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過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

2024年度共通テスト・世界史Bの解き方

2024年度共通テスト・世界史Bの解き方
問題は以下のURLで拾ってください。
① https://www.asahi.com/edu/kyotsu-exam/shiken2024/mondai_day1_jmq2ytbaxq/sekaishi_b.html
② https://www.toshin.com/kyotsutest/sekaishi-b_question_0.html

第1問

問1[ 1 ]
 正解は①、なぜなら「資料1で、李斯は、……周王が制御できなくなったこと」と「文王と武王は、一族や功臣の多くに、封土を分け与えて諸侯としましたが、その後疎遠となって攻撃し合い」と一致しているからです。②のは「手厚く養ったことを戦乱の原因」としておらず、「周王朝が長く続いたのは、一族や功臣に封土を分け与えて」という土地分配を王朝の長期理由をあげています。③では「一族に政治上の権力を持たせない」という点を指摘していますが、資料2にはそのようなことは書いてなく「封土を分け与え」たことを強調しています。④では「一族が帝室を補佐」したことは資料2と合っていますが、「郡県制」は官僚を中央から地方に派遣することで地方支配をすることなのに、資料2は郡県制の説明はないです。それに「封土を分け与えて諸侯と」することは封建制ですね。

問2[ 2 ] 
 資料3の下の説明文では、「臣下であった[ ア ]に魏が皇帝の位を奪われたことに鑑みて採られた方策の弊害」とあり、この文章の「争乱の名との組合せ」は④が正解。というのは「呉三桂」は明末清初の部将の名であり、資料3の時代は「八王の乱」がおきました。三藩の乱は清初の乱です[語呂は『世界史年代ワンフレーズ』(パレード)以下『ワン』と略称、300年の八王の乱→[八王も(54)(-)300]、1673年の三藩の乱「三藩1673藩]。

問3[ 3 ]
 「一族に対する分権の弊害」としては前漢時代の「う 呉楚七国の乱(前154年の呉楚七国の乱は『ワン』→呉楚、i[アイ]1呉5よ4)で、黄巾の乱・赤眉の乱は農民反乱なので該当しない。出来事の朱元璋は紅巾の乱で、農民反乱が成功した事例であり、「一族」の出来事としては建文帝と永楽帝はたがいに朱元璋の子と孫の親族。なので正解は⑥

B 
問4[ 4 ]
 「文章中の空欄[ イ ]の人物」とは「10世紀の王……[ イ ]は後にローマ教皇から戴冠され、これが神聖ローマ帝国の起源」とあればオットー1世と想定できます。すると正解の文章は④の「マジャール人を撃退した」王オットー1世になります。
 ①は小ピピン。カロリング朝を創始します。② のレオ3世によって戴冠されたのはカール1世(シャルルマーニュ)、③はカタラウヌムの戦いに勝利したカール=マルテル。

問5[ 5 ]
 下線部ⓑの人物は「ノルマン人ディー公」とあるので征服者「あ ウィリアム(1世)」。「い クヌート」はウィリアム1世より50年前にデーン朝を築いたひと(『ワン』1016年デーン朝[デーン 1016])。
 X 「王国の有力者によって選出されることもないままに、国王の座についた」はまちがい。「貴族たちによって国王に選ばれた」とありますから。
 Y証聖王(エドワード)は「彼に与えた王国を譲らなかった、ハロルドもそのことを認めて宣誓していたにもかかわらず」とあるので、Yの文は正しい。 
 Z文は資料1=ハロルドは保護者・敬虔、資料2=ハロルドは嘘つき、としているが、征服するノルマンディー側の認識と征服されるイングランド側の認識は逆です。
 正解は②の「あ─Y」となります。
 資料1にあるようにハロルドは国王に就いたのに、資料2で嘘(偽証者)とは、皇太子の時代にノルマンディー沖(フランス北部沿岸)で遭難し、ウィリアムに助けられており、イギリスに帰還する際に、助けてくれたウィリアムに王位を譲る約束をしていたのです。しかしいざとなると王位に就いてしまった。ハロルド王はヘイスティングスの戦いで戦死します。これを描いたバイユー市のタペストリーがたいてい教科書に載っています。

問6[ 6 ]
 下線部ⓒ(イングランド王国の歴史)に関連して、イングランドとヨーロッパの他地域との関係について。
 ① フェリペ2世と結婚したのはエリザベス1世ではなく、姉のメアリ1世。
 ② 羊毛(原羊毛)が、イングランドからフランドル地方へ輸出された。これが正解。百年戦争がこの地方で始まると、この地方の毛織物業者たちがイギリスに亡命したため、たんなる原毛の輸出国だったイギリスは毛織物の生産の地に変貌し、エリザベス1世の繁栄を支えることになります。
 ③ ジョン王が争って敗れた相手は、三部会召集で名高いフィリップ4世ではなく、フィリップ2世でした。
 ④ 大陸封鎖令はナポレオン1世の発布で、英蘭戦争の引き金になった航海法はクロムウェルが出したもの(『ワン』1651年航海法→航海1651)。

C 
問7[ 7 ] 
 ドイツでの老齢年金制度の導入時期は導入文では「「世界政策」の名の下に海軍を増強した皇帝の治世下で,同制度が導入され」とあるのでヴィルヘルム2世の時期、2世は1888年に即位しているが、名高いのはビスマルクを辞めさせて親政というかたちをとった1890年です(『ワン』ヴィルヘルムは189を)。したがって正解は③cです。

問8[ 8 ] 
 イギリスで公的な年金制度の導入を主導した政党。導入文に「年金制度の導入を主導したのは,かつて首相グラッドストンが率いた政党」とあるので自由党です。
 ① アイルランド自治法案を議会に提出した、のは自由党なので、これが正解。
 ② マクドナルドが率いる保守党とともに、連立政権を成立させた。マクドナルドの党は労働党。
 ③ スエズ運河会社の株を買収した、のは保守党ディズレーリ内閣。
 ④ フェビアン協会を基盤の一つとして結成されたのは労働党。

 19世紀 トーリー党→保守党
     ホイッグ党→自由党
 20世紀 労働党(1906年から、『ワン』労働党1906働) 

問9[ 9 ]
 前の文章を参考にしつつ、インタビューで資料は「義務を果たさないならば,権利などというものは存在しない」という権利と義務をセットにした横暴な議論をしたのは誰か、という問い。権利は、義務を果たす・果たさないとは無関係に、人間であることは、それだけで権利をもっているのが「基本的人権」の考え方。義務を多くは果たせない病人・障害者・老人になった場合を考えたら、すぐ判ること。弱者切り捨て論はナチスの思想に近づきます。サッチャーはこの世を体育会のように考えていました。サッチャーを理想とした大阪維新の会の思想がこれ。維新の会自体はチンピラ系・ヤンキー系です。正解は⑥。
 首相アトリーが、第二次世界大戦末期に保守党チャーチルに選挙で勝利した理由でもありました。Xにあるような「ベヴァリッジ報告書」という社会保障制度拡充政策をかかげて勝ちました。脱植民地もかかげて選挙後に実行しています。
 Yの「救貧法」は16世紀エリザベス1世の法。エンクロージュアのため追放されて乞食になる者が増えたため。

第2問
A 
問1[ 10 ]
 ①「自身が滅ぼした王朝によるバビロン捕囚に対抗して」はありえない。ユダヤ人を捕囚したのは新バビロニアのネブカドネザル2世。
 ② 資料2に「子どもたちはソフォクレスやエウリピデスの劇作品を歌うことを学んだ」とあり、これが正解。(悲劇とちがう喜劇の覚え方、アリストファネスの『女の平和』 →アリスト平和ネス[『各駅停車』このブログで販売])
 ③ 「破壊したのは、資料3によればペロポネソス戦争……報復」ではなくペルシア戦争。ペロポネソス戦争はアテネ連合軍とスパルタ連合軍の戦い。
 ④ デロス同盟を率いたのはアテネ。父フイリッポス2世が率いたのはコリント同盟。

問2 [ 11 ]
 資料1〜4がアレクサンドロ大王に対する後世の様々な評価、という問ですが「評価」の中身を正誤判定することは求められていません。時代背景だけ検討したらいい問題でした。
 時代背景の「あ 評価Ⅰの時代にはアジアで成立したマニ教がローマ領内で広がった」の時代は「共和政末期」とあるので前1世紀となり、この前1世紀にまだマニ教はできていません。できるのはササン朝が成立する時期とおなじ3世紀(226年ササン朝→笹で226)。
 「い 評価Ⅱの時代=19世紀後半には、帝国主義によるヨーロッパ列強の植民地獲得が「文明化の使命(文明的使命)」の名目で正当化されました。代表的なプロイセンの歴史家ドロイゼン(1808〜1884)は『アレクサンドロス大王史』を著し、ギリシア文明がアジアを圧倒するように、プロイセンによるドイツ統一を説きました。イギリスの詩人のキプリングも「白人の責務」を煽りました。
 したがって正解は③です。


問3[ 12 ]
 下線部ⓐの地域(ミシシッピ川以西のルイジアナ)をアメリカ合衆国に譲渡した国の名と、文章中の空欄[ ア ]に入れる語との組合せ。この「ルイジアナ」の「ルイ」はルイ14世の名をとって付けられたフランス人探検家ラサールの命名。当然フランスから買収したころ(1803年『ワン』類似穴の1803つけた)。
 また「北緯 36度 30分以北の部分」とあるのはミズーリ協定のことで、「奴隷制度……禁止」(『ワン』ミズーリI1 have82 ゼロ0)。
 正解は④。

問4[ 13 ]
 「作られた理由や背景」が複数とある。法律名「あ」は理由・背景Yの内容(大統領ジャクソン)と合い、「い」は理由のところは、法律名Xと合ってます。Zは南北戦争中のホームステッド法のことなので、該当する法律名はありません。正解は②と④。

問5[ 14 ]
 「きっかけと なって起こった事柄」なので結果とか影響です。[ 13 ]の解答が②の場合は①   がおき、[ 13 ]の解答④の場合→⑤がおきます。②は南北戦争中、③は19世紀末(1886年、『ワン』アメリカ労働1886働)、④セオドア=ルーズヴェルトのカリブ海政策、⑥アメリカにおける1787〜88年に憲法草案に対して賛成する派が連邦派、反対するのが反連邦派。連邦憲法という中央集権的な法を支持するかが問われました。前者で成立します。

問6[ 15 ]
 資料の内容で判らなくても、資料の下の文に「[ ウ ]が派遣されて戦闘に加わることとなった結果、実質的に中国とアメリカ合衆国との間の「熱い戦争」」とあるので中国参加の軍の「人民」の付いた軍となり、空欄[エ]は、これも文「アメリカ合衆国は……阻止しようとして」と米軍が加わった軍事同盟なのでSEATOとなります(1956年『ワン』→シャトー19、54)。ASEANは1967年の経済協力機構(『ワン』汗あー[ヒ]1967)。正解は②。

問7[ 16 ]
 文「1948年2月に[ エ ]で共産党のクーデタが起こって同党が政権を掌握」とあるように、戦後3年後でも、まだ共産党政権とは決まっておらず、この1948年にクーデタで共産政権になった国はチェコスロヴァキアです。歴史用語として「チェコ=クーデタ」という語句があります(『ワン』チョコ食うで194ーば8る)。このチェコに関連する歴史は後の1968年の「プラハの春」があります(『ワン』ブラ歯1968)。春の指導者はドプチェクです。人間の顔をした社会主義を目指しました。ソ連共産党書記長ブレジネフから、「わしらはどういう顔をしていると言いたいのか」と問われて「醜い顔」と言いたかったと自白していますが、怖い顔の前では言えませんでした。
 正解は④。

問8[ 17 ]
 中国の第1次五か年計画とソ連の第1次五か年計画について正しい文を選ぶ問題。
 グラフから読み取れる内容は、「あ」がまちがいで「い」が正しい。ソ連の第1次五か年計画はYが正しい。Xの戦時共産主義が失敗したからこそ、五か年計画はあり、Zはアメリカのニューディール政策。正解は⑤。 

第3問 
A 
問1[ 18 ]
 空欄[ ア ]統治理念を刻ませた王なのでアショーカ王、彼の治世に起こった出来事は?
 ① サータヴァーハナ朝は前1〜後3世紀であり、アショーカ王のマウリヤ朝(前317頃〜前180頃)は紀元前の王朝で滅びています。サータヴァハナ朝の同時期はユーラシア大陸に4王朝が併存した時代として覚えておくべきことです(『ワン』p.6 ローマ帝国・パルティア・サータヴァハナ朝・前漢後漢、みな前200〜後200年の間400年)。 
 ② エフタルの侵入があった王朝はグプタ朝(320頃〜550頃、『ワン』愚豚に320(る)いも、5〜6世紀エフタルF樽56がす)。
 ③ 仏典結集が行われた。これが正解。
 ④ 東晋から法顕が訪れたのは、399年長安出発してグプタ朝へ(『ワン』法顕さん399)。

問2 [ 19 ]
 下線部ⓐ(デリー)について
 ① 第1回インド国民会議の開催は1885年にボンベイ(ムンバイ)市です(『ワン』ボンベイの1885)。
 ② 4綱領が決議はカルカッタ大会された(『ワン』1906年カルカッタ大会、軽かった1906かった)。
 ③ タージ=マハルがあるのはデリー市の南にあるアグラです。
 ④ 奴隷王朝からはまる王朝はデリー=スルタン朝といいいます。これが正解。

問3[ 20 ]
 メモ1・2の正誤問題。
 メモ1の「南端」まで行っていない。
 図2「黄金の四角形」の中にイギリスの基地三つが入っています(拙著『各駅停車』p.100、英国の基地は BCM の三角形→ボンベイ・カルカッタ・マドラス)。正解は②。


問4[ 21 ]
 年代問題。
 あ 債務国から債権国に転じたのは第一次世界大戦の1914年(『ワン』第一次大戦191418、終戦の18年まで)。
 い イギリスヘの支援を目的とする武器貸与法が成立したのは、1941年(『ワン』武器は1941)。
 う テネシー川流域開発公社(TVA)が設立されたのは1933年のニューディール政策から(『ワン』ニューディーゼル車で1933)。
 正解は②。


問5[ 22 ]
 [ イ ]に入れる語句、「え」はアメリカ本土は第一次世界大戦の戦場にはなっていないので影響は考えられず、「お 自動車の普及」が妥当します。
 [  ウ  ]に入れる文は「X」の文がグラフの説明として正しく、「Y」の「貨物輸送量」は伸びているのに「同様に、旅客輸送量も減少傾向」がグラフと合っていません。したがって正解は③。


問6[ 23 ]
 空欄[ エ ]に入れる国は「あ ドイツ」であることは、資料1の「ヴィルヘルム帝(ヴィルヘルム2世)」と手紙に(1884年)という1882年の三国(独墺伊)同盟を示唆する年代(『ワン』三国1[イチ]1882)が入っていることから、「あ」と推定できます。
 理由は、このフランス孤立化のための三国同盟が資料2の「フランスは、助かるためにはロシアと同盟するしかない」という1891年の露仏同盟(『ワン』ロフトに1[いっ]1891ま0る)を示唆しているので、「X」の「ロシアとの同盟を望むと期待していた」が該当します。正解は①。

問7[ 24 ]
 藤井さんのメモの「1860年代から1870年代にかけて、鉄道の年平均建設距離数が伸びている」がまちがい。70年代は下がっています。西原さんのメモの「アラスカ売却」は正しい(『ワン』1867年、アラスカ氷、1867し)、90年代の伸びと「露仏同盟」も正しい。したがって正解は②。

第4問

問1[ 25 ]
 文章中の空欄[ ア ]の人物は「公認」した皇帝なのでコンスタンティヌス帝とわかり、その事績「あ 軍管区制(テマ制)」はビザンチン帝国の制度なのでありえないし、召集したニケーア公会議で決めたことは「Y アリウス派が異端と」としてアタナシウス派を正統とすることでした。三位一体説とも言います。正解は⑤。
 「X 単性論」はカルケドン公会議(451年)で、「Z ネストリウス派」はエフェソス公会議(431年)で異端と決められました。

問2[ 26 ] 
 下線部ⓐ(地域や王朝を越える文化の伝達)文化や制度。
 ① ゼロの概念は、ローマでなく、インドから、ということは何度も何度も問われてきました。
 ② アマルナ美術はアマルナに遷都したアメンホテプ4世のときに栄えた文化。細密画は、イスラーム世界全体ではなく、イラン地域で普及した絵画。偶像を嫌うスンナ派では普及しなかった。このイラン系の絵画がムガル帝国に普及した。イラン系の官僚たちがインドを支配しました。ムガル帝国の公用語はペルシア語。
 ③ マドラサという学問機関は早い事例はカイロのアズハル大学、バグダード入のニザーミーヤ学院。これが正解。
 ④ イクター制はセルジューク朝から。

問3[ 27 ] 
 ① シュメール時代(前3000年代~前1800年ご)のメソポタミアで用いられた文字は楔形文字。写真のシリア文字は楔形文字ではない。
 ② パルティアとジズヤの時代が合わない。パルティアは前250年頃からササン朝のできる226年までで、まだイスラーム教が存在しない。イスラーム教は610年から(『ワン』ハンマ610)。
 ③ シリア語を使っていたキリスト教徒が、アッバース朝における学術の発展に寄与した。これが正解。会話文の先生「シリア語を経由した翻訳活動は、9世紀には,ギリシア語から直接アラビア語に翻訳するという形が広がっていく学術的基盤となりました」と「12世紀ルネサンス」の説明をしています。これが正解。
 ④ 第1回十字軍の到来=11世紀までに、「失われていた」はまちがい。先生は「11世紀から13 世紀には、シリア語でも再び多くの書物が記されるようになり,モンゴル支配下の西アジアにおいて、様々な学術分野の著作がシリア語で書き残されました」と。

問4[ 28 ]
 誤っているもの
 ① ルターが、『新約聖書』をフランス語に翻訳→ドイツ語に翻訳が正しいから、これが正解。

問5[ 29 ]
 ① コロンブスの時期(1492年『ワン』ころんだブス1492明)にポルトガルのレコンキスタは終わっていた。12世紀にカスティリア王国から独立して、独自にレコンキスタの戦いをしていたが、13世紀半ばに完了しています。
 ② 条約は両国とも利益を得た世界分割なので「侵害」の懸念はない。
 ③ スペイン王がポルトガル王位を継承したのはフェリペ2世の時期(1580年)なのでコロンブスの時期とはずれています。
 ④ バルトロメウ=ディアスの喜望峰に到達は1488年でコロンブス以前。なので、これが正解。

問6[ 30 ]
 「コロンブスはスペイン人である」=思い込みの内容
 「あ」 スペイン語で書く者はスペイン人である。これが正しい。そのように文章では「文書をスペイン語で書いていたことを根拠に」と書いてあります。
 「い」 ジェノヴアはスペインの支配下にあった。この都市はジェノヴァ共和国として、ずっと独立を保っていた。しかし一時スペインに占領されたり(1522)しているが、コロンブスの時期とは噛み合わない。
価値観
 X 国家は同一の言語・文化を共有する均質な国民によって構成されるべきだという国民国家の価値観……この価値観は合っています。
 Y 列強は支配地域の拡大を目指して世界を分割すべきだという帝国主義の価値観……帝国主義の時期は1870年代からなので、時期が合わない。たがって正解は①。

問7[ 31 ]
 空欄[ イ ]の反乱=安史の乱、最も適当なものは、
 ① 塩の密売人が起こした反乱は黄巣の乱なので、まちがい。
 ② 「減退」がまちがい。藩鎮=節度使による鎮圧と、乱後は節度使の派遣拡大となった。
 ③ 鎮圧して、すぐ「新たな王朝を創設し」ていない。安史の乱は唐中期(775年、『ワン』安心755)なので、新王朝は五代十国の時(907年)から(『ワン』907いか)。
 ④ ウイグルの援軍を得て、反乱が鎮圧された。これが正解。


問8[ 32 ]
 空欄[ ウ ]を推奨した韓愈に入れる語は、古文。韓愈(かんゆ)と柳宗元(りゅうそうげん)が簡潔な古文を復興すべきと唱えました(『各駅停車』の覚え方→還(韓)流(柳)する古文古学復興運動)。
 空欄 顔真卿の書の書きぶり[  エ  ]唐代後半期から宋代にかけての文化の流れ、とは古文のような簡潔な文章への復帰と関連しています。つまり「X」が正しい。「Y」の「貴族的……力強さや個性を尊重する」は流れと矛盾します。したがって正解は③。

問9[ 33 ]
 メモ1「乾隆帝は、漢人に対して自由な言論活動」はありえない。文字の獄という言論弾圧は現中国共産党と同じ。まちがい。
 メモ2「北魏の孝文帝」の漢化政策は中国文化に浸透する、自文化を捨てる政策なので、乾隆帝の「文化事業は,中国の伝統的な書道文化が長く保持された一因」に通じるとしても、清朝満州族の自文化を完全否定したのではない。満州語・満州文字・八旗・文字の獄・女真族の名(愛新覚羅)・辮髪・服装など独自のものを捨てなかった。正解は④。

2024一橋世界史

第1問
 次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 社会経済史的にみた中世北欧都市*の特色は、何よりもまず、それが「一つの大きな家計」単位として自覚せられ、「市民的生活全体の統一」として把握されうる点に存すると思う。そのわけは、市民の経済生活は、すでに相当程度の職業分化を前提としており、各家族のオイコス(家・家政)的・自給自足的理念を克服した点において、またランドゲマインデ(村落共同体)的・地縁的因習に束縛されぬ意味において、さらには領主的封建支配の桎梏を断ちきった意味において、原理的におよそ村落団体とは異なる形成体となり得たからである。
 すぐれて結晶的な景観を示すあの都市の中央に設けられた市場は、市民全体の経済活動の核心をなしていた。市場の繁栄は、ただちにもって「一つの家計」としての同質社会たる市民全体の福祉に影響する。(中略)それゆえ、極言が許されるならばこの家計の構成員たる市民は、文字通り一つの“Stadtvolk”*であり、いうところの「都市経済」とは、“Stadtvolkswirtschaft”*にほかならないとも考えられる。
  「都市経済」がこのような基盤と性格とを前提とするものとするならば、そこには必ずこの経済単位を規制する何らかの経済意欲が誕生しなければならない。すなわち、マックス・ウェーバーのいわゆる“wirtschaftsregulierender Verband"*としての意識は、「都市」または「市民」というものをば、まったく新しい経済政策のトレーガー(担い手)として登場せしめることとなる。ここからまたわれわれはいわばパトリモニアル(家産的)な封建領主のそれとは質的に異なった高次の政策意欲を指摘することができよう。
  では都市の経済政策は、いかなるかたちをもってあらわれるのであろうか。われわれはこれを、あの有名なビュッヒァーの経済発展段階説がしめすが如き、単に封鎖的なものとして一方的に規定するのではなしに、「封鎖的な面」と「開放的な面」との統合として考察すべき十分の理由をもっている。というわけは、中世社会において、都市が果たした経済的役割の重要性を as such として評価し、他方、中世市民がもっていた経済心理を考慮する場合、どうしてもこの両面の性格が矛盾なく並存していた事実を認めざるを得ないからである
(増田四郎『増補西欧市民意識の形成』より引用。但し、一部改変)
 *北欧都市:ここではアルプス以北の都市を指す。
 *Stadtvolk:「都市住民の総体」等を意味するドイツ語。 
 *Stadtvolkswirtschaft:「都市住民全体の経済」等を意味するドイツ語。  
 *wirtschaftsregulierender Verband:「経済的規制団体」等を意味するドイツ語。

問い 文章中の下線部について、下の史料に示されたビュッヒァーの見解の批判的検証を通じて都市経済の「封鎖的な面」と「開放的な面」を明らかにしつつ、アルプス以北の地域において中世都市が果たした社会経済史的意義を、12〜14世紀の神聖ローマ帝国領域内の複数の都市の事例に即して考察しなさい。(400字以内)

史料
 中世都市市場の搬入及び供給区域は地誌学的に精確に区画され得ないことは、その搬入及び供給の区域は市場貨財の異なるに従って自然にその延長を異にしていたがためではあるが、それにもかかわらずこの区域は経済的意味よりいえば、一箇の閉鎖的区域を形作っていたのである。すなわち各都市は、その周囲の「地方」と共に、自主的なる一経済単位を形成し、この範囲内において、経済生活の全過程がその地特有の規範に準じて、独立的に完遂されていた。
 (ビュヒァー(ビュッヒァー)『増補改訂 国民経済の成立』より引用。但し、一部改変)

 

第2問
  大西洋奴隷貿易により始まった南北アメリカ大陸・カリブ海域における奴隷制は、19世紀にそのほとんどが廃止された。19世紀における一連の奴隷解放の動きは、リンカンが「奴隷解放の父」として顕彰されるなど、各国の歴史において偉業と位置づけられ、また近年ではUNESCOなどが、奴隷解放を記念する国際年のイベントを開催している。
  しかし、2020年に米国で燃え上がり、世界各地へと広がったブラック・ライヴズ・マター運動では、黒人たちの貧困や黒人への日常的な人種差別、暴力が問われ、彼らは「黒人の命も大切」と訴えた。奴隷解放から一世紀以上が経つのに、なぜ不平等な扱いをいまも強いられるのかと、ブラック・ライヴズ・マター運動ではあらためて奴隷制という負の遺産の大きさと、奴隷解放のプロセスの問題点に注目が集まった。
  奴隷貿易や奴隷制の廃止に必ずしも「偉業」とは評価できない側面があり、それが現在の黒人たちの不遇な境遇と結びついているとすれば、それはどのような点だろうか。奴隷を解放した側からではなく、解放された側、すなわち、元奴隷や黒人社会、アフリカ各国の側からみた場合、奴隷解放とその後の解放された黒人に対する政策は、どのように評価することができるか。19世紀の奴隷貿易・奴隷制廃止の一連のプロセスを概説した上で、奴隷解放の問題点を中心に当時の国際関係や政治経済情勢に着目しながら論じなさい。ただし、下記の語句をすべて必ず使用し、その語句に下線を引きなさい。(400字以内)

 13植民地の喪失、西半球の最貧国、シェアクロッパー制、アフリカ分割

 

第3問

 10世紀から12世紀頃、唐王朝の滅亡に伴って発生した東アジア世界の政治的・社会的変動を述べなさい。(400字以内)

………………………………………

コメント

第1問

 一橋らしい大学の授業をそのまま反映したような問いです。資料・史料は受験生が読んだこともない研究書を引いてきて、たぶん大学・大学院で出したテストをそのまま使っているような問い方です。
 しかし諦めないで、教科書で学んだこと、過去問で学んだことを基に推理すれば、ある程度は的を得(射)た答案はできます。
 課題は「文章中の下線部について、下の史料に示されたビュッヒァーの見解の批判的検証を通じて都市経済の「封鎖的な面」と「開放的な面」を明らかにしつつ、アルプス以北の地域において中世都市が果たした社会経済史的意義を、12〜14世紀の神聖ローマ帝国領域内の複数の都市の事例に即して」でした。
 過去問にこの問題に類するものは、1983-1 中世都市の自由(300)
1988-1 中世から近世の経済的国民主義(400)
1994-1 中世都市の自由(200)、自由の維持方策(200)
2006-2 中世都市市民(250)
2016-1 古代都市と中世都市の比較(400)

 このように伝統的に中世都市は頻出テーマです。
 「アルプス以北」と限定しているのは南欧のイタリア都市はコムーネと呼び、違うタイプの都市なので、中世都市といえば、「アルプス以北」と限定していなくても中世都市の代表的・典型的な都市としてあつかいます。

 課題の「開放的な面」は書きやすいでしょう。「社会経済史的意義」とともに農奴解放(権)・商工業者(同職ギルド)にも市政解放(ツンフト闘争)・特許状に書いてある立法権・貨幣鋳造権・居住権・市場権・交易権・自治権などがあり、近代市民社会の基となった種々の自由・権利が与えられました。また海外に進出して商館を設け、他都市との同盟を結んでいます。これは皇帝に対抗する軍事同盟でもありました。
 「封鎖的な面」は城壁・ギルド規制・身分制・市政は親方のみ参加が挙げられます。
 これに加えられるのが禁制圏です。これは史料の「一箇の閉鎖的区域」のことですが、受験生にとっては違和感があるでしょう。閉鎖性に該当する部分の説明になっているのですが、これを教科書や参考書で説明したものを見たことがありません。わたしは添削しているので、その際の添削文にはかならず説明するようにしています。この「閉鎖的区域」とは禁制圏ともいい、
次のような説明します。
 都市の商業と工業を守るために禁制圏を設けました。禁制圏とは都市の周辺のいくつかの農村や都市と協定を結んで、じぶんの都市で作っているものは協定した農村・都市では作らない、その代わり周辺の都市・農村で作っているものは自都市では作らない、という共存の協定です。またよそからくる商人はこの禁制圏に来ると荷物を降し、都市の商人に運んでもらいます。そうすることで都市の商人の利益を守り、都市に入って、持ってきたものを売る権利を与えます。もちろん売る商品は自都市で作っていないものに限ります。売れ残ったものを、都市の商人がはこんで禁制圏の境界までもっていき渡します。
 この禁制圏について書いた予備校の「模範」答案は一つもありませんでした。
 この禁制圏のことは引用された増田四郎の文章のつづきにも出てきますので、以下にそのまま載せておきます。

 増田四郎著『増補 西欧市民意識の形成』(講談社学術文庫、P.170〜173)
 すなわち、市民は"Eng Wohnen,weitdenken."(狭く住み、広く考える)ともいうべき特殊な生活感情をはぐくみ、一方においてギルドやツンフトの伝統と旧慣を墨守するところの、その同じ市民が、他方、市壁を越え、領邦を越え、国境をもはるかに越えて、活発な国際交易の波上にのりだし、出来る限り広範な流通場裡に、みずからの属する都市の自主性を確立しようと競いあう。封鎖的な団体的結合と開放的な企業家的精神とは、矛盾するところなくここに両立する。この意味において、中世都市の類型的ないしは本来的な姿を、単に地方農村的な小都市の牧歌的情景のみに求め得るとなす見解は、明らかに誤謬である。中世都市経済のいきいきとした脈搏(みやくはく)は、むしろこうした両面性を最大の極限にまでおしひろげ、しかもなお一種の団体的緊張を保持しつづけた進取的都市の中に鼓動していたと断じなければならない。
  まずその封鎖的な面をみるに、もともと商工業者の集団であるはずの都市にjustum pretuim)の原則は、仲間相互の連帯責任の精神をうえつけた。十三世紀を頂点とするスコラ哲学の社会秩序観、特にその「職分」の思想は、まさしくこの現実にからみあっており、また今日漠然と主張せられる「ギルド独占」の弊害と「旧慣墨守(ぼくしゅ)」の中世的精神は、一部このような部面から湧き出たものであるが、しかし彼等のすべてが姑息な雰囲気にのみ満足していたものでないことは、十四世紀以降、各地の都市にみうけられるあの熾(さか)んな「ツンフト闘争」(Znuftkampf)の政治運動──すなわち富商的パトリチアート(都市貴族)の市政独占に抗して、ツンフトの合理的・平等的な参与を公認せしめようとする下層手工業者の反抗──に照しても極めて明らかである。しかしこの闘争とても、概(おおむ)ね両者の妥協による解決をみたわけで、イタリア都市にティピカルにあらわれるごとき市民階級自体の分裂につぐ分裂──例えばパトリチアート対ポポロ、ポポロ・グロッソ対ポポロ・ミヌートの対立等──、そしてついには独裁的な都市僭主(せんし)制(Stadttyanrnisを)さえうみだした事例とは、およそ根本的に異なる様相をしめしていた事実をみのがしてはならない。すなわち、時に内部のはげしい闘争があったにしても、われわれとしては、中世北欧都市の市民的結合の健全さと、アウタルキー(自給自足)的志向が一面の基調であった内部組織の秩序とを、絶対に無視するわけにはゆかないであろう。
  つぎに開放的・積極的な面であるが、この問題については、例えば、北海およびバルト海を足場に、遠くノヴゴロド、ベルゲン、ロンドン、ヴィスビー等に商館(Kontor)を設けたドイツ・ハンザ都市のめざましい活躍とブルージュの厳たる世界市場的地位を想うのみにて既に充分である。東西両洋、南北両欧の雑多な商品は、ハンザ商人と南方イタリア諸都市の活動・媒介によって、予想外の流通度をしめしていた。帝権ないし王権が、経済政策の重要性にめざめない以前においては、こうした都市の同盟形態が最も適合した有力な経営組織であり、また活動の母胎であった。大空位時代(Iterregnum)以後、中世末期の各地にみうけられる政治的な「都市同盟」(Städtebund)が、いかに熱烈に王国ないし帝国の統一を冀求(ききゅう)して、封建諸侯の分立に執拗に抗しつづけたかは、都市市民の積極的開放面を立証する有力な証左といえよう。一言にしていえば、彼等は外に向っては出来るかぎり自己を主張しようとしたわけで、他都市・他国の商人はひとしく"ailenmerchant"(よそもの商人)と考えられ、"Vaterstadt"(故郷の町)の語は、そのまま今日の「祖国」(Vtaerland)の語の感情をもって理解せられた。このようにして、字義通り世界交易網の中における自己主張であったればこそ、彼等はこぞって「互市強制権」(Stapelrecht)や「交易通路強制」(Strassenzwang)のような諸特権を獲得し、相互に独自の都市的権益として誇り得たわけである。換言すれば、「中世的世界経済」の前提なしにこの権益を保持することは、それ自体無意味にちかいというべきである。
(引用終了)


第2問
 この問題は一橋の過去問(2003-2 奴隷貿易盛衰の政治的・経済的要因(300)、2017-2 奴隷解放と独立運動(400))の類題です。
 課題は「19世紀の奴隷貿易・奴隷制廃止の一連のプロセスを概説した上で、奴隷解放の問題点を中心に当時の国際関係や政治経済情勢に着目しながら(指定語句→13植民地の喪失、西半球の最貧国、シェアクロッパー制、アフリカ分割)」でした。
 「廃止の概説」「奴隷解放の問題点を中心に当時の国際関係や政治経済情勢に着目」と二つの課題があります。
 「廃止の概説」は教科書なら、
奴隷貿易・奴隷制(奴隷労働)の廃止(英の1807年、1833年)、フランス革命(1794年)、ラテンアメリカ独立の際の解放(ハイチ1804年)、北米の南北戦争後の解放(修正13条、1865年)とあります。この中でも指定語句の西半球の最貧国はハイチのことですが、ここはフランスの植民地でしたが、独立の代償として多額の解放資金を要求され払いつづけ、「西半球の最貧国」と呼ばれることになり、貧困から抜け出せない。これが「問題点」のひとつです。奴隷労働によってフランスは利益を得ているにもかかわらず、「解放」で奴隷という財産を失ったことにたいする補償をせよ、ということです。この横暴さが分かりますか?(→ウィキペディア・ハイチ革命)
 日本も徴用工の問題で韓国と対立していますが、個人への補償・賠償でもない、日本の建設企業に環流する5億ドルを出したということで解決した、とする横暴な日本政府の対応があります。このことでも実はハイチの場合と同様に、帰国した徴用工が居なくなったので、その喪失の補償金を日本企業はすでにもらっていることを知っているひとはほとんどいません。中国人強制連行の判決(2007年)で、日本の最高裁は「中国人労働者の受入れに関して国家補償金を取得するなどして一定の利益を得ている」と指摘していて企業側に救済せよと訴えています(→https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/580/034580_hanrei.pdf)。
 次の文書には企業に支払った会社名と額の詳細が書いてあります。→

(朝鮮労務対策委員会活動記録)

 「問題点」は指定語句の「シェアクロッパー制、アフリカ分割」を使って説明ができます。合衆国のシェアクロッパー制は解放奴隷は元々何も持たない道具であったのが、ひのまま何もも持たないで解放されたので、すべては借りて生きていく他はなく、土地も借りて小作人になりました。これがシェアクロッパーです。解放されたといっても、主人側の差別意識は解消されるものではなく、解放後は現在まで長いこと迫害され続けています。戦争では前線に立たされつづけました。 
 独立したアフリカも分割とともに「低開発」のために工業化を阻止されて工業が発しないように、ずっと原料供給地・市場であるように仕組まれました。これを低開発といいます。自然のなりゆきでなく政策的な非工業化です。
 なお奴隷制は21世紀も継続しています。https://en.wikipedia.org/wiki/Slavery_in_the_21st_century
 日本の奴隷制としては、「技能実習制度」が国連から指摘されています。実習生からパスポートをとりあげて逃げないようにしているのが、わたしたちの周辺で営業している中小企業のおっさんたちです。松本人志が女性をホテルに集めて、個人情報のつまったスマホを取りあげるのも、一時的な奴隷化です。


第3問
 10世紀から12世紀頃、唐王朝の滅亡に伴って発生した東アジア世界の政治的・社会的変動を述べなさい。(400字以内)

 これは東大の過去問(1974年)「10世紀における東アジア(中国・朝鮮半島・ヴェトナム・日本)の諸国家の興亡・変動を300字以内の文章で説明せよ」と類題です。
 拙著『世界史論述練習帳new』の巻末付録「60字問題集」の「中国・政治」の中の問15「10世紀初めから12世紀前半までの東・北アジアの国際関係を説明せよ(90字)。(指定語句→兄弟 西夏)」とも共通した問題です。
 問題用語の「変動」は王朝の変化というより王朝の変化を超えた、それ以前や以後の大きな流れも視野に入れて使います。9世紀までの傾向を変えただけでなく、13世紀以降にも影響を与えた変化、つまりは大きな変化=変動のことです。たとえば、気候変動という言い方をするように、数年間の小さな変化より、10〜20年、ときに世紀を超えるような大きな変化を変動と呼びます。10〜12世紀に変わった王朝だけでなく、10世紀以前と12世紀以降にも同様な変化が表れているような大変化です。どの予備校の解答例も、王朝の変化ととった解答文ばかりで、問題を理解していなかった、といいでしょう。征服王朝という語句をつかった解答文がないことでも、これは明らかです。
 この問題では五代十国以前の唐王朝の時期と、五代十国以降の宋以降に現れる元清のような征服王朝が中国全土を支配するといった事態、これは唐以前の五胡十六国時代のような遊牧的で短命な王朝の時代とは相当違った傾向が表れる時代の登場です。
 頭だけでなく、支える社会も、貴族から庶民新興地主層・形勢戸・士大夫が担い手に変わる、文化も貴族的なものに代わり庶民的なものが一般的になります。
 中国はこのように変動しますが、他の地域でも似た現象がないか、と探ってみます。朝鮮なら豪族・貴族から両班層、日本も貴族から武士へ、ベトナムは不明なので社会は書けないけれど政治は中国に従属していた時代から独立した王朝の時代に変わります。実際、ベトナムでは9世紀までは北属期、10世紀から独立期と区分しています。
 その前にベトナムも書いて良いのか、ベトナムは東アジアに入るのか迷ったかたもいるでしょう。入ります。もともと北部は中国の支配下に長いことあり、中国の制度・文化も導入しているので、東アジアに入れて良いのです。

2024京大世界史

第1問(20点)
 乾隆帝の70歳の誕生日を祝賀する行事に参加する朝鮮の使節に随行して熱河の離宮に赴いた朴趾源(ぼくしげん)の『熱河日記』は、その冒頭で年次を記すのに「後三庚(こう)子」(明の崇禎(すうてい)年間より後の三回目の庚子の年)という表記を用いている。ここには、当時の朝鮮と中国の関係の一面が表れている。16世紀末から19世紀末にいたる朝鮮と中国の関係の変化について、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問
 次の文章(A、B)を読み[  ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(20)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

 マンチュリア(今日の中国東北地方および(1)ロシア極東の一部)のうち、今日の遼寧省に相当する地域には、戦国時代に中国本土の農耕民が本格的に入植するようになった。他方、遊牧民もしばしば南下し、やがて農耕民・遊牧民が混在する独自の空間が形成された。
 (2)『史記』匈奴列伝によれば燕は東胡を破り(3)長城を築いて、上谷・漁陽・右北平・遼西・遼東の五郡を設置した。遼西・遼東の二郡が今日の遼寧省にほぼ相当する。(4)漢王朝を開いた高祖劉邦は、盧綰(ろわん)を燕王に封じたが、盧綰はのちに匈奴に亡命した。このとき朝鮮半島に逃れた中国人が今日の平壌を中心に[ a ]を建国した。漢の武帝はこれを征服し、[ b ]・玄菟・臨屯・真番の四郡を設置した。
 後漢末年、[ c ]の乱を契機に、中国は群雄割拠の状態に陥り、遼東では公孫氏が自立した。公孫氏は呉と結んで魏に対抗したが、(5)魏に滅ぼされた
魏はついで高句麗に出兵した。鮮卑慕容(ぼよう)
部は魏の公孫氏・高句麗への遠征に従軍し、遼西に定住した。[ d ]の乱で洛陽が陥落すると、遼西・遼東は混乱に陥り、これに乗じた高句麗が、[ b ]郡を征服した。慕容廆(かい)は西晋の東夷校尉崔毖(さいしつ)を破って遼東を制圧し、高句麗と交戦した。慕容皝(こう)は燕王を自称し(前燕)、(6)龍城(今日の遼寧省朝陽市)に都城を築いた。慕容儁(しゅん)は後趙を滅ぼした冉閔(ぜんびん)を破って中原(北中国の東半)を制圧し、皇帝を称したが、慕容暐(い)は前秦の苻堅(ふけん)に敗れ、前燕は滅亡した。
 北中国をほぼ統一した符堅は、東晋征服を図ったが、淝水(ひすい)の戦いで大敗し前秦は滅亡した。慕容部は独立を回復し、慕容垂が後燕を建国したが、鮮卑[ e ]部の北魏に参合陂(さんごうは)の戦いで敗れ、遼西に退去した。ついで、高句麗が遼東を奪取した。慕容宝・慕容盛ののちに立った慕容煕(き)が暗殺され、慕容宝の養子で高句麗人であった慕容雲(高雲)が擁立されたが、これも暗殺され、馮跛(ふうばつ)が北燕を建国した。馮弘のとき、(7)北魏の侵攻で北燕は滅び、馮弘は高句麗領であった遼東に亡命したが、のちに殺害された。


(1) 17〜19世紀の諸条約によって、今日の中露国境がおおむね画定された。
(ア) 1689年、外興安嶺(スタノヴォイ山脈)を国境とするネルチンスク条約が締結された。このときの清の皇帝は誰か。
(イ) ロシアは1858年の条約で黒竜江(アムール川)左岸を獲得し、1860年の条約で沿海州を獲得した。1858年の条約の名を記せ。
(2)『史記』匈奴列伝は中国北方の諸民族に関する最初のまとまった記述である。
(ア)『史記』の著者は誰か。
(イ) 長城以北の諸民族の統一を達成し、漢に対峙(じ)した匈奴の君主は誰か。
(3) 秦の始皇帝は戦国時代の中国北辺の長城に基づき万里の長城を築いた。燕の隣国で中国北辺に長城を築いた国の名を記せ。
(4) 高祖はおおむね秦王政(のちの始皇帝)即位時の秦の旧領を直轄領とし、秦以外の六国の旧領に諸侯王を封建した。このような制度は何と呼ばれるか。
(5) このときの魏の遠征軍司令官の孫で西晋を建国した人物は誰か。
(6) 北魏は龍城に営州という州を設け、マンチュリア諸民族との通交の窓口とした。のち営州出身とされる人物が8世紀半ばに起こした大乱は何と呼ばれるか。
(7) 北魏はほどなく北涼を滅ぼして北中国統一を達成した。
(ア) このときの北魏の皇帝は誰か。
(イ) このときの北魏の都の名を記せ。

 人はしばしば特定の場所や地域を神聖視する。そのことが歴史の展開に及ぼした作用、現代の事象に与える影響は無視できない。
 ヒジャーズ地方のイスラームの両聖都は、その保護者にムスリム君主としての威信を付与した。オスマン朝は、[ f ]の治世に両聖都の保護権を入手
した。このことは以後の同朝の君主たちが(8)イスラームの守護者として振舞う上での重要な根拠となった。
 世界中のムスリムが巡礼の義務の遂行や預言者の墓廟への参詣のために両聖都を目指したことは、各地の経済にとって重要な意味を持った。1324年に巡
礼を行った(9)マンサ=ムーサは、その道中に(10)カイロで大量の(11)を気前よく分け与え、当地の金価格を大暴落させたと伝えられる。これは突出した事例だが、ムスリム巡礼者たちの往来が各地に様々な経済効果をもたらしたことは疑いない。
 巡礼の義務は、政争や戦争で敗北が近づいた有力者たちの亡命の口実とされることがあった。彼らの「巡礼」も、それで無用な戦闘・破壊・混乱の継続が回避されたという意味で、経済的意義があったと言えるかもしれない。国共内戦末期、青海の軍閥のムスリム将領、馬歩芳は、蔣介石から惨敗必至の抗戦を命じられたため「巡礼」に発ち、そのまま中国に帰らずカイロに住み、のちアラビア半島の(12)ジェッダに移って同地で没した。
 両聖都へ向かうムスリムの動きは、新たな知の創出にも寄与した。両聖都のうち、北に位置する[ g ]は、17世紀、遠近のムスリム学者が集う、重要なイスラームの学術センターとなっていた。中でも、クーラーニーという(13)クルド系の人物が学者ネットワークのハブ的な存在として活躍した。彼の弟子筋に当たる人々は、世界各地におけるイスラーム思想の発展や政治・社会の動向に多大な影響を与えた。
 クーラーニーの学統に連なるイブン=アブドウル=ワッハーブは、サウード家をイデオロギー面で支え、その台頭を助けた。(14)この際のサウード家の建国運
は結局頓挫したが、のちに同家は、両聖都を支配する王国を建設した。アメリカが(15)この王国の防衛も目的として、その領内に軍隊を駐留させたことは、一部のムスリムから聖地の冒瀆(とく)とみなされ、2001年の同時多発テロ事件の一因になった。聖地は、ときに紛争の種にもなる。
 ムスリムの聖地は、(16)三大聖都以外にも数多くある。例えば(17)セイロン島のアダムズピークには、預言者アダムの足跡があるとされ、ムスリムの参詣地となっている。なお、この足跡を、仏教徒はブッダのそれ、ヒンドゥー教徒は(18)シヴァのそれとみなしている。
 (19)タリム盆地ムスリムたちはそこにイスラームを伝道したと信じられている者たちの墓を、盛んに崇敬し、参詣してきた。その参詣活動は、(20)タリム盆地のトルコ系ムスリム定住民の一体感を育んだとも言われる。


(8) マレー半島と向かい合ってマラッカ海峡を形成する南側の島の北部に、15世紀末に成立したムスリム国家は、19世紀にオスマン朝を宗主と侍んで軍
事支援を求めた。このムスリム国家の名称を記せ。
(9) この王が統治した国の名称を記せ。
(10) 当時この都市を支配していた王朝は、軍人に俸給として一定の土地の徴税権を与える制度を採用していた。この制度の名称を記せ。
(11) 10世紀、建国当初、サハラ砂漠を縦断する塩金交易路の北側の入口をおさえて隆盛し、最盛期にはヒジャーズ地方まで勢力を及ぼした王朝の名称を
記せ。
(12) 彼のジェッダ移住は、エジプトと中華人民共和国がバンドン会議(アジア=アフリカ会議)での外交接触の翌年、国交を樹立したことが契機となっ
たと言われる。当時のエジプトの指導者で、バンドン会議に参加して翌年に大統領に就任した人物は誰か。
(13) サファヴィー朝のタブリーズ再征服(1603年)に始まる戦争を避けて、多くのクルド系の学者たちがシリアなどに移住した。この戦争でサファヴィー朝の旧領を奪還した君主の名前を記せ。
(14) このサウード家の建国運動を挫折させた人物を始祖とする王朝の名称を記せ。
(15) この措置は、ある中東の国家元首が1990年に起こした軍事行動に対するものであった。この国家元首の名前を記せ。
(16) のちにイスラームの聖都となる地で、バビロン捕囚から解放されたヘブライ人が神殿を再興した。バビロンを征服してヘブライ人を捕囚から解放した
王の名前を記せ。
(17) 17世紀半ば、ポルトガルにかわって、この島の一部を支配するようになったヨーロッパの国はどこか。
(18) 南インドのある王朝では、11世紀初めに即位した王が、新都に壮大なシヴァ寺院を築いたり、セイロン島やシュリーヴィジャヤ王国に出兵して海上
交易覇権の掌握を目指したりした。この王朝の名称を記せ。
(19) 19世紀後半の一時期、この地域一帯に独立政権を樹立した、コーカンド=ハン国出身の人物は誰か。
(20) タリム盆地の西部では、10世紀末にサーマーン朝を滅ぼしたある王朝の治下で、住民のイスラーム改宗が進んだ。この王朝の名称を記せ。

第3問
 キリスト教世界がローマ=カトリック教会とギリシア正教会とに分裂していく過程について、8世紀に力点をおいて、教皇領の形成と関連づけながら、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問
 次の文章(A、B)を読み、下線部(1)〜(25)について後の問に答えよ。また、Bについては[  ]中に当てはまる最も適切な語句を答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

 黒海は、地中海につながる内海である。ヨーロッパとアジアが接するところに位置するために、この海とその周辺地域は、言語的・文化的・宗教的に多様な背景をもった集団が出会い、相互に影響を与え合い、ときには激しく衝突する舞台となってきた。
 エーゲ海の北東に位置するダーダネルス海峡からマルマラ海をへてボスポラス海峡を抜けると、黒海に入る。(1)古代ギリシア人は、紀元前8世紀頃から、このルートをつうじて黒海に進出し、その沿岸の各地にポリスを築いた。(2)これらの黒海沿岸のポリスは、ギリシア人と黒海北岸に広がるステップ地帯に住む遊牧民との交易の拠点となった。紀元前1世紀になると、黒海南岸の一帯は、ローマの支配下に組み込まれた。(3)紀元後8年には当時のローマを代表する叙情詩人であったオウイディウスが黒海沿岸に追放されている。4世紀前半になると、(4)コンスタンティヌス帝は、ボスポラス海峡の西岸に、新たな首都となる都市コンスタンティノープルを築いた。
 4世紀末にローマ帝国が東西に分裂すると、黒海の西岸から南岸にかけての地域は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配下におかれた。西ローマ帝国の滅亡後も(5)ビザンツ帝国の勢力は衰えず、6世紀には地中悔を取り囲む地域に支配を広げるにいたった。他方、11世紀末に、西方のキリスト教諸国は、ムスリムの支配下に入ったイェルサレムを奪回するために十字軍をおこした。しかし(6)13世紀になると、十字軍は当初の目的から離れて、コンスタンティノープルを占領・略奪した。14世紀からはオスマン帝国がアナトリアから西方に向かって勢力を拡大し、バルカン半島に進出した。(7)1402年、オスマン帝国は、東方からアナトリアに進出した勢力に大敗したが、その後国力を回復し、1453年にはコンスタンティノープルを占領してビザンツ帝国を滅ぼした。
 この頃、黒海北岸のクリミア半島にはクリム=ハン国が成立しており、1475年以降はオスマン帝国の宗主権のもとにおかれた。他方で、(8)バルト海南岸から東南方に勢力を拡大したリトアニア大公国は、1386年にポーランド王国と同君連合を結んだ。ローマ=カトリックの君主が支配するポーランド=リトアニア国家は、黒海北方のステップ地帯で、オスマン帝国を後ろ盾とするクリム=ハン国とたびたび衝突することになった。「ウクライナ」と呼ばれたこのステップ地帯に、15世紀から16世紀にかけて、領主の抑圧を嫌う農民たちが逃げ込み、コサックと呼ばれる集団を形成するようになる。17世紀半ば、ウクライナのコサックは、この地域を支配するポーランドに対して反乱を起こした。1654年、ウクライナ=コサックは(9)モスクワ大公国(ロシア)と協定を結んでその宗主権のもとに入るが、1667年にはロシアとポーランドが協定を結び、ウクライナは、おおむねドニプロ川(ドニエプル川)の東西で分割されることになった。
 18世紀前半、(10)ピョートル1世のもとでロシアは北方戦争に勝利し、バルト海の覇権を握ってヨーロッパの強国の一翼を担うようになる。ピョートル1世は黒海への進出も意図し、アゾフ海の制海権をめぐってオスマン帝国と戦った。18世紀後半になると、ロシアはさらに積極的に黒海北方への進出政策を
展開した。1782年、エカチェリーナ2世はウクライナ=コサックが支配していた領域を直轄領とし、(11)翌83年にはクリム=ハン国を併合してクリミア半島を支配下においた。さらに(12)ポーランド=リトアニアの分割に加わってその領上を併合することによって、ウクライナ中西部を支配下に組み込んだ。こうして黒海の北方に勢力を広げたロシアは、19世紀をつうじて、(13)黒海の覇権と地中海への自由通航権などをめぐって、オスマン帝国や西欧の列強と戦争を繰り返すことになる。


(1) このようにギリシア人が本国から離れて建設したポリスを何と呼ぶか。その名称を記せ。
(2) 紀元前5世紀に、小アジア出身のギリシア人歴史家が、ペルシア戦争を題とする歴史書のなかで、これらの黒海北岸の諸民族についても記述している。この歴史家の名を記せ。
(3) この詩人の追放は、当時のローマを支配する最高権力者の命令によるものであった。この支配者の名を記せ。
(4) この皇帝が発布した命令によって、キリスト教はローマ帝国に公認された。この命令の名称を記せ。
(5) (ア)首都コンスタンティノープルで、6世紀に、当時の皇帝の指導のもとに、ビザンツ様式を代表する大聖堂が再建されている。この大聖堂の名称を記せ。
 (イ)7世紀以降、ビザンツ帝国は異民族の侵入に対処するため、帝国の領域を区分して司令官に軍事と行政の権限を付与した。この制度の名称を記せ。
(6) このときの十字軍がコンスタンティノープルを占領して建てた国家の名称を記せ。
(7) このときの会戦でオスマン帝国に勝利した国家の指導者の名を記せ。
(8) このときに成立した王朝の名を記せ。
(9) このときのロシアの王朝の名を記せ。
(10) この戦争で敗れてバルト海の覇権を失った国の名を記せ。
(11) ロシアはクリミア半島の南端に黒海艦隊の拠点を築いた。この軍事的な要地の名を記せ。
(12) ロシアは、第2次ポーランド分割によってウクライナ中西部を併合した。このときロシアとともにポーランドの分割に加わった国の名を記せ。
(13) (ア)1878年、ロシアはオスマン帝国とのあいだに自国に有利な講和条約を結んだ。この条約の名称を記せ。
(イ)(ア)の条約におけるロシアの南下政策の成功にイギリスとオーストリアが反発し、ベルリンで開かれた国際会議によってロシアの企図は阻止さ
れた。この国際会議で調停役を務めた政治家の名前を記せ。

 人類の言語は分化と混交を繰り返している。地域や民族を超えた意思疎通の必要性から、人々は共通語を設定し、時にそれを他者に強要してきた。ヨー
ロッパにおける共通語のあり方は世界の言語状況にも影響を与えた。
 西欧ではローマ帝国で用いられていたラテン語の権威が強固だった。ラテン語が帝国の主要言語だったことに加え、教会でも(14)ラテン語訳の聖書が正典化され、典礼もラテン語でおこなわれるようになったことが大きい。しかし俗語(非ラテン語)による行政文書の作成や文芸活動は宗教改革前から進んでおり、活版印刷の普及や(15)新約聖書の俗語訳などがラテン語の地位低下を加速させた。(16)1492年には初の近代ヨーロッパ言語の文法書とされる『カスティーリャ語文法』が出版された。17世紀頃から大学の講義も徐々に俗語化されている。
 ラテン語は今も多くの国で教養として学ばれており、(17)さまざまな学問分野でラテン語の造語規則に従って新語が作られている。多言語状況の中で中立的とみなされたラテン語を用いる慣行は近代以降にも散見される。例えば、4つの公用語があるスイス連邦は、19世紀後半にラテン語の(18)「コンフェデラティオ=ヘルヴェテイカ(ヘルヴェティア連邦)」を正式国名の一つとした。また、(19)ヴァチカン市国では現在もラテン語が公用語である。しかし、ローマ=カトリック教会も1960年代に典礼の非ラテン語化を容認しており、日常的なラテン語使
用の機会は減っている。
 一方、ローマ帝国の東部地域ではギリシア語が広く用いられていたが、新約聖書はシリア語などにも翻訳されていた。トルコ系遊牧民がバルカン半島に侵
入して[ a ]を建国すると、先住民族であるスラヴ人との混血が進み、9世紀後半のキリスト教受容後に聖書や典礼のスラヴ語化が進められた。教会ス
ラヴ語はキリスト教とともに他のスラヴ系諸民族にも浸透した。加えて東欧ではドイツ語も広められたが、ギリシア語も教会スラヴ語もドイツ語も、西欧に
おけるラテン語ほどの地位を獲得することはなかった。
 17世紀には、フランスの国力を背景に、さまざまな分野でフランス語が広く使われるようになった。1635年には(20)フランス語の整備を主目的とする組織が設立された。(21)18世紀にフランス語はヨーロッパの共通語の地位を獲得した。神聖ローマ帝国の一部やロシアやオランダなどの上流階級はフランス語を常用した。しかし19世紀にはフランス語の地位も徐々に低下した。例えば1856年のパリ条約はフランス語を正文としたが、(22)1919年のヴェルサイユ条約の正文は英語とフランス語である。
  一方で16世紀以来、ヨーロッパの諸言語は植民地化を通じて話者を増加させた。この増加はときに暴力的に成し遂げられたが、(23)脱植民地化以降も、ヨーロッパの言語が非ヨーロッパ地域で使われつづけている例は多い。20世紀後半には旧植民地諸国での話者の多さや、アメリカ合衆国の超大国化などを要因として、英語が次第に優位になっていった。
  他方、既存の特定の言語ではなく人工言語を共通語にする試みもあった。ラテン語が衰退しつつあった17世紀後半には多くの人工言語が構想された。例えば、単子論を提唱し積分記号や二進法でも有名な[ b ]は漢字を参考にしつつ、概念的に整理された普遍記号を構想した。フランス語の権威が揺らぎつつあった19世紀後半にも第二の人工言語ブームがあった。特に、(24)ロシア帝国領生まれのユダヤ系ポーランド人であるザメンホフによるエスペラント語の普及活動は一定の広がりを見せた。しかし(25)国際連盟の作業言語にエスペラント語を採用する試みはフランスの反対によって実現されず、ソ連邦でもエスペラント語の普及活動は弾圧された。
 [ b ]の普遍記号構想の一部は電子計算機に受け継がれたといえる。現代では機械翻訳による言語習得の負担減も試みられつつあるが、複雑な情報の正確な伝達のツールとしてはまだまだ課題も多い。


(14) 典礼のラテン語化と前後して正統教義も確立された。三位一体説について簡潔に説明せよ。
(15) 神聖ローマ帝国のベーメン(ボヘミア)では、ルターに先駆けて聖書の俗語訳や教会改革運動がおこなわれていた。
 (ア) 改革を提唱し火刑となった人物の名を記せ。
 (イ) コンスタンツ公会議でこの人物とともに異端宣告を受けたイングランドの神学者の名を記せ。
(16) このときのカスティーリャ王国の女王は誰か。
(17) 18世紀に動植物の学名の命名法を確立したスウェーデン人学者の名を記せ。
(18) 1798年から数年間、ヘルヴェティア共和国という国家が存在していた。スイスに侵攻し、この国家を建てさせた国の名を記せ。
(19) イタリア王国と教皇庁は長らく対立状態にあった。最終的にヴァチカン市国の独立を認めた時のイタリアの首相の名を記せ。
(20) この組織の名を記せ。
(21) この時期の代表的なフランスの啓蒙思想家で『哲学書簡』(『イギリス便り』)などを著した人物の名を記せ。
(22) この条約で非武装化された地域の名を記せ。
(23) アフリカの植民地が多数独立し「アフリカの年」と呼ばれたのは何年か。
(24) ザメンホフは1870年代後半ごろから人工言語を構想していたとされるが、その後ロシアにおけるユダヤ人の状況は急激に悪化した。ある皇帝の暗
殺が大規模な反ユダヤ暴動の引き金となった。その皇帝の名を記せ。
(25) ある国はこの組織に参加しなかったが、1920年代には国際平和を求める活動を主導するようになった。1928年の不戦条約に、この国の代表として
署名した人物の名を記せ。
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コメントは後日

東大世界史2024

第1問
 次の文章は、1964年3月に国際連合の事務総長ウ・タントが、ある会議でおこなった演説の一部である。これを読んで下記の2つの設問に答えよ。解答は、解答欄(イ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)(2)の番号を付して記せ。

 世界では二つの変化が並行して進みつつあり、戦争いらい、重要性を増してきました。一つはおもに政治的な、もう一つはおもに経済的な変化です。(中略)
 戦後には、植民地および半植民地とされていた諸民族の政治的解放が、すみやかに進みました。第二次世界大戦後、アジアの諸民族の大半は独立した存在として世界の舞台に登場してきました。1960年代になると、アフリカの台頭がみられました。より最近では、ラテンアメリカ諸国のなかで、重要な変化にはずみがついているようです。(中略)
 すでに言及した政治動向は世界の広範な部分でみられるでしょう。国際連合では発展途上地域と普通よばれているところです。しかし、これらの地域は実際には発展していないか、あるいは十分な速さでは発展していません。程度はさまざまですが、深刻かつ持続的な低開発の状態に苦しんでいます。これらの地域は、工業化された社会に比べて、ますます遅れをとっています。それだけでなく、とくに人口増加を考慮に入れれば、生活水準が絶対的に悪化している場合もあります。ここから現代のジレンマをみてとることができます。政治的な解放が得られてもそれにともなって、期待どおりの経済的な進歩が生じるわけではないのです。

問(1) 演説で述べられているように、諸民族の政治的解放が進んだが、独立を得る過程では戦乱が起こっただけでなく、独立した国どうしが対立を深めるなど、道のりが容易ではない場合も多かった。1960年代のアジアとアフリカにおける、このような戦乱や対立について、12行(1行30字─中谷の注)以内で記述せよ。その際、以下の4つの語句を必ず一度は用い、その語句に下線を付すこと。

 アルジェリア コンゴ パキスタン 南ベトナム解放民族戦線

問(2) 演説で述べられている経済的な問題は、どのような歴史的背景をもち、その解決のため1960年代に国際連合はいかなる取り組みをおこなったのかについて、5行以内で記述せよ。

第2問
 ある書物が、なぜ、どのように、書かれ、読まれ、伝えられてきたのかを問うこと、あるいはそれが葬り去られたり忘れ去られたりした理由を考えることは、歴史をみる一つの有効な視点となりうる。このことに関連する以下の3つの設問に答えよ。解答は、解答欄(口)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して記せ。

問(1) キリスト教の正典の一つである『新約聖書』は、1世紀末から4世紀末にかけての時期に次第に現在の形になったとされる。このことに関連する以下の(a)・(b)・(c)の問いに、冒頭に(a)・(b)・(c)を付して答えよ。

(a) 1世紀から4世紀末にかけてのローマ帝国におけるキリスト教と政治権力との関係の推移について、4行以内で説明せよ。
(b) 325年、キリスト教の教義形成にとって重要な会議が開催された。この会議について、その名称に触れながら3行以内で説明せよ。
(c) 『新約聖書』などの正典のほかにも、キリスト教の歴史において重要な意味をもった書物は多く挙げられる。そこにはキリスト教成立以前の書物も含まれる。その著作やそれへの注釈が翻訳されることを通じて中世のスコラ学者たちに多大な影響を与えた、「万学の祖」とも呼ばれる古代ギリシアの哲学者の名前を記せ。

問(2) 史上初のトルコ語・アラビア語辞書とされるカシュガリー著『トルコ諸語集成』は、1077年頃にバグダードで書かれた。この本は20世紀前半に①イスタンブルで初めて刊行されたが、その際に使われた写本は、②セリム1世の治世以降に彼の征服地からもたらされたものと考えられている。このことに関する以下の(a)・(b)・(c)の問いに、冒頭に(a)・(b)・(c)を付して答えよ。

(a) 『トルコ諸語集成』の著者序文には、トルコ人が広く権力を握る執筆当時の様子が記されている。その頃の西アジアー帯はあるトルコ系王朝の支配下にあったが、その王朝の初代スルタンの名前を記せ。

(b) 下線部①に関連して、13世紀初めにこの地に建てられた国家の成立の経緯を、国家の名称を挙げながら2行以内で記せ。

(c) 下線部②に関連して、セリム1世治下のオスマン帝国による対外戦争の成果について、2行以内で記せ。

問(3) 17世紀半ばに中国の支配王朝となった清は、従来の制度や慣習を認めつつ、満洲人による支配の徹底をはかった。このことに関する以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えよ。

(a) 書物に関して、清はどのような政策を展開したか。書物や編纂物の名称を挙げながら、3行以内で説明せよ。

(b) 清の支配のもとでは、儒学の経典や歴史書を厳密に校訂・検討する学問が発展した。この学問の名称と、清初にこの学問の基礎をつくった学者のうち、1名の名前を記せ。

第3問
 人類の歴史において、軍事的征服や領土の拡大が新しい統治の形態を生み出したり、支配された人々の抵抗運動が当該地域における政治意識を形成したりする現象は、時代や地域を問わず、みることができる。征服と支配、それに対する抵抗など
に関する以下の設問(1)〜(10)に答えよ。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(10)の番号を付して記せ。

問(1) ローマは第1回ポエニ戦争でカルタゴに勝利し、シチリアを獲得した。ローマはこれ以後も征服戦争を進め、地中海周辺地域を中心に多くの地域を支配下においていった。こうしたローマによるイタリア半島以外の支配地は何と呼ばれているかを記せ。

問(2) 衛氏朝鮮を滅ぼした前漢の武帝は、その領域一帯に4つの郡を設置した。このうち現在の平壌付近を中心とする地域に設けられた楽浪郡は、中国から派遣された官僚により統治され、400年あまり存続した。4世紀初めに楽浪郡を滅ぼした国の名称を記せ。

問(3) 13世紀初めにハン位についたチンギス=ハンは、モンゴル系・トルコ系の諸部族を統合するとともに周辺の諸地域も次々に征服した。その後もモンゴル帝国の膨張は続いたが、広大な帝国内の交通を円滑にするために整備された駅伝制の名称を記せ。

問(4) モスクワ大公として東北ロシアを統一し、「タタールのくびき」と呼ばれたキプチャク=ハン国によるロシア支配を15世紀後半に終わらせた人物の名前を記せ。

問(5) 18世紀のアラビア半島においで[   ]派はイスラーム教の教えの厳格な解釈を目指す改革運動をおこない、サウード家と協力してイスラーム法に基づく国家建設を主導した。文中の空欄に入る適切な語を記せ。

問(6) イギリスの植民地となったインドでは西洋的教養を身につけたインド知識人による社会変革の運動が起こった。そのなかには、妻が夫の遺体とともに焼かれて死ぬという慣習の禁止を求める運動もあった。この寡婦殉死の慣習の名称を記せ。

問(7) 19世紀後半、ベトナムでは、フランスが軍事的進出を企て、支配を強めていった。この動きに対して、黒旗軍を組織して抵抗運動をおこなった人物の名前を記せ。

問(8) ヨーロッパ列強がアフリカでの領土獲得競争に本格的に乗り出すなかで、1898年、アフリカを横断して領土拡大をめざしていた国(a)と縦断政策を進めていた国(b)との間で軍事衝突の危機が発生した。この2国の名称を、冒頭に(a)・(b)を付して記せ。

問(9) ディアス大統領による長期にわたる独裁体制がしかれていたメキシコでは、1910年、自由主義者マデロの呼びかけによりメキシコ革命が起こり、ディアス政権は打倒された。この時、北部出身の指導者ビリャとともに農地改革の推進をめざした農民運動指導者の名前を記せ。

問(10) 20世紀後半、非西洋に対する西洋のまなざしを批判的に検討する動きが活発化する。このような潮流のなかで、ポスト=コロニアル研究の代表作の一つである『オリエンタリズム』(1978年)を著し、東洋に対する西洋の見方を批判的に論じた人物もいる。その人物の名前を記せ。

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コメント

第1問
 導入文の「国際連合の事務総長ウ・タント」という変わった発音の名前が登場して、1960年代の世界を概観した文章から始まりました。この人物ウ・タントはミャンマー(ビルマ)出身の抗日運動家でしたが、戦後首相であるヌーの秘書を務め、その後国連事務(1961〜71年)に選ばれました。
 かれの演説では、世界では二つの変化が並行して進みつつあり、政治的な変化は、植民地および半植民地とされていた諸民族の政治的解放であり、経済的な変化は、発展していないか、あるいは十分な速さでは発展していない、「発展途上地域」と呼ばれている国々がある。深刻かつ持続的な低開発の状態、工業化できず、人口増加があり、生活水準の悪化が見られる、と説明しています。
 
問(1) 独立を得る過程では戦乱が起こっただけでなく、独立した国どうしが対立を深めるなど、このような戦乱や対立について、(指定語句→アルジェリア コンゴ パキスタン 南ベトナム解放民族戦線)でした。つまり独立したものの、それは戦乱を通して、かつ独立国同士の対立も生んだ、という、独立してもすんなり平和な関係ができない状況です。
 
問(1)の構想メモとして、まず1960年代(1961〜1970年)におきた出来事を想起しなくてはなりません。指定語句(以下「指」と略字)がヒントてはありますが、課題に応じるには足らないので、補充しなくてはなりません。やってみましょう。
 
1960 「指」コンゴ動乱・「指」南ヴェトナム解放民族戦線(『世界史年代ワンフレーズnew』(以下『ワン)』と略称、の語呂→今後、南ヴェトナム1960)
1962 「指」アルジェリア独立(主人=あるじ[アルジェリア]独立、19、62())
1964 PLO設立(パレスチナ1964)
   UNCTAD(国連貿易開発会議)(あん食たど1964)
1965 第二次印パ(インド・「指」パキスタン)戦争
  北爆(『ワン』北爆1965)
  シンガポール独立(『ワン』シンガポール、1965れから)
 67 第三次中東戦争(『ワン』67しき3次)
  EC(欧州共同体)(『ワン』67しきは医師EC)
 68 アラブ石油輸出機構、ASEAN(東南アジア諸国連合)(『ワン』汗あー[ひ]1967)
 
 これらから言える1960年代の世界は、①冷戦の激化の頂点としてのベトナム戦争の泥沼化、②核開発による冷戦激化(仏中)、とくに毛沢東・中国の台頭、③中東戦争・PLOは独立した国同士の抗争、などです。新教科書の「歴史探究・世界史」では、「1960年代」という表現をよく使っています。そこに示されている、この問題と関連する記事は「冷戦体制の動揺」という題で、何よりベトナム戦争をとりあげ、かつベトナムのカンボジア(ポルポト政権)への軍事介入(70年代からなので答えにできない)、ラオス内戦(1960年代前半から)を挙げています。ベトナム側がパテト・ラオ軍と組んでラオス北部に侵入したのが1970年なので、書いてもいいです。
 東南アジア
 ベトナム戦争と関連した周辺国との戦争がありました。ラオスはベトナム戦争に巻き込まれ、北ベトナム(ベトナム民主共和国)による南ベトナム解放民族戦線への補給路(いわゆるホーチミン・ルート)に使われました。1970年に北ベトナム軍とパテト・ラオ軍がソ連製戦車を先頭に立てラオスの要地ジャール平原を制圧しています。
 また「マレー半島では、1963年にマラヤ連邦がシンガポールなどと合体してマレーシアとなったが、マレー系住民と中国系住民の対立がやまず、65年に中国系住民を中心としてシンガポールが分離した(詳説世界史)」とも書いていて、ここにも独立後の対立が挙げてあります。シンガポールのマレーシアからの独立を書いた答案は予備校では皆無でした。
 マレーシアとフィリピン間では北ボルネオの東部(サバ、スールー王国の一部)に対するフィリピン側からの要求をめぐる紛争(1963〜1964年)がおきていました。
 南アジア
 中印国境紛争 1959〜62年にダライ=ラマのインド亡命以降、国境地帯での緊張が高まり、62年には中印で大規模な戦闘がおきます。中国が圧倒的に優勢の中で停戦しました。
 西アジア
 この60年代にかかわる出来事として、今進行中の紛争・戦争でもあるガザ地区がイスラエルの侵攻を受けています。東大のホームページにも、このガザについて「ガザ危機と中東の激動」と題して記事を載せています(掲載日:2024年2月9日→https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/features/z0405_00026.html)。これは昨年10月7日のハマスの攻撃から書きはじめ「1967年の第3次中東戦争ではヨルダン領のヨルダン川西岸地区とエジプト領のガザ地区がイスラエルに占領され、以降、この両地区に住むパレスチナ人はイスラエルの占領下で暮らすことになりました」と書いています。この第3次でガザ地区住民は陸海空の境界のすべてを管理されることになりました。    
 1948年から始まった占領者イスラエルは、この地域の豊かな自然・資源を収奪し、西岸には入植地を拡大して、今はパレスチナ人の住む土地はどこにもないような青色一色の旗をかかげて、(

https://www.ynetnews.com/article/b1oibyxgt

パレスチナ人の抹殺を図っています。

 ユダヤ人抹殺を測ったナチスを見習っています。またパレスチナ人の殺害とブルドーザーで運び砂に埋める動画があります。→ https://www.youtube.com/watch?v=DvghyDRrzK0 
 AIをつかって皆殺しを実行している
Lavenderマシンについては以下。https://www.972mag.com/lavender-ai-israeli-army-gaza/
 イスラエルの初代首相ベン・グリオンの言葉「我々(ユダヤ人)は彼ら(パレスチナ人)の国を奪った……しかし、それは彼ら(パレスチナ人)の過ちによるものでしょうか? 我々はここへ来て、彼ら(パレスチナ人)の国を盗んだ。なぜそれを受け入れるべきなのでしょう?」(ウィキペディア)とまで言っていました。現在のイスラエルの指導者はこの初代首相のような謙虚さ(?)はありません。
 予備校の答案では、第3次中東戦争に言及した答案は一つ(代ゼミ)しかありませんでした。ましてガザへの言及は皆無でした。
 アフリカ
 1960年の「アフリカの年」以降も独立は次々とつづき、70年までに30カ国が独立しています。
 指定語句のアルジェリアで、ひどい流血の独立戦争が終わり、エヴィアン協定でド=ゴールは独立を承認します。フランスはアルジェリアを植民地化する際に住民の殺戮(ジェノサイド)を行ないましたが、最後までこれを繰り返しました。
 このアルジェリアの南では、ビアフラ戦争がありました。1963年にナイジェリアが独立する同時に内戦に入り、東南部のビアフラ軍が共和国を宣言して独立。1967年からナイジェリア政府軍に糧道を絶たれてビアフラは飢餓状態に陥り、70年までに200万人が餓死したと見られています。

 また東部の角では、エチオピアとソマリアの国境紛争があり、1964年アフリ力統一機構が即時停戦呼びかけをしています。
 コンゴはベルギー領でしたが、60年の独立とともに内乱に発展します。東南部のカタンガ州はウラン・コバルト・銅など重要鉱物資源の宝庫です。広島・長崎の原爆原料はこのコンゴのウランでした。この分離独立闘争をベルギー・アメリカが支援しました。
 
 あれもこれもは想起して書けませんが、想起できる範囲で書いてみてください。
 
 全体構図としては、アジアは……、アフリカは……、もっと細かくは上で挙げたような東南アジア、南アジア、……と地域の分割して、順に書いていくのが妥当かとおもいます。アフリカを先にして、アジアは後でもいいですね。
 
問(2) 演説で述べられている経済的な問題は、どのような歴史的背景をもち、その解決のため1960年代に国際連合はいかなる取り組みをおこなったのかについて
 ……ここで問うている不発展・低開発の経済的状況は指定語句からは何も判りません。
 上に挙げた事件史で関連するのは、UNCTAD(国連貿易開発会議)と、アラブ石油輸出機構、ASEANです。
 歴史探究の教科書では「アフリカ諸国をはじめとする新興独立国では、従来、植民地宗主国の利益にそって、輸出向けに限定された種類の農作物栽培や原料生産にかたよった開発がなされてきた(モノカルチャー経済)。そのため経済基盤が弱く、また、交通網や電気・水道などの社会的インフラストラクチャー(基本的生活基盤)、教育・医療などの社会制度もほとんど整備されていなかった。さらに、圧倒的多数の現地住民は、行政運営や政治に参加する機会も奪われてきた。これらを背景に、独立後の政治・経済は不安定で、部族相互の対立による内戦やクーデタが繰り返され、軍事独裁政権がしばしば登場した。豊かな先進国と、アジア・アフリカの開発途上国との経済格差は、南北問題と呼ばれるようになった。(引用終了)」と歴史的背景を述べています。
  対策として「1964年には、77カ国の開発途上国が国連貿易開発会議
(UNCTAD)を結成し、南北の経済格差の是正をめざしたが、十分な成果はあがらなかった」と悲しい結論にしています。
 この教科書で書くべき内容は尽きています。
 追記すると、UNCTADが「不平等及び脆弱性から全ての人の繁栄へ」のための会議ですが、その前に国連は需要な決議を出しています。1960年12月14日、「植民地と人民に独立を付与する宣言(Declarationon the Granting of Independence to Colonial Countries and Peoples)」を採択した(決議1514(XV))です。この宣言は、「外国による人民の征服、支配および搾取は基本的人権を否認するもので、国連憲章に違反し、世界平和と協力の促進にとっての障害である」と述べています。植民地の完全な否定です。植民地というものがどういうものであるか、「支配および搾取は基本的人権を否認するもの」と定義しています。これは独立したら、それで「おしまい」ということではなく植民地化した宗主(支配)国にたいして植民地支配責任についても問うているのです。日本による東アジア・東南アジアの植民地支配責任も問うています。イスラエルのパレスチナ支配も植民地支配です。もともとイスラエルも日本もヨソ者でしたから。
 旧植民地だった国々は、資源はあっても旧宗主国が経営権をにぎっているため自営できないため、イランが石油を国有化したり、インドネシアも全外国石油企業を政府の管理下に置くと発表したりしています(1965年)。
 
第2問
問(1) 
(a) 課題は「1世紀から4世紀末にかけてのローマ帝国におけるキリスト教と政治権力との関係の推移について、4行(120字)以内で説明せよ」でした。
 国家と宗教の関係はどんな時代でも重要な歴史的テーマです。過去問1986年第3問、2013年第2問でも問われました。
 「1世紀から4世紀末」キリスト教という問題は拙著『世界史論述練習帳new』に問7の「紀元1世紀後半から4世紀末に至るまでのローマ帝国におけるキリスト教の発展について、200字以内で説明せよ。説明に当たっては、下記の2つの語句を適切な箇所で、必ず一度は用い、用いた箇所には下線を施せ。(指定語句→ディオクレティアヌス三位一体)」という類題がありました。この問題自体は京大1996年の問題でした。
 1世紀のネロ帝から4世紀のテオドシウス帝による国教化まで、という易問です。ポイントは2〜3世紀をど書くか、という点です。
 この2世紀間の迫害は厳しいものではなく、この間に下層市民や奴隷から上層市民へ普及していきました。また新約聖書が200年頃にできあがります。
3世紀「軍人皇帝」は不安定であり、そのためかえって皇帝崇拝を強制し、迫害は激化します。信徒はカタコンベ(地下墓所集会所)で秘密の集会を聞き、聖職制度(ヒエラルヒー)をつくりあげていきました。
 
(b) 「325年、キリスト教の教義形成にとって重要な会議が開催された。この会議について、その名称に触れながら」……「325年」ですぐ想起できなくてはらないのはニケーア公会議です(『ワン』逃げや光32子5)。「教義形成」とは「神の子=神」か人間にすぎないのか、という神人の判定です。前者の神、人にして神、というアタナシウス派の主張が承認されました。(三位一体説ともいうのは、父なる神・子なる神・聖霊なる神の三神が一体である、という教義です。議長であったコンスタンティヌス帝がこれを正統説として公表します。皇帝が教義の問題に関わるのは皇帝教皇主義のスタートにもなりました。
 
(c) 課題は「キリスト教成立以前の書物も含まれる。その著作やそれへの注釈が翻訳されることを通じて中世のスコラ学者たちに多大な影響を与えた、「万学の祖」とも呼ばれる古代ギリシアの哲学者の名前を記せ」で、スコラ学に影響したギリシアの「万学の祖」なので、アリストテレスしかありません。アリストテレスには哲学以外に政治学・詩学(演劇)・生物学・倫理学・論理学と数えられ、アリストテレスを学ぶことは万学を学ぶことに等しい、といわれます。逆にいえば、キリスト教には宗教教義と歴史はあっても他がなかったためでした。
 
問(2) 
(a) 課題は「その頃(1077年頃)の西アジアー帯はあるトルコ系王朝の支配下にあったが、その王朝の初代スルタンの名前を」でトゥグリル=ベク。
 
(b) 課題は「下線部①(イスタンブル)に関連して、13世紀初めにこの地に建てられた国家の成立の経緯を、国家の名称を挙げながら2行(60字)以内で」でした。第四回十字軍の建てた国・ラテン帝国です(『ワン』ラテン? ワン1 ツー2、お0尻4ふる)。
 
(c) 課題は「セリム1世治下のオスマン帝国による対外戦争の成果について」でした。要するに16世紀初めの戦争の成果です。オスマン帝国を西アジアの大国にしました。それまで小アジアとメソポタミアの支配をしていたのを南部に拡大したスルタンです。シリア全土・エジプト・アラビア半島の沿岸(メッカ・メディナ)を領域にしました。半島内の砂漠地帯をなぜ征服しなかったのか、という疑問もありますが、ここにはアラブ遊牧民が住んでいて、この地域を征服して支配する軍事的・政治的・宗教的な意味はなかったからでしょう。
 
問(3) 
(a) 課題は「書物に関して、清はどのような政策を展開したか。書物や編纂物の名称を挙げながら」でした。
 編纂事業と文字の獄という言論統制を挙げたら完結する易問です。
 
(b) 課題は「儒学の経典や歴史書を厳密に校訂・検討する学問が発展した。この学問の名称と、清初にこの学問の基礎をつくった学者のうち、1名の名前を記せ」でした。
 「厳密に校訂・検討する学問」は考証学、「基礎をつくった学者」は顧炎武か黄宗羲です(拙著『各駅停車』[このブログ内で販売]の覚え方→(考証学は顧炎武・黄宗羲の二人が先駆者→考証学は「こ・こう」から)p.51)。
 
第3問
問(6) これは2010年でも問うています。
問(10) サイード(エドワード・サイード)については『詳説世界史』に「先住民文化の影響をうけた……こうした傾向は、第二次世界大戦後のアジアやアフリカ諸国の独立によっていっそう強まり、1960年代末頃からはサイードらによる西洋思想の批判など、第三世界に対する西洋側の偏見を批判するポスト=コロニアル研究が注目されるようになっていった(p.414)」と書いています。
 用語集(2013年)でもサイードという項目をもうけ「Said 1935~2003 パレスチナ生まれのアメリカ人文学研究者。ヨーロッパのオリエントに対する見方・偏見を鋭く指摘した1978年の著作『リエンタリズム』は36カ国の言語に翻訳された。そのなかでサイードは、ヨーロッパが自己と正反対のものとしてのオリエントに、後進性や停滞といったイメージを画ー的に押しつけた、とした。サイードの著作により提起された批判はポスト=コロニアル研究の起点となった」と。
 このうち「後進性や停滞といったイメージを画ー的に押しつけ」は今でもヤフーニュースで見られる対韓コメント欄でも見られます。コメントしている日本人は現代の日本人です。
 作家・大江健三郎とサイードの交流は親密なものでした。『暴力に逆らって書く: 大江健三郎往復書簡』朝日文庫(2006年)参照。
 
第3問の解答
問(1)属州
問(2)高句麗
問(3)ジャムチ(站赤)
問(4)イヴァン3世
問(5)ワッハーブ
問(6)サティー
問(7)劉永福
問(8)(a)フランス(b)イギリス
問(9)サパタ
問(10)サイード

新作論述問題

 
 太平洋戦争と現行のウクライナ戦争の共通点と相違点を述べよ。その際、次の語句を1回は使用せよ。全部で500字以内で述べよ。
 
 満州国 石油 クリミア半島 常任理事国 NATO プロパガンダ 枢軸国  

 解答例
共通点は、ともに広大な土地をもつ隣国に侵略したこと、それは当時の第一次大戦と第二次大戦後の国際秩序を力で現状変更を迫る暴挙であること、戦争の始まる以前に一定の成功例があり、それを拡大した点でも共通している。満州国の樹立、チェチェン・クリミア半島侵攻である。侵略国が短期に征服が可能と誤算した点も似ている。また両国は、侵攻を戦争と呼ばず、内外の批判にたいしてプロパガンダを駆使して戦争を正当化した。共に連盟常任理事国、安保理常任理事国でもある。世界を2極化した点でも共通している。枢軸国と民主国、旧共産主義の権威主義国と民主国の対立である。侵略された国々は他国の援助で対抗した点も共通している。中国は国共合作だけでなく欧米の支援を受け、ウクライナ側もNATO他の支援を受けて戦ってる。共に大量の戦死者・負傷者をうみ、各国の軍拡を促した。相違点は、プーチンはソ連を再現しようとしたのに対し、日本は過去に帝国はなく帝国形成の最中であった。石油を豊富にもつロシアにたいして、日本は石油を奪いにいった。日本は世界的な大恐慌に発する危機を大陸の支配圏拡大で解決しようとしたが、ロシアに経済危機はなかった。
………………………………………
 この問題はわたしの創作問題とは言いがたいもので、前田朗・明治大学教授が今年7月にされた講演「ウクライナ戦争と太平洋戦争」がヒントになっています。共通点が多いのですが、相違点は語られなかったので、わたしが追加しました。


(わたしの解答例)に書いてないこととしては、次のようなことも言えます。

共通点………………………………
侵略にたいする国際的な非難(リットン調査団/国連決議)
侵略する国の混乱(国共内戦/親欧と日欧の対立)を利用した
傀儡政権(南京政府/東部自治政府)の樹立
核の使用と使用危機

相違点………………………………
共産勢力の勢いがあった/共産勢力は衰えている
連盟脱退した/連合を脱退していない

 指導者について言及する方もあるとおもわれます。つまりプーチンと昭和天皇のことです。たぶんプーチンという独裁者と昭和天皇は同列におけないという考えがあるとおもいます。「天皇制ファシズム」は政治学者・丸山真男の造語ですが、ここに「制」という語句が付いていて、天皇個人に責任を当てはめていない曖昧な言葉です。これは丸山を含めて、戦争中に天皇がどういう役割を果たしたかが不明であったこと、というより勝手な推測で天皇は「象徴/人形」に過ぎず、戦争指導者ではなかった、という認識をしていたためです。これはマッカーサーの進駐軍も同じで、天皇は戦争に関わらなかったと信じていました。

 しかし現在は天皇の側近たちの著作・メモ・日記が次々と発表され、どういう主張・行動をしていたかが判ってきました。天皇の側近たちの記録が次々と出版されているからです。
 ①侍従長だった百武三郎の日記『百武三郎日記』2019年から閲覧可能
 ②内大臣だった木戸幸一の日記『木戸幸一日記』1966年
 ③軍令部総長だった永野修身の『大本営政府連絡会議議事録』2000年
 ④参謀総長だった杉山元の『杉山メモ』2005年
 ⑤宮内庁長官だった田島道治の『拝謁記』2021年
 ⑥侍従次長だった木下道雄の『側近日誌』2017年
 ⑦宮内省御用掛の寺崎英成の『昭和天皇独白録』1995年

 これらはみな戦後もだいぶ経ってから出版されたもので、戦争中の日本人、戦後の多くの日本人も、まったく知らなかった内容です。天皇は軍部の方針・作戦を17回も変更させており、これらの記録では天皇が軍のトップを叱りつけている姿も出てきます。詳しくは山田朗『天皇と戦争責任』(新日本出版社)の第二部「天皇の戦争指導」に書いてあります。一日おきに陸軍と海軍の軍令部長が天皇に会い、戦争の進捗状況を報告に来ていて、天皇は戦争の全体をもっとも知っている唯一の人物でした。この会見の際に、疑問を出したり、怒鳴りつけたりして戦争の動向を操ろうとしました。御前会議でほとんど喋らなかったのはポーズにすぎず、根回ししていて結論は天皇にとって自明でした。
 ということなので、プーチンと同列に置いても、わたしなら加点します。

『世界史論述練習帳new』への質問

世界史論述練習帳 new』の別冊基本60字についての質問です。「……」の後がわたしの回答です。また、わたしのミスの指摘もしています。

A 「60字問題集」の別解がある問題とない問題はどのような違いがあるのでしょうか。……同問でも内容に幅のある問いとそうでなて問いとの違いです。

p2 問4 の別解に「騎兵の戦争から歩兵の戦争に変わり」とありますが、政治上の変化としてよいのですか。(毛沢東の言葉でしたっけ...)……騎兵ということは位が高く豊かなひとたちを意味し、歩兵は一般に貧しい農民の兵士という上下関係なので、政治的な上下とも関連してきます。これは西欧古代(ギリシア・ローマ)でも同じです。また軍事・兵制は政治の制度の一つです。問題によっては、軍事・兵制だけを切り取って出題される場合もありますが。

p7 問25 の直接民主政から間接民主政というのがよく分かりません。中国で直接民主政を主張したのがあまり現実的でない感じを受けます。……確かにそうです。しかし孫文は西欧を見学して西欧がたいてい「間接」であり、有力有産の一部のひとたちが政権を独占していると見たので、「直接」を唱えました。孫文も後では無理と分かって変えました。

p13 唐末五代に紙幣が流通とありますが、教科書は紙幣は北宋が初めてで飛銭は唐代に流通していたというようなことが書いてありました。前頁の問題8のように唐末五代宋を想定していらっしゃったのでしょうか。……そうです。飛銭が紙幣として使われ出したので、宋の交子・会子に繋がっていきました。飛銭は唐代だけ使う用語ではなく「銭送銭手形制度(為替業)をさす唐宋時代の用語。便換・便銭ともいう」と京大東洋史辞典では説明しています。

p19 問3 に六朝に仏図澄の布教・鳩摩羅什の訳経とありますが、北朝ではないのですか。……この「六朝」は文化史の時代表現として「六朝時代」の意味で使ったものです。初め布教の時は華北ですが、華中華南にも仏教は伝わりました。後の説明文で北朝が国家、南朝が個人と普及の仕方がちがったことを指摘しています。

p21 問10 注にp67参照とありますが、本冊にも別冊にも関連する項目が無いのですがどこでしょうか。……これはわたしのミスです。p.71の図が該当します。

p22 問16 にその帝国主義政策がはワシントン会議の9か国条約でも確認されたとありますが9か国条約は抑制的な物ではないのですか。……確かに目立ったかたちでは「帝国主義」政策は主張していないのですが、中国に関する条約だけでなく、セットとして結ばれた四ヶ国条約でフィリピンの安全保障を確保するとともに、日英同盟を廃棄させることに成功した点で、アメリカなりにすでに得ている地域(フィリピンに日本を侵出させない)は列国に認めてもらうことに成功しています。文章の中に「四カ国条約」も入れとけばよかった。わたしのミスです。

p22 問17 にイリ地方を奪取したとありますが、イリ条約で返還したのではないですか。……ヤクブ=ベクの反乱からイリ地方を領土にしていたイスラーム教徒をロシアが承認して保護国化していました。そこへ左宗棠が半分奪い返して再び清朝の領土にします。イリ地方の全部ではなく半分の東側を清朝領とするかわりに、西側は賠償金とともにロシアも取りました。歴史地図を見ると分かりやすい。清朝はバルハシ湖までもっていたのですが、天山山脈の方まで条約では後退しているのです。用語集では「(イリ条約)イリ地方は清朝に返還されたが、ロシアに貿易上の利権が与えられた」と書いていますがまちがいです。返したのは半分ですから、以前からすれば半分奪われているのです。

p23 問18 について、中国の、集団化の前の土地分配までの段階は、フランスのものとどう違うのでしょうか。解答を見ると言葉は違いますが同じようなことを表しているように見えます。……革命当初は似ています。中国共産党は土地調査をやり、家族の数も計り、貧しい者ほど多くの土地が取れるようにし、地主の多くを殺害しました。フランス革命ではここまでやっていません。また土地改革、つまり土地分配(フランスの場合は保有地を私有にしただけ)が、後の私有化のままのフランスと公有化した中国が違っている、という点もあります。

問8で、朴正煕時代にはその最初に第二共和国を打倒した他には民主化運動に関連することは起きていないのではないでしょうか。また、盧泰愚以降の大統領の記述が具体的に何を表しているのかよく分かりません。解答が全体として民主化運動に関することばかりではないように見えます。……確かに。民主化がメインではありますが、暗殺が民主化への希望を生みます。しかし独裁化も来たし、盧泰愚は大統領直接選挙を認めたことが、後の大統領選挙で軍人でない候補が立ち、軍人ではないひとたちが当選していきました。今はそれが慣例になっています。民主化という観点から戦後韓国史を書いてほしい、という問題です。

p26 問1 を普通に書いていると政治史ばかりになってしまいますが、文化面の活動も書いた方がいいということですか。……政治史として課題を出す大学もあり、文化史も伴う変遷を書いてほしい、という出題もあります。双方とも書けるとベターです。

p26 問2(1) はソグド人は書かなくて良いのですか。……書いてもいいですが、字数からトルコ人に限定したほうがいいです。ソグド商人はイラン系ですから。仲介的なことはしているので、字数がもっとあれば書いて良いとおもいます。

p27 問5 の革命干渉戦争の終息とともに、というのがよく分かりません。もともと人民党が主導していたのではないですか。……(注)でも書いていますように、人民革命党単独では軍事的な平定は無理でした。援助によって独立したので、ソ連の衛星国とも採られるのはそのためです。

p28 問1 注にモン人たちの国々にペグーが挙げてありますが、ピューではないでしょうか。……ペグー朝の民族も言語もモン人・モン語です。ピューは別名モン王国ともいうようにモン語を使うひとたちもいました。ともにミャンマーの南部にいた民族なので、重なっています。

p28 問3 タイ人の南下は元に大理が滅ぼされて起こったと書いてあるものがありましたが、それは間違いですか。……いいえ。正しいです。大理はビルマ(ミャンマー)人・タイ人の故郷です。今の中国領雲南省にあった国ですが、蒙古人が初めて中国領にしました。それまで中国領ではなく「南詔→大理」と代わった非中国の地域です。

p29 問5 香料貿易と香辛料貿易は違うのでしょうか。……香料の中に香辛料があります。一般に香料貿易といったら香辛料の取引をさしますが、香料はこの香辛料の他に油・木・樹脂なども入ります。

p29 問6 華僑の小王国とは何のことですか。……東南アジアの島々の各地に華僑の住む王国が築かれました。実例としては、タイにトンブリー朝を興したのは華僑の子、別にインドネシアのデマック王国などです。これらは教科書に載っていません。

p29 問7 海外の熱帯産品を内陸に運ぶというところの熱帯産品とはどういうものですか。また港市国家は内陸から香辛料等を運び出して輸出するのだと思っていましたが、違うのですか。……熱帯産品とは熱帯で採れる果実・香料・油・ゴム・コーヒー・バナナ・カカオなどです。
 港市国家はたいてい東南アジアの島々の沿岸に位置していて、河口があればそこから内陸に運びますし、内陸のものを河口から輸出するので、どちらも使われます。シュリーヴィジャヤ王国の首都パレンバンは内陸にありますが、川で海とつながっていました。

p30 問9 オランダがインドネシアを独占したことは含めなくて良いのですか。……ボルネオ島はイギリスが北部をとり、ポルトガルティモール島を取るので完全ではないです。

p30 問10 イギリスがマレーを獲得したことは重要ではないのですか。……書いてもいいです。字数が許せば。

p35 問6 問題文にヘブライ人とあってもユダヤ人と言い換えても良いのですか。また、どちらの表記でも大きな違いは無いですか。……ないです。

p37 問15 2行目に11世紀前半の事が書いてあるのはなぜですか。……正確を期すために「前半」としました。当然ながらその状態は「後半」も続きますから。後ウマイヤ朝のアブド=アッラフマーン3世は929年にカリフを名乗り、ファーティマ朝も909年に建国当初から名乗りました。

p37 問18 指定語句がミッレト"制"だと文章構成が少し変わると思うのですが、どうするのが良いですか。……指定語句の通りでないのは、わたしのミスです。「ミッレト」を構成し→(正)はミッレト制を認められ

p40 問2 法前平等の前提にたたずとはどういうことですか。……「たたず」は「立たず」と同じで、そういう原則を前提にしない、制度化していない、という意味です。

p41 問6 工場とは手工業者の仕事場という意味ですか。また、市民が数家族をもちとありますがどういう意味ですか。……仕事場は、奴隷なので集団で働かせているため工場の形態をとっています。陶器・金細工・オリーブなどの工場です。
 奴隷は家族を持たないのではないですか。……「数家族」とは一人のスパルタ市民が、征服した先住のギリシア人を農家の数家族まとめて所有することを指しています。アテナイのように購買奴隷ではなく、一人一人別々に所有するのと違います。
 「奴隷は家族を持たない」はアテナイでは該当しますが、スパルタでは違います。先住民全体の支配ですから。
 「征服された先住民……第3身分がへイロータイ(へロットhelot)で、彼らはスパルタに抵抗して征服された隷属民で、スパルタ市民の土地に分属させられ、貢納の義務を負わされた。しかしへイロータイは自分たちの集落と家族をもち、財産も有していたから、奴隷とはことなる隷属民であった」(『詳説世界史研究』から)。スバルタの奴隷を奴隷としないで「隷農」と訳す学者もいるのはこのためです。

p42 問11 教科書等だと大土地所有が進んだというような記述がありますが、解答に含まれていないのは戦争前から大土地所有の進行の傾向があったからですか。……そうです。イタリアはギリシアと違いポー川、ティベル川、アルノ川などオールシーズンの川があり、周辺に平野が広がっていて、初めから大土地所有があり、貧富差が大きく、その点でも民主主義は不可能という土地柄です。もちろん戦争のたびにこの差は拡大しましたから、大土地所有が広がった、と書いても間違いではありません。

p42 問12 弟ガイウスは自殺した…兄弟ともに大土地所有者により殺された、と言っているようにも解釈できるのではないですか。
 ……確かにそうも採れます。わたしは弟のガイウスも追い詰められた殺されたに等しいとおもってます。かたちは自殺とも他殺ともとれる死に方をしています。本能寺の信長は自殺ですが、追い詰められて殺されたに等しいのと似ています。
  ウィキペディアの「ガイウス・グラックス」のところに次のような解説があります。
「奴隷の機転でガイウスは一旦は逃げ遂せるが、敵対者に捕まりそうになり、別の奴隷に自分を殺すよう命令。ガイウスは死亡、その奴隷も自ら命を絶ち、ガイウスの支持者たち3,000人が殺された。」

p44 問17 地方の有力者の大所領が帝国から独立するとはどういう意味ですか。……初めに経済的に独立し、後にゲルマン大移動とともに政治的にも独立します。ゲルマン人の諸小王国がたくさんできます。

p44 問19 最後の文は農奴の社会とコロヌス制が並列してありますが、この二つは違うものではありますが、貨幣政策の結果として対照をなすほどの違いがあるのでしょうか。……自然経済とは貨幣のない経済です。物々交換といってもいい社会になり、農民(コロヌス)への領主による圧力・閉鎖性が強まります。コロヌスではまだ小作人ではあっても領主の圧力が小さい状態をさしますし、ビザンツ帝国貨幣経済を維持します。

p46 問5 東にはポーランド王国ができ、とありポーランド王国が外圧の一つになっています。参考書にポーランド王国はドイツからの干渉を防ぐためにキリスト教を受容したということが書いてありましたが違うのですか。また、聖俗最高の支配者とありますが聖俗としてよいのですか。……「王国ができ」を外圧ととるのはオットー1世側の方で、「外圧・脅威」は侵略側の口実です。
 「参考書にポーランド王国はドイツからの干渉を防ぐためにキリスト教を受容」は古い説で、オットーの支配を受けないために、教皇と直接交渉してキリスト教化した、と今は新説があります。
 「聖俗」がまさに帝国教会政策です。教皇の就任に皇帝の認可を必要としました。ビザンツの皇帝教皇主義の西側の言い換えです。

p52 問4 ルピー銀貨について書いてあるものが見つけられなかったので少し教えてください。……デリー=スルタン朝末期にインドで発行され、ムガル帝国でも受け継いで発行しました。イギリスとの貿易でも使われた品質の良い貨幣です。

p55 問4 議会主権の共和制とありますが、議会は途中で解散されたのに議会主権としてよいのですか。……確かに変転はしましたが、革命派は議会派であり、議会を拠点に戦い国王を処刑したのであれば、決定機関としての「議会主権」は共和制の土台です。

P55 問5 近代的土地所有と営業の自由に関する記述がまとまっているものが無いので教えてください。……近代的土地所有とは、封建的土地所有という国王の上級所有権・諸侯の下級所有権・農民の保有権と重層的で相対的な所有権であったものを廃止したこと。国王の所有権と農民の保有権を廃止して地主の所有権=私有権=近代的土地所有権だけを認めました。一(いち)土地に一人の所有権(私有権)しか認めない。これにより私有地の売買が自由になった。ために土地は商品に転化します。
 国王の上級所有権……①
 諸侯の下級所有権……②
 農民の保有権…………③
という三層構造になっている状態が封建的土地所有(重層的土地所有)で、このうち誰か一人だけの所有を認めると近代的・絶対的な、つまりは私的な所有になります。私一人で上下の承認なしに土地の売買ができるようになり、これが土地売買の自由を生み、経済・営業が動き出しやすくなります。

p60 問8 注にメキシコ革命とあるのは誤植ではないかと思うのですが、革命の二文字を削除すればよいのかあるいは他の二文字の言葉を当てはめればよいのか分かりません。……そのとおりで、わたしのミスです。革命は要りません。

p63 問7 1922年に自治法が通過とありますがそうなのですか。1920年アイルランド統治法が成立というのは見たことがありますが。……これは私のミスです。形式的にはそのとおりなのですが、20年に調印しても英国政府と反乱側が対立した状態のままで、1922年に双方で「イギリス・アイルランド条約」を結ぶことで、やっとアイルランド自治が実現します。しかし法は1920年です。

p65 問10 ネップの自由化から五カ年計画で再統制という流れは必要ないのですか。……「集団化」が統制にあたる政策です。

p67 問17 共産主義対反対派という構図は強調されるほど第二次世界大戦に当てはまるわけではないように思えますがどうなのですか。……もちろん第二次世界大戦がいろいろな側面をもっているのですが、スペイン内戦でもいろいろな側面があり、すべての面を書くのが課題ではないです。

p67 問2 天皇を決意させというのは意味内容が曖昧になってしまわないでしょうか。……敗戦しても権威者・天皇が生き残ったのが3国では日本だけであり、かれの決定により敗戦となりました。「曖昧」より特異性を示したつもりです。3国比較の問題なので。

p68 問6 マーシャルプランに対抗してコミンフォルムを結成という記述は他でも見られますが、なぜですか。マーシャルプランに対抗するのはコメコンであるような感じがするのですが。……確かに経済には経済ですが、この時期の経済は原爆を所有する米国が第一の軍事力をもち、それが背後にいてマーシャル・プランを提示されると、軍事力と同じように東側には脅威ととられました。

B 本冊について、
p12 問1 1910年までの段階でシンフェイン党は武装闘争をしているのですか。またイースター蜂起〜アイルランド自由国までの過程のシンフェイン党の関与が教科書等だとはっきりしないので教えてください。……武装闘争はIRA(アイルランド共和軍)といって別の組織で、かれらは19世紀中頃から武装闘争はやっていました。それが1905年に結成された政治的な組織であるシンフェイン党と1907年に合体し闘争に入ります。第一次世界大戦中のイースター蜂起は名高い武装闘争です。それが1920年自治法(統治法)で認められながらも上であげたように納得しておらず、闘争は続きましたが、やっと22年に妥協します。

p13 問2 エカチェリーナ2世は宗教寛容策を採ったのですか。……そうです。新旧のキリスト教イスラーム教の信仰の自由を認めています。啓蒙専制君主の一人とみなされるようにロシアでの『百科全書』の発売を認めて啓蒙思想を尊ぶ姿勢をとりました。宗教だけでない各種学校の設立も進めました。ディドロダランベールと文通をしていました。もっともこれらの政策は西側の評判がほしいためのジェスチャーともいわれています。

C 東大の問題について
1 パクス・ブリタニカという言葉か色々な物事を指すのに使われていて、意味がよく分からないので教えてください。……大英帝国が世界の大半の政治・経済を動かすような覇権状態が「イギリスの平和」です。イギリスの世界支配といってもいい状態です。すこし誇張気味ですが。

2 世界史の入試対策について、また東大の世界史について質問があります。
 東大2011-1の添削を受けたり『東大世界史解答文』を読んだりして気づいたのですが、イスラム文化に関して引用されている教科書の記述の多くが手持ちの山川教科書には記載がありませんでしたがどうすると良いでしょうか。……指定語句は東大ですから教科書に載っているものを出してくるので、大半は教科書に書いてあるか、用語集に書いてあります。たとえば私の解答例の「カナート・カレーズ」のうちカナートは東京書籍にあり、持っていなければ山川の用語集に載ってます。中国の絵画技法とは細密画に応用されているものです。アスパラガス・オレンジは教科書も用語集も載っていませんが、私の添削を通して覚えてください。
 
3 東大の世界史の得点分布がどういった様子かご存じの範囲で教えてください。2022年度の出題意図を見るとその年はあまりよくなかったのは分かりました。……年度によって違うと見ています。第1問が難しく白紙が多いとか、字数が埋まっていない、という時は第2問・第3問の得点配分を高めにする、という具合に。固定していない、という根拠は、開示された得点を合否のいろいろな年度の受験生が教えてくれるので、その全体を見ての推理です。

4 先生のブログで東大は採点が厳しいという記述を拝見しましたが、もう少し詳しく教えてください。……課題から外れた内容であれば、どんなにマス目が埋まっていても得点はない、ということです。厳しいのは採点官の裁量次第という点もあります。日本語の文章としてどうかと判断する教授もいて、そのひとの目に適わなければ、低く採点される、という場合もあります。似た答案でも採点官によって違った評価が有り得る、ということてす。何も東大は名文を求めていないのに。これは運です。

5 加点方式の場合、例えば20点満点の問題は加点ポイントは20を超えて用意されているのですか。……もちろん用意は2倍も3倍もあります。東大の採点にかかわった方の東大実戦での基準を見せてもらいましたが、いろいろな解答例を挙げて得点差をつけた詳しい基準でした。ただし、これはその方の基準であり、今はもっと簡略な基準に堕落・劣化しているようです。

6 東大の世界史は1989年に大きく傾向が変わったということを読みましたが、どう変わったのですか。……わたしには分かりません。何も「大きく」は変わっていないので。

2023年度・共通テストの解き方

2023年度・共通テストの解き方
問題文は以下のサイトから手に入れてください。
https://edu.chunichi.co.jp/site_home/center/pdf/2023sekaishi-B_q.pdf

第1問
 女性参政権について、第一次世界大戦に出征した男性に代わって女性が工場などで働く→女性参政権、という文脈で選挙権が実現したことを語るのが日本の教科書の筋書きです。しかしこれは女性たちが18世紀末からこの選挙権獲得の運動をしてきており、それを無視した失礼な内容です。 
 一橋の2010年の過去問に「女性たちの参政権運動は、1848年にセネカ・フォールズにて開催されたアメリカ女性の権利獲得のための集会から始まったといわれる。19世紀後半には女性団体が運動を展開し、1920年になってようやく憲法修正19条により「合衆国市民の投票権は、性別を理由として、合衆国またはいかなる州によっても、これを拒否または制限されてはならない」と定められ、女性の連邦政治への参加が可能となった」」という導入文がありました。この1848年から始まって、各州で実現しました。ワイオミング州の1869年、ユタ準州の1870年、ミシガン州ミネソタ州は1875年、ワシントン準州が1883年、コロラド州1893年とつづきます。「1920年」は連邦憲法で定められたので、合衆国全体での実現になります。この修正19条は総仕上げ、最終段階としてあったということです。
 18世紀末はフランス革命中にオランプ=ド=グージュがおり、『人権宣言』の中の「人間」には女性が含まれていないと抗議し、『女性および女性市民の権利宣言(女権宣言)』を書いて発表したひとです。
 2010年の東大の第1問「19〜20世紀の男性中心の社会の中で活躍した女性の活動について、また女性参政権獲得の歩みや女性解放運動について」というものでした。20世紀だけの運動しか知らないのでは、東大の問題は解けません。この問題では、先生と生徒の会話も20世紀に限定されています。出題自体が時代遅れです。
 日本でも19世紀に運動家がいました。楠瀬喜多さんです。→
https://www.tosa-jin.com/kita/kita.htm

問1(解答番号[1]) 文章中の空欄[ ア ]の国とは、導入文が「フィンランドは19世紀に、当時帝国だった[ ア ]の領土」とあるので、隣のロシア・ソ連の領土ということになります。
 ① 北方戦争の敵は「イギリス」ではなくスウェーデンです。フィンランドはロシアがウィーン会議で得ています。
 ② 「両公国を失った」という歴史はデンマーク戦争の歴史(両公国へのデンマークの南下を阻止した普墺の抗戦)です。
 ③ ピウスツキ独裁とあればポーランドの歴史。
 ④ 21世紀に入ると、中国などとともにBRICS(BRICs)と呼ばれた。……これが正解BRICSとは、Brazil, Russia, India, China に南アフリカ共和国 (South Africa) を加えた表現です。この語句を知らなかったとしても①〜③の消去法で解けます。 

問2[2] 下線部(a)「多くの国や地域を巻き込んだ第一次世界大戦」についての正誤問題。
 ① オスマン帝国が、協商国(連合国)側でなく、同盟国側でした。独墺ブルガリアの3国につづくオスマン帝国は「斜め」につらなる4国が同盟国側です。地図で確かめましょう。
 ② フランス軍でなくドイツ軍が、タンネンベルクの戦いでロシア軍の進撃を阻んだ、です。あるいは、マルヌの戦いでフランス軍がドイツ軍の進撃を阻んだ。
 ③が正解。インドに自治の空約束をして徴兵し、インド兵は犬死にとなりました。
 ④「レーニンが」でなく「米大統領ウィルソンが」です。十四か条の平和原則は民族自決を唱えたので有名ですが、レーニンはウィルソンの言う前の17年に「平和に関する布告」ですでに唱えていました。

問3[3] 生徒たちがまとめた次のメモの正誤。
 室井さんのメモ
 ニュージーランドでは、自治領となった後に女性が全国レベルの参政権を獲得した。……白人支配が明白なところから自治が認められていきますが、最初はカナダ(1840)、次はオーストラリア(1901)、そしてニュージーランド(1907)、南アフリカ(1910)という順です。地理的にはジグザグです。オーストラリア(1901、語呂は「オーストラリア、人ひと1901」これは中谷まちよ著『世界史年代ワンフレーズnew』パレード、以降『ワン』で省略)の後だろうなという予想はできます。
 渡部さんのメモ
 第一次世界大戦……1918年に初めて女性参政権が認められた。この文章は問題ないです。なにしろ「佐藤:1918年にはイギリス」と発言しています。これは第四次選挙法改正で、男子は21歳以上の全員が持てました。だから②が正解。戦争中にもかかわらず女性たちは、19世紀につづいて選挙権獲得運動を行ないました。
 佐藤さんのメモ
 アメリカ合衆国では第一次世界大戦末期のキング牧師による公民権運動……キング牧師の運動は第二次世界大戦後の1960年代です。公民権法が成立したのは1964年です(『ワン』語呂→「公民、1964)

 
問4[4] 文章中の空欄[ イ ]に入れる語句として最も適当なものを選べ。……「6世紀後半」に中国北部にあった王朝はどれ? という問いでもあります。またこれは資料の「平城に都が置かれていた時代」という語句もヒントになります。
 ① 西晋を滅ぼした匈奴の風習……確かに匈奴は4世紀に洛陽を都にしていた西晋永嘉の乱で陥落しますが、五胡十六国時代(316〜439)には鮮卑に支配者は代わっています。
 ② 北魏を建国した鮮卑の風習……初めは史料の「平城」に都を置いていたのが5世紀に洛陽に遷都し、6世紀には西魏東魏に分裂し、それが北周北斉に受け継がれます。6世紀前半までは、華北の統一が保たれていました。北魏華北統一(『ワン』語呂、北魏439)か、孝文帝の均田制(『ワン』語呂、均田は485)を覚えておくと良いです。これが正解
 ③ 貴族が主導した六朝文化……南朝中心の文化を指します。
 ④ 隋による南北統一は6世紀末です(初めは華北統一、そして華中華南も征服して統一、『ワン』語呂、隋こ5わ8い1、こ5わ8く9ないと統一)。

問5[5] 「中国に女性皇帝が出現する背景」とは、という問に妥当な文章は、
 ① 唐を建てた一族が、北朝の出身であった……が正解。というのは隋唐両王朝とも鮮卑系だからです。則天武后鮮卑系です。
 ② 古い家柄の貴族から科挙官僚へ移るという移行を進めたのは則天武后ですが、といって官僚が皇帝になるわけではありません。(『詳説世界史』→則天武后が帝位についた際、科挙官僚を積極的に任用したことは、政治の担い手が古い家柄の貴族から科挙官僚へと移ってくる一つの転機となった)
 ③ 隋の大運河の完成によって、江南が華北に結び付けられた……これは女性の地位低下につながるかどうか不明です。
 ④ 北魏で、都が洛陽へと移され、漢化政策が実施されたのですが、「漢化」は男性優位をもたらすはずです。第二の武后になるべく、毛沢東亡き後は江青が後継者になろうと武后を褒めたたえる運動を展開しましたが、皇帝にはなれませんでした。武后が稀な例であったことが判ります。

問6[6] 下線部(b)「この時代以降の儒学」について述べた文として最も適当なもの……ということは唐以降の儒学ということです。
 ① 世俗を超越した清談が流行した。……魏晉南北朝時代なら該当します。
 ② 董仲舒の提案……前漢武帝代の儒者です。
 ③ 寇謙之が教団を作り、仏教に対抗した。……北魏・太武帝の顧問で道教国教化につくした人物。
 ④ 『五経正義』が編纂され……これが正解。孔穎達が太宗の命で編纂したもの。

第2問 

問1[7] 家系図を参考に。
 ① 右の図柄は、上の対話中「左の図柄は、……クレシーの戦いの図版」と百年戦争初期の戦いであるクレシーの戦い(1346)と説明しているので、左右が逆になっています。
 ② 左の図柄は、アンリ4世カペー朝とつながりがあることを表している。……これは上段の先生の説明「この図はアンリ4世から始まる王朝で使用されるようになる紋章」とあるので、これが正解です。対話文をなぞるだけの問題で、これは思考力と関係しているのか疑問。
 ③ 二つの王家の「統合」ではなく、「血筋」の繋がりを表している、とは言えます。
 ④「ナバラ王位」は系図では「ジャンヌ=ダルブレ
(1572年までナバラ女王)」という母方を継承したことを表しているので「父から」は間違いです。

問2[8] 下線部(a)「ユグノー」に関連……プロテスタントについて、という問題。
 ① サン=バルテルミの虐殺により、多くの犠牲者が出た。……この文章が正解ユグノー戦争中の出来事として教科書に必ずといっていいほどに虐殺図が載っています。
 ② ツヴィングリはスイスの改革者。ドイツ農民戦争はミュンツァーが指導者。
 ③ 国王至上法(首長法)の制定はヘンリ7世でなく「8世」が正しい。
 ④ イグナティウス=ロヨラが.イエズス会を結成した……これはプロテスタントでなくカトリック側の反宗教改革の一環。パリで結成されました。

問3[9]
 [ ア ]に入れる人物の名は対話文の「宰相マザランが死去した後親政を始めた」とあるのでルイ14世ルイ13世の宰相リシュリューと区別するために、★ザコンの14世、と覚えます(拙著『センター世界史B各駅停車』以降は『各駅』と省略、→https://worldhistoryclass.hatenablog.com/entry/2017/07/02/『センター世界史B各駅停車』の発売)。
 [  イ  ]に入れる文、とは「国家財政の問題を解決する手段として使います。当時、」とあるので、「X ネッケルによる財政改革」というフランス革命直前のことではありません。「
Y 度重なる戦争によって戦費が膨れ上がっていました」が該当します。正解は②
 ルイ13世ルイ14世ルイ15世ルイ16世の時に革命です。

B 
問4[10] 空欄[ ウ ]の王朝が10世紀に支配していた半島の歴史の空欄は「半島(イベリア半島)」や、資料1の「私たちウマイヤ家」から「後」ウマイヤ朝だと推理できます。これがハッキリしないと問題は解けません。
 ① ルーム=セルジューク朝ができた場所は、現在のトルコ、アナトリア地方です。スペインのあるイベリア半島ではありません。「ルーム」=セルジューク朝とはセルジューク族の一派で、後にオスマン帝国をつくる起源となった王朝です。
 ② この半島における最後のイスラーム王朝となるのは「ムラービト朝」ではなく、ナスル朝グラナダ王国です。
 半島のイスラーム王朝は、ウマイヤ朝後ウマイヤ朝ムラービト朝ムワッヒド朝ナスル朝の順です。覚え方は★ウウ、ムム何するん?(拙著『各駅』p.150に載っています)
 ③ ベルベル人によって建てられたムワッヒド朝が、この半島に進出した。……これが正解
 ④ この半島はアラビア半島です。

問5[11] 下線部(b)「カリフ」の歴史。
 ① 預言者ムハンマドが死亡すると、アブー=バクルが初代カリフとなった。これが正解。アブー=バクルはムハンマド(53歳)の幼妻アイーシャ(6歳)の父親です。
 ② アブデュルハミト2世(在位が1876〜1909)は、カリフ制を廃止(1924)したカリフではありません。カリフがカリフを廃止することもありえません。ハミト2世はミドハト憲法が制定されたときのスルタン=カリフです。覚え方は「★ミドハミト2世」です。19世紀中頃のタンジマート(恩恵改革)のときのスルタン=カリフであるアブドゥル=メジト1世と区別できないといけませんが、かれの覚え方は「★タンジト(タンジマートはアブドゥル=メジト1世の改革)」です。
 ③ ブワイフ朝の君主はバグダードに入った後、カリフとして権力を握ったのではなく、「スルタン」称号をもらいます。
 ④ サファヴィー朝は1500/01年に成立した王朝で(『ワン』語呂→サファリ、イン1501)、アッバース朝は750年からの王朝であり、事実上1258年に滅亡しています(『ワン』語呂→あっ、バス、1258れたの)。

問6[12] ファーティマ朝の歴史とそのカリフについて
  ① ファーティマ朝アッバース朝成立以前に成立した王朝……以前がまちがい。アッバース朝の成立は750年(『ワン』語呂→あっ、バスならも750ろ)で、ファーティマ朝チュニジアできたのが909年ですが、この王朝が大事なのはエジプトに入った時点の969年です(『ワン』語呂→不安定、969)。
 ② ファーテイマ朝はスンナ派でなく、シーア派シーア派の王朝名は「フ」が多い。★「フ」の付く王朝はシーア派:ブワイフ朝・ファー ティマ朝・サファヴィー朝・パフレヴィー朝──『各駅』p.145)。
 ③ ファーティマ朝はカイロを首都とした、のは正しい。建国の翌年に建設しています(970)。しかし、「シリアやエジプトを取り戻せない」というよりエジプトが根拠地であり、シリアにも進出して十字軍と戦っています。
 ④ 正解

第3問 

問1[13] 図は「フランスに帰還する様子が象徴的に描かれている」ナポレオンのですね。ということは一旦追放されてから、今は君臨している前の王朝と対決することになります。「統治していた国王」のルイ18世についての選択問題です。
 ① アルジェリアを占領した(1830)、ときはルイ18世の弟シャルル10世のときでした(『ワン』語呂→あるじ、1830)。
 ② 恐怖政治を敷いた、のはロベスピエールジャコバン政権のとき(1793〜94)、まだ革命中です。
 ③ 国外逃亡を図り、ヴァレンヌで捕らえられたのは、ルイ16世国王夫妻でした(1791)。
 ④ 王位に就いて、ブルボン朝が復活したのが1814年ウィーン会議開催と共にでした。これが正解で、ルイ18世の就任です。

問2[14] 空欄[ ア ]は「トゥサン=ルヴェルチュールが指導する」とあるのでハイチだから左図のa、[ イ ]は「対仏同盟軍に敗れて[ イ ]に流され 」とあるのでエルバ島で、右図bです。中図のcはナポレオンが最後に流された大西洋の島でセント=ヘレナ島です。正解は②です。 

科挙に関する授業。
問3[15] 文章中の空欄[ ウ ]は前文に「宋代には……新しい学問」とあるので朱子学(宋学)のことです。
 ① 科挙が創設された時代は隋なので、隋代「書院を中心に新しい学問」はありえないです。隋代に「新しい学問」はおきていません。また隋代に「宋代には私立学校の書院が各地にでき」ていません。
 ② 金の支配下で、儒教・仏教・道教の三教の調和を説いたのは王重陽の全真教の説明文です。
 ③ 臨安が都とされた時代は、南宋の時代ということで、朱熹によって「大成され、儒学の経典の中で、特に四書を重視した」となります。これが正解
 ④ 実践を重んじる王守仁が、知行合一の説を唱えた。……明末、1500年前後のひとで陽明学の大成者。

問4[16] 文章中の空欄[  エ  ]は「同時代……書院を拠点とした争い」とあるので儒学の派閥争い、明末では東林党党と非東林党党の争いです。
 ① 太平道黄巾の乱後漢末の反乱です(『ワン』語呂→黄巾の乱、黄色い184)。
 ② 南宋初期に、対金政策をめぐって争った秦檜と岳飛(『ワン』語呂→何艘、1127出か)。
 ③ 土木の変で.皇帝が捕らえられたのは、明朝初期です(『ワン』語呂→土木、石14敷4く9)
 ④ 東林派の人々が.政府を批判した……これが正解

問5[17] 下線部(a)「中国で科挙の開始より古い時代に行われた人材登用制度」は推薦制の九品官人法です。
 下線部(a)について述べた文
 あ 豪族が政界に進出、が正しい説明。
 い 貴族の高官独占が抑制、がまちがい。

 朝鮮や日本で見られた人材登用制度に関する考え
 X この文章は先生の発言どおりで、正しい。
 Y 日本の儒学者が……科挙の導入を提唱、がまちがいだから、正解は①

 中国における書籍分類の歴史。
問6[18] [ オ ]は「18世紀の中国で編纂」とあり清朝と判ります。
 ① 『四書大全』の大全は永楽帝の編纂書を表しています。『永楽大典』『四書大全』『五経大全』と「★「大」がつく作品は永楽帝(『各駅』)」と覚えましょう。
  「皇帝に権力を集中させるため、中書省を廃止した」は正しいぶんですが、これは明朝創始者朱元璋洪武帝の政策。
 ② 漢人男性に辮髪を強制した、のは清朝
 ③ 中書省を廃止したのは明朝。
 ④ 正解

問7[19] 次の書籍あ・いが『漢書』芸文志の六芸略に掲載されているかどうか。これは「資料2『漢書』芸文志で六芸略に掲載されている書籍の一部は『易経』『尚書書経)』『春秋』」とあり五経の三つが書いてあり、欠けているものはどれか、という問い。もちろん「あ『詩経』」です。「い『資治通鑑』」は時代が北宋司馬光によるもので、時代的にも『漢書』に記されている可能性はゼロ。①が正解
 四書と五経の区別はできますか?
 四書:孟子論語・大学・中庸
 五経:春秋・礼記易経詩経書経
 覚え方は(★四書→もちろん、ダッチューの五経春に礼、易しく詩を書く(『各駅』p.8))

 ちなみにチャットGPTで「四書と五経の区別がしやすい覚え方は?」と問うたら、
 ……(前半省略)つまり、「大中論孟」と「詩書礼易春」の2つのフレーズを覚えることで、四書と五経を簡単に区別することができます。

 とのお答えでした。覚えられますか?

問8[20] 前中国における書籍分類の歴史について。
 ① 1世紀には……史部という分類も定着していた、はまちがい。これは「1世紀にはまだ四部分類がなかったのですか。教授:そのとおりです。当時は史部という分類自体、存在しませんでした」に反します。
 ② 「木版印刷の技術が普及した」のは「3世紀から6世紀にかけて」ではなく、唐代です。
 ③ 7世紀の書籍目録において、『史記』と同じ分類に本紀と列伝を主体とする形式の書籍が収められた。これが正解
 ④ 「18世紀……四部分類は用いられなくなっていた」は内藤くんの質問にたいする教授の解答「18世紀……、四つに分類されているためです。これを四部分類と言い」とあり、これと矛盾します。

第4問
A 
問1[21] 「貨幣1を発行した国」は「コンスタンティノープルで造られた金貨です。ソリドゥスと呼ばれ」でビザンツ帝国であり、「貨幣2を発行した王朝」は鈴木さんの発言「ムアーウィヤが開いた王朝」でウマイヤ朝と判断できます。
 ① ゾロアスター教が国教とされた、のはササン朝だからまちがい。
 ② パルティアはササン朝に代わられています(ササン朝226年から『ワン』語呂→笹で226)。
 ③ 貨幣1の発行国では、ローマ法の集大成が行われた。これはユスティニアヌス帝が作らせたものでしたから、正解
 ④ バグダードに都を置いたのはアッバース朝ウマイヤ朝の都はダマスクス

問2[22] 
 佐々木さんのメモ
 初めは「各地で使われていた言語を行政において用いることを認めていたが」後で「アラビア文字のみが刻まれた独自貨幣の発行」となったので、正しいメモ。
 鈴木さんのメモ
 「貨幣2を発行した王朝は」は佐々木さんの説明文の後半をより説明していて、正しい。
 広田さんのメモ
 「ソリドゥス金貨は、ヴァンダル王国を滅ぼした皇帝」はユスティニアヌス帝ですが、かれは6世紀の皇帝です(『ワン』語呂→ユスティニアヌス527い)。ローマが東西に分裂する前から発行しています。遅すぎます。したがって正解は②

 古代ギリシアについて
 資料二つと対話文がごっちゃになっていて分かりにくいものになっています。
 整理してみると、
 資料1・2ともに「二人とも、五賢帝の時代(96〜180年『ワン』語呂→五賢帝は賢9六6〜言1わ8れ0)を中心に活躍」したひとたちの書いたもの。つまりマラトンの戦い(前490年『ワン』語呂→マラソン490)はペルシア戦争(前500〜前449)より相当後の言説です。
 資料1の「ヘラクレイデスはアリストテレスの下で」、アリストテレスアレクサンドロス大王の師であり(前334年東征開始『ワン』語呂→アレクサンドロスで、334)、前4世紀のひと、マラトンの戦いに時間が近くなります。

 前490年 マラトンの戦い…………………………①
 前4世紀 ヘラクレイデスのテルシッポス……②
 後96〜180 五賢帝、『対比列伝』……………③
 対話文・資料が長いと判別しにくくなるので、このように①〜③のように時間順に番号をメモっていきましょう。

問3[23] 
[ ア ]に入れる語句
 「ヘラクレイデスはアリストテレスの下で学んでいた人物……松山:ということは[ ア ]ことになりますね」
 あ 資料1・2の著者は二人とも、ヘラクレイデスよりもマラトンの戦いに「近い時代」に生きていた、の「近い時代」がまちがいです。
 い ヘラクレイデスは、資料1・2の著者たちよりもマラトンの戦いに近い時代に生きていた……正しい。
 [ イ ]に入れる人物の名は「マラトンの戦いに時代が近い人物……使者の名前は[ イ ]」とあるので、「Yテルシッポス」になります。したがって正解は⑤

問4[24] 文章中の空欄[ ウ ]は「マラトンの戦いを含む」とあるのでペルシア戦争です。
 ① イオニア地方のギリシア人の反乱が、この戦争のきっかけとなった。……ミレトス市の反乱からスタートが通説です。これが正解
 ② エフタルは突厥ササン朝で挟撃した民族・国ですが、時代が5〜6世紀でずれすぎてます(『ワン』語呂→F樽、5〜6がす)。
 ③ この戦争の後に、アテネを盟主としてコリントス同盟(ヘラス同盟)が結成された。……この「戦争」はアレクサンドロスの父フィリッポス2世の勝利したカイロネイアの戦いの後に結ばれたもの。ペルシア戦争ではない。
 ④ ギリシア軍が、この戦争中にプラタイアイの戦いで敗北した。……敗北でなく勝利した(前479)。

問5[25] マラトンの戦いの勝利をアテネに伝えた使者について
 ① アテネで僭主となったペイシストラトスは使者の話を知っていた可能性がある。……この人物は戦争前の僭主として知られています(前561『ワン』語呂→ペイシス561)
 ② トゥキデイデスの『歴史』はペロポネソス戦争
 ③ プルタルコスは.使者の名前について異なる説を併記している、から「対比」の列伝です。これが正解。上の資料のように二人を挙げました。
 ④ 使者についての資料2の記述は.ヘロドトスの『歴史』を正確に反映している。……これは後段で先生が「紀元前5世紀の歴史家の著作には、資料2にあるフィリッピデスという名前が、マラトンの戦いの後ではなく、その前にスパルタに派遣された使者」とあり、これをそのまま反映していません。

 ベーダが、731年頃に執筆した著作
問6[26] 文章中の空欄[ エ ]に入れる語句と、資料1と資料2が示す「アングル人」について。
空欄は「歴史的出来事……[ゲルマンの三つの民」」とあり、ゲルマン人の大移動であることは容易です。
 あ 大陸から渡来してきた民の一つで、サクソン人やジュート人(ユート人)と並置される集団のことである。……これが資料1の「三つの民」。
 い サクソン人やジュート人(ユート人)をも含めた、共通の言語を話す集団の総称である。……資料2には「アングル人の言語」しか書いてないが、資料3の(注5)に「発音の類似性から.「アングル人」」と書いてあります。したがって正解は③

問7[27] 資料1〜3……古いものから順に正しく配列
 資料1「カルケドン公会議」は細かいですが、正当か異端かを決める公会議が何回も開かれていた(初めのニケーア公会議、325年、次はエフェソス公会議、431年)、そしてこのカルケドン公会議は単性論を異端とした会議でした。年代は451年でカタラウヌムの戦いと同年(『ワン』語呂→語らぬ、451さん)。
 資料2の初めに「私ことベーダが執筆している今のブリテン島」と問題文の初めに「ベーダが、731年頃に執筆した著作」とあります。
 資料3はグレゴリウス1世で、ゲルマン人布教につくした教皇として名高く、かれが派遣したブリテン島は七王国が成立する頃(600年)でもありました(教皇就任が590年『ワン』語呂→グレゴ5グ9レ0)。よって正解は②

問8[28] 下線部(a)「布教対象の民」はイギリスです。
 ① フランク王国
 ② ジョン=ボールが……農民一揆を指導、これがイギリス史で、正解
 ③ コンスタンティヌス帝は、勢力を増したキリスト教徒を統治に取り込むためには統一法ではなくミラノ勅令、統一法はエリザベス1世
 ④ ボニファティウス8世ではなくウルバヌス2世が「提唱した第1回十字軍」、ボニファティウス8世はアナーニ事件の危なかった教皇(1303年『ワン』語呂→穴にむ、1さん303)。

第5問
A 
問1[29] 下線部(a)「マラヤの宗主国」の歴史
 ① シンガポールを獲得はイギリスだから正解
 ② 19世紀後半でなく前半の1833年
 ③ 公行の廃止は南京条約。北京議定書は義和団事件の条約。
 ④ 廃止でなく成立した。

問2[30] 文章中の空欄[ ア ]と線部(b)「統計が取られた時点で、[ ア ]において、ゴムの需要が高まっていた」の背景

 [ ア ]に入れる国の名は表のフィリピンの宗主国アメリカが書けているので合衆国だと判定できます。
 下線部(b)「ゴムの需要」の背景は、ベルトコンベアー方式の自動車生産ですね。アウトバーンの建設はその後です。よく「ヒトラーアウトバーンを建設して失業者に職を与えた」とのプロパガンダが知られています。ナチス政権以前からあった政策をナチス政権の成果として宣伝したことが今も響いています。
 正解は③。  

問3[31] 1929年当時の東南アジア各地の経済
 ① コーヒー栽培……インドネシアは、宗主国(オランダ)向けの輸出額の割合が4地域の中で最も低かった、ではなく2番目の高さ。
 ② ゴムプランテーション(ゴム園)の労働者として移民が流入したマラヤは、インドシナの輸出額上位5地域の中に入っていた。……これが正解。文章中の「インドシナ」は東南アジア全体を意味することもあります。「仏領」を付けるべきでしたが、そうすると宗主国が分かっちゃうので付けられなかった。
 ③ フィリピンでは強制栽培制度はオランダがインドネシアでやった政策です、フィリピンではない。
 ④ インドシナの輸出額において最大であった地域は、インドシナと同じ宗主国の植民地であった。……この「インドシナ」は表の仏領「インドシナ」連邦のことでしょう。とすれば、香港が最大輸出先で、香港の宗主国アヘン戦争で奪ったイギリスです。

 歴史統計。
問4[32] 空欄[  イ  ]と[  ウ  ]
 ① イー表1を見ると、都市人口比率が上昇している……1600年335000人→1801年2380000人だから正しい。
  ウー土地が囲い込まれ(第2次囲い込み)、新農法が導入された……「食料の供給が安定していた」のはエンクロージュアと四圃制・改良三圃制が新農法です。これが正解
 ② イー「都市人口比率が減少」が誤文。
  ウー全国的に鉄道の輸送網が完成はまだ。完成は19世紀末。
 ③ イー表2を見ると、農村農業人口100人当たりの総人口が上昇している……これは合っている。
  ウー農業調整法(AAA)が制定され、農産物の生産量が調整された……これは合衆国の恐慌対策。
 ④ イー表2を見ると、農村農業人口100人当たりの総人口が減少している……まちがい。
  ウー穀物法の廃止により、穀物輸入が自由化された……穀物法廃止は1846年(『ワン』語呂→穀物ひと1846)。「18世紀後半の時期」ではない。

問5[33] 空欄[  エ  ]の前後文は「移民の送り出し国や受け入れ国で起こった出来事が移民数の変動に影響」とあり、「先生:よく勉強していますね」の内容は何か、という問い。アイルランドの点線が1845〜55年の間が山になってます。
 ① 大飢饉(ジャガイモ飢饉)ですね。これが正解
 ② クロムウェルにより征服は、17世紀のピューリタン革命(『ワン』語呂→ピューと1642)。
 ③ 1870年代初め……南北戦争が始まった、がまちがい。1861年から(『ワン』語呂→南北戦争1861)。「移民は、1870年よりも減少している」は正しいが。
 ④ 移民は、1890年よりも増加していない。

問6[34] 下線部(c)「世界初の産業革命は、イギリスで起こりました」
 ① 「大西洋」の三角貿易を通じて、綿製品、茶、アヘンが取引された。ではなくインド洋/アジア。
 ② ダービーによって開発された、コークスを使用する製鉄法が利用された。これが正解
 ③ ラダイト運動は「選挙権の拡大を目指して、」ではない。産業革命への反発運動でした。
 ④ 1833年の工場法は「大気や水の汚染問題の改善が図」るものでなく、子ども労働者の夜業禁止。

 共通テストで高得点をとるには、
(1)対話文をよく読んでチェックを入れていくこと、
(2)年代を覚えること。