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世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

NEW 青木世界史B講義の実況中継(1)-2

参考書 私立大学

p.121 石製印章がなぜ赤字?

p.122 インド=ヨーロッパ語族に属するアーリア人が進入してきてました。彼らの原住地はイラン高原、と「イラン高原」が赤字にしてあります。インド=ヨーロッパ語族の原住地はイラン高原ではなく、ウクライナあたり、広くは中央アジアととるのが通説です。岩波新書の『印欧語の故郷を探る』という本も結論として、ウクライナの方をあげています。

p.124 梵我一如。すなわち、世界(梵)と自分の存在(我)は同一だ……「俺が世界、世界は俺だ」てなとこかな、と説明しています。いいかげんな説明です。「梵」は世界ではなく、「宇宙の根本原理」、神秘的な(呪)力であり、ばくぜんとした「世界」とは同じではない。世界という見えるものの総体をつくりだした源を「梵」といっているのです。

p.126 大王自身は撤退していきましたが、ビビったインド人の一人チャンドラグプタはこう思った──“インドを統一しないと、ギリシア人にやられちゃう”……この説明がまちがいです。チャンドラグプタによる統一はマガダ国の統一政策の継承であり、すでに長い北インド統合の歴史をもっていて、何もギリシア人が来たから動いたのでも統一戦争をおっぱじめたのでもありません。西からギリシア人がやってきたとのと同じころ、東からインド人もやってきてぶつかった、ということです。「ギリシア人にやられちゃう」というのであれば、後でセレウコス1世と和平を結んだ理由が分かりません。

p.131 アジャンタが赤字でエローラが赤字でないのは不思議。私大なら必要なのに(同志社)。

★★p.132 チョーラ朝の進出が赤字で「東南アジアにヒンドゥー教が伝播していった重要な契機だな、これは」としていますが奇説です。チョーラ朝が東南アジアに進出するのは11世紀だから、それから「伝播の契機」などというと、いったいヴェトナム中部の国チャンパーには4世紀末の碑文でヒンドゥー教の影響が知られるのはなぜ? カンボジアの真臘国(6世紀から)というヒンドゥー教を国教にした国はどこからヒンドゥー教を仕入れたのか? その後に分裂したのを9世紀初めにアンコール朝が再統一したが、これもヒンドゥー教王朝だ。なぜ?
 チョーラ朝のガンジス川下流の進出は、セイロンとミャンマーのパガン朝に国際関係を結ばせる契機となり小乗仏教が伝わるのです。

p.138~140 中国の王朝名を歌唱でというアイディアはいいが、忘れたら初めから歌い直さなくてはならないのが難。こんな長いものはホントは要らない。それに戦国七雄や五代の王朝名、遼・西夏が欠けています。

p.143 公邑を赤字にするのは酷。

p.144 下段に「さらに注意すべきことは、周王の力が諸侯の支配する邑には及ばないということです」と付け足して説明していますが、これは封土した土地が世襲制であることを説明したら済むことです。要するに封建制とは諸侯に土地をあたえて地方統治を任せる制度なのだからあまりにも当り前のこと。しかしこのことを説明していないから、付け足しのようになっています。

p.147 上に布銭として写真がでていますが、これは布銭(布貨)ではありません。王莽時代につくられた貨布というものです。この参考書を傾けて写真がタテに見えるようにし、教科書にのっている布銭の写真と比べてみてください。かたちはいくらか似ていますが、この参考書の方が細長くなっていることに気付くでしょう。上の取っ手みたいなところも教科書のより短くずんぐりしています。下方のえぐり方もちがいます。ネットで「貨布」を検索したら写真がありますから、もっと分かります。
 また下の青銅貨の説明文に秦の環銭(円銭)がなぜ欠けているのか不明です(関学大・関西大)。

p.150 下から9行目「事件がBC403年に起きました。晋という国から、韓、魏、趙という3つの国がうまれてしまった」と素朴な説明をしています。これはまちがいで、正確には50年前にすでに起きて分裂してしまった既成事実を周王室が承認したのが前403年です。戦国時代の時代区分としては前403年は正しいが、事件が起きたと説明してはいけない。
 立命館大の問題(2000)に、晉はのちに三つに分割されてしまうが,その事件が起こったのは西暦何年か、というのがあり、正解は前453年です。山川用語集の「晋の分裂」を見よ。

★★p.154 このページに統一と思想統制の関連が述べてあり、「統一権力がないとみんな好き勝手なことが言えるんです。たとえば、イタリアの14世紀から15世紀も、やはり当時の中国と同じように統一権力がなかったので、みんな好きに何でも言えた。そうした状況がルネサンスを育んでいくんですね」と説明しています。ま、なんと単細胞なことか。イタリアは西ローマ帝国の滅亡以来統一はなく19世紀まで分裂状態です。いつでも好きなことが言えた? じゃ、ずっとルネサンスではないのはなぜ? 統一がある、独裁者(上には「ヒトラーもスターリンもそうだった」と)が居れば思想の自由はない? ルネサンスのような文化の発展はない? 中国で思想統制の名高い時代は明清ですが、文化面の華やかさは教科書の実例を列挙すればすむでしょう。スターリン時代の文化は何もない? それは無知というものです。新版の教科書からは削られましたが、かつて載っていたのがソルジェニーツィン、ゴーリキーで、物理学のサハロフだけは新版でものっています。マヤコフスキー、ショスタコーヴィッチ、エイゼンシュテイン、カンデカスキー、ストラビンスキー、プロコフィエフ、オフチンニコフの名を知ってるひともいるでしょう。独裁者の下でも文化は消えません。

p.158 3行目「2人あわせて「孫子」というそうです」とありますが、今は否定されています。孫ピンの兵法書はもう30年前(1972年)に発掘されて、ちがうことが証明されたので、孫武が『孫子』の著者(著者も孫子という)にあたります。また入試の問題でも中国史家のいる大学は、孫武(赤字にすべきもの)として出題されています(立命館大・関学大・関西大)。

p.154,161 孔子の考えを周封建制とむすびつけて、「バラバラなのがいい……孔子は戦争反対です」「バラバラのままがいい」と説明しています。変な説明です。孔子は周初の政治体制については何も述べておらず、また、どういう政治体制がいいとも言わなかったひとで、国王の人格(仁)を問題にしただけです。「バラバラ」というのは地方分権ということですが、これは当時の中央の能力としてそれしかないから採用していることで、西欧の絶対王政や郡県制のでてくる中国でも中央政府に経済力ができ、それによって官僚と軍隊が養えるようになればバラバラでなくなります。こういう封建制という体制を孔子の考えとして拡大解釈をしています。
 政治体制としての封建制も何もバラバラという訳ではありません。中国なら、国王はだれを、どいう地位で地方に派遣するかの権限をもち(任命権)、その任命の証しとして青銅器(あるいは玉石)と弓矢を授けます。その支配する人民の種類と数と税収についても細かく指示を出します。また派遣された家臣たちはそのまま地方で自由放任という訳ではなく、王室の祭祀に参列し、遠征に従軍しなくてはなりません。

★★p.158 合従策と連衡策が赤字でないのは何かのまちがい。

p.162 真ん中のころ「オルドス地方を奪還し」とありますが、いつ中国領だったことがあるのか?

★★p.164,165 郡国制の説明をして、図解するとこんな感じです、と右の地図を示しています。が、この地図はまちがいです。半分半分になっていますが、長安の周辺15郡が郡県制で、後の35郡は封建制です。

★★★p.166 途中で「皇帝直轄地を増やす」とまちがった説明をしています。王国・侯国を細分化していくのであって直轄地(県)をふやすのではありません。またこのページの末尾に「この乱の鎮圧後、景帝は王国の名を残しつつも、諸王から各国の統治権を奪いました。かくして郡県制が実質全国化され、皇帝を中心とする中央集権体制が確立します」と説明をしています。こういう説明だと、次の問題が解けませんね。

 この反乱は,3ヵ月ほどで平定され,諸侯王の勢力は弱められた。つぎの武帝も[ J ]の令によってその細分化をはかるなど諸侯王の勢力をさらに削ぎ,ついに封国は名のみと化していった。ここに[ F ]制とはいえ,実質的には[ D ]制とかわらない地方統治が出現し,漢の[ H ]体制が確立した。
 (正解は(D)郡県、(F)郡国、(H)中央集権、(J)推恩です。立命館大の問題です)

 Jの推恩の令によって景帝時代より細分化がすすみ、武帝代で「実質郡県制」となります。王国・侯国の表現は後漢でもつかいます。これも旧版と変らずまだ分かっていないようです。省略して景帝代で集権化した、と書いている教科書がないではないが、圧倒的に武帝で書いています。以下の教科書。

景帝がこれを鎮圧し、武帝のころには、郡県制が事実上復活して、皇帝の専制支配が強化され……三省堂・世界史B 
反乱(呉楚七国の乱)を招いたが,これを平定して国力を充実し,武帝時代に中央集権体制を確立した。……山川・世界の歴史
呉楚七国の乱は平定され,武帝のころまでに中央集権の体制が確立した……山川・新世界史 
つぎの武帝のときに、中央集権支配体制が確立した……実教出版
呉楚七国の乱をしのいで、7代武帝のころようやく中央集権体制を確立した……帝国書院 
こうして武帝の時代には、強力な中央集権体制が確立した……(旧版)東京書籍

p.167 武帝の在位をBC140年とまちがえています。これはBC141。ささいなこと。次版で直せばいい。

p.170~171 桑弘羊がなぜ赤字でないのか? 私大では出題されます(最近では関学大)。

★★p.172 これも旧版で指摘したのに訂正していません。 「試みられたのが限田策です……失敗に終わります」とありますが、「試みられた」という表現は、試しにやってみた、ということになりますが、実施していません。3年後実施するとして発布してみたものの反対が強くて実施できなかったのです。つまり「失敗」もしていません。

p.177 真ん中の「桓帝」が赤字? 答えとして要求された例は見たことがない。

p.178 「董卓の乱」もなぜ赤字? 答えとして要求された例は見たことがない。

★★p.181~182 豪族と貴族のちがいについて書いた下段から次頁にかけての説明から、この著者が実は豪族も貴族も理解してないことが判明します。「九品というのは9等級の序列のことです。しかし、中正官たちは地方の実力者である豪族に抱き込まれて、結果的には豪族の子弟が9つの等級の上位にランクされ、高級官僚として中央に進出してしまうという結果を生んでしまいました。」というこの説明の変なところが分かりますか?
 ここで「上品に寒門なく下品に勢族なし」ということばがなぜ出てこないのか、不思議ですが、理由は上の説明の中の「豪族の子弟が9つの等級の上位にランクされ」という部分に盲点が見えます。中正官は豪族以外のところなどに審査に行かないのに、豪族以外のところにも行き、選ばれるのは豪族だけだみたいに説明しています。「寒門」といっても貧乏な庶民ではなく、豪族でも下層のものをさし、「勢族」は豪族の中でもとくに「上層(有力)」なものをさしています。はじめから庶民は審査対象外です。
 詳説世界史に「有力な豪族の子弟のみが上品に推薦されて高級官職を独占することとなり,名門の家柄の固定につながった」とあるように、上品にランクされるのは「有力な」豪族です。この参考書には、「門閥貴族(もしくは、単に貴族……)……豪族と貴族という言葉はどうちがうのか?」と問うて、絵があり、貴族は皇帝の権威の光がついている絵、そして下の文章にこれを「箔」と言いかえています。なんとも妙な説明です。なぜこんなあいまいな説明になっているのか。
 正しくは、豪族の中で九品の位のついた一部の豪族が貴族であり、更にそのうち1~2品のものが門閥貴族です。この門閥貴族は2品以下にランクされることはなくなり、いわば既得権になり、こうした上品の中での官職独占が当り前になりました。

p.184 劉淵・劉聡が答えとして要求された問題は見たことがない。問題文に出てきてはいるが。

p.188 下の方に「皇帝直轄地を拡大」と大字でかいてありますが、そんなことはしません。すでに押さえている、つまり支配している土地(公有地)の中で無主の(放棄されたり、遠隔地に住んでいる者の)土地を没収して公有地にし、それを農民に分配するのであり「拡大」ではありません。 p.190の図は無主の土地が皇帝の支配地域の外にも書いてありますが、まちがいです。支配地域の中の無主の土地です。

★★★p.189 これは旧版でも指摘したのですが分からなかったようで、前回よりまちがいを強調しています。「豪族らに向かって、……奴隷100人、耕牛4頭分まで、あなたがたの土地所有を皇帝の名において認めるんです……要するに「奴婢・耕牛への土地の給田」の項目は、「豪族への給田」が目的であり」と愚かなことを書いています。すでに大土地所有者である豪族に、さらに土地を分配して、どこが土地政策なのか? 常識的に考えてもおかしいことが分からないようです。山川『世界史用語集』も「豪族に有利な面があった」と馬鹿なことを書いてます。『魏書』に土地をあたえる基準として「貧をさきに富をのちに」とあるように、豪族や一般農民の中で豊かな者もあり、それはそのまま土地所有を容認するが(それが奴婢・耕牛)、持っていない者に優先して与えていくことが基本です。均田法は農民を三長制で取り囲み、その組ごとに土地を与えていったもので、北魏政権じしんが、これらの政策を土台に大豪族たらんとしたものです。そのため豪族と対立することになりましたが、それでも隣保制と土地政策をセットにして断行しました(均田法施行のさいの豪族と政府の対立について堀敏一が『岩波講座・世界歴史 5』の論文で書いています)。また「奴婢・耕牛に対する授田は、……これをもって単純に既存の大土地所有や経営がそのまま温存されたと解するのは正しくない。なぜならば豪族の庇護下にあったさまざまな隷属民は戸籍につけられ、あらたに奴婢として国家から掌握されることになったからである。均田制が貫徹するかぎりにおいて、既存の大土地所有・経営は変質を余儀なくされたのである」と書いている歴史家もいます(『世界歴史大系・中国史2』山川出版社、p.232)。
 さて教科書を見ましょう。

 戦乱のなかで土地を失った多くの農民は,故郷をすてて流浪し,あるいはひろい土地をもつ豪族のもとに隷属した。諸王朝は,農民の生活を安定させ,税収の確保をはかろうと,積極的な土地政策をうちだした。魏の屯田制や北魏の均田制などは,国家が土地所有に介入して農民に土地をあたえようとする政策であった……詳説世界史 

 東大の過去問に「豪族の大土地所有をおさえる目的でおこなった三つの制度名が知られている。それぞれにつき実施した王朝名および制度名を時代順に挙げよ。(1991年度)」というのがありますが、この参考書で学んだ受験生は、この問題はまちがいだから答えられない、と書いたらよい。運命は浪人。
 奴婢への給田を重視するとまちがった解釈になることを指摘した論文もあります(北魏均田制の目的と展開-奴婢給田を中心として- 著者・佐川英治、『史学雑誌』2001/09/05発売号 (110編8号) 史学会・東京大学 出版社:山川出版社)。ここには奴婢・耕牛をもっていても与えられない場合もあり、給田の原則はあくまで「先貧後富」であったことを説いています。

p.197 土断法の説明がまちがいです。戸籍を登録する目的は、移住者たちが豪族・貴族たちの支配下に入るのを防ぐためでした、とおかしなことを書いています。移住者は戸籍は北にあるからと主張して、納税を拒否しているため、これを南の戸籍にのせて課税対象にするためです。政府じしんの税収確保であり、貴族・豪族云々が目的ではありません。

p.197 梁の昭明太子の父親、武帝という仏教心酔者をなぜあげないのか? かれの時代が南朝の最盛期でもあります。

p199 旧版の「589年における南北の統一は270年ぶりですね」というまちがいを指摘したとおりに直しています。

p.203 下の方に「3回攻撃し、いずれも失敗」とありますが、まちがい。これも旧版で指摘したのに直していない。

p.205 旧版で「“礼部”だけアンダーライン……六部の中で入試に出るとしたらこれだけです」という愚かな説明は直したものの、また、まちがいを加えてしまいました。「科挙を実施する役所は礼部で。吏部ではありません」と。たしかに最初の試験は礼部ですが、後で二次試験にあたる吏部試がおこなわれ、これに受からないと合格ではありません。これは少し細かい知識ですが、唐の貴族との合議制をよく表わしています。というのはこの吏部試の試験官は門閥貴族であり、試験の内容は身言書判といって身のこなし・ことばの上品さ・字の美しさ・法の知識と、どちらかといえば貴族趣味的なもので、下級の貴族や庶民が第一次で受かっても二次で蹴られるしくみになっていたのです。

★★★p.206 旧版でこれも指摘しましたが、分かっていません。租庸調の説明をした後に、最後の行に「さらに兵役も義務付けられていました」と書いています。すぐ上にある絵にもまちがいを書いています。兵役を担うものは租庸調は免除です。双方とも負担するとなればあまりに重い。兵役を負担させられたのは長安・洛陽の折衝府周辺に住む農民だけで全体としては少ない農民です。租庸調の免除を書いてない教科書は多いですが、書いているものもあります。

 唐はまた、北朝の西魏にはじまる府兵制も採用し、農民を兵士として各地の軍団に編成し、租・庸・調を免除して交代で軍務につかせることをさだめた。……三省堂・世界史B 

p.208 地図の下にD安西都護府(西州(高唱を改名)→亀茲)としていますが、西州がなぜ赤字?

p.209 「家人の礼」もなぜ赤字? →つづく