世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

京大世界史1998

第1問(20点)
 紀元前から官僚機構を完備させた中国では、官吏登用制度が各王朝の政治・社会や文化に大きな影響を与えた。紀元前後から20世紀初めまでの官吏登用制度の変遷について、300字以内で述べよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。
  

第2問(30点)
次の文章(A、B)を読み、[  ]内に最も適当な語句を入れ、かつ下線部(1)〜(8)についての後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 現代の欧米で使用されている言語、例えば英語の中には、sugar(砂糖)、chequ(小切手)、algebra(代数)など、アラビア語から入った単語がかなり見られる。この事実は、西洋キリスト教世界の文化も、イスラム世界の文化を取り入れつつ発達してきたものであることを物語る。
 それでは、西洋はどのような経路で(1)イスラム文化を取り入れてきたのか。この点で、大きな役割を演じたのは、スペインとシチリアである。8世紀の初頭、スペインに上陸したイスラム教徒は、西ゴート王国を減ぼし、同じ世紀の半ばには、独立した王朝としての[ a ]を成立させた。
 その後、12世紀頃から、キリスト教徒による国土回復運動が進むにつれ、イスラム教徒の支配地域は徐々にスペイン南部へと縮小していったが、彼らの活動は実に(2)15世紀の末まで続いた。この間、[ b ]をはじめ、トレド、グラナグ、セビリアなどの諸都市では、高度のイスラム文化が栄え、これを学ぶために西洋各地から多くのキリスト教徒がスペインに留学し、(3)哲学・医学など、当時世界最高の知識を故国へと持ち帰った。
 一方、地中海最大の島シチリアも、9世紀前半からイスラム教徒の支配下に入り、[ c ]が到来する11世紀後半まで、2世紀半にわたるイスラム教徒の支配が続いた。(4)シチリア回復後のキリスト教徒の君主たちも、熱烈なイスラム文化の愛好者として知られ、シチリアに栄えたイスラム文化は、(5)スペインのイスラム文化と共にイタリアに伝えられ、ルネサンスなど、西洋の文化の形成に大きな影響を与えた。

(1)イスラム文化は、各地の伝統的な文化を接取して発達した融合文化であった。その典型的な1つの実例として、15世紀頃のエジプトで今日の形にまとめられた有名なアラビア語の文学作品の名をあげよ。
(2)15世紀のナスル朝の時代に完成し、今もグラナダに残る華麗なイスラム宮殿の名をあげよ。
(3)哲学・医学などのアラビア語の著作は、11〜13世紀、ラテン語に翻訳され、以後、西洋の大学で教科書として長く使用された。このような著作の著者として、西洋でも名高いイスラム教徒の名を1人あげよ。
(4)このような君主としてよく知られるルッジェーロ2世が、12世紀前半に建てた国家を何と呼ぶか。
(5)古代の中国で発明され、8世紀のバグダード、12世紀のスペインを経て、13世紀のイタリアにその製法が伝えられた物がある。それは何か。

B 中国では明の中期以降、産業が飛躍的に発展する。農業では桑・綿花・茶・たばこなどの商品作物の栽培が各地に広がりつ手工業においても、農民の副業として、綿織物業などが盛んになった。産業の発展にともない、商品の流通が活発となって、全国的な販売網が形成され。塩の販売権を獲得した[ d ]と新安(キ州)商人は、国内の商業界を二分する勢力となった。やがて各地の都市で、同業者や同郷人が互いの結束をはかるために、[ e ]を建設することが広まった。
 この結果、貨幣経済が地方まで浸透し、銀に対する需要が高まったが、明・清両朝は、銀の多くを外国に依存していたので、外国との貿易も盛んになった。明は初め朝貢貿易のみを許し、それ以外の貿易は禁止していた。沿岸の住民の中には、密貿易を行なうものが少なくなかったので、16世紀後半には禁令を緩和して、かれらが東南アジアなどに渡航することを認めた。西欧諸国の中ではいち早く、ポルトガルが中国近海に現われ、[ f ]に居住権を認められ、住民との間に貿易を行なった。
 清は17世紀後半に住民の海外渡航と、外国船の来航を解禁したが、やがて西欧諸国に対しては、貿易港を広州一港だけに制限した。この時期には(6)オランダ・イギリスが、積極的に中国貿易を行なったが、最終的にはイギリスが他国を退けて、優位を確立した。他方清は陸路を通しても、外国との間に通商を行なっている。ロシアとの間には1689年に[ g ]を結んで国交を開き、北京で貿易を行なうことを許したが、後には国境に場所を移した。なお清の朝貢国であった(7)朝鮮は、定期的に北京に使節を派遣したが、これらの使節は、本来の使命以外に、(8)中国の商人との間に貿易を行なって、絹織物・絹糸などを購入した

(6)オランダが、アジア貿易の根拠地としたジャワ島の都市はどこか。
(7)朝鮮において官学とされた思想は何か。
(8)17・18世紀の朝鮮の使節は、貿易のために主に銀を持って行ったが、朝鮮が銀を輸入したのはどこの国からか。

第3問(20点)
 20世紀の2つの世界大戦の間に、イタリアとドイツでは、ファシスト党とナチスがそれそれ一党独裁を実現し、ファシズムと呼ばれる全体主義国家体制を樹立した。このような国家体制が両国において成立した理由について、19世紀後半の国家統一以来の両国の歴史を視野におさめながら、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。
  

第4問-(A)(15点)
 次の文章(a〜c)を読み、下線部(1)〜(9)についての後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

a ギリシア本土の諸ポリスの対立・抗争が激しさを増していた紀元前4世紀半ばに、北方のマケドニア王国が勢力を急速に拡大してきた。(1)とくにその王フィリッポス2世は抵抗するポリスを戦いで打ち破り、ギリシア世界を支配下に入れた。その後まもなくフィリッポスは暗殺されたが、その子アレクサンドロス3世(大王)は父親の遺志を継いでマケドニアとギリシアの連合軍を率いて東方遠征に向かい、遠征の目的であったペルシア帝国打倒を果たした後も東方への進軍を続けて、インド西北部まで達した。10年に渡る遠征の結果、ギリシアからオリエント世界に及ぶ大帝国が生まれた。アレクサソドロスは新たな政策を次々と断行したが、若くして病没し、(2)その死後部下たちの争いが生じて大帝国は分裂した。(3)アレクサンドロスの東方遠征以降の約300年間は今日ヘレニズム時代と呼ばれているが、(4)この時代にはギリシア文化が普及して、オリエントの要素と融合し新たな文化を生み出した

(1)フィリッポス2世をギリシアの自由と独立の敵として打倒することを呼びかけたアテネの有名な弁論家は誰か。
(2)部下の一人が支配するようになったエジブトでは、首都が大いに繁栄して、自然科学の研究も盛んになされた。その中心となった首都の施設の名を答えよ。
(3)ヘレニズム(ヘレニスムス)の概念を初めて用いた19世紀ドイツの歴史学者は誰か。
(4)この時代の文化を代表する彫刻を一つ挙げよ。

b (5)527年に即位したビザンツ(東ローマ)帝国皇帝ユスティニアヌス1世は、治世初朗の反乱鎮圧に成功すると、ロ一マ帝国の旧領の回復に乗り出した。そして、北アフリカのヴァングル王国、イタリアの東ゴート王国を征服し、地中海を内海とする大帝国を再建した。また、国内ではトリボニアヌスらに命じて大規模な法典編纂事業を行い、(6)首都に壮大な聖ソフィア聖堂を建てさせた。しかし、ユスティニアヌス帝の死後、広大な領土の支配は崩れ、やがてイスラム教徒の進出によってビザンツ帝国の支配は大きく後退することとなった。

(5)この皇帝は、即位後まもなく、古代から続いていた有名な学問所を閉鎖させた。この閉鎖された学問所の名を記せ。
(6)聖ソフィア聖堂はビザンツ式建築の代表例とされるが、このビザンツ式建築の特色について簡潔に説明せよ。

 封建社会が安定した11〜12世紀の西ヨーロッパでは、外に向かっての拡大運動が引き起こされたが、その最大のものが十字軍遠征である。(7)ビザンツ皇帝の救援要請に応えて、教皇ウルバヌス2世は1095年のクレルモン公会議で、聖地奪還をめざす十字軍遠征を提唱した。そして、その翌年に出発した第1回十字軍は、聖地を奪取してイェルサレム王国を建てた。しかし、(8)その後イスラム教徒が勢力を回復したため、幾度も十字軍遠征が行われることとなった。13世紀後半まで7回の十字軍が起こされ、一時聖地を奪回したことがあったものの、ながく維持することはできず、また(9)次第に当初の理念も失われるようになって、結局遠征は失敗に終わった。

(7)ビザンツ皇帝はなぜ救援を求めてきたのか。その理由をごく簡潔に記せ。
(8)12世紀後半にイェルサレム市を奪回したイスラム教徒勢力の指導者の名を記せ。
(9)第4回十字軍は聖地に向かわなかった。この十字軍の遠征の経過と背景について。100字以内で説明せよ。

第4問-(B)(15点)
 次の文章を読み、下緑部(1)〜(9)についての後の問に答えよ。解答ほすべて所定の解答欄に記入せよ。

 ヨーロッパでは、(1)中世末から16世紀にかけてイギリス、フランス。スペインなどで国王が諸侯や騎士をおさえて権力を強化する一方、教皇の権威の低下や宗教改革によってラテン・キリスト教文化圏の精神的な一体性が揺らぎ始めた。こうした動きを背景に、個々の国家が独立した政治的主体として国際秩序の形成に関与する主権国家体制が生みだされた。そのきっかけとなったのは、(2)1494年に始まった国際戦争であった。この戦争では、ハプスブルク家とフランスのヴァロワ家とがヨーロッパの覇権をめぐって争い、イギリス、ヴェネツィア、ミラノなども加わって複雑な外交をくりひろげた。最終的に1559年のカトー=カンブレジ条約によって講和が成立するまでの間に、旧教国であるフランスはハプスブルク家に対抗するためにドイツの新教勢力や(3)東方の非キリスト教国とも同盟を結んだ。こうして、(4)特定の一国が強大とならないように各国が主義や体制の違いをこえて同盟し、互いに牽制(けんせい)し合うことによって国際秩序を維持しようとする考え方が生まれた。(5)17世紀前半の三十年戦争においてもフランスは、ハプスブルク家の強大化をおそれてデンマーク、スウェーデンなどの諸国とともに新教徒側を支援した。その後、ヨーロッバの国際関係は、大陸ではフランスとハプスブルク家との対抗関係を基軸に展開する一方、海外では植民地の支配をめぐってオランダとイギリス、次いでイギリスとフランスとの対立が強まり、ヨーロッパ本土の戦争と海外の植民地争奪戦はしばしば密接に結びつきながら進行した。(6)18世紀にはいると中・東欧でプロイセンとロシアが台頭し、ヨーロッパ大陸の国際関係にも変化が生じた。18世紀末にはポーランドがロシア、オーストリア、プロイセンの領土拡張の犠牲となり、また、(7)フランスで革命が勃発すると、革命に反対する諸国とのあいだで戦争が始まった。革命によって主権在民の原則が確立されたフランスでは、諸外国からの干渉に対する戦いは、王朝の利害に基づく従来の戦争とは異なり、市民的軍隊による国民戦争の性格を帯びた。列強の軍事的包囲を持ちこたえたフランスはやがて攻勢に転じ、ナポレオンは国民軍を率いて大陸制覇に乗り出した。この戦争によって革命の理念が大陸の諸国に拡大する一方、(8)諸国民のあいだではフランスの軍事的支配に対する反発も生まれた。ナポレオンの没落後、革命前の王朝を正統とする復古的な考え方に基づいて国際秩序の再建が図られたが、(9)自由主義やナショナリズムの勃興によってこの体制も徐々に崩壊に向かった

(1)ばら戦争後のイギリスで集権化を推し進めた王朝の初代の国王は誰か。
(2)〔1〕この戦争の名を記せ。
   〔2〕この戦争の危機に対処するためには、宗教や道徳にとらわれずに行動する政治指導者が必要であると説き、近代政治学の先駆者となった思想家は誰か。
(3)この国が1535年にまずフランスに認め、その後イギリスやオランダにも与えた特権は何と呼ばれるか。
(4)この考え方の核となる概念は何か。
(5)〔1〕この戦争の惨禍を見て、国際間で守られるべき法規の確立を主張したオランダの法学者は誰か。
 〔2〕この戦争を終結に導いた講和会議は、最初の近代的な国際会議ともいわれる。この会議で結ばれた条約の主な内容120字以内で説明せよ。
(6)プロイセンの勢力拡大に直面したオーストリアはついに宿敵フランスと同盟を結び、孤立したプロイセンはイギリスと結んで戦争を起こした。この戦争の名を記せ。
(7)フランス革命による国際関係の変化をふまえて、恒久平和の達成こそが国際政治の中心的課題であり、そのためには自由な国家間の連合が必要であると説いたドイツの哲学者は誰か。
(8)スペインでもナポレオンの支配に対する民族主義的抵抗が起こった。この抵抗運動を主題とする「5月3日の処刑」をはじめ、民族文化をふまえて幻想的・風刺的作品を描いたスペインの画家の名を記せ。
(9)この体制にいち早く打撃を与えたのは、ラテン・アメリカ諸国の相次ぐ独立であった。この時期、アルゼンチン、チリ、ペルーなどの独立運動を指導した人物の名を記せ。

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コメント
第1問

 素直なわかやすい要求です。時間が「紀元前後から20世紀初めまで」、テーマは「官吏登用制度の変遷について」です。明清の科挙がどれだけ書けるかで少しは差がつきます。
 科挙に受かるとどんなことが起きるか?
 ここに科挙に合格して帰郷する朱徳という人物の記録がある。
 「甥のひとりは、遠方から手を振り叫ぶ朱徳をみとめると、手を振りかえすことも忘れて、野良を飛び走って家に向い、それから、まるで大騒ぎになり、何もかもきりきり舞だった。朱が家に着くまでには、全家族が二列にならんでいて、彼が近づいてゆくと、彼に向ってうやうやしく頭をさげた。息子としては扱わず、養父が礼をしながら家にみちびき入れ、広間のいちばん上席にすわらせた。まわりの家族のものみんなの眼は誇りにかがやき、みな、貧者が高貴権勢の人に話す時の、かしこまった敬語で、彼に話しかけた。……家中が清掃され、彼のために特別の御馳走がつくられ、また、家のだれもが、かつて自分ひとりの室など持ったことがなかったのに、彼だけのために特別の室が取ってあって、そこには、家中での最上等の寝台と卓と椅子とがそなえられていた。なおその上に、ただ一つの上製の寝床用の敷物も彼にあたえ、また、夜の灯火というぜいたくを満たさせるために、種油を使用する裸のランプまでがあった」(アグネス=スメドレー著、安部知二訳『偉大なる道-朱徳の生涯とその時代-』岩波文庫)
 この後に朱徳のどんでんがえしが待っているのだが、面白い伝記なので読む人に知らせないほうがいいだろう。この短い抜粋だけでも、今の日本で大学に受かるのとは大部ちがうらしいことは判ってもらえるのではないか。
 さてこの科挙を制度史として書かせる問題。
 第一文の「紀元前から官僚機構を完備させた中国では、官吏登用制度が各王朝の政治・社会や文化に大きな影響を与えた」は科挙の重要性を述べて前置きとしている。まだ問題には入っていない。もしこれも問題要求に含めるとすれば、300字で書くことはほぼ不可能である。要求は「影響」ではなく「紀元前後から20世紀初めまでの官吏登用制度の変遷について」である。純粋に制度史である。「変遷」の理由も要求していないが、文章としては出てこざるをえない面がある。
 教科書で充分解ける易しい問題だ。
 ポイントは七つ。1 前漢の郷挙里選、2 三国魏からの九品官人法、3 隋からの科挙の開始、4 宋の殿試、5 元の中断、6 明清の継承、7 1905年(20世紀初頭)の廃止。注意しなくてはいけないのは、どの制度の変遷にも変遷の王朝・時期がちゃんと示されているかどうか、である。長い時間的流れの問題は数字なり時代表現を文章中に入れこむことは必須である。
 教科書の例をあげてみよう。以下は『詳説世界史』山川出版社のもの(駿台としてこの教科書を推薦していない、たんに多くの学生が持っているからという理由だけ)。
 1 官吏の任用は地方長官の推薦(郷挙里選)に拠ったため、地方で実力を持つ豪族は官僚となって権力をにぎった。
 2 三国の魏から九品中正がはじめられた。これは地方に中正官をおき、人材を9等級にわけて推薦させるのであるが、結果的には有力な豪族の子弟を推すことになり……
 3 隋……九品中正の法を廃止して、試験によって広く人材を求める科挙が実施された。……唐は隋の制度をほぼそのまま採用しながら、……科挙制を強化する
 4 (宋の科挙の注)皇帝みずから試験官となり宮中でおこなう最終試験の殿試も宋代にはじまり、君主独裁制を強化した。
 5 元……はじめは科挙もおこなわれず、中国の士大夫とくに儒者が打撃をうけた。
 6 洪武帝は……朱子学を官学とし、科挙制をととのえ、清は中国統治にあたって明の制度を採用しながら、……科挙をさかんにおこない、学者を優遇し、学問を奨励した。
 7 義和団事件後の清朝は、官制を改め、科挙を廃止する(1905年)などの改革を進めた。
 これを「……」や( )を除いて全部そのまま単純につなぎ合わせると381字になる。字数オーバーである。
解答例 1
前漢の武帝は、地方長官の推薦によって地方豪族を官僚とする郷挙里選をはじめた。三国の魏からはじめた九品官人法は、地方に中正官をおき、人材を9等級にわけて推薦させるのであるが、結果的には門閥貴族を育成した。その弊害を打破すべく隋は試験によって広く人材を求める科挙を実施した。唐も隋の制度を採用する。宋代には皇帝みずから試験官となり宮中でおこなう最終試験の殿試もはじまり、君主独裁制を強化した。しかし元では初めは科挙もおこなわれず、中国の士大夫に打撃をあたえた。明の洪武帝は朱子学を官学とし、科挙制をととのえ、清は明の制度を採用し科挙をさかんにおこなった。義和団事件後の清朝は、1905年科挙を廃止する。(299字)
 より制度の中身に肉薄した解答にすると次のようになる。
解答例 2
前漢の武帝の時代に、郷挙里選という地方官が有徳者を推薦する官吏登用法が施行された。これは地方豪族の中央政界進出につながった。魏の文帝が中正官を派遣し有能者を9段階に分けて推薦する九品官人法を創始したが、この制度は門閥貴族の台頭を促した。この門閥貴族の弊害を打破するために、隋の文帝から始められた試験選抜による科挙は、唐を経て宋代で殿試が加えられて、皇帝独裁体制を支える制度として完成した。その結果、家柄ではなく知識が支配階層の条件となった。科挙は元で一時中断されたが、のち復活し、明清ではより複雑な制度に発展した。しかし知識や制度の固定化を招き、清末の列強の進出に対応できず、1905年に廃止された。(300字)
解答例 3
前漢は地方官が豪族と合議のうえで有徳な人材を推薦する郷挙里選をはじめた。三国魏は中正官を派遣して豪族の世論を聞き、官僚候補生を才徳に応じて九段階に分け推薦する九品官人法をはじめ南北朝に継承されたが「上品に寒門なく」の弊害が生まれた。隋唐は試験による選挙によって門閥貴族を牽制しようとしたが、高官は貴族が合否を決め、かつ恩蔭があった。宋では中央の高官は殿試という皇帝による試験によって選んだ。元は初め科挙を実施せず、復活しても漢人南人には不利であった。明は科挙を全面的に復活し、本試験前に学校試を加え、次の清朝はより複雑なものにした。科挙は西欧進出と日清戦争の敗北から改革を迫られ1905年に廃止した。(300字)
 解答例3のコメント:例2とともに九品官人法という表現にして九品中正法としていないが、正式名称は前者である。
 例3の「隋唐による選挙」といって科挙と言っていないのも、当時の表現は選挙で、科挙は宋代からであるため。
 「高官は貴族が合否を決め」は吏部試のことを言っている。宋代に皇帝臨席の試験である殿試がはじまるが、その前に中央の官僚は門閥貴族が試験官である吏部という人事院みたいなところで、「身言書判」といって、身なり、言葉づかい、字の美しさ、法の知識を問う試験があった。この門閥貴族の人事権を奪ったのが殿試であり、皇帝が及落の決定権をもつことで、及第者はそれを恩義に感じ、皇帝から合格の宴会に呼ばれた受験生は「骸骨」を捧げることを誓うのである。
 「恩蔭(おんいん、任子にんし)」とは裏口入学の制度で、これが幅を利かしていて隋唐時代は合格者も少なく、いかに門閥貴族を牽制しようとしても無理であった。しかし試験の合格者の実力はじわじわと効いてきて、しだいに重きをなす。とくに則天武后の選挙官僚の多用が知られている。
 元ははじめから科挙をおこなわず、1313年に実施しはじめたが、蒙古人や色目人は倍率が低く易しく、漢人・南人には不利であった。合格しても低官にしかなれなかった。科挙は前後8回おこなわれているが、及第者の総計は278名で、これは宋代の1回分の合格者にも及ばなかった。しかし朱子学が科挙の標準テキストとして採用された初めてのケースではあった。
 「学校試」とは、受験生の数が増えてしまったため、本試験の科挙の前に、学校試(童試)というものをおいた。もともと科挙を受験する資格として学校で勉強することは必須ではなかった。偉い先生について勉強してもいいし、受験勉強としての機関であった学校でまなんでも、独学でも構わなかった。しかし明朝が学校の卒業生に限ることにしたため、学校に入って卒業することが、科挙受験の条件になった。
 それが清朝になると、学校試も三つになり、順にあげると、県試→府試→院試、これで合格すると県学、府学などに配属されてその生員(学生)となる。生員は官吏に準ずる待遇を与えられる。さてこんどは本試験の科挙試で、まず郷試。これに合格すると挙人の資格をもらい、会試の合格者は貢士と称せられる→殿試に合格すると進士という称号を受け、高級公務員に任用される資格を得る。
 科挙は従来から行政・財政などの実務のかかわりのない教養試験であり、西欧の圧力の下では役に立たなくなり、1905年に廃止し新大学の卒業生を採用する。日清戦争の敗北と日露戦争の日本の勝利から、多くの中国人留学生が、この時期に日本にきた。科挙廃止後は、とくに多くなり約1万人の留学生が日本に来ていた。日本には日本の理由があった。三国干渉に対する不満と列強の中国分割が日本の進出の余地をなくすという「危機感」と、支那保全と言いつつ、留学生を積極的に受け入れて中国抱き込みを図るのが得策だとの思惑である。東海の島国に学ぶことの屈辱を覚えながら中国人はやってきた。
第2問 イベリア半島史はすでに10年ほど前に二回出ている(87、88)。ここでは特にイスラム文化を重点にした問題である。
 問(1) 条件は多く「各地の伝統的な文化を摂取して」「15世紀頃のエジプトで今日の形にまとめられた」「有名なアラビア語の文学作品」とあれば、『千夜一夜物語(千一夜物語、アラビアンナイト)』しかあげることはできない。もっとも教科書には「16世紀初めのカイロで現在の形にまとめられた」(詳説世界史B、山川出版社)、「16世紀初頭に」(新世界史B、山川出版社)、「マムルーク朝が滅亡したころ(1517年、これは著者の注)に現在のかたちにととのえられていたものと推察される」(世界史B、第一学習社)とあり、「15世紀頃」という大まかなものではない。また、「最後の仕上げは海路で行なわれ、そこにマムルーク朝が、16世紀初めにオスマン・トルコ帝国に征服された頃には、もはや大体、現在のような形を整えていたらしいというのが、最も有力な説である」(『新潮世界文学小辞典』新潮社)とある。平凡社の東洋文庫のなかに、前島信次・池田修訳の『アラビアン・ナイト』18卷があり、その中に、コーヒー・煙草の話しが出てくるので、16世紀でしか書けないもの含まれている、との指摘がある。片意地な受験生でなければ、答えるに特に問題ではないが……。  
 空欄a 「8世紀の初頭……同じ世紀の半ば」に成立した王朝とあるから、756年にできた後ウマイヤ朝である。
 問(2) イベリアのイスラム王朝としては最後の「15世紀のナスル朝の時代に完成し」、その都でもあって「今もグラナダに残る華麗なイスラム宮殿」とあれば、これも容易でアルハンブラ宮殿しかない。柱がたくさん立っている中庭の写真が教科書にカラーで載っている。ほとんどは14世紀にできたものだそうで、130×180mの敷地に建っている。その名は、城壁の煉瓦、あるいは丘陵一帯の赤土を指すと思われるアラビア語のアル・ハムラー「赤いもの」の意味らしい。
 空欄b イスラム文化が栄えた都市として学んだ人はわずかであろうが、「トレド、グラナグ、セビリアなどの諸都市」以外で、イスラム史に関係する都市といえば、後ウマイヤ朝の都コルドバが浮かんでこよう。コルドバより、カタルーニャ・トレド・シチリアが翻訳の三大中心地であったが。当時の人口は10万人(ちなみにパリも同じくらいだった、ロンドンは10万人以下であった)、城壁外居住地区は21を数え、東方のバグダードやコンスタンティノープルとその威容を競ったという。蔵書数40万冊と伝えられる王宮図書館があり、壮大な王宮などから、「西方の宝石」と呼ばれた。西欧の中世に大学がないときに、ここには高校を含んだ17の大学があったという。西欧で舗装道路がないとき、ここには整然とした道路が走っていたのだ。この都市には外科で知られたアブー=アルカーシム、詩人のイブン=アブド=ラッビフ、イブン=ザイドゥーン、伝記作家のイブン=アルファラディー、恋愛論のイブン=ハズム、そしてなにより挙げなくてはいけない神学者・哲学者のイブン=ルシュド(アヴェロエス)がいた。この都市から西欧にかの練金術も伝えられた。
 問(3) 「西洋の大学で教科書として長く使用された」という学者で教科書的に名高いのは、『医学典範』で知られたイブン=シーナー(アヴィケンナ)である。しかし、シーナーだけに限る必要はない。他に、数学のフワーリズミー、天文学のアル=バッターニとアル=ファルガーニ、医学のアル=ラーズィー、哲学者アル=ファーラビー、物理のアル=キンディーと枚挙にいとまがないくらい、あることはある。教科書には書いてない。
 空欄c・問(4) 「イスラム教徒の支配」の後に「到来する11世紀後半」の民族は、後の下線文「(4)シチリア回復後のキリスト教徒の君主たち」がヒントにもなっている。「ロロにひきいられた一派は北フランスの一角にノルマンディー公国をたて、その一部は地中海にも遠征して、12世紀前半、南イタリアとシチリアにかけて両シチリア王国を建設した」(詳説世界史B)とある。1040年以降イスラム勢力の首長たちの間に内紛が生じ、すでに島の東北にあるメッシナに定住していたノルマン人がこの内紛に乗じて、1061年から91年までに全島を征服した。その指導者がルッジェーロ1世(英語でロジャー1世)で、その子がルッジェーロ2世である。
 問(5) 「8世紀のバグダード」が大きいヒントになる。751年のタラス河畔の戦いで紙漉職人が捕虜となり、まずサマルカンドに伝えられて、あとは問題文にあるように西伝し、地中海世界の記録紙であった羊皮紙に代わる。

B 空欄d 教科書では、新安商人と山西商人はセットで出てくるので容易であった。ともに政商(政治家・政界と結びついてもうける商人)で、一族から多数の高級官僚も出し、その財力をもって学問と芸術のパトロンとなった連中でもある。明の北方防備が強化されると山西商人は軍糧の輸送を担当して巨利を得、政権と結びついた。塩・穀物・絹織物・綿布・木材・運輸・質屋・鉄・茶・染料などを扱い、その範囲も全国に及び山西会館をたてた。清朝とも密接な関係を結び、とりわけ金融・為替業を独占する。
 空欄e 会館(公所)は同郷、同業、同窓などの団体が会合や宿泊のためにたてた建物。従来は官吏専用であったが、商品流通が盛んとなり、科挙の受験生も増加した明清には、多くの機能を備えた施設となった。取引所・事務室・宿泊所(受験宿)・集会場・付属の学校や、郷里に埋葬するまで棺をあずかる施設、共同墓地・病院、演劇を行う舞台などを併設していた。地方都市では市場の管理・警察・裁判・福祉などの事務にもあたった。長崎・神戸、シンガポールなど東南アジアの諸都市にもあり、在留中国人全体をあつめた中華会館を建てるのが慣例であった。
 空欄f 1557年にポルトガルが明朝の海賊討伐を援助したため定住を許されるようになり、年500両の貢金をおさめることになった。1887年ポルトガルと清朝との条約の締結により、清朝はマカオおよび属島をポルトガル領として認め、以後ポルトガル植民地となる。いずれ香港と同様に返還され、一国二制度が適用され、特別行政区となるはずである。
 問(6) 「オランダの」とあるので現在の名のジャカルタよりBatavia バタヴィア(バタビア)とする。名前としてはジャカルタのほうが古い。1527年にイスラム軍が、侵入したポルトガル人を追放し、地名をジャヤカルタJayakarta(「偉大なる勝利」の意)とした。ジャヤカルタは、ジャカトラJacatra(日本ではジャガタラ)となまって世界に知られるようになる。16世紀末にオランダ船が来航し、1619年にオランダとイギリスの東インド会社がジャカトラの支配をめぐって戦火を交えたが、オランダ軍が勝利し、地名をバタビア(オランダ民族のラテン名バタウィに由来)と改めた。この名はナポレオン戦争時に一時オランダをバタヴィア共和国と改名したことでもででくる。
 空欄g 清とロシアとの間に最初に結ばれた国境条約。1685年と86年にロシアの前進基地アルバジン城塞をめぐって両国の間に攻防戦が繰り返された。城塞を包囲した清軍にたいして和解し、アルグン川とスタノヴォイ山脈(外興安嶺)をもって両国の国境とし、城塞の撤去、両国の通商、逃亡者処理、不法な越境の厳禁などを取り決めた。この条約は、清が外国と結んだ最初の対等な条約になる。清の全権団にラテン語通訳として同行したのは2人のイエズス会士であった。満州文・ラテン語文・ロシア語文を交換した。
 問(7) これも易しい問題。李氏朝鮮が「高麗の仏教にかわって朱子学を公認の教えとした」ことは教科書にある。李氏朝鮮の朱子学は特異な歴史をもっている。中国とちがい、仏教も陽明学も異端思想として厳しく拒絶し、李朝500年間にわたり朱子学一尊を貫徹した。朱熹の文集全巻にわたる精密な注釈の仕事があり、他の国では例をみず、朱子学そのものも深化させた。
 問(8) 問題文の「本来の使命以外に」というのは朝貢が、貿易も兼ねていたことを指しており、これは中国も認めていて日本も同じだった。勘合貿易がそれだ。勘合船の搭乗者は1隻150人〜200人くらいだが、使節団としての官員や水夫のほかは大部分が商人である。この貿易は滞在費・運搬費などすべて明側が負担したから、日本側の利益は大きいものだった。
 もともと朝鮮から、きびしい取締りを犯して銀を輸入していたが、1538年ごろより日本の銀鉱山採掘が盛んとなり、逆転して日本から銀輸出が始まる。16世紀は墨銀(メキシコ銀)が名高いが、日本も当時の世界の銀生産の3分の1をしめるほどの銀の国だった(メキシコ25万kg、欧州15万kg、日本20万kg)。朝鮮船や中国船の来航の目的は日本銀にあり、次いでポルトガルやオランダも日本銀と中国商品の仲介貿易をおもな内容としていた。

第3問 論述のテーマとしてファシズムはありきたりのものであるが、この問題の読みがむつかしいし、書くのもむつかしい。「イタリアとドイツでは、ファシスト党とナチスが」と両国一緒にして、「それぞれ一党独裁を実現し、ファシズムと呼ばれる全体主義国家体制を樹立した。このような」という共通の「国家体制」現象が「成立した理由について」説明する。それも歴史的に過去としての「19世紀後半の国家統一以来の両国の歴史を視野におさめながら」という条件がついている。「国家統一」も両国とも「19世紀後半」であり共通の歴史をもっている。両国に共通の歴史的理由があるはずだ、それを説明せよ、という問題である。
 とすれば、「イタリアは……、ドイツは……」という別居した述べかたはマズイことになる。似たものどうしの理由が必要だ。統一の類似性を求めているわけではないから、統一過程をだらだら述べると要求からそれてしまう。また、イタリアはファシスト党の成立、あるいは一党独裁が20年代に成立しているのに、ナチスは30年代だから、双方とも大恐慌で強引にくくってしまうこともデキナイ。
 両国の統一以来の歴史をかんたんに書きだしてみて、共通要素をつかみだす、という作業ができるかどうかにかかっている。比較の基本的な作業である。しかし「統一以来の両国の歴史」といっても第一次世界大戦まではともに対外進出のことしか書いてない。しょうがない。小党分立、社会主義政党の活動、農業を犠牲にした工業化、議会政治の未発達、独占の形成といろいろあるが、両国ともこれらのことについて述べてあるわけではない。なんとか、あくまで教科書のデータに限ってやってみよう。以下は教科書の抜き書きである。
 イタリア:1861〜1922
1 もともと分裂を続けていた
2 ローマ教皇はヴァチカンの教皇庁にこもって、イタリア政府と対立
3 統一しても「未回収のイタリア」あり
4 1900年前後は帝国主義政策
5 約束された領土をえられず、ヴェルサイユ体制に不満
6 戦後、イタリアは激しいインフレーションにみまわれ、国民の生活が苦しく
7 労働者は急進的な改革を求めた
8 弱体な政府を批判して
9 地主・資本家・軍人層の支持をうけた
 ドイツ:1871〜1933
10 連邦体制のもとで政治的分裂が続いていた
11 ドイツから除外されたオーストリア(ザール、ズデーテンなど)
12 議会は政府に対して無力
13 「世界政策」の名のもとに積極的な帝国主義政策
14 ヴァイマル政府の政局と経済は安定しなかった
15 カトリック教徒は新教国プロイセンの支配をよろこばず、中央党を組織して政府に反対
16 ドイツ民族の優秀性を主張し、ヴェルサイユ条約の破棄、植民地の再分配
17 世界恐慌によって失業者が増大
18 共産党が進出する
19 産業界や軍部もヴァイマル共和政をみすてて、ナチスに期待
 これらの記述を見ると、1と10、2と15、3と11、5と16、6と17、7と18、9と19とが共通要素である。4と13の帝国主義政策は国内的原因があるとしても国内ファシズム成立の強力な理由になりにくいからはずしてしまう。受験場でこの全部を想起することはできなくても、数点の事項で作文することは可能だろう。
〔解答例〕
両国はもともと長い分裂の歴史をもち、統一後も分裂的性格をぬぐえなかった。また統一した後も統一国家の中に入らなかった民族同朋の地域に対する「回収」「帝国」の渇望をもちつづけた。また教皇庁と中央党というカトリック勢力との対立がつづいたこと、労働者・共産党の社会主義運動がさかんである、という共通点ももち、王国政府もヴァイマル共和国政府も政局の不安定さは否定できない。またイタリアは第一次世界大戦直後の、ドイツは大恐慌後の経済的破綻にみまわれ、失業者が増大し、一気に解決してくれる独裁的人物・政党を求めた。さらに新興の中産階級、社会主義の伸長をおそれる資本家・地主・軍人がファシズムを積極的に支援した。(298字) 
 こうした共通要素を求める問題は、「比較」タイプの問題であり、京大はよく出題している。これまでは比較して相違を求める問題だった。
 1. ギリシア文化の東西両方向への普及には、受容の仕方や影響の面で重要な相違を〔92年3〕、2. シュメール人の都市国家、ギリシアのポリス、中世ヨーロッパの都市の各々の特色を、相違を明確にしつつ〔97年3〕、3. 2つの共和政が植民地の独立化の動きに対してそれぞれどのように対処したかを、両共和政の政治形態の違いにも触れ〔97年3〕。また特色を求める問題にも比較がある、「東ローマ「ビザンティン」帝国では、西ヨーロッパとは異なる独自の文化が形成された。この文化の特色を」〔89年3〕と。比較ほどうまく書けないものはない、というのが教えてきた経験からの実感である。昨年度の解説を参照して試しにやってみるといい。

第4問(A)
a
 問(1) 親マケドニアのイソクラテスに対抗して「ポリスの独立」を擁護する弁論家デモステネスは教科書にでてくる。くちごもる癖とRの発音がうまくできないため口の中に小石を入れて発声したり、大波にむかって大声の発声練習をした結果、熱弁家として知られるようになった。マケドニアが勢力を伸張してくる情勢に対抗し、反マケドニアの立場を鮮明にしたが、前322年の敗戦でアテナイはマケドニアに降伏し、死刑を宣告されたデモステネスは亡命し毒を仰いだ。
 問(2) 「首都」アレクサンドリアにある自然科学の研究所名。ムセイオン Mouseion は王立研究所、学術研究所を指し、ラテン語でmuseum。これがヨーロッパで美術館や博物館を意味する語となる。古代ギリシアでは美術品収蔵所をムセイオンと呼ぶことはなかった。もともと学芸や音楽をつかさどる9人の女神ムーサイ(英語のミューズにあたるムーサの複数形)の祠堂(神をまつった小さい建物)の意。学員たちがムーサイを崇める宗教結社の形で学塾が構成された。このようなムセイオン(ムーサイ結社)はプラトンのアカデメイアもアリストテレスのリュケイオンもそうした例になる。
 問(3) 小ドイツ主義(プロイセン主導のドイツ統一)の熱烈な信奉者であった。アレクサンドロスはギリシアの統一を実現した人物であり、プロイセンによるドイツ統一の夢が託されている。「ヘレニズム」という時代概念をつくった歴史家。
 問(4) ルーブル美術館にある二つのものが特に名高い。「ミロのビーナス」とサモトラケ島に出土した勝利の女神像「サモトラケのニケ」である。後者はこの美術館の入ったすぐに見上げるとそびえたっているので、特に印象深いものだ。他に「ラオコオン(と息子たち)」や「瀕死のガリア人」もよく教科書に載っている。
b
 問(5) キリスト教思想に反するという理由で閉鎖したのは、先にあげたプラトンのアカデメイアである。この学園は900年余にわたって存続し、皇帝の529年の勅令により活動停止するまで古代ギリシア・ローマ世界における学問研究のセンターであった。
 問(6) 中世の建築様式は順に、バシリカ様式⇒ビザンツ様式⇒ロマネスク様式⇒ゴシック様式となり、この2番目の様式は、6世紀の聖ソフィア寺院(ハギア=ソフィア)に代表される。ヴェネツィアのサン=マルコ大聖堂もこの様式だが、内部のモザイクは14世紀に完成している。土台の正十字に、煉瓦造りで、方形の上をおおう独特の円蓋をもつ。外観は鈍重で飾りがなく、中は暗くて穴蔵に入っていくような入口を抜けると、内部には黄金の世界がひろがっており、金色ほかのモザイク・色大理石・金銀細工・染織品などで豪華に飾りたて、悪くいえばギラギラした感じ、良くいえば神秘的な超自然的雰囲気をかもしだしている。
c
 問(7) 1071年のトルコの東部マラーズギィルドの戦いでビザンツ帝国軍はセルジューク朝軍に敗戦しており、さらに1081年にはトルコ西部のニケーア市をセルジューク朝は占領した。この時から皇帝は西欧諸国に救援要請をするとともに、対イスラム防衛戦争にノルマン人出身のシチリア遠征隊をはじめ西欧騎士の傭兵隊を使っていた。ローマ教皇庁のビザンティン帝国救援政策が「聖地解放」という名目をたてて十字軍として具体化された。したがって「侵入してきたため」では救援要請にはならないので、答に「対抗しきれなかったため」というのが加わっている。
 問(8) 世界史では「クルド人」出身として唯一登場する人物。アイユーブ朝の創始者であり、異教徒を公正に扱ったため、その博愛主義がヨーロッパの文芸作品にもサラディンSaladinの名でしばしば登場する(レッシングの『賢者ナータン』やW.スコットの『タリズマン』など)。
 問(9) 問題の易しさと、100字という短さから、ちょっと論述とは呼びにくいもの。ポイントは5つ、1. 提唱者の教皇インノケンティウス3世の名。2. ヴェネツィア商人の主導であること。3. コンスタンティノープルを占領。4. ラテン帝国を建国。5. 背景には東方貿易での優位を確保しようとするヴェネツィアの意図(商業圏or商権の拡大)。
(B)
 問(1) ばら戦争の決定戦ボズワースの戦でリチャード3世を破り、かれの頭から落ちた王冠を拾い上げてじぶんの頭にのせたのが、ヘンリ(ー)7世である。
 問(2) 1) ヒントは後の文「ハプスブルク家とフランスのヴァロワ家とがヨーロッパの覇権をめぐって争い」である。「1494年に始まった」この戦いは16世紀の半分までかけて長い戦い(1559年まで)がおこなわれ、国王たちも何人か代わった。とくに、16世紀はじめのフランソワ1世とカール5世との戦いが知られている。この戦いはナポリ王国の継承権を主張するフランス国王シャルル8世のイタリア侵入(1494年)からはじまり、カール5世の後を受けたフェリペ2世とフランス王アンリ2世とのあいだで問題文にある「カトー=カンブレジ条約」が結ばれ終わった。スペインに金が尽きたためである。  
 2)「近代政治学の先駆者」と言えば『君主論』のマキァヴェリしかない。前文の「宗教や道徳にとらわれずに行動する政治指導者が必要である」という点は、「君主は、野獣と人間とをたくみに使いわけることが必要である」「民衆というものは、頭を撫でるか、消してしまうかしなければならない」「要するに加害行為は一気にやってしまわなくてはならない」(世界の名著16、中央公論社)などという現実的な君主の行動論に説明されている。
 問(3) 「東方の非キリスト教国」とあって世紀が16世紀で、ヨーロッパに接しており、フランスと同盟関係を結んだ国といえば、オスマン=トルコ帝国である。その西欧に与えた「特権」はカピチュレーションという。これは、商習慣や法体系の異なる国家間で、相互に商業活動の円滑化を促進するための特権で、外国商人に対し、自国内で通商や交易の自由・航海の安全・税の免除・家屋所有権の取得・自国法による領事裁判権の承認などを保障したもの。「治外法権」を認めることと同じである。フランスに1536年、イギリスに1579年、オランダに1613年にこの特権を認めた。
 問(4) 勢力均衡 balance of power は「特定の一国が強大とならないように各国が主義や体制の違いをこえて同盟し、互いに牽制し合う」体制を言い、代表例はナポレオン戦争のフランスによる欧州制覇に対する反省からである。強国・大国が世界支配を二度としないように、いくつかの国家が対抗勢力を結集して均衡を保つ方法だ。これを転換するのが20世紀の集団安全保障である。
 問(5) 1. 「国際間で守られるべき法規」とは国際法だが、これを17世紀に唱えた「オランダの法学者」とあればグロティウスである。彼が『戦争と平和の法』(1625年)を書いたのは、宗教戦争の悲惨さを目のあたりにしたからである。ハーグの国際司法裁判所(ICJ)には、「国際法の父」といわれるグロティウスの胸像がたてられている。  
 2. これも短文で、しかも中身としてデータが豊富にあるので、いわゆる構成的な論述とは言いがたい。教科書をそのまま写すと230字くらいになるから簡潔に書くことが要求される。ポイントは5つである。1. アウグスブルクの和議の原則を再確認、2. カルヴァン派も正式に認められた、3. 諸侯(領邦)にはほとんど完全な主権が承認された(具体的には「外交権が与えられた」)、4. スイスとオランダの独立承認、5. 領土分割についてひとつ:フランスはアルザス地方(メッツ、トゥール、ベルダンの3司教領とアルザスのハプスブルク家領)、スウェーデンは北ドイツの沿海地域(西ポンメルン)(とブレーメン大司教領)、ブランデンブルク=プロイセン公国がマグデブルク(とミンデン司教領)と東ポンメルン、バイエルンは南ファルツを領有……。これは条約の中身だけを問うた問題だが、本格的な論述ではドイツ史における意義を問うことが多い。
 問(6) 「オーストリアはついに宿敵フランスと同盟を結び」というできごとを外交革命と言っている。(2)-1の戦争以来、「宿敵」でありつづけたのに、どうしてもオーストリア継承戦争の復讐、すなわちシュレジエンを奪回したいというマリア=テレジアの意志が、これまでの敵を味方にしてまで、ということになった。その認証としてマリー=アントアネットがフランスに嫁に行くことになった。しかしまったく裏目にでてこの戦争は敗北するし、娘は革命で処刑される。この戦争は新大陸でのフレンチ=インディアン戦争、インドでのプラッシーの戦いと連動していた国際戦争だった。
 問(7) 「平和」機構なり連合なりの訴えは古くからあり、カントもその一例であった。ナントの勅令を発布したアンリ4世(1553〜1610)は、キリスト教国による連盟を「大計画」として唱えた。先の国際法の父グロティウスは国際主義に法的な基礎づけをおこない、クウェーカー教徒のウィリアム=ペン(1644〜1718)は、「ヨーロッパの現在及び未来の平和」と題する論文でヨーロッパ議会の設立を提唱している(1692年)。フランスの僧サン=ピエール(1658〜1743)が「恒久平和の草案」を書き(1713年)、当時のヨーロッパ24カ国の永久的同盟として全ヨーロッパ君主連合設立を提案した。これらの国際協調主義に理論づけをおこなったのがカント(1724〜1804)で、彼は論文「恒久平和のために」で、民主的共和国による国際機構こそ平和を維持できるものであると説いた。やっと今はこれらが実現している。
 問(8) これもナポレオン戦争のところでよく載っている絵だ。ゲリラたちが処刑される場面で、両手を上げた真ん中の人物の手は十字架のキリストのように穴が空いている。フランスの兵士たちは個性のない機械的な隊列として描かれている。堀田善衛著『ゴヤ』(朝日新聞社、朝日文芸文庫)が最高に面白い伝記である。
 問(9) 北からはシモン=ボリバルだが、「アルゼンチン、チリ、ペルーなど」これらの南の国々から活動したのはサン=マルティンだ。上記の画家ゴヤが描いた時期にはスペインにいた。アルゼンチン生まれだが、少年時代に家族とともにスペインに移った。スペイン軍に入り、対フランス戦争で軍功をたて、1810年に祖国で独立運動が勃発すると、12年に帰国して独立軍の士官となり活躍する。22年、エクアドルのグアヤキル市でシモン=ボリバルと会見し支援を求めたが拒否され、失意のうちに解放事業の継続を彼に託して公職を辞し、その後ヨーロッパで隠遁生活を送った。
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<解答例>
第1問 (君の答え)
第2問空欄 a 後ウマイヤ朝 b コルドバ c ノルマン人 d 山西商人 e 会館 f マカオ g ネルチンスク条約  問(1)千夜一夜物語 (2)アルハンブラ宮殿 (3)イブン=シーナー(アヴィケンナ) (4)両シチリア王国 (5)紙 (6)バタヴィア (7)朱子学(儒学) (8)日本
第3問(君の答え)
第4問─(A) 空欄(1)デモステネス (2)ムセイオン (3)ドロイゼン (4)ミロのヴィーナス(ラオコーン、瀕死のガリア人、サモトラケのニケ) (5)アカデメイア(アカデミア) (6)正十字形の建築プラン、円蓋(ドーム)とモザイク壁画を特色とする。 (7)セルジューク朝の小アジア進出に対抗しきれなかったため。 (8)サラディン (9)教皇インノケンティウス3世の提唱で開始されたが、ヴェネツィア商人の主導でコンスタンティノープルを占領、ラテン帝国を建国した。背景には東方貿易での優位を確保しようとするヴェネツィアの意図があった。
第4問─(B)問(1)ヘンリ7世 (2)〔1〕イタリア戦争 〔2〕マキャベリ (3)カピチュレーション (4)勢力均衡 (5)〔1〕グロティウス 〔2〕ウェストファリア条約が結ばれ、アウグスブルクの和議の確認とカルヴァン派の信仰が承認された。また実質的に独立していたスイスとオランダの国際的な承認や、ドイツ諸侯の主権が確認され、神聖ローマ帝国の領土はフランスやスウェーデンに大幅に割譲された。 (6)七年戦争 (7)カント (8)ゴヤ (9)サン・マルティン