世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史2004

第1問

 1985年のプラザ合意後、金融の国際化が著しく進んでいる。1997年のアジア金融危機が示しているように、現在では一国の経済は世界経済の変動と直結している。世界経済の一体化は16,17世紀に大量の銀が世界市場に供給されたことに始まる。19世紀には植民地のネットワークを通じて、銀行制度が世界化し、近代国際金融制度が始まった。19世紀に西欧諸国が金本位制に移行するなかで、東アジアでは依然として銀貨が国際交易の基軸貨幣であった。この東アジア国際交易体制は、1930年代に、中国が最終的に流通を禁止するまで続いた。

 以上を念頭におきながら、16-18世紀における銀を中心とした世界経済の一体化の流れを概観せよ。解答は、解答欄(イ)を使用して、16行以内とし、下記の8つの語句を必ず1回は用いたうえで、その語句に下線を付せ。なお、(  )内の語句は記入しなくてもよい。

 グーツヘルシャフト(農場領主制)、一条鞭法、価格革命、綿織物、日本銀、東インド会社、ポトシ、アントウェルペン(アントワープ)

 

第2問

 地中海東岸からアラビア半島にかけての地域で、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教という3つの一神教が誕生した。これらの宗教と西アジア・地中海沿岸地域の国家や社会は、密接な関わりを持った。このことに関連する以下の3つの問いに答えよ。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(3)の番号を付して記せ。

(1)新王国時代のエジプトから、ヘブライの民とよばれる人々は、モーセに率いられて脱出し、やがてパレスティナに定住の地を見出したという。前10世紀頃、ソロモン王の時代には栄華をきわめた。その後の数百年の間に、ヘブライ人は独自のユダヤ教を築きあげた。その成立過程について、彼らの王国の盛衰との関わりを考慮しながら、4行以内で説明せよ。

(2)キリスト教世界は8世紀から11世紀にかけて東西の教会に二分された。その2つの教会のいずれか一方と関わりの深いビザンツ帝国と神聖ローマ帝国とでは、皇帝と教会指導者との関係が大きく異なっている。11世紀後半を念頭において、その違いを4行以内で説明せよ。

(3)カリフとは「代理人」の意味で、預言者ムハンマドの没後、その代理としてムスリム共同体(ウンマ)の指導者となった人のことを指す。単一のカリフをムスリム共同体全体の指導者とする考えは近代に至るまで根強いが、政治権力者としてのカリフの実態は初期と後代では異なっていた。7世紀前半と11世紀後半を比較し、その違いを3つあげて4行以内で説明せよ。

 

第3問

 書物の文化は、製作方法の改良や識字率の高まりなどの影響で、時代とともに大きく変化してきた。このような書物の文化の歴史に関連する以下の設問(1)~(10)に答えよ。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(10)の番号を付して記せ。

(1)書物は思想の倉庫であるため、しばしば思想の統制をはかろうとする者たちの破壊の対象となった。秦代の中国で起こった焚書はその典型である。この時、統制をはかろうとした宰相らが依拠していた学派の名前を記せ。

(2)宗教の発展には典籍による教義の研究が大きな役割を果たしている。仏典を求めて、インドヘ渡った玄奘らがその目的を果たしえたのは、教義を研究する僧院がそこにあったからである。この僧院の名称を記せ。

(3)宋代の印刷文化は儒教の典籍を中心としたが、それは科挙制の重要性が増したことと密接に関係していた。朱熹によって重視されたため、科挙試験対策に必修のものとなった経典の総称を記せ。

(4)韓国の海印寺には、13世紀に作られ、ユネスコの世界文化遺産に登録された8万枚をこえる版木がある。この版木による印刷物の名称を記せ.

(5)近代になってから韓国の出版物の多くは、日本の漢字仮名交じりと同様に、漢字ハングル交じりで作成されてきたが、近年ではハングルのみとする傾向が強まっている。このハングルは15世紀の制定当時、どのように呼ばれていたのか、その名称を記せ。

(6)15世紀中頃のヨーロッパで発明されたこの技術によって、それまでの写本と比べて、書物の値段が大幅に安くなり、書物の普及が促進された。この技術(a)の名称と発明者(b)の名前を(a)、(b)を付して記せ。

(7)1520年代初めにドイツ語に翻訳された聖書を普及させるうえで、印刷工房が大きな役割を果たした。この翻訳を行った人物の名前を記せ。

(8)かつて、書かれる言葉と話される言葉とは区別されるべきものであった。中国においても、20世紀になると、そのような考えを打ち破って、書かれる言葉こそ話される言葉と一致すべきであるとの主張が盛んになった。そのような主張を掲載した代表的な雑誌名を記せ。

(9)1920年代のアメリカ合衆国では、新聞や雑誌の発行部数が急速にのびたが、その背景には大量生産・大量消費時代の到来があった。この時代に導入された代表的な大量生産方式の名称を記せ。

(10)第二次世界大戦中、アメリカ合衆国で新しい技術の開発が始められた。1980年代になると、この技術に基づいてインターネットなどを利用した新しい出版の形態が生み出された。この技術の名称を記せ。

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[第1問の解き方

ポイント

 初め問題を見た時点では難しそう、でも指定語句を見て、なんとか書けそう、という問題です。しかし問題の要求に応じた解答はそうかんたんではありません。予備校の解答で、「銀を中心とした世界経済の一体化の流れを」という要求に応じてずっと「銀」を追求したものがどれだけあるか探してみたらいいでしょう。ほとんど西欧列強の覇権史になっていて、いったいこれらのどこが「銀を中心とした世界経済」なのか疑問がわいてくるでしょう(まして18世紀が「金本位制に移行」の準備期であることを書いたものは探せないでしょう)。解答が問題に応じているかどうかの測り方は、解答に題名をつけてみたらいいのです。たいていの解答の題名は16~18世紀の西欧覇権史、ということになります。「一体化」は覇権国史に近くなりますが、「銀」とともに説明しないといけないのです。問題の導入部にも「金融の国際化……大量の銀が世界市場に供給……金本位制に移行」とありますから、この問題は「銀」にこだわらなくてはなりません。

 ところが銀という貨幣の流れを説明するにしても、指定語句は必ずしも銀とは直接関係のないものもあります。なかでもグーツヘルシャフト(農場領主制)、綿織物、東インド会社、アントウェルペン(アントワープ)の4つは銀とどうかかわらせたらいいのか。東大はテーマと関係のなさそうな指定語句をもちだしてくるのが得意です。文化史をテーマ(主要求)にしておきながら政治的用語ばかり指定したことがあります。いじわるいのです。指定語句が多ければ、どうしてもそれに受験生が負けて指定語句をつないで説明したら解答になったと錯覚させて、採点はいかにテーマに応じて書いたかで見る、指定語句をつないだだけの解答はばっさり切っていく、というやり方です。

類題

 この問題に類題が二つあります。1980年の過去問「いわゆる「地理上の発見」にともなうヨーロッパ人の海外進出は、世界の諸地域における変化・変動のきっかけとなったとみられている。このできごとの意義を世界史の観点からとらえ、進出をおこなったヨーロッパ、およびそれを受けたアメリカ、アジア等の諸地域における、16世紀末までの変化・変動について、650字以内で述べよ」と関連しています。それと1989年の「18世紀半ばから19世紀半ばにいたる時期について、西ヨーロッパ諸国と中国との通商関係の推移を12行以内で述べよ」があります。この二つの問題をつないだような問題でした。もちろんこの一見やさしそうに見える二つの問題を学生に書かせると(「模範」解答の受験産業の解答も含む)意外とできないものですから、過去問をやっていたらできる、というものではないですが。

 拙著『世界史論述練習帳new』(パレード)の巻末問題集に【西欧近世】<16世紀>では、問題4に「地理上の「発見」がもたらした世界史にたいする影響をあげよ(180字)。(指定語句)価格革命 一条鞭法」という問題があります。ほかにこの問題に関連しているものをピックアップすると、つぎのようになります。

 <9~10世紀 唐末五代宋>10 明朝の貿易政策について説明せよ。(指定語句)海禁 銀

 13 一条鞭法と地丁銀を説明せよ。(指定語句)地税 銀

 14 商業の発展について、春秋末・唐末五代・明末清初の時期について記せ(90字)。

 10 イギリス・インド・中国間の三角貿易が各国の綿業にあたえた影響ついて説明せよ。(指定語句)キャリコ 南京木綿 

 <中国史との対比・関係>

 9 18世紀後半と19世紀前半にいたる時期について、西欧と中国との通商関係の変化について述べよ。(指定語句)公行 銀(この問題は上にあげた東大過去問でもあります)

時代

 時代の限定「16-18世紀」は政治のしくみからは西欧では絶対王政の時期であり、経済政策の面では重商主義です。導入部にも「世界経済の一体化は16,17世紀に大量の銀が世界市場に供給されたことに始まる」とあり、「発見」以降から二重革命(市民革命と産業革命)の時期までであることが分かります。アジアではオスマン帝国の全盛期、ムガル帝国、明清王朝の、いわば「アジア専制帝国」の並立していた時期です。いやこの時代区分をきみは知っていますか? 時代区分を知っておくことは論述対策としては基本ですが、論述対策の問題集に時代区分を書いたものは『練習帳』以外にありません。これの巻末の「基本60字」の西欧のところを見てもらうと、「近世:1500年頃から1760年頃まで(政治のしくみから絶対主義時代)、前期:16世紀 盛期:17世紀 末期:18世紀中葉まで 近代:1760年代から1870年頃まで」という区分が示してあります。この16~18世紀の重商主義時代は西欧が銀というゲンナマをもってアジアにショッピングに行った時代です。

 書かせてみると16世紀だけしか書けなくて、17・18世紀がほとんどない解答にしがちです(予備校の例はT)。17・18世紀をどれだけ書けるかにかかっていると言ってもいいでしょう。

銀の流れ

 銀の流れは、かんたんにいえば、アメリカからヨーロッパへ、それがアジアに、とくに中国に大量に流れ込み、18世紀末になってアジアから西欧に逆流する、という流れです。もっとかんたんにいえば、東流から西流へ、という変化です。

 このことは教科書の銀にかんする記事で示唆されています。中国史だけでも、というより中国史だけしか記載されていないですが、16世紀(明末)に海から銀(墨銀=メキシコ銀)が入り、「日本銀」の流入がともなったため両税法から「一条鞭法」への転換があったことと、18世紀末からアヘン流入のために銀が流出していくという部分です。

 『詳説世界史』なら「貨幣の流通も活発となり、明初の紙幣や銅銭にかわって銀が主要な貨幣として流通するようになった。ことに日本銀の流入が増加し、ヨーロッパの商人が、中国の産物を買いつけるためにメキシコ銀などを大量に持ちこんだ16世紀以降、ますますさかんになった。……18世紀末からは、中国の茶を本国に、本国の綿製品をインドに、インド産のアヘンを中国に運ぶ三角貿易をおこない利益をあげるようになった。……アヘンの密貿易が急速に増え、大量の銀が国外に流出するようになっていた」とあります(銀貨としないで「銀」とだけ書いているのは中国では銀貨を鋳造しなかったからです。銀はかたまりで流通しました。教科書に馬蹄銀の写真があるでしょう。

アジアはスポンジ

 この16世紀と18世紀のあいだに銀の記述が大抵なくなるのはどうしてでしょうか? ここに銀の流れの秘密があります(『詳説』には「清では、国内商業や外国貿易がますますさかんになり、銀の流入はさらに増加」と17世紀も流入がつづいたことを書いていますが)。

 銀が東流して、それがすぐは西流しないで東に滞留してしまったのはなぜか、アジアに目立った価格革命がおきなかったのはなぜか? という疑問にはいろいろ説があります。

 「アジアはスポンジのように金銀を吸収した。そのなかからヨーロッパに戻ってきた金銀はほんのわずかだった」とスポンジであるといいます(ピーター・バーンスタイン著 鈴木主税訳『ゴールド 金と人間の文明史』日本経済新聞社)。また「墓場」と名づけたりしています。バーンスタインの説明では、アジア人は金銀を所有することに喜びを見出しており、装飾品・宝物として退蔵するとこを趣味としている、と理由をあげています。西欧人のように貨幣としてつかわないからだと。「アジア人から見れば、西洋から入ってくる金と銀は貨幣としての意味がはっきりと認識されていなかったのである。当時も以後も、アジア人は貴金属を他の何かと交換できるものとは思っていなかった。そうではなく、中国、日本、インドでは、貴金属は有用な必需品と見なされていた。つまり、非常に利用価値のあるものだから、支払いの手段として手放すよりも手元にとっておくほうがよいと考えられたのである。金は花嫁を飾りたてるためのものであり、ぴかぴか光る飾りや装飾品であり、そして何よりも蓄財の手段だった」と。もちろん誇張ですが、一理あります。

 また別の本は、インドの例をあげて「ブラック・ホール」(湯浅赳男著『文明の「血液」貨幣から見た世界史』新評論)であるといっています。

16世紀

 この問題は世紀ごとに書いていった方が書きやすいでしょう。世紀ごとの世界史があたまに入っているかどうかの懸念はありますが、なんとかデータをたぐりよせたり、指定語句を敷衍してできそうです。

 とくに16世紀は「発見」のときですから分かりやすい。ほぼどの指定語句もつかえます。グーツヘルシャフト、一条鞭法、価格革命、日本銀、東インド会社、ポトシ、アントウェルペンはどれも16世紀でつかえそうです。とすると、16世紀だけデブの文章ができてしまい、あとは尻すぼみになる危険性がありますから、東インド会社とアントウェルペン、ひとによっては日本銀も17世紀にもっていくことにしてもいいでしょう。問題はどれも銀との関連で書けるか、ですね。

 西欧だけ見るなら、中世以来の南ドイツ、中央ヨーロッパの産銀に代わって新大陸産の銀が圧倒する転換であり、フッガー家のアウグスブルク、ニュルンベルク等の南ドイツ、東方貿易でさかえたメディチ家のイタリアから大西洋岸の諸国(ポルトガル・スペイン・フランス・イギリス・オランダ)に繁栄が移ることでもありました(商業革命)。

 「グーツヘルシャフト」を西欧の銀獲得とのかかわりで説明してるのは『新世界史』くらいしかないようです(新課程の『詳説世界史』には書いてあります、この新課程の執筆者たちが東大の世界史問題の出題者でもあるでしょう)。『新世界史』には「経済活動の重心が地中海から西北ヨーロッパに移るにつれて,ヨーロッパの内部で東西の分業がうまれた。ネーデルラント・イギリス・フランスが毛織物や奢侈工業製品を輸出する経済的先進地域となるのに対して,ドイツ東部・ポーランドなど東ヨーロッパが西方への穀物輸出国となった。このため東ヨーロッパでは,領主が,それまで身分的に自由な農民を農奴とし,その賦役で輸出用穀物を生産する農場領主制(グーツヘルシャフト)を採用した」と記されています。この記述をまとめて「東欧の後背地化」といいます。このことばを『練習帳』のp.101の解答にもつかっています。

 「価格革命」は銀革命でもありました。金貨より銀貨が大量にでまわったからです。でまわった結果、銀価の暴落と物価騰貴をまねき、物価が3~5倍も上昇しました。なにより銀を豊富に獲得したスペイン王国がそのために没落も招き入れます。金銀の流入によるスペインのインフレは産業の競争力を弱めることとなり、輸入の増大をひき起してしまったためです。輸入の増大は逆にフランス、イギリス、フランドルといった北西ヨーロッパ諸国の産業の発展をひき起します。しかもこれら諸国の産業の発展はさらに輸入の増大を招いて、スペインをサラ金地獄に落としました。金銀ががっぽり入れば万事めでたしという訳にはいかないようです。

 「ポトシ」は銀山の名前であり、またそれでさかえた町の名前です。スペイン王カルロス1世(カール5世)はポトシに皇帝の町という称号と、「余は豊かなるポトシそのものであり、世界の宝物は余のものであり、余は山々の王であり、諸王の羨望の的である」という銘文を彫り込んだ盾を贈って、感謝の意を表したそうです。駆りだされ酷使されたインディオ(ケチュア人たち)の命とひきかえにさかえた銀山です。

 「一条鞭法」を張居正がはじめたと書いてしまう学生がいますが、そうではなく民間ではじめたものを張居正らの政府が後押しするかたちで浸透させたものです。はじめに浙江、次いで江蘇・江西でおこなわれ、やがて華南・華北の順に一般化していったものです。この両税法からの転換により中国税制史では「役(えき)」という労働による国家への負担消滅が重要です。もちろん銀納によってすべての税を払うというかたちです。

 中国にだけ銀が流入したはずはないと感じるひともいるでしょう。もちろんです。西欧人が新大陸の銀をもってアジアの国々(オスマン帝国、ムガル帝国、明清朝)の物産を買いにきたため一方的に銀はアジアに注がれました。オスマン帝国ではそれほどの変化は見られないものの、ムガル帝国ではルピーという今も貨幣の単位としてつかっているルピー銀貨の源流となります。このあたりは教科書に記述のない部分です(拙著『練習帳』本文p.104の問題に対するp.106の解答に銀流入が書いてあり、それと先に紹介した巻末問題集の【西欧近世】<16世紀>問題4の解答の中に「ルピー銀貨」をあげています)。デリー=スルタン朝の時代までが貨幣の衰退期であったのに対して、「十六、十七世紀はインド史におけるコインの復興の期間となるのである。ムガール帝国より一時的に権力を奪ったシェール・シャーの時代、それまで北インドではほとんど銀分の含まれぬ粗悪なコインが通用していたのであるが、シェール・シャーはこうした事態を一新し、ルピー銀貨(正しくはルーパヤ)と良質な金貨ならびに銅貨の造幣を開始したのである」(湯浅赳男著の前掲書)。

17世紀

 「日本銀」については世界史の教科書も記載しているので、なにも奇異な用語ではありません。センター試験にも出ています(2001年度)。ポルトガル商人はインドのゴアや中国のマカオを本拠地に、大きな船で鉄砲・火薬・生糸・薬などを大量に日本に運んで銀と交換し、その銀で中国の生糸・絹織物などを買いつけたり、東南アジアの胡椒などを直接ヨーロッパに輸入して巨額の利益を得たりしていました。

 もともと日本は朝鮮半島から銀を輸入していましたが、1538年ごろより日本の銀鉱山採掘が盛んとなり、逆転して日本から銀輸出が始まります。16世紀は墨銀が名高いですが、日本も当時の世界の銀生産の3分の1をしめるほどの銀の国だったのです(メキシコ25万kg、欧州15万kg、日本20万kg)。朝鮮船や中国船の来航の目的は日本銀にあり、次いで16世紀は上に書いたポルトガルや、ついで17世紀はオランダも日本銀と中国商品の仲介貿易をおもな内容としていました。オランダは1649年から1668年の間に毎年100万ギルダー以上の銀を日本で入手したらしい(湯浅赳男著の前掲書)。ということは江戸時代は「鎖国」からイメージされる閉鎖的な箱のようなものではなかったのです。銀貨の輸出禁止(寛文8年 (1668年))があっても銀貨流出は止まらなかったのです。

 「アントウェルペン」と「東インド会社」はアムステルダムへの繁栄の移行として同時につかってもいいでしょう。アントウェルペンは16世紀にさかえた都市で、中世商業の中継地としてブルージュからここへ取引と富が移ったことを学ぶでしょう。銀とのかかわりでいえば、南ドイツ産の銀もイタリアに流れていたのがここに集まるようになり、「新大陸」の銀がスペインから、わけのわからない他人の手を経て大量にこの港に持込まれたようです。16世紀中頃この都市に駐在していた英国人グレシャムが、「リスボンで金を買い、それでアントウェルペンの銀を買い、それをまだ地中海世界の影響を受けていない銀高のローマに送って買却する」という投機を目撃しています(湯浅赳男著の前掲書)。しかしこの都市の繁栄は反宗教改革でつぶされます。スペイン軍とスペインがやとった傭兵による略奪・破壊行為からこの都市を捨ててアムステルダムへの脱出がおこなわれたからでした。このあたりを詳しく書いているのがC.P.キンドルバーガー著、中島健二訳『経済大国興亡史 1500-1990』(岩波書店)です。「ブラバンド(アントウェルペンのある地方名……中谷の注)とフランドルを去った人は合わせて10万人にのぼったが、その大部分は商人と熟練職人であった。彼らは自分たちの資本と産業技術の身に付けることができる分をたずさえて、去っていったのである」と。

 「東インド会社」といえばエリザベス1世のつくったイギリスのもの(1600年)、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)のもの(1602年)が名高いですが、資金力は後者が格段に高かったようです。何かの本で10倍と読んだことがあります。この会社の株の4分1は亡命してきたユダヤ人がもっていました。ユダヤ人は信仰の自由を保証したこのオランダに逃れ、1598年にはじめてシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)建築が許されました。さらにユダヤ人は銀行・商社・株式取引所を設立し、東西インド会社に投資したのです。

 17世紀の初めに、オランダには14ヶ所の造幣所があり、世紀末には8ケ所にまとめられました。ここで造られた貨幣は信用が高く国際通貨となります。「ライオンダラー」「リクスダーラー」などが知られています。当時、イギリス東インド会社はその東洋貿易のために、毎年、700万から800万ギルダーの銀貨をオランダから購入したそうです(この説明も湯浅赳男著の前掲書)。貨幣そのものがオランダの重要な輸出産業であったと専門家は述べているくらいです。これは18世紀にもつづき、18世紀のイギリスで活躍した金融業者の多くがオランダ人でした。代表的なのはロイズ銀行で、その創設者はオランダ人でした。またイングランド銀行の最大の公債所有者であり、顧客であったのもオランダのひとたちでした。

 日本代理店は http://www.lloydstsb.co.jp/

18世紀

 「綿織物」はいろいろな用途があります。インドのキャラコ(キャリコ、これも細かいデータではありません。センター試験2001年度、2003年度追試に出題歴あり)を東インド会社が銀を対価に輸入したものとして、またこのキャラコに対抗するかたちで産業革命が始められたこととしてつかってもいいでしょう。ヨーロッパ人がアジアの物産で生活をたのしむようになったことを「生活革命」とさえ呼んだりしますが、それは大げさな表現でないことは、唯一詳細に説明している教科書の記述があります。新課程で失われる記事かもしれないのでのせておきます、清水書院の『新世界史A』のコラム記事の抜粋です。「インド=キャラコとイギリス」と題して、

 イギリスとインド=キャラコとの出会いは、東インド会社が設立された1600年以降のことである。ヨーロッパ人がアジアに求めた物産としては,香辛料と絹織物・陶磁器が有名であるが,東インド会社はこのほかにも茶・コーヒー・キャラコなどをもたらし,西インド産の砂糖の流入とあいまって,17世紀後半から18世紀のイギリスに生活革命をひきおこすことになった。キャラコに色鮮やかな文様をプリントしたものを更紗といい,インド更紗は古代ギリシア人にも知られていたが,東インド会社がもちこんだのは,インド西北岸のグジャラート地方の更紗であった。当時のインドはムガル帝国の支配が安定し,伝統技術を生かした綿工業がグジャラート地方,ベンガル地方,東南部のコロマンデル海岸などを中心に発達し,都市や港は活気に満ちていた。

 イギリスでは,インド更紗は女性のドレスや下着,テーブルクロス,ベッドカバーなどに利用された。ヨーロッパの毛織物にくらべて,キャラコは軽くて吸湿性に富み,洗濯も容易なことから大変な人気を博したが,その輸入の増大は伝統産業である毛織物工業を圧迫し,政治問題化していった。そこで,議会は1700年と1720年にあいついでキャラコの輸入と使用を禁止する法律を制定したが,かえってキャラコの需要を高める結果となった。香辛料や茶・コーヒーと同じく,綿花も気候の関係でヨーロッパでは栽培できないが,原料の綿花が安く手に入れば,自前で綿布を織ることができる。そう考えたイギリス人によって,紡績機や織機が次々に発明され,産業革命が開始されたのである。

 インドからすれば、1500年代から1600年代にかけて、綿布と交換に大量の金と銀を輸入したことになります。銀山のあるポトシと港湾都市リマは、中国からの絹や磁器、漆器、宝石用原石、真珠が多く集まることで有名になり、メキシコ人はフィリピンからの綿布や中国からの絹、インドからのキャラコを喜んで身にまとったそうです。

 18世紀の中国では先にもあげたように『練習帳』の「一条鞭法と地丁銀を説明せよ。(指定語句)地税 銀」という問題や、教科書の「清では、国内商業や外国貿易がますますさかんになり、銀の流入はさらに増加」の記述にあるように、一条鞭法から地丁銀に転換しました。前段の盛世滋生人丁の実施 (1713年)から地丁銀(1717年)への簡略化をあげてもいいし、つぎの雍正帝(1722~35)のときに全国に普及したことをあげてもいいでしょう。

 18世紀の銀の流れで無視できないのは金の時代のはじまりであることです。これは教科書からはずれてしまうので書けなくてもいいのですが、金本位制が19世紀にはじまる前提として読んでみてください。ヨーロッパには金がほとんど産出しないので内外取引の決済は銀貨でした(銀本位制)。しだいに非ヨーロッパの金がはいってくることにより金貨も使うようになります(金銀複本位制)。それが金のみを基準とする単本位制=金本位制に次第に変わっていきます。1816年イギリス、1873年ドイツ、1874年オランダ、1878年フフンス、1897年日本、1900年アメリ力合衆国が順に採用しました。これで分かるようにイギリスが一番最初です。それはイギリスが18世紀にブラジルの金をえていたからでした。1703年イギリスがポルトガルとメシュエン(メスエン)条約を結んだことがきっかけです。ポルトガルがイギリスの毛織物製品を買い、イギリスがポルトガルのワインを買うという通商条約です。この条約によってポルトガルに毛織物が入ってきたのですが、それを買うお金はじゅうぶんポルトガルになかったのに買えるようになります。それはちょうどこの頃にポルトガルの植民地ブラジルでゴールドラッシュがはじまったからです。この金を運ぶために発展した港がリオ・デ・ジャネイロです。1690~1770年の期間にブラジルは世界の産金量の半分を産出したそうです。当時の世界で生産される金の大部分を受取ることによって、イギリスの金融業者はその地位を強化し、ヨーロッパの金融センターをアムステルダムからロンドンに移動させることに成功します。メシュエン条約は金の流れをイギリスにもたらしただけでなく、ポルトガルはイギリスにラテンアメリカとの貿易も許可したため、イギリスのラテンアメリカ進出の門も開かれました。

 ブラジルのゴールドラッシュについては、ブラジル大使館の「歴史」に説明があります→ http://www.brasemb.or.jp/brasil/brief/historia.html

 なお銀というテーマを追いつづけて書いた予備校の解答としては(S)の解答例2くらいしかありません。これは大岡さんの解答でしょう。だいたい予備校の解答が「模範」であることはめったにないことです。解答例2はめずらしい。まして受験生の解答は予備校のレベル以下ですよ、ということを言いたいわけではありません。むしろ受験生の方がすぐれた解答をつくることは毎年添削して知っています(わたしの添削のペースは一年間で約1200枚)。教科書だけの知識で、問題を素直にとらえたら、予備校の解答にまさるものをつくることはできます。そうした学生の解答をここで示せないのが残念です。かれらの解答も独立してここで掲載すれば、著作権が発生しますから。わたしの解答はどの大学のもこのHPではのせていませんが、それはある掲示板に自分の解答であるかのように承諾なしでコピーして載せたひとがあり、それを見つけて以来載せないことにしています。いずれにしろ、他人のものを見ないで自分の解答をつくらないかぎり進歩はありません。


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  これはベネッセの「東大合格戦略号」という「東大特講」の宣伝パンフにのっている模範答案です。16行のうち11行が16世紀で占められています。17世紀は銀についてまったく言及しておらず、18世紀は「茶の代価」で終わっています。どこが「スーパー」なのか?

 

[第2問の解き方

 120字の短文論述が3問もこの第2問で課せられたのはひさしぶりです。1997年に5行、3行、3行というのがあり、それ以来となります。これからこれが定着するかは分かりません。この第2問は移り気なところが特徴です。

 

(1) 問題は「ユダヤ教を築きあげた。その成立過程について、彼らの王国の盛衰との関わりを考慮しながら」という政治史と関連してのユダヤ教成立史です。

 ユダヤ教成立はいつでしょうか? 一般に、バビロン捕囚が解かれた後、というのが通説です。たとえば教科書『詳解世界史』(三省堂)では「のちにバビロンから帰国した人びとは、イェルサレムに神殿を再建し、祭儀と神の律法を基礎にすえたユダヤ教を確立した」とあります。新課程の『高校世界史』(山川出版社)でも「こうした民族的苦難のなかで,ヘブライ人は唯一の神ヤハウェへの信仰をかたくまもり,約50年後に許されて帰国すると,イェルサレムにヤハウェの神殿を再興し,ユダヤ教を確立した」と。『新編 東洋史辞典』京大東洋史辞典編集会議編は「前517年イェルサレムに神殿を再建し、祭儀中心のユダヤ教が成立した」と明快に年代をあげて説明しています。なおバビロン市にだけ連れていかれたわけではないので「バビロン捕囚」は正しくなく、本当は「バビロニア捕囚」であるべきという(石田友男著『ユダヤ教史』山川出版社)。

 ただ『新世界史』(山川出版社)は「彼らは捕囚地で出身部族のこだわりをすて,12部族の一つであるユダ族を中心に唯一神ヤハウェの信仰のもとに団結した。ユダヤ人とユダヤ教の名はそこからおこった」と捕囚中に宗教のもとができたことを示唆しています。「団結」とは、律法に従うことでユダヤ人としてのアイデンティティ(自覚)を得、異教徒と区別するために割礼(男性性器の一部を切除すること)を儀式とし、安息日(労働をしない土曜日)を守り、シナゴーグ(教会堂)で礼拝し律法を学ぶことです。これらのユダヤ教徒たる条件がそなわってパレスティナに帰還してユダヤ教ができたというわけです。キュロス2世の帰還命令(旧約聖書の「エズラ記」第1章)はあっても帰還はうまくいかなかったようで、ダレイオス1世のときの(第二次)帰還(前520年)が成功して4万2360人が帰れたようです(ポール・ジョンソン著『ユダヤ人の歴史』徳間書店)。

 「彼らの王国の盛衰との関わりを考慮」とありますから、まずサウル、ダビデ、ソロモンと3代つづいたヘブライ王国が分裂したこと、北にはイスラエル王国、南にはユダ王国ができ、北のイスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ(前722年)、南のユダ王国は新バビロニア王国に滅ぼされ(前586年)と時間差はあれど共に坂をころげ落ちていきました。この間、預言者が現れ、警告を発したものの空しく亡国・離散・強制連行・強制労働・迫害・虐殺という苦難をなめることになったのですが、それがユダヤ人の民族的結束の必要性をせまり、民族性を保つための教義(選民思想・救世主)と方法(信徒のシナゴーグでの集会・聖書=律法を学ぶ)も持たせました。アケメネス朝の保護下にユダヤ教は成立します。ほぼ政治史の流れで書ける易問でした。

 

(2) 比較の問題です「ビザンツ帝国と神聖ローマ帝国とでは、皇帝と教会指導者との関係が大きく異なっている。11世紀後半を念頭において、その違いを4行以内で説明せよ」と。

 「11世紀後半」といってもビザンツの皇帝権は変わりがありませんから、神聖ローマ皇帝が叙任権闘争でどれくらい弱体化しているのか書けないと「(大きく異なっている)違い」がでてきません。どこかの予備校のように、たんに「叙任権闘争が起こった(発展した)」ではどうしようもありません。それで「ビザンツ帝国」皇帝とどうあり方がちがうのか説明が必要です。

 もちろんかんたんな問題で、ビザンツ帝国皇帝は政教両権を掌握し、神聖ローマ帝国皇帝は聖(教)界には権限が限られていた、ということです。教皇という教会組織のトップが厳然として存在していたからです。教皇は皇帝の叙任権を否定しており、それは11世紀後半に決着がつかなかったとしても結果的には教皇側の意図どおりになります。またレコンキスタに援軍・献金をして闘争を支援し、十字軍を唱導・派遣したのも教皇でした。明らかに皇帝より教皇が西欧の政治を動かしていたのです。

 

(3) 問(2)と類似問題です。「政治権力者としてのカリフの実態は初期と後代では異なっていた。7世紀前半と11世紀後半を比較し、その違いを3つあげて」といやに具体的な問い方です。時代の「7世紀前半」は正統カリフ時代であり、「11世紀後半」はアッバース朝が衰退し、ブワイフ朝が10世紀にバグダードに入ってきたのを、この「11世紀後半」にはセルジューク朝が入ってきてブワイフ朝を追放し、トゥグリル=ベクがスルタン称号をもらった世紀でした。

 「違いを3つあげて」とありますから、この問題文にあるように、[1]7世紀前半は「政治権力者」であったのが、「11世紀後半」には宗教的権威のみになったこと、[2]カリフの数が一人だったのが、11世紀前半は三人だったのが後ウマイヤ朝の滅亡(1031年)で二人になったこと、[3]初め選挙制であったのが、世襲制になったこと、と三つあげることができます。

 [1]にかんしては、予備校の解答はすべてまちがっています。カリフが「7世紀前半」において、政教両権を掌握していた、政教両面の指導者であった、と書いています。きっと解答を書いている講師たちは学生にまちがったことを教えているのでしょう。8世紀のアッバース朝になって獲得するカリフの権限と混同しています。

 正統カリフ時代にカリフが政治的権限しかもっていないことは、教科書では『新世界史』だけが「彼の死後、教団は分裂の危機に見舞われたが、カリフ(代理)が選ばれ、預言者としてのムハンマドのもっていた政治権力を継承して教団を統率し、危機は回避された」と書いています。

 出題者と考えられる佐藤次高の最近の著書『イスラームの国家と王権』(岩波書店)にも「ムハンマドは、神の言葉を預かる預言者としての宗教的な権限と、ムスリムの集合体であるウンマを統率する政治的な権限とをあわせもっていた。この二つの権限のうち、アブー・バクル(初代カリフ……中谷の注)が第二の政治的権限だけを継承したことは明らかである」と。嶋田襄平著『イスラムの国家と社会』(岩波書店)でも「ウンマにおけるアブー=バクルの地位は、本質的に、非日常的事態に対処すべき部族の長のそれと変わりなく、かれは預言者マホメットの代理といっても、マホメットの併せ持った宗教・政治の両権限のうち、政治的権限だけを代行するものであった。要するにカリフ制度は、すぐれて軍事的・政治的制度だったのである」と。拙著『練習帳』には、次のような問題をあげています、

 11 ウマイヤ朝を変革した改革は「アッバース革命」といわれるが、どういう点で変革したのか述べよ。

 14 10~11世紀における、イスラム世界の転換について述べよ。(指定語句)カリフ シーア派

 

第3問

(1)「統制をはかろうとした宰相らが依拠していた学派の名前を記せ」という易問です。商鞅・韓非・李斯と秦を強国に育てた諸子百家のなかでも、もっとも政治的貢献度のたかい、以後2千年の中国王朝体制をつくりあげたひとたちの学派です。

(2)「玄奘らが……僧院の名称」という、これも易問です。教師数2,000、学生数10,000 が学ぶ国際的な仏教大学です。

(3)「朱熹によって重視されたため、科挙試験対策に必修のものとなった経典の総称を記せ」とは朱子学で重視した経典はなんですか、という問といっしょです。これもセンター試験的な易問です。

(4)「13世紀に作られ」という高麗がモンゴル人の侵入を受けて江華島にのがれ、退散祈願をした、「8万枚をこえる版木……印刷物の名称」は「高麗(版)」「八萬(八万)」を付けても付けなくてもいいでしょう。今年のセンター試験追試にも「韓国海印寺に保管されている大蔵経の版木」の図がでていました。つぎに版木をもった僧の姿が写っています。朝鮮の位置にあるのは変ですが。

http://www.kansaikorea.org/v2/Facts_about_Korea/facts_about_korea2.php

(5)「ハングルは15世紀の制定当時、どのように呼ばれていたのか」も易問です。センター試験では1989年、97年追試、99年、2001年、2003年と頻出のデータです。

(6)「15世紀中頃」もセンター試験では「13世紀」「14世紀」「16世紀」と年代がよく問われていてどれもまちがいです。今年の追試にもそのままそっくり出題されています。もしかして追試の出題者とこの第3問の出題者は同一人物だったりして。

(7)「1520年代初めにドイツ語に翻訳された聖書」で分からなかったら世界史は勉強しなおさなくっちゃ、というくらいの易問です。センター試験ではこれの同問が4回もでています。

(8)「話される言葉」白話運動です。「そのような主張を掲載した代表的な雑誌名」は胡適の「文学改良芻議」という論文をのせた雑誌で陳独秀のはじめたものです。白話運動もセンター試験では4回でています。

(9)「大量生産方式」ということばは、センター試験94年の追試の問題文に「20世紀に入ると、大量生産方式と大衆消費社会が生み出され、自動車や電気製品の発達が人々の生活を豊かにした」として出たことがあります。清水書院の教科書に「コラム41 モダン・タイムス」というのがあり、そこに「ちょびひげに山高帽,だぶだぶのズボンにス……毎日,ベルトコンベアーの流れ作業のなかでナットをしめる仕事についている」という文章に表われていました。

(10)この問に対して「電子出版/電子書籍」という解答を出した速報がありました。問題をちゃんと読んでいないためです。問は「第二次世界大戦中、アメリカ合衆国で新しい技術」とあり、それが今は「新しい出版の形態……この技術の名称を記せ」であって「新しい出版の形態」は何かとは問うていないのです。解答は「第二次世界大戦中……技術」でなくてはなりません。それは今きみが見ている技術です。

 

(わたしの解答例)

第1問・第2問  

 わたしの解答例は『東大世界史解答文』(電子書籍・パブー)に1987年から2013年までのものが載っています。

第3問

(1)法家 (2)ナーランダー僧院 (3)四書 (4)(高麗版)大蔵経 (5)訓民正音 (6)(a)活版印刷(b)グーテンベルク (7)ルター (8)新青年 (9)ベルトコンベア方式(流れ作業方式/オートメーション方式) (10)コンピューター

東大世界史2003

*[東京大学]*[過去問]

第1問

 私たちは、情報革命の時代に生きており、世界の一体化は、ますます急速に進行している。人や物がひんぱんに往きかうだけでなく、情報はほとんど瞬時に全世界へ伝えられる。この背後には、運輸・通信技術の飛躍的な進歩があると言えよう。

 歴史を振り返ると、運輸・通信手段の新展開が、大きな役割を果たした例は少なくない。特に、19世紀半ばから20世紀初頭にかけて、有線・無線の電信、電話、写真機、映画などの実用化がもたらされ、視聴覚メディアの革命も起こった。またこれらの技術革新は、欧米諸国がアジア・アフリカに侵略の手を伸ばしていく背景としても注目される。例えばロイター通信社は、世界の情報をイギリスに集め、大英帝国の海外発展を支えることになった。一方で、世界中で共有される情報や、交通手段の発展によって加速された人の移動は、各地の民族意識を刺激する要因ともなった。

 運輸・通信手段の発展が、アジア・アフリカの植民地化をうながし、各地の民族意識を高めたことについて、下記の9つの語句を必ず1回は用いながら、解答欄(イ)を用いて17行以内で論述しなさい。

  スエズ運河 汽船 バグダード鉄道 モールス信号 マルコーニ 義和団 日露戦争 イラン立憲革命 ガンディー

 

第2問

 人類は、その初期から現代にいたるまでの長い歴史において、先行して存在した多様な文化を摂取、継承したうえで、新たな文化を創造し、次の世代へと伝えてきた。このことに関連する以下の設問(1)~(10)に答えよ。解答は解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(10)の番号を付して記せ。

 

(A)ヨーロッパ人は、古代ギリシア・ローマの文化をヨーロッパ文化の源流のひとつとみなし、それを古典古代と呼んだ。ギリシアとローマの思想、文化を後のヨーロッパが受容していったことに関連する以下の問いに答えよ。

(1)カロリング朝のフランク王国では、各地から学識ある聖職者が宮廷に招かれ、ラテン語文化が復興した。そのさい、聖書などの写本作成に尽力したイギリス出身の人物の名と、彼を宮廷に招いた王の名を記せ。

(2)平面幾何学を大成させたエウクレイデス(ユークリッド)が、研究活動を行った都市名を記せ。また彼の著作が、アラビア語訳からラテン語に翻訳されたのは、何世紀か。

(3)西欧中世の学問は、アラビア語やギリシア語からラテン語への翻訳活動により飛躍的に発展した。古代の哲学者[ 〔1〕 ]の論理学や自然学の著作の翻訳は、西欧に大きな影響を与え、また彼の著作を注釈したコルドバ生まれの哲学者[ 〔2〕 ]の著作の翻訳も、西欧の学問を発展させた。文中の[ 〔1〕 ]、[ 〔2〕 ]に入る人物の名を記せ。

(4)ルネサンス期のイタリアでは、古代の建築を模倣した教会が多く建てられた。そうした教会建築のうち、フィレンツェで建てられた大聖堂の名と、そのドームを設計した建築家の名を記せ。

(5)イタリア戦争はルネサンス期に半世紀以上にわたってくりひろげられた。この戦争の誘因となったイタリアの政治状況について2行以内で記せ。

(6)ドイツ生まれのある考古学者は、少年時代に愛読した叙事詩中の出来事が史実を反映していると信じて、小アジアのトロヤ(トロイア)を発掘した。この考古学者の名と叙事詩の作者の名を記せ。

 

(B)インドと中国は、古代以来相互に影響をあたえつつ独自の文化をはぐくみ、日本を含む周囲の地域に大きな影響を残してきた。このことに関連する以下の問いに答えよ。

(7)儒教は古代中国におこり、東アジアで広く研究されてきた思想である。漢王朝のときに国教としての地位を築き、宋王朝のときに新しい体系化がなされた。この体系化のさきがけをなした北宋の思想家で、南宋の思想家に影響を与えた人物を一人あげよ。また、この新しい儒教は、その後中国でどのように扱われたか、一行以内でまとめよ。

(8)道教は、仏教に刺激され、民間信仰と神仙思想に古来の[ 〔1〕 ]思想を取り込んでできた宗教である。この思想が説いた内容は、漢字4字で[ 〔2〕 ]と表現できる。

 文中の[ 〔1〕 ]、[ 〔2〕 ]に入る語句を記せ。

(9)グプタ朝時代のインドは、古典文化の黄金期で、サンスクリット文学が栄えた。この時代の王チャンドラグプタ2世の宮廷詩人で、戯曲「シャクンタラー」を残した作者の名をあげよ。また、このころ完成した叙事詩の名前を一つだけあげよ。

(10)7世紀に入ると、チベットに古代統一王朝が現れた。この王朝の下で、後世に残されるこの地域の文字がはじめて作られ、新たに取り入れた仏教と固有の民間信仰とを融合させた独自の宗教が生まれた。この統一王朝を中国の史書では何と称したか。その名称を漢字で記せ。

 

第3問

 近世から19世紀までに人類は、産業革命とならんで、海上や陸上の交通手段の飛躍的な発展を体験した。その発展は、人や物の大規模な移動をひき起し、世界各地の人びとの暮らしに大きな影響を与えた。しかし交通手段の発展は、その支配をめぐって国際紛争をひきおこす原因ともなった。そこで以下の設問(1)~(10)に答えよ。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(10)の番号を付して記せ。

 

(1)近代以前にあっては航海術の水準は、ヨーロッパもアジアもさほどの違いはなかった。すでに15世紀の明代中国は、インド洋を越えてアフリカ東海岸まで進出するほどの航海術や造船技術を持っていた。その時代に大艦隊を率いて大遠征をおこなった中国の人物の名を記せ。

(2)モンゴル帝国では、首都から発する幹線道路沿いに約10里間隔で駅が設けられ、駅周辺の住民に対して、往来する官吏や使臣への馬や食料の供給が義務づけられていた。この制度によって帝国内の交通は盛んになり、東西文化の交流も促された。この制度の名称を記せ。

(3)1498年に喜望峰を回航したバスコ・ダ・ガマ船団を迎えたのは、マリンディ、モンバサなど、東アフリカの繁栄する商港群であった。それらはインド洋・アラビア海・紅海にまたがって広がるムスリム商人の海上貿易網の西の末端をなしていた。これらムスリム商人が使っていた帆船の名を記せ。

(4)18~19世紀は「運河時代」と呼ばれるように、西ヨーロッパ各地で多くの運河が開削され、19世紀の鉄道時代の開幕まで産業の基礎をなした。ブリッジウォーター運河が、最初の近代的な運河である。それは、イギリス産業革命を代表するある都市へ石炭を運搬するために開削された。その都市の名称を記せ。

(5)1807年に、北米のハドソン川の定期商船として、世界で初めて商業用旅客輸送汽船が建造された。これを建造した人物の名を記せ。また1819年に、補助的ではあったが蒸気機関を用いてはじめて大西洋横断に成功した船舶の名称を記せ。

(6)1869年に開通した大陸横断鉄道を正しく示しているのは、図の(a)~(e)のどれか。1つを選び、その記号を記せ。

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(7)1883年10月4日にパリを始発駅として運行を開始したオリエント急行は、ヨーロッパ最初の国際列車であり、近代のツーリズムの幕開けを告げた。他方で、終着駅のある国にとっては、その開通はきびしい外圧に苦しむ旧体制が採用した欧化政策の一環であった。オリエント急行の運行開始時のこの国の元首の名と、終着駅のある都市の名を記せ。

(8)アジア地域における大量交通手段は、欧米から技術と資本を導入して建設されることになり、そのためしばしば欧米列強の内政干渉の口実と、経済支配の手段にもなった。欧米列強が清朝末期に獲得した交通手段に関係する権利を一つ、その名称を記せ。

(9)1891年に始まったシベリア鉄道の建設は、日露戦争のさなかの1905年に終った。このシベリア鉄道の起点をウラルのチェリャビンスクとすると、終点のある都市はどこか。その名称を記せ。

(10)ロンドンの地下鉄は1863年に開通したが、蒸気機関を使っていたためにその経路は地表すれすれの浅い路線に限られていた。1890年に画期的な新技術が採用され、テムズ川の川底を横切る新路線が開通した。ひきつづき同じ技術を用いてパリに1900年、ベルリンに1902年、ニューヨークに1904年にそれぞれ地下鉄が設けられた。その画期的な新技術とは何か。その名称を記せ。

………………………………………

[第1問の解き方

 予備校の解答を見て糠(ぬか)喜びを味わった学生もいるでしょう。予備校の解答に疑問を感じた学生もいるはず。疑問を感じた学生は正常です。

 さて、問題の要求を正確につかまえることが肝心です。それが予備校でもできない。

 この問題には二つの要求があり、次のように言い換えることができました。

 1「運輸・通信手段の発展が」→植民地化をうながし

 2「運輸・通信手段の発展が」→民族意識を高めた この二つを書くことが課題。

 ところが予備校の解答は、いやたぶん多くの受験生も次のようにとらえたはずです。

 1「運輸・通信手段の発展が」→植民地化をうながし→(植民地化の結果・影響として)民族意識を高めた→さまざまな抵抗をした、と。

 つまり2が書けない。列強だけが手段を使ったと書いています。

 ある予備校の解答では数例の解答をあげていても、2の部分はほんの10字程度しか書けておらず(T)、まったく言及していないものもあります。そもそも問題をまったく理解できなかった予備校の解答もあります。「手段」と「民族」の関係が分からないため、いくら解答例をたくさん並べても無駄でした。よく書けているのは予備校(K)でしょう。不十分な点はあるものの問題を理解できたのはここだけでした。問題を理解するといっても、何も深読みをしなくてはならない訳ではなく、文章をそのまま素直にとるだけのことですが……。2の答え方が分からないため避けた、というのが実状かもしれません。

 しかし過去問を知っているはずの予備校としてはなさけないことです。「はず」であって過去問を研究している講師は実は非常に少ない(センター試験という基本的なものでさえ、研究しているひとは、わたしの周りには一人しかいません。予備校は「しゃべり」でなんとかやれますし、学生もだまされやすい集団です。経営者も学生さえ集めれば講師の授業内容や質は問わない世界です。調理師免許をもっている料理人の料理のほとんどがまずい料理であるように、予備校とて一般の世界と何も変わらない、ということです)。

 

 実はこの問題を見て、ピンときた方々もいたはずです。とくに進学校の高校教師の中にはおられるでしょう。過去問1982年の第1問の移動問題と1976年の鉄道問題の混合です。前者の問題は『世界史論述練習帳new』(パレード)にのせる予定でしたが紙幅の都合で削ってしまいました。解答だけはこの参考書の p.19~20 のコラム(ここだけの話)「解答用紙の使い方」に解答例としてのせています。二つの問題は良問です。良問とは応用が効く問題で、いろいろな問題に対処する力を養ってくれる、という意味です。わたしは授業でみっちり学生に教えました。

  センター試験の文章にこの問題に近いものが載っています。

(1)産業革命は、人やものの流れを加速させる一つのきっかけとなった。技術革新による産業の発展は、原料や労働力の大量輸送の必要性を高め、交通・輸送手段の発達を促したのである。19世紀には、蒸気機関を動力源とした鉄道や汽船の普及が見られた。貿易の拡大や人の大量移動(移民)はもとより、19世紀末~20世紀初頭の帝国主義の時代における植民地獲得競争や海外進出も、こうした交通・輸送手段の発達に支えられていた。鉄道が19世紀の資本主義国の経済発展と深く結び付いたように、20世紀に入って大量生産が可能となった自動車という交通・輸送手段は、アメリカ合衆国の繁栄と深く結び付いていた。(1999年度本試験)

(2)19世紀になると、インド洋を媒介として、南アジアからの労働者の大規模な移動が始まった。ガンディーは、22年間南アフリカに滞在して、弁護士としてインド人移民労働者の権利を守るために尽力していた。マレー半島の英領マラヤ植民地のように、南アジアから労働者を組織的に誘致して、新しい産業の労働力を確保する植民地政府も現れた。インド洋沿岸に新たな国民国家が多数出現した後も、国境を越えた労働者の移動は常態化している。……(2001年度本試験)

(3)16世紀ごろから貿易で発展したスマトラ島西北端の[   ]は、東南アジアのイスラム教徒がメッカ巡礼に向かう出航地の一つであった。イスラム教徒のメッカヘのあこがれは強く、聖地としてばかりでなく、宗教知識を学ぶ場としても重視された。また世界各地からイスラム教徒が集まるメッカは、情報交換の場でもあった。交通事情が大幅に改善された19世紀後半、巡礼者は急増し、メッカには東南アジア出身者の居留地も発展した。東南アジアのイスラム教徒は、イスラム世界の中で帝国主義列強に脅かされた地域の状況や、イスラム改革運動の動きをここで知ることができた。[   ]のオランダに対する抵抗運動も、メッカが情報発信地となって各地に伝えられた。(2002年度追試)

 

 これらの運輸・交通手段をつくった欧米側だけでなく、植民地化されたアジア・アフリカの人々も利用したことが示されています。このセンター試験の文章の中だけでも、「手段」たる「鉄道や汽船」「自動車」、「民族」側としては「労働力」「労働者」「移民労働者」「出稼ぎ」「巡礼者」とあり、「高める」例として「権利を守るため」「改革運動」「抵抗運動」「情報交換」「情報発信」とあります。

 解答の手始めとして、<1>指定語句にある「手段」をつくって植民地化を推進したものと、民族運動の側で逆利用したものとに分ける構想メモがひとつ。

 <2>手段(鉄道・汽船・通信・運河)毎に列強と植民地(半植民地)側の利用のしかたを説明する、もうひとつの構想メモもつくれます。

  <1>指定語句だけで振り分けると、

 帝国主義側:バグダード鉄道 モールス信号 マルコーニ 汽船

  その実例としての 義和団 日露戦争 

 民族運動の側:ガンディー スエズ運河 イラン立憲革命

 (スエズ運河・汽船・イラン立憲革命などは、どちらの側でも使えますが、受験生の知識によって振り分けたらいいでしょう。迷っても、どちらかに無理にでも分けた方が明快です。受験は思いっ切り、決断を必要とします。制限時間も課題ですから。ただし、これら指定語句は、単につなぎ合わせたら良いという課題ではありません。あくまで手段(の発展)との関連で説明しなくてはなりません。予備校の愚を犯さないように。)

 <2>指定語句にプラスしたい語句は( )に

 鉄道:バグダード鉄道(3B政策)、(シベリア鉄道→)日露戦争、(民族運動側の利用・破壊)

 汽船:(大量商品・軍隊の輸送)義和団(8ヶ国出兵)、(民族運動側)ガンディー(留学・亡命)(出稼ぎ・巡礼) 

 通信:(商品価格・反乱情報)モールス信号 マルコーニ (民族運動側の情報)イラン立憲革命

 運河:スエズ運河(パナマ運河←─無くてもいい、運輸の短期化)……「汽船」といっしょに使ってもいい

 

 植民地(半植民地)の側がどう手段を利用したかの知識は、受験生にあまりないでしょう。上記の(民族運動側の利用・破壊)(留学・亡命)(出稼ぎ・巡礼)は想起できないのではないか。東大の過去問を勉強していたら容易なことですが、ここは使いにくそうなものを簡単にコメントしておきます。

 「バグダード鉄道」だけでなく、鉄道は手段そのものであり、一般の旅客輸送だけでなく、市場を内陸に拡大し、港湾への輸送、反乱鎮圧軍を迅速に派遣する軍用鉄道でもありました。路線周囲の鉱山・森林の開拓が伴ったので、鉄道を敷くことは鉄道周辺を勢力圏にすることでした。しかし民族運動の側としは、東大の過去問にエジプトの例があげてあるように「各地で鉄道が切断された。駅や電信設備を襲撃して破壊する、村民こぞってレール・枕木・電柱を運び去る、そして復旧作業のイギリス軍を攻撃する、というように。しかし他方、民衆が鉄道を制圧し活用することもあった。ただ乗りで列車の屋根まであふれた大衆が、停車駅ごとに周辺の村々の村民と大交歓集会をひらいていった、……」と。

 「モールス信号」の有線電信から「マルコーニ」の無線電信へ手段が発展し、世界各地の市場価格・反乱情報を伝えました。

 問題文の導入部に「ロイター通信社」のことがわざわざ出てきます。ロイター通信社は今回のイラク戦争でも頻繁に名前が出てきたので、これは一体どういう組織なのかと疑問に思われたひともいるでしょう。世界のメディアにニュースを提供するニュースの元締めです。全世界に特派員を豊富に派遣していますから、派遣する余裕のない新聞社・テレビ局がこのロイターと契約してニュースをもらっているのです。いや、契約して買っているのです。小学館の事典では、ロイターのことを「イギリスの国際通信社。多角的な事業を展開する。おもな業務は、金融市場向けグローバル情報提供、ニュースの配信、金融取引の仲介、リスク管理サービス、ビジネス情報の提供など。一次産品に関する価格指数であるロイター指数も同社の作成になる」と説明しています。1851年に設立されたこの通信社は、クリミア戦争(1853~56年)の情報を刻々と伝え、リンカーン大統領暗殺(1865年)の報をいち早くヨーロッパへ伝えたことでも知られています。また上の説明のように単なる通信社ではなく、イランのカージャール朝政府に食い込み、ペルシア銀行を設立(1889年)して送金の手続きもおこなっていました。すでにロイターは鉄道敷設権、鉱産物採掘権などの広範な利権ももらった(1872年)人物でした。ホームページは以下のアドレスです。ここに通信社の歴史がのっています。

http://about.reuters.com/

 通信社の歴史について興味があれば、里見脩著『ニュース・エージェンシー』 <中公新書>がいいでしょう。

 「マルコーニ」についてはセンター試験で「マルコーニによる無線電信の発明は、情報伝達に新時代をもたらした」という正しい文章で出ています(2000年)。マルコーニはイタリア人ですが英国に渡って(1896年)、無線電信ネットワークを提案しました。これは海底ケーブルの有線電信と比べて3倍のスピード、50分の1のパワー、5%のコストで帝国内の通信を可能にするという画期的なものでした。「大英帝国」政府は充分これを利用しました。

 「イラン立憲革命」は民族運動の側でも使えます。ただし、日露戦争の日本勝利が刺激となりイラン立憲革命が起こった──という使い方をすると、まちがいではないとしても問題のテーマからはずれ、手段の発展抜きに民族運動を説明したことになります。これは過去問の問題文が指摘しているように、油田の出稼ぎ労働者が「石油のため、20世紀初めには多数の東洋人労働者を集める国際色豊かな町となった。……革命運動でも、バクー在住のイラン人の役割は大きかった」という文脈での使い方です。つまり国外のイラン人は、王朝の腐敗・無能をあばき、イランの後進性と進歩の必要性を熱く論ずる新聞や本を発行しました。これはまさに通信手段の発展とかかわります。実際、革命運動が大きくなってくると、出稼ぎのイラン人石油労働者やグルジア人革命家がタブリーズ蜂起を支援するために次々と駆けつけました。

 「ガンディー」について予備校(K)は「ガンディーは映像メディアも巧みに利用して非暴力不服従運動への民衆動員や国際世論の支持獲得を実現した。」と書いていますが、これは学生に書けない解答です。間違いではないですが。たとえば、以下には数多くの新聞写真がのっています。

http://www.gandhiserve.org/cgi-bin/if/imageFolio.cgi?direct=Publications&img=20

 このような学生に書けないものではなくて、過去問の「イギリスに留学して法律を学び弁護士となったガンディーは、1893年から20年間も南アフリカにあって、その地のインド人の地位向上のために活動した。彼の非暴力抵抗の思想の原型はこの活動の中でうみ出された」という文章のように世界的な活動が可能であったのは運輸手段(汽船)の発展によることを示せばいいでしょう。それにガンディーがイギリスに学び、南アフリカで弁護士活動をしたことは多くの教科書が言及しています(清水書院、山川出版社、三省堂など)。先に引用したセンター試験の(2)にも書いてあります。

 

 事務的な要求の面では、字数が17行(510字)、指定語句数が9つは、過去に例がありません。指定語句に下線を付せ、という指示がないのは過去に例はありますが(1972年、1974年、1986年の第2問C、1991年)、最近では珍しい。ある参考書には「下線を引けとの指示がなくても引いておくのが常識」とあるそうですが、どうして「常識」なのでしょうか? 非常識です。問題は指示されたことを、そのとおりに応えることが課題です。余計なことを書くことは減点の対象です。もしそうでなければ、下線を引け、とあっても引かなくてもいいことになります。下線ごとき細かいことは採点外だろう、採点を甘く、というのが受験生の願いでしょうが、採点官の立場からすれば、この程度のことがちゃんとできないようでは、あがっているなあ、クールに対処できていない、……官僚養成大学としては失格と判断するでしょう。

 

[第2問の解き方

 問題の出し方は、昨年度のややこしい問い方を止めて元に帰りました。昨年のように、解答は簡単なことなのに、凝って、ややこしい問い方にしても良問とは言えないでしょう。

(A)

(1) カロリング・ルネサンスといわれるもの(当時は「ローマ文明の復興」)に出てくる必須の人物です。「聖書などの写本作成に尽力した」かどうかは知らなくても「イギリス出身」で分かるはず。アルクィン、アルクイン、アルクイヌス(Alcuin、Alcuinus)です。 「彼を宮廷に招いた王の名」は西ローマ皇帝を名乗る人物です。

(2) ヘレニズム文化の例として出てくる人物です。ヘレニズム文化の中心都市はどこ? という問と同じです。「アラビア語訳からラテン語に翻訳された」という現象自体を「12世紀ルネサンス」といいます。「12世紀ルネサンス」という語句は論述向きにも知らなくてはならないもの。1986年、1995年、1999年度の第1問に使うべき語句です。

(3) (2)のつづきです。「古代の哲学者[ 〔1〕 ]の論理学や自然学」と「自然学」もあげてあり、「彼の著作を注釈したコルドバ生まれの哲学者[ 〔2〕 ]」と関連するのはアリストテレスしかいません。この時期、アリストテレスという巨人は自然学・形而上学の万学を網羅しているため、膨大な翻訳と、それを消化することが大きな仕事になりました。「アリストテレスの論理学以外の著作は、中世後期の学者達に広範な自然科学の百科事典を提供した」ほどでした(ジョン・マレンボ著、加藤雅人訳『後期中世の哲学1150~1350』勁草書房)。

 「コルドバ」はこのアリストテレス翻訳の中心地でした。このアリストテレス哲学はイスラム教神学にも応用され、研究されました。このルシュドの研究書をラテン語に翻訳しつつ紹介したのがパリ大学のアルベルトゥス=マグヌス、その弟子トマス=アクィナスがアリストテレスを学んでスコラ哲学を完成する。このつながりは私大でもよく出題されます。東大の過去問(1987年)にも問われています。東大文学部の講義内容に「イスラム学演習:イブン・ルシュドの哲学擁護の書『自滅の自滅』のVan Den Berghによる英訳 と注釈をテキストとして読みながら、イスラム哲学とギリシャ哲学の関係、イブン=ルシュドと先行する哲学者(イブン・シーナ-、ファーラービーなど)との関係、イスラム神学と哲学の論争点などについて考察する」とあります。

(4) 細かい問題。ブルネレスキとブラマンテの区別ができるかどうか、サンタ=マリア大聖堂(サンタ=マリア=デル=フィオーレ大聖堂、花のドーム、花のドゥオーモ、Duomo - Cathedral of Santa Maria dei Fiori)の写真は教科書には載っていないでしょう。全部を見ていないので確かではありませんが。

 以下の写真でこの建物の異様さが見て取れるでしょうか。

http://www.arch.mcgill.ca/prof/sijpkes/arch374/winter2001/sfarfa/ensayo1.htm

 この巨大建築物は、目の前にすると、その白さでど胆を抜かれます。なぜこれが500年以上も前の建物なのか。ほんとかいなあ、と疑問と感嘆にとらわれます。この建築と建築家ブルネレスキについて、ちょうど作問の頃の昨年6月にすぐれた著書が出版されました。ロス・キング著、田辺希久子訳『天才建築家 ブルネレスキ フイレンツェ・花のドームはいかにして建設されたか』(東京書籍)です。これによるとブルネレスキは頭の大きい小柄(1m53cm)な人物で、目覚まし時計をはじめてつくった時計職人・金細工でもあったことが書いてあり、中世・ルネサンス時代のエピソードもよく載っています。専門的な本でありながら面白い本です。ブルネレスキを描いたものではないが、ケン=フォレットの『大聖堂(上~下)』(新潮文庫)は大河ドラマ風ですが、建築家の一族を描いた面白い読み物です。これも教会建築の描写がすばらしい。

 なお「大聖堂」と「大」がつくのは司教以上の地位の聖職者がそこに居ないと「大」をつけて呼ばないのがカトリックのならわしらしい。「大」型という意味ではない。

問(5) 『詳説世界史』では「ルネサンス時代のイタリアは、多くの都市共和国・諸侯国・教皇領に分裂した小国際社会を形成し、抗争がたえなかった。このような分裂状態は列強の介入をさそい、15世紀末から16世紀なかばころまで、イタリア戦争とよばれる覇権争いが続いた。」と問と答えそのままに書いてあります。イタリアが統一、あるいは同盟して外敵に当たれる状況になかったということです。モンゴル人の遠征の大成功も侵略した地域に強大な統一国家がない状況が幸いしました。問題は「政治状況」ですが、ねらいはイタリアの富です。

問(6)  簡単すぎる問題。大歓迎。

 (B)

(7)北宋の思想家としては、周敦頤・程 (景+頁、こう)・程頤(ていい)などの宋学前期を構成する思想家があり、朱熹は程頤の学派に属する李 (人偏+同、りとう)に師事しました。広くは司馬光もあげられます。朱熹は『資治通鑑綱目』を書いているからです。

 「新しい儒教」新儒学(Neo-Confucianism)ともいう「儒教は、その後中国でどのように扱われたか」は国家がどう扱ったか、という問です。かれの生きた南宋では偽学として退け、元朝になって科挙が一時的にも復活したときに採用され、明清では国学(国家教学)として扱われました。過去問(1987年)に「宋代に朱熹によって大成された宋学は、後世の中国歴代王朝で儒教の正統な学派とされ、また近隣諸国でも官学として受けいれられていった。その理由と思われるところを述べよ。」という別の問題があります。

 元朝は儒教を蔑視したのではないか、と思われるむきは、儒学者の誇張であって実際は宮廷にも朱子学者(郭守敬)はいましたから、浅薄な見方です。平凡社百科事典の「朱子学」の項目では「その晩年の〈偽学の禁〉によって絶学の淵に立たされたが、各地に散在した門人の活躍によってしだいに社会的地歩を固めてゆき、ついに元の延祐元年(1314)、朱熹の定めた経典解釈が科挙の標準的テキストに採用される。これより元・明・清にわたる600余年のあいだ、朱子学は国家教学の座を専有するのである。」と説明しています。

 『世界史論述練習帳』の巻末問題に「元代の中国文化について、儒学・文学・書画・技術面の発展について述べよ。(指定語句→)朱子学 元曲 」という問題があり、「儒学では朱子学が普及する。元曲・白話小説がはやり、文人画が完成した。技術面ではイスラムの天文暦学・数学・地理が発展した」と答えています。南宋期に排斥された学問は元朝の時代に士大夫に普及します。

(8) 道教の源流を問う問題。『詳説世界史』に「仏教の隆盛に刺激されて、このころ道教が成立した。道教は古くからの民間信仰と神仙思想に道家の説をとり入れてできたもので、北魏の寇謙之は新天師道をはじめ、国家宗教として教団の形成につとめた」とあります。老荘思想ともいう道家の根本的な考え方に「無為自然」があります。諸子百家のところで学ぶ語句です。

(9) 戯曲「シャクンタラー」の概要は次のホームページで知ることができます。

http://www1.odn.ne.jp/aaj25640/sakunta.htm

 「完成した叙事詩」はもともと紀元前に原型ができてグプタ朝期に完成したものとみなされているものです。二つあり、『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』。手ごろにその面白さを紹介したものが、山際素男著『マハーバーラタ インド千夜一夜物語』(光文社新書)です。物語に見られる想像力の幅の大きさに、面食らい、呆れかえります。

(10) 統一王朝の王はソンツェンガンポです。当時の中国の王朝は唐。唐の大宗(李世民)から文成公主という名前の皇族が王の長子に降嫁して(640年)外交関係をもち、長子の没後にソンツェンガンポ王と再婚しています。この国を唐ではなんと呼んだか、という問。「拓跋」の名前に発音が似ていて、その由来が云々される国名です。

 

[第3問の解き方

(1) 「15世紀の明代」「大艦隊」といえば鄭和。「鄭」の漢字が正しく書けるか。最近ある研究者によると、この大艦隊は1421年から1423年にかけて世界一周に成功し、艦隊の一部はアフリカ南端から北上してカリブ海沿岸、今のカリフォルニア沖などにまで達したという。これを伝える記事のひとつ「人類初の世界一周は中国人?」は以下。

http://tanakanews.com/c0502china.htm

 (2) 駅伝制ですが、歴史の名称はできるだけ具体的であるほうがいいので、ここはジャムチか站赤(制)がいいでしょう。マルコ=ポーロが感嘆して書いている制度です。「義務」付けられた周辺の住民(站戸)にとっては大変な負担でした。

 (3) 細かいですが、センター試験でも出ました。「インド洋の航海は、伝統的に、ダウ船と呼ばれる帆船で行われてきた」(2001年本試験)。クウェートの国章にはダウ船が描いてあります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/クウェートの国章

アラブのダウ船〔Dhow〕の絵・写真がのっている二つのサイトは以下。

http://hempmuseum.org/SUBROOMS/HEMP%20SAILING%20SHIPS.htm

http://www.specialproductions.com/gallery/sec_pages/Sambuk.htm

 (4) 「イギリス産業革命を代表するある都市へ石炭」でマンチェスターがすぐ出てくるでしょう。Bridgewater Canal の歴史は以下に写真とともに述べてあります。

http://freespace.virgin.net/tony.smith/mining.htm

マンチェスターとのつながりを地図で示しながら解説しているのは以下。

http://www.thewaterweb.net/Canals/Briwater/Briwater.htm

運河に船を浮かべ、それに石炭を満載して、船の先に結びつけた紐を引くのが馬でした。運河の両脇に馬の走れる道(horse-tramway 馬用の路面軌道)をつけた独特のものです。 

(5) これも「ハドソン川の定期商船」「蒸気機関を用いて」で人物名はなんとか想起できそうです。ただし蒸気機関車のスティーヴンソンとまちがえやすい。フルトンです。2000年度のセンター試験で双方とも名前が出ていて区別ができるか問うています。フルトンが単なる造船だけの人でないことは以下のホームページが紹介しています。

http://www.kanazawa-it.ac.jp/dawn/181001.html

 次の「大西洋横断に成功した船舶の名称」は細かい。ハドソン川を航行した(1807年)したのは「クラーモント号」でしたが。この船はサヴァンナ号といいます。以下に絵があります。

http://www.hhpl.on.ca/GreatLakes/scripts/Page.asp?PageID=352

 問(6) 大陸横断鉄道は国境線をはずしていけば、知らなくても多分(c)が選べます。『詳説世界史』の地図にものってはいますが。(a)と(e)はカナダとメキシコの国境線であり、その近くの(b)と(d)は国境線に近すぎます。

大陸横断鉄道が完成したときの写真は次にあります。

http://cprr.org/ 

 このHPの中に、大陸横断鉄道の地図があり、1870年発行の地図がのっています。

http://cprr.org/Museum/Maps/

(7) 趣味的な問題。「1883年」とあるから、ミドハト憲法(1876年発布、77年停止、1908年復活)のときのスルタン、アブドュル=ハミト(位1876~1909)です。タンジマートのアブドュル=メジト1世(位1839~61)とまちがえないように。「終着駅」はオスマン帝国の首都です。

オリエント急行の日本語ホームページは以下。

http://www.orient-express.co.jp/top.html

 それより「1883年……近代のツーリズムの幕開けを告げた」という文章はなんなのか? 一般に「近代のツーリズム」はトマス=クックから始まるはずで、「1883年」を「幕開け」とは理解しがたい。若いバプティスト教会の牧師トマス=クックが禁酒運動の一貫として特別貸し切り列車をしたてててからではないか。とくに万国博覧会を見せるために一般向けの団体旅行をはじめるようになってからではないか。

(8) 鉄道をしく権利をなんというか。

 (9) 北京条約(1860年)で獲得した沿海州の最南端につくった町。次に地図があります。JAPANの西です。

http://geography.miningco.com/gi/dynamic/offsite.htm?site=http://www.lib.utexas.edu/maps/commonwealth.html

(10) 「蒸気機関を使って」いない鉄道は何で走るようになったか、「地表すれすれの浅い路線に限られていた……テムズ川の川底を横切る新路線」は何かという問。帝国書院の『高等世界史B』には「市電(1900年ごろ、マルセイユ) パリの地下鉄建設(1900年開業)都市交通の発達19世紀には大都市の発展にともない都市交通が発達し、鉄道馬車・蒸気市街鉄道が生まれた。1881年にはベルリンで市街電車(市電)が、1890年にはロンドンで電車による地下鉄が登場し、まもなく欧米諸国の大都市もそれにつづいた。この結果、都市の人々の生活圏と通勤圏が大きく拡大した」という記述があります。答えは正確には、地下の電車です。ロンドンでは tube、パリではMetro、ニューヨークではsubwayと呼んでいるものです。

次のホームページにニューヨークの工事中の写真がでています。

http://www.pbs.org/wgbh/amex/technology/nyunderground/abprogram.html

 (わたしの解答例)

第1問  

 わたしの解答例は『東大世界史解答文』(電子書籍・パブー)に1987年から2013年までのものが載っています。

第2問

(1)アルクィン、カール1世

(2)アレクサンドリア、12世紀

(3)アリストテレス イブン=ルシュド

(4)サンタ=マリア大聖堂(サンタ=マリア=デル=フィオーレ大聖堂、花のドーム)、ブルネレスキ

(6)シュリーマン、ホメロス

(5)多くの都市共和国・諸侯国・教皇領に分裂し、たがいに抗争がたえなかったから。

(7)周敦頤、程コウ(景+頁)、程頤、司馬光のうちだれか一人。 南宋期には偽学とされたが元朝で普及し、明清の官学となった。

(8)老荘 無為自然

(9)カーリダーサ、ラーマーヤナ(マハーバーラタ)

(10)吐蕃

第3問

(1)鄭和 (2)站赤(ジャムチ) (3)ダウ(船) (4)マンチェスター (5)フルトン、サヴァンナ号 (6)(c)

(7)アブデュル=ハミト2世、イスタンブール

(8)鉄道敷設権 (9)ウラディヴォストーク (10)地下の電車

東大世界史2002

第1問

 世界の都市を旅すると、東南アジアに限らず、オセアニアや南北アメリカ、ヨーロッパなど、至る所にチャイナ・タウンがあることに驚かされる。その起源を探ると、東南アジアの場合には、すでに宋から明の時代に、各地に中国出身者の集住する港が形成され始めていた。しかし、中国から海外への移住者が急増したのは、19世紀になってからであった。その際、各地に移住した中国人は低賃金の労働者として酷使されたり、ヨーロッパ系の移住者と競合して激しい排斥運動に直面したりした。たとえば、米国の場合、1882年には新たな中国人移民の流入を禁止する法律が制定された。米国がこのような中国人排斥法を廃止したのは第二次世界大戦中のことであり、大戦後にはふたたび中国からの移住者が増加した。

 上述のような経緯の中で、19世紀から20世紀はじめに中国からの移民が南北アメリカや東南アジアで急増した背景には、どのような事情があったと考えられるか、また海外に移住した人々が中国本国の政治的な動きにどのような影響を与えたか、これらの点について、解答欄(イ)を用いて15行以内で述べよ。なお、以下に示した語句を一度は用い、使用した場所に必ず下線を付せ。

 植民地奴隷制の廃止  サトウキビ・プランテーション  ゴールド・ラッシュ  海禁  アヘン戦争  海峡植民地  利権回収運動  孫文

 

第2問

 次に述べるX、Y、Zは、19世紀以降まで数世紀にわたり存続したアジアの大王朝である。これらの王朝には、独自性と共通性がみられたが、それらに関し、以下の(1)~(12)の設問をよく読み、各設問に答えよ。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(12)の番号を付して記せ。

f:id:kufuhigashi2:20130616082235g:plain

(A)各王朝は、それぞれ本拠地を移動させながら、形成され発展した。

問(1)Xの本拠地について、移動前と移動後の地点を地図中の記号から選び、ア→イのように記せ。

問(2)Yは、16世紀前半に前王朝をこの地の戦いで撃破し、自己の王朝を創始した。その戦いの地の位置を地図中の記号で示せ。

問(3)Zが崩壊した後に、Zの支配民族は共和国をつくった。Zの首都の位置と新たな共和国の首都の位置を、地図上の記号でア→イのように記せ。﷯

(B)各王朝は、被支配者の信仰や宗教や慣習について、時には融和策で、時には弾圧策で臨んだ。

問(4)Xは、反抗する思想の統制と並行して、大叢書を編集した。その叢書の名前を記せ。

問(5)Yは、16~17世紀の間に宗教政策を大きく変えた。その変化を、関係する二人の皇帝の名を用い、3行以内で説明せよ。

(6)Zには、異教徒処遇の制度があった。その通称を記し、特徴を、2行以内で説明せよ。

 

(C)3王朝には、それぞれ少数民族が広大な領域を支配するという共通性があった。

(7)Xは、自己の軍事組織を支配地域に拡大した。それら軍事組織の構成員に対して与えられた土地の名称を記せ。

(8)YとZには、それぞれジャーギール制、ティマール制と呼ばれる類似の制度がみられた。両者の共通の特徴を2行以内で記せ。

 

(D)各王朝には、支配に反抗する動きが見られた。

(9)Xの統治の初期に、大きな反乱が生じた。この反乱の名称の由来となった地域を、すべて地図中の記号から選んで記せ。

(10)Yの統治に対して、17世紀後半に強く抵抗した王国があった。その本拠地の位置を、地図中の記号で示せ。

(11)Zの支配下では、18世紀に宗教的復古主義を唱える宗派が王国建設運動をおこした。その運動の中心地を、地図中の記号で示せ。

(12)これらの動きの対象となった3つの王朝名を、それぞれにX、Y、Zの記号を付して記せ。

 

第3問

 文明は都市の誕生とともに始まったといわれる。人間の歴史上に花開いた文明が多様であるように、都市もまた地域や時代によって様々な形態や機能をもち、変貌し続けている。都市に関する以下の設問(1)~(10)に答えよ。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(10)の番号を付して記せ。

(1)広大なローマ帝国内には多くの都市が建設された。それらの都市のなかには、今日まで栄えているものも少なくない。以下の(a)~(d)の文章の中から、起源がローマ帝国の時代に遡る都市について書いたものを2つ選んで、その記号と都市名をそれぞれ記せ。

(a)サン=バルテルミ祭日に、多くの新教徒がこの都市で殺された。

(b)ナポレオンは、この都市で大陸封鎖令を発した。

(c)第一回オリンピック大会が、この都市で開催された。

(d)ムハンマド=アリーは、この都市で開かれた会議でエジプト総督の地位の世襲を認められた。

(2)右の地図上の記号カはシラクサ、クはミレトスを示しており、いずれも古代ギリシア人が建設した都市であった。同じく古代ギリシア人が建設した都市を2つ、地図上の記号ア~コ(カとクを除く)の中から選び、その記号と都市名をそれぞれ記せ。

f:id:kufuhigashi2:20130616082607g:plain

(3)歴史上、首都の名称がそのまま国名として通用している例は少なくない。3世紀にローマの勢力が後退した機をとらえて、紅海からインド洋へかけての通商路を掌握して発展したアフリカの国(a)もその1つである。(a)の商人は、同じくインド洋で活動していたアジアの国(b)の商人と、インドの物産や中国から運ばれてくる絹の購入を巡って競い合った。この2つの国の首都の名称を、それぞれ(a)(b)の記号を付して記せ。

(4)図版Aに示したのは、10世紀に創建されたマドラサから発展した大学である。この大学が所在する都市名(a)と、これに対抗する形で東方各地の都市に設立されたマドラサの名称(b)を、それぞれ(a)(b)の記号を付して記せ。

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(5)西ヨーロッパでは、9世紀後半から10世紀前半まで都市城壁の建設や再建が活発に行われた。この時代に北西ヨーロッパの諸集落を襲い、城壁建設を促す要因をつくった人々の呼称(a)と、彼らが北西ヨーロッパにつくった国の名称(b)を、それぞれ(a)(b)を付して記せ。

(6)西ヨーロッパでは、中世盛期以降多くの都市に大学が創設された。このうち、当初から学生団体が大学運営の主体となった先駆的な大学がおかれたイタリアの都市名(a)と、この自治的な学生団体の呼称(b)を、それぞれ(a)(b)を付して記せ。

(7)図版Bは16世紀の城壁をもった都市を示している。このような突き出た稜堡(りょうほう)をもった城壁は、16世紀以降さかんにつくられた。戦術を一変させ、こうした城壁をつくらせた理由はなにか。10字以内で答えよ。

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(8) 図版Cの都市は、地中海沿岸の潟湖(ラグーナ)の島上にある。中世後期に東方と西方を結ぶ商業港として栄えたこの都市の名称を記せ。また当時から今日まで、この都市の特産品として有名なのは次のどれか。1つを選び、その記号を記せ。

 a 刀剣類  b 毛織絨毯(じゅうたん)  c 加工ダイヤモンド d ガラス工芸品  e 手描き更紗(さらさ)

f:id:kufuhigashi2:20130616082806g:plain

(9)宗教改革の一大拠点となり、「プロテスタントのローマ」と呼ばれたレマン湖畔の都市名を記せ。またこの都市出身で、自然を重んじ文明化を批判した啓蒙思想家の名を記せ。

(10)次の表は、1750年ごろの都市人口を推定し、当時のヨーロッパ七大都市を示したものである。このうち(a)は商業・金融の中心として知られ、また(b)は16世紀と17世紀に、2度にわたり包囲された歴史をもつ。それぞれの都市名を、(a)(b)を付して記せ。

 順位  都市名   推定人口

  1  ロンドン   675000

  2  パ  リ   570000

  3  ナポリ    339000

  4  [ (a) ] 210000

  5  リスボン   185000

  6  [ (b) ] 175000

  7  マドリード  160000

………………………………………

[第1問の解き方

 要求は二つです。

(1)19世紀から20世紀はじめに中国からの移民が南北アメリカや東南アジアで急増した背景には、どのような事情があったと考えられるか

(2)海外に移住した人々が中国本国の政治的な動きにどのような影響を与えたか

 ただ(1)の背景は指定語句からもすぐ判明するように、中国側の事情と欧米側の事情がありますから、三つの要求がある、ととっていいでしょう。

 移民という作用と、その中国への影響という反作用の問題です。古い問題に「秦漢統一帝国が成立し、やがて経済的安定が得られると、漢の武帝は周辺諸民族に対し、積極的な対外政策をとった。そのうち北方・西方との関係、およびそれの漢に及ぼした影響について述べよ。(1982)」と同類です。

 難化したというより悪化した問題です。東大らしくない。どこかの予備校のような練れていない細かい指定語句による出題です。1996年からの出題者の交代があったのでしょう。第二問・第三問にしてもそうですが、出題者たちはガンバッターァー ! という感じです。受験生の答案のできの悪さは問題のできの悪さとも比例することに気がついてくれたらいいのですが。細かくいじくりまわした、という私大のような出し方です。はじめは受験生の容量がわからなくて、こういう問題を出すものです。

 さて第一問から。

 指定語句の8個は変化なしでしたが、いままでの平易な用語からみると異様です。

 奴隷制廃止は頻度1(用語集は2001年12月1日発行のもの)、サトウキビ・プランテーションはなし、ゴールド=ラッシュが8、海禁9、アヘン戦争が19、海峡植民地が18、利権回収運動は頻度6、孫文が19でした。

 はじめの二つの語句が細かい。過去問の指定語句と比較してみるといいでしょう。実に平易なものが指定されています。詳細な語句を指定すると、これにひっかかって全体の構成がなかなか定まりにくい、独創的な、までいかなくても自由な構成をだしにくい──という難点をもつことになります。

 ただテーマである華僑(在外中国人/華人)はとくに難しいものではありません。広いテーマでもあり、この辺は東大らしさが残っています。

  ある予備校の分析では、移民の増大理由や政治的影響は世界史では扱われない、と嘆いていますが、そうでしょうか? わたしは学生に「16~19世紀にかけて中国の南部から大量の漢民族が世界各地に移住した。その国内的・国際的な要因と、どこに移住し、また孫文の政治運動とどのようにかかわったかを300字以内で説明せよ。」という問題をつくって学生にやらせました。京大志望者にやらせたのであって東大志望者でない点がずれていましたが。これは京大でも未出題で、出題される可能性があるとみて作問しています。

 たとえば、教科書でもバラバラのページではあるものの、「華僑」は結構あります。

 『詳解世界史』(三省堂)の例では、

1 宦官鄭和におこなわせた7度に及ぶ遠征は、遠くはアフリカの東海岸にまでいたり、沿岸諸国に朝貢貿易をうながした。これは中国人の世界認識を広め、華僑の東南アジア進出に道を開くことになった。

2 16世紀後半からは華僑や西洋商人のもちこむメキシコ銀が大量に流通するようになった。

3 土地を失った農民は流民化し、辺境の開拓に出たリ、海外に移住して華僑になったりした。

4 ヴェトナムでは、16世紀にはいると黎朝が衰えはじめ、16世紀末からは北部の鄭氏と南部の阮氏が国土を二分して、抗争をつづけるようになった。二つの勢力はそれぞれ外国商人と結びつきをもったが、阮氏政権は華僑勢力と結びつき、メコン=デルタへ進出した。

5 この時期の東南アジアには、多くの華僑や日本人が進出した。そのため、貿易港には華橋街や日本町も出現したが後者は江戸幕府の鎖国により姿を消した。

6 興中会の注:孫文が日清戦争中にハワイで組織した結社で、華僑資本から資金援助を受けた。洋務運動以後増加していた在日留学生のあいだに大きな影響力をもった。

7 イスラム同盟の注:サレカット=イスラムともいわれる。当初はジャワの商人が華僑に対抗するために結成された。

 

 東大の過去問にも、本テーマと似たものがあり、華僑にかんすることも出ています。

 1982年度の第一問 (A)兄を頼ってハワイに渡りホノルルの高校で学んだ孫文は、香港などで医学を修め、ポルトガル領マカオで開業したが、やがてそこを追われた。日清戦争直後、華僑の援助を得て広州に挙兵したが失敗し、アメリカ・ヨーロッパを経て日本に亡命した。……

 1986年度第2問B 19世紀半ば以降、各国植民地に中国・インドからの労働力の移動が増大した。その理由、移動先、ならびに従事した仕事の内容について述べよ。……ほとんどこの問題を中国にかぎって拡大した問題でした。

 1991年度の第二問(D)明の半ばから清代にかけて、経済が大いに発達した。農業移民がさかんになったほか、遠隔地を遍歴する商人集団がおこり、また海外に進出する華僑が多くなった。

 設問

 国内諸都市や華僑居留地で、会館や公所とよばれる組織が発達した。この組織の特色と役割を、解答用紙に3行以内で述べよ。

 1999年度第二問の問に「問(5) 19世紀後半から20世紀にかけては、南アジアや東南アジアでは、輸出向けの一次産品生産が発展し、そのために多数の労働者が海外から移動した。」とあります。

 

 苦力・華僑と指定語句がうまく結びつけれるかが課題です。

 「植民地奴隷制の廃止」と華僑のつながりは「苦力 coolie 」という用語、あるいは奴隷にかわる代替労働力として知っているかどうかにかかっています。ただ苦力はかの用語集には載っていませんが。『詳解世界史用語事典』(三省堂)にはのっています。もっとも載っている載っていない以前に論述では不可欠な用語のひとつです。

 華僑と「サトウキビ・プランテーション」はどうでしょう? 

 「ゴールド・ラッシュ」と中国人は結びつけにくいのであれば、米国の経済発展・西部開拓の一環として説明できます。「海峡植民地」はゴム農園が浮かばなければ、東南アジアにおけるプランテーションの発展と華僑を結びつければいいでしょう。

 「アヘン戦争」による「海禁(鎖国)」の破綻は難しくないはずです。 

 

 指定語句をよく見れば、それは「急増した背景」が中国側の事情と、欧米側の事情に分けることができます。

 中国側の事情→ 海禁 アヘン戦争

 欧米側の事情→ 植民地奴隷制の廃止 サトウキビ・プランテーション ゴールド・ラッシュ  海峡植民地

 影響→ 利権回収運動 孫文

 

 ただ指定語句がこのテーマを解くための必要充分な条件ではありせん。中国側が少ないことは上に並べてみて、たった二つしかないことで判明します。ほかにもいろいろ考えれますし、また指定語句以外の背景・影響がどれだけ書けるかも答案の質を左右するでしょう。「以外」のものを以下にあげてみます。

 中国側の背景→ 18世紀末から19世紀にかけての中国の人口急増(これはセンター試験にもグラフとともに出ている基本的な知識のはず<1993年度>、もっともインターネット上の予備校の解答にはこれを書いたものがない)、地主制の拡大による農民の没落の進行、そして19世紀前期の欧米列強の中国への侵出(アロー戦争と不平等条約、これは東大の過去問にもあり<1989年度>)

 欧米側の背景 →市民革命やキリスト教の運動による奴隷貿易の廃止、植民地における奴隷労働の廃止、米大陸横断鉄道の建設(アイルランド移民も)、主に西欧列強による植民地形成期であったこと(これも当り前すぎるが欧米側の事情ではある)、苦力貿易

 このうち「米大陸横断鉄道の建設」については教科書でも「アジアからも、はじめ多くの中国人労働者が大陸横断鉄道建設のために流入し」とあります(『詳解世界史』)。

 

 利権回収運動とは、清朝が列強に与えてしまった鉄道や鉱山の利権(利益を生じる権利)を回収し、民族資本によって運営しようとする行動です。これについては具体的に書いたものとして岩波新書の『中国近現代史』があります。著者は東大教授二人。「1904年、清朝から粤漢(えつかん)線の敷設権を得ていたアメリカの企業が、南端の一部分を敷設しただけで、株の三分の二をベルギー資本に売却し、これが同線の主要部を建設することになった。これに対して、広東、湖南、湖北で抗議の世論が沸騰し、ついで外国資本に握られた鉄道と鉱山の利権を回収し、自力で建設・経営しようとする運動が各地に起こってきた」と説明しています。この新書は受験生に薦めます。中国近現代史を知るにはこれほどいい参考書はない。

[第2問の解き方

 細かい知識。

問(2)Yは、……その戦いの地の位置を地図中の記号で示せ。

この戦いはパーニパットの戦いですが、地図で確かめている学生はどれだけいたでしょうか? デリー市からまっすぐ北にある町。問(3)も、問(9)も、問(11)も、あとの【3】にも地図問題が出てくるように、地図で歴史的位置を確認してこい、という要求です。

問(3)イスタンブルからアンカラへ。

問(8)YとZには、それぞれジャーギール制、ティマール制と呼ばれる類似の制度がみられた。両者の共通の特徴を2行以内で記せ。

 この「ジャーギール制、ティマール制」は細かい。ジャーギール制(用語集ではジャーギールダール)は頻度1、ティマール制は頻度7。これを説明させたのは無謀。捨ててもいい問題。もしティマール制がイクター制と変わらないことを知っていたら、その説明をすればいい。

問(10)マイソール王国の位置。

問(11)ワッハーブ派の根拠地はアラビア半島東部。サウード家が支持してくれて、現在のサウディアラビア王国もできてくる。

[第3問の解き方

 東大教養主義とはこういうことをいうのか、とあきれる問題群です。(わしは知っているが)お前ら知ってるか? というヒソヒソしたペダンティックな声が聞こえてきそうです。

問(1)(a)パリ、(b)ベルリン、ミラノ、(c)アテネ、(d)ロンドン

 ベルリンはドイツ人の東方植民の結果できるもの。ミラノはケルト人による。ローマ時代は(a)ルテティア、(d)ロンディニウム。教科書のローマ史地図にはでています。

問(3)奇問に近い難問です。(a)キリスト教国家。(b)インドの国でなくて、3世紀にインド洋まででかける位置にある国は? と推理して226(爺むさいササン朝……語呂)年からスタートする王朝、その都はパルティア王国と同じのはず。いくつもの推理をかさねていく段々畑問題。早稲田・政経なみ。

問(4)(a)写真でパッと分かるものはいないでしょう。問題文の「10世紀に創建」がヒントになります。年号をおぼえていないとできない。(b)セルジューク朝が(a)に対抗したとは宗派のちがい。こちらはスンナ派で(a)はイスマイール派(シーア派の一派)。

問(6)(b)大学「ユニヴァースティ」のもとになったラテン語名を問うています。これも首をかしげたくなるような問題。

問(7)「16世紀……戦術を一変」がヒント。火器の登場から理由を推理させる問題だが、世界史の問題としては狂問でしょう。日本にも五稜郭や竜岡城があります。星形の出っぱったところに大砲をおいて、攻めてくる攻城兵に対し、左右の角から砲火をあびせると攻めることができなくなります。

「稜堡式城郭」に興味があれば、次のHPに分かりやすく説明してあります。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~tsukuba/Ryo/Html/Index.htm

問(8)第一のヒントは「地中海沿岸の潟湖(ラグーナ)の島上」。交通手段であるボートでぐるりと回ると、まるで都市全体が海の上に浮かんでいるような錯覚をおぼえます。夢ではないかとさえ疑う不思議な都市です。「ベニスを見て死ね」ということです。 特産品はムラノ島の職人たちがつくっています。

問(9)カルヴァンの宗教改革の地。渡り歩いた女たちに産ませた子らを修道院にじゃんじゃん捨てたので「ジャン・ジャック」というのが頭に付くひとです。

問(10)(a)「商業・金融の中心」、17世紀が最盛期ですが、英蘭戦争とルイ14世に攻められて没落しだしたものの英国の登場前までは金融の中心だった。(b)「2度にわたり包囲され」で簡単。

 

(わたしの解答例)

第1問  

 わたしの解答例は『東大世界史解答文』(電子書籍・パブー)に1987年から2013年までのものが載っています。

第2問

設問A

 問(1)イ→ウ 問(2〉サ 問(3)ナ→ト

設問B

 問(4〉四庫全書

 問(5)16世紀のアクバルは、融合的な新宗教をつくり、回印融和をはかって非ムスリムへの人頭税を廃止した。17世紀のアウラングゼーブは、イスラム化のために寺院破壊や所有地の没収を命じ、人頭税を復活した。

 問(6)ミッレト制

非イスラム教徒がその宗教・習慣などを保持し、大幅な自治権をもつことを認めた制度。Zが衰退すると民族運動の中核となる。

設問C

 問(7)旗地

 問(8)主に軍人の家臣に土地をわりあてるものの土地所有権は与えず、徴税権をあたえ軍人自らの手で地代や租税の取りたてを行わせる。

設問D

 問(9)カ・キ・ク

 問(10)セ

 問(11)ニ

 問(12)X 清朝、Y ムガル朝、Z オスマン朝

第3問

問(1)(a)パリ、(d)ロンドン

問(2)ウ─マッシリア、キ─ビザンティウム

問(3)(a)アクスム(b)クテシフォン

問(4)(a)カイロ(b)ニザーミーヤ学院

問(5)(a)ノルマン人(b)ノルマンディー公国

問(6)(a)ボローニャ(b)ウニヴェルシタス

問(7)左右からの火砲発射(火砲の登場、大砲で城を守るため)

問(8)ヴェネツィア d

問(9)ジュネーヴ、ルソー

問(10)(a)アムステルダム、(b)ウィーン

東大世界史2001

第1問

 輝かしい古代文明を建設したエジプトは、その後も、連綿として5000年の歴史を営んできた。その歴史は、豊かな国土を舞台とするものであるが、とりわけ近隣や遠方から到来して深い刻印を残した政治勢力と、これに対するエジプト側の主体的な対応との関わりを抜きにしては、語ることができない。

 こうした事情に注意を向け、

   1)エジプトに到来した側の関心や、進出にいたった背景

   2)進出をうけたエジプト側がとった政策や行動

の両方の側面を考えながら、エジプトが文明の発祥以来、いかなる歴史的展開をとげてきたかを概観せよ。解答は、解答欄の(イ)を使用して18行以内とし、下記の8つの語句を必ず1回は用いたうえで、その語句の部分に下線を付せ。

 アクティウムの海戦、 イスラム教、 オスマン帝国、 サラディン、 ナイル川、 ナセル、 ナポレオン、 ムハンマド・アリー

 

第2問

 20世紀の戦争と平和に関連する以下の(A)~(C)の文を読み、設問(1)~(9)に答えよ。解答は解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(9)の番号を付して記せ。

(A)20世紀前半には、国際平和の確立や新しい国際秩序のための原則が、欧米諸国によって表明された。次のa~cは、それに関連する宣言や条約の抜粋である。

a.すべての国家に政治的独立と領土保全を相互に保障する目的で、全般的な諸国家の〔1〕連合組織が結成されなければならない

b.〔2〕本条約締結国は、国際紛争解決のため戦争に訴えることを非とすると宣言する

c.「ナチズムの暴政が最終的に破壊された後、すべての国民にたいし、彼らの国境内において、安全で、恐怖と貧困から解放される生活を保障する講和が確立されることを 〔3〕両国は希望する

(1)日本は下線部〔1〕の連合組織に参加し、後に脱退した。脱退の経緯を2行以内で記せ。

(2)下線部〔2〕の本条約とはなにか。その名称を記せ。

(3)下線部〔3〕の両国とはどこの国か。両国の国名を記せ。

 

(B)20世紀の西アジアの歴史をふりかえってみると、現代の中東諸国の原型は第一次世界大戦後にできあがったことがわかる。しかし、戦後イギリスやフランスの委任統治下におかれたアラブ地域では、アラブ人の意志とは無関係に将来の国境線が画定され、とりわけイギリス統治下のパレスティナには多くの〔4〕ユダヤ人が入植してアラブ人の生存を脅かした。その結果として起こった〔5〕一連の戦争と紛争は、この地域の人々にはかりしれない打撃を与えた。1993年9月、紛争の当事者はワシントンで〔6〕歴史的な協定を結んだが、中東和平への道はなお容易ではない。

(4)下線部〔4〕に関連して、19世紀末からヨーロッパのユダヤ人の間には、パレスティナに帰還しようという政治的な運動が生まれた。この運動の名称を記せ。

(5)下線部〔5〕の戦争のなかには、1948年5月に始まった第一次中東戦争(パレスティナ戦争)がある。この戦争の結果どのようなことが起こったか、2行以内で説明せよ。

(6)下線部〔6〕の協定の名称を記せ。

 

(C)第二次世界大戦後の米ソ両国の対立による「冷たい戦争」は、アジア・アフリカ諸国をさまざまな形で巻き込んだ。しかしその一方で、これらの国々のなかから、東西陣営のはざまで第三勢力を築く動きも起こった。この動きを代表するのが、1955年にインドネシアで開催されたアジア・アフリカ会議である。

(7)アジア・アフリカ会議で活躍した中国の有力政治家で、第三勢力結集のために重要な役割をはたした人物の名前を漢字で記せ。

(8)平和外交を主張していたインドは、アジア・アフリカ会議でも指導的な役割を担った。しかしインドは、ある地域の帰属問題をめぐって独立直後に隣国のパキスタンと激しく対立し、戦火を交えている。この地域の名称を記せ。

(9)やがてジアジア・アフリカ諸国のなかから、地域ごとのまとまりを基盤とした政治・経済協力機構が誕生した。その例として、1963年にアフリカ諸国により結成された組織の名称を記せ。

 

第3問

 近代以前の世界においても、商業交易はたんなる物の交換という性格をこえて、人々の社会や生活のありように深く影響をあたえる営みであった。それにより人々は新たな情報を獲得し、また異なる文化や思想にふれることができた。このような商業交易に関する以下の設問(1)~(10)に答えよ。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(10)の番号を付して記せ。

(1)東地中海で交易をはじめたフェニキア人は、前12世紀頃には西地中海まで進出するようになった。このころ、フェニキア本土において、彼らは主として2つの都市を拠点としていた。その2つの都市名を記せ。

(2)アケメネス朝ペルシアにおいては、交通網が整備され、国際交易がさかんになった。こうした交易活動にたずさわった商人は、主としてどのような人々であったか。次のなかから2つを選び、その記号を記せ。

   a アラム人    b カルデア人   c ギリシア人   d シュメール人  e ヒッタイト人

(3)中国王朝が西域経営に乗り出す以前に、モンゴル高原を支配して中央アジアの交易路を握った騎馬民族がある。その民族の名称を漢字で記せ。

(4)4世紀以後、サハラ砂漠を越える交易がはじまり、地中海地域に西アフリカ産の金がもたらされ、西アフリカにはサハラ砂漠産の岩塩が運ばれるようになった。この交易活動を基盤として、18世紀までには西アフリカに王国が成立した。その国名を記せ。

(5)「海の道」は、季節風を利用して開かれた交通路である。7世紀にこの交通路を使って中国とインドの間を往復し、インドの仏典を中国にもたらした僧は誰か。その人名を記せ。

(6)紙は中国で発明され、西アジアを経てヨーロッパにもたらされた。そのきっかけは、東西交易の要地であった中央アジアをめぐって、8世紀に中国王朝とイスラム王朝の軍が衝突したことだとされている。このイスラム王朝の名称と戦いの名称を記せ。

(7)12世紀頃には、アルプス以北の地域でも商業交易が発展し、とくに北海・バルト海沿岸で大きな商業圏が成立した。この地域の都市は、商業権益を守るために、都市同盟を結成した。この都市同盟の盟主となったバルト海沿岸の都市名を記せ。

(8)モンゴル帝国の成立以来、東西の文化や宗教の交流がますますさかんになった。この広大な世界を旅し、『三大陸周遊記』を書いた人物(a)は誰か。また、ローマ教皇によりモンゴル帝国に派遣され、大都の大司教となった人物(b)は誰か。それぞれの人名を、(a)(b)を付して記せ。

(9)ポルトガルは、15世紀はじめから、新たな交易路を求めてアフリカ西岸の探検に乗り出していた。こうした活動の結果、初めてアフリカ南端の喜望峰にまで到達した人物がいる。その人名を記せ。

(10) 16世紀、ポルトガルはそれまでイスラム商人が中心となっていたインド洋貿易圏に進出し、1510年にはインドの一都市(a)を、さらに翌年には東南アジアの一都市(b)を相次いで拠点とした。それぞれの都市名を、(a)(b)を付して記せ。

………………………………………

[第1問の解き方

 字数が90字(3行分)増えて540字の問題となった。出題者が解答をつくってみたらとても前年までの字数(450字)では書けないことが判明した結果でしょう。従来どおり8個の語句使用を指示した上で、さらに二つの条件をつけていますが、この条件は困難なものでした。書いてみたら判ることですが、こんな条件がなくても「エジプト文明の発祥以来」の5000年の歴史をただつづるだけで精一杯です。それに条件の「 1)エジプトに到来した側の関心や、進出にいたった背景」をある程度書こうとしたら、現代までとても書けるものではありません。適当にチョコっと入れる程度にしないといけない。「 2)進出をうけたエジプト側がとった政策や行動」は逆にエジプト側からの進出の歴史ですが、この「政策や行動」はほぼ同じことを言い換えているにすぎません。とにかく長い長~い歴史をいかに要約して書くかの要約能力が問われています。この点は従来から傾向と変わっていません。もともと450字でも書くのが大変なくらいデータのたくさんある課題を出してきました。簡潔にまとめる練習が必要です。この問題は一昨年(1999年)のイベリア半島の民族史とも似ています。紀元前3世紀から紀元15世紀末までの民族と文化を書かせる問題でした。

 それでもポイントはいくつかあります。第一は、ナイル川の古代文明から、前1世紀のアクティウムの海戦までの3000年間の出入り(入られた、出ていった)歴史は、指定語句が抜けているので、ちゃんとこの期間を書けるかどうか。予備校のホームページにある解答には文明からいきなりローマ領になることを書いたボケた答案が見られます。第二のポイントは、イスラム教の時代になってファーティマ朝からオスマン帝国までの興亡が書いてあるか。第三は、19~20世紀が的確・簡略に書けているか、の三つでしょう。

(わたしの解答例)

第1問  

 わたしの解答例は『東大世界史解答文』(電子書籍・パブー)に1987年から2013年までのものが載っています。

第2問

問(1)満州事変に対し、リットン調査団の報告にもとづき、日本の占領を不当とし日本軍の撤兵を求める勧告案を連盟が採択したため

問(2)不戦条約(パリ不戦条約、ケロッグ・ブリアン協定)

問(3)イギリス、アメリカ合衆国

問(4)シオニズム運動

問(5)イスラエル建国が軍事的に確定し、大量のパレスティナ難民が発生し周辺諸国に逃れた。またエジプト革命の背景となった。

問(6)パレスティナ暫定自治協定

問(7)周恩来

問(8)カシミール地方

問(9)アフリカ統一機構(OAU)

第3問

問(1)シドン、ティルス

問(2)a、c

問(3)匈奴

問(4)ガーナ王国

問(5)義浄

問(6)アッバース朝、タラス河畔の戦い

問(7)リューベック

問(8)(a)イブン=バットゥータ (b)モンテ=コルヴィーノ

問(9)バルトロメウ=ディアス

問(10)(a)ゴア (b)マラッカ

東大世界史2000

第1問

 大航海時代以降、アジアに関する詳しい情報がヨーロッパにもたらされると、特に18世紀フランスの知識人たちの間では、東方の大国である中国に対する関心が高まった。以下に示すように、中国の思想や社会制度に対する彼らの評価は、称賛もあり批判もあり、様々だった。彼らは中国を鏡として自国の問題点を認識したのであり、中国評価は彼らの社会思想と深く結びついている。

  儒教は実に称賛に価する。儒教には迷信もないし、愚劣な伝説もない。また道理や自然を侮辱する教理もない。(略)四千年来、中国の識者は、最も単純な信仰を最善のものと考えてきた。(ヴォルテール)

  ヨーロッパ諸国の政府においては一つの階級が存在していて、彼らこそが、生まれながらに、自身の道徳的資質とは無関係に優越した地位をもっているのだ。(略)ヨーロッパでは、凡庸な宰相、無知な役人、無能な将軍がこのような制度のおかげで多く存在しているが、中国ではこのような制度は決して生まれなかった。この国には世襲的貴族身分が全く存在しない。(レーナル)

  共和国においては徳が必要であり、君主国においては名誉が必要であるように、専制政体の国においては「恐怖」が必要である。(略)中国は専制国家であり、その原理は恐怖である。(モンテスキュー)

  これらの知識人がこのような議論をするに至った18世紀の時代背景、とりわけフランスと中国の状況にふれながら、彼らの思想のもつ歴史的意義について、解答欄(イ)を用いて15行以内で述べよ。なお、以下に示した語句を一度は用い、使用した場所には必ず下線を付せ。

  イエズス会、 ナント勅令廃止、 啓蒙、 身分制度、科挙、 フランス革命、 絶対王政、 文字の獄

 

第2問

 統合と排除の動きは、民族や宗教などの違いによって各時代・各地域で繰り返し見られた。これに関連する以下の設問(1)~(10)に答えよ。解答は解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(10)の番号を付して記せ。

 (A)下の表は中華人民共和国における1990年現在の少数民族統計の一部である。この表に関する以下の設問に答えよ。

   民族            人口数

  〔1〕蒙古族  Mongolian  4,802,407人

  〔2〕回族   Hui      8,612,001

  〔3〕蔵族   Tibetan    4,593,072

  〔4〕維吾爾族 Uygur     7,207,024

  〔5〕苗族   Miao     7,383,622

  〔6〕★族   Yi       6,578,524(★ f:id:kufuhigashi2:20130616075844g:plain)  

  〔7〕壮族   Zhuang    15,555,820

  〔8〕布依族  Bouyei    2,548,294

  〔9〕朝鮮族  Korean    1,923,361

  〔10〕満族   Man     9,846,776

  (中国国家統計局編『中国統計年鑑』1998年版より)

 (1)〔1〕の民族の一部は、ロシア革命の影響下に起きた独立運動の結果、中国から独立した。この運動の中心になった組織の名を記し、その指導者の名を1名記せ。

 (2)〔3〕の民族が居住するティベットでは、1959年に反乱が起こり、ダライ・ラマ14世は国外に亡命した。その亡命先の国名を記せ。またダライ・ラマという称号は14世紀のティベット仏教改革以後に生じたが、この改革を進めた派の名称を記せ。

 (3)〔9〕の民族が中国に移住した原因の一つは、日本による朝鮮の植民地化・保護国化の動きだった。この動きに反対して起きた武力抗争の名称を記せ。また1919年の三・一運動後、この民族は中国内に臨時政府を立てたが、それが置かれた都市の名を記せ。

 (4)乾隆帝の時代に作られた『五体清文鑑』という書物は、清の領域内で用いられた五つの文字の対照辞書である。それらのうち、漢字、ウイグル文字を除く三つの文字は、表の〔1〕~〔10〕のどの民族と関係が深かったか。民族名に付した番号で答えよ。

 

(B)スペインによる征服以前、独自の文明を開花させていたメソアメリカやアンデスの諸地域は、16世紀以降植民地支配のもとに統合された。しかしながら、先住民・黒人・混血層はさまざまな差別を受けた。

 (5)インカ帝国は文字をもたなかったが、アンデスの広大な領域を支配していた。この帝国の交通・情報手段について1行以内で記せ。

 (6)征服後スペイン国王は、キリスト教の布教を条件に、征服者・植民者に先住民を委ね、労働力の徴発や貢納の強制を認めた。この制度の名称を記せ。またこの制度を批判し、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を著して先住民の人権を擁護するために尽力したドミニコ会修道士の名を記せ。

 (7)植民地時代に用いられた(a)先住民と白人、(b)黒人と白人、との間に生まれた人々を示す名称をそれぞれ記せ。

 

(C)ドイツに成立したナチス政権は、政治的反対派を排除しただけでなく、ユダヤ人などさまざまな少数派を迫害した。

 (8)ナチスの党首ヒトラーを首相に任命した大統領の名を記せ。また首相となったヒトラーは、政府に立法権を委ねる法律を成立させて議会を無力化したが、この法律の名称を記せ。

 (9)第二次世界大戦が始まりドイツの勢力圏が拡大するにつれて、ユダヤ人迫害の動きはヨーロッパ各地に広がった。ドイツに敗れたフランスは国土の大半を占領され、南部にはナチスに協力的な政権が成立した。ユダヤ人迫害にも加担したこの政権の名称を記せ。また国家元首としてこの政権を指導した人物の名を記せ。

 (10)ドイツに併合・占領された国のなかで最も多くのユダヤ人が虐殺された国の名を記せ。またユダヤ人のなかには迫害を逃れてパレスティナヘ移住する者も多かったが、イギリスは1939年5月、パレスティナに受け入れるユダヤ人の数を大幅に制限した。この制限がおこなわれたのはなぜか、1行以内で記せ。

 

第3問

 地中海をとりまく地域を地中海世界とよべば、そこは古代オリエントの神々、そしてギリシア・ローマの神々の世界だった。そこから神は唯一であることを主張するユダヤ教が生まれ、やがてキリスト教・イスラム教という一神教が発展する。右の地図の〔1〕から〔24〕(ここは○の中に数字の記号ですが、文字ばけをふせぐため、〔 〕を○の代わりにつかいます、このHPの筆者)は地中海世界の宗教に関連する都市を示す。これらの都市に関する以下の設問(1)~(10)に答えよ。解答は解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(10)の番号を付して記せ。

f:id:kufuhigashi2:20130616080321g:plain

(1)新興国に征服され、強制移住させられたユダ王国の住民は、約50年後に解放された。移住先の都市の位置を地図の番号で答えよ。また解放した王朝名を記せ。

 (2)オリンピアでは、前776年以来、4年に一度祭典が開催されていた。オリンピアの位置を地図の番号で答えよ。この祭典は後4世紀末に禁止された。その理由は何か、1行以内で答えよ。

 (3)〔10〕の地で325年に開かれた公会議で決定したことを2行以内で答えよ。

 (4)聖ベネディクトゥス(ベネディクト)は、ベネディクト会の母院とみなされる修道院を開き、修道士が守るべき戒律を定めた。この修道院が創設された世紀を記し、その位置を地図の番号で答えよ。

(5)〔11〕は東ヨーロッパに広がったキリスト教のある教会の中心だった。この教会とローマ・カトリック教会の分裂の経緯について2行以内で記せ。

 (6)10世紀には、預言者ムハンマドの子孫であることを強調する君主がカリフを称した王朝があった。この王朝が同世紀後半に建設した新首都の名前を記し、その位置を地図の番号で答えよ。

 (7)11世紀の南イタリアには新たな勢力が侵入し、やがて12世紀前半にはイスラム教徒に寛容な王国を建設する。この王国名を記し、その首都の位置を地図の番号で答えよ。

 (8)12世紀前半に、ベルベル人のイスラム改革運動により新王朝が建設される。この王朝名を記し、同世紀半ば以降その首都になった都市の位置を地図の番号で答えよ。

 (9)〔7〕はユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通の聖地である。スンナ派イスラム王朝の君主は、12世紀末、この都市をキリスト教徒の手から奪い返した。このスンナ派王朝名と君主の名前を記せ。

 (10)14世紀後半に始まる西方キリスト教会大分裂(大シスマ)は、15世紀はじめの公会議でようやく終結した。この公会議が開かれた都市名を記し、その位置を地図の番号で答えよ。

………………………………………

[第1問の解き方

 二つの要求があります。第一は副問で「18世紀の時代背景、とりわけフランスと中国の状況にふれながら」、主問は「彼らの思想のもつ歴史的意義について」です。あまり資料が雄弁に語っている副問ばかり触れていると、主問が書けなくなります。たんに「フランス革命の思想的準備」だけでは意義として弱いですね。啓蒙思想のもつ普遍的要素がどれだけ描けるか……。

 主問の中の問題用語「歴史的意義」をどんなふうに書くのかわからない学生がほとんどです。

 『世界史論述練習帳new』の「基本60字」にこんな問題がすでにのっていました。中国の「国際」のところに、「中国のイエズス会士がヨーロッパ文化に与えた影響を述べよ。 (使用する語句は)科挙 儒学」と。これは東大の過去問にあるものです(1982年度「明末から清初にかけて中国に渡来した宣教師の報告によって、中国の文化や制度についてのヨーロッパ人の関心が深まった。17、18世紀に、中国がヨーロッパに与えた影響について述べよ」)。今回はこの問題を拡大したものです。

 課題に合わない解答例は以下。

中国にカトリックを伝えたイエズス会士は科挙制・宋学の理論などを西欧に伝え、フランス啓蒙主義者はこれを理性主義的と捉え、これらの情報と自国の旧体制を対比し批判した。中国では主観的で政治哲学的な宋学が主流であり、仏教も信仰されていたのに対し、フランスではルイ14世のナント勅令廃止以来、信仰はカトリックに統一されており、啓蒙思想家は教会の独善を批判した。彼らは中国の官僚が学力試験である科挙を通過した非世襲のエリートであることに注目し、国民を分断する三つの身分制度と、その上位を占める聖職者・貴族が免税特権を有し権力を独占するフランスの旧体制およびこれに立脚するフランス絶対王政の不平等を追及した。清は皇帝独裁制を採り、文字の獄や禁書で反清思想を弾圧し、言論統制を行ったが、モンテスキューはこれをフランス絶対王政と同一視し、専制を批判して三権分立を説いた。このように啓蒙思想家は自由主義貴族や第三身分、特にブルジョワを代弁して絶対王政を批判し、人間の自由・平等と主権在民を掲げるフランス革命への道を開いた。

(『テーマ別東大世界史論述問題集』から)

▲ 「18世紀の時代背景」にあたるものがハッキリしません。フランスなら旧体制・身分制度は18世紀だけのものではないし、清朝の場合、科挙・宋学・文字の獄も伝統的に宋以降の中国王朝にあるものです。わざわざ「18世紀」と時間限定した課題を無視したようです。  啓蒙思想の「歴史的意義」とはフランスだけの意義であるはずはありません。「フランスの意義」と問うているのでなく「啓蒙思想」の意義を問うているのです。中国の刺激のもとでできた思想だというのがこの問題の前提であるように世界史的な意義があるからこそこのような問いがあります。19-20世紀最大の思想といっていいものです。それを「フランス」だけの革命への道で「意義」を述べたつもりでいます。教科書(新世界史)でも次のように書いてます。

 17世紀に基礎のできた近代思想は,18世紀の後半にイギリスや,とくに政治危機の気配が濃くなったフランスで,より徹底したかたちをとっていっせいに開花した。それが啓蒙思想である。この思想は学問のひろい範囲にまたがり,個人差も大きいが,理性の光に照らして旧来の権威や偏見を容赦なく批判し,人間の進歩を信ずる点でほぼ共通していた。また教会や神学の独善を激しく批判し,実践的な改革案を提出する点で,理論にとどまった17世紀とはことなっていた。その成果の集大成がDiderotディドロ 1713~84 d’Alembertダランベール1717~83の編纂した『百科全書』である。

(わたしの解答例)

第1問  

 わたしの解答例は『東大世界史解答文』(電子書籍・パブー)に1987年から2013年までのものが載っています。 

第2問

(1)モンゴル人民革命党、チョイバルサン(スヘ=バートル)

(2)インド、黄帽派

(3)義兵運動、上海

(4)〔1〕〔3〕〔10〕(地図中の記号は○のなかに数字ですが、文字ばけを防ぐためここでは〔 〕を○の代わりにつかいます)

(5)飛脚制度とキープによって迅速な情報を確保し伝えた。

(6)エンコミエンダ制、ラス=カサス

(7)(a)メスティーソ、(b)ムラート

(8)ヒンデンブルク、全権委任法(授権法)

(9〉ヴィシー政府、ペタン

(10)ポーランド。先住民のアラブ人とユダヤ人の紛争がおきていたから。

第3問

(1)〔2〕、アケメネス朝

(2〉〔14〕

 キリスト教の国教化により異教の神の祭典として禁止した。

(3)父なる神と子なるイエスを同質とみなすアタナシウスが正統とされ、父と子の区別を主張するアリウス派は異端とされた。

(4)6世紀、〔15〕

(5)8世紀ローマ教会は皇帝レオン3世の聖像禁止令に反対、フランクと結託しカールに皇帝位を捧げ、11世紀に両教会は分離した。

(6)カイロ、〔8〕

(7)両シチリア王国、〔17〕

(8)ムワッヒド朝、〔24〕

(9)アイユーブ朝、サラディン(サラーフ=アッディーン)

(10)コンスタンツ、〔19〕

東大世界史1999

第1問

 ある地域の歴史をたどると、そこに世界史の大きな流れが影を落としていることがある。イベリア半島の場合もその例外ではない。この地域には古来さまざまな民族が訪れ、多様な文化の足跡を残した。とりわけヨーロッパやアフリカの諸勢力はこの地域にきわめて大きな影響を及ぼしている。このような広い視野のもとでながめるとき、紀元前3世紀から紀元15世紀末にいたるイベリア半島の歴史はどのように展開したのだろうか。その経過について解答欄(イ)に15行(1行30字)以内(450字)で述べよ。なお、下に示した語句を一度は用い、使用した語句に必ず下線を付せ。

 カスティリア王国 カール大帝 カルタゴ グラナダ

 コルドバ 属州 西ゴート ムラービト朝

 

第2問

 以下の(A)~(C)は15世紀~20世紀の経済史に関する問題である。これを読んで、設問(1)~(8)に答えよ。解答は解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(8)の番号を付して記せ。

(A) 次の図Aは、ヨーロッパ各地の生活物資の代表としての小麦の価格を集成したグラフである。期間は大航海時代に先立つ1450年から産業革命に先立つ1750年まで.縦軸は小麦100リットル当りの価格を銀の重量(グラム)であらわす(対数目盛り)。ヨーロッパの最高価格が網のかかった帯の上端に、最低価格が下端にあらわれ、この帯のなかにすベての地域の小麦価格がおさまる。15世紀から18世紀にかけて外の世界と交渉しつつ大きく成長したヨーロッパ経済の動向を考えながら、このグラフを読みとり、次の設問に答えよ。

f:id:kufuhigashi2:20130614130848g:plain

(1)このグラフによれば、1500年から1600年の間にヨーロッパ全域で価格が上昇し、ほとんど3倍から4倍になっている。この現象を何とよぶか。漢字5字以内で答えよ。

(2) 1450年のヨーロッパにおける小麦の最高価格と最低価格との比は6.8であったが、1750年の最高価格と最低価格との比は1.8に縮小している。このことの背景にはどのような変化があったか。2行以内で記せ。

(3) グラフ内の折れ線は、地中海沿岸a、北西ヨーロッパb、北東ヨーロッパcの代表的な都市における価格変動をしめす。中世末から近代にかけて経済活動の中心が移動したこと、aとbは17世紀前半に交差して相対的位置が交代していること、cはほとんど常にヨーロッパの最低値に近いことに注目しながら、この期間のヨーロッパの商工業と農業をめぐる地域間の関係について、3行以内で記せ。

 

(B)19~20世紀の南アジアや東南アジアでは、生産と交易の形態は大きく変動した。

問(4) 次の表Aのa~dは、1828~60年度のインドの主な貿易相手国である。数値は、各相手国に関してインドの商品輸出額からインドヘの商品輸入額を差し引いた貿易収支で、マイナスは輸入超過を示す。この表のaとbの二つの国との貿易収支に関して、この期間にみられる顕著な変動を生じさせた理由はなにか。a、bそれぞれの国の名称と主な取引商品に言及しつつ、4行以内で記せ。

 

表A    a     b    c   d  その他〈単位百万ルピー)

1828年度 18.9  21.0   4.8  4.5  8.5

1834年度 13.9  31.4   3.2  2.7  7.6

1837年度 15.1  40.6   7.2  3.0  4.9

1839年産 25.4  10.1   5.7  9.0  12.8

1850年度 -2.4  53.6   1.8  2.2  10.7

1860年度 -57.1 102.5   6.4   5.6  37.4

 

(5) 19世紀後半から20世紀にかけては、南アジアや東南アジアでは、輸出向けの一次産品生産が発展し、そのために多数の労働者が海外から移動した。ビルマとマレー半島の2地域について、こうした特徴を持つ産品として最も重要なものを、両地域合わせて3品目挙げよ。解答は、ビルマについては(イ)、マレー半島については(ロ)の符号を付して、産品の名を記せ。

 

(C)16世紀~19世紀の東アジアや東南アジアでは、様々な勢力によって交易の拠点が設けられ、それぞれ特色ある貿易が行われた。

(6) 次の地図B上のaの港市では、16世紀後半から18世紀にかけて盛んな国際交易が行われていた。この港市の名を記せ。また、改行して、そこで行われていた交易の主要な内容を1行以内で述べよ。

f:id:kufuhigashi2:20171116212644g:plain

(7) 地図上のb島は17世紀に経済上軍事上の要地として注目され、諸勢力の争奪の的となった。17世紀にこの島を支配した三つの主要な勢力に言及しつつ、その勢力の交替の過程を3行以内で述べよ。

(8) 18世紀に地図上のc地点で、中国・ロシア間の国境と貿易方法を定める条約が結ばれた。この貿易を通じて中国に輸入された主な産品を一つ挙げよ。また、中国・ロシア間の東部国境線について、1800年時点と1900年時点での国境線を地図上のイ~ニのなかからそれそれ一つ選び、「1800-ホ、1900-へ」のように記号で記せ。

 

第3問 

 19~20世紀の世界経済は、後発諸国家や後発地域の人々とその動向に大きな影響をあたえる一方、さまざまな対応を生み出し、他方で、新しい国際経済秩序を求める動きもよびおこした。これに関する問(1)~(8)に答えよ。解答は解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(8)の番号を付して記せ。

(1) アヘン戦争後に結ばれた南京条約で、清朝はイギリス人が海港場に居留することを認めた。その後、こうした外国人の居留地では清朝の行政権が及ばない特別な地域として拡大し、対外関係の窓口として特殊な発展をとげた。このような地域は何と呼ばれるか。また、こうした地域では外国商社と特に関係の深い中国人商人が成長した。彼らは何と呼ばれるか。それぞれ漢字2字で名称を記せ。

(2) 後発地域における国家建設には、経済基盤の準備が重要な意味をもった。1834年、ドイツ連邦内の諸国がドイツ関税同盟を発足させたことは、後のドイツ統一の基礎となった。

 (a)同盟を早くから提唱し、一時アメリカ合衆国に亡命しながら、著作を通じて関税同盟の設立や保護関税の導入を働きかけたドイツの経済学者はだれか。その名を記せ。

 (b)当時のドイツ連邦構成国であったある有力国家は、この関税同盟には加わらなかった。その国名を記せ。

(3) オスマン帝国は、19世紀なかば、西欧化の改革であるタンジマートを実施して、旧来のイスラーム国家から法治主義にもとづく近代国家への移行を目指した。タンジマートはどのような結果をもたらしたか。2行以内で説明せよ。

(4) 近代の人口増や工業化による大きな社会変動は、ヨーロッパから大量の移民をアメリカ合衆国に送り出した。

 (a) 19世紀の合衆国への主要な移民送り出し地域は、北・西ヨーロッパにあった。この地域で、19世紀後半、合衆国への移民を、イギリス(アイルランドを含む)についで多く出した国はどこか。その国名を記せ。

(b) 19世紀末からは、東南ヨーロッパ地域からの移民が多くなった。19世紀末から1920年にかけて、この地域の国で合衆国への移民をもっとも多く出した国はどこか。その国名を記せ。

(5) ソヴィエト政権は戦時共産主義のもとで、極度の国家統制による経済政策進めようとしたが失敗した。このため、1921年には新経済政策(ネップ)導入した。ネップの具体的な内容を二つあげよ。

(6) 1930年代、ロ一ズヴェルト政権のもとで、ラテンアメリカ諸国との関係改善が具体化した。合衆国のこの政策は何と呼ばれるか。その名称を記せ。また、この時期に食肉市場を確保するため、イギリスとの経済関係を強めたラテンアメリカの国はどこか。その国名を記せ。

(7) 辛亥革命で中華民国が成立したのちも、中国では軍事力を擁する地方勢力が割拠し、国家の統一は進まなかった。しかし、1920年代末に成立した南京国民政府は、1935年、通貨の統合にようやく成功した。この統合された通貨を何と呼ぶか。その名称を記せ。また、この改革を支援した有力な外国2カ国の国名を記せ。

 (8) 第二次世界大戦末、連合国はブレトン・ウッズで戦後の国際経済再建構想を協議し、ドルを機軸とする二つの国際経済・金融組織の設立に合意した。

 (a) この二つの組織の名称を記せ。

 (b) 国際基軸通貨としてのドルの地位は、1960年代未から1970年代初めにかけて大きく動揺する。その背景について2行以内で説明せよ。

………………………………………

[第1問の解き方

 主問(主たる要求)は「このような広い(イベリア半島……には古来さまざまな民族が訪れ、多様な文化の足跡を残した)視野のもとでながめるとき、紀元前3世紀から紀元15世紀末にいたるイベリア半島の歴史はどのように展開したのだろうか。その経過について」です。問題の要求はハッキリしています。だが、これを学生に書いてもらうと、なかなか難しい問題であったことが判明します。指定語句がほとんど政治用語であるためか、半島の「経過」たる政治史に終始してしまうのです。政治史を求めていません。「民族が訪れ、多様な文化の足跡を残した……イベリア半島の歴史」です。民族と文化の歴史を書かなくてはならないのです。東大お得意の「民族」と「文化」「文明」の問題です。政治史をできるだけ簡略に書いて、民族と文化をどれだけシッカリ書けるかに合否がかかっています。

(わたしの解答例)

第1問  

 わたしの解答例は『東大世界史解答文』(電子書籍・パブー)に1987年から2013年までのものが載っています。下にこの参考書に載っている3種の解答例のうちレベル1を載せておきます。

カルタゴを基地に植民してきたフェニキア商人はアルファベットや地中海世界の物産を交易品として持ってきた。このカルタゴと衝突して勝利したラテン人ローマはここを属州とし、ラテン語を広め、ローマ風の都市・道路・水道橋・劇場を造った。5世紀にゲルマン人の西ゴートが建国しアリウス派を伝えた。8世紀にはアラブ人ムスリムが高度なイスラーム文明をもたらした。建築(グラナダのアルハンブラ宮殿)、学問(医学・哲学・数学・化学)、灌漑農業(サトウキビ・棉・オレンジ栽培)を広めた。8世紀末、フランク人カール大帝がムスリムに挑戦し、騎士道物語を残した。レコンキスタの中心国となったラテン系のカスティリヤ王国はカトリック信仰を基に、ベルベル人のムラービト朝・ムワッヒド朝と戦い南に追いつめた。奪ったトレドでムスリムが残したアラビア語文献をラテン語に翻訳した結果「12世紀ルネサンス」がおき、コルドバ生まれのイブン=ルシュドが研究したアリストテレス哲学はスコラ学を基礎づけた。だが15世紀末ムスリムもユダヤ人も追放された。

第2問 

(A)(1)価格革命 (2)中世末に比べて、重商主義政策が貨幣流通を増大させ、中継する銀行や会社企業の設立により商業の全欧的発展がみられたため。 (3)商業革命により商工業の中心がaから次第にbに移動した。cはbへ穀物・木材を供給する後背地となる。すなわち大領主が自由農民を農奴に落とし安価な穀物の供給を行うための転換をはかったため。

(B)(4)aのイギリスとの貿易では手織りのキャリコを輸出して利益をえていたが、産業革命がおきてからはaからの安価な機械制綿布の輸入が増えて赤字に転落した。bの中国との貿易ではイギリス商人によるインド産アヘンの輸出が急増してインド側の黒字となった。 (5)(イ)米 (ロ)錫、ゴム (C)(6)マニラ スペイン商人が墨銀をもってきて、中国の陶磁器・絹と交換した。 (7)オランダ東インド会社が日中間の中継貿易の基地を建設した。明の滅亡後、鄭成功がオランダ人を追放して反清復明の抵抗拠点としたが、清の康熙帝が鄭氏を滅ぼして台湾を征服、直轄領とした。(8)毛皮、1800-イ、1900-ハ

第3問 

(1)租界、買弁 (2)(a)リスト (b)オーストリア (3)近代化の最終段階としてミドハト憲法が制定されたが、露土戦争を機に停止されスルタンの独裁となる。英仏に経済的に従属した。(4)(a)ドイツ (b)イタリア (5)余剰穀物の販売の自由と中小企業の営業の自由を許可した。(6)善隣外交、アルゼンチン (7)法幣、イギリス、アメリカ (8)(a)IBRD(国際復興開発銀行)・IMF(国際通貨基金)(b)全世界的な米軍の駐留、対外援助、ヴェトナム戦費がアメリカの財政・経済を悪化させ、ドルの相対的地位を低下させた。

東大世界史1998

第1問

 アメリカ合衆国とラテンアメリカ諸国は、ともにヨーロッパ諸国の植民地として出発した。しかし、独立後は、イギリスの産業革命などの影響の下で対照的な道を歩むことになった。たとえば、アメリカ合衆国の場合には、急速な工業化を実現していったのに対して、ラテンアメリカ諸国の場合には、長く原材料の輸出国の地位にとどまってきた。そしてラテンアメリカ諸国は、政治的にも経済的にもアメリカ合衆国の強い影響下におかれることになったが、その特徴は、現在のラテンアメリカ諸国のあり方にも大きな影響を及ぼしている。

 そこで、18世紀から19世紀末までのアメリカ合衆国とラテンアメリカ諸国の歴史について、その対照的な性格に留意しつつ、ヨーロッパ諸国との関係や、合衆国とラテンアメリカ諸国との相互関係のあり方の変化を中心に、下に示した語句を一度は用いて、解答欄(イ)に15行(1行30字)以内(450字)で記せ。なお、使用した語句に必ず下線を付せ。

  プランテーション、パン・アメリカ会議、南北戦争、ウィーン体制、自由貿易主義、モンロー宣言、クリオーリョ、米英戦争

 

第2問

 ヨーロッパやアジアでは、キリスト教やイスラムの改革運動が政治や社会の動向に大きな影響を及ぼしてきた。これらの運動に関する以下の(A)~(C)の文章を読み、設問(1)~(7)に答えよ。解答は解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(7)の番号を付して記せ。

 

(A)西欧では、10~11世紀にかけて、フランスの修道院を中心に、カトリック教会を浄化・粛正しようという運動が起こった。11世紀後半には、教皇のもとで教会改革が推し進められ、世俗の支配者による聖職叙任をめぐって教皇と神聖ローマ皇帝が激しく衝突することになった。

 (1)修道院改革の中心となったフランスの修道院の名を記せ。

(2)神聖ローマ皇帝が、聖職叙任権を手放そうとしなかった最も大きな理由は何か。2行以内で記せ。

(3)聖職叙任をめぐって衝突した教皇と神聖ローマ皇帝の名を記せ。

 

(B)西アジアでは、アッバース朝時代になると、イスラム諸学を身につげた知識人(ウラマー)は、コーランや伝承にもとづいて教義や儀礼を整え、神学や法学の高度な発達をもたらした。しかし都市や農村の民衆にとって、知識人が説く教義や儀礼はあまりにも形式的であり、しかも難解にすぎた。神(アッラー)はもっと身近に感じられるはずである、というのが彼らの偽らざる心境であった。

 (4)このような気運に促されて10世紀以降に流行したイスラム世界の宗教運動の名前を記せ。

(5)また、その運動がのちに果たした役割を2行以内で説明せよ。

 

(C)18世紀の半ば、アラビア半島の中部ではイブン=アブドゥル=ワッハーブがイスラムの改革運動を開始した。それは預言者ムハンマドの時代のイスラムを理想とし、後世のイスラム世界に広まった聖者崇拝などを、本来の教えからの逸脱として激しく攻撃した。このワッハーブ派の勢力は、19世紀のはじめに半島内の二つの聖地を占領したことでも知られる。

 (6)この事件と同時代の19世紀はじめにエジプトで統治の実権を握った人物は誰か。この人物の名前を記せ。

(7)上の文にある「二つの聖地」とはどこか。その都市名を記せ。

 

第3問 

 人と人とがふれあう場所には必ず言語がある。言語による情報伝達をぬきにして、文化交流や社会移動の実態を考えることはできない。近代以前の言語の歴史にかかわる次の設問(1)~(10)に答えよ。解答は解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(10)の番号を付して記せ。

 

(1)ナポレオンのエジプト遠征中に発見されたロゼッタ・ストーンには、三種類の文字が書かれている。ギリシア文字のほかに、どのような文字が使用されていたか。それらの文字の名称を記せ。

 

(2)アケメネス朝ペルシアの領域では、ペルシア語以外の言語も公用語として使用された。その公用語の名称を文章中に用いて、その言語が公用語とされた理由を1行以内で記せ。

 

(3)北アフリカに君臨したカルタゴは交易活動によって繁栄したが、農業においてもすぐれたところがあった。このためにローマ人はカルタゴ人の農業書をラテン語に翻訳している。その農業書は何語で書かれていたのか。その言語の名称を記せ。

 

(4)ビザンツ帝国では、首都コンスタンティノープルを中心に、古代ローマを継承した文化が開花した。この帝国の公用語は何語であったのか。その言語の名称を記せ。

 

(5)スペインのトレドでは、12世紀になると、科学や哲学の書物が活発に翻訳された。こうした翻訳書がパリなどに流入することで、中世スコラ学は飛躍的に発展した。この場合、主として何語から何語へ翻訳されたのかを記せ。

 

(6)10~12世紀ごろモンゴル・中国東北部と華北の一部を領有した国家は、表意文字を作り、それはのちの女真文字の形成に大きな影響を及ぼした。その国家の中国風の国号は何か。またその表意文字の名称は何か。それぞれ記せ。

 

(7)殷王朝は、かつて実在が疑われていた。この王朝において使用され、19世紀に発見されて殷の実在を証明した文字は何か。その名称を記せ。また、この文字が発見された場所を含む遺跡の名称を記せ。

 

(8)13世紀に大帝国を建設したモンゴル人は、その領域内の諸文化のすぐれた面を知っていたため、中国文化に対しても、一定の距離をおいて対応することができた。中国を支配したのち、公文書に彼らが用いたチベット系の文字は何か。その名称を記せ。

 

(9)インドのグプタ朝は古典語による文学が栄え、古典文化の黄金期とされる。のちに長く継承されたこの古典語の名称と、グプタ朝期に完成した叙事詩の名称ひとつを記せ。

 

(10)中国の支配下におかれたことのあるベトナムでは、漢字を改良した民族文字が使用されるようになった。13世紀に興った陳朝のもとで、この文字を用いた作品が作られたことがよく知られている。この文字は何か。その名称を記せ。

………………………………………

[第1問の解き方

 主問(主たる要求)は「18世紀から19世紀末までのアメリカ合衆国とラテンアメリカ諸国の歴史について」、副問(副次的要求)は「その対照的な性格に留意しつつ、ヨーロッパ諸国との関係や、合衆国とラテンアメリカ諸国との相互関係のあり方の変化を中心に」という副問のほうが複雑な問いです。「対照的」にとあり、どれだけ「ちがい」として表せるかが課題です。合衆国がこうこう、それに対してラテンアメリカがこうこうと書いてみてください。ある予備校の速報には、これは経済史だ、経済史を書かなくてはいけないと断定した講評をしていましたが変ですね。なにも経済だけの問題として提示されていません。経済も政治も双方とも書かなくてはなりません。すでに問題文のはじめに経済のことは対照的に書いてありますので、同じことを書いてもだめです。文化も書いてもいいですが、書けるかどうかは学生の能力しだいです。「ヨーロッパ諸国との関係」は指定語句から書かざるをえないことになりますので、かえってあまり気にしなくてもいいでしょう。

(解答例──以下の解答を批判してみよ)

北アメリカでは18世紀後半、13植民地がイギリスから政治的独立を達成した。19世紀初頭、ナポレオン戦争を契機におこった米英戦争で北部には木綿工業が発展したが、南部には奴隷制プランテーションが定着した。この経済的な対立は南北戦争へとつながり、以後この戦争で勝利した北部主導の本格的な産業革命が進展し、工業国家として発展した。一方ラテンアメリカ諸国は、19世紀初頭クリオーリョを中心に主にスペインから独立した。ウィーン体制下に、旧本国は干渉を行おうとしたが、合衆国は新旧両大陸の相互不干渉を唱えるモンロー宣言を発して、自由貿易主義をとるイギリスとともに独立を支持した。しかしラテンアメリカ諸国は政治的な独立を達成したものの、工業化を果たせずプランテーションによる農業経営が残存したため、産業革命後のイギリスの製品市場・原料供給地となり、経済的にはその従属下にはいった。19世紀後半工業化を達成した合衆国は、パン=アメリカ会議を契機にラテンアメリカ諸国への帝国主義的な進出を開始し、カリブ海政策を展開した。

▲ラテンアメリカの18世紀の歴史は書いてありますか? 「対照的な性格」は問題文の経済のちがい(すでに問題文に書いてあることと同じことを書いている)以外に何か書いてありますか?

 

(わたしの解答例)

第1問  

 わたしの解答例は『東大世界史解答文』(電子書籍・パブー)に1987年から2013年までのものが載っています。

第2問 

(1)クリュニー修道院 (2)神聖ローマ皇帝は聖界俗界の最高支配者として統治するために、教会とトップの教皇を支配下におくことも必要であった。 (3)グレゴリウス7世、ハインリヒ4世 (4)スーフィズム (5)形式を排するこの信仰は都市の手工業者や農民に普及した。さらに貿易路に沿ってアフリカやインド・東南アジア・中国に伝わり各地の習俗をとり入れながら、イスラムの信仰を広めていった。 (6)ムハンマド=アリー (7)メッカ、メディナ

第3問 

(1)神聖文字(ヒエログリフ)、民衆文字(デモティック) (2)当時の国際商業語であったため公用語としたアラム語。 (3)フェニキア語 (4)ギリシア語 (5)アラビア語からラテン語へ (6)遼、契丹文字 (7)甲骨文字、殷墟 (8)パスパ文字 (9)サンスクリット語、マハーバーラタ (10)チュノム(字喃)