世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史2012

第1問

 ヨーロッパ列強により植民地化されたアジア・アフリカの諸地域では、20世紀にはいると民族主義(国民主義)の運動が高まり、第一次世界大戦後、ついで第二次世界大戦後に、その多くが独立を達成する。しかしその後も旧宗主国(旧植民地本国)への経済的従属や、同化政策のもたらした旧宗主国との文化的結びつき、また旧植民地からの移民増加による旧宗主国内の社会問題など、植民地主義の遺産は、現在まで長い影を落としている。植民地独立の過程とその後の展開は、ヨーロッパ諸国それぞれの植民地政策の差異に加えて、社会主義や宗教運動などの影響も受けつつ、地域により異なる様相を呈する。

 以上の点に留意し、地域ごとの差異を考えながら、アジア・アフリカにおける植民地独立の過程とその後の動向を論じなさい。解答は解答欄(イ)に18行以内で記し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。

 カシミール紛争  ディエンビエンフー  スエズ運河国有化 アルジェリア戦争  ワフド党  ドイモイ  非暴力・不服従  宗教的標章法(注)

 (注) 2004年3月にフランスで制定された法律。「宗教シンボル禁止法」とも呼ばれ、公立学校におけるムスリム女性のスカーフ着用禁止が、国際的な論議の対象になった。

 

第2問

 人類の歴史のなかで、遊牧は農耕とならぶ重要な生活様式のひとつであった。遊牧民、とりわけ軍事力や機動力にすぐれた遊牧民の集団は、広域にわたる遊牧国家の建設や周辺の農耕・定住地域への侵入、大規模な移動などによって大きな役割をはたした。これをふまえて、以下の設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(3)の番号を付して記しなさい。

 

(1) 中央ユーラシアの草原地帯に出現した遊牧民のなかでも、4世紀になるとフン族が西進し、それとともにユーラシア西部に大変動がおこっている。やがて、5世紀後半には遊牧民エフタルが台頭し、周辺の大国をおびやかした。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) 5世紀におけるフン族の最盛期とその後について2行以内で説明しなさい。

 (b) エフタルに苦しめられた西アジアの大国を中心とした6世紀半ばの情勢について、2行以内で説明しなさい。

 

(2) 中央ユーラシアを横断する大草原に住む遊牧トルコ人は、イスラーム世界の拡大とともにこれとさまざまな関係をもつようになり、その一部はやがて西アジアに進出して政権を樹立しアラブ人やイラン人とならんで重要な役割をはたすことになった。以下の(剖・(b)の問いに冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

(a) 9世紀ごろになると、アッバース朝カリフの周辺にはトルコ人の姿が目立つようになった。彼らはアラビア語で何とよばれカリフは彼らをどのように用いたのか、2行以内で説明しなさい。

(b) 中央ユーラシアから西アジアに進出したトルコ人が建てた最初の王朝の名(1)と、この王朝が支持した宗派の名(2)を、冒頭に(1)・(2)を付して記しなさい。

 

(3) 匈奴以来、モンゴル高原にはしばしば強力な遊牧国家が誕生し、中国の脅威となった。あるものは長城を境にして中国と対峙し、あるものは長城を越えて支配を及ぼすなど、遊牧民族の動静は、中国の歴史に大きな影響を与えつづけた。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) 漢の武帝の対匈奴政策と西域政策とのかかわりについて、2行以内で説明しなさい。

 (b) 15世紀なかごろにはモンゴルのある部族が明の皇帝を捕虜とする事件がおこった。この部族の名(1)と事件の名(2)を、冒頭に(1)・(2)を付して記しなさい。

 

第3問

 さまざまな時代に造られた建築や建造物のなかには、現在、世界の観光資源として非常に重要なものがある。しかもそれらは、それらを擁する国家や都市の歴史の雄弁な証言者となっている。この点をふまえて、以下の質問に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(10)の番号を付して記しなさい。

(1) アテネの軍事上の拠点であったアクロポリスには、紀元前5世紀、ペリクレスの命でポリスの守護神であるアテナ女神を記るパルテノン神殿が建てられた。この神殿の建築様式は何か、様式名を記しなさい。

(2) 8世紀ごろの東南アジアにおいて仏教が盛んだったことを示す遺跡として、ボロブドゥール寺院があげられる。ボロブドゥール寺院がある場所はどこか、今日の島名を記しなさい。

(3) 前近代のヨーロッパでは時代ごとにある特定の建築様式がほぼ全域にわたって広まった。人里離れた修道院によく見られる、小さな窓、重厚な壁、高度の象徴性を特徴とする建築を何様式と呼ぶか、様式名を記しなさい。

(4) アンデス山中に威容を誇るマチュピチュはインカ帝国を代表する遺跡だが、この帝国は16世紀にスペイン人征服者ピサロによって滅ぼされた。征服が行われたとき、スペインを統治していた国王の名前を記しなさい。

(5) 明と清の宮殿だった紫禁城は、今日では故宮博物院として参観客に開放されている。明ははじめ金陵(南京)を都としていたが、1421年に北京に遷都した。このときの皇帝は誰か、名前を記しなさい。

問(6) グラナダにあるアルハンブラ宮殿はイベリア半島最後のイスラーム王朝の時代に建設された。1492年、スペイン王国によって攻略されたこの王朝名を記しなさい。

(7) ヴェルサイユ宮殿は絶対王政期の国王の権威を象徴する豪華絢爛な宮殿である。18世紀にプロイセンのフリードリヒ大王がヴェルサイユ宮殿を模倣してポツダムに造らせた宮殿の名称を記しなさい。

(8) アフリカ南部にあるジンバブエ共和国の国名はそこに残る石造建築物に由来しているが、以前には、イギリス人の名前にちなんだ国名だった。19世紀末にケープ植民地首相を務めたそのイギリス人の名前を記しなさい。

(9) 広島の原爆ドームは核兵器の惨禍という記憶を留めるための重要な史跡である。広島への原爆投下の前月、米・英・ソの三国会談に参加し、その後に原爆投下を指示したアメリカ合衆国大統領の名前を記しなさい。

(10) 1973年チリでピノチェト将軍によるクーデタがおき、かつて造幣所だったため「モネダ(貨幣)宮」と呼ばれていた大統領府が攻撃されて、社会主義政権を率いていた大統領が死亡した。この大統領の名前を記しなさい。

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[第1問の解き方

 比較によって違い(差異)を求める問題は今回が最初ではなく、東大では在りふれた問い方です。政治権力の宗教政策を3地域で特徴比較(2009)、7世紀と11世紀のカリフ(2004)、18~19世紀合衆国とラテンアメリカの対照性(1998)、帝国解体過程の比較(1997)、3枚の地図による主権国家成立の新展開(1992)、高麗と李朝の比較(1990)、西欧市民革命の比較(1988)など。

 「差異」とは、「他と比べて違う点」(『新明解国語辞典』三省堂)ですが、この差異ということばを無視した答案ばかりがネットに載ってます。つまり比べなかった。比べなかったら差異も表れない。羅列したら自ずと差異は表れると勘違いしていているようです。過去問では、特徴、対照的性格とか、違いとか、新しい展開とか、相違点とかの用語で出題されましたが、今回は強烈に「差異・差異」と書いているのに無視しています。

 だいたい予備校の「分析/講評」のところに、「差異」ということばがまったく出てこない点に、この言葉を無視したことが表れています。差異差異と3個も書いてある語句に目が止まらないのは盲目とでもいう他ないようです。意図的な無視でしょう。書いてあるのに見えないのは、それも、どれもこれも首を揃えて、そうだというのは、何か根本的な欠陥が日本の教育にあるのではないか、と疑わせます。問題を凝視できない。比較の問題になるとダメな解答しか書けないことは、このブログでもさんざん書いてきましたが、またまたです。一例としてベネッセの次の文章を読んでみてください。

アジア・アフリカの植民地独立過程と旧宗主国を含めたその後の動向。指定語句を用いて,アジア・アフリカの植民地の独立過程と旧宗主国を含めたその後の動向について論じる問題。第一次世界大戦以後の現代史からの出題であった。行数が17行(17×30字=510字)から18行(540字)に増加し,指定語句は2011年度と同様に8つあった。指定語句の「ドイモイ」は,2011年度第3問に続いて2年連続の出題であった。マグリブからフランスへの移民の問題を問う指定語句からは,「アラブの春」からの着想が想像できる。8つの指定語句を国別に整理すると,イギリスの植民地だったエジプトとインド,フランスの植民地だったベトナムとアルジェリアの4国にちょうど2つずつあてはまる。4国の独立とその後の動向についてこの指定語句を使い,問題文にある留意点をすべて入れて書くとなると,540字に収めるのは困難である。よって,上記の4国それぞれについて,指定語句と留意点をきちんと関連づけ,コンパクトに記述していく必要があった。具体的には,留意点の「同化政策」と「移民増加による旧宗主国内の社会問題」は指定語句「アルジェリア戦争」から「宗教的標章法」へとつなぐ説明に,「社会主義」はベトナム独立と「ドイモイ」に,「宗教運動」はインド独立から「カシミール紛争」に,「旧宗主国への経済的従属」はエジプト独立から「スエズ運河国有化」の説明に関連させて記述できるかどうかがポイントになる。問題文にある留意点をきちんと読み取り,指定語句と結びつけて論じる力が求められた。

http://tk.benesse.co.jp/t_conquest/archives/t_w_history_12.html

 この文章から分かるように、指定語句にとらわれ、「留意」に差異がまったくないかのような「分析」です。指定語句と関連事項を適当に散りばめたらいいという安易な読みかたが表れています。

 

 わたしは今年の東大の問題は近年にない難問と見ました。学者の中には列強の植民地政策とその後、というテーマは論じられているので何も特異なテーマではありませんが、受験生にとって世界史の知識だけでこれを論ずるのは酷ではないかと、とおもいました。予備校の分析に、やや難(K)、標準(S)、やや難(Y)、標準(T)とあり、鈍感だなあ、としかおもえません。

 独立過程とその後を書けばいい、かんたんじゃん、と取ったようです。たいてい4つの地域に分けて書いていて、それは指定語句が4つの地域を示しているからなのですが、それはかえって指定語句に縛られ、負けてしまい、4つの地域以外は無視する結果になりました。というか、4つの地域以外を書く余裕がなかった、といえばいいでしょう。まちがった問題のとらえ方をしたためです。指定語句を重んじすぎたためです。

 4つの地域以外だけでなく、何より書かなくてはならない「差異」を見捨てました。受験生もこの安易な取り方をしたようで、ここで踏ん張って差異を考えなくてはならない)。

 

 指定語句に注目してしまうのは仕方のないところですが、あくまで指定語句は召し使いであって主人ではありません。今回の問題のように、指定語句をいちいち説明しつつ書いていたら、とても字数が足りません。あくまで指定語句は事例として挙げていくことにしないと、主人・主問の「地域ごとの差異を考えながら、アジア・アフリカにおける植民地独立の過程とその後の動向」に答えられません。「差異を考え」てもらうために課題文は親切に導入文で、「植民地独立の過程とその後の展開は、ヨーロッパ諸国それぞれの植民地政策の差異に加えて、社会主義や宗教運動などの影響も受けつつ、地域により異なる様相を呈する」と、植民地政策(同化と経済的従属・文化的結びつき・移民)・社会主義・宗教運動という側面を挙げています。これを「以上の点に留意し」と課題文につなげてまいす。

 「植民地独立の過程とその後の動向」を書かなくてはならないのですが、その前後に「地域ごとの差異を考えながら、……論じなさい」とあるので、そのことを文章で表さなくてはなりません。差異を論ぜよ、ということです。差異が要らないのなら、もっとかんたんに地域毎の独立過程とその後(の流れ)を書きなさい、という問題文で済んだはずです。なぜわざわざ「差異を」という言葉が必要だったのか。ネットの解答例を見て、題を付けたらいい。「独立過程とその後の動向の差異」という題が付きますか?

 これだけ言っても分からないひとがいるので、簡単な例をあげます。次の二つの文章を見て、どちらが差異を書いている文ですか?

 1) 日本の関西に大阪がある。日本の関西に京都がある。
 2) 大阪は人口が約260万の大都市である。京都は人口約140万の中都市である。

 1)は都市名はちがいますが、並列しているだけで都市と都市を比較した内容はありません。名称がちがうだけでは差異を表したことにはなりません。2)の方では人口を比較対象の軸にして数字で差異を証明しています。

 

 東大の「留意」は書け、という命令でもあるので(疑問におもう人は、こちら→)、課題の「植民地独立の過程とその後の展開」に答えるために、3つの留意事項である植民地政策・社会主義・宗教運動という側面を盛り込んでいくことが必要です。

 どこの国の植民地を対象にするか。アジア・アフリカに植民地をもったすべてのヨーロッパの国々と言えます。「ヨーロッパ諸国それぞれの植民地政策」とあるので、日本が植民地化した朝鮮半島、アメリカが植民地化したフィリピンは対象にはなりません。また「第一次世界大戦後、ついで第二次世界大戦後に、その多くが独立を達成する。しかしその後も」とあるので、第一次世界大戦で植民地を失ったドイツはアフリカに植民地を持っていましたが、ほぼ対象になりません。ドイツはアフリカを征服する際に部族ごとに絶滅させる方法をとり、これはナチスに受けつがれましたが、抹殺された部族の独立運動は不可能です。ユダヤ人の例をあげても書けないわけではないですが。ましてドイツが持っていた太平洋諸島は「アジア・アフリカ」ではないので対象になりません。とすると、英仏が中心になることが推理できます。ベルギーはコンゴを持っており、オランダはインドネシアを、ポルトガルはアンゴラ、ギニアビサウ、モザンビークなど持っていましたが、余裕があればという程度で考えられたらいい。残るのは英仏です。

 

 書かなくてはならない事柄として植民地政策はあるものの、それを比較の視点で受験生は学習したことがないはずです。わたしは少しは授業でアフリカ史の際に説明しますが、教科書に区別して述べたものはないようにおもいます。史実を詰めていけば推理できますが、それを受験場でやらせたのは酷でした。

 どう書こうかと考える際に、指定語句にとらわれてしまうと、この植民地政策のことは無視してしまいやすい。この政策の差異がその後の独立や動向の差異につながっている、という設定です。過去問(2005)「第二次世界大戦中に生じた出来事が,いかなる形で1950年代までの世界のありかたに影響を与えたのか」と似た問い方です。

 初めはどう書くか構成が思いつかなかったので、かんたんな地図を描きました。このやり方は拙著『世界史論述練習帳new』(パレード)p.150に「かんたんな地図を描いてみる」と方法をあげてます。三角形のアフリカ、長方形のアラビア半島から三角形インド、三角形の東南アジアと、ラフな図です。下にいくらか正確な地図(第二次世界大戦前の植民地)をげておきます。

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 そこに指定語句をあてはめると、すぐ英仏中心で書けばいい、と分かってきます。指定になっていない語句も加えました。アフリカ1960年、コンゴ独立、アパルトヘイト、印パ分離独立、セイロンの対立、ビルマ独立、インドシナ戦争、インドネシア独立戦争と。すると戦争の有無がなにより現れてきます。イギリス植民地にはほとんど戦争がなく、段階的に自治→独立、という過程がたどれます。エジプトの1922年の独立も自治を認めたにすぎず、1935年(英エ条約)になって外交権を認めます。カナダから始まる自治領(ドミニオン)、イギリス連邦、ウェストミンスター憲章、新インド統治法、ビルマ統治法……、おっ、こんなにある、ということが分かります。それに対してフランスには自治の話は出てこなかったなあ、いきなり独立戦争・内戦だ、ということです。

 

 英仏のこの差異はどこから来るのか。経済目的で帝国を拡大・維持したイギリスと、「帝国」の誇りで国内の不安定をまとめようとしたフランスとの差異です。フランスの植民地がアルジェリアからスタートして周辺の東西モロッコ、チュニジアをとり、南のサハラ砂漠に出かけて砂ばかり集めていたこと、東南アジアは資源は豊富ですが、なにしろ遠い。自国の産業とのリンク、船舶数の面でイギリスに劣ります。フランスは石炭が少なく、コークス用の良質炭が自給できない。しかし国内の紛争と国際対立の中でどんどん外へ外へという勢いで国内の統一と対外的威信を保とうとしたことにフランスの帝国主義の性格がつくられました。これを支えた思想は「文明化の使命」です。啓蒙思想とフランス革命をもって近代社会・近代文化をつくったという誇りが土台になり、植民地化していくことはこのフランス文明を広げていくことであると正当化します。19世紀にこれを唱えた思想家にトクヴィル、ヴィクトル=ユゴー、ルイ=ブランたちがいます(平野千果子著『フランス植民地主義の歴史』人文書院)。第二次世界大戦が終わっても、フランス人は「宗主国フランスは、征服を果たした広大な領土の主権者であり、全面的に主権を維持すべきである。植民地の「原住民」である黄色人種や黒人は、白人より劣った人種であり、われわれ白人のみが「原住民」を適切に統治できる」と書いてます(前掲書p.291)。フランスの学問・芸術を学んだ日本人学者にもこれは伝染していて、いかにも自分も最高の文明人である、という胡散臭いにおいを放ちます。てめえどんなにフランスを学ぼうと日本人だろ、と突っ込みたくなるくらいです。

 指定語句に「アルジェリア戦争」という用語があります。これはフランス人は1999年10月の法以降から呼ぶようになった最近の呼称です。それまでフランスではアルジェリア人の動きを独立戦争と認めず、「テロ」「テロリスト」と呼んでいました。それを鎮圧することがフランスにとって課題であり、「北アフリカにおける秩序維持作戦」と呼んでいました。この戦争に関わったフランス兵は歳ををとり死が近くなり、最近になって、この戦争でいかに残酷なことをしたかを告白しだしています。約100万人の独立を求めるひとびとを殺しました。今頃になって、とおもうかも知れませんが、それほど自らを「文明人」と呼ぶ正当化をつづけてきたのです。たんに国家エゴイズムを追求した野蛮な行為であったのに。さらに「フランスの植民地支配を肯定する法律」を成立(2005年)させアルジェリア植民を正当化しました。ああ、なんという傲慢さ! この法は一年後には廃止となりましたが。アルジェリアで使った拷問の道具競売に関する最近の記事でも無神経さは確認できます。以下。

http://karapaia.livedoor.biz/archives/52077044.html

 このフランスの植民地政策はむきだしの暴力支配であることを告発し、暴力こそ対抗手段と説くフランツ=ファノンを思い出します(『地に呪われたる者』みすず書房)。

 石原莞爾の『世界最終戦論』(1940)にもやたら「文明」という言葉で武力行使を正当化していますが、フランスと同類の無神経さです。

 イギリス人も同じような考えは持っていました。かのセシル=ローズは「われわれが世界で最も優秀な民族であり、われわれの住む領域が広ければ広いほど人類にとってもそれはよいことだ、と私は言いたい」(E.H.カー著『危機の二十年』岩波文庫、p.159)。しかし頑なフランス人とちがい、パクス=ブリタニカの経営者たちは先住民を懐柔しながら、利益だけはバッチリ取り上げようという技術に長けていて、政治的宗教的な分割・分治・分断政策をとりつつ(ベンガル分割令)、できるだけ現地民同士を争わせようとしました。

 これらのことを受験生は書けないとしても、先にあげた多くの自治・分断の例から類推はできます。「1877年にはヴィクトリア女王がインド皇帝に即位してインド帝国が成立……従来の強圧的政策ではなく、「分割統治」ということばに示されるインド人のあいだの対立を利用する巧妙な政策がとられるようになった。(詳説世界史)」と。

 この他に植民地政策として、植民地化したアジア・アフリカのエリート養成に熱心であったこともあげられます。同化政策です。「イギリスに留学して法律を学び弁護士となったガンディーは、1893年から20年間も南アフリカにあって、その地のインド人の地位向上のために活動した(東大過去問1982年)」というのは名高い例ですが、フランスの場合は、ホー=チミンは植民地学校の入学が許可されませんでした。

 オランダの場合は、「20世紀にはいって住民への福祉政策がとられ、現地人官吏養成政策の一環として多くの学校が設立された。貴族の子弟を中心に、オランダ語の教育や専門教育がほどこされたが、教育をうけた子弟のあいだに、しだいに民族的自覚がうまれた。……オランダから帰国した留学生が指導権をにぎった」(詳説世界史)との記事があります。

 ベルギーはコンゴにおいて現地民の教育に熱心ではなく、独立当時、コンゴにいる指導者で大学の卒業生は数人しかいなかったといわれ、独立というよりベルギーは「放棄した」といわれるくらいで、独立と同時にすぐ内戦(コンゴ動乱)に入ります。こうした独立後の混乱を準備するやり方は、フランスの植民地ギニアでも見られます。フランスは去る前に道路・公共施設を破壊し、役所の備品・書類(土地台帳)をすべて本国に持ちさってます。

 オランダやベルギーについて書けないとしても、英仏の政策は少しは書けるかも知れません。これは現在でも、イギリス連邦が機能していますが、イギリス連邦をまねて作った「フランス連合」も「フランス共同体」も短命に終わり、消滅したことで現れています。フランスに対する反発の強さです。

 

 今度は社会主義。これもたんに社会主義と関わったできごとにくっつけたらそれで済む、というものではありません。ベネッセのように「「社会主義」はベトナム独立と「ドイモイ」に」というジグソーパズルのように当てはめたらいい、という単純なものでは差異は表せません。英仏植民地で社会主義はどう違った現れかたをしたのか考えよ。世界史は暗記ばかりで嫌になるものですが、少しは考えないと出てこない問題を東大は出すので、訓練が要ります(『世界史論述練習帳new』(パレード)の「比較」を学べ)。

 何より独立戦争とともに出てくるフランスの場合が多いことが分かります。アルジェリア民族解放戦線(FLN)、ホー=チミンの共産党、ラオスのパテト=ラオ(ラオス愛国戦線)、カンボジアのクメール=ルージュ(ポル=ポト)など。

 イギリス植民地の社会主義は、エジプトの社会主義? 知らない。ケニアの社会主義? ケニヤッタはそれほど社会主義で名高い闘争者とは知られていない。ガーナのエンクルマはどうだったか? 社会主義者ではあったが戦争にはならず、一党独裁体制を築いた点はソ連の忠実な子といえます。このようにアフリカが社会主義の影響を受けたことは知られています。そうした人物にネルソン=マンデラもいます。しかし武装闘争の組織までにはいたらなかった、というのも事実でしょう。社会主義諸国、とくに中ソとの関係をもったことも知られています。ただ教科書にはアフリカの社会主義について明快に書いてないので、ここはあまり踏みこめない。

 これらのことから、フランスは武装闘争の組織になっていて、それが独立運動と結びついている点がハッキリしています。イギリス領では社会主義は外交的な利用が目立ちます。エジプトは、ナセルがアスワン=ハイダム建設資金と技術をソ連に頼ったことが、スエズ運河国有化・第二次中東戦争に発展しましたから、外交的には社会主義を利用したことになります。インドも中国との対立(国境問題・対パキスタン)のためにソ連と組むことをしました。ビルマ(ミャンマー)独立運動の指導者アウンサンは共産党と協力はしましたが、日英とも交渉して独立にこぎつけました。その後、ネ=ウィンがビルマ式社会主義(1962~88)を標榜しましたが、国際的孤立の中での社会主義でした。独立運動と結びついていません。独立後の自立のための活動とは結びついています。

 

 次は宗教運動の影響です。ベネッセのように「「宗教運動」はインド独立から「カシミール紛争」に」で済むものではありません。もともと既存の宗教があるところを植民地化したのですから、キリスト教徒としての英仏が植民地化した国々の宗教にどう対応したかの政策の差異が問題になります。これは、2009年度の「国家と宗教と個人の関係」にも似ています。本国と植民地の違いはありますが。

 イギリスが植民地化した地域はアフリカのイスラーム教徒、西アジアの委任統治領のイスラーム教徒、南アジアのヒンドゥー教徒とイスラーム教徒、仏教徒で、東南アジアはほとんど仏教徒でした。フランス領となった地域はイギリスとちがいイスラーム教徒と仏教徒と単一の宗教なので、イギリスの場合の南アジアが特異例となります。イギリスは南アジア征服の過程で元々ある宗教対立を利用しながらわずかな兵士で征服できており、征服後もこの対立を利用していったことは前にあげた教科書の記事でも確かめられます。

 どちらにしろ長い信仰の歴史をもっているアジア・アフリカの地域にキリスト教を広めることに成功したとはいえません。教会やミッションスクール、大学を建てても、独立後は破壊されてます。とくにフランス領にそれは見られます。イスラーム教の信仰は認めても、フランスの学校はフランス語・フランス法を学ばせ、政教分離を教えました。現地民の宗教と伝統は重んじなかった。イスラーム教はもともと政教一致の宗教ですから、それが指定語句の「宗教的標章法」という政教分離原則と対立することにりました。「アラブの春」といいながら、最近では政教分離を原則とすべてきとしたケマル=パシャの改革は次第に劣勢になってきています。

 しかしこの宗教的標章法にもフランスの「文明化は正当」という考えは抜かれています。たんに政教分離原則だけでなく、スカーフの着用は「女性抑圧と差別」を表していて、スカーフを禁止し、スカーフを脱がせることがイスラム女性の解放になるとの考えです。 

 このように植民地化した地域の差異がそのまま表れているとはいえ、フランスは厳格でイギリスは寛容だったといえます。

 

 英仏中心に説明しましたが、他に特異な国としてポルトガルがあります。ギニアビサウ、モザンビーク、アンゴラを植民地にしていました。独立前にフランス同様に内戦が伴い、国内では独裁政治(サラザールは1933-68年、カエターノは1974年まで)に対する批判が学生を中心におき、1974年に軍部のクーデタがおき、やっと民主化することになり(リスボンの春、カーネーション革命)、それが植民地の解放につながりました。

 東大の過去問(1978)に「ギニアニビサウ、アンゴラ、モザンビークの独立は、アフリカの歴史の中でどのような新しい時期を画したか。これらの地域の独立運動は、それを植民地として領有していた国に、どのような政治的変化を及ぼしたか。これら2点について考えを2行以内にまとめて述べよ」という当時としては時事的な問題が出たことがあります。

 このことは教科書では「ポルトガルの植民地はなお残り、経済的利益を手放したがらない旧本国のなかには、ベルギーのように独立後も干渉して、コンゴ動乱を引きおこした例もあった(詳説世界史)」「アフリカでは、民族対立と米ソの介入が重なって政治的な混乱がつづいた。とくにアンゴラ、モザンビークなどポルトガル領植民地では、1950年代から独立戦争がはじまり、74年のポルトガルの政変後に独立が認められるまでつづいた。アンゴラでは独立後も内戦がつづき、アメリカ合衆国とソ連、キューバが介入して長期化した。(東京書籍)」と記事があります。

 

 難問でしたが、今年の得点開示を見ると、昨年の厳しい得点と比較して全体で10点差あるという異常な易化になっているので、配点換えした可能性があります。この第1問は白紙でなくても書いている受験生の解答は問うたこととは違いすぎたはずです。難しすぎたと判断して、第3問を1点から2点に上げたのではないか。東大の配点は固定したものではないので、ありうる想定です。来年も同じとは考えられない。今年は今年。今年は世界史選択者が幸運だったということです。問題の難易度とは無関係な配点です。

 いつもは第1問は、自分で考えないと進歩なしとみて、解答例を挙げないことにしていますが、予備校他の解答例がひどすぎるのと、上にあげたわたしの問題の取り方を明らかにするために、わたしの解答例を下に挙げることにしました。

 

[第2問の解き方

(1)

 (a) 課題は「5世紀におけるフン族の最盛期とその後」です。「最盛期」に違和感がありますが、ウクライナから西走してきて、いったんハンガリー盆地(パンノニア)に落ち着いたときが最盛期でしょう。居城ブダペストを設けたことが知られています。ブダペストのブダはアッティラの兄ブレダからとっているとのこと。ここを根拠地に南の東ローマ帝国へ、東南のササン朝へ、西のブルグント王国、ガリアへと侵略を繰りかえします。西走してパリの東カタラウヌムでローマ軍・ゲルマン人軍(西ゴート・フランク)・ケルト人と戦い敗戦して衰退です。その後イタリアに南下したため、沿岸の小さい町だったヴェネツィアのひとたちは海の岩場に要塞を築き、フン族の去っていくのを待ったことから、現在の海の町ヴェネツィアができたとのことです。危機を逃れた原因は、騎馬民族がヴェネツィアを取り囲むラグーナ(潟)と呼ばれる水面に、必要不可欠の馬の飼料の牧草が生えなかったことによるのかもしれない(永井三明著『ヴェネツィアの歴史・共和国の残照』刀水書房)。

 ドナウ川下流にいた東ゴートを攻撃したことがゲルマン大移動を起す原因となったこと(東ゴートに押された西ゴートから移動)、ハンガリーに居城を設けた頃が最盛期であること、あるいは指導者がアッティラになって栄えたときを最盛期としてもいけます。「その後」としてはカタラウヌムの戦いでの敗戦があれば充分です。

 (b) 「エフタルに苦しめられた西アジアの大国」はササン朝ペルシア帝国で、「6世紀半ばの情勢」とはホスロー1世だと分かれば、いや分からなくてはならない基本的な知識です。2012年のセンター試験にも出ていました(問題番号6「突厥が、ササン朝と結んで「エフタル」を滅ぼした」)。ホスロー1世に関することはセンターではこれで6回目です。

 エフタルのことも既にセンターでは7回も、今回で8回出たことになります。

 また2012年の問題番号1の「東ローマ帝国で『ローマ法大全』が編纂化(へんさん)された」という文章は同時期のユスティニアヌス帝の事業の一つです。

 ということで、東ではエフタルと戦い、西ではユスティニアヌス帝と泥沼の戦いをしていた、というのが6世紀半ばの情勢です。

 

(2)

 (a) 二つの問いがあります。「彼らはアラビア語で何とよばれ」と「カリフは彼らをどのように用いたのか」でした。

 初めはマムルーク。トルコ人軍人奴隷、として名高いものです。カンペキにトルコ人だけではなかったようですが、主にかれらということです。トルコ人以外としては、スラヴ人・モンゴル人・クルド人・ギリシア人・アルメニア人もいました。

 「9世紀ごろになると、アッバース朝カリフの周辺には」とは、中央アジアに進出した際に戦争捕虜としたり奴隷として買ったことが起源となり、次第にイスラーム世界に入ってきたものです。とくに第8代カリフのムウタスィム (ムータシム、在位 833-842) が親衛隊として使い始めてからです。トルコ人戦士は、馬上から自在に弓を射ることができる騎馬兵として重用され、歴代カリフが使うようになります。ムウタスィムは親衛隊として使ったのですが、軍団の司令官や地方総督に抜摺されるものも現れます。マムルーク兵になるには、幼少の1年間は徒歩でこき使われ、2年目は小型馬での乗馬訓練をうけ、3年目は腰の革帯着用を許され、さらに8年程度の軍事訓練の末に初めて一人前の騎士と認められたそうです。こうした軍事訓練の他にアラビア語やイスラーム諸学を教育されているので、官僚としても使ったようです。

(b) これも易問でした。「中央ユーラシアから西アジアに進出したトルコ人が建てた最初の王朝の名(1)」は、シル川の下流で1038年に建国して、1055年にバグダードに入城している王朝です。十字軍とも戦うセルジュ(ー)ク朝です。

 宗派の名(2)はスンナ派。トルコ人は皆スンナ派です。と言っていいのですが例外があります。イラン北方に住むアゼリ人は全人口の2割強を占め、自らをトルコ人と呼びますがイランの宗派であるシーア派です。知らなくていいことですが。

(3)

(a) 「漢の武帝の対匈奴政策と西域政策とのかかわり」は過去に類題がありました。「秦漢統一帝国が成立し、やがて経済的安定が得られると、漢の武帝は周辺諸民族に対し、積極的な対外政策をとった。そのうち北方・西方との関係、およびそれの漢に及ぼした影響について述べよ。(140字。1982年度第2問)」と。今年の「かかわり」をもっと丁寧に問うた問題です。作用と反作用を述べさせていて、今年の問題もこれと同じように解答してもいいでしょう。

 かかわりは一義的には「政策」ですから、積極策として知られていること、張騫の大月氏派遣、衛青・霍去病の派兵、結果として河西四郡設置、朔方(さくほう)郡の設置、李広利の派遣と大宛(フェルガーナ)支配、などでしょう。反作用も「かかわり」に入れるとすると、戦費捻出のための重農抑商政策、五銖銭発行、専売、貧富差拡大などが挙げられます。この過去問の解答で後者の解答に「汗血馬なる良馬を得て中国の馬種改良を始めた」という滑稽な解答が河合塾のにありました。

 (b) 「15世紀なかごろ」は1449年(『世界史年代ワンフレーズnew』の語呂は「土木、石14敷4く9」)で、モンゴルのある部族……の名(1)、はオイラト(オイラート、オイラート部)です。オイラトは中国製の武器がほしくて密貿易をしていましたが、それを明朝側が厳禁しだしたため、遼東・陝西・山西の方向から押しよせてきて、正統帝が親征したものの土木堡という要塞で捕まってしまった事件です。「事件の名(2)」は土木の変、土木堡の変、です。この事件があったために、以後、長城の修築に努めることになりました。

 

第3問

(1) 「パルテノン神殿……建築様式」というセンター・レベルの問題です。2009年度の世界史Aの問題に、

 a パルテノン神殿の建つ丘は,アクロポリスと呼ばれている。(正)

 b パルテノン神殿はヘレニズム文化の影響下で建設された。(誤)

 と出ていました。ギリシアの建築様式は3種類ありますが、入試で出るのはこのドーリア式だけです。

(2) 「ボロブドゥール寺院がある場所はどこか、今日の島名」という易問です。センター2008年度に地図とともに「シャイレーンドラ朝の下で、この島にボロブドゥールが建てられた」と出ていました(こちら→http://www.ne.jp/asahi/wh/class/08cq_5.html)

(3) 「修道院……小さな窓、重厚な壁、高度の象徴性を特徴とする建築を何様式」という易問です。窓のかたちが∩のようであればロマネスク様式です。上の丸い形状が尖っていたらゴシック様式になります。屋根の重味を解決できなかったため、「小さな窓、重厚な壁」となり暗い堂内となります。これを解決したゴシック様式は大きく窓を開けて、そこにステンドグラスをはめることができるようになり、明るい堂内となりました。

(4) 「16世紀にスペイン人征服者ピサロによって滅ぼされた。征服が行われたとき、スペインを統治していた国王」という易問。インカ帝国は1533年に征服されてますから、カルロス1世(神聖ローマ皇帝としてはカール5世)です。『世界史ワンフレーズnew』の語呂では、「イ1ンコ5、山3々3」。フェリペ2世かもと迷った人は、父のカルロス1世がアウグスブルク和議(1555)まで生きていたことを想起するか、フェリペ2世とムガル帝国のアクバル帝が同年に即位している(『ワンフレーズ』では「悪張る千1個5殺56す」)ことを知っていたら容易です。

(5) 「北京に遷都……の皇帝」という易問です。1992年度のセンター試験で、「下線部1)(1402年に遷都を行い)の説明として正しいものを」という問題で、正文の「南京から北京への遷都であり、漢民族の中国統一王朝として初めて北京に都を置いた」を選ばせています。2004年度のセンターでは、明朝について、「建国時には南京に首都を置き、滅亡時には北京に首都を置いていた」という正文を選ばせています。

(6) 「グラナダ……1492年、スペイン王国によって攻略されたこの王朝名」という易問。2009年度のセンターで、12世紀のできごとを選べ、という問題で「イベリア半島では、ナスル朝が滅んだ」という誤文が出ていました。2004年度でも「ナスル朝は、この半島における最後のイスラム王朝となった」という正文がありました。

(7) 「フリードリヒ大王がヴェルサイユ宮殿を模倣してポツダムに造らせた宮殿の名称」という易問。2005年度のセンターで、下線部「18世紀前半のフランス」について「サンスーシ宮殿が建てられた」という誤文が問われました。

(8) 「19世紀末にケープ植民地首相」という芋、いや易問でした。2012年度のセンター・世界史Aで、「1890年にイギリス領ケープ植民地首相となった[ ア ]が、帝国主義政策の一環としてケープタウンとカイロを鉄道で結ぼうとした」と説明のあった人物です。人物はグラッドストン、ゴードン、セシル=ローズ、チャーチルと4人挙げてあり、セシル=ローズを選ぶ問題でした。上で第1問にも挙げた人物です。

(9) 「原爆投下を指示したアメリカ合衆国大統領」という易問。2011年度のセンターに「トルーマン大統領の在任中に、アメリカ合衆国が広島・長崎に原爆を投下した」という正文が出ていました。原爆に関しては三浦俊彦著『戦争論理学』(二見書房)という本があり、ここにアメリカが原爆を落したのは正しい、ということを言うために、62の反論を挙げながら答えています。

(10) 「1973年……社会主義政権を率いていた大統領が死亡した。この大統領」という、これもこれも易問でした。アジェンデはセンターで5回も問われていますが、最近の例では、2010年度「ペルーのアジェンデ政権は、軍事クーデタで倒された」という誤文で出ています(こちら→http://www.ne.jp/asahi/wh/class/10cq_2.html の問7)。

 東大世界史の第3問はセンター・レベルの問題でした。

(わたしの解答例)

第1問

レベル1(教科書引き写し的な解答例)

イギリスは強圧的政策ではなく、現地人の対立を利用する分割統治政策をとった。ヒンドゥー教徒に国民会議、ムスリムに全インド=ムスリム連盟を結成させたが、非暴力・不服従運動に押されて州自治を認める新インド統治法を制定した。戦後の独立は宗教別独立となったが、カシミール紛争が残った。エジプトではワフド党の運動から自治を認め、その後の同盟条約によって外交権も移譲した。経済的には戦後、社会主義国・ソ連と組んだエジプトにスエズ運河国有化を認めた。また自治領となった南アフリカでは白人黒人を隔離したアパルトヘイトが長く続けられた。自治・分割統治をとらなかったフランス植民地では戦争がおき、独立を求める側は社会主義と結びついた点がイギリスと違っている。入植者・現地軍部と民族解放戦線とのあいだで武装抗争となったアルジエリア戦争がおき、ディエンビエンフー陥落によって撤退したベトナムでは、その後も合衆国とのヴェトナム戦争がホー指導の共産党によって続けられた。市場開放のドイモイ政策でも社会主義は捨てていない。フランス植民地はムスリムの多い地域であったことがスカーフをめぐる宗教的標章法制定となった。経済的利益を手放したくないポルトガルは英仏と異なり長く植民地を持ち続け、国内紛争も伴い独立を認めた。(レベル2、レベル3の解答例は拙著『東大世界史解答文』パブーにあり)

第2問

問1

a ハンガリー盆地に根拠地を置いた頃が最盛期。かれらの移動がゲルマン大移動を起したが、カタラウヌムの戦いに敗れ衰退した。

b ササン朝は突厥と組んでエフタルを破ったが、西方では東ローマ帝国のユスティニアヌス帝との泥沼の戦いが展開していた。

問2

a マムルークと呼ばれる軍人奴隷であり、騎兵の親衛隊、軍団長、総督、官僚として使った。

b ①セルジュ(ー)ク朝、②スンナ(スンニー)派

問3

a 張騫を派遣して大月氏との挟撃を策し、衛青・霍去病を派兵して西域に4郡を設置した。重農抑商政策で費用を捻出した。

b ①オイラ(ー)ト ②土木(堡)の変

第3問

1 ドーリア式  2 ジャワ(島)  3 ロマネスク(様式)
4 カルロス1世  5 永楽帝  6 ナスル朝
7 サンスーシ(宮殿)  8 セシル=ローズ  9 トルーマン 10 アジェンデ