(b)「ニュージーランドが1920〜30年代に経験した、政治的な地位の変化」は特異な問題でした。もともと英領であったのが1907年に自治領になり、それが「30年代」に入れるとなると、全自治領に該当する新法として、ウェストミンスター憲章(1931)で「完全」な自治、つまり英国本国の承認なしに自主的な憲法制定が可能になりました。自治領優遇により恐慌対策(善隣外交)を円滑にしようとした政策でした。 今年(2019年)3月15日にニュージーランド、クライストチャーチ市のモスクで50人が死亡した銃乱射事件がおき、この事件に対する首相アーダーンの対応が見事でした。スカーフをかぶり、遺族の話に耳を傾け、有名になりたがっている加害者の名を「名無し」のテロリストと呼び、事件の動画を見ないように呼びかけました。容疑者の人種差別的な「マニフェスト」の所有、配布を禁止しました。憎しみを煽り立てる傾向を抑えようとしていて、こうした姿勢は、愚昧で冷酷なトランプ、ヘイトスピーチを放置する安倍とは対照的です。「事件後すぐの記者会見では、「They are us. 彼ら(殺されたムスリム達)はわたしたち(ニュージーランド国民)だ」と強調し、思いやりや共感、愛を持って対応することを主張し、銃規制と被害者への経済的な支援も公言した。(HUFFPOST、3月26日の記事)」
A 西アジアで最初の文字記録は、メソポタミア(現在のイラク南部)でシュメール語の楔形(くさびがた)文字によって残された。シュメール人の国家が滅亡した後も、シュメール語は文化言語としてこの地域を支配したセム語系の民族(アムル人)によって継承・学習された。シュメールの文化や言語を受け継いだ古代メソポタミアの社会構造を知る手がかりとなる(1)ハンムラビ法典碑は、アムル人が建てたバビロン第1王朝時代のものである。この王朝は、前2千年紀前半アナトリアに興ったインド=ヨーロッパ語系の言語を使用していた(2)ヒッタイト人の勢力によって滅ぼされた。 前2千年紀後半になると、(3)アラム人、(4)ヘブライ人、(5)フェニキア人などのセム語系民族の間で表音文字アルファベットの使用が始まり、前1千年紀に入ると、この文字体系が西アジア、ヨーロッパ地域に広まつていった。ギリシア文字の使用は前9〜8世紀に始まり、やがてイタリア半島でもラテン文字が使用されるようになった。前6世紀ペルシアに勃興して(6)西アジアとエジプトにまたがる大帝国を建てた[ a ]朝では、王の功業などを記録する楔形文字と並んで、行政や商業にはアラム文字が使用されていた。マケドニアのアレクサンドロス大王の東方遠征の結果、前330年この大帝国は滅亡し、西アジアやエジプトでも一部ではギリシア文字が使用された。古代エジプトで使用されていたヒエログリフが記された(7)ロゼッタ=ストーンは、エジプトを支配していた(8)プトレマイオス朝時代に作成された石碑で、ギリシア語の文章が併記されていたことがヒエログリフ解読の契機となった。 アラム文字は西アジアや中央アジア地域でその後使用された多くの文字の原型となったが、紀元後7世紀にアラビア半島に興り、その後1世紀余のうちにイベリア半島から中央アジアにまで拡大した(9)イスラーム勢力の支配領域において使用されたアラビア文字は、その最も繁栄した後裔(えい)と呼ぶことが出来よう。アラビア文字は、イスラーム教徒(ムスリム)にとっての聖典『クルアーン(コーラン)』を記す文化的な核心を成す文字とされ、その使用はムスリムの活動範囲と重なって拡大した。イスラームに改宗した(10)イラン系、(11)トルコ系の人々も、アラビア文字の表記をそれぞれの言語に合わせて少しずつ改変して使用した。[ b ]帝国を廃して成立した(12)トルコ共和国では、1928年からラテン文字に基づくトルコ文字の使用を法律的に義務付けた。中央アジアや(13)アゼルバイジャンで独立したトルコ系民族を主要な構成要素とする諸国の多くも、現代ではラテン文字やキリル文字を基礎とする各国文字を使用している。
B 16世紀半ばをすぎると、明朝は(14)周辺の諸勢力との抗争によって軍事費が増大したため、重税を課すようになり、天災や飢饉なども相侯(あいま)って、各地で反乱が頻発し、次第に支配力を失っていった。1644年、[ c ]の率いる軍が北京を陥落させると、最後の皇帝であった(15)崇禎帝は自殺し、270年あまり続いた明朝の命運はここに尽きることになった。 その後中国本土を支配したのは清朝であった。1661年に即位した康熙帝は、呉三桂らによる三藩の乱を鎮圧した。また、(16)オランダを破り(17)台湾に拠って清に抵抗していた鄭氏政権を滅ぼした。これによって雍正帝・乾隆帝と三代つづく最盛期の基礎が築き上げられた。対外的には、ジュンガルを駆逐してチベットに勢力を伸ばすとともに、東方に進出してきたロシアとのあいだに(18)ネルチンスク条約を結んで国境を取り決めた。また国内では、キリスト教(カトリック)(19)宣教師の一部の布教を禁止したほか、字書や(20)類書(事項別に分類編集した百科事典)の編纂など文化事業を展開した。 雍正帝のときになると、用兵の迅速と機密の保持を目的に、政務の最高機関である[ d ]が設置された。1727年にはロシアとキャフタ条約を結び、清とロシアの国境を画定した。 乾隆帝の時代には、「十全武功」と呼ばれる大遠征が行われた。(21)西北ではジュンガルを滅ぼし、天山以北の草原地帯と以南のタリム盆地を征服した。ー方、南方では台湾・(21)ビルマ(現ミャンマー)・(23)ベトナム・大小両金川(今日の四川省西北部)にも出兵した。これらの遠征は必ずしもすべてに勝利を収めたわけではなく、ビルマ・ベトナムではむしろほとんど敗北に近かったのであるが、それでも清朝はユーラシア東部の大半をおおうような巨大な版図を形成することになった。 この頃のユーラシア東方世界を考えるとき、注目すべきなのは、チベット仏教が急速に浸透していったことであろう。たとえば1780年、乾隆帝とチベットの活仏パンチェン=ラマ4世の会見が実現すると、元朝の帝師[ e ]と世祖(24)クビライの関係を再演してみせようとして、パンチェン=ラマはみずからを[ e ]の転生者と称し、乾隆帝を転輪聖王と称揚した。つまりモンゴル・チベット・東トルキスタン・漢地などをふくむ「大元ウルス」の大領城を「大清グルン」の名のもとにほぼ完全に「復活」させた乾隆帝は、クビライの再来として転輪聖王と認識されたと考えられる。チベット仏教に基づく権威によって王権の正統化が図られたといえよう。 しかし嘉慶帝・道光帝.咸豊帝の頃になると、清朝の勢力は次第に衰え、19世紀半ば、(25)アヘン戦争とアロー戦争(第二次アヘン戦争)が相次いで発生すると、ヨーロッパ列強との間に南京条約など不平等条約の締結を強いられた。
A 人類は、結婚や相続といった枠組みを通じて、有形無形の財産や権利を受け継いできた。古代ギリシアのポリスでは、参政権は成人男性市民が有し、女性の発言力は家庭内に限られた。これに対して、アテナイの喜劇作家[ a ]は『女の平和』という作品で、女性たちが性交渉ストライキで和平運動に参画する姿を描き、時事風刺を行った。 古代ロ一マでは、カエサルの遺言で養子になったオクタウィアヌスが元首政を開始した。そしてこの帝位を継がせる者として、[ b ]を同じく養子とした。(1)ヘブライ人の王の子孫とされるイエスに対する信仰は、社会的地位において劣るとされた女性や下層民を強くひきつけた。この信仰を中心とするキリスト教は、後の欧州世界を大きく規定した。 古代末にドナウ川中流のパンノニアを本拠としたフン人の中では、伯父から王位を共同で継承した兄弟王権が成立した。兄ブレダの死後、(2)単独支配者となった王は大帝国を建設したが、その死亡に伴い帝国は瓦解した。東ゴート人は、(3)テオドリックを指導者とし、ラヴェンナを首都とする東ゴート王国を建設した。この国はロ一マ由来の制度や文化を尊重したが、後に(4)東ロ一マ皇帝により滅ぼされた。 フランク王国は、分割相続を慣習とし、カール大帝を継承したルートヴィヒ1世が死亡すると、3人の子の間で闘争が激化し、(5)王国は3つに分割された」。その後、中部フランクが東西フランクに併合され、イタリア・ドイツ・フランスの基礎が築かれた。 ノルマンディー公国では、フランス貴族との通婚により生まれた次男・三男以下のノルマン騎士が、傭兵や征服者として欧州各地に出かけた。イタリアでは、(6)半島南部とシチリア島の領土を継承した王が、両シチリア王国を誕生させた。 この時期、封建貴族に支配された農奴は、地代として生産物の貢納と、領主の農地を耕作する賦役とを課された上に、結婚税を労働力移動の補償として、死亡税を保有地相続税として支払うなど、(7)多岐にわたる負担を義務づけられた。 ロ一マ=カトリック教会は、修道士を通じて民衆教化を進めた。教会には、国王や諸侯から土地が寄進され、聖界諸侯が政治勢力となったが、現実的には教会は世俗権力の支配下にあり、また腐敗も進んだ。こうした世俗化や腐敗を批判する教会内部の動きは、フランスのブルゴーニュ地方にあった[ c ]修道院が中心であった。司教職などを相続や取引の対象とすることや、戒律に反する妻帯慣行も非難の対象であった。 イングランドでは王位を巡る混乱が生じた。結果的に、フランスのアンジュー伯が(8)ヘンリ2世として即位したが、アキテーヌ女公と結婚しフランス西部を領有するに至り、大陸とブリテン島にまたがる大国が建設された。他方でフランス側では、カペー王家の断絶に伴い、ヴァロア家のフィリップ6世が即位すると、大陸におけるイングランド勢力の一掃を図ったが、これに対してイングランド王(9)エドワード3世は、フランスの王位継承権を主張した。 中世後期のイタリアには、ロ一マ教皇領の北に、コムーネと呼ばれる自治都市が成立した。フイレンツェでは、商人や金融業者などの市民が市政を掌握した。やがて、(1O)有力家系が、その後数世代にわたり寡頭政を敷いた。 北欧では、混乱を平定したデンマークの王女マルグレーテが、ノルウェー王と結婚し、父王と夫との死亡により、デンマークとノルウェー両国の実権を掌握した。さらにスウェーデン王を貴族の要請で追放すると、(11)3国を連合することとなった。これはデンマーク主導による連合王国を意味したが、後にスウェーデンとの連合は解消された。
第2問 A 容易な問題が多いなかで、問(10)の『王書』の詩人名を問うたのは奇問にちかいものでした。2014年版の『世界史用語集』には詩人フィルドゥシーも作品の『シャーナーメ』も頻度4で載るようになりました。日本に現存する最古のペルシア語の文書は1217年(北条義時の時代)に渡来したペルシア語の詩句で、『王書』の1節らしい(岡田恵美子『言葉の国イランと私 世界一お喋り上手な人たち』平凡社)。 B 問(17)も奇問にちかいものでした。古い用語集も新しい用語集も頻度3で載っているものです。むしろ李登輝(頻度5)の名を問うべきでした。