世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

『練習帳new』への疑問

疑問

「世界史論述練習帳 new」の別冊p.17の「元代の中国文化について、儒学・文学・書画・技術面の発展について60字以内で述べよ。」という問題の解答「儒学では朱子学が普及する。元曲・白話小説がはやり、文人画が完成した。技術ではイスラムの天文暦学・数学・地理が発展した。」についての質問、疑問です。

元代は科挙はあんまり盛んではなく、儒教を身につけた人たちは没落したと習った気がします。だから朱子学も必然的に普及とは真逆に行くと思ってました。なぜ普及したのですか?

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 ご質問、ありがとうございます。
 元代に儒学では朱子学が普及したことは、元末の朱元璋が江南の朱子学を信奉する士大夫たちの協力で明朝を建てたことに表されています。
 宋代に偽学として疎んぜられた朱子学がゆっくり元代に広まりました。元朝が科挙を復活させたとき(1315)に採用したのは朱子学でした。このことを知らないひとが多いです。
 朱元璋は建国前に南京を根拠地にしたときに儒者を10人採用してその意見を聞きながら統一していきました。朱子学を学ぶ「義塾」というものが士大夫たちによってつくられ、この義塾ネットワークが江南で発展しました。それが明朝ができると国教化されることになります。
 「元代には儒者が冷遇された」は確かに科挙を初めは行いませんでしたし、また儒者の一人が「九儒十丐(じゅっかい)」と誇張して儒者を卑下したことからきていますが、実際にはけっこう儒者は重んじられました。『授時暦』の郭守敬も儒者です。モンゴル人は中国統治に中国人を使うのが得策と考え、登用しました。中国人からすれば宋代の比ではないから、「冷遇」でしょうが。儒者が重んじられた例は中公新書『大都の春』を読むと分かります。
 またウィキペディアの「朱子学」では以下のように書いてあります。

朱熹の学は、社会の統治を担う士大夫層の学として受け入れられたが、慶元の党禁によって弾圧され、朱熹も不遇の晩年を送った。その後、一転して理宗の時代に孔子廟に従祀されることとなり、続く元代には科挙試験が準拠する経書解釈として国に認定されるに至り、国家教学としてその姿を変えることになった。その結果、科挙で唯一採用された朱子学を学ぶことが中国社会を生きる上での必要かつ十分条件として位置づけられるようになり、反対に科挙から排除された他の学説は一部の「偏屈な人あるいは変わり者」が学ぶものとする風潮が醸成されるようになった。