その名は、城壁の煉瓦、あるいは丘陵一帯の赤土を指すと思われるアラビア語のアル・ハムラー「赤いもの」の意味らしい。
 空欄b イスラム文化が栄えた都市として学んだ人はわずかであろうが、「トレド、グラナグ、セビリアなどの諸都市」以外で、イスラム史に関係する都市といえば、後ウマイヤ朝の都コルドバが浮かんでこよう。コルドバより、カタルーニャ・トレド・シチリアが翻訳の三大中心地であったが。当時の人口は10万人(ちなみにパリも同じくらいだった、ロンドンは10万人以下であった)、城壁外居住地区は21を数え、東方のバグダードやコンスタンティノープルとその威容を競ったという。蔵書数40万冊と伝えられる王宮図書館があり、壮大な王宮などから、「西方の宝石」と呼ばれた。西欧の中世に大学がないときに、ここには高校を含んだ17の大学があったという。西欧で舗装道路がないとき、ここには整然とした道路が走っていたのだ。この都市には外科で知られたアブー=アルカーシム、詩人のイブン=アブド=ラッビフ、イブン=ザイドゥーン、伝記作家のイブン=アルファラディー、恋愛論のイブン=ハズム、そしてなにより挙げなくてはいけない神学者・哲学者のイブン=ルシュド(アヴェロエス)がいた。この都市から西欧にかの練金術も伝えられた。
 問(3) 「西洋の大学で教科書として長く使用された」という学者で教科書的に名高いのは、『医学典範』で知られたイブン=シーナー(アヴィケンナ)である。しかし、シーナーだけに限る必要はない。他に、数学のフワーリズミー、天文学のアル=バッターニとアル=ファルガーニ、医学のアル=ラーズィー、哲学者アル=ファーラビー、物理のアル=キンディーと枚挙にいとまがないくらい、あることはある。教科書には書いてない。
 空欄c・問(4) 「イスラム教徒の支配」の後に「到来する11世紀後半」の民族は、後の下線文「(4)シチリア回復後のキリスト教徒の君主たち」がヒントにもなっている。「ロロにひきいられた一派は北フランスの一角にノルマンディー公国をたて、その一部は地中海にも遠征して、12世紀前半、南イタリアとシチリアにかけて両シチリア王国を建設した」(詳説世界史B)とある。1040年以降イスラム勢力の首長たちの間に内紛が生じ、すでに島の東北にあるメッシナに定住していたノルマン人がこの内紛に乗じて、1061年から91年までに全島を征服した。その指導者がルッジェーロ1世(英語でロジャー1世)で、その子がルッジェーロ2世である。
 問(5) 「8世紀のバグダード」が大きいヒントになる。751年のタラス河畔の戦いで紙漉職人が捕虜となり、まずサマルカンドに伝えられて、あとは問題文にあるように西伝し、地中海世界の記録紙であった羊皮紙に代わる。

B 空欄d 教科書では、新安商人と山西商人はセットで出てくるので容易であった。ともに政商(政治家・政界と結びついてもうける商人)で、一族から多数の高級官僚も出し、その財力をもって学問と芸術のパトロンとなった連中でもある。明の北方防備が強化されると山西商人は軍糧の輸送を担当して巨利を得、政権と結びついた。塩・穀物・絹織物・綿布・木材・運輸・質屋・鉄・茶・染料などを扱い、その範囲も全国に及び山西会館をたてた。清朝とも密接な関係を結び、とりわけ金融・為替業を独占する。
 空欄e 会館(公所)は同郷、同業、同窓などの団体が会合や宿泊のためにたてた建物。従来は官吏専用であったが、商品流通が盛んとなり、科挙の受験生も増加した明清には、多くの機能を備えた施設となった。取引所・事務室・宿泊所(受験宿)・集会場・付属の学校や、郷里に埋葬するまで棺をあずかる施設、共同墓地・病院、演劇を行う舞台などを併設していた。地方都市では市場の管理・警察・裁判・福祉などの事務にもあたった。長崎・神戸、シンガポールなど東南アジアの諸都市にもあり、在留中国人全体をあつめた中華会館を建てるのが慣例であった。
 空欄f 1557年にポルトガルが明朝の海賊討伐を援助したため定住を許されるようになり、年500両の貢金をおさめることになった。1887年ポルトガルと清朝との条約の締結により、清朝はマカオおよび属島をポルトガル領として認め、以後ポルトガル植民地となる。いずれ香港と同様に返還され、一国二制度が適用され、特別行政区となるはずである。
 問(6) 「オランダの」とあるので現在の名のジャカルタよりBatavia バタヴィア(バタビア)とする。名前としてはジャカルタのほうが古い。1527年にイスラム軍が、侵入したポルトガル人を追放し、地名をジャヤカルタJayakarta(「偉大なる勝利」の意)とした。ジャヤカルタは、ジャカトラJacatra(日本ではジャガタラ)となまって世界に知られるようになる。16世紀末にオランダ船が来航し、1619年にオランダとイギリスの東インド会社がジャカトラの支配をめぐって戦火を交えたが、オランダ軍が勝利し、地名をバタビア(オランダ民族のラテン名バタウィに由来)と改めた。この名はナポレオン戦争時に一時オランダをバタヴィア共和国と改名したことでもででくる。
 空欄g 清とロシアとの間に最初に結ばれた国境条約。1685年と86年にロシアの前進基地アルバジン城塞をめぐって両国の間に攻防戦が繰り返された。城塞を包囲した清軍にたいして和解し、アルグン川とスタノヴォイ山脈(外興安嶺)をもって両国の国境とし、城塞の撤去、両国の通商、逃亡者処理、不法な越境の厳禁などを取り決めた。この条約は、清が外国と結んだ最初の対等な条約になる。清の全権団にラテン語通訳として同行したのは2人のイエズス会士であった。満州文・ラテン語文・ロシア語文を交換した。
 問(7) これも易しい問題。李氏朝鮮が「高麗の仏教にかわって朱子学を公認の教えとした」ことは教科書にある。李氏朝鮮の朱子学は特異な歴史をもっている。中国とちがい、仏教も陽明学も異端思想として厳しく拒絶し、李朝500年間にわたり朱子学一尊を貫徹した。朱熹の文集全巻にわたる精密な注釈の仕事があり、他の国では例をみず、朱子学そのものも深化させた。
 問(8) 問題文の「本来の使命以外に」というのは朝貢が、貿易も兼ねていたことを指しており、これは中国も認めていて日本も同じだった。勘合貿易がそれだ。勘合船の搭乗者は1隻150人〜200人くらいだが、使節団としての官員や水夫のほかは大部分が商人である。この貿易は滞在費・運搬費などすべて明側が負担したから、日本側の利益は大きいものだった。
 もともと朝鮮から、きびしい取締りを犯して銀を輸入していたが、1538年ごろより日本の銀鉱山採掘が盛んとなり、逆転して日本から銀輸出が始まる。16世紀は墨銀(メキシコ銀)が名高いが、日本も当時の世界の銀生産の3分の1をしめるほどの銀の国だった(メキシコ25万kg、欧州15万kg、日本20万kg)。朝鮮船や中国船の来航の目的は日本銀にあり、次いでポルトガルやオランダも日本銀と中国商品の仲介貿易をおもな内容としていた。

第3問 論述のテーマとしてファシズムはありきたりのものであるが、この問題の読みがむつかしいし、書くのもむつかしい。「イタリアとドイツでは、ファシスト党とナチスが」と両国一緒にして、「それぞれ一党独裁を実現し、ファシズムと呼ばれる全体主義国家体制を樹立した。このような」という共通の「国家体制」現象が「成立した理由について」説明する。それも歴史的に過去としての「19世紀後半の国家統一以来の両国の歴史を視野におさめながら」という条件がついている。「国家統一」も両国とも「19世紀後半」であり共通の歴史をもっている。両国に共通の歴史的理由があるはずだ、それを説明せよ、という問題である。
 とすれば、「イタリアは……、ドイツは……」という別居した述べかたはマズイことになる。似たものどうしの理由が必要だ。統一の類似性を求めているわけではないから、統一過程をだらだら述べると要求からそれてしまう。また、イタリアはファシスト党の成立、あるいは一党独裁が20年代に成立しているのに、ナチスは30年代だから、双方とも大恐慌で強引にくくってしまうこともデキナイ。
 両国の統一以来の歴史をかんたんに書きだしてみて、共通要素をつかみだす、という作業ができるかどうかにかかっている。比較の基本的な作業である。しかし「統一以来の両国の歴史」といっても第一次世界大戦まではともに対外進出のことしか書いてない。しょうがない。小党分立、社会主義政党の活動、農業を犠牲にした工業化、議会政治の未発達、独占の形成といろいろあるが、両国ともこれらのことについて述べてあるわけではない。なんとか、あくまで教科書のデータに限ってやってみよう。以下は教科書の抜き書きである。
 イタリア:1861〜1922
1 もともと分裂を続けていた
2 ローマ教皇はヴァチカンの教皇庁にこもって、イタリア政府と対立
3 統一しても「未回収のイタリア」あり
4 1900年前後は帝国主義政策
5 約束された領土をえられず、ヴェルサイユ体制に不満
6 戦後、イタリアは激しいインフレーションにみまわれ、国民の生活が苦しく
7 労働者は急進的な改革を求めた
8 弱体な政府を批判して
9 地主・資本家・軍人層の支持をうけた
 ドイツ:1871〜1933
10 連邦体制のもとで政治的分裂が続いていた
11 ドイツから除外されたオーストリア(ザール、ズデーテンなど)
12 議会は政府に対して無力
13 「世界政策」の名のもとに積極的な帝国主義政策
14 ヴァイマル政府の政局と経済は安定しなかった
15 カトリック教徒は新教国プロイセンの支配をよろこばず、中央党を組織して政府に反対
16 ドイツ民族の優秀性を主張し、ヴェルサイユ条約の破棄、植民地の再分配
17 世界恐慌によって失業者が増大
18 共産党が進出する
19 産業界や軍部もヴァイマル共和政をみすてて、ナチスに期待
 これらの記述を見ると、1と10、2と15、3と11、5と16、6と17、7と18、9と19とが共通要素である。4と13の帝国主義政策は国内的原因があるとしても国内ファシズム成立の強力な理由になりにくいからはずしてしまう。受験場でこの全部を想起することはできなくても、数点の事項で作文することは可能だろう。
〔解答例〕
両国はもともと長い分裂の歴史をもち、統一後も分裂的性格をぬぐえなかった。また統一した後も統一国家の中に入らなかった民族同朋の地域に対する「回収」「帝国」の渇望をもちつづけた。また教皇庁と中央党というカトリック勢力との対立がつづいたこと、労働者・共産党の社会主義運動がさかんである、という共通点ももち、王国政府もヴァイマル共和国政府も政局の不安定さは否定できない。またイタリアは第一次世界大戦直後の、ドイツは大恐慌後の経済的破綻にみまわれ、失業者が増大し、一気に解決してくれる独裁的人物・政党を求めた。さらに新興の中産階級、社会主義の伸長をおそれる資本家・地主・軍人がファシズムを積極的に支援した。(298字) 
 こうした共通要素を求める問題は、「比較」タイプの問題であり、京大はよく出題している。これまでは比較して相違を求める問題だった。
 1. ギリシア文化の東西両方向への普及には、受容の仕方や影響の面で重要な相違を〔92年3〕、2. シュメール人の都市国家、ギリシアのポリス、中世ヨーロッパの都市の各々の特色を、相違を明確にしつつ〔97年3〕、3. 2つの共和政が植民地の独立化の動きに対してそれぞれどのように対処したかを、両共和政の政治形態の違いにも触れ〔97年3〕。また特色を求める問題にも比較がある、「東ローマ「ビザンティン」帝国では、西ヨーロッパとは異なる独自の文化が形成された。この文化の特色を」〔89年3〕と。比較ほどうまく書けないものはない、というのが教えてきた経験からの実感である。昨年度の解説を参照して試しにやってみるといい。

第4問(A)
a
 問(1) 親マケドニアのイソクラテスに対抗して「ポリスの独立」を擁護する弁論家デモステネスは教科書にでてくる。くちごもる癖とRの発音がうまくできないため口の中に小石を入れて発声したり、大波にむかって大声の発声練習をした結果、熱弁家として知られるようになった。マケドニアが勢力を伸張してくる情勢に対抗し、反マケドニアの立場を鮮明にしたが、前322年の敗戦でアテナイはマケドニアに降伏し、死刑を宣告されたデモステネスは亡命し毒を仰いだ。
 問(2) 「首都」アレクサンドリアにある自然科学の研究所名。ムセイオン Mouseion は王立研究所、学術研究所を指し、ラテン語でmuseum。これがヨーロッパで美術館や博物館を意味する語となる。古代ギリシアでは美術品収蔵所をムセイオンと呼ぶことはなかった。もともと学芸や音楽をつかさどる9人の女神ムーサイ(英語のミューズにあたるムーサの複数形)の祠堂(神をまつった小さい建物)の意。学員たちがムーサイを崇める宗教結社の形で学塾が構成された。このようなムセイオン(ムーサイ結社)はプラトンのアカデメイアもアリストテレスのリュケイオンもそうした例になる。
 問(3) 小ドイツ主義(プロイセン主導のドイツ統一)の熱烈な信奉者であった。アレクサンドロスはギリシアの統一を実現した人物であり、プロイセンによるドイツ統一の夢が託されている。「ヘレニズム」という時代概念をつくった歴史家。
 問(4) ルーブル美術館にある二つのものが特に名高い。「ミロのビーナス」とサモトラケ島に出土した勝利の女神像「サモトラケのニケ」である。後者はこの美術館の入ったすぐに見上げるとそびえたっているので、特に印象深いものだ。他に「ラオコオン(と息子たち)」や「瀕死のガリア人」もよく教科書に載っている。
b
 問(5) キリスト教思想に反するという理由で閉鎖したのは、先にあげたプラトンのアカデメイアである。この学園は900年余にわたって存続し、皇帝の529年の勅令により活動停止するまで古代ギリシア・ローマ世界における学問研究のセンターであった。
 問(6) 中世の建築様式は順に、バシリカ様式⇒ビザンツ様式⇒ロマネスク様式⇒ゴシック様式となり、この2番目の様式は、6世紀の聖ソフィア寺院(ハギア=ソフィア)に代表される。ヴェネツィアのサン=マルコ大聖堂もこの様式だが、内部のモザイクは14世紀に完成している。土台の正十字に、煉瓦造りで、方形の上をおおう独特の円蓋をもつ。外観は鈍重で飾りがなく、中は暗くて穴蔵に入っていくような入口を抜けると、内部には黄金の世界がひろがっており、金色ほかのモザイク・色大理石・金銀細工・染織品などで豪華に飾りたて、悪くいえばギラギラした感じ、良くいえば神秘的な超自然的雰囲気をかもしだしている。
c
 問(7) 1071年のトルコの東部マラーズギィルドの戦いでビザンツ帝国軍はセルジューク朝軍に敗戦しており、さらに1081年にはトルコ西部のニケーア市をセルジューク朝は占領した。この時から皇帝は西欧諸国に救援要請をするとともに、対イスラム防衛戦争にノルマン人出身のシチリア遠征隊をはじめ西欧騎士の傭兵隊を使っていた。ローマ教皇庁のビザンティン帝国救援政策が「聖地解放」という名目をたてて十字軍として具体化された。したがって「侵入してきたため」では救援要請にはならないので、答に「対抗しきれなかったため」というのが加わっている。
 問(8) 世界史では「クルド人」出身として唯一登場する人物。アイユーブ朝の創始者であり、異教徒を公正に扱ったため、その博愛主義がヨーロッパの文芸作品にもサラディンSaladinの名でしばしば登場する(レッシングの『賢者ナータン』やW.スコットの『タリズマン』など)。
 問(9) 問題の易しさと、100字という短さから、ちょっと論述とは呼びにくいもの。ポイントは5つ、1. 提唱者の教皇インノケンティウス3世の名。2. ヴェネツィア商人の主導であること。3. コンスタンティノープルを占領。4. ラテン帝国を建国。5. 背景には東方貿易での優位を確保しようとするヴェネツィアの意図(商業圏or商権の拡大)。
(B)
 問(1) ばら戦争の決定戦ボズワースの戦でリチャード3世を破り、かれの頭から落ちた王冠を拾い上げてじぶんの頭にのせたのが、ヘンリ(ー)7世である。
 問(2) 1) ヒントは後の文「ハプスブルク家とフランスのヴァロワ家とがヨーロッパの覇権をめぐって争い」である。「1494年に始まった」この戦いは16世紀の半分までかけて長い戦い(1559年まで)がおこなわれ、国王たちも何人か代わった。とくに、16世紀はじめのフランソワ1世とカール5世との戦いが知られている。この戦いはナポリ王国の継承権を主張するフランス国王シャルル8世のイタリア侵入(1494年)からはじまり、カール5世の後を受けたフェリペ2世とフランス王アンリ2世とのあいだで問題文にある「カトー=カンブレジ条約」が結ばれ終わった。スペインに金が尽きたためである。  
 2)「近代政治学の先駆者」と言えば『君主論』のマキァヴェリしかない。前文の「宗教や道徳にとらわれずに行動する政治指導者が必要である」という点は、「君主は、野獣と人間とをたくみに使いわけることが必要である」「民衆というものは、頭を撫でるか、消してしまうかしなければならない」「要するに加害行為は一気にやってしまわなくてはならない」(世界の名著16、中央公論社)などという現実的な君主の行動論に説明されている。
 問(3) 「東方の非キリスト教国」とあって世紀が16世紀で、ヨーロッパに接しており、フランスと同盟関係を結んだ国といえば、オスマン=トルコ帝国である。その西欧に与えた「特権」はカピチュレーションという。これは、商習慣や法体系の異なる国家間で、相互に商業活動の円滑化を促進するための特権で、外国商人に対し、自国内で通商や交易の自由・航海の安全・税の免除・家屋所有権の取得・自国法による領事裁判権の承認などを保障したもの。「治外法権」を認めることと同じである。フランスに1536年、イギリスに1579年、オランダに1613年にこの特権を認めた。
 問(4) 勢力均衡 balance of power は「特定の一国が強大とならないように各国が主義や体制の違いをこえて同盟し、互いに牽制し合う」体制を言い、代表例はナポレオン戦争のフランスによる欧州制覇に対する反省からである。強国・大国が世界支配を二度としないように、いくつかの国家が対抗勢力を結集して均衡を保つ方法だ。これを転換するのが20世紀の集団安全保障である。
 問(5) 1. 「国際間で守られるべき法規」とは国際法だが、これを17世紀に唱えた「オランダの法学者」とあればグロティウスである。彼が『戦争と平和の法』(1625年)を書いたのは、宗教戦争の悲惨さを目のあたりにしたからである。ハーグの国際司法裁判所(ICJ)には、「国際法の父」といわれるグロティウスの胸像がたてられている。  
 2. これも短文で、しかも中身としてデータが豊富にあるので、いわゆる構成的な論述とは言いがたい。教科書をそのまま写すと230字くらいになるから簡潔に書くことが要求される。ポイントは5つである。1. アウグスブルクの和議の原則を再確認、2. カルヴァン派も正式に認められた、3. 諸侯(領邦)にはほとんど完全な主権が承認された(具体的には「外交権が与えられた」)、4. スイスとオランダの独立承認、5. 領土分割についてひとつ:フランスはアルザス地方(メッツ、トゥール、ベルダンの3司教領とアルザスのハプスブルク家領)、スウェーデンは北ドイツの沿海地域(西ポンメルン)(とブレーメン大司教領)、ブランデンブルク=プロイセン公国がマグデブルク(とミンデン司教領)と東ポンメルン、バイエルンは南ファルツを領有……。これは条約の中身だけを問うた問題だが、本格的な論述ではドイツ史における意義を問うことが多い。
 問(6) 「オーストリアはついに宿敵フランスと同盟を結び」というできごとを外交革命と言っている。(2)-1の戦争以来、「宿敵」でありつづけたのに、どうしてもオーストリア継承戦争の復讐、すなわちシュレジエンを奪回したいというマリア=テレジアの意志が、これまでの敵を味方にしてまで、ということになった。その認証としてマリー=アントアネットがフランスに嫁に行くことになった。しかしまったく裏目にでてこの戦争は敗北するし、娘は革命で処刑される。この戦争は新大陸でのフレンチ=インディアン戦争、インドでのプラッシーの戦いと連動していた国際戦争だった。
 問(7) 「平和」機構なり連合なりの訴えは古くからあり、カントもその一例であった。ナントの勅令を発布したアンリ4世(1553〜1610)は、キリスト教国による連盟を「大計画」として唱えた。先の国際法の父グロティウスは国際主義に法的な基礎づけをおこない、クウェーカー教徒のウィリアム=ペン(1644〜1718)は、「ヨーロッパの現在及び未来の平和」と題する論文でヨーロッパ議会の設立を提唱している(1692年)。フランスの僧サン=ピエール(1658〜1743)が「恒久平和の草案」を書き(1713年)、当時のヨーロッパ24カ国の永久的同盟として全ヨーロッパ君主連合設立を提案した。これらの国際協調主義に理論づけをおこなったのがカント(1724〜1804)で、彼は論文「恒久平和のために」で、民主的共和国による国際機構こそ平和を維持できるものであると説いた。やっと今はこれらが実現している。
 問(8) これもナポレオン戦争のところでよく載っている絵だ。ゲリラたちが処刑される場面で、両手を上げた真ん中の人物の手は十字架のキリストのように穴が空いている。フランスの兵士たちは個性のない機械的な隊列として描かれている。堀田善衛著『ゴヤ』(朝日新聞社、朝日文芸文庫)が最高に面白い伝記である。
 問(9) 北からはシモン=ボリバルだが、「アルゼンチン、チリ、ペルーなど」これらの南の国々から活動したのはサン=マルティンだ。上記の画家ゴヤが描いた時期にはスペインにいた。アルゼンチン生まれだが、少年時代に家族とともにスペインに移った。スペイン軍に入り、対フランス戦争で軍功をたて、1810年に祖国で独立運動が勃発すると、12年に帰国して独立軍の士官となり活躍する。22年、エクアドルのグアヤキル市でシモン=ボリバルと会見し支援を求めたが拒否され、失意のうちに解放事業の継続を彼に託して公職を辞し、その後ヨーロッパで隠遁生活を送った。
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<解答例>
第1問 (君の答え)
第2問空欄 a 後ウマイヤ朝 b コルドバ c ノルマン人 d 山西商人 e 会館 f マカオ g ネルチンスク条約  問(1)千夜一夜物語 (2)アルハンブラ宮殿 (3)イブン=シーナー(アヴィケンナ) (4)両シチリア王国 (5)紙 (6)バタヴィア (7)朱子学(儒学) (8)日本
第3問(君の答え)
第4問─(A) 空欄(1)デモステネス (2)ムセイオン (3)ドロイゼン (4)ミロのヴィーナス(ラオコーン、瀕死のガリア人、サモトラケのニケ) (5)アカデメイア(アカデミア) (6)正十字形の建築プラン、円蓋(ドーム)とモザイク壁画を特色とする。 (7)セルジューク朝の小アジア進出に対抗しきれなかったため。 (8)サラディン (9)教皇インノケンティウス3世の提唱で開始されたが、ヴェネツィア商人の主導でコンスタンティノープルを占領、ラテン帝国を建国した。背景には東方貿易での優位を確保しようとするヴェネツィアの意図があった。
第4問─(B)問(1)ヘンリ7世 (2)〔1〕イタリア戦争 〔2〕マキャベリ (3)カピチュレーション (4)勢力均衡 (5)〔1〕グロティウス 〔2〕ウェストファリア条約が結ばれ、アウグスブルクの和議の確認とカルヴァン派の信仰が承認された。また実質的に独立していたスイスとオランダの国際的な承認や、ドイツ諸侯の主権が確認され、神聖ローマ帝国の領土はフランスやスウェーデンに大幅に割譲された。 (6)七年戦争 (7)カント (8)ゴヤ (9)サン・マルティン

京大世界史1999

第1問(20点)
 19世紀になると、アジア諸地域では、ヨーロッパ列強の進出に対する抵抗運動が展開された。また同時に、近代化をはかって自らを変革する試みも見られた。19世紀半ばのオスマン帝国期から第一次世界大戦後のトルコ共和国期に至るトルコの近代化の動きについて、政体の変化を中心に300字以内で述べよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。
  

第2問(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[  ]内に最も適当な語句を入れ、かつ下線部(1)〜(8)についての後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。
A 紀元前221年に中国全土を統一した秦は、わずか15年で滅亡し、劉邦が長安に都を定めて漢王朝を建てた。第7代の武帝は、全国を直接に支配する中央集権体制を確立し、はじめて年号を定め、儒学を官学とした。武帝は対外的にも積極策をとり、東北では(1)朝鮮半島北部に遠征して4郡をおき、南は[ a ]を滅ぼしてヴェトナム中部まで支配した。これらの外征によって国家財政は苦しくなり、その打開策として、均輸・平準法や、国が利益を独占する[ b ]の専売を行った。
 紀元前後の中国では、漢王室の外戚であった王★モウが、古代儒教の理想政治を実現させようと、政権奪取に向けて派手な言行を積み重ねていた。漢を纂奪して即位した王モウは、国を新と号し、地方制度の大規模な組織変更や貨幣の改鋳を断行した。しかし、あまりにも急激な改革であったので、行政機構などを混乱におとしいれ、各地に反乱が相次いで、新はわずか15年で幕をおろす。王モウが、新王朝を発足させるに当たって、禅譲革命の形式を整えようとしたことは、その後につづく諸王朝に大きな影響を与えることになった。中国では、王朝が交代することを、天命が革まる、すなわち革命と称した。その革命の仕方に二つの方式があり、武力で前の王朝を滅ぼすのを[ c ]とよび、前の天子が平和的に一族以外の有徳者に位をゆずるのを禅譲という。禅も譲もともにゆずるという意味である。禅譲は、中国上古の伝説上の天子、堯が有徳の舜に位を譲り、その舜がまた禹に位を譲ったのを見習おうとするもので、歴史時代になっては、この王モウが先例を開いたのであった。漢王朝を再興した後漢の光武帝劉秀は、王モウ政治の全否定を標榜したにもかかわらず、(2)儒学の尊重に関しては、儒教の理想国家を夢見た王莽の後継者であった
 後漢の献帝から禅譲されて、(3)国を魏と号したのが曹丕で、後漢の国都をそのまま都とした。禅譲の方式は、これ以後、両晋・南北朝、隋唐・(4)五代の諸王朝をへて、960年に[ d ]が宋を建国するまで受けつがれる。しかし、宋からモンゴル族の元王朝に交代する段階以降は、踏襲されなかった。

(1) 4郡のうち、代表的な郡名を1つあげよ。
 (2) 後漢の儒学は、訓詁学が中心であった。代表的な学者を1人あげよ。
 (3) 後漢や魏が国都を置いた都市名をあげよ。
 (4) 五代の諸王朝のうち、開封の地に国都を置かなかった王朝名をあげよ。

B 現在の(5)中華人民共和国の首都である北京の地に都が置かれるようになったのは、春秋戦国時代を別とすれば、10世紀以後のことである。まず[ e ]の治下、五京のなかの一つとされ、ついで女真族の金朝中期、正式な国都として中都と呼ばれた。13世紀はじめ、モンゴル帝国が出現し、およそ半世紀ののち、全モンゴル諸国家の宗主国となった元朝は、(6)首都をモンゴル高原の[ f ]から中都の近郊に造営した[ g ]に移した。これは北京の直接の前身である。モンゴルを中華本土より駆逐した明朝は、はじめ長江以南の南京を都としたが、(7)しばらくして[ g ]の地に遷都して北京と称した。以後、(8)清代には南京を首都とする政権も出現したが、おおむねは北京が首都でありつづけた。

(5) 北京が中華人民共和国の首都となったのは何年か。
 (6) この遷都を行ったのは誰か。
 (7) この遷都の背景となった内乱は、何と呼ばれるか。
 (8) この政権は南京を何と改称したか。

第3問(20点) 
 独仏国境に位置するアルザス・ロレーヌ地方の住民は、両国が戦火を交えるたびに国籍の変更を迫られた。19世紀半ばから今日までの独仏関係を中心に、この地方の歴史を300字以内で説明せよ。解答は、所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。
  

第4問(30点)  
 次の文章(a、b)を読み、下線部(1)〜(10)についての後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。
a (1)インド=ヨーロッパ語族に属するギリシア人がバルカン半島に南下・定住を始めたのは紀元前2000年頃のことである。彼らは前8世紀頃からギリシア本土やエーゲ海の島々、そして小アジア西岸にポリスと呼ばれる都市国家を数多く建てたが、(2)それらのポリスのうち政治や社会の状態についてとりわけ詳しく知ることができるのはアテネである。その数1、000を超えるともいわれるポリスから成るギリシア人の世界は、一つの国家にまとまることはなく、ポリス間は慢性的な戦争状態にあった。(3)前5世紀前半に東方のペルシア帝国の侵攻に対してギリシア人は協力して戦い、戦後にペルシアの報復に備えて同盟を結成した。しかし、やがてデロス同盟の盟主としてほかのポリスを支配する海軍国アテネと、ペロポネソス同盟を率いる(4)陸軍国スパルタとが対立し、(5)前431年にはギリシア世界を二分する大戦争が起こった

(1) このギリシア人の一派が前16世紀頃から前13世紀頃にかけて生み出した文明を何と呼ぶか。
 (2) 今日アテネの政治体制などがよく知られるのは、19世紀にエジプト出土のパピルスから発見された作品『アテナイ人の国制』の記述によるところが大きい。この作品の著者とされる哲学者の名を記せ。
 (3) このペルシア帝国との戦いを経たことによって、アテネの政治はどのように変化したか。ごく簡潔に説明せよ。
 (4) スパルタの政治体制の要点を50字以内で説明せよ。
 (5) この戦争の歴史を書いた同時代の著名な歴史家の名を記せ。

b 北欧のスカンディナヴィア半島やユトランド半島を原住地とするゲルマン人の一派は、ノルマンあるいはヴァイキングと呼ばれ、海上に活動して商業を行うとともに、海賊行為をも行って恐れられていた。(6)彼らは8世紀末頃から西ヨーロッパ各地に進出し、(7)大ブリテン島では激しい侵入を繰り返したあげく、1016年にはその王クヌート(カヌート)が一時イングランドを支配した。西フランク王国領にも侵入した彼らの一派は、10世紀初めに北フランスの一角に所領を与えられて(8)ノルマンディー公国を建て、(9)そこからさらに地中海にも進出して南イタリアとシチリアを征服し国家を建設した。ノルマン人は故地のスカンティナヴィア半島でもノルウェー王国、スウェーデン王国を建て、ユトランド半島にデンマーク王国を建てたが、(10)この3国は14世紀末に同君連合を形成した

(6) 8世紀末のヨーロッパの政治情勢について説明した文章として適切なものを次から選んで記号で答えよ。
 (a) メロヴィング家のクローヴィスがフランク族を統一して強国となった。
 (b) メルセン条約によって、フランク王国の領土は三分された。
 (c) カール大帝が西ヨーロッパの主な地域を統一した。
 (d) オットー1世がマジャール人を撃退し、教皇からローマ皇帝の帝冠を授けられた。
 (7) イングランドに侵入した彼らは何と呼ばれるか。
 (8) 11世紀後半にノルマンディー公のウィリアムはイングランドを征服してノルマン朝を開いたが、彼が徴税のために作らせた全国的な土地調査簿の名を記せ。
 (9) ノルマン人がシチリアや南イタリアに進出した11〜12世紀に、北イタリアでは諸都市がその体質を大きく変化させようとしていた。この点について簡潔に説明せよ。
 (10) この連合を一般に何と呼んでいるか。

(B) 
 次の文章の[  ]の中に適切な語句を入れ、かつ下線部(1)〜(8)についての後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。
 イギリス、オランダ両国が東南アジアの海域に進出したのは16世紀の末のことである。(1)1581年に本国スペインに対して独立を宣言し、リスボンヘの入港を禁止されたオランダは、胡椒・香料の直接入手をはかって1595年にはジャワ島のバンテンに到達、その後ポルトガル人の貿易拠点を奪って香料貿易の実権を獲得した。フランドル地方のアントワープが、1585年にスペインの軍隊によって包囲・破壊された後、スペインとの対立を深めオランダを軍事支援していたイギリスも、追随して東南アジアヘの進出をはたした。
 オランダは当初、港市ごとに会社が乱立し貿易競争をくりひろげたが、(2)1600年にイギリスで東インド会社が設立されるとオランダも連合東インド会社を発足させアフリカ南端からアジアを経て南米大陸南端にいたるまでの領域における貿易の独占権をあたえた。東インド会社は、軍隊をもち、各地に要塞を築いて、武力にまもられて貿易を行った。両国の東インド会社ははじめ協調していたが、しだいに関係は悪化し、1623年に起きた[ a ]事件をきっかけに、イギリス東インド会社は香料貿易から撤退して活動の中心をインド亜大陸に移した。インドでは、イギリスは先行したポルトガル、オランダの勢力範囲を避け、最初北西インドのスラトに商館を置いた。これはイギリスにとっては幸運であった。というのはこの地方は、後に(3)インドからの最大の輸入品となった製品の主要な産地のひとつであったからである。
 イギリス東インド会社はやがてインドにおける拠点をマドラス、ボンベイと拡大し、17世紀末には、後にインド最大の植民地都市となる[ b ]の建設を開始した。インドでは、イギリス東インド会社は、(4)フランスの東インド会社と権益を争ったが、(5)1757年のプラッシーの戦いで在地の権力と結んだフランス東インド会社軍を破り、フランスを圧倒した。1765年にはムガル帝国皇帝からベンガル地方の徴税権を獲得し、イギリス東インド会社は事実上の政府として領土の支配を開始した。このような東インド会社をイギリスの議会・政府は、(6)1773年と1784年の2回の議会立法を通じて統制下に置き、そのことでインドの一部を間接的に統治することになった。さらに(7)いくどかの戦争を通じてインドにおけるイギリスの支配領域は拡大する。19世紀に入ると、(8)イギリス国内では東インド会社の貿易の独占に反対する声がしだいに強まり、1813年の新特許状では、[ c ]の取引の特権を残して独占が廃止され、1834年以降は会社の商業部門を廃して、東インド会社は統治機関としての性格をいっそう強化した。

(1) 独立の主体となった同盟は何か。
 (2) これに関連し、スペインが行っていた対アジア・アメリカ貿易の形態の特徴を簡単に説明せよ。
 (3) この製品は何か。
 (4) 活動を停止していたフランス東インド会社を、1664年に再組織したフランスの財務長官は誰か。
 (5) この戦争と同じ時期に、ヨーロッパで行われていた戦争は何か。
 (6) この2つの年の間に、北米大陸で進展した事態について、60字以内で説明せよ。
 (7) これに該当する戦争の名を2つ記せ。
 (8) この背景を簡単に説明せよ。

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第1問 遭難事故が起きたのは、1890年(明治23年)9月16日夜。トルコの軍艦「エルトグルル号」(2344トン)が帰国途中、台風に遭い和歌山県串本(くしもと)町沖で座礁、岩礁に激突して大破した。串本町所蔵の当時の大島村村長日誌によると、事故翌日の17日朝から、樫野(かしの)地区60戸が総出で漁船を出して遺体を収容、生存者を寺や学校に泊めた。ボロボロになった衣服に代わって貴重品だった浴衣を分け、蓄えていた当時は少ないサツマイモやニワトリなどを食料に提供した、という。それでも、650人の乗組員のうち助かったのは69人だった。献身的な地元の救出作業に感動したトルコ側が、遭難海域を見渡す大島・樫野崎に墓地や記念碑を建て、いまも、その墓地を地元の樫野小学校の児童が清掃、トルコ首相からプレゼントが贈られるなど、交流が続いてきた(朝日新聞、1990年1月17日夕刊)。
 時のオスマン=トルコ帝国スルタンはアブデュル=ハミト2世という専制君主であり、パン=イスラム主義を宣揚すべくアジアに軍艦を派遣していた。この事故が日土友好のきっかけになったことは別として、なにかトルコ帝国の近代化の命運を象徴してもいるようだ。 問題は「19世紀半ばのオスマン帝国期から第一次世界大戦後のトルコ共和国期に至るトルコの近代化の動きについて、政体の変化を中心に300字以内で述べよ」であった。
 教科書では三つに分けて書いてあることを、この問題はひとつにまとめて簡潔に書くことを要求している。(1)帝国主義以前(1870年代以前)のヨーロッパ諸国のアジア進出、(2)帝国主義時代、(3)第一次世界大戦の後に記載してある。それぞれ「タンジマート(恩恵改革)」、「ミドハト憲法」「トルコ革命」の三つである。記載してある三つの記事を全部合わせると1000字ちかくあり、論述を書くための量としては充分データが与えられている、といっていい。無理難題ではない。全部を正確に記憶・理解をしていなくてもある程度書けるだろう。論述で満点はとれなくてもいいのだから。
 教科書であちこちに分けて書いてあることを、まとめて書かせる、という論述の問題の出し方は一般的によく使われる手法である。
 たとえば、98年度の「紀元前後から20世紀初めまでの官吏登用制度の変遷」、97年度の「五四運動期に起こった文化運動について、清代に流行した学術と1989年の天安門事件とを視野におさめ」、92年度の「アヘン戦争における敗北と太平天国による動乱を経た清朝は、さまざまな近代化政策を採らざるをえなくなった。この動きのなかで、戊戌の変法はどのような位置を占めているのか、日露戦争の前後までを視野におさめ」という具合。本年度の東大の問題「紀元前3世紀から紀元15世紀末にいたるイベリア半島の歴史はどのように展開したのだろうか」もそうである。
 これらは、いわゆる「流れ」「編年体」の問題であり(97と92年度のは意義の問題だが、流れを知らないと意義も書けない)、できるだけ欠落しないで、データを簡略化しながら書き込むという作業・組み立て方が必要である。論述の対策の一つとして、教科書の1ページくらいの内容を300字、それをさらに100字と縮約する練習が必要だ。
 問題を分解すると、時間が「19世紀半ばのオスマン帝国期から第一次世界大戦後のトルコ共和国期に至る」、内容の主問(主たる要求)は「トルコの近代化の動きについて」、副問(副次的要求、的を絞らせる要求)は「政体の変化を中心に」、事務的要求は「300字以内で述べよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ」である。
 「近代化」ということばは、いろいろ議論のあることばだが、単純化すれば機械と議会の導入のことである。言い換えれば、工業化と民主化、産業革命と議会政治への転換である。イギリスが先駆者となって、17世紀に市民革命を、18世紀に産業革命を実現したが、それに見習おうという全世界的追っかけっこである。遅れた国々にとっては、それが「富国強兵」「殖産興業」「洋務運動」「変法自強」となり、たいていは「上から(国家主導で)の近代化」となる。これがトルコ(19世紀からは正式名称のオスマン=トルコ帝国という表現を使わなくなってくる)の場合、「タンジマート」であり、その頂点としての「ミドハト憲法」となる。
 これらの近代化運動のどれにも共通するのは、(1)近代化の刺激が外圧にあり、(2)近代化の努力をしていけばいくほど欧米列強に従属していき、(3)たいていは挫折する。しかも、かえって国の命運が危うくなるというコースである。これは中国でも朝鮮でもイランでもエジプトでもみることができる。(4)「挫折」といわれているものの、実際には完全な挫折はなく、そこから新しいものが着実に育っていくことも事実である。洋務運動は日清戦争によって挫折したと教科書に書いてあるが、本当か? だいたい洋務運動は対外戦争に勝つために行ったものではないから、戦争による挫折は変な評価であり、この運動のなかで機械工業がおき、新しい企業が生まれ、欧米思想を学ぶ知識人が育った。タンジマートも遅々とした歩みではあったが、教育会議の設置、民事および刑事混合法廷の開設とつづき、西欧思想を学ぶ知識人(新オスマン人という)がここにも育成された。これは延々とつづき20世紀の革命の担い手になっていく。
 現状のシステム(この問題では「政体」)を変えなくては亡国の地獄がまっている、植民地になる、という恐怖の下で、人はどう動くか。意外だが、(1)なによりも、動かない・変えないことが正しいと考える人間が大半であることを知らねばならない。これはなにも歴史でなくとも、これから君自身が経験するはずだ。(2)わずかな人たちが変えようと決心して動くが、非難・孤立・失職の窮地に陥る。変えにくいことがシステムの性質でもあるからだ。
 (1)の例として、トルコの場合は、スルタン自身が自分と信仰の神聖性を強調する復古的な例がそれにあたる。スルタンのアブデュル=ハミト2世(位1876〜1909)が、スルタン・カリフ制を強調するとか、ダマスクス・メディナ間のヒジャーズ鉄道(巡礼鉄道)を建設するとか、第一次世界大戦に際して全世界のイスラム教徒に向けてジハード(聖戦)を宣するとか。これらのことをパン=イスラム主義という。あるいは、団結を強調する者もそうである。それは変革拒否の裏返しなのだが、さも危機を乗り越える態度として正しいと錯覚する。これはオスマン主義といって、オスマン帝国の住民すべてが、宗教・民族の違いをこえて同じ権利を得、それによって帝国の政治的一体性を守ろうとする立場である。これらの精神主義が、物的な力(軍事力と資本)でやってくる列強に対して無効であることは自明である。
 (2)の例としてミドハト=パシャがある。わずかな人が、西欧の物的な力を正確に認識して、根本的な改革でなければ乗り切れないと自覚する。その一人がミドハト=パシャ(1822〜84)である。アブドュル=ハミト2世即位ののち、大宰相に任ぜられ「1876年憲法(ミドハト憲法)」を自ら起草・発布した。だがスルタンは、列強の内政干渉や国内の立憲運動を避けるためにパシャを必要としたのであり、パシャは40日足らずで罷免され、前々帝の死因をめぐって死刑の宣告を受けた。のちに減刑され、メッカの南東のターイフに幽閉されたが、結局は殺された。
【解答】
例1
19世紀のなかば、スルタンは司法・軍事などのタンジマートを実施した。これにより神権的なイスラム国家を法治主義にもとづく近代国家へと一新したが、西欧化政策は外国資本への従属をかえって進めた。クリミア戦争のあと国内に立憲制への要求が高まると、1876年宰相によりミドハト憲法が発布されたが、スルタンは露土戦争の勃発を口実に憲法を停止した。憲法停止に不満な人々が統一と進歩委員会を結成して首都に進軍し、1908年政府にせまってミドハト憲法を復活させ立憲君主政とした。第一次世界大戦に参戦して敗れたため、弱体な帝政を批判してケマル=パシャがトルコ大国民会議を組織してたちあがり、1922年スルタン制を廃止し共和国を樹立した。
例2
クリミア戦争以前から、政教一致のスルタン=カリフ制の下で、タンジマートが進められていた。この西欧化は保守派の反発を招き、西欧諸国の内政干渉や経済的進出をまねく結果となった。その後、内外からの改革の要求で、1876年ミドハト憲法が制定され立憲君主政となった。だが政府批判を強めた議会を危険視し、皇帝は露土戦争の開戦を口実に憲法を凍結し、皇帝専制体制を強化した。それに不満をもつ一派は青年トルコを結成して、1908年、サロニカ革命を起こし、ミトハト憲法を復活させ立憲君主体制を再現した。第一次世界大戦の敗北の後、ケマル=パシャが国民党を率いて革命を指導し、スルタン制を廃止して共和国を建設、ついで政教を分離した。

 この二つの解答は、できるだけ教科書にそったものをこころがけてつくった。採点・加点のポイントは三つの改革について、正しい説明がついていることであろう。時代の順、改革の名称、その内容が判定の対象になる。たとえば、「タンジマートが行なわれ、その後、ミドハト憲法を実施し」と説明なしで、たてつづけに記載しないほうがいいだろう。三つの改革の内容についてのポイントが設定されているだろうから。
 また「政体の変化を中心に」とあるので、改革の前提としての君主制(専制君主政/スルタン=カリフ制)が必要だ。次に官僚による種々の改革であるタンジマート、そしてミドハト憲法による立憲君主政、その否定、かつ青年トルコ(サロニカ)革命による立憲君主政の復活、さいごに共和政は不可欠である。このさいごのところで「ローマ字採用、治外法権の廃止、関税自主権の回復」などは不要である。
 また「ミドハト憲法により立憲制が開始された。しかし露土戦争の勃発を口実に憲法は停止され、スルタンの専制政治が復活した。1908年の青年トルコ革命により……」という風に、ミドハト憲法と青年トルコ(統一と進歩委員会)の関連のない記述も避けるべきだろう。

第2問
A この文章はなにを言おうとしたのかハッキリしない。禅譲の話が中心みたいなのだが、するとはじめの段落の武帝がなぜ必要なのか判らない。もっとも受験生から見れば、文章なぞ、どうでもいいわけで、なにより易しい問題になっているところがとりえである。
 しかしいかにも中国史らしい革命の説明は論述のテーマにもなりうるので解説を少し加えておきたい。
 その核心部分は「中国では、王朝が交代することを、天命が革まる、すなわち革命と称した。その革命の仕方に二つの方式があり、武力で前の王朝を滅ぼすのを[ c ]とよび、前の天子が平和的に一族以外の有徳者に位をゆずるのを禅譲という。禅も譲もともにゆずるという意味である」とあるところ。この革命ということばは、殷から周に代わるときに「易姓革命」という表現で学生が学ぶ用語である。西欧は政治的・社会的変革を伴うが、変革のない中国のように皇室の交替にすぎないものとは違っている。
 この革命のポイントは「天命」というわけのわからない用語にある。天命を受けた有徳者が位をゆずりうける、というお話を中国はつくりあげてきた。実際は暴力(強制)による交替(放伐)しかないのだが、暴力を正当化(ごまかし)のために、「天命、すなわち天の命令(意志)を受けている」からだという神話をつくって、まわりを無理矢理納得させるという方法である。
 天とは何ものなのか。中国では人民の意志のことである、という(『尚書』)。人心が王朝から離れたら、他の王朝に代わるのが、天の意志、かつ民の意志であるという。天人合一なのだ。無徳の君主は討伐されるべきであり、新たな有徳者が交替する。ということは皇帝はいつも民の意志により打倒される可能性をもっている。「君臨すれど統治せず」といって政治から離れ安穏な生活が保障されているイギリスの国王や日本の天皇とはちがうのである。黄巾の乱は「蒼天(そうてん=漢のこと)已(すで)に死す、黄天(こうてん)当(まさ)に立つべし」と唱えて決起したが、ここに天人合一の考えがある。これを「権威の還流構造」と名づけた学者もいる。
 第1問の、危機に対処して変革するのが、なかなか難しいという説明をしたが、変革の方法のヒントがここにありそうだ。天が民だということは、言いなおせば「数」のことではないか。支持者をふやすことだといってもいい。もちろん変革の提唱者ははじめは少ない。しかし説得をつづけていく。10人のうち2人か3人の支持者があればしめたものだ。たいていのひとは決断することを嫌い、大勢がどう動くかうかがっており、いざとなれば、はじめは反対していても、大勢がどうも変革の方向に動きだしていると推理しだしたら提唱者についてくるものだ。中国共産党は1921年の結党当時、57人しか党員がいなかったのだが、いまは13億人の支配者である。
 問(4)だけが、難問奇問狂問といっていい。後唐だけが都を洛陽にしている。こうした珍問は、たとえば、五代で一番短命な王朝はなにか(後漢の3年)、五代で漢人の王朝でないのはどれか(後唐後晉後漢)、建国者が2字の王朝はなにか(後周の郭威)、三武一宗の法難を最後におこなったのは五代のなんという皇帝か(後周の世宗)、という五代クイズでもやっとかなくてはならないのか。できなくていい問題だった。

B 私大の問題のような北京史である。
 契丹族の遼が南下して燕雲十六州を獲得し、北京を占領、五京の一つ(副都)として南京と命名した。北にあるのに「南京」とは変な、と思われるかもしれないが、契丹全体の位置からは最南端なのである。遼のあとに女真族の金は、遼を滅ぼしてこの南京を占領し、「中都」と呼んだ。これも金の支配地域全体からは中間にあることが地図を見ると判るはずだ。しかし中都も1215年、モンゴル軍の侵入により破壊され廃墟と化した。モンゴル帝国の第5代の皇帝フビライ=ハンは、中都のあとに新都の建設を命じ、7年の歳月をへて完成させ、これを大都(大汗の都、カンバリク)と命名した。このように南→中→北と形容される順に名前が変った。
 問(8) これは太平天国の都を問うている。

第3問 クリスマス・ツリーのはじまった地域はアルザスらしい。文字の記録としてもっとも早いのは、1605年のアルザス地方の旅行記で、シュトラスブルク(現ストラスブール)でクリスマスに色紙で作ったバラの花やリンゴや砂糖などを飾った木を立てると記されているからだ。
 日本でわりと知られているアルザス人としては、バッハのオルガン奏者であり、アフリカの医師であり、52年ノーベル平和賞を受けたシュワイツァーがある。映画『ローマの休日』(1953)や『ベン・ハー』(1959)で知られるワイラー監督もアルザス出身である。世界史頻出家系といえばハプスブルク家だが、この家もアルザスとスイスを根拠に拡張に成功した。ドレフュス事件のドレフュス家は17世紀からつづくアルザスのユダヤ人である。ロレーヌ出身としては、ロレーヌのドンレミ村で生まれたジャンヌ・ダルクがおり、諸君が大学で学ぶだろう社会学者にロレーヌ出身のデュルケーム(1858〜1917)がいる。
 この問題の「19世紀半ばから今日までの」期間に、この地方は戦争のたびに仏、独、仏、独、仏と5回も国籍が変わった。これを一人の生涯で経験した人々もいた。ドイツとフランスの間を骰子(さいころ)のように振り転がされた地方である。問題の要求は「国籍の変更……独仏関係を中心に、この地方の歴史を」であるから、この骰子がどちらに転がったかを5つつづればいい。そのうちの一つである第二次世界大戦中のドイツによる占領は抜けやすいが、一つぐらい抜けても合格点には達するだろう。
 (1)フランス領→(2)普仏戦争でドイツ領→(3)第一次世界大戦でフランス領→(4)第二次世界大戦中にドイツ領→(5)戦後フランス領の順である。
 普仏戦争のときにドイツを嫌ってフランスやアルジェリアに亡命した人は15万8000人いた。第2次大戦中アルザス人は約13万人の若者が独軍兵士として徴用された。これらの「自らの意志に反した兵士」と呼ばれた人々はソ連軍との東部戦線に送られて、約47000人の戦死・行方不明者を出した。これが最近まで問題であった。
 「オラドゥール村の虐殺」事件である。ノルマンディーに連合軍が上陸して4日後(1944年6月10日)、120人のナチ親衛隊が乗り込み、総人口1000人にほぼ匹敵する虐殺をこの村で行った。女性と子どもら約500人は教会に集められ、生きたまま建物に火を放たれたという。窓や扉から逃げる人をドイツ兵は機関銃で撃った。戦争でもないのに朝鮮の三・一運動のとき、日本の憲兵が堤岩里で無差別虐殺をおこなったときの殺し方と酷似している。この親衛隊の中に13人のアルザスで徴兵された兵士が加わっていた。53年に始まったオラドゥールの戦犯裁判がフランスの国論を二分した。徴用された彼らの責任は問えるか否か。有罪判決が出たが、フランス国会は特別法で13人を恩赦とした。 
【解答】
例1
19世紀半ば以降、プロイセンの軍事拡張主義的なドイツ統一が進められたが、それはナポレオン3世治下のフランスとの間に摩擦を生じさせ、普仏戦争へと発展した。ドイツ・フランスの国境地帯に位置し、鉱物資源に富むアルザス・ロレーヌ地方は、この戦争の結果戦勝国ドイツへ割譲された。その後ドイツ・フランスが敵対した第一次世界大戦が前者の敗北に終わったため、ヴェルサイユ条約で両地方は再びフランスへ移譲された。ヒトラー率いるナチス=ドイツは第二次世界大戦の初期にフランス北部を占領して両地方も併合したが、大戦末期には連合軍による解放でフランスがアルザス・ロレーヌを取り戻し、その後はフランス領として今日に至っている。(300字)
例2
1870年の普仏戦争の結果、フランスのティエール臨時政府はアルザス・ロレーヌをドイツに割譲した。その後、ドイツはビスマルクの指導下でフランス孤立化を展開するが、ヴィルヘルム2世の親政下で逆に孤立化したことから第一次大戦が勃発した。敗戦したドイツはヴェルサイユ条約でアルザス・ロレーヌをフランスに返還し、両地方をめぐる対立は1925年のロカルノ条約で小康状態となるが、ヒトラーの台頭により再燃した。第二次世界大戦後、フランスの提唱によるECSCが発足し、これはその後、EEC・ECさらにEUへと発展した。98年には通貨統合も実現し、独仏のみならずヨーロッパ全体の経済統合がより進展している。(294字)

 例2(創作答案)の最後の文章はおかしい。問題の要求は「国籍の変更……独仏関係を中心に、この地方の歴史を」だから、「第二次世界大戦後」に必ず両地方がフランス領に復帰したことを指摘しなくてはならない。それ以外のことは不要である。なにもEUの歴史を要求されているわけではない。こんな風に書きやすいはずだから創作してみた。問題の中に「今日までの」ということばが入っていても国境問題は第二次世界大戦以後おきていないのだから。もしどうしても書く誘惑にかられたのなら、「アルザス出身のシューマンの提唱により」とするか、「アルザス地方の中心都市ストラスブールは、欧州議会の所在地となっている」とか、なんとかアルザス・ロレーヌにかかわるように書かなくてはならない。なんでも書けばいいというものではない。

第4問(A)
 昨年度のa問題は「ギリシア本土の諸ポリスの対立・抗争が激しさを増していた紀元前4世紀半ばに、北方のマケドニア王国が勢力を急速に拡大してきた」という文章からはじまるヘレニズム史だったが、今年はさかのぼってエーゲ文明とポリスの歴史を問うている。
 問(1) 「ギリシア人の一派」とあるから、民族系統がわからないクレタ文明ではない。「前16世紀頃から前13世紀頃にかけて」とあるからエーゲ文明の後半の文明であることが指示されている。
 問(2) 岩波文庫に村川堅太郎訳『アテナイ人の国制』がある。100ページの本文に200ページをこえる注と解説がつき、まるで研究書といっていいものになっている。ドラコン以前からペリクレス以後まで直接民主政治の制度が説明してある。著者は政治学の祖といわれるアリストテレス。
 問(3) 10年前の1989年の問題に「パルテノンは紀元前447年から432年にかけて造営され、今日までアテネの繁栄の記念物として残っている。その造営の当時、アテネの政治や経済は、どのような状況にあったか。100字以内で説明せよ」というのがあり、そのリニューアル版といっていい。解答のスペースは、タテ2.5cm、ヨコ13.7cmあり、次の問?のマス目のついた解答欄(50字)とほぼ同じである。89年度のは「状況」説明だが、こんどは政治だけの「変化」である。変化とは、AがBに変ること、ちがうものになることである。たとえば「サラミス海戦の漕手として活躍した無産市民が参政権をえて、成年男子市民の出席する民会が最高機関となり、民主政治が完成した」という答えがあったとして、これは何から何へ変化したのだろうか? 「何から」が不明解であるため、「何へ」も不明解になる。
 厳密に言えば無産市民も参政権はある程度すでに得ている。ソロンの改革のとき民会に参加して賛否を投ずる権利は保証されている。クレイステネスの改革で民主政治は実現していたのたが、それでも官職はすべての市民に開放されていなかった。ペルシア戦争の後は、将軍職など特別のものをのぞいて、ほとんどすべての官職や裁判の陪審員が市民に開放され、かつ抽選で選ばれる、という権利が新たに加わってくる。そして貴族政治の牙城であったアレオパゴス会議の実権も奪われる。市民全員が政治と軍事に専念できる、換言すれば奴隷に生産労働はすべて委ねて消費者としての市民の活動が保証されたのである。
 問(4) 50字しかないので、全体を完全に言い切ることはできない。いろいろな答えが可能だ。だたペリオイコイを「劣格市民」という言い方がまだ流布しているので、言っておかなくてはならないのは、ペリオイコイは周辺民という意味であり、劣格市民ではない。この劣格市民というのはスパルタの市民でありながら、犯罪などでペナルティを課された市民のことをいい、ペリオイコイにはスパルタの市政に参加する権利はまったくないから、非市民である。劣格以前である。
 問(6) ペルシア戦争はヘロドトス、ペロポネソス戦争はトゥキディデス、というのはセンター試験でも区別できなくてはいけない。
 b 
 ノルマン人の移動史は阪大にも一橋大にも出題されており、今年はノルマン年だった。
 問(6) おおざっぱな年号の問題。?486年、?870年、?800年頃、?962年。
 問(7) 主にデンマークのノルマン人。
 問(8) なにかの写真で分厚い本を見たことはないだろうか。これは現在ロンドンの公立記録文書館に所蔵されているそうだ。征服以前はだれの所領であったか、現在はだれが領主であり、その価値・耕地・牧草地・放牧地・森林の広さが記されている。また自由農民・農奴・小屋住農などの人数とその財産、水車・養漁池・家畜の数も記されている。徹底した調査だったことが判る。表現はいろいろで、ブックは同じでも、前のほうはドゥムズデイ、ドームズデー、ドームズデイのどれでもいい。
 問(9) これは真剣に考えたら難しい問題。問題が「その体質を大きく変化」となっているが、たんに自治都市ができた、では答えにならない。前の「体質」がなんであったかが答えなくてはならない。自治都市の成立は後の変化したものだからである。しかもこの成立は西欧全体にあてはまるから、問題の「北イタリア」に特異なものを表現しなくてはいけない。字数制限はないが、問?と同じスペースが与えられている。
 1)前の体質:中世前期(6〜10世紀)は教会をとりしきる司教が、その地位の重要性から領主のような権限をもっていた。司教都市とか宗教都市という。2)後の体質:中世中期(11〜13世紀)になると、十字軍として市民部隊が出港した後の都市内の秩序を確保するために全体を統轄するコンソリ(コンスル)という職務をつくり、これに対してメンバーたる市民がが誓約するという「誓約団体」をつくった。これは司教から独立した政府機関となる。このコンソリには都市貴族が就任した。3)北イタリアの特色:周辺農村をも含み、かつ農村も支配する団体となり、都市の支配層には農村に所領をもつ大領主も住み、大商人・金融業者と共に都市貴族を形成した。こうした北イタリアの中世都市をとくにコムーネという。12世紀末の北・中部イタリアには200〜300のコムーネが存在したという。
 問(10) カルマルはバルト海にのぞむ港湾都市で、スウェーデン南部にあり、かつデンマーク国境に近いカルマル城で、3国全部の摂政としてマルグレーテが選ばれた(1397年)。摂政であって3国の王となったのではない。3国の王となったのは、マルグレーテの姉の孫にあたる15歳のエリク君である。エリク君は覚えなくていい。

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<解答例> 1999
第1問(君の答え)
第2問空欄 a 南越 b 塩鉄 c 放伐 d 趙匡胤  e 遼 f カラコルム(和林) g 大都  問(1)楽浪郡  問(2)鄭玄  問(3)洛陽  問(4)後唐  問(5)1949年  問(6)フビライ=ハン 問(7)靖難の変  問(8)天京
第3問(君の答え)
第4問─(A) 問(1)ミケーネ文明 (2) アリストテレス (3) 無産市民にも参政権が与えられ、民会を最高機関とする直接民主制が確立した。 (4) 厳格な軍国主義体制に基づき、完全市民が周辺民のペリオイコイと国有農耕奴隷であるヘロットを支配した。 (5) トゥキディデス (6) (c) (7) デーン人 (8) ドゥームズデー=ブック (9) 都市は諸侯勢力から自立し、独自の法を持つ自治団体としてのコムーネを形成した。(10) カルマル同盟
第4問─(B) 空欄 a アンボイナ b カルカッタ c 茶  問(1) ユトレヒト同盟  問(2) 新大陸の植民地で獲得した銀で、アジアの特産品を購入し本国に持ち帰った。 問(3) 綿布(木綿) 問(4) コルベール 問(5) 七年戦争 問(6) イギリスはボストン茶会事件を契機に十三州と対立を深め、ミシシッピー川以東の領土を割譲して十三州の独立を承認した。 問(7) マイソール戦争、マラータ戦争(シク戦争) 問(8) 産業革命の進展と産業資本家による自由貿易主義の要求。