世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

京大世界史2007

第1問(20点)

 中国の歴代王朝は北方民族の勢力に悩まされ続けてきた。自らの軍事力のみでは北方民族に対抗できなかったので、さまざまな懐柔策や外交政策を用いて関係の安定を図ってきた。歴代の王朝が用いた懐柔策や外交政策について、紀元前2世紀から16世紀に至るまで、できるだけ多くの事例を挙げて300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問(30点)
 次の文章(A、B)の[  ]の中に適切な語句を入れ、下線部(1)〜(14)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

 トルコ民族は(1)北アジアの騎馬遊牧民として台頭して以来、ユーラシアの草原地帯やオアシス地帯で広範に活動し、特に言語面で、その地の住民をトルコ化した。古くはインド=ヨーロッパ語族が居住した中央アジアは、やがてトルキスタン、すなわち「トルコ人の居住地」と呼ばれるようになる。  
 トルコ民族はモンゴル高原北部に興り、その一集団、突厥が6世紀中ごろ北アジアと中央アジアをあわせた大遊牧国家を建設し、8世紀半ばにはウイグルがモンゴル高原に王国を建設した、(2)ウイグルは都城を築き、文化面でも繁栄したが、9世紀に同じトルコ系の[ a ]に圧迫され、その一部は中央アジア東部(東トルキスタン)へと移動した。一方、中央アジア西部(西トルキスタン)では、9世紀末にイラン系イスラム王朝のサーマーン朝が成立した。 10世紀末にトルコ系イスラム王朝の[ b ]朝がサーマーン朝を滅ぼすと、この王朝のもとで、中央アジアのトルコ人たちのイスラム化が進展した。
 11世紀前半に西トルキスタンからイランに進出したトルコ系の[ c  ]朝は、さらに西進して1055年バグダードに入城し、(3)その君主はアッバース朝カリフからスルタンの称号を授けられ、イスラム世界に大きな影響力をもつようになった。これに加えて、9世紀にアッバース朝のもとで始まったマムルーク(奴隷軍人)の制度が、トルコ民族のイスラム世界への進出を促進した。この制度は、異教の世界から奴隷を購入して軍事力の中心とするというもので、トルコ人マムルークはときに有力となり、王朝を創始することもあった。例えば、サーマーン朝のマムルークがガズナ朝を興し、[ d ]朝のマムルーク軍がマムルーク朝を興した。
 13世紀半ばユーラシアの広大な地域がモンゴル帝国に組み込まれるが、モンゴル軍には多くのトルコ人が含まれ、中央アジアや南ロシアにおいて、おおむねモンゴル支配階級はトルコ化した。西トルキスタンでトルコ化したモンゴル貴族の子孫ティムールは、1370年[  e ]を都としてティムール朝を興した。(4)ティムールが西アジアに遠征してイランを併合すると、やがて領土内にイラン=イスラム文化が繁栄したが、同時にトルコ文化も発展し、中央アジアの古典トルコ語が確立された。16世紀はじめティムール朝は、[ f ]=ハン国領に興ったトルコ系のウズベクに滅ぼされた。  一方、13世紀末小アジア西部のトルコ系イスラム辺境戦士(ガーズィー)集団から興った(5)オスマン朝は、14世紀半ばバルカン半島に進出し、1453年にはビザンツ帝国を滅ぼした。16世紀はじめにはマムルーク朝を滅ぼしてイスラム世界の中心的存在となり、第10代君主[ g ]のときに最盛期を迎え、(6)イスラム法に基づく司法・行政制度が発達した。隆盛を極めたオスマン朝ではあるが、1699年の[ h ]条約で東ヨーロッパの領土の一部を失い、勢力を弱めることになった。

 
(1)北アジアの騎馬遊牧民に先んじて、前6世紀ごろイラン系の騎馬遊牧民が南ロシア草原を支配するようになり、その影響が北アジアにも及んだ。この騎馬遊牧民の名称を記せ。  
(2)ウイグルの繁栄には中央アジア出身のイラン系の商人たちが貢献した。広範な商業活動で知られる、このイラン系の人々は何人と呼ばれるか。  
(3)この王朝のもとで、西アジアの主要都市に学院が建設され、スンナ派の学問が奨励された。これはシーア派のある王朝に対抗するためであった。このシーア派の王朝の名称を記せ。  
(4)ティムール朝に併合される前、イランでは、モンゴル帝国を構成するある国家(ハン国)の支配階級がイスラム化し、イラン=イスラム文化を発達させていた。この国家の名称を記せ。  
(5)(ア)オスマン朝がバルカン半島に進出してから、ビザンツ帝国を滅ぼすまで首都とした、バルカン半島東部の都市の名称を記せ。   
 (イ)オスマン朝はバルカン半島進出後、最初は捕虜、後には徴用したキリスト教徒の子弟を、改宗させ訓練して常備歩兵軍を組織した。オスマン朝軍の精鋭とされる、この軍団は、何と呼ばれるか。  
(6)一方でオスマン朝は、国内のキリスト教徒やユダヤ教徒の共同体に大幅な自治を認めた。この公認された宗教共同体は何と呼ばれるか。

 イギリスの外交官であったある人物が、「ランカシャーの全工場といえども、この国の1省に十分なほども靴下の材料を製造することができない」と述べたのは、(7)中国に対する戦争の勝利の後のことであり、この言葉は、広大な中国市場への、イギリス人の期待の大きさを物語っていた。しかし、現実にはイギリス工業の主力であった[ i ]製品の対中国輸出は、期待されたほど伸びなかった。その原因としては、中国農村の家内工業との競合や、開港地が限られ、それ以外での外国人の[ j ]の自由が認められていなかったことなどが考えられ、そこでイギリスはさらなる市場開放に向けて交渉を行った。しかし、当時イギリスは(8)ヨーロッパで戦争を行っており、このため大規模な艦隊を送って惘喝(どうかつ)外交をする訳にはいかなかった。交渉は不調に終わった。事態が動いたのは、(9)ヨーロッパの戦火がやんだ年のことだった。広州の官憲がイギリス人を船長とする中国船を臨検、船員を逮捕したところ、イギリスはこれを口実に再度の戦争を挑んだのである。(10)イギリス派遣軍全軍の中国到着はかなり遅れたが、フランス軍とともに広州を占領、[ k ]にまで進み、この地で条約を結んだ。しかし、中国軍が批准書の交換を武力で阻んだため、再び戦端が開かれた。英仏軍は首都を占領し、2年前の条約とともに、いっそうの権益を認めさせる新条約を中国に強いた。
 この二つの条約は、中国のその後の政治・経済、そして国際関係に大きな影響を与えた。開港地が華北や(11)長江流域の主要都市にまで拡大され、長江の航行が開放されたことは、外国の経済進出を格段に容易なものとした。また、首都における外国公使の常駐や(12)外交を専門に担当する政府機構の設立は、中国と[ l ]使節と呼ばれる外交団を中国に送る周辺国家とが形成していたアジアの国際秩序、すなわち「華夷秩序」の崩壊の開始を告げる出来事だった。  事実、その後三十数年の間に、列強はこうした周辺国家を次々に支配下に収めていった。東南アジアでは、イギリスが三度の戦争の末に[ m ]を植民地としたほか、フランスはフランス領インドシナ連邦を成立させ、さらに[ n ]をこれに編入した。中央アジアにあっても、二つのハン国を保護国としたロシアが、[ o ]=ハン国を併合したのである。また東アジアでは、日本が琉球を領土に組み込んだのち、(13)最後まで「華夷秩序」内にとどまっていた国も、そこからの離脱を強制されることになった。ここに「華夷秩序」は完全に崩壊した。  
 そして民衆の排外運動がもたらした対外戦争の結果、20世紀はじめには、(14)中国は首都とその外港を結ぶ地域で外国軍の駐兵権を認め、巨額の賠償金支払いのため関税収入を外国に差し押さえられた。中国は、完全に「不平等条約体制」のもとに置かれるのである。

 
(7) この戦争の名称を記せ。  
(8) この戦争の名称を記せ。  
(9) この年は何年か。  
(10) イギリス派遣軍の全軍到着が遅れたのは、イギリスから中国への途上に位置する地域で、イギリスの支配に抵抗する反乱が起こったためである。この反乱の名称を記せ。  
(11) この主要都市の一つは、当時太平天国軍によって占領され、その首都とされていた。この都市の現在の名称を記せ。  
(12) この外交を専門に担当する政府機構の名称を記せ。  
(13) この国は、「華夷秩序」からの離脱の数年後、国号を改めている。この新たな国号を記せ。  
(14) この駐兵権や賠償金の支払いを認めた条約の名称を記せ。

第3問(20点)
 第二次世界大戦後の世界は、アメリカ合衆国とソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)がそれぞれ資本主義圈と社会主義圈の盟主として激しく対立する、いわゆる二極時代で幕が開いた。だが1950年代半ばになると二極構造に変化がきざし、1960年代以降、その変化は本格的なものになった。 1960年代に世界各地で起きた多極化の諸相を、300字以内で具体的に説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問(30点)
 次の文章(A、B、C)の[  ]の中に適切な語句を入れ、下線部(1)〜(20)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

 西洋における君主権力の発生過程を考えると、多くの場合、君主権力が軍事的指導者の地位や権限に由来するものであったことがわかる。国家の存亡や安定がしばしば、対外防衛や征服、膨張のための戦争と密接に結びついていたからである。古代ローマの(1)第2回三頭政治を行ったオクタヴィアヌスは、宿敵アントニウスとクレオパトラを滅ぼし、カエサル暗殺後の内乱を制した軍事的実力により、元老院からアウグストゥスの尊称を与えられ、帝政をひらいた。アウグストゥスは(2)共和政ローマの主要な権限のみならず、軍事力が重要な意味をもつ属州をも管轄下に置くことにより、あらゆる権限を掌握した。ローマ帝国における軍隊と皇帝の密接な関係は、(3)3世紀の軍人皇帝時代には、各地の軍団がその指導者を皇帝に擁立し、半世紀間に26人の皇帝が乱立するという、混乱した事態をももたらした。
  ゲルマン民族移動期に部族を率いた軍事的指導者の権限が、定住後に君主的権力へと発展することは、とりわけ長距離の移動を行った東・西ゴート族やヴァンダル族の場合に明らかである。このことは(4)長距離の移動、植民、征服によって各地域に国家を建設したノルマン人の指導者についてもあてはまる。
  しかしそのような軍事行動をともなう長距離移動を行わなかった(5)フランク族の王たちも、戦士集団を率いて征服や略奪を行う軍隊の長であり続けた。また962年にローマ教皇により皇帝戴冠を受けたドイツ(東フランク)王国のオットー1世は、(6)当時ヨーロッパ中部に侵入をくり返していた非キリスト教民族を955年にドイツ南部のレヒフェルトで破った。このときオットーは兵士たちから「皇帝」との歓呼を受けたと伝えられるが、ここにも輝かしい戦勝をあげた軍隊指揮者が皇帝として讃えられる習慣がみられる。
  このように軍功が政治的指導者や独裁者を生み出すという事例は、近代のナポレオン=ボナパルトや(7)20世紀の幾人かの政治家にも見出され、決して古代や中世に限られる現象ではない。


(1) オクタヴィアヌス、アントニウスとともに第2回三頭政治を行った人物の名を記せ。
(2) 共和政ローマの国政全般におよぶ最高の公職の名称を記せ。
(3) 3世紀には帝国の社会経済的基盤も変化する。農業・土地制度における変化を30〜40字程度で述べよ。
(4)(ア)9世紀にノヴゴロド国を建設したと言われるノルマン人の指導者の名を記せ。
 (イ)10世紀初めに北フランスにノルマンディー公国を建設したノルマン人の指導者の名を記せ。
(5) フランク王クローヴィスは軍事的征服以外にも、以後のフランク王権にとって重要な意味を持つ選択を行った。それは何か。
(6) この民族の名称を記せ。
(7) 第一次世界大戦中の軍功により国民的英雄となり、ワイマール(ヴァイマル)共和国の大統領になった人物の名を記せ。

B アメリカ大陸の西に広がる大洋の存在は、16世紀前半にヨーロッパ人に知られるようになった。 1513年、スペインの探検家[ a ]はパナマ地峡を横断し、新大陸の彼方に望見した海洋を「南の海」と名づけた。この大洋を船で横断し、「太平洋」と命名したのは、(8)ポルトガル人航海者マゼラン(マガリャンイス)である。しかし、太平洋に点在する島々やオーストラリア大陸について正確な地理的認識がヨーロッパにもたらされたのは、ようやく17世紀から18世紀にかけてのことであった。1642年、オランダの探検家[ b ]は、オーストラリア大陸の南方の海洋を東に向けて航海し(9)ニュージーランドに到達した。また、(10)1760年代後半には、フランスとイギリスがそれぞれ太平洋に探検隊を派遣した。フランスのブーガンヴィルは、1768年にタヒチ島を経由して太平洋を東から西に横断した。(11)哲学者ディドロは、この航海によって知られるようになったタヒチ人の暮らしぶりに刺激を受けて、ヨーロッパ文明の退廃と偽善を批判する『ブーガンヴィル航海記補遺』を著した。イギリスからは、1768年、ジェイムズ・クックがエンデヴァー号を指揮して太平洋に向かい、タヒチ島を経てニュージーランドを回航したのち(12)1770年、ヨーロッパ人としてはじめてオーストラリア大陸の東の沿岸を探査した。その後、クックはさらに2度にわたって太平洋の航海を行い、それまでヨーロッパで知られていなかった多くの島の存在を確認したが、1779年、3度目の航海の途上に(13)ハワイで島民に殺害された。クックの航海は、イギリスの太平洋への勢力拡大政策の一環として行われたが、専門家による天体観測を行い、動植物にかんする膨大な資料を収集するなど(14)科学的探検を目的とする航海のはじまりとしての側面ももっている


(8)(ア)マゼランは、ポルトガルから亡命し、スペイン国王の援助をうけて1519年にセビリャを出航した。当時、スペインは新大陸の西側の海洋を自らの勢力範囲に含まれるとみなしていた。その根拠とされた条約の名称を記せ。
 (イ)マゼランの太平洋横断の目的地の一つはモルッカ諸島であったといわれる。香料諸島とも呼ばれるこの島々は、16世紀から17世紀にかけてヨーロッパ諸国の争奪の対象となった。 17世紀前半にオランダがイギリスをこの地域から排除するきっかけとなった事件の名称を記せ。
(9) ニュージーランドは、イギリス政府の派遣した代理総督と先住民の首長たちとの間で1840年に結ばれた条約によってイギリスの植民地となった。この先住民は何と呼ばれるか。
(10) これらの探検に先立って、両国間では、1756年から7年間にわたって海外の植民地をめぐる戦争が行われた。1763年にパリで結ばれた講和条約によってフランス領からイギリス領となった植民地を1つ挙げよ。
(11)  彼とダランベールが中心となって1751年から72年にかけて編纂された書物の名称を記せ。
(12) イギリスの植民地となったオーストラリアでは、19世紀末以降、有色人種の移民を制限する政策がとられた。この政策は何と呼ばれるか。
(13) ハワイは、1898年にアメリカ合衆国に併合された。同じ年に、米西戦争の結果としてスペイン頭からアメリカ領となったマリアナ諸島中の島の名称を記せ。
(14) 1831年から36年にかけて、イギリスの生物学者ダーウィンは、海軍の測量船ビーグル号に乗り組んで南半球を周航し、動植物の調査を行った。ダーウィンはこの調査からえた着想を理論化し、1859年にその成果を書物として刊行した。この著書の題名を記せ。

C 1776年、北アメリカ大陸の13植民地の指導者たちが、本国イギリスに対して示した(15)独立宣言は、近代世界史の大きな転換を告げるものであった。
 1787年につくられたアメリカ合衆国憲法は、共和政体という新しい政治原理のもとで(16)連邦統治機構の構成と権限を明記した。連邦共和国としてのアメリカ合衆国はその憲法の批准をへて発足した。 1789年のことである。  
 誕生した統一国家は、その後、西に拡大していった。経済的改善を目指す農民あるいは移民が西部移住の主力であった。特に19世紀に入って、アレガニー山脈を越える(17)西部への進出が本格化した。1821年にはミシシッピー川を越える最初の州として、ミズーりが州に昇格した。しかしその時期から奴隷制を否定する自由州と、それを認める南部奴隷州との対立が表面化していった。新しい州に奴隷制を認めるか否かの論争であった。 1850年(18)カリフオルニアが州に昇格する際にも論議が起こった。1854年、奴隷制の拡大を争点として起こった(19)全国政党の再編は、自由州と奴隷州の対立を決定的とする転機であった。
 19世紀の世界における最大の内戦であった南北戦争後、合衆国の工業化は急速であった。戦前から綿工業などが北部に発速したが、戦後の工業化は(20)鉄鋼業、機械産業、さらに食肉産業といった多様な分野におよび、1890年代には合衆国は世界第一の工業国家の地位を手にしていた。工業化とともに、(21)全国的交通体系の形成、また都市化が進行した。フロンティアの消滅を記載したのは、1890年に行われた国勢調査の報告書である。その記述は、大西洋から太平洋におよぶ強大な近代国家の誕生を告げる宣言でもあった。

 
(15) アメリカ独立宣言書に盛り込まれた思想には、イギリス啓蒙思想の影響が大きい。代表的なイギリス人啓蒙思想家の名を1名記せ。  
(16) アメリカ合衆国憲法が定めた連邦統治機構を30字程度で説明せよ。  
(17) (ア)西部への進出によって1830年代、アメリカの政治制度に重要な変化が起こった。その新しい政治のあり方は何と呼ばれるか。    
(イ)1840年代、西部への領土拡張の際に広く語られた言葉を記せ。  
(18) アメリカ合衆国はカリフォルニアを割譲によって得た。割譲の原因となった出来事の名称を記せ。  
(19) 1854年に成立した全国政党の名称を記せ。  
(20) 南北戦争後、鉄鋼業において台頭した代表的企業家の名を記せ。  
(21) 1869年に完成した新しい全国的交通体系の名称を記せ。
………………………………………
コメント
第1問
 試験の直前にある学生が予想についてきいてきました。ある予備校(この名前は隠しておきます)で、こんどの京大の世界史は、貨幣史とアイルランド史がでると予想しました、先生はどうおもいますか、というのです。
 笑っちゃいました。アホなこと抜かす、という感じです。だいたい予備校の経営母体が何か特別に発表するようなかたちで、ここが出るはずだと予想を立てることはありえないし(あえていえばいつも当らない模擬試験)、それは講師個人の意見にすぎない、それもなんら京大を研究していない講師の予想だ、でまかせの予想だと答えてやりました。ワラをもつかみたい受験生に安易におもいついた予想を語っているのです。予備校講師の軽薄な性格と無責任さをよく示すことでもあるでしょう。あはっ、わたしも軽薄な生業(なりわい)の中にいます。
 さて、今年の出題からも分かるように、狭いテーマではなく、中国史に通底するテーマを出しています。これはこれまでにも、昨年度の「1910〜50年代の西アジアの分割・独立・離脱」というテーマも、2004年の「セルジュク朝・モンゴル帝国・オスマン朝の対イスラーム政策」でも、2003年の「宋明清の皇帝権強化制度」でも見えるように、教科書の一部を書かせたら済むようなものでなく、できるだけ長い時間に共通するものを探させようとしています。中国史なら、こういうタイプのテーマで未出題なのは、江南開発史、商業史、儒教の思想史などいくつもあります。貨幣史もテーマとしてあってもいいのですが、少しテーマが小さぎるのではないでしょうか。今年は外交史でした。もちろん過去にない問題です。第2問や第4問にもありません。
 課題は、「歴代の王朝が用いた懐柔策や外交政策について、紀元前2世紀から16世紀に至るまで、できるだけ多くの事例を挙げて」とあり、中国でもありきたりのテーマではあります。ただ「懐柔策や外交政策」という言い方が錬られていない表現です。懐柔策も外交のひとつであれば、「懐柔策を含む外交政策」という表現がふさわしいとおもわれます。
 それは戦争や外征や討伐や征服などどいう軍事行動を意味しないことは明らかです。導入文に「軍事力のみでは北方民族に対抗できなかった」とあるからです。この問題に答えるときに軍事行動のことは書かなくていいのです。「外交」とは戦争ではない関係づくりの方法てす
 しかしネットの解答例を見たら、戦争が臆面もなく書いてあります。問題を読んでないみたいですね。もちろん受験生の多くもこんな風に書いたであろう、まずい答案です。王朝ごとに積極策(軍事力)と消極策(外交)を並列して書いているものもあります。そんなことでは解答になりません。「消極策(外交)」の中身を問うているのですから。まして「積極策(軍事力)」をどれだけ書いても得点にならない。

 (1)前漢武帝は匈奴に攻勢をかけるべく張鳶を大月氏に派遣し、烏孫との同盟は成功して匈奴の動きを牽制した
 (2)武帝期から積極策に転じ、西域諸国と連携をはかるため、張騫を大月氏に派遣し、後漢は班超を西域都護に任じた
 (3)武帝は匈奴を挟撃するために張騫を大月氏へ派遣し、衛青・霍去病を匈奴討伐に派遣して勝利した
 (4)積極策に転じた武帝は匈奴挟撃を図って張騫を大月氏へ派遣した
 (5)明の攻勢でモンゴルは漠北に去ったが
 (6)元を追放した明の初期はモンゴルの北元などを積極的に討伐した
 (7)元を駆逐した明
 (8)北元やオイラト・タタールに対し積極策で臨んだが
 (9)西晋では八王の乱が勃発すると、諸王が北方民族を兵力として利用したため五胡の侵入を招いた……

 いったいこれらの解答のどこが懐柔策であり、外交政策なんでしょうか? いや外交の前提として書いているのだ、とすれば長すぎるものもあります。300字の中で外交に集中しないといけません。
 もう一つ注意しなくてはならないのは、中国にとって「外交」とは、中国を中心とした主従・上下の関係であることです。册封体制といっているものです。郡国制の拡大・国際版です。あくまで中国が世界の中心とおもいこみ、またそれを周辺の国々に強制・強要することです。それを逆転させたのが遼以降の征服王朝でした。このあたりがしっかり書けるかどうかです。
 たんに「和約を結んだ」では戦争が終わった、というだけでどういう関係、すなわち外交関係=上下・主従関係になったのかを書かないと不充分な解答になります。
 (1)冒頓単于に敗北し、和親策をとって貢物を贈った
 (2)匈奴に敗北し、和親策を締結して貢物を贈った
 (3)吐蕃とも会盟した。北宋は遼に対して澶淵の盟、南宋は金に対して紹興の和を結び、毎年絹・銀を贈ることで国境の維持をはかった
 (4)北宋は契丹の遼と澶淵の盟を、タングートの西夏と慶暦の和約を結んで 
 (5)タタールのアルタン=ハンとも和約を結んだ 
 (6)アルタン=ハンとは和議を締結した                  

 これでは結局、関係(外交)はどないしたん? という疑問が残ります。採点官がここまで見るかは分かりません。甘く寛容な京大のことですからここまでは見ないともいえます。しかし京大の手心に期待しないで、ここは厳しく行きましょう。というのは第2問のBの中国近代史の問題文にはしきりに「華夷秩序」ということばが出てきてアヘン戦争・アロー戦争の敗北によって、「中国と[1]使節と呼ばれる外交団を中国に送る周辺国家とが形成していたアジアの国際秩序、すなわち「華夷秩序」の崩壊の開始を告げる出来事だった」と説明しているのです。第1問はこの「華夷秩序」の歴史について書く問題でもあります。
 懐柔策を含む平和的な「外交」について、時間順に追いかけてみましょう。もちろん時間順でなく、懐柔にもいろいろな手があり、政治的な主従関係、経済的な供与(歳幣、歳貢)、社会的な対応とあり、こうした分野別でもいいのですが。
 前200年という時間に「前2世紀から」という課題に該当する事件があります。この年に白登山の戦いがあり、これは冒頓単于の指揮する匈奴と劉邦のひきいる前漢軍が戦います。匈奴40万(当時の世界最大の軍団)と劉邦は32万の大軍同士でした。しかし前漢軍は包囲され、「漢宗室劉氏の女性を匈奴単于の夫人とすることの外、毎年、絮(わた)・(糸+會きぬ)・酒・米、その他食料を匈奴に供し、両者は匈奴を兄とし、漢を弟とするという、漢の側にとってはきわめて一方的なものであった」と京大教授が書いています。こうして女性(こういう女性をとくに公主といいます)をふくみ貢納品をおさめて臣従したかたちで和議となりました。これを武帝が逆転しますが、さきほど書いたように武帝の討伐は懐柔でも外交でもないので書かなくていいのです。
 むしろ前漢末(前33年)に分裂した東匈奴の呼韓邪単于(こかんやぜんう)が長安まで挨拶に来たほうびとして、王昭君という公主を嫁がせたことは元曲『漢宮秋』で知られています。王昭君を書いた答案を見ませんでしたが、なぜでしょうか? 漢が主であり、東匈奴が従の外交関係です。これはこの東匈奴が南北に分裂したときも南匈奴を服属させることにつながります。
 五胡十六国時代(現中国の表現では東晉十六国時代)は「北方民族」の華北における建国期ですが、かれらに対して漢人はどういう態度をとったのでしょうか? この時代について言及した解答は一例ありましたが、「諸王が北方民族を兵力として利用したため五胡の侵入を招いた」というのは外交政策でも懐柔策でもありません。前の教授は「五胡十六国時代は北中国への非漢系5民族の侵入によるものと単純に解すべきではなく、すでにそれ以前より多数の北方系諸民族が中国内地に強制移住や導入の形で入っており、漢人支配の下で賎民視されてきたことに対する民族的自覚の高まりによる自立という側面を見落してはならない」と書いています。さらに「曹操は、一般の郡県とは別に匈奴諸部落を5部の特別区に分割して支配し、晋代にもこの統治方式は受け継がれた」と述べ、かれらが奴婢・小作人に転落していったことを加えています。つまり北方民族を隷属化したということです。
 また華北を支配した北魏では逆で、漢人貴族との姻戚関係がすすめられ漢人のほうが隷属化していったのです。こうした鮮卑族の漢人支配を継承するものが隋唐政権でした。
 隋唐の政策のひとつが突厥対策でしたが、隋は離間策をこうじて臣下とし、後継者争いの機を利用して服属させます。唐は攻撃した上で羈縻(きび)政策という間接統治のかたちをとります。すなわち都護府をおき、北方民族の長を唐の地方官「都督(ととく)・刺史(しし)」としてあつかう方法でした。解答に都督・刺史の名はなくてもよく、たんに地方官とした、羈縻州の支配下においた、でいいです。
 五代十国時代における後晋(突厥)の遼への燕雲十六州割譲は北方民族同士のやりとりであり、これは漢人側の懐柔策にはなりません。むしろその後にできた北宋がどれだけ十六州をとりかえそうと挑んでも敗北をなめつづけ、とうとう遼にたいして澶淵の盟を結んで、宋兄遼弟の関係をむすびました。先にあげた著者はこう書いています「宋から遼へ歳幣として銀10万両(3,7トン)、絹20万匹(2,500km)という莫大な物資を毎年おくることを条件とするものであった。そして、宋を兄とし遼を弟とするほぼ対等の両国関係は、伝統的中華意識からすれば、宋にとって大変な精神的屈辱であった」と。この遼との関係である「兄弟」を書かない答案ばかりがネットにのっています。しかしわたしが教えた学生は再現答案でしっかり書いています。
 次の金との関係でやっと南宋が金に対して臣下の礼をとったとの解答が見られます。金について関係(外交)を書いたのなら遼はどうだったのか、と気がつかないのでしょうか? このことについて「淮水を国境とする講和条約を締結(注:講和条件は銀25万両(後に20万両に減額)、絹25万匹(後に20万匹に減額)をおくること、宋は金に対し臣下の礼をとるという屈辱的なものであった(後に叔姪関係))」と前掲書に書いてあります。
 なお征服王朝に数えない西夏とは従来どおりの華夷関係、すなわち宋を主とする関係でした。これも言及していいでしょう。  
 過去問に、「明のモンゴル政策(1995)」があり、永楽帝の積極策と以後の消極策と長城構築を書かねばなりませんでした。この問題では、こうしたことは書かなくていいでしょう。また北元については一時的な対応なので書かなくてもいいでしょう。けっきょく蒙古に追いやりました。むしろその後のオイラト・タタール部にたいしてどうしたかでしょう。茶馬貿易による懐柔を目論んだのですが、そのもつれからオイラトのエセンの侵入を招き、土木の変がおきました。その後は明は消極策に転換し、長城の大規模な修築を行っていきます。16世紀、モンゴルのアルタン汗の侵入に悩まされて和解して明朝側から「順義王(じゅんぎおう)」として册封し、つまり臣下の礼をとらせ、その居城に対して帰化城(きかじょう)の名をおくったり、交易を認めて懐柔策としました。
 また女真族が東北で台頭しつつありましたが、羈縻政策をとって支配下においていました。野人女直部、海西女直部、建州女直部がそれです。いずれこの中の建州女直部からヌルハチ(1559〜1626)が登場します。ヌルハチは1583年から活動を始めています。「北方民族」はモンゴル高原の遊牧民だけを表わしていないから、この狩猟・農耕を兼ねた民族について触れてもいいはずです。


第2問
 解説の順は、空欄→設問ではなく、文章中に問われる順でいきます。
設問(1) 下線「北アジアの騎馬遊牧民」にかんして「前6世紀ごろイラン系の騎馬遊牧民が南ロシア草原」とあるのでスキタイです。前6世紀は、早くとる学者は前8世紀からだそうです。「南ロシア」はウクライナです。エルミタージュ美術館にスキタイの遺留品がたくさん貯蔵されていて日本でもなんども展示されています。たいていその黄金の品物の解説には、ギリシア人がつくったもの、とあります。スキタイとギリシアの交流の結果です。ウクライナの穀物とギリシア人製作の黄金製品が交換されていました。スキタイ人の文化は動物意匠(デザイン)と青銅器(アキナケス剣)をもつことで知られ、それがシベリアにまでひろく伝わっていて、かつてはスキタイ文化といっていたものを最近は「スキト・シベリア文化」といっています。匈奴がその文化の影響をうけた民族です。また西方ではアッシリア帝国のサルゴン2世もアケメネス朝ペルシア帝国のダレイオス1世も倒すことのできなかった勇猛な騎馬民族でした。センター試験(追試も含むと)でも6回でています。
 スキタイのコレクションは、ここ→ http://www、pitt、edu/~haskins/  
設問(2) 「イラン系の商人たち」といえばソグド商人です。1994年度の京大の過去問に「アム・シル両河地方を中心に.古くから東西交易に活躍したソグド人が使ったソグド文字」という文章がのっていました。また2003年度の設問にアラム系文字として中央アジアの文字の例としてかれらのソグド文字を書かせています。センター試験ではソグド商人は5回、文字は1回でています。商人たちの中心都市であるサマルカンドは頻繁にセンターででいます。  
空欄a 「9世紀に同じトルコ系の[ a ]に圧迫され、……東部(東トルキスタン)へと移動」というならキルギスです。「同じトルコ系」とは蒙古は6世紀の突厥、8世紀のウイグルとトルコ系つづきでした。世紀の9世紀は840年(語呂は「ウイグル走84れ0」、語呂は『世界史年代ワンフレーズ』から引用)としっかり覚えておくべきものです。問題文にあるように、これから以降西アジアにはトルコ人時代が到来するからです。キルギスはセンター試験では5回。  
空欄b 「10世紀末にトルコ系イスラム王朝の[ b ]朝がサーマーン朝を滅ぼす」は上の空欄aのトルコ人がつくった最初のイスラム王朝です。つまりカラ=ハン朝です(語呂はカラカラ苦9笑40)。カラ=ハン朝もセンターでは3回、サーマーン朝は7回出題歴があります。つまり京大の第2問はセンター試験レベルですよ、と言いたいのです。  
空欄c 「11世紀前半……トルコ系の[ c ]朝は、さらに西進して1055年バグダードに入城し、……スルタンの称号」とあるのでセルジューク朝ですね。王朝の樹立は1038年(これは西夏の成立と同じ。語呂は成果競[せ]る父10さん3は8)です。バグダードはアラブ人アッバース朝がつくって、イラン人のブワイフ朝がます入り(946)、このトルコ人セルジューク朝が、そしてモンゴル人のフラグが入ってきます(1258)。これはイスラム世界の民族興亡の順とも重なっています。  
設問(3) 「シーア派のある王朝」ファーティマ朝のほうが先に学院を建設しているからです。アズハル大学です(972)。このシーア派の学院に対抗してニザーミーヤ学院(現バグダード大学の前身)を設立しました(1067)。センターではアズハル大学は5回、ニザーミーヤ学院は1回出ました。ともに出題の新しい年度は2004年です。  
空欄d 「マムルーク朝」の前が何王朝かという問。カイロの3王朝は「フアマ」と農民のような順です(ファーティマ朝→アイユーブ朝→マムルーク朝、この覚え方は拙著『センター世界史B 各駅停車』にあり)。  
空欄e これは設問(2)でも出てきました。また首都が好きなセンター試験では7回も出ました。サマルカンドを都にしていたホラズム軍はここを砦にして戦った跡があり、大きな石がごろごろころがっています。それはモンゴル軍が投石器で飛ばした巨大な石でした。徹底的に破壊されます(1220)。この破壊された都市をティムールが再建します。  
設問(4) あまりにもかんたんな問題です。かんたんすぎることは良いことです。  
空欄f 「16世紀はじめティムール朝は、[ f ]=ハン国領に興ったトルコ系のウズベク」とは変な設問です。このハン国はすでにないはずで、ティムールがもともとここにあった西チャガタイ汗国から自立し、その後に東チャガタイ汗国・イル汗国と征服してつくった帝国でした。以前に滅ぼした「ハン国領に興った」という問は成り立つでしょうか? 解答は「(西)キプチャク」かもしれませんが、それなら空欄[  f ]の前に「ティムール帝国の発祥地」という説明的な語句が必要でした。あるいは真面目にとると、シャイバニ=ハン(シェイバニ=ハン、シャイバーン=ハン)領とします。というのはこの王朝(1500〜99)は帝国下に自立したシャイバーニー=ハン(1451〜1510)がサマルカンドを占領して滅ぼしたからです。この王朝はまたたくまに3分してブハラ(ボハラ)=ハン国、ヒヴァ=ハン国、コーカンド=ハン国となりますが(下のBの末尾の問題)。こういう問題は解けないときは無視するのが一番でしょう。1点ですから時間をかけるのがもったいない。  
設問(5) (ア)初めは小アジア側のブルサを都にしていましたが、このアドリアノープルに移りました(1366)。この都市はローマ皇帝ハドリアヌス帝が創建した都市として知られています。あのギリシア独立を承認した条約(1829)調印の都市としても知られています。今はエディルネといっている町です。
 (イ)これもやさしい問題です。イェニチェリ軍とは「新軍」の意味です。英語 janissary (トルコ兵)はこれのなまった言い方です。  
空欄g 「最盛期」とあるので「第10代」は知らなくてもスレイマン(シュレイマン)1世がでてくるはず。  
設問(6) ミッレトと日本人には言いにくい発音のことばです。   
空欄h これもセンター試験に出たことのある用語です(2002)。オスマン帝国からハンガリーを奪い返した条約でした。カルロヴィッツは現ハンガリーにあるドナウ川河畔の都市です。

B 

設問(7) この戦争はマカートニー派遣以来のイギリスの願望でした。これから中国市場が開けてわんさと売れるぞと期待したことばです。それに問題文の後にはアロー号事件とアロー戦争のことが書いてありますから、アヘン戦争が解答です。  
空欄 i 外交官のことばにある「ランカシャー」という地名はマンチェスターという産業革命の中心都市のある州名です。イギリスの産業革命による綿布を「ランカシャー綿」ともいいます。  
空欄 j ヒントは「開港地が限られ、それ以外での外国人の[ j ]の自由……さらなる市場開放」という空欄の前後の文章です。アロー戦争の後の天津・北京条約で認められたことがらは何か、と考えてもいいでしょう。キリスト教布教の自由でもなく、アヘンの公認でもなければ、商人が内陸に入っていくことのできる自由(権利)です。
設問(8) アヘン戦争(1840〜42)と虎門寨追加条約(1843)・望厦・黄埔条約(1844)の4条約の後の交渉の頃。またアロー戦争(1856〜60)直前の頃のヨーロッパでの戦争ということです。1853〜56年の戦争です(語呂は「栗見や、一1箱85実3」)。  
設問(9) 「事態が動いたのは、(9)ヨーロッパの戦火がやんだ年」にアロー号事件が起きたことを以下で説明していますからアロー戦争はいつからか、という問と同じです(語呂は「アロー、暗1夜8行5路6」)。京大が何年かと年代を問うた例は過去にもあります(1994、96、99、2000、2003)。珍しい問題という訳ではありません。  
設問(10) クリミア戦争の地域から中国に来るとすれば、地中海か(スエズ運河はまだない)、アフリカ回りで来るとしてもイギリスの「支配」する植民地を想起すればインドでの反乱ということになります。最近はこのセポイ(シパーヒー)の反乱をインド大反乱、1857年の乱、インド独立戦争といろいろな呼称がでてきました。どれでも可です。  
空欄k 条約締結の地名です。それは皇帝のいる北京に近いところまで攻められたための降参でした。天津は「天子の港」の意味です。白河で北京から降ると河口に天津市がきます。地図で確かめよ〜。  
設問(11) 太平天国の首都「天京」の現在名です。かたんすぎます。  
設問(12) これもかんたんですが漢字が正しく書けるかどうか。1996年の第2問Bでも、「1861年には[ h ]という官庁を新設し外交に当たらせることになった。。これ以後、清ははじめて外国を対等な国家として交渉するようになるのである。」とこの空欄に総理各国事務衙門(総理衙門)を入れさせています。 センター試験でも出ました(2007)。  
空欄 l 「外交団を中国に送る周辺国家」とあるえちの外交団を何「使節」というか、という問題です。朝貢使節しかありません。  
空欄m 「東南アジアでは、イギリスが三度の戦争」といえばビルマ戦争しかありません。この表現はミャンマー戦争でも英緬(えいめん)戦争でもイギリス・ビルマ戦争でもいいのです。  
空欄n 連邦を成立(1887)させてから、ラオスを編入(1899)という順です。センターの追試でも(2003)、インドシナ連邦「成立後、ラオスが編入された。」を正しい文章として選ばせています。  
空欄o ウズベク族の3ハン国をさいごに併合したのは何ハン国かという問でもあります。ヒヴァ(1512)→ボハラ(1599)→コーカンド=ハン国(1710)の順にできましたが、併合されたのはボハラ(1868)→ヒヴァ(1873)→コーカンド=ハン国(1876)の順でした。どちらも最後がコーカンド=ハン国です。  
設問(13) 「最後まで「華夷秩序」内にとどまっていた国」とは李氏朝鮮のこと。これが大韓帝国と中国の支配から離れて皇帝を名のりだしました(1897)。大韓帝国は97年と98年のセンター追試、2012年の本試に出ています。  
設問(14) なにより「駐兵権」とあれば北京議定書(辛丑条約)です。このときの賠償金といえば京大にとって深いかかわりのあるものがあります。京大人文科学研究所(旧館)はこの金で建てられました。

第3問
 京大は「似た問題をだすから過去問の古いものをやっとけ」とあるヨビで言っているそうですが、この問題は過去問といったいどう似ているのか、過去問の実例をあげてほしいものです。こんな問題はまったくありません。第2問や第4問にもありません。ヨビの講師であっても過去問を研究していない講師はたくさんいて、いいかげんなことをしゃべっています。なんども言っているように京大は過去にない問題をつくることを決意しているのです。過去問を解く意味は、少なくともこれまでのところまったくありません。わたしが教えている受験生が問題があたったといっているのは、過去問にない問題ばかり京大志望者に解かせているからです(合格メールを見よ)。拙著『世界史論述練習帳』に京大の過去問を載せていますが、この問題をよく見て、他の大学(東大・一橋・筑波)の問題のうち京大らしい問題を解くのがひとつの方法です。
 京大の過去問は、筑波大、阪大、北海道大、名古屋大などを受験する学生には良問ですから、解いてほしい問題です。それぞれの大学の中で京大未出題の問題を解くといいです。
 さて課題は「1960年代に世界各地で起きた多極化の諸相」を描け、というものでした。どこかの参考書みたいに1950年代を考慮したり言及したりする必要はまったくありません。問題をよく読んでいないようです。「二極……変化がきざし、1960年代以降、その変化は本格的なものになった。 1960年代に世界各地で起きた多極化の諸相」とあるように「本格的なものになった」1960年代だけ書けばいいのです。
 問題は1960年代というイメージができるか、またこの年代のできごとが浮かぶかどうか、浮かんでも、それが1960年代かどうか、自信がないと書きにくい問題でした。自信がなくても、だいたいそうだったろうと決意して書かなくてはなりませんが、自信があればより良いのは当然です。
 年代に関しては、中谷まちよ著『世界史年代ワンフレーズ』を推薦しています。この年代でのできごとで、この本にのっているものをあげると、
60年代の前年にあたる「アフリカの年」(1960)、コンゴ動乱(1960)、ベルリンの壁(1961)、アルジェリア独立(1962)、キューバ危機(1962)、ケニア独立、0AU(アフリカ統一機構)(1963)、部分的核実験停止条約(1963)、マレーシア連邦(1963)、UNCTAD(国連開発貿易会議)(1964)、ブレジネフ体制(1964)、パレスチナ解放機構(PLO)(1964)、公民権法(1964)、北爆(1965)、日韓基本条約(1965)、シンガポールの分離独立(1965)、文化大革命(1966〜1976)、EC(1967)、第3次中東戦争(1967)、ASEAN(東南アジア諸国連合)(1967)、プラハの春(チェコ事件)(1968)、核拡散防止条約(1968)、(仏の)五月危機(1968)、ニクソン大統領(1969)、(西独の)ブラント内閣(1969)、サダト大統領(1970)、(チリの)アジェンデ政権(1970〜73) 

 以上ですが、だいたいこういう「19○○」という年代の語呂は、「行く……」「人来る……」「人苦労……」とどれもこれも同じような語呂が並んでいて、受験場ではかえって似た語呂では迷います。中には「19」という数字を省いた語呂もあり、そうなると19世紀(18○○)との年代もごっちゃになります。それに対して『世界史年代ワンフレーズ』がそれらの類書といかにちがっているかを実感してもらうといいでしょう。『ワンフレーズ』は「19」を省かない独特な、それでいてかんたん明瞭な語呂をのせています。どんなに意味付けた俳句のような語呂でも、いざというときにパッと浮かぶ語呂であるかどうかが語呂の優劣の決め手です。     

 「二極構造に変化」とは、米ソのそれぞれに権威を失墜させるようなできごとがあり、この米ソに対抗する国なり勢力なりが出てきて、独自の行動をはじめて米ソが制御できない事態をあげるといいのです。また二極の米ソのことだけ述べてもだめです。「第三世界」とくに西アジアや南アジアのことも触れないと、「世界各地で起きた多極化」の「諸相」が満たせません。
 米国なら、キューバ危機がおき身近かに社会主義政権ができて軍事的脅威も加わりました。さらにヴェトナム戦争が本格化し、北爆がはじまりました。それは同時に世界的な反戦運動をおこすことにもなりました。じっさいテト攻勢に遭い、パリ和平会談に応ぜざるを得なくなりました。北爆と反戦運動をあげた解答がネットにないのは不思議です。1968年からは金ドルの交換は事実上停止となりました。ヴェトナム戦争による経済的破綻が明らかになってきました。これをあげた解答は皆無です。
 ソ連にとっては、キューバ危機そのものが失策としてフルシチョフ失脚の原因となり、ブレジネフが引き締めにかかります。またベルリンの壁を築いたこと、また「プラハの春(チェコの自由化運動)」に介入して、これもソ連という社会主義圏の盟主としての威信をそこないました。米国と同様なすがたがそこにあります。
 米国から距離をおこうとする現象としては、なにより西欧がECを結成してその経済圏から離れていきます。「第三の大国」といわれるヨーロッパ経済圏の登場です。またフランスのド=ゴールは独自の外交(共産主義中国の承認、NATO脱退、部分的核実験停止条約に反対、アフリカ独立の承認)や、西独のブラント内閣の東方外交は米国離れの現象です。日本の60年代における経済成長もアメリカの経済を脅かします。さらにアラブ人たちは第三次中東戦争に敗北したことからOAPEC(1968)を結成して反イスラエル・反米国陣営を築きだします(石油ショックは1973年なので書いてはいけませんが)。
 ソ連からの離脱の傾向は、中ソ論争・中ソ国境紛争(新疆とウスリー江)・文化大革命で顕著となり、とくに「プラハの春」に対する弾圧に対して中国はソ連を「社会帝国主義」と非難しました。この「プラハの春」についてはアルバニアやルーマニアも反ソ的な言動をおこないます。
 また非同盟諸国首脳会議がティトー・ナセル・ネルーらが音頭を取って開かれました。60年代にアフリカ諸国の独立はつづき、アフリカ統一機構やASEANの結成などの組織もできました。こうした動きも二極構造を崩す傾向でした。

第4問
A 下線設問だけの問題。
下線(1) 第2回三頭政治ということなので、レピドゥスだけが欠けています。第一回はボクラカエ(ポンペイウス・クラッスス・カエサルの頭)、第二回はアンオクレ(アントニウス・オクタヴィアヌス・レピドゥスの頭)と2つともまちがわないように覚えとかなくてはならない。センター試験でもすでに6回でています。
下線(2) コンスルは、日本語訳では統領や執政官です。かの『NEW青木』では、コンスルを「日本の内閣に相当します」(p.76)とまちがった説明をしています。この問題の問い方のように「最高の公職」とあるように組織としての内閣でなく首相や大統領にあたります。
下線(3) 「3世紀……農業・土地制度における変化」とあるので、変化する前→後、という順で書くと明快です。働き手は奴隷から小作人(コロヌス)へ、これをラティフンディウム(ラティフンディア)制からコロナートゥス制へ、と書いてもいいです。またつくる作物がオリーブ・ブドウという果樹栽培から小麦を生産する穀物栽培に変ります。どちらも大土地経営ですから変化になりません。
下線(4)(ア) リューリク(リューリック、ルーリック)です。9世紀とは、リューリクがつくったノヴゴロド国は862年、オレーグがつくったキエフ公国は882年です(『ワンフレーズ』の語呂は、いっしよにして信子[ノヴゴロドのこと]、春86に2母88に2)
 (イ) 指導者の名はロロ(ロロー、ロベール1世)。ロロの物語は拙著『センター世界史B 各駅停車』に(p.206)、

 セーヌ川の河口をなんども襲い、西フランク王にノルマンディー公国を認めさせます(911)。ロロが国王に臣従の礼をする際、国王の足に接吻することを求められましたが、ロロは拒否して、部下に接吻を命じました。部下は接吻するためにひざまずくふりをして、とつぜん国王の足をもちあげて逆立ちにし、接吻の礼をしたそうです(^_^;)。どちらに実権があったかを示す話です。

下線(5) 「王権にとって重要な意味を持つ選択」といっても、クローヴィスが選択した行為は、教科書では「正統派のアタナシウス派に改宗した。これはのちにフランク王国がローマ人貴族を支配層にとりこんで、西ヨーロッパの中心勢力になる原因となった。」ということぐらいしか書いてない。このうち最初の文章を書けばいい。
下線(6) 後の文章に「レヒフェルトの戦い」があるからマジャール人と分かります。マジャール人というと何か未開な民族の名前のようですが、現在でもハンガリーの正式名は「マジャール国」です。
下線(7) 初代大統領エーベルトでなく2代目のひと。いかにもドイツ人らしいいかつい名前のヒンデンブルクです。拙著『各駅停車』ではその立派すぎるヒゲの似顔絵とともに、以下のように説明しています(p.339)。

共和国の初代大統領エーベルトが盲腸炎で亡くなり、1925年の大統領選挙では、大戦中の参謀総長でタンネンベルクの英雄となったヒンデンブルクが当選します。ドイツ人の復讐の意志をあらわした選挙結果でした。 ★(おぼえかた)ヴァイマル共和国の大統領はエーベルト→ヒンデンブルク→ヒトラー(大統領を廃止して総統)の順 →エヒヒ

B 空欄と下線設問の両方です。
空欄a 太平洋という茫洋とした海を「望見(発見)」してボーッとしたひとです。バルボアのことは拙著『各駅停車』では「★太平ボア」と覚え方をのせています(p.245)。
下線(8)(ア) 前年の教皇子午線に不満で、ポルトガルに近い都市で改めて地球の線引きをスペイン・ポルトガル両国でした条約です。問題文をポルトガル・サイドで言い換えれば、この条約でブラジルがポルトガル領と決まったものでもあります。
(イ) マゼランはマラッカ王国征服のときには参加していても帰国してしまったので、友人が、ここは天国や、となんども手紙を出してきていて、それでこんどは西回りで行こうとしたのが、いわゆる「世界周航」といわれる航海でした。このこととは関係なくオランダ・イギリスの争奪戦は何かと問うています。ここでしかとれないという香料がたくさんとれる島の名前です。過去問(1993)にも「当初協力的であった両国の関係は(3)1623年の事件をきっかけに悪化して、イギリスは香料貿易から撤退し」という下線設問として、同じ答えを書かせています。「しだいに関係は悪化し、1623年に起きた[ a ]事件をきっかけに」と空欄を埋めさせる問題(1999)もありました。なお、この島の名前はアンボンともいい、それでいえば第二次世界大戦中での日本軍の捕虜虐待は映画『アンボンで何が裁かれたか』になりました。オランダを支援すべく南のオーストラリア軍が行ったものの捕虜となり、過酷な待遇・労働・処刑で532名のオーストラリア兵のうち、 戦争が終って3年後に生き残ったのはわずか123名という悲惨なものでした。
空欄b 17世紀はオランダの世紀(タスマン)、18世紀はイギリスの世紀(クック)という順がそのまま表わされた文章です。その中に、この空欄「1642年、オランダの探検家[ b ]は、オーストラリア大陸の南方の海洋を東に向けて航海し(9)ニュージーランドに到達」という人物。島の名前タスマニアでも知られています。タスマンは細かい。センターで出題されたこともありません。捨てててもいい問題です。
下線(9) これも難しい問題ですが、「マオリ」はセンターでは5回(95追、01本、03本、09本、11本)で出ていて必須用語です。オーストラリアの先住民アボリジニとまぎらわしい。だから拙著『各駅停車』にも覚え方として、★アボリジニはオーストラリア、マオリはニュージーランドの先住民、と示しています(p.453)。
下線(10) パリ条約はたくさんありますが、入試上もっともよく出題されるのがこのパリ条約です。いろいろな意味があるからです。七年戦争・フレンチ=インディアン戦争・プラッシーの戦いの総合条約であり、この年からが勝利したイギリスの産業革命がはじまります。つまり、この条約の年からが「近代」という時代区分のスタートにもなるエポック的条約・年代です。スペイン継承戦争・アン女王戦争で獲得したハドソン湾岸・アカディア・ニューファウンドランドとまちがわないように。カナダ(全域)か、広大なルイジアナです。ミシシッピ以東のルイジアナです。以西はナポレオンのときに買収します。
下線(11) 『百科全書』を諸子百家の「百家全書」と書きまちがわないように。現在のフランス語版のこの百科全書は「L'Encyclopedie de Diderot & d'Alembert」とディドロ・ダランベールの百科全書と呼ばれています。→こちら http://diderot、alembert、free、fr/  この『百科全書』について拙著『各駅停車』では、

この執筆に多くの啓蒙思想家が参加したため、啓蒙思想家は百科全書派ともいわれます。実践的な面は、本文17巻に加えられた図版11巻に当時の先進技術がイラスト化して紹介することで表れています。執筆者の中には科学者、数学者もいますが何より一番多いのは職人たちでした。万学の集大成でもあり、「啓蒙思想のピラミッド」ともたとえられます。

と解説しています(p.272)。

下線(12) 有色人種を排斥する移民制限→禁止(1901)という白人だけが移住許可という法です。その意味のまま「白いオーストラリア(豪州)主義」を白豪主義といいます。
下線(13) 「マリアナ諸島中の島」といわれると迷ってもグアム島と教科書に書いてあるので、そのまま書けばいい。
下線(14) ダーウィンの著書といっても一つしか知らないから、それを書けばいい。年代は、『ワンフレーズ』に載っていないですが、追加したこのホームページには載っています(種の起源、一1番8根5源9)。

C 下線設問ばかり。
下線(15) 独立宣言書の上から3〜5行目のところに、なぜイギリス本国と戦っているかの理由を説明した部分にロックの思想は書いてあり、たいてい教科書にもその部分が引用されて資料として載っているはずです。『詳説世界史』なら以下。

 われわれは次のことが自明の真理であると信ずる。すべての人は平等に造られ、造化の神によって、一定の譲ることのできない権利を与えられていること。その中には生命、自由、そして幸福の追求がふくまれていること。これらの権利を確保するために、人類の間に政府がつくられ、その正当な権力は被支配者の同意にもとづかねばならないこと。もしどんな形の政府であってもこれらの目的を破壊するものになった場合には、その政府を改革しあるいは廃止して人民の安全と幸福をもたらすにもっとも適当と思われる原理にもとづき、そのような形で権力を形づくる新しい政府を設けることが人民の権利であること。

 ここに自然権・社会契約説・革命権の3つのことが述べられているのを確かめられますか?
下線(16) 三権分立がもっとも明快につくられた組織として名高い憲法です。先の教科書では、 合衆国の行政権は大統領のひきいる政府がにぎり、立法権は連邦議会(各州2名ずつの代表からなる上院と人口比例による代表が集まる下院)にあり、司法権は最高裁判所が行使し、相互に抑制しあうことによって、権力が一つに集中することをさける三権分立の原則を定めた。 と説明しています。東京書籍なら「人民主権・連邦主義・三権分立を骨子とする合衆国憲法が制定された」とだけ説明していて、とてもこの教科書は薦められません。
下線(17) (ア) あくまで1830年代という歴史の中での表現ですから、たんに民主主義では解答としては不充分です。建国当初から民主主義ですから。「新しい政治のあり方」と問うています。どこが新しいかは拙著『各駅停車』(p.432)に書いてあります。
 (イ) 今年(2007)の東大にも同問がありました。「当時の白人たちは、アメリカの西部への拡大を神から与えられた「使命」と考えていたとされるが、この「使命」を端的に示す用語を記しなさい」と。最近は史家たちは「明白な使命」と訳さないで「膨張の天命」と意訳しています。
下線(18) 「割譲」せざるをえない方法、すなわち戦争です。戦争の名を書け、という問題でもあります。戦争の原因となったテキサスを強引に併合され、そしてこのカリフォルニアとニューメキシコも「割譲」となりました。これは現在の合衆国の地図で確かめたら、いかに大きい地域かが分かるでしょう。現在の州名でいえば、カリフォルニア州・ニューメキシコ州・テキサス州だけでなく、ネヴァダ州・アリゾナ州・コロラド州・ユタ州もふくんだ地域です。計算してみると、テキサス州もふくんで日本の全面積の6.6倍です。
下線(19) カンザス・ネブラスカ法に反対したひとびとがつくった政党です。リンカンの政党は?
下線(20) 鉄鋼王といわれたのがカーネギー、石油王といわれたのがロックフェラーです。カーネギーはもうけた金の一部をかれが乞食少年のときに買えなかった本を無料で読めるための施設・図書館建設に費やします。カーネギー資金援助により建築された図書館は合衆国で2,509、これを含めて全世界に2,811箇所もつくりました。とてつもない。
下線(21) 年代もヒントです。スエズ運河完成と同じ年です。『ワンフレーズ』のゴロは、人1は8ロ6ケ9ット。