世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

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2020年度再現答案

2020年度再現答案

(再現答案について)
 どんな答案を書いたから合格したのか知ることができないものです。そこで実際に合格されたかたに受験場で書いた答案を、試験が終わってから時間のあまり経過していない段階で再現していただきました。合格者本人から掲載の許可をえています。答案として完全ではありませんが、合格に寄与した答案であることは確かです(もちろん世界史だけで合格できるわけでもないことは言うまでもありません)。ただ予備校の細かい知識を駆使(ひけらか)した答案ではなく、高校生・高卒生が書ける合格答案とはどういうものかを知ることができます。受験場ではカンニングする教科書・参考書・用語集はなく、それまで勉強してきたことを精一杯発揮した貴重なものです。(なお下線の必要な答案に下線が引いてありません)

 

阪大
第1問
1 A1、B2.C3
2 異端者とは、ローマ教皇であり、免罪符での集金や、ラテン語による知識の独占を行っていた。それに対して(A)は聖書を英訳を教会の批判をした。(B)もチェコ語への翻訳を行った。(C)もドイツ語への翻訳を行い、また宗教改革によって信仰義認論の新教を生んだ。
3 11世紀では、ドミニコ派やフランチェスコ派の托鉢修道会は妻帯を禁止したり、自給自足する厳格なものであった。またベネディクトゥス修道会も戒律を作りきびしい修行をして、叙任権闘争に勝利し、聖職売買を行った教皇を批判した。13世紀では、異端派の清貧を目指すカタリ派に対して、アルヴィジョア十字軍を送り弾圧した。
第2問
1 背景として、内政的に文治主義や電子、また中小文科省牛耳っており、皇帝の権力が強かった。外生的に、モンゴルやベトナムへの遠征を行い、北陵南はに対抗した。軍事的にはキングや都護府による軍備の向上が西南の辺手手端による海外遠征がなされた。その遠征によって長江黒をアフリカまで広げ、冊封体制をした。超広告であるインドからの施設は抜けて優れていると言う意味でキリンを皇帝に送った。
2 イタリアルネサンスによって、人文主義を重視しして、絵画、書物等の美術品を保護した。それはギリシア、ローマ、イスラムの文化を復興させるものであった。その背景は、十字軍やレコンキスタによるギリシア文化の流入や、メディチ家から先導して行った香辛料の東方貿易によってそうした文化の流入につながった。また、イベリア半島のトレドやアフリカ北部のアレクサンドリアでギリシア、イスラム文化の成熟がなされていたためである。
第3問
預言者であるムハンマドの後継者である4人のカリフの正当性を重視するシーア派とそうではないスンナ派に分かれた。四人目のカリフであるアリーからウマイヤ朝が開かれた。そこではそスンナ派が権力を握り、それはアッバース朝でも受け継がれ、シーア派は少数派となりイランの国教となりスンナ派は多数派でサウジアラビアにはワッハーブ派として引き継がれた。

東大
ゲルマン人の移動後西欧ではゲルマン人国家が成立した。多くの国がキリスト教異端のアリウス派を信仰する一方でフランク王国クローヴィスはアタナシウス派に改宗しカトリック教会との結びつきを強めた。ゲルマン布教に聖像画(イコン)を用いていたローマ=カトリックはビザンツ帝国による聖像禁止令で打撃を受けたが、フランク王国がトゥール=ポワティエ間の戦いでイスラーム勢力を破ると教皇はフランク王国に近づいた。フランク王国のピピンも教皇にラヴェンナ地方を寄進し、教皇領の起源となった。カールの戴冠で皇帝と教皇が並立すると、ゲルマン・キリスト教が融合した西ヨーロッパ世界が成立した。ゲルマン移動の影響が小さかった東欧ではビザンツ帝国がギリシア語を公用語とした、西欧に対して先進的な文化圏をつくった。西欧とは異なり、皇帝教皇主義が採用された。ユスティニアヌス帝の時代にハギア=ソフィア聖堂の建立などビザンツ文化の最盛期を迎えた。イスラム教を創始したムハンマドはアラビア半島に支配を強め、正統カリフ時代、ウマイヤ朝はジハードを進めイスラーム世界を拡大していった。マワーリーにもジズヤを課していたウマイヤ朝に対しイスラム教の平等を唱えるコーランに反しているとしてアバース朝が成立した。アッバース朝はマワーリーへのジズヤを廃し、改宗者も要職につけるなどムスリムの平等を実現したイスラーム世界を成立させた。

西欧ではローマ教会が、メロヴィング朝を創始して正統のアタナシウス派に改宗したゲルマン人のクローヴィスを支持し、グレゴリウス1世の治世からゲルマン人にカトリックの布教を積極的に進めた。カロリング朝を創始したピピンは教皇領を寄進してローマ教皇に接近し、その子カール大帝が教皇から戴冠を受けたことで、ローマ・ゲルマン的西欧社会が政治的・文化的・宗教的に統一された。その中でラテン語を基調とした文化が発達し、スロヴェニア人やクロアティア人がカトリックに改宗した。東欧ではビザンツ帝国がコンスタンティノープル教会を支配し、ギリシア正教を広めた。6世紀にはユスティニアヌス帝がローマ法大全の編纂、ハギア・ソフィア聖堂の建設を行った。726年の聖像禁止令を機にローマ教会との関係悪化が深刻化した一方、ギリシア語を基調としてイコンやモザイク壁画を特徴にもつビザンツ文化がバルカン半島にも広まり、ブルガール人やセルビア人がギリシア正教に改宗した。7世紀には西アジアでイスラーム勢力が生まれたが、ウマイヤ朝ではアラブ人優遇政策がとられた。8世紀に生まれたアッバース朝ではイスラムに改宗した非アラブ人のマワーリーもジズヤが免除されたため、イスラーム教が更に広まった。北アフリカを支配したウマイヤ朝や後ウマイヤ朝はイベリア半島に侵攻してカトリック勢力を圧迫したが、ゲルマン人に撃退され、以後レコンキスタが続いた。

京大
第1問
商人の要求により明皇帝が海禁を緩和したため、様々な人々が中国に来た。また、欧州での対抗宗教改革の一環としてイエズス会が結成され海外での布教を進めた。活動と影響。イエズス会士はキリスト教を布教したが、中国の慣習を認めるかどうかで教皇と対立し典礼問題が起こり、康熙帝はイエズス会以外の布教を、雍正帝はキリスト教自体の布教を禁止した。また彼らは造園術や幾何学などの実学も教えたため、中国では様々な実用書が作られ、実証性を求める陽明学や考証学も発達した。彼らは新大陸の作物も伝えた一方で、中国文化を持ち帰ったため欧州ではシノワズリが流行した。
第3問
1815年に、普は四国同盟に加わり、墺はドイツ連邦を結成し盟主となった。その後ドイツ関税同盟が結成されドイツの経済的統一がなされた。仏での二月革命を受けて墺ではメッテルニヒが失脚した。フランクフルト国民議会が開かれ、墺を除いて普中心の統一を目指す小ドイツ主義的憲法が採択され、普王をドイツ王にしようとしたが、普王は拒否し一方的な欽定憲法を発布した。その後統一は地主貴族であるユンカー層が中心となり、ビスマルクの下で普はデンマークに勝利して領土を拡大した。その後普墺戦争で破れた墺はハンガリーと二重帝国を結成し、勝利した普は盟主となって北ドイツ連邦を結成した。その後普仏戦争で勝利しヴィルヘルム一世が即位してドイツを統一した。