世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

疑問教室:西アジア・アフリカ史

西アジア・アフリカ史の疑問

Q1 ウルナンム法典は世界最古の楔形文字法典であって、世界最古の法典じゃないのですか? あと、イシン王朝のリピト=イシュタル王が編纂した法典の名前の書き方は『リピト=イシュタル法典』じゃなく、『リピットイシュタール法典』と書いても良いですか? 名前の間にある『=』や『・』は抜かして書いても良いのですよね?

1A 「世界最古の楔形文字法典であって、世界最古の法典」でもイコールです。『リピト=イシュタル法典』じゃなく、『リピットイシュタール法典』でもいいです。『=』や『・』はどちらでもいいし、なくてもいいです。


Q2 「前88−前63 ミトリダテスの反乱」と 「171−138 ミトラダテス1世」のつながりはあるんですか?

2A 関係はとくにありません。前者は小アジア(現トルコの西部)のポントス王国の王の名前で、後者はパルティア王国(現のイラン)の王です。名前のMithrida Mithrada はよく似ていますが、これはこのイランから西は地中海一帯に広がっていた神の名前ミトラ神(ミトラ教)からきています。


Q3 質問(というよりミニサイズの添削?)お願いします。 まずハンムラビ法典に関して、「この法典はどのような原則にたって制定されているか(40字程度)」という問いに対して「「目には目を、歯には歯を」に見られる同害復讐法と身分によって罪の重さが違うという原則。(43字)」と書きました。 また、死者の書について、『この文書の性格と内容を50字以内で簡略に』という問いに対して「パピルスに書かれた、死後の世界や現世の行いが死後に反映するという発想を表すもの(45字)」としました。それぞれ評価していただけますか?

3A ハンムラビ法典は満点です。死者の書は、「性格」の答えになっていても、「内容」にまで入り込んでいないので半分でしょう。内容としては、神々への賛歌、死者の再生復活に必要な教え、死者を邪悪なものから守る呪文、などどれでも一つ書けたら良かった。


Q4 古代エジプトでアメンホテプ4世がテル=エル=アマルナに遷都したあとツタンカーメンが都を元にもどす先はテーベですか? メンフィスですか? 細かいですけど、山川の用語集と三省堂の問題がくいちがっているので。

4A テーベに都をもどしますが、ほとんどメンフィスに居ました。古代・中世では都は王の居る場所でもあるので、どちらでもいいのです。どちらかを問うこと自体が悪問です。アケメネス朝の都がスサでもペルセポリスでもどちらでもいいのと同じです。


Q5 メソポタミアの神権政治のところに「エジプトのものとは違う」と授業を聞いて、自分で注釈を入れてあるんですが、実際にどこがどう違うのですか?

5A 「エジプトのものとは違う」は、エジプトの王は God king ですが、メソポタミアは Priest kig です。つまりエジプト王は神そのものとして君臨し、メソポタミアの王はあくまで神官・司祭、たんなる王という地位にあり、宗教的な承認はしますから神権政治ですが、明らかにエジプトの王権は強く、メソポタミアの王権は弱いのです。メソポタミア北部アッシリア地方の王は上位に占星術師がおり、南部のバビロニア地方の王は政治家としての能力しか認められていません。


Q6 オリエントに鉄製農具はいつから使用されたのですか? なにかオリエントは武器で中国は農具のイメージが強いのですが?

6A たしかに。教科書の知識だけで、けっこう鋭い質問になっています。ヒッタイト帝国が製鉄の発明国として名高く、この帝国の崩壊が製鉄の技術を拡散させる契機となった。これは教科書の知識です。たいていの専門家の書いたものには、武器だけでなく、農具としても、この前12世紀以降につくられた、と書いています。しかしどんな鉄製農具があるのかと、調べてみてもなかなか農具の証拠写真も記載も出てきません。どうやら武器としての鉄は前12世紀以降オリエントの諸国で見られるものの、農具の記録なり実物はあまり出土していないようです。イスラエルには前1000年頃の短剣が出土しています。武器はナイフとしても使えますが……。エジプトは前900年頃の斧(おの)の記録があるものの一般の農具としての鉄はアッシリア帝国の支配後になるそうです。もう少し調べて分かったらお知らせします。

 

Q7 ササン朝がサトラップ制とあり ますが、教科書には書いてなかった気がするのですが、これはアケメネス朝との関係から推測して書くものなのですか?

7A ササン朝はアケメネス朝の復活を意図した王朝であり、この属州制もそのひとつでした(他に王号のシャーも)。アレクサンドロスもこれをまねた制度を全土でしき、ササン朝にうけつがれました。ササン朝では名称はしだいにちがうものに変りましたが、総督を派遣して全権をにぎらせて属州を統治させる、という方法は変わりません。イスラームではアミール(司令官、総督)が担当します。イスラームではジズヤ・ハラージュ(もともと二つともペルシア語)という税制をしいていますが、これも実はササン朝の制度を名称とともにそっくりまねたものです。という風にふりかえると、アケメネス朝の制度が後々の西アジアの帝国支配の基礎であったことになります。


Q8 イェルサレムがユダヤ教やキリスト教の聖地だというのは判りますが、なぜイスラム教徒にとっても聖地なのですか?

8A 夢が原因です。開祖ムハンマド(マホメット)があるとき夢を見て、夜の旅(ミーラージユと言います)をしたというのです。聖なる礼拝堂(メッカのカーバ神殿)から、天使ガブリエルに連れられ翼つきの天馬にのって遠隔の礼拝堂(これははじめ分からなかったのに、イェルサレムと後に決まりました)に行き、そこから光のはしごにのって昇天し、神にあってひれ伏した、と伝えられているためです。この伝説を信じるイスラム教徒の正統カリフ(ムハンマドの後継者)2代目ウマルが、イェルサレムを征服したおりに、昇天の出発点とされた岩を「発見」して、礼拝したと伝えています。さらにムアーウィヤ(ウマイヤ朝の創始者)がここでカリフを名乗りはじめ、かつ礼拝堂(モスク、アクサー・モスク)を建てました。さらに後のカリフがユダヤ教・キリスト教の聖地の場所で、この岩を囲むように「岩のドーム」という8角形のドームを築きました。天馬をつないだといわれる場所にもモスクが建てられています !
 今はメッカにむかってイスラム教徒は礼拝をしていますが、最初はこのイェルサレムにむかって礼拝をしていたのです。ウマイヤ朝のときにはメッカを別のカリフを名乗る人物に奪われたこともあり、イェルサレムを巡礼地にしたこともあります。


Q9 山川の『詳説世界史研究』(1995年 初版)のp.151などを見ると、「最後の預言者」というコラムに「イスラムの教えによれば、人類は元来ひとつの共同体であったが、争いによって分裂してしまった。そこで神は各々の共同体に預言者を遣わし、人々を正しい道に導こうとした。アダム・ノア・アブラハム・モーセ・ダヴィデ・ソロモン・イエスなどがこれらの預言者に相当し、ムハンマドは最後に現れた最もすぐれた預言者であるとされる。」とあります。ここで、たとえばモーセは、ヤーヴェ(ヤハウェ)から十戒を授かった預言者ですよね。ムハンマドは「最後の預言者」だって自ら称したらしいですが、彼がいう「預言者」にはモーセなんかも含めた上で、自分が「最後」だって言ってるんでしょうか?
 それならアッラーの神とヤーヴェって同じ神のことを言ってるの? って疑問を持つのは変ですか? いったいムハンマドは、ユダヤ教やキリスト教の神をどうとらえているのでしょう?
 ムハンマドは「アッラーが遣わした最後の預言者だ」って言っているのか、「ヤーヴェとかアッラーとか様々な神々が遣わした最後の預言者だ」って言っているのか、どう理解すればいいのでしょうか?

9A セム語族のユダヤ人もアラブ人も神は唯一神ということは変りません。神の名の呼び方がいろいろと変っても(ユダヤ教の神でもヤーヴェ、エホバだけでなく20種類くらい呼び方があります)唯一神という考えをもっています。しかしその唯一神が、アダムからはじめて、いろいろな人(預言者)に言葉を預(あず)けてきたけれど(モーセも預言者ととります。イエスもキリスト教徒のように神の子とはとらず、イスラム教では預言者のひとりとみなしています)、ムハンマド(マホメット)に最後の言葉(預言)を与えた、もうこれ以上は預言(神の言葉)はだれにも明らかにしないよ、というとらえかたです。マホメットも旧約聖書・新約聖書のことばを神の預言と認めるけれども、それは限界のある不十分な言葉だった、いま自分に下された神のことばが最高なのだ、かつ最後なのだと言っているのです。そしてかってセム語族の宗教を完成したアブラハムの宗教は、その後だんだん堕落したとみなし、マホメットがアブラハム時代の純粋な宗教にもどすのだと主張しています。


Q11 『練習帳』の知識編p50・問10の答に、「啓典の民はジズヤとハラージュを払えば信仰は認められた」
とありますが、それ以外の宗教の場合はこれと扱いがどのように異なりますか?

11A 政権・王朝次第です。ウマイヤ朝下のゾロアスター教徒や、ムガル帝国ではヒンドゥー教徒がジズヤ(人頭税、宗教税)を払わずに済む融和政策をとっています。


Q12 ウマイヤ朝期、非アラブ人は自由に好きな宗教を信仰できたのですか?

12A 自由に好きな、は条件つきです。ジズヤ・ハラージュを払えばです。ジズヤはイスラム教徒でないものだけに課す税金ですから制裁のひとつでしょう。完全な自由はないです。


Q13 スルタンという称号がいろんなところに出てくるのは変です。トゥグリル=ベクが最初でカリフからもらうものではありませんか? 

13Q 確かに、トゥグリル=ベクが最初でカリフからもらった人物ですが、最初に名乗った人物ではありません。イスラム史上初めてスルタンを称したのはガズナ朝のマフムード (位998〜1030年) で「ガズナのスルタン」と唱えました。なにもアッバース朝に反抗するつもりはなく、カリフの権威を認めています。正式に、アッバース朝のカリフからいただいたのはトゥグリル=ベクです。以後主としてスンナ派イスラム王朝の、トルコ、イラン、インドなどに君臨したものが名乗ります。支配者、王、力を意味するアラビア語で、かならずしもカリフから称号をもらわなくても名乗ったのです。山川出版社の『世界史B用語集』の「スルタン」の項目の説明ように「イスラム世界の世俗君主の称号。トゥグリル=ベクが最初」です。


Q14 『練習帳』の「知識編」の50ページ12番で、イスラム文化の特色について述べよ。の解答のところに王侯貴族が担い手で、宮廷文化といってよいと書いてありますが、どういうことなのか良く分かりません。東京書籍の教科書の113pに「商人の町メッカに生まれたイスラーム教は、公平な取引など商人の倫理を重んじていて、支配者が商業を規制したり、人やもの、情報の自由な移動を規制することをゆるさなかった」とあるので、支配者が多額の税をとって贅沢をしているようなイメージのある宮廷文化というのが良く分かりません。

14A 確かにイスラームの宮廷のことを教科書はあまり書いていません。ただ宮廷におけるカリフやスルタンのぜいたくな生活は名高いものです。それはとくに『千夜一夜物語』の中にアッバース朝時代のカリフや貴族たちのハレム(日本でいう大奥)の情景によく描かれています。その中のひとつでは宮廷に1年の月数に従い12の宮殿があり、各宮殿に30の部屋があり、合計360の部屋にはそれぞれ1人ずつの側室が住み、王は各側室に年に一夜のみを割り当てていたとあります。
 拙著『各駅停車』にもあげていますが、「ハールーンの豊かさは、息子の結婚式に黄金の玉を招待客に投げあたえ、臣下の礼服のために金貨40万枚を払ったエピソードで知られています!」と書いています。カリフやスルタンが臣下に金銀をばらまき、庶民のための福祉施設をつくったり、モスクを建立することは人気とりにも必要な行為でした。他にマドラサ(学院)、キャラバンサライ、ハンマーム(公衆浴場)なども建てました。
 アッバース朝でなくても、スペインのアルハンブラ宮殿、オスマン帝国のトプカプ宮殿、アイバクのクトゥブ=ミナール、アクバルの5回の遷都のたびの宮殿建設、シャー=ジャハーンのタージ=マハル廟と巨大な建築物が目立ちますが、これらはみな王(カリフやスルタン)たちが建てさせたものです。イスラーム文化の最大の特色は建築にあり、というくらい建築物にはイスラームを代表する文様・絵画 (ミニアチュール) ・陶磁器・ガラスが装飾され、この宮廷に図書館が設けられて学者たちが王の前で講義をしたり議論をしたりしました。アルハンブラ宮殿の蔵書数は40万冊と数えられています。イスラーム文化の特色として都市文化(東大なら都市文明)といいますが、その中心に宮廷があった、ということです。


Q15 用語集のイスマーイール派のところに、「13Cモンゴル軍に滅ぼされた」とあるのですが、なにか王朝が滅びたかのように書いてあるのはなぜですか? イスマーイール派を信奉したファーティマ朝はアイユーブ朝が滅ぼしたのではないですか?

15A たしかにこれだけの説明では判りにくいですね。実は、11世紀末にイスマーイール派に内紛が起こり、ファーティマ朝と断絶したニザール派という一派ができます。このニザール派の根拠地となったイランのエルブルズ山脈中のアラムートの要塞が侵入してきたモンゴルによって陥落したことをいっています。エジプトのイスマーイール派は残っているのです。このニザール派は多数の要人を暗殺したことで知られ(セルジューク=トルコの名宰相ニザーム・アル・ムルクを暗殺)、ニザール派と接触した十字軍によってヨーロッパに伝えられます。正統派のイスラム教徒がシリア地方のニザール派に対して、かれらのことを軽蔑的に「ハシーシー(大麻野郎)」と呼んだことから、アッサシーノassassino(イタリア語)、アサシンassassin(英語)などになったらしい。
 『東方見聞録』(教養文庫)には概略つぎのような記述があります。山の中の城の中には『コーラン』に出てくる天国のような楽園が造られている。美しい庭園があり、せせらぎには、葡萄酒、牛乳、蜂蜜、清流が流れ、入園者を喜ばすために多くの美女が配されている。山の老人は刺客(アシシン)を仕立てる為に、近くから12〜20歳の若者を集めて来る。若者は薬で眠らされ、この庭に連れ込まれる。目覚めた若者は自分が天国にいるようだと感じる。美女たちは満足のいくまで接待する。再び眠らされ、我に返った時に、老人が暗殺を指令し、その報酬として、天国での生活を約束した。こうして老人は意のままに誰でも殺すことができた。
 日本の特攻隊員が飛ぶまえに売春婦と遊んだ、という田舎でわたしが聞いた話しと似ています。


Q16 「七イマーム派」とか「十二イマーム派」もありますよね? イマームの頭につく数字はどういう意味があるのでしょうか?

16A アリーを第一代目のイマーム(指導者、スンナ派のようにカリフ称号をつかわない)として、7番目の血のつながった後継者です。この7番目のイスマイールという人物までがアリーの正統な後継者、後は認めないという立場です。12番目がサファヴィー朝からつづく現在のイランのシーア派(十二イマーム派)のことで、7番目以降もつづき、12番目のムハマド=ムンタザルがいずれイラン人を救いに地上に降りてくる、ということになっています。


Q17 サファヴィー朝とオスマン帝国の比較が頻出のようですが宗教以外にありますか。

17A どこの大学でも「頻出」とは思えません。とくサファヴィー朝は。
 <オスマン帝国>        <サファヴィー朝>
 長期王朝(1299〜1922)    中期王朝(1501〜1736)
 スルタン・カリフという称号、に対してシャー(くわしくはシャーハン・シャーイェ)が王号。
 多民族(印欧語族、アラブ人、ベルベル人)支配、に対して主にペルシア人(印欧語族)だけを支配
 独自のイスラム的集権化、に対して西欧の絶対主義に学んだ
 領土は末期に大幅に縮小、に対してあまり縮小せず政権交代


Q18 用語集で“ホルムズ島”の項目を引いて見ますと、「ペルシア湾口にあり、1515年ポルトガルが占領したが、1622年イランが奪回した」と載っているんですが、『ニュービジュアル版 新詳世界史図説』浜島書店 1993年11月1日発行 1999年2月1日印刷という資料集の p.71“17世紀の世界”というところにはホルムズ 1507〜1622(ポ) と載っているんです。どちらが本当なのでしょうか? 1515年か1507年か?

18A わたしは前者の1515年の方をとりたいと思います。「1507〜1622(ポ)」は吉川弘文館の「増補版・標準世界史地図」にも同じ年代がのっていますが。
 エンサイクロペディア・ブリタニカ・コムではアルブケルケの説明で、次のように書いています。
 Africa and build a fortress on the island of Socotra to block the mouth of the Red Sea and cut off Arab trade with India. This done (August 1507), Albuquerque captured Hormuz (Ormuz), an island in the channel between the Persian Gulf and the Gulf of Oman, to open Persian trade with Europe. His project of building a fortress at Hormuz had to be abandoned because of differences with his captains, who departed for India. Albuquerque, though left with only two ships, continued to raid the Persian and Arabian coasts.
 ホルムズのところでは次のように書いています。
 In 1514 the Portuguese captured Hormuz and built a fort. For more than a century the island remained Portuguese, but the rise of the English locally and the Persian shah's resentment of Portuguese occupation culminated, in 1622, in Hormuz' capture by joint Anglo-Persian forces.

 年代が1514年になっている点がちと違っています。これは確かめようがありませんが、アルブケルケが二度ホルムズ攻略をしていて、一回目は仲たがいもあり放棄され、次回は成功しています。ちゃんと要塞を築けたときに「占領」し、植民地化がはじまったととっていいので、この1515年がいいのではないでしょうか? ローリーがヴァージニア植民をしても何度も失敗して結局成功しませんでした。ジェームズ・タウン建設からがヴァージニア植民地のはじまりとみなします。


Q19 聖地管理権についてよくわかりません。即ち、教科書には16世紀以降はフランスが保有していたとありますが、それ以前はどこが管理していたのでしょうか(ビザンツ帝国?)また、聖地の管理とは具体的に何をするのでしょうか?少なくともこの時代はイスラムの勢力下にイェルサレムがあるわけですから管理しようにもイスラム側が許可しないとおもわれますがいかがでしょうか。

19A それ以前はどこが管理……主なものをあげますと、ローマ帝国(→ビザンツ帝国)領から614 年にササン朝の侵入で破壊されましたが、638年正統カリフ時代のウマルによる入城から再建され、1071年セルジューク朝、1098年ファーティマ朝、1099年十字軍、1187年アイユーブ朝(サラディン)、1517年オスマン帝国と支配者が変転しました。16世紀にオスマン帝国がカピトレーション(治外法権・商業上の特権)でフランスに管理権を与えた、という順です。
 聖地の管理とは具体的に何をする……イェルサレム市内のキリスト教徒(カトリックもギリシア正教徒も)の住む地域と諸教会、西欧からのキリスト教徒巡礼者の管理・保護のために外交官・兵士をおくことです。イスラム教徒たるオスマン帝国の支配下にあって、キリスト教徒はその信仰と自治は許可されています(ミッレト制といいます)から。


Q20 オスマン帝国の半植民地化とは、どのような国によるもので、どのようになされたものなのですか?

20A オスマン帝国はクリミア戦争で勝利国にはなりますが、実はサラ金地獄にも入ります。借金が返せなくて借金をくり返しました。そこで1881年に欧州諸国で「オスマン債務管理局」がつくられ帝国の財政を直接管理することになります。英仏独伊蘭墺の各債権国とオスマン銀行との代表7名からなる委員会を構成し、トルコの租税・関税の徴収権をえた機関です。タバコはフランス資本の会社が独占します。ドイツの銀行、ロスチャイルドの銀行が利子を吸収しました。鉄道はイギリスと後にドイツ(バグダード鉄道敷設権)、小アジアの農業も国際市場に組み込まれていきました。都市の港湾施設、水道、電気、都市ガス、市電などの公共施設、銀行や加工工場建設の機会も西欧企業にあたえました。商会・劇場・カジノ・居酒屋にも西洋人が進出します。こうして鉱山・鉄道・銀行・公共事業などの財政組織・基幹産業のほとんどすべてを外国系特権企業の手にゆだねてしまい、経済的には完全にヨーロッパ諸国の植民地となっていました。


Q21 (1)どうしてフランスがアリーを支援したのですか。
(2)オスマン帝国スルタンの『宗主権』のもとに……」とありますよね。主権やら宗主権やらわけがわからなくなってしまいました
(3)「フランスがエジプト、ロシアがトルコを援助したためにイギリスが干渉し……」とは?

21A (1)(3)は共に「インドへの道」を邪魔するものは排除したいというイギリスの基本的な政策から来ています。フランスはイギリスを邪魔したいし、イギリスは邪魔されたくない、というインドへの地中海・アラビア海にでる船の道をめぐる攻防です。インド(先は中国も)との貿易はイギリスにとって大きな利益でしたから。フランスはナポレオン1世のエジプト遠征にもあったようにエジプトを支配できたら、ここを起点に全アフリカを植民地化できると踏んでいました。またインドへの船の道でもイギリスを通さないこともできます。スエズ運河はまだできていませんが、やはり南アフリカまわりではあまりに遠いので。
(2)強国が弱国に圧力をかけるとき、とくに外交権を牛耳っているときに使います。保護国化(外交権をうばう)という言い方とほぼ同じです。アリーは太守(総督)という地位のままであることは変わらないのですが、内政権は列国にロンドン会議で認められましたが、外交権(宗主権)はまだトルコにあることになっています。それで第一次世界大戦がはじまるとこの外交権(宗主権)をイギリスがうばい、エジプトがトルコから完全に離れます。しかし今度はイギリスの外交権(宗主権)の下になる、ということです。エジプトにとっては、これからはトルコでなくイギリスが外交上、またすでに軍隊も来ていますので、対決の相手になります。


Q22 1907年の英露協商で、「イランでの両国の勢力範囲の取り決め、アフガニスタンはイギリスの勢力範囲」まではわかるけど、なんでいきなり「チベットは中国の主権を認めた」んですか。

22A 英露協商で、チベットでの中国の宗主権を認め内政不干渉を守る……というのは、逆に言えばロシアにチベットに干渉してもらいたくない、ロシアによるチベットの植民地化は困りますよ。それでは中央アジアにぐっとロシアが南下してしまい、英領インドが危なくなる。それよりここは妥協していただいて、ドイツに対抗して手を結びましょう、というものです。実はすでに清朝とチベットのことは互いに内約済みでした。清朝には宗主権というあいまいな外交権をチベットの頭ごなしに英清間で決めています。ダライ・ラマ13世が清朝から完全に独立したがっていることを知っていたので、英軍を派遣して脅しており、また後でチベットとも1904年にラサ条約を結んでその独立性を暗に認めています。こうした二枚舌と刀を使って既成事実をつくっておいてロシアに認めさせたのです。この間の事情抜きに、いきなりチベットの話が出てくるのが教科書というものですよ。


Q23 OPECとOAPECのちがいがわかりません。それぞれどんな特徴をもっているんですか?

23A OPEC(石油輸出国機構)は石油産油国でつくったもので(1960年)、石油資源を産油国で守ろうとし意図してつくられました。OAPEC(アラブ石油輸出国機構)は1968年に第三次中東戦争でアラブ側が大敗北したため、石油で欧米側に反撃をかけようと政治的な意図でアラブ人の国だけの参加でつくられた団体です。石油を産出していないエジプトやシリアも加盟しているのはそのためです。加盟メンバーを見てもちがいが分かるでしょう。OPECはイラン、イラク、サウジアラビア、クウェート、ベネズエラ、カタール、インドネシア、リビア、アラブ首長国連邦、アルジェリア、ナイジェリア、エクアドル(92年脱退)、ガボン。OAPECはクウェート、サウジアラビア、リビア、アラブ首長国連邦、アルジェリア、イラク、エジプト、カタール、クウェート、サウジアラビア、シリア、バーレーン、リビアです。後者はみなアラビア半島周辺の国々にかぎられています。


Q24 イスラエルという国は、イスラエル国かイスラエル共和国かどちらが正しいのですか?

24A 正しいのはイスラエル国です。『世界史B用語集』(山川出版社・旧版)には「イスラエル共和国」という項目があり、その中の説明文に「……現在の国名はイスラエル国」とありますが、これはまちがいです。イスラエルは国名を変更したかのように書いていますが、建国以来変更したことはありません。イスラエル大使館に直接電話で聞いて確かめています。変更したことがありますか、ときくと、そんなことはありません、というのが大使館員の答えでした。これは多くの用語集の源泉になっている『世界史小辞典』(山川出版社・旧版)に、「イスラエル共和国」という項目があり、やはりまちがっているためです。『大学入試・世界史新用語集B』(あすとろ出版)、『新版・必携世界史用語』(実教出版)などもまちがっています。99年度の西南学院大学の法・神・文学部の第4問に「……年にイスラエル共和国を建国した」という問題文がありますが、これは毎年見られるまちがいです。 


Q26 イラン立憲革命の所をやっている時に思ったのですけど、どうして‘立憲’したがるのですか? また、イギリス・ロシアはどうして立憲を食い止めるのですか?

26A 立憲君主政は当時のアジアの国家としては国家強化の手段と考えられ、君主が憲法という苦い薬を飲めばなんとか国家の強化、国民の声よく代表した君主政府を示すはずでした。日本もそうでした。全国民を代表して政治をとりおこなっている名目がなりたつはず。英露の反対はこれらのことがらが国民を結束させ、君主を中心にして反帝国主義の闘争をおこしては困るからでした。自分たちは立憲君主政をたもち民主主義を実現しながら、それがアジアでもおこなわれることは嫌ったのです。あくまで未開なアジアは自分たちの市場・原料供給地にとどめておきたかった。民主主義は西欧だけでいい、という考えです。


Q27 第四代の正統カリフであるアリーがハワーリジュ派に殺され、ムアーウィヤがカリフになってウマイヤ朝を建てたとき、都をダマスクスにおいた理由を教えてください。山川出版社の世界史B用語集には、アリーが殺された理由はムアーウィヤとの戦いで妥協的な態度をとったから、とありムハンマドに反発しているわけでないので都をムハンマドの聖遷したメディナからわざわざ都を変える必要がないと思ったのですが…

27A もともとダマスクスに総督(アミール)として赴任していた都市であり(640)、兄も総督の地位にあってダマスクスを根拠にビザンツ帝国との戦いを任されていました。それが兄が亡くなり、同族ウマイヤ家の3代カリフたるウスマーンが暗殺されて、アリーが擁立されたため、ウマイヤ家のためにアリーと戦うことになりました。自らもカリフを名乗ってアリーと戦ったのに、勝敗はつかずアリーが暗殺されたのを機会に、ダマスクスで再びカリフを名乗ったのです(661)。もともと馴染みのある軍事拠点という場所でした。


Q28 大アミールの称号はブワイフ朝が、スルタンの称号はセルジューク朝がそれぞれアッバース朝カリフから授けられましたが、この二つの称号に違いはあるのでしょうか。山川出版社世界史B用語集をみてもいまいちよくわかりません。

A28 用語集では、大アミール amir ⑧ カリフによって全イスラーム世界の軍事指導権・統治権を与えられた者の称号。この設置により、アッバース朝のカリフの指導権は名目のみとなった。
スルタン sultan ⑪ イスラーム世界の世俗君主の称号。セルジューク朝のトゥグリル=ベクが最初に用い、以後スンナ派王朝で使用された。
 前者は「アミール(総督)の主(頭)」というのが原義で、あくまで官僚のトップのような意味です。この時点ではまだカリフに政治的権威が保たれています。しかしスルタンは「支配者」が原義で、政治的権限を全部渡したことを意味します。カリフはこの時点で宗教的な権威しかないことを意味しました。ブワイフ朝の君主はシーア派であったこともあり、完全には政治権限を渡さなかったが、セルジューク朝はスンナ派であり、安心して渡した、ともいわれます。


Q29 イスラームの六信五行はいままでなんとなく覚えていたのですが、よく考えるとなぜ五行に布教が含まれていないのかが不思議に思いました。その理由を教えてください。

A29 五行は信徒個人が守るべき戒めであり、布教はかならずしもだれでもやれるものではありません。使命感をいだいたひとがするものです。キリスト教には宣教師(布教師)がいますが、しかし宣教師だけが布教するのではなく一般信徒もします。イスラム教の場合も商人・神秘主義者・法学者たちがしています。


Q30 イスラーム神秘主義に関する文章として正しいものを3つ選べという問題で、
ア 聖者崇拝の傾向が強かった
イ 偶像崇拝の傾向が強かった
ウ シーア派神学者の保護を受けることが多かった
エ スンナ派神学者の保護を受けることが多かった
オ アフリカや東南アジアのイスラーム化に貢献した
カ トルコのメヴレヴィー教団は旋舞により、神との合一を目指そうとした
という選択肢があり、答えはア、オ、カでした。
ここで、二つ疑問が浮かびました。
①アの選択肢について、神秘主義は神との合一を目指すものだから聖者を神に見立てた、という考え方であっているか?
②ウ、エの選択肢について、神秘主義は神学者の保護を受けていないとしたら、ガザーリーはなぜスンナ派神学に神秘主義の要素を導入したのか?

A30 ①聖者を神に見立てた、が合ってます。もともとどの宗教にも聖者(きびしい修行を果たした人、僧侶、聖職者)はあります。イスラーム教は偶像禁止なので、イスラーム教普及以前の聖者をとりこむためにも、聖者がその代わりになるようです。
 ②「スンナ派神学者の保護を受けることが多かった」がまちがいというのは、「少なかった」なら正しいということです。少数でも、ガザーリーのような神学者は何人か知られています。イスラーム神秘主義(スーフィズム)にわたしは詳しくはありませんが、一般論的な説明はこうです。
 神秘主義とは神との合一という体験、だれも確証できない本人だけの内面の深さを大事にしている、ということです。それは個人的なことですが、それはしかし破壊力をもっていすます。既存の専門用語をつかい、学問的体系を確立してきた法学・神学へ根本的な疑念をもちこむからです。そんなもの一つも大事じゃないじゃん、ということです。ゴータマ=シッダールタがバラモン教の教説・戒律を無視したように、キリストがユダヤ教の戒律に厳格なパリサイ派を批判したように、信仰・宗教の根本は教義でも戒律でもないでしょう? 神との一体感こそ信仰の本質だと、と突っ込むことです。ルターがカトリックの教義・慣行・儀式にたいして、それ聖書のどこに書いてあるの? と突っ込んでいるように元々の教典・体験に帰ることです。ルターが神秘主義の影響を受けていることは専門家には知られていることです。信仰義認論はまさに神秘主義的な主張です。
 ガザーリーの主張は読んだこともなく、知らないでのでこういう説明しかできません。


Q31 ナチスによりユダヤ人虐殺が行われたことが、戦後ユダヤ人がイスラエルを建国したことや中東戦争が起こったことの火種として考えられるのはなぜですか。

A31 戦後、ユダヤ人の虐殺が明らかになるにつれ、ユダヤ人の要求ととともにイスラエルという国家の建設は必要だという認識を加盟国に持たせたからです。ウィキペディアの「パレスチナ分割決議」という項目を見られると分かりますが、そこにある提案6に「ヨーロッパに存在する25万人近くの虐げられたユダヤ人に対し、国連は何らかの手立てを緊急に手配する」という文が載っています。


Q32 一橋2006-1について。地中海世界というのはどこまでを指すのですか?

A32 ①地中海の周囲全部でしょう。イベリア半島・南フランス・イタリア・ギリシア・バルカン半島・小アジア・シリア・パレスティナ・北アフリカ全域です。②ただ広くとる場合はこうした沿岸線だけでなく北アフリカとヨーロッパ全域を指します。問題の地中海世界は後者とみていいはずです。オットー1世の本拠地は沿岸ではないドイツなので。

疑問教室・南・東南アジア史

南・東南アジア史の疑問

Q1 インダス文明って、インドの文明じゃなく、パキスタンの文明なんですか?

1A 両方とも正解です。現在の国境からはインダス川はパキスタンにありますからパキスタンの文明といえますが、過去には現在のような国境はできていませんからインド亜大陸の文明という点からはインドの文明です。教科書もインドの文明として書いています。


Q2 バラモン教とマヌ法典は関係があるのですか?

2A うすいですが関係はあります。バラモン教や、これの亜流であるヒンドゥー教徒たちの生活のあり方はどうあるべきか説明した教訓・戒律的なものがマヌ法典です。女を盗むものは来世では熊に生まれ変わるよ、という調子です。バラモンの教義内容に深くかかわるようなものではなく、バラモン中心の四種姓=カースト体制維持に貢献したとは言えます。


Q3 ヴァルナとカーストの違いを教えてください。

3A 前者はカースト制度の元になった4階層(4身分制)をあらわし、後者はこの4階層がさらに職業別に3000をこえる身分制に複雑化したものをさしています。このジャーティとよばれる制度を、後に15世紀末からきたポルトガル人が自国の身分にあたる用語であるカスタをあてたためカースト制と呼ばれるようになった、ということです。


Q4 ブッダもシャカもゴータマ=シッダールタも仏も菩薩(ぼさつ)も、みんな一緒なのですか? ちがいはなんですか?

4A ブッダ(仏陀)は、サンスクリット語で「目覚めた人」「真理を悟った人」「覚者」という意味で、仏教の開祖たるゴータマ=シッダールタをもともと指していません。真理を悟った聖者の意味でした。ただ、仏教徒にとっては最初の覚者であり、また仏教徒はその境地を求めるため、修行者の達成目標としてブッダがあります。大乗仏教の場合は崇拝・帰依(きえ)の対象としても仏(ほとけ、ぶつ)があります。また日本のように死者・先祖をそのまま仏(ほとけ)という言いかたもします。
 シャカはゴータマの出身種族の名シャカ族(シャーキャ族)からきています。だからゴータマ=シャーキャムニ(釈迦牟尼、釈迦族出身の聖者)という呼びかたもあります。「釈尊(しゃくそん)」もこの派生で、「釈迦族の尊者」の意味です。
 ゴータマ=シッダールタのゴータマは姓、シッダールタが名です。
 菩薩は、小乗仏教では、覚者になる直前のシッダールタをさし、大乗仏教では、覚者になる直前のすぐれた人物、徳のすぐれた人物、悟りを開いた人物などをさし、シッダールタ以外の人物や想像の存在で、この世で衆生済度(しゅじょうさいど、万人の救済)を実践する救済者とあがめられ、実際上は神に近い存在にまでまつりあげられています。観世音(かんぜおん)菩薩、文殊(もんじゅ)菩薩、阿弥陀(あみだ)菩薩、弥勒(みろく)菩薩などの名で知られています。


Q5 『サンスクリット語は古代インドの文語。民衆語に対して「完成された雅語」』と山川の用語集に書いてあったのですけど、とゆーことは、『古代インドはインダス文字とサンスクリット語の2つを持っていて、「インダス文字が民衆語」で、「サンスクリット語が格式高い言葉」だった』とのことですか?

5A いいえ。文字と言語とはちがいます。インダス文字は解読されていない文字で、この文明が滅びるとともに使用されません。その後はちがう文字(ブラフミー文字など)が使われ、時代によって流行る言語によって文字もいろいろ変化したのです。サンスクリット語はアーリア人種の使用言語です。土着の民衆語ムンダ系・ドラヴィダ系言語と区別して、「古代インド=アーリア語」とも呼ぶそうです。ヴェーダに使用された「ヴェーダ梵語(サンスクリット)」は、前7〜後8世紀ごろ「古典梵語(これが典型的サンスクリット)」に変化し、現代にいたるまで学術語としても使用されています。


Q6 グプタ様式の仏像はあるのですか?

6A あります。アジャンタ・エローラに描いたり彫ってあるものがそうです。雲崗石窟の仏像はガンダーラ様式とグプタ様式の二つともあるとのことです。それが龍門石窟になると中国様式に変化したといいます。


Q7 <東京大学1994年度第1問>の解答例に対する質問です。題意は「モンゴル帝国の各地域への拡大過程とそこにみられた衝突と融合について論ぜよ」とありますが、陳朝がチュノムを作字したというの入れてもよろしいのでしょうか?というのも、確かにモンゴルの進出に起因しているんでしょうが、チュノムは独自の民族文字と聞いたものですから・・・「融合」や「衝突」のどちらにも該当しない気がするんですが。もし、この文字を書かせたいのなら、問題は「そこにみられた衝突・融合とそれがもたらした影響に触れながら論ぜよ」となるのではないでしょうか?僕はそこ
が一番この問題で引っ掛かるんです!

7A たとえばニッポニカという百科事典には「なお,字喃の起源については諸説があり定かではないが,中国の元朝の侵略を撃退して民族主義が高揚した陳(チャン)朝には字喃で書かれた詩すなわち国語詩が盛んにつくられ,阮詮(グエン=トゥエン)の「披沙集」や朱文安(チュ=ヴァン=アン)の「国語詩集」などが代表作である。」とあります。文化的な対抗意識ですから「民族」の面の「衝突」の例として描いてあってもいいはずです。
 それと「独自の」といっても字喃を実際に見られたらわかりますが、漢字とほとんど変わりません。中国文化との「融合」の例でもあります。問われているのは、モンゴル人の文化の融合・衝突ではありません。モンゴル人が広大な帝国を築いたために、従来にはなかった文化間の交流がうまれ、それが「衝突」になったり「融合」になったりしたものです。


Q8 「イスラーム化」とは「イスラーム帝国の支配」をさすのか。それとも「地域のイスラム教化」をさすのか? 調べると、「インドではイスラーム教改宗者は少なかった」と書いてありました。

8A あいまいなことばなので双方解釈できます。一般には後者の「地域のイスラーム教化」でしょう。中央アジアがイスラーム化した、というばあいは中央アジアのひとびとがイスラム教を信じた、と説明するときに使います。しかし問題の「インドのイスラーム化」という問いならば、支配の拡大のほうが主でしょう。というのはヒンドゥー教が前提である世界で、イスラーム化がイスラム教浸透とはとりにくいからです。また現在からの目もあります。イスラーム教徒はそれほど多くないのを知っているので、イスラーム教パキスタン成立の背景はなにか、ということであってインド全体がイスラーム教浸透とはとりにくいからです。これきイスラーム化の初期の動きのことです。
 インドのイスラーム化とは長い時間(8〜17世紀)をかけた影響です。「化」の指標になるのは三つ、①イスラム政権の支配下に入ること(上の問い)、②イスラーム教信徒が増えること、③イスラーム教との融合文化ができることです。


Q9 ガズナ朝やゴール朝はインドの侵略に成功していながら、なぜデリー=スルタン朝からが「インドの」イスラム王朝なのですか? またゴール朝はイラン系ですか?

9A 前二者はアフガニスタンを根拠(ガズナもゴールも首都名)にしたので、インドの王朝とはいいません。デリー=スルタン朝はまさにインドに首都をおいているのでインドの最初のイスラム教政権とみなします。奴隷朝の創始者クトゥブ=ウッディーン=アイバクはゴール朝の部将でインドを任されていたのですが、主人のムハンマド=ゴーリーが暗殺されたのを機にデリーで独立します。

詳説世界史(山川) アフガニスタンにトルコ人のガズナ朝とゴール朝が建設されてからである。
詳解世界史(三省堂) トルコ系のガズナ朝とゴール朝の軍が、カイバル峠を通って北西部インドヘの侵入をくり返した。
新世界史(山川) トルコ人のガズナ朝とイラン系のゴール朝が勢力をもつようになると侵入は本格化し
改訂版 詳説世界史(山川) トルコ系のガズナ朝と、ガズナ朝から独立したイラン系とされるゴール朝の両イスラーム勢力は、
用語集(山川) イラン系と称するゴール朝

とまあ、いろいろです。同じ山川出版社のものでも二つあるというのが変ですが、従来よりはイラン系が多くなってきたというところです。このように断定しにくいのは、建国者が○○○系であったとハッキリしている場合は、そのまま○○○系とするようです。しかしその部下たちは全部非○○○系だったらどうするのか、という疑問もわきます。当時の王朝は基本的にいろいろいな民族・部族のよせあつめである場合が多く、判然としないのが普通です。「称する」はティムールがチンギスの子孫やと言ったという、この嘘つきの嘘をそのまま信じていいのかどうかも考慮すると、決めがたい。ただ授業では、トルコ人の一連の移動期の中にこれらの王朝も登場するので、いまのところトルコ人としておく、と話しています。
 学問的な結論は、断定できない。どちらでもいい。入試でどちらで出てきても年代や説明文で判断する。もし何系か、と問うた大学には受かっても行かない(-_-;)。そんな問題を出すこと自体が不見識だからです。


Q10 先生の参考書に「キャラコはイギリスの産業革命を刺激した」とありますが、これは少し言いすぎだと思うのですが…。

10A イギリスにキャラコ論争というのがあり、だから英和辞典にのっているくらいの単語 calico です。1700年ちょうどにイギリスではキャラコ輸入禁止法が成立し、それでも入ってくるので1720年にはキャラコ使用禁止法ができるくらいにイギリスにとっては脅威の商品でした。清水書院の教科書に次のようなコラムがありますので、お読みください。
[ コラム25 インド=キャラコとイギリス ]
 物の名には地名に関わるものが多い。日本でも小麦粉のことを,アメリカ産ということでメリケン粉と称したが,同様の例は外国にもある。イギリスでインド産綿布のことを,積み出し港のカリカットの名をとってキャラコ(キャリコ)とよんだのもその一つである、なお,カリカットといえば,1498年に,ポルトガルのバスコ・ダ・ガマが到達した港市でもある。
 イギリスとインド・キャラコとの出会いは、東インド会社が設立された1600年以降のことである。ヨーロッパ人がアジアに求めた物産としては,香辛料と絹織物・陶磁器が有名であるが,東インド会社はこのほかにも茶・コーヒー・キャラコなどをもたらし,西インド産の砂糖の流入とあいまって,17世紀後半から18世紀のイギリスに生活革命をひきおこすことになった。キャラコに色鮮やかな文様をフリントしたものを更紗といい,インド更紗は古代ギリシア人にも知られていたが,東インド会社がもちこんだのは,インド西北岸のグジャラート地方の更紗であった。当時のインドはムガル帝国の支配が安定し,伝統技術を生かした綿工業がグジャラート地方,ベンガル地方,東南部のコロマンデル海岸などを中心に発達し,都市や港は活気に満ちていた。
 イギリスでは,インド更紗は女性のドレスや下着,テーブルクロス,ベッドカバーなどに利用された。ヨーロッパの毛織物にくらべて,キャラコは軽くて吸湿性に富み,洗濯も容易なことから大変な人気を博したが,その輸入の増大は伝統産業である毛織物工業を圧迫し,政治問題化していった。そこで,議会は1700年と1720年にあいついでキャラコの輸入と使用を禁止する法律を制定したが,かえってキャラコの需要を高める結果となった。香辛料や茶・コーヒーと同じく,綿花も気候の関係でヨーロッパでは栽培できないが,原料の綿花が安く手に入れば,自前で綿布を織ることができる。そう考えたイギリス人によって,紡績機や織機が次々に発明され,産業革命が開始されたのである。


Q11 1905年のベンガル分割令の狙いについて先生は二点挙げいらしたんですが、一つ目のヒンドゥー教徒とイスラム教徒の分離、これは教科書にも載っていてよくわかるんですが、二つ目の税制についてようわからんかったので、もう一回説明してもらえませんか……

11A ザミンダーリー制という、ザミンダールという地方の大領主に徴税を任せる方法(手数料がこの領主の懐に入ります)と、ライヤットワーリー制(ライヤットは農民のことで、イギリス側の徴税官が農民から直接徴税する)と二つあり、北部では前者、南部では後者の税制がしかれていました。ベンガルも前者だったのですが、後者のより税収のあがるものに変えようとしたのです。


Q12 山川の教科書p.300の10行目、「大戦中から反英的な姿勢を見せていた全インド=イスラム連盟……」とあるのですが、何が契機となって全インド=イスラム連盟はそんな姿勢をとるようになったんですか。Z会の問題集のリード文にその説明がしてあるんですが、ようわからんし……

12A 全インド=ムスリム連盟の反英性は、第一次世界大戦にイギリスが同じイスラム教の信仰をもつトルコと戦っていることの不満がありました。カリフの運命はどうなるのか、という不安もありました。また自治を約束しておきながら、具体的にどうするのか具体案が何も示されないことの不満。また戦争が長引き多くのインド兵が亡くなったことの不満も。最初の信仰を別にすれば、他はヒンドゥー教徒と同じ不満であり運動を提携してやれるようになったのです。戦争直後は共闘できたと言えます。しかし自治を求めていくとイスラム教徒がその将来の自治国の中で少数派になることは目に見えているので次第に自己主張するようになり、また離れていきます。全インド=ムスリム連盟は1940年にヒンドゥー教徒とは分離した「イスラーム国の樹立」を決議しています。


Q13 イギリスの東インド会社は1858年に解散してインドを直接統治してるのに、インド帝国ができるまでに約20年もかかってるのには何か理由があるんですか?

13A 20年間の意味はあまりありません。インド自体よりイギリスの方で女王を皇帝にしたてる王位称号法ができてイギリス国王兼インド皇帝を名のるようになった、というのが実状です。この形式をだんだん下に降していって、皇帝・帝国への功績ありと認められたインド人にさまざまの名誉称号をおくることでインド人の忠誠心を養うためでした。親英的なインド人を官僚として雇い、帝国の組織にインド人を組み込んでいくのも目的です。国際的な背景は、ロシアの南下にそなえて防衛体制を強化するためでもありました。


Q14 新インド統治法(1935)で自治を認められますが、自治領になるということとは違うのはなぜですか?

14A 新インド統治法の自治は地方の州の自治だけです。インド全体の決定権は英国にありました。つまり全体はイギリス人総督が自由に州知事を任免できます。州の決定もくつがえせます。中央政府はイギリスが握りますから外交権もイギリスが行使します。各自治領では住民の選挙よる代表が集まる州政府(官僚)によって統治されます。イギリスは白人支配のはっきりしているオーストラリア・南アフリカのようなところしかこの完全な自治権(dominion 自治領)は認めませんでした。この自治領は第一次大戦後は外交権も獲得し独立国に等しくなりました。


Q15 ベトナム戦争では北をソ連と中国が支援していますが、その頃ソ連と中国の関係は悪くないのですか?

15A 悪いです。中国は表向きは支援表明をしましたが実際にはほとんど支援の物資も武器も送らなかったようです。北爆(1965)が始まっても、その後に文化大革命(1966-76)があり、中国も支援どころではなかったのです。またこの間、米日と結んだ中国は信用ならないものでした。ソ連は援助しましたが、それほどの量ではなく、ヴェトナムはほぼ独力で勝利した、といっていいようです。ソ連にとってヴェトナムはあまり意味のない地域だったためです。社会主義国同士は冷たいものです。


16Q 「南ヴェトナム解放民族戦線」のことを「ベトコン」と呼ぶのは差別表現であり使ってはいけないと先生に言われたことがありますが、どうしてなのかよく分かりませんでした。なぜなのですか?

16A 「ベトコン(ヴェトコン Viet Cong、Vietcong)」と表現しても差別になりません。すでに解散した組織であり、この表現によって今は誰も差別を感じませんから。ヴェトナムのホーチミン・ルートのヴェトナム人観光案内が外国人向けに使ってもいる表現です。確かにはじめは内実がわからず、南ヴェトナム解放民族戦線を純粋にゴ=ディン=ディエムという南の独裁者に対抗して南だけでつくられた民族主義者らの自由を求めた組織であると信じられていました。この時期、アメリカがこれをヴェトナムのコミュニスト(共産主義者)と決めつけて呼んだアメリカ側からの蔑称表現でもありました。しかしこれは今は的をえた表現であったことが判ってきています。
 「1959年、ベトナム労働党中央委員会の第15回会議で解放戦線の結成を決定したのでしたね」という問いに対して、ファン・バン・ドン元首相が「そうです。同時に、南の全人民を動員して抵抗運動に立ち上がらせることも決定しました。それは一斉蜂起運動です」と。結成の決定は労働党つまり共産党が1959年1月13日に秘密裏におこないました。この組織の結成年は一般に1960年となっていますが、くわしくは1960年12月20日です。約2年かけて南での結成に動いたということです(『社会主義の20世紀』第5巻・日本放送出版会)。メンバーの多くが共産党員であるにもかかわらず隠して参加したことは歴史家たちも認めるところです。
 ベトコンという用語を説明すべき語句としてあげている主なものをあげると、大修館の辞書『GENIUS』、『国語辞典』(集英社)、『広辞林』『ハイブリッド新辞林』(共に三省堂)、『京大新編東洋史辞典』(東京創元社)、『世界史小辞典』(山川出版社)、『詳解世界史用語事典』(三省堂)の索引では、「南ヴェトナム解放民族戦線」に括弧を付けて(ベトコン)と入れています。
 教科書も内実が分かるにしたがって説明文を変えてきています。「反政府の南ヴェトナム解放民族戦線が結成された」(詳説世界史、山川出版社、昭和56年版)、「北の支援をえて、1960年12月に、南ヴェトナム解放民族戦線を結成した」(詳解世界史、三省堂、平成7年版)、「ヴェトナム民主共和国(北ヴェトナム)の支援を受けて、60年ヴェトナム共和国(南ヴェトナム)に南ヴェトナム解放民族戦線が結成され」(詳説世界史、山川出版社、1997年版)という具合です。君の先生は学生運動に加わったことがあり、いまもその時の頭のまま時間が経過していない方なのでしょう。


Q17 ソンミ村虐殺事件とはどのような事件でしょうか?

17A 1968年3月、アメリカの海兵隊が南のソンミ村を襲い、無抵抗の農民500人を虐殺した事件で、虐殺が明るみにでると、米国内でベトナム反戦運動が高まる契機となり、テト攻勢(1968)とともにジョンソン政権にダメージとなりました。


Q18 シンガポールはマレー連合州、マラヤ連邦に加盟していたのでしょうか。

18A 前者はいいえ、です。シンガポールは海峡植民地の一部として連合州(1895)とは別個に存続しました。第二次世界大戦後、海峡植民地は解体され、ペナンもマラッカも海峡植民地から離れてマラヤ連邦(1957)に含められましたが、シンガポールは単一のイギリス植民地でした。それが1963年、マレーシア連邦の結成に一州として参加します。このマレーシア連邦から65年に独立する、という過程です。


Q19 ヒンドゥー教の基礎となっているカースト制が東南アジアにも定着したという話は調べても見つける事が出来ませんでした。なぜ?

19A 確かに。カースト制度はアーリア人がインドの先住民を差別するためにつくったものですから、東南アジアにアーリア人が入れば、つくったかも知れません。しかしこの侵入はありませんでした。


Q20 カースト制無しにヒンドゥー教は機能したものなのでしょうか?

20A まずカースト制度というのは長い時間をかけて出来たもので、インド商人が東南アジアに入っていく2〜4世紀のころ、カースト制度(2種類あり、ヴァルナ制とジャーティ制、前者が4身分、後者が職業別に3000種類)といっているものはジャーティ制のことで、東南アジアに商人が入った頃でもまだインドにこのジャーティ制はできていませんでした。まだできあがっていないものは入ってこれない、ということです。ましてヴァルナ制という上から順にバラモン・クシャトリア・ヴァイシャの上位3身分はどれもアーリア人です。
 機能面は多神教の東南アジアに別の神々としてヒンドゥー教の神々や物語が入ってきました。つまり東南アジアにはヒンドゥー教の根本経典たるヴェーダが入ってきていない、という欠点もありました。多神教の一つとして機能し、また物語は演劇・舞踊・影絵として今も生きてます。
 また職業別の複雑なジャーティ制は都市の発達した地域でできあがったものなので、人口の少ない東南アジアの地域には育ちようがなかった、という環境もあります。


Q21 『練習帳』別冊「基本60字」の32ページの16世紀のムガル帝国の支配体制についての問題です。解答ではマンサブダールが徴税権を持っていて給与は与えないと書いてあります。しかし私の持っている『タペストリー』という資料集にはマンサブダール制は皇帝が軍人・役人に俸給を与え、皇帝が農民から直接地租を徴収するという図が載っています(写真を添付しました)。これらは矛盾していると思うのですがどちらが正しいのでしょうか。

21A 添付された図のアクバル帝にマンサブダール制とあり、皇帝が「任免・俸給」を「軍人・役人(官位をもつ)」に与えることになっています。「俸給」が具体的に何を意味しているのかが、ハッキリしません。さも皇帝が農民から徴集した現金を給付するような図になっていますが、これはまちがいです。給金をあたえるのでなく、徴税権を給与代わりに与えるもので、じっさいに農民から徴集するのは軍人・役人たちです。徴税する土地のことをジャーギール(地)といいますので、土地の所有権はないけれど、そこの収穫物をとりあげる権利(地租の徴税権)をもらうのです。

 ジャーギール(地)は位階(マンサブ)に比例して与えられたので、ジャーギールダール制はマンサブダール制と表裏一体であり、マンサブダール(マンサブ保有者)はジャギールダールでもあったのです。

 東大系の学者が編集した『イスラーム辞典』(岩波書店)はマンサブダールのところで次のように書いてます。

マンサブダールはマンサブ(職責)に応じて、俸給額と維持すべき騎兵軍団の規模とを定められた。俸給は現金給付ないし地税の分与であったが、ほとんどの場合、後者が行われた。これがジャーギールであり、その保持者をジャーギルダールという。

 またジャーギールのところでは、

高官・武将が土地から受取るべき一定の税収権、およびその土地。アクバル時代中期にムガル官僚制が整備され、マンサブを得たマンサブダール個人の給与やその保持すべき兵士・騎馬の手当は、一定の土地から上がる税収でまかなわれるとととなった。現金で給与・手当を支払われるマンサプダールは少なく、大部分のものは数か所に分散した土地から上がる税収が、給与・手当に見合うようになっていた。

 と書いてます。つまりはイクター制と同じです。割り当てられた土地の税収が給与になるということです。言い方を換えれば、地方官僚(総督)は徴税官を兼ねる、ということで、役人の数を少なくする方法でもあります。
 右側の図のジャーギール制はなにか勘違いした図です。アウラングゼーブ帝の変化は徴税請負制を始めたことです。徴税請負制は一定の地域を一人の大領主(ザミーンダール)に任せて徴収する制度ですが、これは官僚による(中央集権的)支配がうまくいかなくなった時に生まれてくるもので、アッバース朝でもムガル帝国でも衰退期に現れるものです。中央に入ってくる税収は全額の20%ですが、入らないよりマシ、という制度です。これをとくにジャーギール制とは言いません。


Q22 山川の「詳説世界史B」P.290の「インド大反乱とインド帝国の成立」という章で「19世紀前半のインドは、税負担の増加による経済的疲弊がすすみ、沈滞した状況が続いた。19世紀後半にはいると、“世界的な経済活動の回復”と連動して、インドにおいても少しずつ経済回復の動きがみられるようになった」とあります。ここでの“世界的な経済活動の回復”という記述がよくわからないのですがこれはどういうことなのでしょうか?

22A p.256に「産業革命は大陸諸国にも広がり、近代工業への移行が開始された。1848年革命とクリミア戦争後、列強諸国が国内問題に専念するあいだ、イタリア・ドイツは統一国家樹立に成功し、19世紀後半には新しい形で列強体制が復活した。一方、ヨーロッパの干渉を排除したアメリカ合衆国は南北戦争後産業の急速な成長と太平洋岸までの開拓をはたした。」
 この時期のことです。1848年革命で混乱はありますが、それが終わるとヨーロッパ全体が政治的な騒乱は少なくなり、とくに1850年代は鉄道ブームといわれヨーロッパ中に鉄道が敷かれ、流通が盛んになり、また1870年まで産業革命の全欧で展開しました。独伊とも国内統一は鉄道を敷きながら実現しました。つまり産業革命の進展と国内統一が同時進行した、ということです。
 『詳説世界史』のp.244の下の表をご覧になると、1851年の人口増加があげてあります。イギリスはすでに1830年頃には産業革命は完成しましたが(完成とは、当時の技術で手工業は機械工業に変わった)、他の国々にこれが普及します。1844年にイギリスは機械の輸出を解禁しましたから、この先進国・イギリスの機械を買って他国がイギリスに追いつけと機械化をすすめた時期でもありました。これらが50年代以降の繁栄につながりました。1851年にロンドンで第一回万国博覧会、パリでは1855年に第二回万国博覧会が開かれています。これは当時の経済発展を示す陳列場でした。
 『国際経済入門』(東洋経済新報社)という本には、「1800-1913年の間……同期間の一人当り貿易の伸び率は10年間に平均33%であった。ことに1840-70年の伸び率は、貿易全体をとっても、一人当りをとっても、最高であった。この結果、世界全生産高に対する世界貿易額(輸出入合計額)の比率は著しく上昇した」という風に書いています。


Q23 アショーカ王の磨崖碑、石柱碑の位置についてですが、山川教科書p57の地図を見ると、これらは、国境にあるのですが、異民族対策のためもありますか?または、川の辺りにあるから、水脈の目印か?または、マイルストーン的なものですか?

23A 支配領域を示しています。置かれた場所は古代の通商路や巡礼地に一致する、という説明(ウィキペディア)も同じです。ハンムラビ法典の発掘地スサもバビロン第一王朝からすれば辺境地ですが、そこまで支配したことを示しています。


Q24 2006年度東大過去問の第二問の(1)が要求する文化的側面について:スーフィーの活動というのは、問題の要求する「カイバル峠を通るルートによる」定着過程に入るのでしょうか? 『世界史アカデミア』や山川『詳説世界史』などを参照いたしましたが、記載がございませんでした。むしろ、帆船がスーフィーの活動に貢献した、といった記載がありました。

24A イエス、が回答です。以下の記事は主に東大系の学者が編集した『イスラーム辞典』(岩波書店)を利用しました。
理由① カイバル峠(アフガニスタンとパキスタンの国境線)を通って、ということは(イラン→)アフガニスタン・パキスタン・北インドへというルートになります。スーフィーの中心地の一つがヘラート市でした。アフガニスタンの西部にある都市です。ここで活躍したスーフィーの神秘主義者としてアンサーリー=アブドウッラー(1005-89)という人物が知られています。
理由② アム川の北シル川の下流域にホラズム(パキスタンの西)という地方があります。そこにナジュムッディーン・クブラー(1145-1220)という著名なスーフィーがいました。スーフィー教団の一つしてクブラヴィー教団の名祖であり、はじめハディース学者として各地を遍歴して学んだのですが、その途中でスーフィーとなり、ホラズムに戻って没するまで同地で過した、とあります。
理由③ 上と同じシル川の近くの都市テュルキスタン(トルキスタン)市には、12世紀のスーフィー聖者ヤサヴィー(1103-1166)の聖廟があります。
理由④ ブハラ市というアム川中流の都市(イブン=シーナーの生地)にナクシュバンド(1318-89)という人物がいます。著名なスーフィーでイスラーム世界全域に広がるナクシュパンディ教団の名祖でもあります。かれの死後はブハラの守護聖者として尊崇されるようになりました。
理由⑤ デリー=スルタン朝はカイバル峠を通過して南下したトルコ人が、インド北部に建設した諸王朝でしたが、この時期にイスラーム教が浸透します。かれらの寛容策もさることながら、スーフィーたちの活動もあり浸透しました。
理由⑥ パンジャーブ地方(パキスタン北部)におきたシク教が偶像祭祀を禁止し、苦行やカースト制度を否定したのは、スーフィーの影響とされます。また、グルドゥワーラー(シク教寺院)での祈りの後、信徒たちが一堂に会食する、ランガルという習慣がありますが、どれも平等意識のシンボルとしてスーフィーたちの始めたものだそうです。
 これらのことから、カイバル峠を通ってスーフィー(人と主義)が普及したことは否めない、とおもいます。もちろん海路は商人たちの通路でもあり、海路から伝わったことは当然あることでしょう。しかし陸路も否めないはずです。

疑問教室・朝鮮史

朝鮮史の疑問
Q1 高麗では10世紀に武人、豪族に代わって両班が台頭したとありますが12世紀末に軍人(武人)が政治の実権を握ると教科書に書いてありますが両班が衰えてしまったのですか?
武臣と武人はちがうのですか?

1A 高麗は科挙を採用しますが、科挙の合格者たる両班はまだ実権をにぎっていません。科挙を採用しても新羅以来の有力者・貴族の子弟でなければ官吏になる道は閉ざされていました。さらに高麗政府の信仰は仏教(禅宗)であり儒教ではなかったのです(『高麗版大蔵経』)。
王建は豪族連合政権として出発したため、4代目の光宗(位949〜975)になって豪族・軍人を抑制するために科挙を始めました。しかし5代目の景宗(位975〜981)になると、豪族たちは合格した高官たちを殺し、豪族の子弟を高官にして実権を握り、高官は恩蔭(朝鮮では恩叙といいました)といって無試験で高官になれるようにしました。表向き文班の支配ですが、中身は豪族で、これらが特権層になるので韓国の教科書では高麗を「貴族社会」と説明しています。この表向き文治主義の支配も12世紀には武班(武人)に奪われることを日本の教科書はどれも書いています。つまり中国的な文官支配はほぼなかったといっていいのです。日本の専門家も高麗時代は李朝で両班の支配が確立するまでの過渡期ととらえています。旗田という朝鮮史の専門家は高麗は新羅と李氏朝鮮の間に位置する「未熟な官人国家」と呼んでいます。荒巻著『世界史の見取り図』(ナガセ)の中には、高麗の科挙採用を、「新たな支配層となる科挙官僚=両班が登場します」として両班支配ができたかのように書いてしまっています。そのことを後でも、「李氏朝鮮の支配層は両班です。高麗と変らないんだね」と念を押しています。これは、まちがいです。
 武臣と武人は同じです。武班でも同じです。ただ高麗時代はまだ武科挙(武術・戦術の試験)はなく、文人だけの科挙しかなかったようです。文科挙に合格した者が官僚になる機会は生まれました。儒教の伝統で文班がいばりだすと武人としては我慢ならなかったのでしょう。


Q2 『論述練習帳』の知識篇の朝鮮史の3番に、日本は不平等な日朝修好条規を強制して開国させ、従属関係に変えたと書いてありますが、どのような点から従属関係といえるのですか?教えてください。

2A 日朝修好条規の、「第一款 朝鮮國ハ自主ノ邦ニシテ日本國ト平等ノ權ヲ保有セリ」と書きながら、この第一款と矛盾する「不平等」とされるものは、(1)日本の領事裁判権(第10款)、(2)無関税(日朝往復書翰)、(3)開港場における日本貨幣の使用(付録第7款)の三つです。第一款にしてもねらいは何も平等に朝鮮とこれからつきあいましょうという確認ではなく、中国の支配を排除することがホンネです。だから日清戦争の下関条約でも、日朝修好条規に反発していた中国に対して、まず何よりも、第一条でこのこと(朝鮮自主)をくりかえさねばなりませんでした。日本の軍艦6隻を江華島に突き付けて結ばせた条約が平等であるはずはありません。 


Q3 なんで朝鮮の政権が上海に樹立されるるんですか。ある解説に「大韓民国臨時政府の初代大統領に就任したのは若き李承晩で上海で樹立宣言が行われたが、戦後の大韓民国にはつながらなかった。」と。ん〜っわかったようなわからんような……。

3A 当時は日本の植民地だったからです。亡命地でつくったということでしょう。三・一独立運動に刺激されて、国内外の独立運動家たちが上海に参集してつくった亡命政府です。李承晩はこの臨時政府の国務総理に推され、ついで大統領にも就任します。またワシントンに臨時政府欧米委員部を開設しています。外から、日本の支配を認めないぞ、いずれわたしたちの時代が来るのだと待ち構えていたわけです。


Q4 一橋1992年の第3問(イ)で、「05年から抗日義兵闘争が激化」と先生の解答にありますが、旺文社の『世界史事典』には、「1905年の第二次日韓協約以来の日本の対韓植民地政策に対する朝鮮官民の反抗が、1907年の韓国軍解散を契機に激化し」とありました。

4A どちらで書いても問題ないです。というのは義兵闘争は19世紀末からあり、それは併合後も続いてたので、どこで「激化」を言うかは諸説あるからです。大学教授は「諸説」を知っていますから、どちらで書いても可としてくれます。

 東京書籍の教科書では、
1905年ソウルに韓国統監府を設置して、露骨な内政干渉を開始した。そのため韓国では義兵闘争(反日武装闘争)が激化した。1907年に日本が韓国の軍隊を解散させる(第3次日韓協約)と、義兵闘争は全国に広がり……

 山川の用語集では、
反日義兵闘争 ⑨ 朝鮮民衆の反日武装闘争。閔妃殺害事件後の1896年に初期義兵闘争がおこった。1905年以降にふたたびおこり、07年の朝鮮軍解散の強制でいっそう激化した。朝鮮全土に広がり、ほぼ10年間各地でゲリラ戦を展開して、日本の統治を困難にした。

 2014年に出た新用語集では次のように書き換えています、
義兵闘争 ⑦ 朝鮮民衆の反日武装闘争。朝鮮では、1895年の閔妃暗殺と開化派政権による断髪令への反発から、翌年、各地で儒学者を指導者とする義兵闘争がおこった。一般民衆をも指導者とする義兵闘争は1905年の斡国保護国化後に始まり、07年の第3次日韓協約による韓国軍解散に抗して兵士が合流し、全土で14年頃まで統いた。

 ここには激化ということばはありませんが、指導者が誰かということに重点をおいた説明になってます。


Q5 植民地化した朝鮮の近代化のために、多額の日本の資金を投入したので、それを返してほしい、という講師がいましたが、先生はどうおもわれますか?

5A 「朝鮮の近代化のために」というところが怪しいですね。植民地にした国のために、という目的は植民地化した国の第一の目的であるはずがないでしょう。イギリスはインドを第一に考えて植民地化したおもいますか? フランスはアルジェリアの近代化のために植民地化したのですか? どこも自国のためでしょう? 「植民地」は自国に利益をもたらすはずとして植民地化する、という当たり前のことが分かりませんか?
 次のサイトに朝鮮近代化と日本の関係について説明しています。お読み下さい。

Q&A 4 日韓関係・植民地支配 | Fight for Justice 日本軍「慰安婦」―忘却への抵抗・未来の責任 - 東アジアの永遠平和のために

疑問教室・中国〔明朝以降〕

Q38 明清間に貿易の発展と農民の没落が東南アジアへの移民につながったとありますが、農民はどうして没落したのですか?

38A 経済発展はすべてのひとが豊かになることを約束しません。発展のためにアップ・ダウンが激しくなるのが人間の世界です。二つ原因があります。
 まず明朝の里甲制の崩壊があります。里甲制の中では、たとえ土地所有に格差があっても負担(里甲正役雑役といいます)は同額となっており、それは小土地所有者に重くのしかかります。納税ができなくなると、土地を牛を妻を売りにだすことになり、とうとう逃亡か自殺かという末路が待っていました。小作人になったとして、1年の収穫は家族が1年分くっていくぐらいしか取れないのに、小作料は半分以上というきびしさです。副業の棉花栽培・養蚕(ようさん)・絹織物などを兼業してなんとかしのいでいる。棉花も一部は地主に小作料として取られ、残りを棉花商人に売るのです。綿糸をつくるものは綿糸を売り、その金で棉花を買ってかえる、という自転車操業(働いただけしか収入がない)です。蓄積する余裕がありせん。農民はますます商人への依存度を深め、ピンはねされる額も多くなっていきます。農民は商人たちを「殺荘」と呼びました。また国家への負担がこれに加わります。「税や徭役を銀で換算し、一括して納入する一条鞭法が普及し、これが農村の商品生産に拍車をかけた。農民は銀を手にいれるために商人への依存を強め、……農民の生産を圧迫して中小農民の没落をまねくとともに、地主への土地の集中をうながした。」(詳解世界史)。この銀納のために不利な条件であっても生産物を銀に交換しました。収穫物・土地を担保にしてでも借りねばならないものもおり、結果として収穫物・土地もとりあげられます。


Q39 軍機処と理藩院はどうちがうのですか?

39A 軍機処は参謀(さんぼう)部(作戦・用兵の計画を協議する機関)でありジュンガル部を討伐するために雍正帝(ようせいてい)が設けた軍需房(ぐんじゅぼう)が発展したものです。ただ後に内閣の上にだんだん位置づけられ、内閣に代わる組織として内政問題も話す実質皇帝の諮問(しもん)機関(アドヴァイス機関)、かつ国政の最高機関となります。内閣や六部の大官から任用された4〜5人の軍機大臣がでむいて皇帝のもとで下問(かもん)に答えたものです。ここでも満漢偶数官制の原則は保たれたらしい。
 理藩院はそこまで上昇することはなく、あくまで藩部(はんぶ、間接統治地区である蒙古・新疆(しんきょう)・青海・西蔵(せいぞう、チベットのこと))を統括するための外務省です。はじめはホンタイジ(清の2代目の太宗)が蒙古を平定して蒙古衙門(もうこがもん)を設けたのが起源です。1638年に理藩院と改称されます。1659年には礼部(外交と教育を担当)の管轄下にはいり、1661年には独立の官庁となります。1861年に設けられた総理各国事務衙門(そうりかっこくじむがもん)は欧米との外交をあつかう官庁で、藩部とはまた別の外務をあつかうことになりました。


Q40 教科書によると「蒙古衙門が後に理藩院になった」とあったんですけど、ホンタイジの頃に作られた蒙古衙門と乾隆帝の頃の理藩院とでは、名前が違うだけなんですか? あと、理藩院は誰の頃に作られたか?ってな質問の答えって、乾隆帝。でイイんですか?

40A 蒙古衙門がのちに理藩院と名前を変えます。はじめはチャハル部を平定して、そこだけを管理するためにつくった役所です。のちに4藩部(蒙古・青海・新疆 ・西蔵)の四つを統括します。
 理藩院は誰の頃に作られたかの答えはホンタイジです。
 立命館の問題に「理藩院は藩部を治める役所という意味で、1638年に設置されたが、当時の藩部は今日のどこにあったか。地域名を記せ。」というのがあります。つまり「1638年」はホンタイジの期間です。ホンタイジで理藩院ということばを使って出題しています。


Q41 清の時代に、女真人が辮髪を漢民族に強制してましたが、辮髪って、髪の毛が足りなかったらどうしてたんでしょうか???
資料集とか教科書とか見たら、めちゃくちゃ髪がないとできそうも無い髪型なんですが。
相撲の大銀杏は、髪がたりなくて結えなくても、そのせいで引退ということはないらしいですが。

41A 面白い質問ですね。
 魯迅のいろいろな小説の中には、かつらを使ったという話しは出てきます。足りない分を結んで追加することもできますし、頭のうすい人でも天辺がうすいだけで、周辺の髪の毛は普通人と同じように生えるはずですから大丈夫だったのでは……と想像しますが、知りません。次の辮髪のことを詳しく書いているHPでお尋ねになられではどうでしょう?
http://www2s.biglobe.ne.jp/~xuan-he/benpatu/bebebebenpatu.html


Q42 中国人宣教師によって中国からヨーロッパにあたえた影響について、①朱子学→啓蒙思想 ②科挙→文官任用制度 ③シノワリズムの流行 ④中国美術→ロココ美術へ影響を与えた これ以外にもあるのでしょうか? あと飲茶の風習もこのときにつたわったのですか?

42A 他には、ライプニッツは易経の内容から単子論をおもいついたとのこと、ヴォルテールが孔子崇拝(理性的性格)をしたことも有名です。ケネーは中国は農業を重視している知り、それに刺激をうけて重農主義を唱えたとのことです。また陶磁器はマイセン磁器として模倣されます。 ロココ宮殿にシナ風庭園がつくられたことも影響です。茶はイエズス会士ではありません。名誉革命のときにオランダ(日本と貿易)からメアリ2世とウィリアム3世の夫婦がイギリスの宮廷にもちこんでからです。もちろん18世紀にイエズス会士が茶について言及はしているとおもいますが。
 清水書院の教科書の記事に次のようなものがありました。
コラム21 中国と西欧の文化交流
 アジア・アフリカ諸国は、19世紀以降になると、ヨーロッパの軍事力の侵略的脅威に直面し、西洋化を軍事面からうけいれざるをえなくなる。軍事面から始まった西洋化は、制度・政治・社会・思想などの変革に進む。しかし、アヘン戦争が始まる前の中国とヨーロッパは、文化面で互いに刺激しあう関係を保ってきた。
 明末、マカオを基地としたイエズス会の宣教師マテオ・リッチは、科挙を通じて官僚となる知識階層(士大夫)に、数学・暦法等の自然科学の知識を紹介して信頼を得、キリスト教が中国で布教できる道をひらいた。明の高官徐光啓など改宗した士大夫は、自然科学の本を漢訳し、当時近代自然科学を確立しつつあった西欧の科学知識を伝えた。以来、学才優れた宣教師が明末清初に訪れ、暦法を司る天文台の長官に抜擢され、ユークリッド幾何学などの数学、医学・鋳砲術・機械学・地図・絵画・音楽を宮廷に伝えた。康煕帝、乾隆帝は彼らの才能を愛した。乾隆帝が新疆征服を記念して宣教師カスティリオーネらに戦勝図を描かせ、それをパリで銅版印刷させたことなどは当時の中国と西欧の緊密な文化交流を示す一例である。しかし、宣教師のもたらした知識も宮廷内にとどまり、近代的な社会発展の方へとは結びつかなかった。
 一方、ヨーロッパには宣教師が多くの報告書を書き、マルコ・ポーロ以来情報が閉ざされてきた中国を紹介する本が出版されるようになった。フランスを初めとする絶対主義の宮廷・サロンでは、中国への憧れからシノワズリー(シナ趣味)が流行した。ただし、江戸時代の浮世絵が印象派に大きな衝撃を与え、美術の新主張(ジャポニスム)を生んだような影響にはいたらなかった。また、中国・日本陶磁器への需要・模倣からオランダのデルフト陶器、ドイツのマイセン磁器が重要な地場産業として発達した。それ以上に、理性と倫理性を説く孔子の中国思想が、理性を重んじた当時の中心思想である啓蒙思想にあい通じ、ドイツ人哲学者ライプニッツや、フランスの啓蒙思想家の大立者ボルテールらの哲学・思想形成に少なからず影響を及ぼした。


Q43 清朝の支配に打撃を与えたイスラーム教徒の反乱って何すか?

43A 問題文にはどんな時間設定がされているのでしょうか? もう少し設問の周辺の文章があれば特定できます。というのは清朝時代のイスラーム教徒の乱はたくさんあり、大きくは西方と南部でありました。甘粛丁国棟の乱(1648〜49、順治5〜順治6)、1781年(乾隆46)と1784年(乾隆49)の甘粛新教徒の乱、道光年間(1821〜50)に頻発した雲南回民の乱、1854〜73年(咸豊4〜同治12)の雲南回民、いわゆるパンゼー(Panthay)の乱、1862〜77年(同治1〜光緒3)の陝西・甘粛・新疆にまたがる反乱、そして1895〜96年(光緒21〜光緒22)の甘粛でのサラール族・回民の反乱がおもなものです。


Q44 「清の時代、銀は便宜上馬蹄形であった。」という記述がありました。この時代の銀は秤量貨幣として重量を一定にした通称「馬蹄銀」という形態での流通が一般的でした。「馬蹄銀」と一口に言っても重量、形状は様々であり一般の感覚の「馬蹄形」とは異なります。いずれも銀を精錬し、検定マークの極印を打ち込んだものでした。何故、馬蹄形にする必要があるのでしょうか。

44A 今ひとつハッキリしません。形の由来はどうやら製造過程と関係しているようです。
 小学館のニッポニカには以下のような部分があります。
 「清代には分銅形の中がへこみ両側の耳とよばれる部分が高くなって馬蹄形が多くなった。これは、坩堝(るつぼ)の中で銀を溶かし攪拌(かくはん)して皺曲(しゅうきよく)をつくり……」と。
 このつくり方にあるようです。さらに、上から製造所の印が押されていますが、この印を押すときにへこみができて周りが盛り上がるのではないか、と見ています。また重さを調整するためにハサミで耳にあたる部分を切り取るのにも便利だったのではないか……。推測にすぎません。もしもっとハッキリしたことが分かればお伝えします。


Q45 南京木綿ってなんですか?

45A  三角貿易の南京木綿は中国で生産されている綿布で、南京港から輸出された商品であることから「南京木綿 nankeen 」と呼ばれました。孫文が「三民主義」の中で土布(どふ、中国で生産された土着の布)と言っているものです。これが安くて強い布であるため、イギリスの綿布を中国人は買ってくれない。でかい中国市場に期待をかけていたのはマンチェスター(産業革命の中心都市)を主とする綿工業の人たちでしたからガックリしていました。貿易業者も綿布を売って、その代金で茶を買って帰るというわけにはいかなかった。それでアヘンの登場となったのです。この後のアロー戦争でえた、より多くの港の開放でも結局イギリスの綿布はこの南京木綿のために売れません。なんとか売れたのは綿布という製品でなく、綿糸という原料にちかいもので、この綿糸は、機械で作ったもののほうが強くもあり次第に中国原産のものより売れだします。


Q46 予備校では、乾隆帝の『広州1港に限定』も経済上の問題という従来の考え方に加えて、典礼問題の一環としても習いました。つまり、雍正帝がキリスト教布教を全面禁止した後、それでも宣教師たちは今度は商人・行商人の格好をして、なりすまして中国国内に入り、布教していたということから、乾隆帝は宣教師らの排外を徹底する意味合いもあり、広州一港に貿易港を限定し、かつ政府管理下の によって監視した、ということでした。おかしいでしょうか?

46A 宣教師の「商人・行商人の格好をして、なりすまして中国国内に入り、布教」は確かめようがありません。中央公論の最新版の解説書には広州一港に限定した理由を、慣習的に広州に来ていた外国船(一番の客は東インド会社船)は関税のほかに広州役人の手数料やつけ届けがばか高くて嫌になり、負担の軽い寧波の港に行ったりしたため、広州役人が訴えたのと、あちこちの港に外国船が自由に出入りするのは治安上よくないということで広州一港に限定した、と説明しています。


Q47 中国の関税自主権はいつ、何の条約で奪われたのですか?

47A 1843年の 虎門寨追加条約によってです。


Q48 上海の租界の支配は「フランス」とあったのですけど、いつイギリスからフランスへ代わったのですか?

48A 上海には各国の租界があり、イギリスだけもっていたのではありません。日本ももっていました。


Q49 この問題文は、「イギリスの進出のもとで、」と、句読点で区切られてはいますが、条件が、19世紀の印・中の歴史の推移という要求に付加されています。なので、清仏戦争・日清戦争・変法運動・義和団事件は、条件である、イギリスの進出のもととは言い難くありませんか。仮に上記の語句が必要ならば設問は「列強の進出のもとで」とあるべきだと思います。

49A たしかにそのような疑問を抱くのは自然です。ただこの条件はあくまで副問であることです。比重はイギリスにはなく、進出された側の歴史がどうなったのかが主問であり、イギリス進出史を書けとの要求ではないことです。両国に共通するイギリスの進出がきっかけ(契機)となって両国はどうなっていったのか、ということです。すべての19世紀の両国の歴史をイギリスとかかわらせよ、という要求の問題ではない、ということです。もしそうであれば、イギリスの進出は両国の歴史とどう「関係」したのか、という問題でいいはずです。もっとイギリスと両国が対等な関係史であれば、疑問のとおりでいいとおもいます。
 それでもしつこくイギリスと中国との「関係」を追求してみてもいいです。インドの場合はイギリスの植民地になりましたからイギリスの進出のもとにあることは明らかですが、中国の場合は明らか、と言うほどではありません。アヘン戦争・アロー戦争はハッキリしていますが。ただ教科書には書いてないですが、いくつかの事例をあげます。
 アヘン戦争以前のアヘンの流入・銀流出は前提としておきますが、この主たる国はイギリスです。これは教科書に書いてあります。
 1843年の虎門寨追加条約以来、イギリスの税関吏(海関の総税務司)が清朝の財政を滅亡まで牛耳っていました。中でも名高いのはハートというひとで、このひとは1908年に交代で帰国するまで1863年からこの職にありました。清朝の貿易の利益を吸い上げ、使い道をアドバイスしていたのはイギリスでした。またハートは事実上の清朝の政治顧問でもありました。清末には李鴻章と対立しましたが。
 太平天国の乱を鎮圧したのは事実上イギリス(ゴードン)でした。これがきっかけで洋務運動、つまり常勝軍をつくりたいという運動がおきます。洋務をあつかう役所として総理各国事務衙門 (総理衙門) が新設されました(1861年)が、 この新設衙門が軍機処などの従前の政治機構を超える地位を占めていきます。 洋務運動の技術の技師と機械はイギリスにたより、その経費は海関からきていました。総税務司ハートは総理衙門の下にいて使われる立場でしたが、実際はこの衙門(役所)から自立していました。
 香港島からはじまる香港形成が19世紀末まであり、このHongkongがアヘンの輸入・銀流出の相変わらずの基地となり、苦力の出発地でもありました。中国に対する最大の投資国もイギリスでした。投資対象はとくに鉄道です。鉄道は中国分割の最大の手段でした。それとともに鉄道附属地(Railway zone)という、鉄道会社が沿線で「絶対的かつ排他的な行政権」を有する区域の設定も認められていました。この附属地の鉱山・港湾の開発もやりました。清朝の借金した最大の貸し手がイギリスでした。
 清仏戦争・日清戦争の賠償金もイギリスを中心とする外国借款でまかないました。
 義和団事件に対する賠償金をあつめ管理・分配をしたのは総税務司ハートです。清朝は「洋人の朝廷」と皮肉られましたが、その洋人とはイギリス人のことでした。


Q50 アヘン戦争後イギリスは、中国に対して南京条約を結んで中国南部の港の開港などを認めさせるとともに、翌年の虎門寨追加条約で協定関税などをも認めさせ、中国に対する貿易の拡大を目指しました。しかしイギリスは、「戦後の交易でも…期待したほどの利益はあがらず、不満をいだい」た(『新課程詳説世界史』p.p.253-254)ためにアロー戦争を起こした、と教科書には説明があります。この部分は、アヘン戦争後にイギリスの機械織りの綿織物製品などが中国に流入したものの、中国ではあまり売れなかったので、これを打開するためにイギリスが中国への更なる戦争に踏み切ったことを意味した文であると小生は理解しております。
 しかし一方で、同じイギリスが植民地化したインドにおいては、よく知られておりますように19世紀前半以降イギリスの機械織綿布がインド製品を圧倒して、インドの綿織物手工業が壊滅的な打撃を受けております。
 こうした中国とインドの相違はどこにあるのか、すなわち、なぜインドでは国内の綿織物手工業が壊滅するほどにイギリスの機械織り綿製品がどんどん流入したのに、アヘン戦争後の中国ではイギリスの機械織り綿製品があまり売れなかったのか、その理由を知りたいというのが質問の内容です。

50A わたしはこの理由をつぎのように説明しています。
 インドではなによりイギリスはインド産の綿布に高関税をかけて輸出を阻止する政策をとったこと、また機械による大量生産品に手織りのインド製品は対抗できないこと、また征服した土地における綿織物工場を破壊したり、腕の良い技術者の腕を文字どおり切っていったり、などの理由で、インド綿工業を壊滅させた、と。『詳解世界史』に「世界に冠たる織物の町」として知られたダッカの人口は15万から3万に激減した。インド総督ベンティンクは、1834年「織工たちの骨がインド平原を白色に化している」と本国に報告している、という記事がのっています。
 中国ではインドのような征服戦争はできませんでしたし、なにより中国にはイギリスに対抗できる南京木綿(ナンキーン nankeen)があり、安価でもあったため、イギリスの商品を中国人は買う気もおこらなかった。綿糸という機械でつくった方が強くていいものができるので綿糸は次第に中国産を圧倒していくが、綿布は結局20世紀にはいっても勝てなかった、ということです。
 だいぶ前に読んだ本ですが、加藤祐三著『イギリスとアジア−近代史の原画』岩波新書にこうしたことが書いてあったはずです。


Q51 太平天国の乱に乗じてアロー戦争…とありますが教科書では両者の関係について書かれていません。アロー戦争の勝因に太平天国の乱は関係していたのでしょうか? あと太平天国の乱では清朝側に常勝軍として欧米の義勇軍が参加していましたがその中にはゴードンという英人も参加していましたが、一方で同時期にはアロー戦争で英は清朝と戦争をしていました。一方では清を助け、もう一方では清と戦争するということに矛盾を感じるのですがどういうことでしょうか? 

51A アロー戦争の勝因に太平天国の乱は直接的には関係していません。もともと軍事的な面で清朝は英仏に対抗できる状態ではありませんから太平天国がなくても勝てません。ただ内乱で困惑しているところを突いたという点は英仏に有利な状況であったでしょう。
 太平天国は1850〜64年で、アロー戦争が1856〜60年という風に間にはさまっています。太平天国をキリスト教的な運動とみなして天国側に参加した西欧人もいました。英仏全体としては中立の立場でした。しかし60年の北京条約で英仏の有利が確定し、そのことを太平天国側も認めるか打診すると、認めない、という回答だったので、中立を止めて弾圧という態度をハッキリさせ常勝軍を使います。


Q52 太平天国は中国的キリスト教とはいえないのでしょうか。だとしたらその理由は、短期間で勢力を失って根付かなかったことや、中国のなかでも異端視されたことにもとめられるのでしょうか。

52A いいえ。内容はキリスト教の影響(洪秀全をキリストの弟とみなす、偶像の否定、男女平等)を受けていますからキリスト教の面はもっていました。一方で中国的性格をもちつづけたのは君主政であり、井田法の復活をねらって天朝田畝制度を云々する点、エホバを上帝と言い換えたりするところです。側室を数人持つとかいうことも。


Q53 軍閥とは軍事産業の会社が国の機能を果たすような組織なのですか? 軍閥が各地に分立している状態とはどのような状態ですか? イメージがつかみにくいのですが……。

53A 会社ではありません。各地に派遣されている軍隊が独立した国のようになった場合をいいます。皇帝や袁世凱のような命令する人物がいなくなると、頭のとれた手足が自立して、実質地方の独立した支配者になり、徴税もして軍隊を養うのです。五代十国時代の節度使たちが各地で皇帝を名乗りだしたのも軍閥といいます。20世紀初めの軍閥は直接的には清朝の滅亡によりますが、起源をたどれば、太平天国の乱のときの地方の自衛軍(郷勇)にまでゆきつきます。湘軍・淮軍が起源です。


Q54 中国内閣は幹線鉄道の国有化を進め地方有力者は民営鉄道建設を進めたと教科書に書いてあるのですが幹線鉄道国有化によって生じる不利益とは何ですか? 国有化を猛反対する基本的な理由がいまいちよくわからないのですが。

54A 国有化は清朝に金がないからウソです。このあたりは拙著の『センター世界史B 各駅停車』で、「革命の原因は幹線鉄道国有化問題でした。西南部の郷紳(官僚出身の地方豪族・豪商)たちが資金をだして民営の鉄道にするはずが、清朝は金がないにもかかわらず国有化すると宣言したのです。実際には鉄道を担保に列強から借金するのが目的でした。この売国政策に対して民族資本家だけでなく、あらゆる階層が反対しました」と。用語集の「幹線鉄道国有化」の下に「四国借款団」とあるのが借金の黒幕です。


Q55 日清戦争の際に旅順虐殺事件が起こりましたがなぜ虐殺が旅順で行われたのか教えてください。後なぜ日本軍は虐殺をしたのかも教えてください。

55A なぜが二つ。第一のなぜは、日清戦争の最中に日本軍が兵士でない市民2万人を殺害したことを指しています。これは日本兵が戦死したことに対する日本側の復讐として行なわれました。第二のなぜは日本軍の特色に関する質問です。
 原田啓一著『日清・日露戦争』岩波新書に「1894年9月、大本営は旅順半島攻略のため第二軍を編成した。……11月21日未明頃から旅順攻撃を始め、正午頃には周囲の砲台等を占領した。午後以降市街と付近の掃討作戦が始まる。そこで捕虜や、婦女子や老人を含む市民を虐殺する事件が起きた。25日頃まで市街の掃討が続き、同時に旅順から金州方面に脱出しようとする敗残兵の掃討も行われた。これらを「旅順虐殺事件」と捉えるのは、戦闘と掃討戦の両方で、捕虜を取る意志がほとんどなく(計232人のみ、『戦役統計』)、軍人と民間人を無差別に殺害する例が多く、捕虜や負傷兵の殺害もあり敗残兵捜索のための村落焼き討ちも行われるなど、容赦ない残酷な戦闘であったことが、参加した兵士らや内外のジャーナリスト、観戦武官などにより明らかであることによる」と記しています(p.75〜76)。
 もっと具体的な様子は、一ノ瀬敏也著『旅順と南京』(文春新書)では、従軍した日本兵の『関根日記』を次のように引用しながら説明しています。

関根たち戦闘部隊が旅順を陥落させた翌22日、丸木は土城子から旅順市街地に入った。彼は「清の敗兵成るか身なりの様子では分からねど、捕縛され山景あるいハ畑中なぞニて首打たるる者数しれず」などと、旅順市街地及びその近辺での破壊殺裁の様相を丹念に記録している。彼自身、徴発(=略奪)に出かけた先の農家に隠れていた負傷清兵が逃げようとするところを「多勢かけきたり、メチャメチャに切り倒」したり、あるいは翌23日連行してきた清兵を「すぐさま中へ引入れ首はねたり」など、無抵抗の敵兵殺害に直接立ち会っている(p.99)。

 第二の疑問のなぜは、「虐殺」は戦争にかならず伴うものですが、とくに残虐性は日本軍の中世からの伝統です(藤木久志『雑兵たちの戦場』)。


Q56 三国干渉以後、列強が中国を争って分割しているなか、アメリカは大きく”出遅れていた”という表現が教科書にあり、この対策として国務長官ジョン・ヘイは「門戸開放宣言」を出し、ヘイの3原則「門戸開放」「機会均等」「領土保全」を打ち出した、と記憶しています。実際にこの3原則というのはそれぞれどんな内容なのでしょうか。山川の用語集では、この3つについては記述がないのです。

56A  門戸開放について……『高校世界史』という山川の教科書には「当時、アメリカは太平洋に進出し、中国市場への参加を欲していた。このため国務長官ジョン=ヘイは、1899年に中国の門戸開放・機会均等を、翌1900年には領土保全を各国に提案した。各国はこれに同意し、中国分割の手をゆるめたので、アメリカはでおくれていた中国市場への進出を実現することができた。」と書いています。
 日本史の教科書には「国務長官ジョン=ヘイの門戸開放提議を日本をふくむ列国に通告し、各国の勢力範囲内での通商の自由を要求した。」とあります。
 つまり米国は、政治的には領土を中国で得られない代わりに、それぞれの現存する勢力範囲を認めつつも、どこでも経済的交流は閉ざさないでほしい(これが門戸開放)、
 そして経済(貿易)上の壁(関税や港税、鉄道運賃面)にかんしてはどこでも平等なあつかい(等しい関税、運賃)にしてほしい(これが機会均等)、
 勢力範囲は認めるが、中国の領土にかんしてはこれ以上一切どの国も手をつけないでほしい(これが領土保全)。一国だけが中国(清朝)領のどこかをのっとって植民地しないでほしい、という呼びかけです。中国を一国で独占しないでほしいと言いたいわけです。
 これらの内容は、ワシントン会議(1921-22)の九ヵ国条約の中で、はじめて正式に成文化されました。しかし日本は満州国をつくり閉鎖的な経済をはじめたため、条約に違反したと米国が責めてきて対立が深まっていきます。


Q57 参考書によって義和団事件の発生の年代が微妙に違うんですが……1900年と1899の年のどっちなんでしょうか?

57A たしかに二つありますね。世界史では1899年、日本史や他の国では1900年とするようです。
 理由はこうです。
 反キリスト教運動である仇教(きゅうきょう)運動の団体である「義和団」という呼称は、1899年ごろ生まれ山東省からはじまります。つまりこの時点ではまだ列強とは対立していなくて、清朝との対決、いわば内乱です。義和団は太平天国のような統一的指導機関を持たない各義和団の集合体であったことも、いつからはじまったと言えるか正確に決まらない理由です。 
 1899年秋に清軍を破ってから、以後勢力は急激に増大するのですが、1899年の末に袁世凱の徹底した弾圧を受けて山東省の義和団は下火になり、1900年春に義和団は河北(北京市のある省)に中心が移ります。とうとう義和団は北京に入城して全北京市を支配下におくという状態になって、列強の軍隊との対決に入っていきます。一般に日本史では、この1900年からとし、中国史では1899年の発端からをいっています。


Q58 「鉄道敷設などの利権を獲得しようとしていた欧米諸国は、争って自国の勢力範囲拡張にのりだした」とありますが、鉄道を敷設することと「勢力範囲拡張」がどう結びついているのかよくわかりません。

58A 鉄道を敷いたところが勢力圏というのが当時の考え方でした。実際、鉄道を敷く権利とともに、鉄道周辺の土地・山・川(これを「鉄道付属地」といいます)を利用する権利も意味しましたから。鉄道の経営・管理だけでなく、沿線の鉱山・森林・商業・電信などの経営も伴っていました。税関を設けて関税をとり軍隊の駐留・輸送もできます。「満州では1906(明治39)年に関東都督府を旅順におき、ついで長春・旅順間の旧東清鉄道および鉄道沿線の炭坑などを経営するために、半官半民の南満州鉄道株式会社(満鉄)を設立した。(山川出版社『詳説日本史』)」


Q59 1900年頃の列国の中国分割は1921年の九ヶ国条約で解消されるのですか?

59A 解消されません。1942年の国民政府にたいして連合軍諸国が不平等条約の撤廃をしてからです。


Q60  清が滅んだのは1911年ですか? 1912年ですか?

60A 1912年です。辛亥革命は前年ですが宣統帝退位は翌年2月でした。


Q61 山川のp.309の14行目「国民政府は英・米の援助で……軍閥の力が弱められ……実質的統一はうながされた」なんでやねん!!!って感じです。

61A 軍閥が弱められたのは経済面です。銀を中心に流通している経済のところへ大恐慌がおこり銀という、それ自身が価値をもつものの取り合いがはじまります。中国の銀を外国(とくにアメリカ)が買い占めようとしたので、銀がなくなると中国の経済の信用はがた落ちになるため、銀流出を防止しなくてはならない。そこで一部(4大)銀行だけが発行する紙幣だけを唯一の通貨とし、銀の取引を禁止しました。銀を国有化し銀の流通を禁止します。この4大銀行は浙江財閥の銀行で蔣(外字なし)介石を支援している銀行でもあり、英米の援助も強力に行なわれたため、「法幣」による通貨統一は蔣介石中心の経済体制をつくりあげました。するとこれまで銀に頼り銀を使ってきた軍閥も一般庶民も、銀が使えなくなり、インフレから身を守る手段としての銀を奪われてしまったのと同じになります。これは軍閥の力を経済的に弱めることになりました。


Q62 北伐というのがありますが、なぜそれを始めたのですか?あと、北伐の後に国民党は共産党を弾圧したとありますが、国共合作はどうなったのですか?

62A 各地に軍閥と呼んでいる暴力的な親分たちがいて、これが中国を五代十国時代の節度使皇帝たちのように中国を分割し、その地方毎に税金をとって地方国家のような状態でした。これを破って中国をまとめ、政党政治の新しい政治体制をつくるには、これら軍閥を破る軍事行動(北伐)が必要でした。「北伐の後に国民党は共産党を弾圧し」ではなく1927年に上海クーデタで共産党を弾圧し、合作はつぶれ、翌年に国民党だけで北伐を完成した後は、共産党攻撃に専念していきます。


Q62 Z会の「実力をつける100題」で、「中国経済界の浙江財閥も、国共合作に終止符を打とうと蔣介石に圧力をかけた」という文があるのですが、なんで財閥が「国共合作に終止符を打とう」とするんかわかりません……。

62A これ時期的に北伐をはじめて上海クーデタを説明するところででてくる表現ですね。五・三十事件で労働者の力が示されただけでなく、その後も各地で労働者・農民の運動(ストライキ・土地略奪)がおきたため、産業・金融にかかわる人々が安全な都市に逃げ出すという状態になりました。とくに南の企業が上海に逃避してきました。それは中国経済全体の停滞につながります。共産党と組んで中国の統一をと望んでいた資本家も、これは「行きすぎ」と写り、北伐をやりながら共産党殺しを展開する蔣介石に期待し、浙江財閥は蔣介石に軍資金を提供しました。


Q63 「満州事変で日本軍は内モンゴルを占領した」とあったのですが、本当ですか? 地図を見ても内モンゴルまで侵略してなかったのです。あと、内モンゴル占領は内モンゴル全体という意味ですか?

63A いえ全体であるはずがありません。広すぎます。中国に近い東部だけです。日本国内では「満蒙」(東北三省に内蒙古東部を加えた地域のこと)は日本の「生命線」だと言っていたようにわずかですが侵略しています。


Q64 溥儀の「執政」って、どんな体制ですか。 

64A これは「元首」としたものもあります。首相でもいいのです。政権のトップの地位です。英語ではChief Executive とつづっています。世界史では他にローマのコンスルを執政官と訳したり、1795年のフランス革命中の統領政府(5人の統領)を執政政府と言うこともあります。日本史では「政務をとる人。特に(徳川時代の)老中。家老」を指すことで、ちょっと将軍・王・皇帝より低い地位をさしますが、その代わり、将軍より実務を行うひとだということになります。溥儀さんは、もちろん名前だけのトップですが。


Q65 1927年蔣介石が南京国民政府を立てた。とあるんですが、じゃー1912年に立てられた南京の中華民国はどーなったんですか?

65A 中華民国という名前だけは残っていても、都の南京に袁世凱は来ないで北京に居つづけました。北京で中華民国を廃止して新たな王朝づくりをはじめたのですが、それに失敗しました。そうすると中華民国は宙に浮いてしまったようになり、この後は各地の軍閥の政府と、この全体を表現する虚像の中華民国とが共存します。その中で、「1927年蔣介石が南京国民政府」もあります。外からは中華民国といいつづけ(それ以外に名前がいいようがないこともあり)、蔣介石が改めて南京に都をおき政府をつくったことになります。国の名前(中華民国)と実際(国民政府)に行政を遂行する政府とがかみあっていないのです。


Q66 山川の用語集に、張学良が「第二次世界大戦後、共産党政権の成立の際に台湾に逃れ、蔣介石から長らく自宅軟禁にされた…」と書いてあったのですが、張作良は紅軍と手を組んだにも関わらず、なぜ共産党政権を嫌がったのでしょうか?張作良はあくまで抗日意識が強かっただけで、共産党支持者ではなかったということでしょうか。しかし、台湾に逃れれば、(以前、西安事件の際に監禁した)蔣介石から何らかの報復を受けることくらい予測できたのではないか、と思いました。何故でしょうか?

64A 張学良は何も共産主義に共鳴していたのではなく、中国が日本にのっとられないように、共産党と組むことが必要だとおもっていました。というのは、蔣介石は共産党が心臓の病、日本は皮膚の病、とみなしていて、何より共産党を追放することが第一の課題とおもっていました。しかし張学良からすると中国人同士の戦いをつづけているとオヤジ(張作霖)を日本人に殺されたこともあり、日本がますます中国人同士の内戦を利用して領土を中国に拡大してくる、これはなんとしてでも阻止したい。ところが日本の恐ろしさを知らない蔣介石は反共の戦いばかりつづけている、という危機感から西安事件をおこしました。延安から周恩来に来てもらって3者の和解が、つまり中国人同士の国共対立は止めることにしました。このことを蔣介石は終生くやしがっていて、張学良を囚人として台湾に連れて行き、死後も息子の蔣経国にもうけつがれ、1990年まで幽閉されていました。張学良は2001年10月、ハワイにて100歳で死去しました。
 「蔣介石から何らかの報復を受けることくらい予測」……もちろんしていたとおもいます。ただし中国を救うためにはやむを得ないと覚悟していたのです。政治的なことは何時ひっくり返るか分かりませんし、またおもったよりひどい苦境においこまれることもあります。張学良は自分のしたこと(西安事件)を誇りにおもっていたはずです。代償を払わされましたが。しかし代償なしに大きなことはできませんし……。


Q65 「南京国民政府財政部長として、経済建設の中心人物となった、ハーバード大学卒業生」の名前は何ですか?

65A 宋子文です。用語集にはのっていません。わたしがつくった立命館用語集の現代版の3の42の番号に「28年11月の中国中央銀行の設立、中国中央銀行の総裁に就任したのは誰か。」と問い、答えが宋子文になっています。▲(立命館用語集で無視の印)を付けたようにだれも答えられない人名です。わたしのもっている事典には「妹の宋慶齢、朱美齢は各々孫文、蔣介石の夫人。国民党要人として財政部門、対米接渉の任にあたるなど、蔣介石政権の後援者であった。1915年(民国4)、ハーバード大学を卒業。1928〜31年(民国17〜民国20)、行政院副院長と財政部長を兼職。」とあります。


Q66 国民党を台湾に追放した中国共産党は、どうして香港からイギリスを追放しなかったのですか? 全中国の解放をなしとげたのであれば、容易にできたように思うのですが……。

66A 密約があったためです。1945年、日本の無条件降伏とともに、蔣介石はイギリスに返還を求めました。イギリスは合法性を主張して拒否しました。軍事的に蔣介石の国民政府が香港を占拠する前に、フィリピンにいたイギリス軍300兵が香港に入ってしまいます。国民政府は四川の重慶にいたこともあり素早いうごきは無理でもありました。実は香港の近くに中国人の大部隊1万2000兵がいました。共産党の「東江縦隊」です。ここで周恩来が「中英密約」を提案しイギリスが受けいれます。条件は、香港内における共産党の合法的地位と新聞、出版の自由、中国と香港の往来の自由、共産党幹部の武装許可などです。イギリス人数名がかつて共産党に救助されたこともあり受け入れざるをえない面もありました。ここに周恩来のイギリスを長期的に利用する案が成立しました。戦後の国共内戦のときにも、香港は軍需物資・医薬品・食糧を延安にはこぶ供給基地となります。この密約話は譚(たん)ろ(王偏に路)美(み)著『中国共産党 葬られた歴史』(文春新書)にのっています。この密約成立には、密約にとどまらず、中国共産党の内部抗争ほか、いろいろなものが含まれたできごとであったことが説かれています。


Q67 中華人民共和国史にでてくる「互助組」とか「合作社」ってなんですか?

67A 農業集団化の過程にあったときの段階的なグループ名です。誕生したばかりの中華人民共和国は地主が持っていた土地を農民に分配しましたが、小農(小規模農家、貧農といってよい農民)ばかりができてしまいます。人口の多さのためです。それで農作業を効率よく集団で行わせるため農家を「互助組」という組織にし、役畜・農具・家具を4〜7戸で共同使用することを進めました。土地の私有制は変えないままの協同組織です。それをひと回り大きい10〜40戸による「初級合作社」、さらに大きい平均160〜170戸の「高級合作社」に組織していきます。さらに58年頃から合作社をまたまた集団化して「人民公社」という3000〜5000戸のでかい村に仕上げました。


Q68 現代中国に関する疑問があります。教えてください。
(1) 党首席(現・総書記)、国家主席、首相はどのように役割を分担(?)しているのか。そもそも中国の政治体制自体がよくわかりません。
(2) 後継者に指名されていた林彪は何故毛を暗殺しようと計画していたのか。
(3) 毛は何故、反文革分子とされた人に対して糾弾大会を開いたのみで、スターリンのように銃殺するなどの措置をとらなかったのか。
(4) 中越戦争で一体誰が得をしたのか。

68A (1)学生からよく訊かれる質問のひとつです。
 党主席(首席でなく)(現・総書記)は中国共産党のトップ、国家主席は行政府のトップ、その下で実務をおこなうのが首相で、正式には国務総理(国務院総理)といいます。この国務院総理は、国家主席の提案(推挙)に基づいて全国人民代表大会(国会にあたる)が選出・決定します。
 国家主席が元首(大統領)にあたるのですが、実際は共産党のトップである総書記が国家主席を兼ねていて、最高の権力者です。江沢民は中央軍事委員会主席も兼ねているので、それこそ並ぶものののない地位です。
 中国の最高の行政機関は国務院(中央人民政府)であり、その構成は、国務院総理(首相)、副総理若干名、国務委員若干名、各部部長……とならびます。首相は全国人民大会に責任を負う責任内閣制になっています。
 共産党と行政府(国務院)との関係は密接です。国家主席も国務総理(首相)も中央政治局といわれる共産党の主要メンバーであるからです。共産党の実行組織として国務院があるといっていいでしょう。
 毛沢東もはじめは共産党主席と国家主席を兼ねて出発しました。ところが大躍進の失敗で共産党主席の地位はもちながら、もうひとつの国家主席の地位は劉少奇に譲ったことがありました。これが問題。二つの首ができてしまった。するといままで劉少奇はなんでも毛に相談してきたのが、毛におうかがいをたてなくなり、これを毛は我慢ならず、文革によって国家主席の地位をもぎとったのです。老害というやつです。この辺りの同志抗争は、『毛沢東の私生活』(文春文庫)がいちばん面白い読み物とおもいます。

(2)「後継者に指名されていた林彪は何故毛を暗殺しようと計画」はわたしも分かりません。毛沢東万歳ばかり叫ぶ林彪が大好きだったために毛は林を後継者にしたからです。わたしがもっている『毛沢東語録』の序文にも林彪の毛賛美がのっています。林彪ののった飛行機が撃墜されたというのも怪しく、先の『私生活』はあわてて飛び立ったため不十分なガソリンが切れて墜落したといっています。
 日本の中国現代史家たちによれば、「事件の基本的性格は、文化大革命期の軍官僚と党官僚・行政官僚の対立、という図式においてとらえることができ、林彪ら軍官僚は、その劇的な政治的・軍事的緊張のただなかで、ついに失墜せざるをえず、そうした政治的内戦の血なまぐさい結果が「毛沢東暗殺計画」として描かれているように思われる。」(中島峰雄)とのことです。

(3)「糾弾大会を開いたのみ」でなぜ銃殺でなかったのか、ということですが、この大会のあとに拷問がまっています。拷問で劉少奇が死に追いやられ、精神病になったものは数知れず、というのが現実であったことを考えると、それほど差がないのではないでしょうか? 拷問の具体例と、それを生き抜いた女性の『上海の長い夜』(原書房、上下。文庫は朝日文庫で出版)という記録は稀有の伝記でもあります。

(4)中越戦争で「得をした」のはヴェトナム側ではないでしょうか。
 というのは、中国としては、かつての皇帝政治の名残りとしてまだ周辺地域(チベット、新疆。北朝鮮など)に支配を及ぼしており、この戦争の結果、ヴェトナムへの影響力を失い、ソ連(当時としてはソ連)圏に入ってしまったことを認めたくやしい戦争であったにちがいありませんから。ヴェトナムとしてはこの戦争でハッキリ中国との断絶を言い渡したことになるからです。ヴェトナムからみれば、ベトナム戦争中からの中国の急速な対米接近と大国主義的政策に対する強い不信があったはずです。中国軍は近代戦に慣れたヴェトナム軍によって多大の損害を強いられ、自主的に撤退せざるをえませんでした。


Q69 中国の全国人民代表大会の『大会』ってどういう意味ですか? マラソン大会とかの「大会」とは意味が異なりますよね?
「機関」程度の意味なのかな、とは思ったんですが。教えて下さい。

69A 世界史でも1924年の国民党第一回全国大会を「一全大会」と略称して、出てきます。日本の国会にあたるのがこの大会です。それでいえば「機関」です。地方から積み上げてきて全国大会で決定するというやり方の意味をとれば、マラソンの全国大会とそう変わらないでしょう。スターリン批判のは「ソ連共産党第20回大会」でした。ペレストロイカでも「国内では、1988年にソヴィエト型民主主義が修正され、翌年複数候補者制選挙による連邦人民代議員大会・連邦最高会議制が実行され、90年には強力な権限を持つ大統領制も導入されて、ゴルバチョフが大統領に就任した。」と大会がでてきます(詳説世界史)。
 ある組織のもっとも重要な「会合」を意味し、それがアテネの民会のように三権を兼ねた大事なものであったように定期的な機関にもなっています。平凡社の百科事典では「全国人民代表大会」のことを「中華人民共和国における最高の国家権力機関。人民代表大会制度は、資本主義諸国における議会制度とは異なり、すべての国家権力を人民の代表機関に集中する民主集中制を採用し、三権の分立を否定している。つまり議事機関であると同時に執行機関でもある全国人民代表大会は,3級からなる各地方行政レベルに設置された地方各級人民代表大会の頂点に立つ。」とあります。
 なお http://www.moftec.or.jp/jp/china5_1.htm に詳しくこの機構の権限・経緯が書いてあります。


Q70 清の地丁銀制について、東京書籍「世界史B」に下記の記述があります(p.213 注釈16)。
 ……丁銀の廃止は国庫の充実を誇ったものであるが、人口増に比して耕地がふえないという現実に即したものだった。この「人口増に比して耕地がふえない」のならば、なぜ丁銀を廃止したのでしょうか。税収増を望む国家にとって、「丁銀廃止」は不利な政策ではありませんか。「丁銀を強化して、地銀を廃止する」ほうが理屈にあうと思うのですが…

70A 丁銀(人頭税)廃止といっても、富農には丁銀を地銀に含めて(組みこんで)払わせますから、完全な廃止ではありません。問題なのは小農・貧農の丁銀です。
 中国は大家族なので、一家に数家族も住んでいるという場合があり、5人の丁人(成人男子)が住んでいても全員が払うのでなく、2人だけ1人だけという事例があり、中には役人に賄賂を払って一切払わない家もありました。豊かであればあるほど賄賂が払えますから、貧農には加重になります。この不公平さが問題。貧民に丁銀を支払わせる傾向となり、不作の年には子どもを人買いに売らざるを得ないといった悲惨な状況に陥っています。
 丁銀の支払いを嫌がって逃亡する者もあり、すると土地がほったらかしになり収穫は得られず、徴税もできないという問題。
 逃亡しない場合、支払いができない農民は土地を売り、佃戸(小作人)になりますが、佃戸から徴税は出来なくなります。中国税制の基本は(大・小)地主に課税することですから、課税対象が減るという問題。
 18世紀はとくに清朝中国のベビーブームであり、次男三男の逃亡・移住先は周辺の辺境地や蒙古・チベットになり、漢人との民族的な衝突がおきやすい、という問題。
 以上のような問題があり、丁銀は廃止の方向に向かいました。税の軽減は必ずしも税収の減少とはなりません。重税のほうが没落(佃戸化)・逃亡がおき、かえって得るべき地銀が入ってこなくなる可能性があります。


Q74 アロー戦争の講和条約について質問があります。用語集を見ると、外国公使北京駐在は天津条約で定められたことになっています。しかし、センター過去問の2008年の世界史A追試で、外国公使北京駐在が北京条約で決まったという選択肢が正解になっています。どちらの条約で決まったのでしょうか。

74A 天津条約でいったん決まった事柄は、戦争が再開したため、改めて結び直しています。そのためです。天津条約に書いてあったことが北京条約でも再確認されたからです。じっさい天津・北京条約とくっつけていう表現もあります。

疑問教室・中国史〔元朝まで〕

中国史〔元朝まで〕問Qと答A

Q1 あるブログに、「鉄製農具の出現によって「耕地は従来の山麓の湧水地帯や氾濫の恐れのない河岸の低地から、広大な黄土平原に拡大された」この点で、中谷臣『世界史論述練習帳 new』(パレード)の資料編(p.176)の京大1991年に対するコメント「天水高地農耕→灌漑平地農耕」という指摘は、灌漑平地農耕への変化はいいとしても、その前を「天水高地農耕」とまとめるのには少々疑問……とあるのですが、「天水高地」はまちがいではありませんか?

1A そのブログと引用された文章は狭い見方ですね。「天水高地」は言い換えれば、旱地(乾地)農法による黄土台地(黄土高原)ということです。この広大な高原(標高約1000〜1500m)で、「湧水地帯……河岸の低地」だけで生きていけるかどうか考えたらいいのです。
 たとえば、「周の支配領域である華北の地は雨量が少なく、大規模な灌漑工事の行なわれる戦国時代までは、降水による水分を最大限維持して畑作を行なう旱地農法が主で」(堀敏一他著『概説東洋史』(有斐閣選書)の中の「中国古典文化の形成」(p.19)とあります。また「黄河の本流のほとりなどはとうてい人の生活のできる場所ではなく、黄河の支流に臨む小高い丘陵が選ばれた」(ニッポニカ「黄河文明」の項)のです。
 また中国人研究者の著した本には「古代の北方畑作地帯は、主として秦嶺と淮河以北の広大な領域を指す。この地帯の降雨量は少なく、その分布は不均衡で、常に旱魃の脅威を被り、これらの特色が、この地帯の土壌耕作の中心課題が保沢防旱であることを決定した。われわれの先人たちはこれらの特色を熟知し、長期にわたる旱魃との闘いの中から豊富な経験を蓄積してきた」(郭・曹・宋・馬共著、渡辺武訳『中国農業の伝統と文化』(農文協))と記して、土地に則した耕作・時期に則した耕作・作物に則した耕作と種々の方法を詳述しています。粟・黍という華北の作物は乾燥・半乾燥地帯に適した作物でした。「仰韶文化期の社会では、アワを主として、一部では稲や野菜を作る乾地農耕を行なう」(『アジアの歴史と文化1 中国史─古代』同朋舎出版、このシリーズは京大教授たちの執筆)。
 また黄土台地を畑としてつかったことが結果的に黄土を砂漠化したことを明らかにしたのが上田信著『森と緑の中国史』(岩波書店)でした(p.106)。
 これはなにも中国でなくても、日本でも西アジアでも、初めの農耕は天水・高地であることは常識的なことです。たとえば、「日本の灌漑」については、「水田開発がもっとも早く行われたのは、現在のような大河川下流部の平たん地ではなく、きわめて単純、小規模な、あるいは自然のままでも容易に引水しうるような谷間の小平地や山麓部であり、以後、時代が下るに従って平地に進出した。……天水や谷間の渓流を利用しての水田であったことが多い」(平凡社百科事典)。人類最初の農耕遺跡といわれるイェリコやジャルモも高地(標高約800m)にあります。仰韶文化の代表的な遺跡・半坡村は厚い黄土からなる台地の上にあります。これは東大の過去問もあります(1970年第3問)。教科書(詳説)では「初期農耕は雨水にたよる乾地農法であり、肥料をもちいない略奪農法であった」と“文化から文明へ”に書いてあります。


Q2 中国ではいつ頃から絹織物、綿織物を作っていたのですか? あと、毛織物は作ってなかったのですか?

2A 絹織物は仰韶文化のときからつくっていますから古い。中国はほんとに古くから絹の国なのです。
 綿織物は宋の時代からですが、政府が大々的につくらせたのは元朝のときです。北の寒いモンゴル人が中国の綿織物が気に入りつくらせました。また明朝の永楽帝が漠北親征のときにつくらせて兵士の寒さを防いでいます。絹織物とともに大衆的な商品としてつくりだすのは、明朝の後半16世紀からです。
 毛織物は動物の「毛」を編んでつくるものですから、毛織物のない人間の世界はないといってもいいでしょう。モンゴル人やインディオなどでも、かれらの歴史とともに古いでしょう。中国もいつとはわかりませんが、古くからあるようで、記録には南北朝からあります。唐代の実物が出土していますし、正倉院には唐や新羅製の毛織物が保存してあります。


Q3 「万里の長城」はほんとに「万里」あったのですか?

3A 始皇帝のころの長城は調査の結果では、約5000kmあったことが分っています。現在の1里=4000mで換算すると「万里」はなかったことになりますが。しかし始皇帝の時代は1里が400mです。「0」がひとつ少ないのです。これで計算すると約1万2000里になり「万里」であったことになります。


Q4 讖緯(しんい)説・五行説とむすびつく赤眉の乱は宗教的農民反乱とみなすべきですか、みなさないべきですか、また、農民の反乱といってよいでしょうか。

4A 一般には農民反乱ととるはずです。東大の教授たちが書いた新版の『世界史小辞典』にも農民反乱と書いてあります。宗教的かどうかは読んだことがありません。もともと海賊から始まってそれが陸の内乱に発展しているので宗教はないようにおもいます。なにかまとまった宗教組織とかかわるとはおもえません。


Q5 南北朝以前の大土地所有者への課税です。漢代のころから、徐々に大土地所有が始まっていくように思えますが、漢代に大土地所有を拡大していった者への課税は行われなかったのでしょうか。

5A もちろんあります。始皇帝の時代の過酷な税制(泰半の税は3分の2)を改めて、所有面積に応じた基本原則はずっとあり、地主に対して、平均して高祖は15分の1にし、景帝のときには30分の1、後漢になると、100分の1となり、結果的には豪族優遇税制であったということです。資産別でありながら、ほとんど意味のないくらい安いものだったようです。一般農民はこうした田租は安くても、算賦(口賦、人頭税)・徭役(兵役も含む)が加わり没落したようです。土地を借りている小作人は収穫の半分は取られましたから、いくら免税でもやっていけない。ここらあたりが豪族が大きくなる背景のようです。


Q6 「魏は後漢の正統な後継者をもって任じ、」とありますが、意味がわかりません。

6A 「正統な後継者」とは、三国に分かれて、それぞれが後漢の後継者を名乗っている状態があり(とくに蜀の劉備は漢をうけつぐ劉家、真偽は不明ですが)、禅譲の儀式をおこない幼い皇帝から皇帝の位を譲りうけたと。中国の支配者は一人でなくてはならないと思っているからです。他はまちがって皇帝を名のるケシカラン奴だと。


Q7 絹の道はいつ頃から繁栄しいつ頃まで続いたのですか? 張騫が契機となり甘英頃から繁栄したと思うのですが……

7A 張騫のときからは中国側としてはそうですが、もう少し前の戦国時代からあるようです。絹の需要が高いことを帰国した張騫が述べているのですから。13世紀のモンゴルの時代も栄え、16世紀の海の道の方に物資が運ばれるようになって衰えます。オアシス・ルートのことを日本では絹の道と言っていますが、絹は海路でも運ばれた商品なので、ビザンチン帝国に蚕(かいこ)が伝わり、西欧にも中世に伝わって絹織物の製造もおこなわれ(15世紀にジェノヴァ・ヴェネツィア、16世紀にフィレンツェ)、中国の絹の需要がなくなります。しかし中国の絹織物は技術的に高いため高級な貿易品としては18世紀くらいまで取引されました。


Q8 後漢末から地方の豪族が力をつけはじめたのはなぜですか?

8A 農民反乱に中央政府がどうすることもできないため自衛しなくてはならなかったことが一番大きいでしょう。各地に強大な私兵をもつ豪族が割拠しました。中央政府は宦官と外戚の争いに明け暮れていたことが、この背景にあります。


Q9 中国の三国時代の時代に、魏について教科書には「司馬炎が国をうばった」とあるのに、晋は魏帝から禅譲をうけたと書いてあるのですが?

9A 司馬炎が国をうばった、が実質で形式的に「禅譲をうけた」という儀式をします。つまり同じです。


Q10 スキタイはイラン系、柔然はモンゴル系、突厥はトルコ系とは言いますが、そもそもイラン系、モンゴル系、トルコ系の定義とは何なのか? 何をもって何「系」と判断しているのでしょうか? 

10A たしかに「系」は漠然とした表現ですね。基本的には、遊牧民の「支配層の民族出身」から言う表現です。支配層という限定をするのは、その下にいる支配されている民族は、いろいろあると考えられるからです。蒙古高原の支配は、匈奴からはじまり、鮮卑、柔然、そして突厥・ウイグルとつづきますが、匈奴の後に鮮卑が支配層になったということであり、それ以前の支配層であった匈奴がまったく居なくなったのではなく、鮮卑族の支配下に匈奴は居るのです。民族がごっそり居なくなることではありません。6世紀からトルコ系の突厥が支配することになったとしても、その下にそれまでの多くの民族は残っているのです。
 たとえば元朝のとき漢人と位置づけられたなかに、それまで華北を支配していた契丹族や女真族が漢人とともにいました。国はなくなっても民族は生き残っています。13世紀にモンゴル人の帝国が蒙古高原からはじまってできますが、実はモンゴル人というのも蒙古族の一派(部族)にすぎず、他にオイラート、タタール、オングート、ケレイトなどと種々の部族がいたのですが、モンゴル族のチンギス=ハンによって部族間戦争の決着がつき統一を実現したので、すべてがモンゴル人の支配下にはいると、以後、モンゴル帝国と呼びならわしています。さもすべてがモンゴル人であるかのように。
 また「系」を印欧語族という表現の代わりに印欧系と言います。これは「系」の前の名詞で語族を表していることが分かるはずです。双方まぜている場合もあるでしょう。


Q11 均田法にかんして豪族に優遇したものではない、というのは分かりますが、この場合、豪族というのはどういったものなんでしょうか? たんに大土地所有者というイメージしかありませんが。

11A 荘園という広大な敷地に屋敷をかまえ、周囲に高い垣をもうけ、そのまわりに深い堀をめぐらします。さらにそのまわりにこの豪族たる地主の土地・畑が広がり、そこには地主に頼る農民の小屋がたっています。大豪族になると、この土地の中にいくつもの山や川が流れています。穀物・野菜など多くの農産物が栽培され自給自足ができました。また牛・馬・羊・豚・ニワトリなどが飼われています。手工業もあります。酒・醤油・砂糖・染色・機織りもでき農具も兵器もつくりました。多くの農民・職人がここに住んでいました。数万人という農民・奴婢をかかえた豪族がいました。これを守るための私兵も養っています。いずれ後漢末期の騒乱時には、この私兵軍団が大きくなり400年の分裂(魏晉南北朝)のもととなります。こうした豪族がゆっくり育っていくのが後漢時代でした。


Q12 「華北仏教は鎮護国家的性格が強く、……」とありますが、『鎮護国家的性格』とはどんなんでしょうか。

12A これは異民族王朝(とくに北魏)が漢人を支配するさい、仏教の平等・平和の考えを利用して支配思想とした、ということです。鎮護国家(思想)とは、乱をしずめて外敵・災難からまもる役割を仏教がはたすという考えです。北魏が漢人のみなさんを守ります、と宣伝しているのです。そのため僧侶も政府の保護にこたえて、国を守るための法会(ほうえ)や祈祷(きとう)を行います。雲崗石窟・龍門石窟をつくったのも、ときの皇帝の顔に似せて彫り、皇帝即(そく)如来(にょらい)といって仏を拝むように皇帝も拝ませる、と支配のために政府は利用し、仏教側も利用されることで国家とむすびつき、廃仏を逃れようという魂胆です。こういう権力にすりよることを否定する仏僧もいました。ただ北魏の仏僧は「すりよる」性格をもっていた、ということです。


Q13 中国で、たとえば隋の楊堅っているじゃないですか? この人は文帝とも呼ばれてますよね? この、別名みたいな、〇帝や〇宗とかも関関(関西学院大学・関西大学)には問われるのですか?

13A 問われます。とくに魏の文帝(曹丕)と隋の文帝(楊堅)はカッコの中だけで出すとすぐ分かるためにわざと文帝という謚(おくりな、死んでから付ける名前)で出ます。たとえば、関学の次の例のように。
 隋の文帝の時に施行されなかった事項はどれか。
 a.科挙制 b.均田制 c.府兵制 d.囲田制(解答 d)


Q14 教科書の唐のところで、三省の中書省・門下省・尚書省が書いてあったのが、明になり「中書省の廃止」ということが唐突に書いてあります。門下省や尚書省はどうなったのですか?

14A 教科書はどこの出版社であれ、系統だった説明をしている歴史書ではありません。ポツポツとその時期ごとの重要事項を羅列しているだけです。こういう質問がでても不思議ではありません。途中の宋や元の時期はどうだったかを省いたためです。宋のところで「宰相の権限を分散して、軍事・行政・財政のすべての政策決定権を皇帝がにぎる君主独裁政治」と説明している(第一学習社の『世界史B』)ものはありますが門下省・尚書省のことに言及しない点は他の教科書と変りません。元について「元は、中央に中書省(行政)……、地方には中書省の出張機関として行中書省を置き」と書いている教科書(三省堂の『詳解世界史』)もあります。宋になり貴族がいなくなると貴族の牙城(がじょう)であった門下省の存在意義がなくなり、中書省に吸収されてしまいます。名称も中書門下省となり、その長である宰相を同中書門下平章事(どうちゅうしょもんかへいしょうじ)といいます。尚書省は元のとき廃止されます。明清のときも尚書省はなく、六部の長官を尚書といいました。したがって明の中書省廃止は三省の廃止を意味し、三省のしごとをぜんぶ皇帝がひとり担うことになります。忙しすぎるので永楽帝のとき内閣大学士をおきます。
 唐 中書省 門下省 尚書省──六部
 宋 中書門下省 尚書省──六部
 元 中書省 六部
 明 六部


Q15 都護府と折衝府はどうちがうのですか?

15A 唐代の都護府は辺境においたもので、折衝府は国内の軍事訓練の場所です。


Q16 唐の貴族に課税はあったのですか?

16A 農民には租庸調ですが、といって貴族に免税特権はありませんでした。貴族に地税・丁税がかかります。農民への租庸調が国家の主たる税ですが、農民にも地税・丁税が同時に課せられていました。このあたりは教科書・参考書に書いてないことですね。租庸調よりは軽いものではあったようですが、いずれ租庸調が崩れてくると、この二つの税が顔を出してきて、両税法となります。
 以下は、『世界歴史事典』平凡社(昭和31年版)の隋唐時代の税制の項目にありました。

 隋開皇5年毎年秋に戸ごとに粟黍1石以下を出して義倉(凶作のときに無償で配布するための貯え)を維持させることとし、ついで16年改めて州県に社(村落)倉を設け、各戸より上戸は粟1石、中戸は7斗、下戸は4斗を限度として納めさせ、これを貯えて凶歳の賑貸に備えることとしたが、唐でも太宗の貞観2年(628)同じく義倉を設けその維持のために、今度は「青苗の畝頃(耕地面積)」をはかって毎畝2升の粟か麦か稲かを徴した。のち商戸や田無き戸からも9等の戸等に応じて5石から5斗(下戸は免除)を徴した。これがしだいに義倉米の意味を失って地税という政府の正式の税収となってきた。……特別会計に属するものであったが、ところが一般会計ともいうべき租庸調による収入が国家財政を賄えない状態になると、ようやくこの2税(地税・丁税)が一般会計にくり入れられ、やがて租庸調とその位置を転倒するにいたった。すでに有名無実の存在と化してしまった租庸調を廃棄したのが、一般に徳宗の建中元年(780)における両税法の発布として理解されている改革である。(引用終了)

 義倉を設ける必要は、農民の余剰分はほとんど取られてしまうくらいだったので、一度凶作にみまわれると餓死・逃亡・盗賊化・反乱があいついでおこる危険性があった、という厳しいものであったためでした。耕地面積をはかって、というところが両税法の資産別と同じです。


Q17 山川の教科書には『白楽天は唐末の詩人』と書いてあって、山川の資料集には『中唐の詩人』とあったのですけど、どっちなのでしょう? あと、盛唐はいつですか?初唐?中唐?唐末?

17A 初唐は高宗まで、中唐・盛唐は玄宗皇帝のころ、安史の乱の終わった以降は唐末とすることが多いですが、それほど固定した時代区分ではありません。だから白楽天が双方で書いてあってもまちがいとはできないでしょう。安史の乱以降のひとなので唐末が一般的でしょう。時間的には乱は755〜763年で唐のど真ん中ですが。


Q18 鎮市ではなく、よく「鎮・市」と中点がふってあるが、「鎮」と「市」はそれぞれ別のものですか? 草市は草市でひとつなのか?

18A 鎮も市も州県の下にくる半公認の地方行政区です。もとはいえば唐末からの経済発展の結果でてきた新しい地方町です。分けて、鎮とも市とも言います。まとめて言ってもいいわけです。草市は「粗末な地方の」という形容で、行政区でなく、漠然と呼んだ形容なので「草市」は「草」「市」と分けることはできません。この草市が大きくなれば鎮や市になります。
 『詳解世界史』では「定期市はいたるところに設けられ、草市が発達して鎮・市とよばれる郷村の小都市が数多く出現した。」と書いています。『詳説世界史』でも「さらに地方には小規模な交易場の草市が発展し、鎮・市とよばれる小商業都市も発生した」と表現しています。
 州──県──鎮・市←……草市


Q19 漢時代の市と草市、宋時代の市・鎮と草市は同じ名前で別物ですか。

19A 別物です。「市」はいつの時代でも「市場 market」を意味しますが、これは都市のなかの一ヶ所に集中している市場です。つまりは役人に管理されている市場です。「草市」の「草」は「地方の」「粗末な」という意味です。漢代の草市は地方の末端行政区分の「県」のなかにある市場を言ったり(これも管理されています)、ときに県城の外にできた城門外の臨時の市を草市と呼んでいます(これは管理されなかったみたい)。唐末五代からは役人の管理がなくなり、「市」はどこでも店が並べば市場になり、もう一ヶ所に限定された場所ではなくなります。また「鎮」「鎮市」はもともと唐末から節度使(藩鎮)たちが割拠したとき、地方の軍事、商業の要所に軍事基地(鎮)をおいたものが経済的に発展したものです。明らかに唐末五代から登場した新しい都市です。景徳鎮などのように今もその名をのこしているものがあります。唐末五代の「草市」は商業経済の発達によって地方農村に無数の市が発生し、それらぜんぶを総称して草市といったそうです。具体的にある特定の市場をさしていない表現です。ただ入試上は漢代の表現は出ませんから、内容的には唐末五代のだけでいいのです。役人の規制がなくなり、あちこちに市場ができた、と。


Q20 貨幣経済が普及するとどうして貧富の差が出てくるんですか?

20A 貨幣経済でないときの取引は物々交換です。物々交換だと、取引は小規模で利益も大きくありません。ところが貨幣で取引するともののやりとりは活発になります。交換の手段としての貨幣が物と物の交換をスムーズにしてくれるからです。物々交換だと、欲しいひとをさがすのが大変です。ところが貨幣経済の場合は取引がさかんになり、経済が活況になると、だれでも利益をあげるわけではなく、富の配分がかたよるのです。一様に貨幣が平均にまわる、ということは難しい。失敗するひとたちもたくさんできます。だまされるひとも多くなります。賢いひとほどもうけが大きい。豊かになるときは平均して豊かにならない、というのが人間社会の避けられない法則のようです。


Q21 労役とは具体的に何をさせられるのか? 

21A 唐代を例にとれば、租庸調の「庸」は中央政府にかんする労働奉仕で、20日間と決まっていました。仕事がないときはそれに代る納税(布・絹)をしなくてはならず、ときに留役といって30日を限度として、つづけて働かされることもありました。中央の役は正役ともいいます。プラスアルファの「雑徭(ぞうよう)」は地方の労働奉仕で、その内容は40〜50日の門夫の役(門役ともいい門番として、城門・倉庫門の出入りを守り、監視する)、水手(すいしゅ、橋梁の番兵や船こぎ)、駅家(関所のしごと諸々)、防閤(ぼうこう、役所の守りと貴族・役人の身辺護衛)、庶僕(しょぼく、いろいろな雑務)、白直(はくじき、当直・宿直・巡回)、貴族・官人の身辺雑務にあたる士力(しりき)・執衣(しつい)など召し使いのしごとです。なにか雑徭の項目を見ていると、貴族の「こらあーッ」、庶民の「へい」という声が聞こえてきそうです。
 雑徭という労働ができない場合は代償として課税されます。逆に租調が納められない場合は、すべてこの庸・雑徭に換算して働いても良かった。その場合、年間150日分になり、国家のために150日もただ働きをしなくてはならなかった! 日本でもこうした労役を経験することはできます。犯罪を犯して、懲役何年と判決が下ればいいのです(^^;)。


Q22 宋代の士大夫と形勢戸の違いがよくわからないので教えて下さい。

22A 士大夫は科挙を受験しようとする知識のある人、受かって官僚になったひとです。形勢戸はたんに経済的に豊になった新興地主の意味です。科挙とは関係がありません。ただ科挙の勉強は大変なので長い時間がかかり、たいてい形勢戸のような豊かな家のおぼっちゃましか受験勉強はできないものですから、形勢戸の子弟が受験して士大夫になります。受かれば形勢官戸という名でよばれたりします。ただし形勢戸の家の子はみな優秀であるはずはなく、形勢戸イコール官戸ではないし、士大夫でもありません。


Q23 どうも新法の募役法がよくつかめません。労役をしてくれる人にお金(山川の用語集でいう雇銭)を払ったら、何の利益も残らない……?

23A  農民が担当しなくてはならない役(えき、労働して払う税のこと、お金の税金以外に必ず払わなくてはならないものだった)は負担が重く、破産する農民も多かった。そのめための農民救済法です。というのは、税としての米を運ぶさいその運賃を払ったり、自分で運ぶとすれば、役所のある都市までの費用・宿泊費も負担しなくてはならず、ときに役人に必要以上のお金を用意しなくてはならない。税としての米を決まった額だけ集めれなかったらその分を自分が負担しなくてはならない。その間の農作業は休まなくてはならない。また土木工事にもかりだされるが、その間の食費も自分で用意しなくてはならない。治安は住む村・町の犯罪調査告発・見回りなど警察のしごとです。もちろんこれをやったからとて国から給料をもらうわけではない。
 そこで、役を基本的には農民からとらないことに(免除)し、その代わり、ある程度のお金を払わせてお役御免にし、役をやってくれる人民を募って給料を与える方式に改めます。運搬・土木などを、たいていは失業しているものが応募して担当したので仕事を与えたことになります。また役のもともと免除されている偉いさん(官戸=たいていは地主、寺観=仏教の寺、道教の寺を道観といいます、他に住所の定まらない商人)などからも助役銭を徴集して、給与の財源にあてます。差引ゼロになったとしても、運搬・土木・治安のしごとははかどります。農民の没落を防げます。三省堂の教科書『詳解世界史』の注には「募役法(徭役免除の特権をもつ官吏や僧侶らには助役銭を、一般農民には免役銭を課し、それを財源として労役に従事する人を雇う策)」と説明してあります。


Q24 五代十国・金のときは科挙はどうなっていたのですか?

24A どの時代も実施しています。五代十国時代は武断政治といわれますが、軍人の危なさを軍人出身の皇帝たちほどよく知っており、集権的官僚制をつくりあげるべく、文治主義を徹底しようとしました。皇帝が節度使出身であるために「武断」と言われるのであって、官僚制は文治主義なのです。宋代の歴史家が五代の武人支配を必要以上に悪しき時代として描いたことから野蛮な時代のイメージがつくられました。この科挙によって新興の地主・富豪・豪商たちの子弟を吸収しています。しかしこれは華北の五代政権に該当しますが、中部・南部の十国では、あまり科挙は実施されませんでした。難民として南下してきた唐代の貴族の子孫、儒者たちを積極的に採用したため科挙が必要なかったといわれるくらい文治主義的だったためです。
 異民族の遼金でも科挙は実施されています。遼で50回以上おこなったとの記録があり、1036年には殿試も加わり、四試制となっています。宋より早く殿試が行なわれています。というよりまだ北宋が成立していない段階ですね。漢人のための試験であって契丹族は別でありながら、いずれ西遼(カラ=キタイ)を建国する耶律大石が1115年に受験して合格し、進士となっています。金では36回行なわれたことの記録があります。ここも猛安謀克の女真族は受験対象外です。異民族が漢人を文官として採用するための試験としてあったためです。しかし女真族のための科挙が設けられたときもあります。


Q25 なぜ西夏は征服王朝に入らないのですか?

25A 征服王朝の定義は故地(北アジア地域)と中国領の双方をもつことと、二重統治の体制をしいたことにあります。西夏がもっていた甘粛省の地域がいつも中国領だったわけでなく、漢唐のときくらいだけで、また二重統治体制をとった訳でもないことから征服王朝としません。


Q26 『燕雲十六州を遼に譲ったのは五代後晋』とあったのですけど、後晋は三代じゃないのですか?

26A 中国には王朝名が教科書に書いてある以上にたくさんありますから、区別するために、五代十国時代の後晋ですと説明的にいっているのです。たとえば戦国時代にも魏という国があり、三国時代にも魏という国がありました。この場合、三国魏という言い方をすれれば、三国時代の方の魏なんだと分かります。戦国魏、といえば戦国時代の魏となります。


Q27 ワールシュタットの戦いと、バトゥがオゴタイが死んだので引き返した時の戦いって違うものなんですか?

27A バトゥの本軍は先ずハンガリーに進撃し、副司令官スブタイが指揮する別働隊にポーランド方面(ワールシュタットの戦い)の進出を任せます。その後、この本軍と別働隊の両軍は合流しブダペストを陥落させました。その後で1242年の冬にオゴタイ=ハン(41年に死去)の訃報(ふほう)が伝わってきて全軍が少しずつ帰還していく、という順です。


Q28 科挙が元の時代の何年に廃止されたのですか。

28A 元朝のはじめから実施していないので、廃止された年代というのはありません。復活したのが1315年です。これより過去をたどれば、南宋(滅亡が1279年)で1274年、当時北を支配していた金(滅亡が1234年)で1230年がさいごの各王朝の科挙です。どれもモンゴル人に滅ぼされる直前まで実施していたことになります。


Q29 元朝において、科挙により選抜された人々は、どういった職に就いたのでしょうか? また、科挙に合格する意義のようなものとは、どういったものなのでしょうか?

29A 官僚(役人)です。科挙は官僚になるための試験ですから。官僚といっても、はじめはたいてい地方官をつとめ功績をあげれば中央にとりたてられます。科挙の試験の成績が抜群であれば、はじめから中央の官僚という場合もあります。元朝のときに科挙に合格することは、世襲制でしたから子供にじぶんの地位を受け継がすことができ、一族の繁栄を保証します。もちろん元朝が存在するかぎりのことでしたが。合格しても官僚になれるかどうかはコネ次第でした。


Q30 教科書「新世界史」p.151の5〜8行目に「元は南宋を滅ぼし(1279年)、チベット・朝鮮を服属させた。さらに日本・ヴェトナム・ジャワ・ビルマ(現ミャンマー)にも遠征して威信を示し、服属関係におこうとしたが、これらの遠征は失敗した。」とあるんですが、山川用語集の“フビライ=ハン”の項目(p,83)では「……ビルマを服属させ……」と書いてあるんですが、どちらが本当なのでしょうか?

30A どちらも本当です。少し説明が必要です。引用された『新世界史』の説明はまちがいとも、まちがでないともとれる曖昧な表現です。まず「ミャンマーでは最初の統一王朝パガン朝が、13世紀に元の侵入をうけてほろんだ。」(『詳説世界史』)ことを確認しておきます。これは他の教科書も同じです。『新世界史』はハッキリ書いていませんが。
 この後のビルマはどうなったか、というとシャン人勢力がパガン朝の滅亡した後のビルマの実権をにぎり、元朝に服属します。これを用語集はとっていると好意的にとっておきます。滅ぼした王朝のことを書いてないのは片手落ちですが。しかし他の民族(ビルマ人・モン人・ヤカイン人なども)が抗争をつづけ安定した統一政権をつくれないままでいました。つまり16世紀のトゥングー朝までです。


Q31 山川の教科書のp.93に元代の文化の説明があるのですが、公用語にモンゴル語を使用したのに公文書にウイグル文字やパスパ文字を使ったのは固有の文字がなかったからですか? あと、どうして上のような文字を代わりに選んだのですか?

31A 言語と文字はちがいます。推測は正しく、初め「固有の文字がなかったからです」。後になってモンゴル文字を作成します。他の民族の文字をつかって自分たちの言語を表記していたのです。とくにパスパ文字は使いにくく、作らせたもののほとんど使わなかったようです。官僚として仕えさせたウイグル人(色目人の中心)の文字を一番使ったそうです。


Q32 「宝鈔」という紙幣は元朝でも発行されたのでしょうか? 教科書では元が交鈔、明で宝鈔とありますが?

32A 発行されました。多くの教科書にのっている紙幣の写真の上のほうを見ると「○○○○宝鈔」という字が見えるはずです。「宝鈔」も交鈔のひとつです。『日本大百科全書』の「交鈔」の項には「元は金の制度を受け、1236年以来交鈔を発行した。中統元宝交鈔(10文〜2貫文)、至元通行宝鈔(5文〜2貫文)はその代表である。……明も元の制を受け、大明宝鈔(100文〜1貫文)を1375年に発行した。(斯波義信──山川出版社『新世界史B』の著者のひとり)」とあります。ここには交鈔(総称)として「交鈔」と「宝鈔」が並列されています。「中統元宝」「至元通行」は一般に省略して言うのは慣例(省略表現は京大東洋史辞典にもあります)としてあり、大明を明と省略するのと同じです。『平凡社世界大百科事典』につぎのような記述があります。カラ・ホトの項に「西夏、金、元の貨幣や元の紙幣である宝鈔も見つかっている。(岡崎 敬)」、交子の項に「なお、中国の紙幣は交鈔のほか元・明・清に流通した宝鈔が知られる。(草野 靖)」とあります。省略表現としての宝鈔の例です。


Q33 元時代、元曲を作ったのは当時失業していた儒学者ですか? なんでそういうひとたちが作ったものが流行るのですか?

33A それは適切な説明ではありません。科挙に受かっていない知識人(読書人とも士大夫ともいいます。受験生とも言えます)です。脚本を書けるには文字の読み書きができないといけませんが、だいたい文字の読み書きができるのは限られた人でしたし、脚本はある程度過去の歴史を知らないと書けない。科挙の受験は3年に1回しかありませんから1回失敗したら3年後ということになり、また何度も失敗すると諦めてしまい、塾の教師をしたり、このように脚本書きになったりしました。受験する人たちはだいたい豊かな家の子弟でもあったので、暇仕事でもありました。50歳、60歳になっても受験していた異様な世界です。受験も一種の事業のような、宝くじのような感覚だったのでしょう。当たれば大もうけできる。3年間地方官を勤めたら孫の代まで食える、といわれるくらいワイロが入りました。


Q34 高校の授業で、交鈔の乱発について皇室がチベット仏教に傾倒したことが原因のように聞きましたが、実際元朝は国が傾くほどのお布施をしたのでしょうか? 

34A ラマ教というのは「ラマ(僧侶)」という意味が示すように僧侶中心の宗教です。僧侶が非常にいばっている、あらゆる点に口出しをし、金を巻き上げていくという宗教です。大規模な法会を行い、国家経費の3分の2はラマ教への布施にあてられたようです。


Q35 2009年の東大世界史第1問
・東アジアについて書く際に日本におけるキリスト教弾圧も書くべきか
・儒教を宗教とみなしてもよいか

35A もちろん東アジアの中に日本も入りますから書いて良いです。
 儒教も宗教です。典礼問題が知られているように、典礼とは上帝(中国人が考える宇宙の神)・孔子・先祖を崇拝する儒教の儀礼です。村上重良著『世界の宗教』 (岩波ジュニア新書) に、原始宗教から三大宗教、儒教・道教、ヒンドゥー教にジャイナ教なとど宗教して儒教をあげています。


Q36 東大2007-1の解答に「江南の士大夫文化を支えたこと」とありますが、「文化を支える」とは具体的にはどのようなことをいうのでしょうか。

36A 江南という穀倉地帯に集まった士大夫(読書人・官僚層)は形勢戸という新興地主層でもありました。かれらが宋代以降の文化の担い手でした。朱子学を構想して普及させ、詩・詞をつくり、書・画・散文をこなし、青磁・白磁を楽しむひとびとです。


Q37 魏の時代、九品中正の本来の目的が果たされず、地方豪族が高級官僚を独占した状態、いわゆる門閥貴族の形成を憂い、「上品に寒門なく下品に勢族なし」という言葉ができたと聞いております。一方で、魏の屯田制・西晋の課田法・北魏の均田制はいずれも、地方豪族による大土地所有化に伴い自作農民が没落・流民化したことに対して、治安維持・徴税・徴兵などを目的とする改善策であったのだろうと思います。もしこの推測が正しいとするならば、地方豪族の台頭を促進させている九品中正を隋代まで待たずとも早めに廃止すれば良かったのではないかという疑問が生じました。何か廃止できない理由でもあったのでしょうか?

37A 初めの「地方豪族による大土地所有化を抑制しようと九品中正を制定した」がまちがいです。九品官人法(これが九品中正より正しい表現です)は大土地所有を抑制するための法ではありません。黄巾の乱以降に埋もれた文人たちを魏という曹家という文人一族が掘り起こしたいと意図して始めたものです。
  次に「魏の屯田制・西晋の課田法・北魏の均田制はいずれも、地方豪族による大土地所有化に伴い自作農民が没落・流民化した」もまちがいです。これらの政府による土地分配政策は成功していて、それぞれの王朝の経済基盤になりました。この土地政策はあくまで王朝政府が抑えている公有地で行っていて、豪族=大土地所有者の土地に対して実施したものでなく、それらは放置して公有地でおこなったのであり、豪族とは無関係です。というか豪族がこれ以上農民の土地を取り上げないように政府が管理している土地だけで実施したものです。もし青木の実況中継にある、これらの土地政策が豪族に有利だった、という邪説をもとにしてたら青木に依拠しないように警告しておきます。
 末尾の「地方豪族の台頭を促進させている九品中正」は「台頭」させているのは土地のほうでなく政治に関わるようになった、という意味でなら正しいです。
 土地政策(均田法)が隋唐まで続けられたが、則天武后の時代から傾きだしたのは、人口の増加が原因です。政府が管理している土地では増えた人口に合わせて土地を分配できなくなったからです。魏の屯田法の頃の中国全土の人口は約500万人です。つまり土地は余っています。唐初には5000万人に増えています。

 

山川か東京書籍か

山川か東京書籍か

 教科書の良し悪しを判断するといっても、ここでは受験参考書の一つとしてどちらが良いか、という観点から判断するのであって、歴史叙述のあり方を問題にするわけではありません。
 また受験用にどちらか、ということであり、その場合どの大学に適合するのか、という観点も必要です。千差万別の大学の入試問題をここで網羅することは出来ません。そこで観点を東大に絞ります。そうすれば、東大タイプの問題でない他の出題のあり方からは、ちがう教科書の方が良い、という判断も出てきます。

 それと東大には東京書籍の方が良い、という評判があるので、いろいろ調べてみても、なぜ東京書籍が良いのか根拠を示したものはなく、良いらしい、という評判の評判しかありません。
 特にこの東京書籍を薦める論述の参考書としては山下厚『東大合格への世界史』(データハウス)があり、その引用した文章も含めて何も推薦する理由にならないことを明かしています(http://www.ne.jp/asahi/wh/class/goukaku_critic.html)。このわたしの記事の末尾に「著者は 「圧倒的に『世界史B』(東京書籍)がお勧めである」と宣伝しています(p.31、p224)。しかし上で批評したときに教科書の記事をあげて東京書籍のものと比較しましたが、詳説世界史の方が明快な書き方をしています。この他に時代区分の鮮明さも詳説世界史が優れているのですが、いずれこれは明らかにしようとおもっています(東西関係の歴史は東京書籍が優れています)。」
 この「明らかに」がこの文章の果たす役割です。
 そこで実際に出題された入試問題と教科書を付き合わせる、という方法をとります。いろいろな出版社の教科書はあるものの、ここでは山川の詳説世界史(2008年発行、以下「詳説」と略)と東京書籍の『世界史B』(2007年発行、「東書」と略称)を比較の対象とします。大中論述にあたる第1問と第2問が主たる対象です。

1.東大入試問題と教科書

 2011年度・第1問
 異なる文化間の接触や交流は、ときに軋轢を伴うこともあったが、文化や生活様式の多様化や変容に大きく貢献してきた。たとえば7世紀以降にアラブ・イスラーム文化圏が拡大するなかでも、新たな支配領域や周辺の他地域から異なる文化が受け入れられ、発展していった。そして、そこで育まれたものは、さらに他地域へ影響を及ぼしていった……13世紀までにアラブ・イスラーム文化圏をめぐって生じたそれらの動き

 という課題に対して、山川はインドへの影響として、「仏教拠点が破壊されてインドから仏教が消滅したり、ヒンドゥー教寺院が破壊され、その資材がイスラーム建築に流用……ヒンドゥー教とイスラーム教の両方の要素を融合させた壮大な都市が建設」と述べ、イベリア半島へは「高度な灌漑技術をともなうサトウキビ・棉・オレンジ・ブドウなどの栽培がイベリア半島にひろまったのも、地中海を結ぶ活発な交流の結果であった」と述べていて、「生活様式の多様化や変容に大きく貢献し」たことを書いてます。
 このうち東京書籍では、仏教衰退や建築への言及は一切なく、「サトウキビ、バナナ、オレンジ」については西アジアに入ってきたものとして述べているが、影響としては書いてない。もちろん「棉(木偏の原綿)」のことも記事はない。

 2011年度・第2問
 問(2) 明から清の前期(17世紀末まで)にかけて、対外貿易と朝貢との関係がどのように変化したかについて、海禁政策に着目しながら

 という課題に対して、山川は明朝の対応を「明は海禁をゆるめざるをえず」と書いているのに、東京書籍は「明朝は海禁を解除し、事実上の自由交易を認め」とまちがった説明をしてます。緩和が正しいのであり、解除はしてません。明清が朝貢貿易という制限のきつい対策(海禁)をなくしたことは一度もなく、アヘン戦争敗北まで基本的には存続しました。

 2010年度の問題については、第1-3問のすべてで特にどちらが有利ということはなかった。双方とも書いてあるものと書いてないものは同じでした。

 2009年度の第1問(国家と宗教団体・信徒)に関して、中国・チベット関係の部分は「詳説」がピッタリの文章になっていることは以下の記述比較で判断できます。

「詳説」清朝はその広大な領土をすべて直接統治したわけではない。直轄領とされたのは,中国内地・東北地方・台湾であり,モンゴル・青海・チベット・新疆は藩部として理藩院に統括された。モンゴルではモンゴル王侯が,チベットでは黄帽派チベット仏教の指導者ダライ=ラマらが,新疆ではウイグル人有力者(ベク)が,現地の支配者として存続し,清朝の派遣する監督官とともに,それぞれの地方を支配した。清朝はこれら藩部の習慣や宗教についてはほとんど干渉せず,とくにチベット仏教は手あつく保護して,モンゴル人やチベット人の支持をえようとした。
「東書」清帝国の広大な版図は,本部(直轄地)と藩部に分けて統治された。本部とは,首都圏の直隷省と地方の各省から構成され,藩部は,つぎつぎに征服・併合されたジュンガル・回部・チベットなどの地域であり,藩部を管理する理藩院が設置された。本部と藩部からなるこの清朝の大領域が,今日の「中国」という地域名称と重なり,また清朝の風俗や文化が,「中国人」のイメージのもととなった。

 ルター派・領邦教会制の説明でも「詳説」の方が合ってます。また「詳説」は「諸侯は……領内の教会」と分かりやすく書いているのに対して、「東書」は「領邦では,国家が」と分かりにくい。

「詳説」ルターの教えを採用した諸侯はカトリック教会の権威から離れ,領内の教会の首長となって(領邦教会制),修道院の廃止,教会儀式の改革などをすすめた。
「東書」ルター派の領邦では,国家が信教を監督する領邦教会制が成立して,君主の支配権が強化された。

 2009年度第2問(a)「殷王朝の政治の特徴」という課題に対しては雲泥の差があります。
「詳説」殷王朝は,多数の氏族集団が連合し,王都のもとに多くの邑(城郭都市)が従属する形で成り立った国家であった。殷王が直接統治する範囲は限られていたが,王は盛大に神の祭りをおこない,また神意を占って農事・戦争などおもな国事をすべて決定し,強大な宗教的権威によって多数の邑を支配した。
「東書」殷王が天帝の神意を占った内容が,漢字の原型となった甲骨文字で記録されており,当時の王権の大きさや独特な政治のあり方を知ることができる。

 2008年度第1問に関して、指定語句の「第1回万国博覧会」は、
「詳説」19世紀のなかば,イギリスはヴィクトリア女王のもとで繁栄の絶頂にあった。1851年には,のべ600万人以上が入場したロンドン万国博覧会がひらかれ,人びとに近代工業力の成果を誇示した。
「東書」本文に記述なし。右下にクリスタル=パレス(水晶宮)の内部を描いた絵があり、「1851年ロンドン開催の第1回万博は、鉄とガラスの巨大建築で、新しい工業中心の時代の開幕を告げた」と注があります。

 指定語句「総理衙門」について、
「詳説」朝貢体制のもとでは,外国を対等の存在でなく国内の延長のようにみなしていたため,特別に外交を扱う役所は設けられていなかったが,1861年にはじめて,外務省にあたる総理各国事務衙門が設置された。従来清朝の支配が名目的・間接的にしかおよんでいなかった地域に諸外国が手をのばし,19世紀の後半にこれらの地域はつぎつぎと清朝の影響圏から分離していった。
「東書」清朝は,外国使節の北京駐在を許し,外務事務をあつかう総理各国事務衙門(総理衙門)を設置して,対等な外国の存在を認める外交をはじめた。

 2007年度第1問(農業生産の変化とその意義)に関して、課題は「11世紀から」とあるのが何故か分かりますか? 「東書」で勉強しているひとはこの教科書の時代区分が曖昧なために判断できにくい。

「詳説」 封建社会は11〜13世紀に最盛期をむかえた。農業生産が増大し人口が急増すると西ヨーロッパは拡大を開始する。

 「詳説」も「東書」も各章のはじめに概説を説いているところがあります。「詳説」はワクでかこんであり、「東書」はカラーの写真の中で白抜きの字のところです。「詳説」のp.126にある「ヨーロッパの形成と発展」のところ、そして「東書」はp.138-139「ヨーロッパ世界の成立と変容」のところを開いてください。読むと詳説の明快さがわかるはすです。
 「東書」では、p.138-39の時代区分のところでは「10世紀を中心とする民族移住の激動のなかから,西ヨーロッパでは内陸部の農業を基盤とする封建社会が明らかな姿をあらわした。さらに,農業の発展や人口の増加を背景に,西ヨーロッパ世界は外部への膨張に転じるようになる」と書いていながら、時代区分ではないところでは(p.150)、「11世紀になると,気候が温暖になり,外部勢力の侵入による混乱もおさまって,西ヨーロッパの社会も安定してきた。……人口は増大し,包囲され萎縮していたヨーロッパ世界は成長と膨張に転じることになる」と書いています。つまり10世紀と11世紀とでずれています。
 この曖昧さは他にも見られます。「東書」p.203に「明代の社会と経済」とありますが、「詳説」はp.169に「明後期の社会と文化」という題になっています。「東書」に書いてある内容は明朝約300年間全体に該当するかのように書いてありますが、実は明朝後半からの社会経済の変化を書いているのです。「詳説」が正しい題名で説明しています。この違いは軽くありません。1983年度の第1問「16〜17世紀の中国の新しい動き」が書けるかどうかに関わってきます。

 2007年度第2問・問(1)
 設問は「イスラーム教徒独自の暦が、他の暦と併用されることが多かった最大の理由は何か」でした。
 この問に「東書」に「イスラーム教徒の重要な行事、メッカ巡礼を行うと定められた月(12月)も、年によっては暑い時期だったり、寒い時期になったりすることとなる。このため、季節と関係の深い農業には不便で、農民たちは農作業には太陽暦を使うことが多い」とあり、「詳説」には書いてない、と書いているひとがいました。
 しかし「詳説」にも書いてあります。「イスラーム世界では、7世紀に純粋な太陰暦であるヒジュラ暦が定められ、農事の目安となる古来の太陽暦とあわせてもちいられた」とあり、「東書」の方がいくらか分かりやすい説明になっています。これは珍しい例です。

 2007年度第3問・問(10)「モンゴル人民共和国……ソ連崩壊前後のこの国の政治・経済的な変化について」
「詳説」 ソ連社会主義圏に属したモンゴル人民共和国でも、ペレストロイカ・ソ連解体と並行して1990年、自由選挙が実行された。92年には社会主義体制から離脱し、国名もモンゴル国となった。
「東書」 記述なし。
 
 2006年度第1問(戦争の助長と抑制)で指定語句「徴兵制」に関して、フランス革命戦争での記載は、
「詳説」ロベスピエールを中心とするジャコバン派政権は,強大な権限をにぎる公安委員会を中心に,徴兵制の実施,革命暦の制定,理性崇拝の宗教を創始するなどの急進的な施策を強行……
「東書」記述なし。

 以上の最近の例をみても分かるように、「東書」は記述量が少なく、適格性にも欠け、何より時代区分が曖昧であることの欠点をもっています。
 この内、記述量は少なくといっても「東書」独自の記述量の多い記事もあります。それはこの教科書が東西交流に重点を置いているためです。
 たとえば、「港市国家」という用語は「詳説」では1回しか出てきませんが、「東書」になると、なんと35回も出てきます。「海域」という用語は「詳説」では1回、「東書」では15回出てきます。東西交易に重点を置いている、特に海に置いている、という傾向が分かります。しかしこんなに必要はないですね。しつこすぎます。

 「詳説」p.120-122の「アフリカのイスラーム化」と「東書」p.120-121の「アフリカの古王国とイスラーム化」という題の記事とは同内容の記事ですが、前者は651字、後者は1067字で書いてあります。後者の「東書」にはアクスム王国の詳しい説明、ラクダの利用が前者にはない説明です。ここでも交易路のことや商品のことが強調されています。
 この記事の前の「詳説」p.119-120「イスラーム勢力の進出とインド」と「東書」o.120「イスラーム勢力のインド浸透」は同類の記事ですが、前者の「詳説」には「東書」にはない、ハルジー朝の地租金納化、そのムガル帝国への継承、仏教の消滅、ヒンドゥー寺院の破壊、バクティ、ヨーガ、都市民・カースト下層民へのイスラーム教浸透、ペルシア語への翻訳など、ほぼ同字数(「詳説」676字、「東書」570字)なのに豊かな内容が盛り込まれています。中でも仏教消滅とイスラーム教浸透は重大事のはずですが「東書」には載っていません。

 しかし「東書」に長所もあります。コラム記事です。女性参政権というコラム記事は2010年度の一橋第2問にぴったりです。また東西交流、中でも東南アジア史をよく出題する阪大の問題にも適合しています。東大には合わない。
 「東書」には写真・絵が「詳説」よりたくさん載っていて楽しそうです。「詳説」より大判であり、本文記事の左右にコラム以外の小さい囲み記事や写真が付いています。見る世界史としてはとても良いものです。

2.入試問題の特色と教科書
 東大の問題は広くグローバルな問題を出しているため、そういう点をよく説明しているのが「東書」だと勘違いした教師や学生達が「東書」を推薦しているとおもわれます。確かに「東書」は東西交流をさかんに説明していて著者たちが序文で強調していることも世界の一体化ということです。また港市国家についての記述が異様に多いこともこれを傍証しています。しかし東大の過去問は「交流(交易)史」ではありません。
 問題の特色がつかめていないために「東書」を推薦していると、わたしは見ています。


 2010年度
 オランダおよびオランダ系の人びとの世界史における役割について、中世末から、国家をこえた統合の進みつつある現在までの展望のなかで、論述しなさい。
 この問題は東西交流史ではありません。もちろん「国家をこえた」とあるように、他国との関係、他国への影響なしに「役割」は書けません。対等に二つの国々の関係だけを問うのなら交流史ですが、これはあくまでオランダを視点に置いて、かつオランダを影響の起点に置いて他国のほうが受身で影響を受ける姿があって、オランダの「役割」・貢献が言えます。それに、「中世末から……現代まで」と長い歴史を問ういるため、ヨコ(交流)でなくタテ(時間順)にある程度比重をかけないと完結しない問題です。

 2009年度
 世界各地の政治権力は、その支配領域内の宗教・宗派とそれらに属する人々をどのように取り扱っていたか。18世紀前半までの西ヨーロッパ、西アジア、東アジアにおける具体的な実例を挙げ、この3つの地域の特徴を比較して……
 この問題を交流史ととるひとはいないでしょう。比較です課題は。

 2008年度
 1850年ころから70年代までの間に、日本をふくむ諸地域がどのようにパクス・ブリタニカに組み込まれ、また対抗したのか……
 これは交流史ともとれますが、あくまでイギリスと関わった国々が、イギリスに「組み込まれ」また「対抗した」かを紋って編集することが課題です。「東書」の交流は経済に比重のかかったものですが、この問題は政治と宗教です。また「対抗」することを「交流」ととるひとはいないでしょう。

 2007年度
 11世紀から19世紀までに生じた農業生産の変化とその意義を述べなさい。
 これは交流史ではありません。農業技術や生産の変化と意義です。

 2006年度
 戦争を助長したり,あるいは戦争を抑制したりする傾向が,三十年戦争,フランス革命戦争,第一次世界大戦という3つの時期にどのように現れたのかについて……
 3つの戦争について一つ一つ助長と抑制を書きます。交流史ではありません。

 と最近のものを読まれたら、広い問題ではありながら交流史でないことがわかります。ばらばらなデータを一つのテーマに合わせて編集する能力を見ようとしています。ちがう国や時間のものを比較したり意義づけたりする編集能力です。こういう問題に対応するために交流史の多い「東書」を学んだから強くなる、ということはありません。わたしが添削して合格していった学生たちは「東書」をもっていない学生もいました。

アマゾンの汚い操作

 これは『世界史年代ワンフレーズnew』の現在の表示画面ですが、下段の表示写真は2月23日のものです。このように操作して売れないようにしています。スマホでも同じ表示にしています。これはO社がアマゾンに金を払って配置換えをしているものです。なぜO社なのかはここでは明かしません。腐敗した会社同士の馴れ合ったすがたです。拙著『世界史論述練習帳new』も同じ操作をして販売の妨害をしています。アマゾンは大手出版社と組んで自費出版本をつぶそうとしています。大企業のすることですかね?

 またまた動かしました。以下。古い物をトップにもっていく理由は何でしょう?(3月9日)。パソコンでは直しましたが、スマホでは以下のままです(3月11日)。

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