世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

2020年度模試の疑義──(2)

C模試  なぜ産業革命や鉄道建設を書かないのか?

問題

 19世紀、ヨーロッパ大陸にはナショナリズム思想が広がりを見せ、その影響でドイツでは統一へ向けて様々な動きが展開された。しかし、統一の動きはその方法をめぐる主張の相違や時々の国際情勢の影響で容易には進展せず、ドイツの政治的統ーが達成されたのはようやく19世紀後半になってからであった。19世紀初頭からドイツの政治的統一に至る時期にプロイセンが果たした役割について、フランスの動向との関連にも留意して300字以内で述べよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。旬読点も字数に含めよ。

解答文
ナポレオン戦争期、プロイセンではシュタインらにより農民解放などの改革が推進された。ウィーン体制が成立すると、プロイセンは四国同盟に属して体制の護持に努める一方、ドイツ関税同盟の中心となって、ドイツの経済的統一を図った。さらにフランスの二月革命の影響でプロイセンでもベルリン三月革命が起こり、フランクフルト国民議会ではプロイセンを中心とする小ドイツ主義の統一案が採択されたが、プロイセン王はその統一案を拒否した。19世紀後半、プロイセン首相となったビスマルクは鉄血政策を進め、プロイセン=オーストリア戦争で勝利して北ドイツ連邦を成立させた後プロイセン=フランス戦争に勝利し、ドイツ帝国の樹立を宜言した。(300字)

▲ 課題は「ドイツの政治的統一に至る時期にプロイセンが果たした役割について」でした。「統一」問題に失敗した国民議会について書く意味があるのでしょうか? 国王自身が蹴っているのに、どんな「役割」を果たしたのでしょうか? 
 別の大きな欠陥は、プロイセンの産業革命と鉄道建設が欠けている点です。関税同盟とともにドイツ産業革命がはじまったことは経済史として常識的な事柄はず。また鉄道建設が統一に果たした役割は大きい。たとえば次の文章、

鉄道事業の先駆者であったフリードリヒ・ハルコルトは1833年、ミンデシとケルン間の鉄道の設置を提唱する小冊子を執筆したなかで経済への貢献度を強調する一方で、プロイセン軍が徒歩でなく、むしろ鉄道を利用すれば各重要都市へどれだけ迅速に到達できるかを算出して、鉄道にある軍事的価値を強く主張した。……1815年のウィーン会談において、……ルール地方を与えられたプロイセンにとって、そうした鉄道連絡網は最重要であった。その地は弱体な国々の集団によってプロイセンの基幹部分から隔離されていた上、なによりも地元民がプロイセンに参入されることを決して喜んでいなかったために優良な連絡網を必要とした。……モルトケは……短評していた。「フランスが鉄道についてサロンで論争を繰り広げている間にドイツはそれを建設する」……アメリカの南北戦争当時北部のために鉄道を走らせた経験を綴った、マッカラム報告の翻訳は、プロイセンに、彼らも同じ制度を導入すべきだと確信させる上で大いに説得力があった。これを基本にモルトケは、鉄道に対する軍部の監督権を、なかんずく東西の基軸を運行する鉄道へのそれを強化する改革を推進できた」(『鉄道と戦争の歴史』p.31、101)


D模試 社会的状況はなぜ書いてないのか?
問題
 現代の世界では、経済のグローバル化が進む一方で、保護主義が台頭するという一見矛盾した動きが見られる。経済のグローバル化は経済発展をもたらすものの、国内では経済格差を拡大させ、また繁栄を享受する国が優位を保つために保護主義に傾くと、他国との軋礫が生じる。過去にも、ひとたび発生した不況が世界中へ拡大して未曽有の経済恐慌を引き起こすと、各国で保護主義が強まり、政治的にも自国中心主義や極端なナショナリズムの高揚を引き起こした。
 以上の点を踏まえて、1930年代前半のドイツでナチ党(ナチス・国民社会主義ドイツ労働者党)が台頭した経緯とその影響について、第一次世界大戦終結後から1930年代前半までのドイツの経済的・社会的状況や、ドイツに影響を与えたアメリカ合衆国の動向に留意して記述しなさい。解答は、解答欄(イ)に20行(600字)以内で記し、必ず次の6つの語旬を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。また、下の史料A〜Dを読んで、例えば「00はXXだった(史料A)。」や、「史料Bに記されているように、00がXXした。」などといった形で史料番号を挙げて、論述内容の事例として、それぞれ必ず一度は用いなさい(使用順は問わない)。なお数字・アルファベットは1マスに2つまで記入してよい。また国名に関しては、英・米など漢字の略述表記でも構わないものとする。
 英独海軍協定 共産党 全権委任法 善隣外交 総統(フューラー) ヤング案
  ※総統(フューラー)については.いずれか一方を使用すればよい

史料A ベルリンに滞在した日本人・池谷信三郎の記録(「インフレ独逸の想ひ出」)
 三カ月に五倍の騰貴くらいは後から考えると驚いたのが滑稽なくらいであった。翌年一月仏軍のルール侵入で.十一日から二十五日までの二週間に、物価が六十五パーセント騰ったと眼の色を変えたのが、二、三.四月の小康の後五月から一月毎に二倍強.九倍強、十六倍、四百四十倍、五十六倍、とドルが騰り詰め、十月には終いにードル・四二〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇(伏字に非ず。)までに暴騰(マルクから云えば暴落。)した。(和田博文ほか著『言語都市・ベルリン』より、一部表記変更)

史料B ドイツの賠償をめぐる専門家委員会の報告(1924年)
 八 ドイツの年間負担の基本方針
(中略)われわれの計画は、発券銀行に対する外国および国内両方からの出資、特に対外借款を必要としており、これは賠償支払いを可能にし、保証する不可欠の条件である。
 一七 計画の特質
(中略)第二に、われわわれの計画の成否はひとえにドイツの経済主権の回復次第である。(歴史学研究会編「世界史史料10』より、一部表記変更)

史料C アメリカ大統領F=ローズヴェルトの第1回就任演説(1933年)
 わが国の国際通商関係もひじょうに重要だが、時期と必要性の点で健全な国内経済の確立の方が優先するのである。……(中略)……私は国際経済面の再調整により世界貿易を回復させる努力を惜しむものではないが、国内の非常事態はその成果を待ってはいられないのである。(大下尚一ほか編『史料が語るアメリカ」より、一部表記変更)

史料D ヒトラー政権下における、かつてのドイツ共産党員の妻の証言(1934 年)
 最初はつらかった。知っての通り、私たちは共産党員の烙印をおされていたからね。しかし四年も失業していたらだれだって過激になるよ。二年まえから主人はテーギンク(町の名)で働いている。みてごらん。昔の共産党員の間借り部屋にヒトラーの肖像がかかっているだろ。……(中略)……娘は毎日指導者(フューラー)に主の祈りを唱えているよ。彼が日々の糧を与えてくれてるんだからね。(イアン・ケルショー著・柴田敬二訳「ヒトラー神話」より、一部表記変更)

解答文
ヴェルサイユ条約で巨額の賠償金を課された独では仏などによるルール占領で空前のインフレガ生じた(史料A) 。レンテンマルク発行でインフレを克服した独は、米資本の導入で経済を再建するドーズ案を受諾したが(史料B)、米の保護関税で対米輸出を阻止された。賠償額はヤング案で減額されたが.ニューヨークでの株価大暴落を機に米資本が引き上げると.独は経済危機に陥り失業者が増大した。失業手当削減に反対する与党社会民主党の抵抗で大連合内閣が崩壊すると、保守派や軍部は大統領緊急令を利用して議会少数派に組閣させたか議会が形骸化し、ヴェルサイユ体制を批判する共産党とナチ党が台頭した。保守派や中間層の支持を背景に成立したナチ党のヒトラー内閣は、国会議事堂放火事件を利用して共産党を弾圧、政府に立法権を与える全権委任法の制定でナチ党独裁を確立し、公共事業や軍需産業で失業者を減らし経済を回復させた(史料D) 。ヒトラーはヒンデンブルク大統領の死後大統領と首相を兼ねる総統となった。この間、米のF=ローズヴェルト政権はニューディールで経済復興を図り、金本位制から離脱して中南米との善隣外交でドル=プロックを構築(史料C)、英仏も自国の経済復興を優先して経済ブロックを形成した。対する独は軍備平等権を主張して国際連盟を脱退、再軍備宣言により徴兵制を復活させたが、独を反共防波堤とみなす英は、英独海軍協定で独の再軍備を追認した。(600字)

▲ テーマは「ナチ党(ナチス・国民社会主義ドイツ労働者党)が台頭した経緯とその影響」で、これに加えた副次的要求は「経済的・社会的状況や、ドイツに影響を与えたアメリカ合衆国の動向」です。時間は「第一次世界大戦終結後から1930年代前半まで」です。
 さて、解答文を読んで分かることはこの時期の政治と経済についてはたくさん書いてあるが、「社会的状況」はどこに書いてあるのか、と疑問が出てくることです。「社会」とはすでに「経済」面も「政治」面もたんと書いているのですから、これ以外の事柄ですが、どこに書いてあるのでしょう? 「保守派や中間層の支持」がいくらか該当しますが政治面と重なっています。東大の「留意して記述しなさい」は書けという命令です。心に留めるだけでは採点官としては受験生の心理まで推し量りようがありません。文章として表現しない限り「留意」の痕跡は確かめられません。留意すべき社会状況を無視して政治と経済に偏った解答文になっています。
 ナチスが支持を受けた社会的状況として経済・政治面の状況以外に、第一次世界大戦中の飢餓による子どもたちの大量死亡(教科書に記載はないが、藤原辰史著『ナチスのキッチン』共和国)、ヒトラーの『わが闘争』に書き込まれた反ユダヤ主義と暴力(水晶の夜、焚書など)、また社会的にユダヤ人を除外する法を次々と発令したこと(ベンチはアーリア人とユダヤ人で分ける。ユダヤ人医師はユダヤ人以外診る事を禁止。ユダヤ人学者・教師を大学・学校から追放。ユダヤ人医学生の国家試験の受験を禁止。自動車免許証の剥奪。ラジオの所有禁止。食糧購入を1日1時間に制限。公衆電話の使用禁止。新聞・雑誌の購入の禁止。公的交通機関の利用一切禁止など)、さらに大衆動員(ヒトラー・ユーゲント、ドイツ幼年団、ドイツ少女同盟、ナチス学生同盟、ナチス教員同盟、ナチス司法官同盟、ナチス官吏同盟、ナチス医師同盟、文化戦闘同盟、民族婦人同盟、ナチス経営細胞組織など)は教科書に書いてあります。たとえば、東京書籍では、

ヒトラーの率いるナチスは、1923年のミュンヘン一揆に失敗したあと、合法路線に転じ、ヴェルサイユ条約の破棄・大ドイツ国家の建設・反ユダヤ主義・不労所得の廃止などを唱え、精力的な大衆宣伝や突撃隊(SA)の行動力によって、既成政党に絶望した農民や中間層の支持を集めた。

E模試 アリウス派をなぜ書かない?
問題
 ラテン人の一派によって建てられたローマは、共和政期においても帝政期においても、接触した様々な民族と関わりながら、その歴史を歩んできた。それらの民族のうち、ゲルマン人とローマ帝国の関わりを、4世紀後半から8世紀末までのゴート人とフランク人を例にとって、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

解答文
フン人が東ゴート人を征服すると、西ゴート人がローマ帝国内に移住し、これを機にゲルマン人の大移動が始まった。これによって帝国が混乱する中、テオドシウス帝の死後、帝国は2分され、そのうち西ローマ帝国内で西ゴート人が王国を建てた。西ローマ帝国がオドアケルに滅ぼされると、東ゴート人はオドアケルを倒してイタリアに王国を建てたが、東ローマ帝国に滅ぼされた。一方、フランク人は5世紀後半にガリア北部で王国を建て、ローマ帝国が正統としたアタナシウス派に改宗してローマ人との融和を図った。さらにカール大帝はランゴバルド王国など他のゲルマン勢力を倒して、800年にローマ教皇から帝冠を授けられ、西ローマ帝国を復活させた。

▲ この解答文のアンバランスなところが2つ。ゴート人の宗派が欠けていることです。フランクは「ローマ帝国が正統としたアタナシウス派に改宗」と書いたのであれば、ゴート人について「ローマ帝国が異端としたアリウス派に改宗」となぜ書けなかったのか? 課題が「ローマ帝国の関わり」ということであれば必要だったはず。解説では書いているのに解答文には載せない理由がわからない。
 またアンバランスの2つめは、「4世紀後半から8世紀末」という長い時間の場合は、読む(採点する)側にたって混乱しないように「〇世紀」と時間を適宜挿入していくことは歴史の論述として必要なことですが、前半のゴート人についての記事にはまったく時間が記されていないので、事件がいつのことかの想像しにくい。フランク人だけなぜ「5世紀……800年」なのか。