世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

2018夏・模試、その添削

A模試
第1問
 14世紀には、ユーラシア大陸の広範な地域で寒冷化に向かう気候変動が生じ、農業生産の減少などによって飢饉や疫病が生じた。このことは、ユーラシア各地において政治・社会秩序を動揺させる要因の一つとなった。このことは、ユーラシア各地において政治・社会秩序を動揺させる要因の一つとなった。ユーラシア大陸の広範な地域を統合していたモンゴル帝国(大モンゴル国)は解体へと至り、その領域内では、数々の混乱を経て秩序の回復・再形成が図られた。モンゴル帝国解体後の秩序を再建しようとする動きは、地域ごとに様々であった。特にモンゴル帝国領域内の東部と西部でそれぞれ勃興した主要な勢力は、モンゴル時代の権威に対照的ともいえるそれぞれの姿勢をとりつつ政治秩序を整えていった。また、モンゴル帝国の支配が及ばなかった東西の諸地域においても、従来の権威が動揺するなかで、新たな政治権力が台頭する現象が見られた。以上のことを踏まえて、14世紀後半から15世紀初頭にかけてのユーラシア各地の動向を、政治秩序の再編に重点を置いて論じなさい。(600字以内)

(指定語句) 勘合貿易・サマルカンド・南北朝・紅巾の乱・七選帝侯・李成桂・コンスタンツ公会議・大ハーンの権威

解答例(下線なし、以下の解答例もすべて同じ)
モンゴル帝国の西部では、トルコ化したモンゴル系の武将ティムールが西チャガタイ=ハン国から自立した。チンギス=ハン家と婚姻し、大ハーンの権威を利用してモンゴル帝国の再興を企図し、イル=ハン国の旧領を併合して、オスマン帝国を一時的に崩壊させるなど、都のサマルカンドを拠点に中央アジアから西アジアの統合を図った。東部では、元が紅巾の乱で混乱し、明を建てた洪武帝によってモンゴル高原に後退させられた。明は儒教的な華夷秩序の再建を意図した。洪武帝は中書省を廃止して君主独裁体制を完成し、民間貿易を禁じる海禁政策をとり、永楽帝はモンゴル高原に親征し、鄭和に南海遠征を行わせ、朝貢体制を確立した。朝鮮半島では李成桂が高麗に代わり朝鮮を建て、朱子学を官学化し、明の冊封を受けた。日本は鎌倉幕府崩壊後の混乱に天皇位をめぐる対立が絡み、南北朝の動乱下にあった。義満は南北朝を合一し、室町幕府の支配を確立すると、明の冊封を受け勘合貿易を行った。西ヨーロッパでは、ローマとアヴィニョンに教皇が分立し、コンスタンツ公会議で教皇庁は統合されたが、教皇の権威は低下した。神聖ローマ皇帝位をめぐる対立は、七選帝侯による選出を定めた金印勅書で収拾したが、領邦主権が強まり神聖ローマ帝国は分権化した。こうして教皇権・皇帝権が衰え、百年戦争下における黒死病の流行や火砲の普及で封建勢力が没落し、フランスなど各国の王権が伸長した。

添削
 課題は「(モンゴル帝国解体後の秩序を再建しよう……支配が及ばなかった東西の諸地域においても)14世紀後半から15世紀初頭にかけてのユーラシア各地の動向を、政治秩序の再編に重点を置いて」でした。

 解答例を分解して検討します。

1 モンゴル帝国の西部では、トルコ化したモンゴル系の武将ティムールが西チャガタイ=ハン国から自立した。チンギス=ハン家と婚姻し、大ハーンの権威を利用してモンゴル帝国の再興を企図し、イル=ハン国の旧領を併合して、オスマン帝国を一時的に崩壊させるなど、都のサマルカンドを拠点に中央アジアから西アジアの統合を図った。……帝国崩壊後の再編ということなので、これでできてます。受験生としては指定語句の「大ハーンの権威」は利用しにくい誤句だったとおもわれます。「国の再興を企図」したのは事実ですが、とくに中国の征服については途中で死んでしまうので果たせない夢でした。

2 東部では、元が紅巾の乱で混乱し、明を建てた洪武帝によってモンゴル高原に後退させられた。明は儒教的な華夷秩序の再建を意図した。……ほぼ出来ていますが、「元が紅巾の乱で混乱」は変な表現です。乱の以前から、すでに南北に元朝宮廷が対立していました。

3 洪武帝は中書省を廃止して君主独裁体制を完成し、民間貿易を禁じる海禁政策をとり、永楽帝はモンゴル高原に親征し、鄭和に南海遠征を行わせ、朝貢体制を確立した。……「政治秩序の再編」という課題なので、まあまあできていますが、「中書省を廃止して君主独裁体制を完成」はなぜ必要なのか分かりません。元朝も君主独裁体制でした。蒙古帝国崩壊の後をどう再編したのかという課題なので、異民族王朝的なものを払しょくするために中華思想をもつ朱子学の採用や科挙による漢人支配の徹底をあげるべきでした。
 洪武帝とちがって、永楽帝はたんに漢人王朝の復活だけでなく中国側から帝国の復興を試みた点で親征・遠征があります。

3 朝鮮半島では李成桂が高麗に代わり朝鮮を建て、朱子学を官学化し、明の冊封を受けた。……朱子学はいいのですが、「明の冊封」は元朝ともその関係にあったので、どうちがうのか分かりません。仏教を国教としていた高麗に対して朱子学を国教とし廃仏を実行した点や、両班でも文班支配を徹底した点でも高麗とちがう国造りをしたことを書いた方が題意に合うとおもいます。

4 日本は鎌倉幕府崩壊後の混乱に天皇位をめぐる対立が絡み、南北朝の動乱下にあった。義満は南北朝を合一し、室町幕府の支配を確立すると、明の冊封を受け勘合貿易を行った。……日本史もとっていたらこれくらい書けますが、指定語句の勘合貿易と明朝とのつながりを書くのが世界史だけ学んできた受験生の書き方とおもわれます。

5 西ヨーロッパでは、ローマとアヴィニョンに教皇が分立し、コンスタンツ公会議で教皇庁は統合されたが、教皇の権威は低下した。……この後は侵略を受けていない西欧が「西ヨーロッパでは」から多すぎる解答文です。またコンスタンツ公会議は1414年から開かれますが、「15世紀初頭」といった場合は1410年くらいまでを指すのが常識です。指定語句じたいが条件に合っていません。

6 神聖ローマ皇帝位をめぐる対立は、七選帝侯による選出を定めた金印勅書で収拾したが、領邦主権が強まり神聖ローマ帝国は分権化した。こうして教皇権・皇帝権が衰え、……ここは文句なしです。

7 百年戦争下における黒死病の流行や火砲の普及で封建勢力が没落し、フランスなど各国の王権が伸長した。……「フランスなど各国の王権が伸長」は早すぎます。時間が「15世紀初頭」なら英国が戦争で優勢な戦いをしていて、当時のフランス王は英国王が兼ねていました。シャルル7世(在位1422〜61)がオルレアンに孤立して敗北寸前に、ジャンヌ=ダルクによって解放されたのは1429年からでした。「王権が伸長」はまだです。

 この問題と「模範」答案の一番変なところは、モンゴル帝国の侵略を受けたロシア・東南アジア・東欧などの再編について何も書いてないことです。たとえばロシアについて教科書(詳説)では「キプチャク=ハン国では、14世紀なかばころから内紛によって政権の統合がゆるみ、やがてモスクワ大公国がしだいに勢力をのばした」と書いていますが、そうした記事はありません。

わたしの解答例──下線なし)
中国では紅巾の乱を契機に朱元璋が明朝をたて、北元を追放し、漢民族復興をかかげた。朱子学を国学とし、科挙を全面復活した。元朝とちがい海禁を徹底し、朝貢貿易のみを許可した。永楽帝は帝国の復活を試み、漠北親征・大越遠征・鄭和派遣・勘合貿易などの対外政策を進めた。親元派を破った親明派の李成桂が朝鮮を建国、朱子学を国学とし仏教国家からの転換を図った。日本では室町幕府が南北朝内乱を収め統一を実現した。東南アジアでは蒙古来襲を退けたマジャパヒト王国・陳朝が栄え、マラッカ王国が成立した。陳朝後の大越は永楽帝の侵略も退けた。西アジアでは、西チャガタイ=ハン国出身のティムールが、サマルカンドを都に1370年ティムール朝をひらき大ハーンの権威を利用して、イル=ハン国領もあわせた。彼も帝国の再現を試みたが叶わなかった。「タタールのくびき」に置かれたロシアでは、徴税を請け負ったモスクワ大公国が次第に台頭する。また東欧は襲来からの回復を図り、カレル1世(カール4世)はボヘミアの復興につとめプラハ大学を創設、リトアニアのヤゲウォ朝はポーランド王国と合体して、タンネンベルクの戦いに勝ちドイツ騎士団を服属させた。西欧では、金印勅書で七選帝侯の特権と自立を容認したため皇帝の権威は失墜した。コンスタンツ公会議でシスマを解消し、教皇を批判するウィクリフやフスを異端としたが、公会議主義を定めて教皇も公会議の下に位置づけた。
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B模試
第1問
 ヨーロッパとアジアの接点、「文明の十字路」に位置しながら、多くの国々の興亡をよそに、ビザンティン帝国は一千年以上にわたって生き延びた。……(中略)……彼ら(引用者注:帝国の支配者)は表面上帝国の伝統・建前を尊重した。ビザンティン帝国が一千年変わることなく続いたように見えるのはそのためである。しかしすでにみたように、彼らはどこまでは建前通りにやってゆけるのか、どこからさきは現実と妥協すべきか、建前は残したままで改革を実行するのにはどうすればよいのかと、そのたびごとに決断を下してきた。危機に対応し、生まれ変わってゆくこと、いいかえれば革新こそが帝国存続の真の条件だったのである。(井上浩一「生き残った帝国ビザンティン」より)

 ビザンツ(ビザンティン)帝国は、その一千年に及ぶ歴史の中でさまざまな勢力の侵入を受けており、時として国家的危機に瀕することもあった。しかし、それらの侵入に対応しながら、ビザンツ帝国は国家を変革しつつ生き延び、政治・経済・文化において大きな歴史的役割を果たした。以上の点を踏まえて、ビザンツ帝国の成立から滅亡にいたるまでに侵入した諸勢力と、ビザンツ帝国がそれらにどう対応したのかに留意して、ビザンツ帝国が政治・経済・文化において世界史上に果たした役割について概観しなさい。(600字以内)

(指定語句) イスラーム・ギリシア語・十字軍・スラヴ人・聖像禁止令・ノミスマ・ユスティニアヌス・ルネサンス

解答例
西ローマ滅亡後、唯一のローマ皇帝後継者となったビザンツ皇帝は、ゲルマン諸王から権威を認められた。6世紀、地中海世界を再統一したユスティニアヌス帝は「ローマ法大全」でローマ法を集大成させ、また中国から養蚕業を導入した。首都コンスタンティノープルは地中海商業の中心として栄え、金貨ノミスマが流通した。帝の死後、ランゴバルド人のイタリア侵入、スラヴ人やブルガール人のバルカン半島侵入、ササン朝との抗争で動揺した帝国は、イスラーム勢力にシリア・エジプトを奪われた。この間に帝国は公用語をラテン語からギリシア語にする一方、テマ制と屯田兵制で防衛に努めた。また皇帝は教会を管轄下に置いたが、8世紀にレオン3世がイスラームに対抗して聖像禁止令を発したことにローマ教皇が反発し、カール戴冠による西欧の自立の要因となった。その後ギリシア化が進んだ帝国がブルガール人やロシア人にキリスト教を布教したことで東欧文化圏が成立し、東西教会の分裂が進んだ。11世紀にノルマン人に南イタリアを奪われ、セルジューク朝の侵入を受けた帝国は教皇に十字軍の派遣を要請したが、ヴェネツィア主導の第4回十字軍の首都占領後、衰退した。この間にプロノイア制の導入やセルビア人などの自立で皇帝権が弱体化し、北イタリア諸都市が地中海商業の中心となった。15世紀に帝国はオスマン朝に滅ぼされたが、イタリアに逃れたビザンツの学者はルネサンスの興隆に寄与した。

添削
 課題は「ビザンツ帝国の成立から滅亡にいたるまでに侵入した諸勢力と、ビザンツ帝国がそれらにどう対応したのかに留意して、ビザンツ帝国が政治・経済・文化において世界史上に果たした役割」でした。

1 西ローマ滅亡後、唯一のローマ皇帝後継者となったビザンツ皇帝は、ゲルマン諸王から権威を認められた。……課題文の「ビザンツ帝国の成立」は用語集では、ローマが東西分裂した395年にしていて、ビザンツ帝国史の専門家はたいてい330年を起年にしています。この解答では西ローマ滅亡(476)からにしています。時間差が大きい。「侵入した諸勢力……どう対応」という課題からいえば、ゲルマン人(西ゴート)の侵入、フン族の侵入にどう対応したかを書かなくてはならないはずです。「皇帝は、ゲルマン諸王から権威を認められた」は帝国側の対応ではありませんね。「侵入→対応」という文章の構成を指示しておきながら、「留意して」と東大がよく使う語句の意味がわからなかったのか。
 「留意」はたんに心に留める、という内面で済むものでなく、問題として出してきている場合は、「必ず書け」という意味になり、かつ解答文全体の構成のあり方を指示しているものでもあります。参考にしたと書いている1999年の「前3世紀〜15世紀末のイベリア半島の歴史」は「古来さまざまな民族が訪れ、多様な文化の足跡を残した。とりわけヨーロッパやアフリカの諸勢力」と外との関係を書くのが課題であり、もう一つ参考にしたという2001年の「エジプト5000年の歴史」は、「1)エジプトに到来した側の関心や、進出にいたった背景、2)進出をうけたエジプト側がとった政策や行動の両方の側面を」と外からと内からの両方の行動を書け、と要求しているのに、この模試ではビザンツ帝国側は「対応」だけになっています。帝国側からの自発的な行動は書かなくていいのか?
 西ゴートとはアドリアノープルの戦い(378)がありながら、押寄せる東ゴートととの戦いをさせるべくローマ同盟軍として、一面では難民として受け入れています。しかしこれは帝国領内に西ゴート人をより侵入させるきっかけとなりました。かれらはイタリア半島に向かい410年にローマ市を陥落させます。

2 6世紀、地中海世界を再統一したユスティニアヌス帝は「ローマ法大全」でローマ法を集大成させ、また中国から養蚕業を導入した。首都コンスタンティノープルは地中海商業の中心として栄え、金貨ノミスマが流通した。……これは帝国史そのもので何かへの対応ではないです。むしろ帝国側が侵入者です。これをなんとか「侵入→対応」にもっていくとすれば、ユスティニアヌス帝の遠征が、ゲルマン人諸国、かつての帝国の侵入者・ゲルマン人の東ゴート・ヴァンダルからの奪還の意味をもっていたし、またかれらが信仰する異端アリウス派を追放して正統派に統一する意味をもっていました。「中国から養蚕業を導入」は突厥の使者がもたらしたものと考えられています。それは突厥とササン朝ペルシア帝国がエフタルを挟撃した後で、突厥とササン朝との交流がうまくいかないため、突厥がササン朝を飛ばして東ローマ帝国にまで足をのばしたためでした。
 こうした解答例からは「侵入→対応」より「世界史上に果たした役割」を書くことに重点を置いています。前者はあまり重視「留意し」なくていいようです(?)。
 「役割」は2010年の「オランダおよびオランダ系の人びとの世界史における役割」にも出題された問い方ですが、ここには「侵入→対応」という問いは含まれていません。二つの問い方をミックスしたら、どちらか一方が疎かになる、あるいは偏る問題になってしまいます。

3 帝の死後、ランゴバルド人のイタリア侵入、スラヴ人やブルガール人のバルカン半島侵入、ササン朝との抗争で動揺した帝国は、イスラーム勢力にシリア・エジプトを奪われた。……やっとここで「侵入→対応」の片方が出てきました。

4 この間に帝国は公用語をラテン語からギリシア語にする一方、テマ制と屯田兵制で防衛に努めた。……これが対応です。

5 また皇帝は教会を管轄下に置いたが、8世紀にレオン3世がイスラームに対抗して聖像禁止令を発したことにローマ教皇が反発し、カール戴冠による西欧の自立の要因となった。……これは侵入者はイスラームですね。対応が禁止令、ということになります。「ローマ教皇が反発……自立」も帝国側の対応ではありません。アラブ人の侵入はつづいており、テマ制を強化する意味を禁止令はもっていました。その言及はありません。
 むしろ教科書に書いてないのですが、カールも侵入者です。カールはイタリア東北部の東に位置するスロヴェニアに侵入しており(788)、ビザンツ領であったヴェネツィアも奪い、ビザンツ領であったイタリア半島南部も狙っていました。帝国側がカールの戴冠を一時的なものとしてしか認めなかったのは当然のことでした。

6 その後ギリシア化が進んだ帝国がブルガール人やロシア人にキリスト教を布教したことで東欧文化圏が成立し、東西教会の分裂が進んだ。……「その後ギリシア化が進んだ」は意味不明です。ギリシア化というのは、330年に都を建設したときから始まっており、ローマ法大全もラテン語とギリシア語の2種類つくっている点でも表れており、そしてヘラクレイオス帝のギリシア語公用語化(620)で決定的でした。なぜカール(800)の後にこのことが出てくるのか分からない。
 「ブルガール人やロシア人にキリスト教を布教した」は何に対応したと言いたいのか不明。これは帝国側の政策ですね。スラヴ人諸国の自立に対抗した、とすれば対応らしくなります。自立した国としてブルガリア帝国(第一次)があり、これをバシレイオス2世が征服しています(ブルガリア人殺し)。
 「東欧文化圏が成立し、東西教会の分裂が進んだ」は役割ですかね。役割らしく、東欧を文明化した、と書けばいいのに。政治システム・政教一致の宗教・イコン・モザイク・キリル文字を伝えたのはビザンツでした。「東欧文化圏が成立」では中身がなく空しい。

7 11世紀にノルマン人に南イタリアを奪われ、セルジューク朝の侵入を受けた帝国は教皇に十字軍の派遣を要請したが、ヴェネツィア主導の第4回十字軍の首都占領後、衰退した。……「侵入→対応」はできていますが、衰退は対応ではないですね。客観的事実であり、対応ではありません。対応としてなら、ノルマン人侵入はエーゲ海にも及んでいましたから、その追撃をヴェネツィアに頼んでおり、結果的にヴェネツィアが帝国から自立する理由となりました(1082)。

8 この間にプロノイア制の導入やセルビア人などの自立で皇帝権が弱体化し、北イタリア諸都市が地中海商業の中心となった。15世紀に帝国はオスマン朝に滅ぼされたが、イタリアに逃れたビザンツの学者はルネサンスの興隆に寄与した。……「プロノイア制の導入」は何に対応したものなのか不明です。スラヴ人に土地を奪われ、自作農が土地(国有地)の売り出しをたためテマ制が崩壊した、としっかり書くべきでした。
 文2「地中海商業の中心として栄え」と6世紀のすがたがあり、この文8で「北イタリア諸都市が地中海商業の中心となった」と中世末のすがたがあります。経済における「ビザンツ帝国の世界史上の役割」はこの間はどうだったのか、中世全体の役割が見えてきません。4世紀以降から15世紀までヨーロッパの中で経済の中心であった点をもっと強調すべきでした。金貨は「中世のドル」といわれたように、カール大帝の墓の中から出てくる品物もビザンツの商品ばかりでした。11世紀からの「商業ルネサンス」はビザンツ帝国と関係する商業復活のことであり、東地中海の、つまりはアジアから入ってくる商品の取引に西欧も加わったのであり、ビザンツ帝国の「おこぼれ」をいただいた、といっていいものでした。中世都市はまさにビザンツ帝国の商業とむすびついて発展したすがたでした。こうして点が欠けています。経済的な役割はどこに書いてあるのか?
 またビザンツ帝国の世界史上の「政治」的役割はどこに書いてあるのか分かりません。文化的な役割は東欧文化圏の成立とルネサンスにつながった点なのでしょう。しょぼい内容です。

 ①侵入→対応、②世界史上の役割、という2つの問い方があり、当然それは書き方、構成に反映すべきものですが、どちらが重点になるべきか分からず、「模範」答案も、どちらも不十分な内容になっています。東大は過去にこうした問題文、とくに第1問の中に二重の問いを入れたものを出題したことがありません。「役割」だけにすれば、もっと帝国の世界史上の役割が書ける問題でした。問題として未熟というほかありません。

「侵入→対応」で帝国の1000年史を書くことは無理なので、「役割」だけの問題として書いてみます。ただし指定語句は無視して。
わたしの解答例
政治的な役割。古代ローマ帝国を継承し1000年つづいたため、ナポレオンが教皇を招いて戴冠したように、欧州の支配者はローマ皇帝であるべきだ、という考え「ローマ理念」を欧州に植え付けた。カール1世、オットー1世たち、そしてハプスブルク家の神聖ローマ皇帝、ロシア・ツァーたちが皇帝を名乗った。ゲルマン人諸王たちはあくまでこの東ローマ帝国皇帝の総督として帝国住民に君臨することができた。オットー1世の帝国教会政策はビザンツの皇帝教皇主義を実現しようとする試みであったが、教皇に阻まれて継続できなかった。アラブ人に対してテマ制とプロノイア制によって欧州の東の防波堤となった。経済的な役割。東ローマ帝国領は地中海世界の穀倉たるエジプトをもち、7世紀にアラブ人に奪われるまで繁栄をつづけた。またその金貨ソリッドスは「中世のドル」といわれ高い純度を保ち信用された。ヴェネツィア・ジェノヴァの繁栄はビザンツ帝国の貿易圏に食い込むことで、商業ルネサンスを起こし、中世都市の成立も、帝国の余剰によってもたらされた。絹織物の欧州唯一の生産地としてコンスタンティノープル市が羨望された。文化的な役割。「ローマ法大全」は欧州の法の起源として研究され、その東方正教会もスラヴ人の信仰となり、キリル文字も帝国の布教師が作成し普及させた。東欧の文明化という役割はイコン・モザイク・古典とともに伝わり、現在までスラヴ人を支配している。
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C模試

第1問
 地中海世界は、その地理的条件からさまざまな勢力が交錯する場であった。とりわけ、イスラーム教が成立して以降、次第に勢力を拡大したイスラーム諸国家は、地中海世界の西と東の両地域からキリスト教世界へ侵入を繰り返した。この結果、キリスト教世界に多様な変化をもたらすとともに、15世紀には地中海世界の東西両地域において、イスラーム勢力とキリスト教勢力の関係性は対照的ともいえる状況となった。以上のことを踏まえ、8世紀から15世紀にかけて、地中海世界の東西両地域で見られた政治的・社会的変化について論じなさい。(600字以内)

(指定語句)王権の伸張・オスマン帝国・カーリミー商人・カール=マルテル・後ウマイヤ朝・聖像禁止令・セルジューク朝・レコンキスタ

解答例
8世紀にウマイヤ朝がイベリア半島に進出して西ゴート王国を滅ぼしたが、トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国のカール=マルテルに敗れた。これを契機にカロリング家と教皇が接近したことが、カロリング朝の成立やカールの戴冠を促した。また、東地中海ではウマイヤ朝によるビザンツ帝国への圧迫がレオン3世による聖像禁止令の発布をもたらし、これは東西両教会分裂の背景となった。その後、11世紀に成立したセルジューク朝が領土を広げ、アナトリアに進出してビザンツ帝国を圧迫すると、ビザンツ皇帝がローマ教皇に援軍を要請し、十字軍が始まった。数度の十字軍運動を通じて交易活動が活発化し、エジプトを拠点とするカーリミー商人とヴェネツィアなどによる東方貿易も盛んになったことは、貨幣経済の普及や商業の復活を促すとともに、封建社会が動揺する契機ともなった。さらに、十字軍が失敗に終わったことは、教皇権の衰退や王権の伸張をもたらした。これ以降もイスラーム勢力による圧迫は続き、15世紀半ばにはオスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼして、勢力を拡大した。一方、イベリア半島ではイスラーム勢力に対するレコンキスタが8世紀以降展開され、11世紀に後ウマイヤ朝が滅んでイスラームの小国家を群立したことは、キリスト教国の勢力伸長を促した。レコンキスタは15世紀末にスペインがナスル朝を滅ぼして完了し、この結果、イスラーム勢力はイベリア半島から駆逐された。

添削
 課題は「(勢力を拡大したイスラーム諸国家は……侵入……この結果、キリスト教世界に多様な変化をもたらす……イスラーム勢力とキリスト教勢力の関係性は対照的ともいえる状況)8世紀から15世紀にかけて、地中海世界の東西両地域で見られた政治的・社会的変化について」でした。この問題は1986年の第1問「キリスト教文化圏としてのヨーロッパは、中世初期から現代にいたるまで、イスラム世界と境を接し、政治的にも文化的にも様々の影響をこうむってきた。この観点から、19世紀の前半にいたる両者の交渉や勢力関係の歴史を」との類題です。時間が15世紀で切っている点がちがっています。
 過去問は影響をこうむってきたヨーロッパ側の方に重点のある問題ですが、この模試の課題はハッキリしません。「変化」とは①関係の変化、つまり東西の勢力のどちらが時期によって勢力(侵入)に強弱があったのか、という変化なのか、②欧州側だけの変化なのか、③侵入者であるイスラーム世界側の変化も書くのか、この3点のどれが問われているのかが分かりません。邪道ですが、「模範」答案から類推すると、②と思われます。③を書いた文章はありません。何故かかは分かりません。焦点のハッキリしない問題です。
 他の懸念は「社会的変化」にどれだけのことを含んでいるか、です。解答例で「社会」らしい部分は経済について書いた文4のところでしか見ることができません。これでいいのか? ほとんどが政治史に終始しています。

1 8世紀にウマイヤ朝がイベリア半島に進出して西ゴート王国を滅ぼしたが、トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国のカール=マルテルに敗れた。これを契機にカロリング家と教皇が接近したことが、カロリング朝の成立やカールの戴冠を促した。……まちがいはありませんが、政治史に集中した内容です。「社会的変化」も書くとすれば、地中海世界南部からのアラブ人の侵入はヨーロッパ世界を包囲することになり、ヨーロッパは孤立した受動的な封建社会を形成する要因となったため、貨幣経済が衰退し自然経済の閉じた社会となります。

2 また、東地中海ではウマイヤ朝によるビザンツ帝国への圧迫がレオン3世による聖像禁止令の発布をもたらし、これは東西両教会分裂の背景となった。……圧迫だけではなく帝国の領土を大幅に奪い、ギリシア語だけ通じる孤立した帝国に変え(帝国のギリシア化)、テマ制・屯田兵制で持ちこたえていきます。イコンが定着し、古典墨守の発展性のない文化空間に閉じ込めました。こうした社会的変化は書いてありません。
 またイスラーム世界側では8世紀のアッバース朝の時期に征服活動は限界に達していて、実に広い世界の支配することになり、カリフは宗教的な権威もおびて聖俗両権の最高位になります(カリフ神授説)。その代わり、多くの多民族信徒をかかえこむことになり、かれら(イラン人・トルコ人)の自立性を養うことになりました。

3 その後、11世紀に成立したセルジューク朝が領土を広げ、アナトリアに進出してビザンツ帝国を圧迫すると、ビザンツ皇帝がローマ教皇に援軍を要請し、十字軍が始まった。……これは東西の関係を書いています。
 しかしトルコ人が自立し、カリフから政治的権力を奪いスルタン位をもらった点、またカリフが3人も鼎立したことも書いてありません。イクター制の普及もあげてありません。地中海世界といってもキリスト教徒だけ住んでいるのではないにもかかわらず、イスラーム側を無視しています。

4 数度の十字軍運動を通じて交易活動が活発化し、エジプトを拠点とするカーリミー商人とヴェネツィアなどによる東方貿易も盛んになったことは、貨幣経済の普及や商業の復活を促すとともに、封建社会が動揺する契機ともなった。……ここは社会的変化になっています。「貨幣経済……封建社会が動揺」と西欧側の変化だけですが。西欧の社会的変化としては他に、中世都市の成立、「12世紀ルネサンス」、大学の設立、スコラ学の完成などがあります。「社会」とは政治以外のことです。

5 さらに、十字軍が失敗に終わったことは、教皇権の衰退や王権の伸張をもたらした。……これは西欧だけの政治的変化・流れです。

6 これ以降もイスラーム勢力による圧迫は続き、15世紀半ばにはオスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼして、勢力を拡大した。……これはイスラーム側の攻勢が勝っていることを指摘しています。こういう政治史の流れを「変化」というのか? 「イスラーム世界におけるトルコ人の台頭」という社会的変化を示していると指摘すればいいのですが、そうはなっていません。

7 一方、イベリア半島ではイスラーム勢力に対するレコンキスタが8世紀以降展開され、11世紀に後ウマイヤ朝が滅んでイスラームの小国家を群立したことは、キリスト教国の勢力伸長を促した。レコンキスタは15世紀末にスペインがナスル朝を滅ぼして完了し、この結果、イスラーム勢力はイベリア半島から駆逐された。……「対照的」という、バルカン半島とはちがいイスラーム側が負ける状況を説明しています。これも流れですが、これも政治的変化というのか? たんなる流れ・経緯にすぎない。

 問題の焦点がハッキリしないのですが、わたしは「8世紀から15世紀にかけて、地中海世界の東西両地域で見られた政治的・社会的変化について論じなさい」を素直にとり「両地域」の変化を書いてみます。
わたしの解答例
8世紀アッバース朝は西アジア・地中海南部の広大な領域を征服し、カリフは聖俗両権の地位をもった。イラン人・トルコ人信徒も含む多民族帝国は、アラブ民族主義から平等主義の帝国に変った。侵略されたビザンツ帝国はテマ制で対応し、公用語のギリシア語化をすすめ、レオン3世は聖像崇拝禁止令でテマ制を強化した。西欧はカロリング家のカール=マルテルが侵入を食い止めると共に封建制度を始めた。イスラーム側から包囲された西欧は自然経済の社会に閉じ込められる。一方、イスラーム帝国の諸民族は自立してカリフに従わなくなり、10世紀のブワイフ朝は大アミール称号を、11世紀セルジューク朝はスルタン位を認められた。3カリフの鼎立と混乱は、西欧からの十字軍を招くことになり、この軍事行動を船舶で支援したヴェネツィア商人とカーリミー商人を軸とする商業ルネサンスがおきた。この遠隔地商業の発展は西欧に中世都市を出現させ、西欧の学者はイスラーム文明にも目を向けたため大学・「12世紀ルネサンス」を発生させた。バルカン半島にはオスマン帝国が襲い、ビザンツ帝国は滅亡し、半島はイスラーム世界の下、ティマール制とデウシルメ制を敷いた。イベリア半島は後ウマイヤ朝が滅亡するとレコンキスタが本格化し、ナスル朝の陥落は大航海時代を招来した。イスラーム世界から病原菌が浸透した西欧では農奴解放がすすみ、身分制議会の設立とともに王権の伸張が見られた。


D模試

イタリア半島の南方に浮かぶシチリア島は、地中海で最大の面積を誇る島である。ここは1861年にイタリア王国の一部となったが、歴史的には地中海のほぼ中央という重要な場所に位置しているため、古くよりさまざまな勢力の侵入と支配を受けてきた。一方、地中海世界の文化の交差点ともなり、多くの人や物が行き交った。以上のことを踏まえて、前8世紀頃から13世紀にかけてシチリア半島の歴史がどのように展開したのか、その経過について、540字以内。

(指定語句→植民市・属州・ユスティニアヌス・ルッジェーロ2世・フリードリヒ2世・ナポリ王国・イスラーム・東ゴート人)

解答例
前8世紀頃。フェニキア人がパレルモを、ギリシア人がシラクサを植民市とし、商業活動を通してアルファベットや地中海世界の産物がもたらされた。その後、カルタゴに侵入され、前3世紀の第1回ポエニ戦争でローマ初の属州となる。ローマ市民に穀物を供給し、ローマからは道路・橋を備えた都市文化がもたらされ、キリスト教布教でラテン語も浸透する。4世紀にローマ帝国が東西に分裂すると、西ローマ帝国領となり、5世紀にはヴァンダル人や東ゴート人が侵入。6世紀中頃にユスティニアヌスの治世にビザンツ帝国の支配下に置かれ、ビザンツ文化やギリシア正教が流入し、8世紀以降のイスラーム勢力侵入で灌漑農業などのイスラーム文化がもたらされた。その後、ノルマン人がイスラーム勢力を駆逐すると、12世紀前半にはルッジェーロ2世により両シチリア王国が建国され、ギリシア人やアラブ人も官僚として用いる集権的体制が形成。ノルマン・ギリシア・ビザンツ・イスラーム文化が並存する都市文化が開花し、都パレルモではギリシア語の文献がラテン語に翻訳されて12世紀ルネサンスを迎え、中世都市・大学の設立やスコラ学の完成を見た。その後、神聖ローマ帝国を兼任したフリーリード2世の統治下で繁栄したが、13世紀後半にシチリア王国とナポリ王国に分裂した。(540字)

▲添削
1 前8世紀頃。フェニキア人がパレルモを、ギリシア人がシラクサを植民市とし、商業活動を通してアルファベットや地中海世界の産物がもたらされた。……パレルモとシラクサという二つの都市名をあげて書いていますが、本来はこれらの都市以外に島の西部はフェニキア人が、東部はギリシア人が制圧しました。

2 その後、カルタゴに侵入され、前3世紀の第1回ポエニ戦争でローマ初の属州となる。ローマ市民に穀物を供給し、ローマからは道路・橋を備えた都市文化がもたらされ、キリスト教布教でラテン語も浸透する。……ここは問題なくできてます。ただ「多くの人」が東大の過去問のように「民族」ということであれば、「ラテン(イタリア)人ローマ」としなくてはなりません。またローマ化(都市化)があまり進んだ島ではなく、むしろ奴隷の反乱がおき、ローマが苦境に陥ったことがありました。

3 4世紀にローマ帝国が東西に分裂すると、西ローマ帝国領となり、5世紀にはヴァンダル人や東ゴート人が侵入。……ここも当り前すぎますが「ゲルマン人であるヴァンダル人……」としなくてはなりません。文化はないですが、書くとすればアリウス派キリスト教があります。

4 6世紀中頃にユスティニアヌスの治世にビザンツ帝国の支配下に置かれ、ビザンツ文化やギリシア正教が流入し、8世紀以降のイスラーム勢力侵入で灌漑農業などのイスラーム文化がもたらされた。……農業も文化であればこれでもいいでしょう。「イスラーム勢力侵入」は7世紀(667)からですが、征服は9世紀(821)のアグラブ朝によります。

5 その後、ノルマン人がイスラーム勢力を駆逐すると、12世紀前半にはルッジェーロ2世により両シチリア王国が建国され、ギリシア人やアラブ人も官僚として用いる集権的体制が形成。……ここも問題なくできてます。

6 ノルマン・ギリシア・ビザンツ・イスラーム文化が並存する都市文化が開花し、都パレルモではギリシア語の文献がラテン語に翻訳されて12世紀ルネサンスを迎え、中世都市・大学の設立やスコラ学の完成を見た。……末尾の文章は島の歴史ですかね? この島でスコラ学が完成って?

7 その後、神聖ローマ帝国を兼任したフリーリード2世の統治下で繁栄したが、13世紀後半にシチリア王国とナポリ王国に分裂した。……分裂より書くべきはフランス人(アンジュー伯シャルル1世)の侵入です。これに対するシチリア島晩鐘事件と戦争もおこりました。

わたしの解答例
前8世紀頃フェニキア人がチュニジアを根拠に島の西部に進出、東部にはギリシア人が植民市を築いた。前者はアルファベット・レバノン杉を、ギリシア人は自然哲学・演劇を伝えた。両民族の争いはラテン人ローマの介入を招き、ローマがフェニキア人を追放して属州とした。水道・闘技場などの実用的な都市文明を咲かせた。ローマの支配に対し島民の奴隷反乱がおき改革を迫った。ゲルマン大移動期にはヴァンダル人が、東ゴート人が来襲しアリウス派を伝えた。6世紀ユスティニアヌス帝のビザンツが来たり正教を布教した。9世紀にはアグラブ朝のアラブ人が襲い、数学・医学・法学・灌漑技術などのイスラーム文明をもたらした。11世紀以降ノルマン人が来襲し、ルッジェーロ2世のもとナポリ王国とシチリア王国を合わせ両シチリア王国が成立した。都のパレルモは「12世紀ルネサンス」の一中心となりアラビア語の文献がラテン語に翻訳された。13世紀神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は集権的な王国を形成した。世紀末にはフランス人が来襲し島民と争った。島は諸文明の坩堝となった。

 

E模試
第3問
 西ヨーロッパでは16世紀初めに宗教改革が開始され、旧教徒と新教徒、あるいは新教徒相互の対立は、主権国家形成期の王権のあり方にも大きい影響を与えた。16世紀後半から17世紀末に至るイギリスとフランスにおける国王の宗教政策が、それぞれの国の政治や経済に及ぼした影響を、300字以内で説明せよ。

解答例
イギリスではテューダー朝のエリザベス1世が統一法を制定して国教会を確立させ、国内の安定に努めた。しかしステュアート朝の成立後、チャールズ1世が国教強制に反発してピューリタン革命が起こり、共和政が成立した。王政復古後にはジェームズ2世のカトリック復興策から名誉革命が起こり、議会主権による立憲王政に移行した。フランスでは新旧両教徒の対立からユグノー戦争が勃発した。ヴァロア朝の断絶後、アンリ4世がブルボン朝を創始して旧教に改宗し、ユグノーの信仰を認めたナントの王令により内戦は終結した。しかし絶対王政を確立したルイ14世がナントの王令を廃止したため、ユグノーの手工業者の亡命を招き、経済は衰退した。

添削
 過去問(1996-3・B)の「16世紀から18世紀にかけてヨーロッパの諸国家は、重商主義政策をとって自国の商工業を保護・育成しようとした。この重商主義政策はイギリスとフランスにおいてどのような形で行われたか、具体的な事実を挙げて、200字以内で論述せよ」という問題と類似しています。ただこの「模範」答案には、「それぞれの国の政治や経済に及ぼした影響を」とありながら、イギリスの経済への言及は何もなく、かつ解説にも「経済への影響については具体的な事項がないことからイギリスについては説明がなくてもかまわない」とあり、だったら何故「それぞれ」があるのか意味不明です。
 だいたい「具体的な事項がない」とは何を言っているのか? 作問者の頭にない、教科書に書いてない、参考書にも書いてない、受験生にもないだろう、と言っているのか不明です。いい加減な問い方です。書いても加点もしないということでしょうか? 問いながら書かなくてもいい、とは、ふざけるな。
 教科書(詳説)には2つの革命の最後にこう書いてあります。「イギリス革命は、資本主義経済の自由な発展をさまたげる特権商人の独占権を廃止するなどして、市民層の立場を強めた」と。独占権とは何か分かりますか? ギルド規制です。革命はこれの廃止をしています。また国内関税の廃止もしました。何より大きいのは封建的土地所有の廃止でした。日本が明治維新のときに地租改正でやったこと、イギリスがインドで実施した近代的土地所有のやり方と同じです。ザミンダーリー制でもライヤットワーリー制でも「イギリスがインドで実施した土地税徴収制度……イギリスがザミンダール(旧来の地主領主)の伝統的権利を近代的土地所有権として認める代わりに、彼らを国家に対する地租納入の直接責任者とする制度」とある近代的土地所有の実現です。
 壊した封建的土地所有とは、国王が全土を持っている(これを上級所有権といいます)、この国王から諸侯たちが領地を封土されている(これを下級所有権といいます)、その土地を農民が領主から借りている(これを保有権といいます)、という三層構造のことです。ほぼ死去しないかぎり世襲できる権利なので、事実上所有していると言っていい権利です。しかしこの三層構造だと勝手に上と下の承認なしに土地の売買はできません。
 革命の結果、この構造を破壊します。誰か一人、たいてい領主が所有権を唯一もって、他のひとの権利を奪います、つまり国王は生きるだけの土地は認められますが、全国土の所有者だという権利は奪われます。農民は土地にたいする権利を奪われ、小作人(小作権だけ)になります。この結果、領主、いまは地主となったこの唯一のひとは他の地主と土地の売買の契約が結べます。一人だけが一つの土地にたいして所有権が主張できる状態を近代的土地所有といいます。すると土地はとうとう商品になります。動き出した不動産です。土地を買って、工場を建てる、農地にする、という土地利用の幅が広がります。これが資本主義(産業革命)の発展に寄与するのです。インドでイギリス人が土地を買い占めることが可能になりました。
 なお、このことについてわたしのブログ「世界史教室」→疑問教室→西欧近代史(仏以外)に、

Q2 なぜ一番初めにイギリスが産業革命に成功したのですか?詳しくおしえて欲しいです。
2A (1) (省略)
 (2) 17世紀の市民革命(清教徒革命と名誉革命)により封建的土地所有の廃止、ギルド制廃止による営業の自由、国内市場の統一など法的規制を排除して自由に流通する経済社会をつくりあげたことも一因です。

 

  一方フランスはルイ14世の工業化政策で上からマニュファクチュア造りに専念し、国家的なギルド規制を強めました。それが王立マニュファクチュア、国立マニュファクチュア、特権マニュファクチュアの3種類のマニュファクチュアのあり方で、国家規制の強い、逆にはいざとなれば国家依存的なフランスの企業ができあがりました。対照的な英仏社会の成立です。

わたしの解答例
英国の宗教改革はヘンリ8世の首長法とエリザベス1世の統一法で国教会が確立した。旧教国と戦うために重商主義政策をとり東インド会社を設立した。17世紀のステュアート朝の国教会強制に対抗して清教徒革命がおき、クロムウェルは航海法を制定した。王政復古後は議会主権となり、封建的土地所有の廃止、ギルドの廃止など資本主義発展の法的規制を取除いた。仏国はユグノー戦争をナントの王令によって沈静化し、絶対王政を基礎づけた。だがルイ13世、ルイ14世はこの王令を守らず後者は廃止した。そのため優れた手工業者・軍人が国外に分散し、経済の弱体化を招いた。それを特権的なマニュファクチュアにギルド規制を課して高級品輸出で対処した。


まとめ
1 模試は予備校の未熟な講師たちが作成した問題と「模範」答案であり、問と答がかみ合ってない場合が多い。問自体に不備があり、当然ながら答も貧相になりやすい。これらの問題と解答を反省材料にしなくていい。偏差値も無視すること。もちろん、これは世界史に限って言っていることです。
2 東大なら過去問が最高の参考書であり、過去問研究に専念すること。もちろん東大の問題が良問ばかり、ということではないが。京大なら過去問の他に、わたしの作成した未出題問題、筑波大学のような類題を解く練習をしよう。