世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

2020年度模試の疑義──(1)

A模試 ペストは教皇権を衰退させたのか?

問題
 次の史料は中世ヨーロッパで流行した疫病に関するものである。史料を参考にして問いに答えなさい。

史料1
 恵み深き神の子の受肉より数えて一三四八年目にいたったとき、……フィレンツェに、おそるべき悪疫が到来しました。……数年前東方諸国に始まり、無数の人命を奪ってある土地から他の土地へと休むことなく進み、むごいことに西方にまで広まってきました。(ボッカチオ『デカメロン』歴史学研究会編「世界史史料5』より引用)

史料2
 王は州長官に挨拶を送る。人民の、とりわけ労働者と使用人の大なる部分が今やかの疫病の流行で死滅したために、ある者は領主たちの需要と使用人の希少を見て、過大な給与を受けずには就労しようとせず、またある者は労働によって糊口するよりは閑暇の内に物乞いを選好している。朕はとりわけこのような耕夫と労働者の不足から生ずるかも知れぬ重大な不都合を慮り、……次の如く命じるよう指示した。
 即ちわがイングランド王国のすべての男女は、自由なあるいは卑しい如何なる身分のものであれ、身体健全かつ六〇歳未満で、商業によって生活するでもなく、手工業をも営まず、生計の資も、耕作に専念すべき土地も持たず、他人の下で就労していないのであれば、その身分に相応しい職に就くように求められたならば、彼にそう求めようと考えたその人の下で就労すべきものとされる。かつそのものは彼が就労すべき地において……通常の年に支払われるのが慣習的であった賃金、報酬あるいは給与のみを受けるべきものとする。……
 また……何びとも慣習的であるより高額の賃金、報酬あるいは給与を他人に支払ってはならず、また支払うことを約してはならない。(「労働者勅令(1349)」歴史学研究会編『世界史史料5』より引用)

史料3
 この時期に、腫れ物あるいは疫病とも言われる病気に始まる大量死が世界中において同じようにかつ広範囲に広がった……(中略)……また、何人かの者たちは現世の罪に対する神の懲罰や奇跡のことを考えていた。その結果、ある者たちは激しい苦行や多彩な祈祷を始めることになった……(中略)……この大量死、悪疫が苦行の諸行為にもかかわらず一向に終息しないことに気付いたときこの大量死がユダヤ教徒たちの中から生じ、また地上のすべての権力を支配すべく全キリスト教徒を毒殺するために、ユダヤ教徒たちが世界中の井戸や泉に、毒や体に悪いものを投げ入れたとの噂が立ち始めた……(後略)(「ジャン=ル=ベル年代記」歴史学研究会編『世界史史料5』より引用)

問い 史料1は疫病がもたらされたことを示す記録であり、史料2は疫病の流行を受けたイングランド国王が1349年に発布した王令の一部である。また史料3は疫病が流行した状況を15世紀前半に記録した年代記の記述である。これらの史料を参考にして、この疫病の現代における名称を挙げ、それがヨーロッパで流行した経済的・社会的背景を明らかにした上で、当時のヨーロッパの農村と都市にもたらした経済的・社会的影響について、王権や領邦君主権、教皇権に与えた影響にも留意しながら説明しなさい。その際、次の語旬を必ず用い、用いた語旬に下線を引きなさい。また国名は英・仏など漢字の略表記で構わない。(400字以内)

  東方貿易  領主  農民一揆

解答文 
大モンゴル国がユーラシアで交通路を整備し貿易商人を保護すると、東西交易が活発化し、地中海域でイタリア商人が主導する東方貿易やヨーロッパ内の遠隔地貿易と連結した。14世紀、寒冷化による凶作と飢饉が多発する中、商人らを通して東方からペストが伝わると、人口は激減した。農村での労働力減少は貨幣地代の普及と相まって農民の地位を高め、困窮した領主が封建反動を起こすと、英仏では農民一揆が発生し荘園制の解体が進んだが、エルベ川以東では領主が農奴制を再強化した。貧民が流入し社会不安が増した都市では、ユダヤ人の迫害や支配層を構成する大商人に対する手工業者の抵抗運動が起きた。大商人はペストや戦乱、農奴解放で没落した領主が手放した土地を買収し、国家の官職を得て王権を支える官僚を輩出した。王権も没落した領主の所領を王領地に編入して権力を強化したが、仏王権との対立で動揺する教皇権は、ペストの流行でさらに権威を失墜した。(400字)

▲ 末尾の文「教皇権は、ペストの流行でさらに権威を失墜した」は事実か? 解答文にはその根拠が示されていません。疫病と教皇権はどうかかわっているのか。
 解説では、「27、(ペスト流行の影響もあり)教皇は権威を失墜させていった」とまた根拠が示されていません。さらに下を読んで行くと、「ペスト流行当時の教皇はクレメンス6世(位1342〜52)で、ユダヤ人迫害を弾劾したり、瀕死の病人に赦免を与えたりするなどペストに対処したがアヴィニョンでのペストの禍がひどくなるとそこから逃れたという。やがて教皇庁はローマに帰還するがそれに不満を持つフランス系聖職者らがアヴィニョンにも対立教皇を立て」とあり、「逃れた」ということが根拠らしい。
 ところがこの教皇は、かのウィキペディアでは「ペスト禍にさらされており、この間、彼は、新しい墓地のための土地を買い入れ、瀕死の病人全てに赦免を与え、病気の原因を探る為に医師による死体解剖を許可し、ユダヤ人迫害を弾劾する勅書を出した。しかし為すすべなく、同年5月には……に避難した」とあり、模試解説では「病気の原因を探る為に医師による死体解剖を許可し」の部分を省いています。どうやら赦免だけ与えてすぐ「逃げた」のではないようです。現在のようにワクチン開発もゲノム解読もできない時代に「病気の原因を探る為に医師による死体解剖を許可し」たのは立派なことではないでしょうか? 医師たちも逃げる「為すすべなく」という状況で避難するのは当然とおもえます。これがなぜ「教皇権衰退」につながるのか?
 またある論文では「教皇の侍医ショリアックは教皇に避難することを勧告したが、クレメンスVI世は頑なにそれを受け入れず、逆に疫病を祓うことを意図して特別贖罪の聖年を早めた」とあります(

https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/26190/1/102_15-53.pdf

)。
 「ペストの流行でさらに権威を失墜した」は実証性のない思い込みの解答文でしょう。歴史にたずさわるものとして恥ずかしい。まだ投票中なのに勝利宣言をしてしまうトランプと似てないか?

追記:
 イノパリスさんから教示していただいて分かったのは、教皇クレメンス6世はアヴィニョンを「逃げた」のでなく、とどまっていて、いや留まらざるを得ない事情(持病の腎臓結石症悪化)もあり、この町アヴィニョンで死去しています。

アヴィニョン教会区のサイトより
https://www.archives.diocese-avignon.fr/Les-papes-d-Avignon-Heurs-et-malheurs-3.html

例) Google でフランス語を英語に訳したもの
If most of the cardinals then retired to the countryside to avoid contagion, Clement VI, showing great courage, insisted on staying in Avignon, he instituted a mass to ask for the end of the plague, paid doctors to treat the sick and he protected the Jews whom public rumor accused of having spread the epidemic. The priests themselves sometimes no longer dared to go to the bedside of the dying and a cemetery was opened outside the town, at the place of Champfleury, to receive the corpses that were hastily dumped there.

また、ウィキペディアに
” 1348年1月頃からアヴィニョンはペスト禍にさらされており”と書いてありましたが、これは絶対に間違いだと思います。
アヴィニョンにペスト患者が出たのは1347年10月らしいです。そして、3か月という人と6か月という資料がありましたが、その間に11000人ペストによる死者が出ています。(引用終了)

 英語版のクレメンス6世の説明でもアヴィニョンで死去している、とあります。葬られたノートルダムもアヴィニョンの教会です。以下。
Clement had been ill for some time in 1352, not just with kidney stones, which had troubled him for many years, but also with a tumor, which broke out into an abscess with fever during his last week.Pope Clement VI died on 6 December 1352, in the eleventh year of his reign. After his death, his Almoner, Pierre de Froideville, distributed the sum of 400 livres to the poor of Avignon, and on the day of the solemn funeral another 40 livres were distributed during the procession to the Cathedral to the poor who were present. Clement left the reputation of "a fine gentleman, a prince munificent to profusion, a patron of the arts and learning, but no saint". His body was placed on exhibit in the Notre Dame-des-Doms, where it was buried temporarily. Three months later the body was transferred in a splendid procession to the abbey of La Chaise-Dieu, passing through Le Puy on 6 April.


B模試 実学という歴史用語をなぜ使わないのか?
問題
 大航海時代以降、世界各地に進出したヨーロッパ勢力は、中国にも到達し、その社会に影響を与えた。ヨーロッパ勢力の世界進出が、明代から清代の18世紀前半までの中国の社会経済や文化に与えた影響について、中国側の制度・政策上の動きにも留意して、以下の指定語句を一度は用いて300字以内で述べよ。なお使用した指定語旬に下線を引くこと。解答は所定の解答欄に記入せよ。旬読点も字数に含めよ。
  農産物  典礼問題

解答文
明代に、マカオを拠点にしたポルトガル人の貿易で日本銀がもたらされ、またスペイン人のガレオン貿易によってマニラ経由でメキシコ銀が流入した。これを受けて中国では税制が変わり銀で納める一条鞭法、さらに清代には地丁銀が導入された。またこの時期に新大陸原産の農産物サツマイモやトウモロコシが流入し山間部でも栽培され、これにより人口が増大した。明末から清代にカトリックの布教のために来訪したイエズス会宣教師がヨーロッパの学術を伝えたことは、中国の科学技術の発展を促した。イエズス会の布教方法をめぐって起きた典礼問題に対して、康熙帝はイエズス会以外のキリスト教の布教を禁止し、ついで雍正帝は布教を全面的に禁止した。(300字)

▲ イエズス会士の影響は「中国の科学技術の発展を促した」で済むものではないでしょう。教科書(東京書籍)に「このようなヨーロッパ科学技術の刺激と、当時の飛躍的な産業の発展を背景として、明代には実用的な学問(実学)が発展し、李時珍の『本草綱目』、宋応星の『天工開物』、徐光啓の『農政全書』などが著された」とある実学です。できるだけ歴史用語をつかうほうが得点ポイントがあがるはずなのに。
 「明末にすぐれた学識をもったイエズス会士が中国に来航すると、中国の一部の知識人は彼らのもたらした新しい学問や技術に大きな関心を抱き、それらを学ぼうとした。その結果多くの翻訳書が出版されるとともに、中国人の著作の中に取り入れられたりもした。明末のいわゆる実学思想や、技術書の出現にはこうした洋学の影響を考えることができょう。」(京大系の学者たちの“アジアの歴史と文化4”『中国史・近世2』同朋舎出版)

 また「ヨーロッパの学術」は天文学・地理学・砲術・暦学・数学などがあり、計算して確認しようとする理性の働きが考証学という実証を大事にする学問の発展に寄与したことは史家のつとに指摘するところなのに書いてありません。
 梁啓超の文章を引用します。

 明末には大事件があった。それは中国学術史上に特筆すべきものだ。つまり、ヨーロッパ暦算学の伝来である。これに先立って、マルティン・ルターが新教を立ち上げたので、ローマ旧教はヨーロッパで大きな打撃を受けた。それで「イエズス会」が旧教を内側から改革し振興しようとした。彼らの計画は、海外に宜教することだった。中国とアメリカがその最も主要な目的地になった。マテオ・リッチやパントーハ、ウルシス、ロンゴバルディ、テレンツ、ディアズ、ロー、アレーニ、アダム・シャールらが万暦末年から天啓崇禎年間にかけて相次いで中国入りした。中国の学者では、徐文定〔徐光啓〕や李涼庵〔李之藻〕らが彼らと交流を持ち、各種の学問を深く研究した。〔中略〕これを要するに、中国の知識線と外国の知識線が出会ったのは晋代から唐代における仏学が最初であったが、明末の暦算学は二回目のことであった。こうした新しい環境の下で、学界の空気は当然のように変化を遂げる。これよりあとの清代の学者たちは、みな暦算学に関心を持っていたし、経世致用の学を論じることを最も好んだのも、リッチや徐光啓の影響が大きいだろう。(川原秀城編『西学東漸と東アジア』岩波書店、p、260)

 また細かいことですが、初めの「明代に」がまずい。内容は明代の約300年間のことでなく、16世紀後半以降のことですから、問題文も含めて「明末」とすべきです。引用した梁啓超の文章にあるように直すべきです。