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世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

一橋世界史2017

-一橋大学 過去問


 16世紀半ばに書かれた次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 あらゆる商品の価格は、その必要性が非常に高く、かつ提供される量が少ないときには上昇する。貨幣もまた、それ自体で売買され、かつあらゆる契約取引の対象となる以上は一つの商品であり、したがってその価格は貨幣の需要が大きく供給が少なければ上昇する。また、貨幣が不足している国では、貨幣が豊富にある国よりもあらゆる商品や労働が安価に提供される。実際にフランスではスペインよりも貨幣の量が少なく、パン、布、労働力の値段がスペインよりもはるかに低い。またスペインでも、貨幣の量が少なかった時代には、インド[新大陸のこと]の発見によって国中に金銀があふれた時代よりはるかに安い値段で商品や労働が提供されていた。
(マルティン・デ・アスピルクエタ『徴利明解論』(1556年)より引用。但し、一部改変)

問い この文章中で述べられている現象が、スペインの盛衰、および16〜17世紀のヨーロッパ経済に与えた影響について論じなさい。(400字以内)

 

 黒人奴隷制に関する次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 ユネスコが1994年に奴隷貿易、奴隷制の記憶を掘り起こす「奴隷の道」プロジェクトを開始して以降、21世紀に入り、環大西洋世界の奴隷貿易に再び注目が集まっている。国連総会では、①ハイチ革命」200周年にちなみ、2004年を「奴隷制に対する闘いとその廃止を記念する国際年」とすると宣言され、また1807年に世界に先駆けて奴隷貿易を禁止したイギリスでは、200周年を前に首相が「遺憾の意」を表明した。
 下の表は、16世紀以降の環大西洋圏の地域別奴隷輸入数を示したものだが、従来、大西洋奴隷貿易は、英仏などヨーロッパ諸国を起点にアフリカとカリブ海域を結ぶ、主に北大西洋で展開された三角貿易に関心が向けられてきた。だが、表からもわかるとおり、最も多くの奴隷を輸入したのはポルトガルの植民地、ブラジルであり、近年の研究では、②ラテンアメリカ地域」、とりわけブラジルとアフリカを直接結ぶ南大西洋の奴隷貿易について、その独自のメカニズムに関心が集まっている。

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問1 15世紀末にスペイン、ボルトガルの両国が定めた、支配領域の分界線を定めた条約を何というか。

問2 下線部①にあるハイチ革命を契機に、南北アメリカ大陸における奴隷貿易廃止、奴隷解放の流れは加速した。最後に奴隷制が廃止されたのは、最も多くの黒人奴隷を受け入れてきたブラジル(1888年)であった。この19世紀の南北アメリカ大陸で達成された奴隷解放の歴史のなかで、ハイチとアメリカ合衆国の2つのケースだけは、他とは異なる特徴があったが、それはどのようなものだったか簡潔に答えよ。(100字以内)

問3 下線部②にあるラテンアメリカ地域では、1810〜20年代に多くの国々が独立した。その独立運動は、いかなる契機から始まり、どのような人々により担われ、独立後にはどのような経済政策がとられたのか。また、このラテンアメリカの独立運動のなかで、ブラジルの独立にはどのような特徴があったのか、述べなさい。(275字以内)


 次の文章を読んで、問いに答えなさい。
 われわれが海を渡り、最初に到着した町はザイトゥーンの町であった。そこは壮大にして、規模の大きな町であり、カムハー織り(錦紗)やビロード織りの布地(緞紗)がそこでは製造されており、それらはその町に由来する名で知られている。その布地は、ハンサー織りやハンバーリク織りよりも上等である。
 そこの停泊港は、世界の数ある港のなかでも最大規模の港の一つ、否、間違いなく最大のものであり、私は実際にその港で、約100艘の大型ジャンクを見た。さらに小型船に至っては、多くて数え切れないほどであった。そこの港は陸地に入り込んだ海からの大きな入江で、やがてその海は大河と混じり合う。この町は、他のすべてのシナ地方と同じく、住民のための果樹園、田畑と屋敷が町の真ん中にあって、ちょうど、我が国のスィジルマーサの町とよく似ており、他ならぬこのために、彼らの町は規模が大きくなっている。
 (イブン・バトゥータ著、家島彦一訳注『大旅行記』より引用。但し、一部改変)

問い ザイトンとも称されたザイトゥーンの都市名を漢字で答えた上で、当該都市を取り巻く11〜13世紀の国際関係を論じなさい。(400字以内)

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京大世界史2017

京都大学 過去問

1 (20点)

 中央ユーラシアの草原地帯では古来多くの遊牧国家が興亡し、周辺に大きな影響を及ぼしてきた。中国の北方に出現した遊牧国家、匈奴について、中国との関係を中心にしつつ、その前3世紀から後4世紀初頭にいたるまでの歴史を300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

2(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[    ]の中に最も適切な語句を入れ下線部(1)〜(19)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 梁啓超は、近代中国において多方面で活躍した人物で、史学の分野においては「新史学」を提唱した。大学での講演をもとにして1922年に刊行された『中国歴史研究法』に、彼のいう史学の革新を見て取ることができる。
 彼は、中国の史学は(1)二百年前までは世界で最も発達していたとするが、伝統的な史学を評価していたわけではなく、歴史家[  a  ]が始めた、王朝史(断代史)のスタイルを厳しく批判した。また、(2)唐朝の『晋書』編さんによってそれ以前の「旧著十八家」がすたれたとして、正史の弊害を指摘する。旧来の史書の中でほめたのは、通史である(3)「両司馬」の作品などわずかだった。
 彼が目指したのは、死者への評価を主としてきた旧来の史学を、現に生きている国民の為の新しい史学に改造することだった。具体的には、(4)時代精神の推移の把握」や、(5)史学以外の学問の導入などを主張するとともに、とくに史料の収集・鑑別に注意を払った。文献だけではなく、遺跡・遺物の重要性を説き、(6)5世紀に開削された雲崗石窟や、(7)元代の天文観測器などを例に挙げる。そして、史料保存の必要性を説き、三十年前に外務省にあたる[  b  ]から借覧した、(8)康熙帝の時代にロシアと交わした往復文書の存否に思いを馳せている。また、外国文献のユニークさに注目して、彼が近時の外国人排斥運動にちなんで「千年前の[  c  ]」と呼んだ(9)黄巣軍の外国人殺害がアラビア語の記録に残されている例を挙げる。
 梁啓超の「新史学」は、日本を介して西洋史学の影響を受けており、本書でも西洋の中国研究の進展に注意しているが、日本の研究に対する評価は低い。だが、同時代には国外の中国研究の中心として(10)パリとともに京都を挙げる中国人もいたし、梁自身かつては日本の研究成果を高く評値していたのである。当時の代表的な東洋史家の一人である桑原隲蔵(じつぞう)は本書に対する書評において、日本の研究に対する評価の変化に触れつつ、史料論における欠陥を痛烈に批判した。外国の史料に目を向けるのはよいが、なぜ日本や(11)朝鮮の史料に注目しないのかという指摘は、彼一流の皮肉と言えよう。
 本書さらには梁啓超の学問全体について、中国でもその欠点が指摘されてきたが、彼が個別の学問を越えて近代中国に与えた影響は否定すべくもない。


(1) 梁啓超は清代を学術復興の時代と評する一方、史料の欠乏は清代ほど甚だしいものはないとしている。そうなった理由を簡潔に述べよ。

(2) 唐の太宗は「晋書」において、愛好した書の名人の伝記の賛(末尾のコメント)を自ら著している。その名人の名を答えよ。

(3) 「両司馬」の作品のうち、一つは可馬遷の『史記』である。もう一つの作品名を答えよ。

(4) 梁啓超は、対立するかに見える儒教と仏教の発展に共通項があることを指摘し、六朝隋唐時代にはともに経典注釈が流行したが、宋代に入ると儒教では内容的な「新哲学」がおこり、仏教においてもある宗派が他を庄したとする。その宗派の名を答えよ。

(5) 梁啓超が重視した学問の一つが心理学である。たとえば、ヴェルサイユ条約締結の過ちには戦勝国の首脳の心理が作用したとしている。中国がこの条約に調印できなかった国内事情について簡潔に述べよ。

(6) この石窟はインドの仏教美術の影響も受けている。当時、インド北部を支配していた王朝の名を答えよ。

(7) 元代にイスラーム圏の天文学を取り入れて暦を作ったのは誰か。

(8) 康煕帝の時代にロシアとの間で締結された条約名を答えよ。

(9) 外国人殺害がおきた、南海交易の中心部市の名を答えよ。

(10) フランスで中国研究が盛んになったのは18世紀以降である。盛んになった理由を簡潔に述べよ。

(11) 隲蔵は実例を挙げていないが、康煕帝の時代に南方で起きた出来事に際しての清と朝鮮の関係が、朝鮮史料に豊富に残されているということがある。その出来事とは何か。

B 現在エジプト国民の約1割がキリスト教徒とされ、その起源は非常に古い。キリスト教は3世紀頃までにローマ帝国全土に広まり、エジプトにおいても4世紀末の国教化以前から優勢となっていた。ところが、451年の[  d  ]公会議で単性論や(12)ネストリウス派の主張が退けられると、エジプト・シリアなどで反発がおこった。(13)離脱した者たちは独自に教会を組織し、エジプトにはコプト教会(コプト正教会)が生まれた。コプトとはエジプトのキリスト教徒を指す言葉である。その後コプト教会はときに東ローマ帝国から弾圧された。
 7世紀前半アラビア半島におこったイスラーム国家は、政治力・軍事力を強めて領土を拡大し、第2代正統カリフ[  e  ]の指揮下に(14)エジプト・シリア・イラクを征服して軍営都市を建設した。このときエジプトやシリアのキリスト教徒からは激しい抵抗はなかったという。追害を受けていたコプト教会の信徒たちはイスラーム教徒の支配下で「啓典の民」として安定した法的地位を得ることになった。その後エジプトはウマイヤ朝、アッバース朝、(15)アッバース朝から事実上独立した諸王朝に支配されてイスラーム化が進行し、10世紀後半には(16)シーア派を奉じるファーティマ朝の支配を受けることになった。ファーティマ朝はキリスト教徒やユダヤ教徒に対しておおむね寛容であった。
 12世紀後半にファーティマ朝を滅ぼした[  f  ]朝はスンナ派を復興するとともに十字軍に反撃し、1187年イェルサレムを奪還した。この時期を含む、十字軍とイスラーム勢力との長期的な戦いは、イスラーム王朝の下でときに弾圧されてきたコプト教会の立場をさらに苦しいものとした。13世紀半ばエジプトに侵入した十字軍は、[  f  ]朝にかわったマムルーク朝によって撃退された。このとき頭角を現わした[  g  ]は、(17)1260年モンゴル軍をやぶった後に即位し、マムルーク朝繁栄の礎を築いた。
 16世紀前半にマムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国の支配下では、納税を条件にキリスト教徒やユダヤ教徒に慣習と自治が認められた。しかし、この頃すでにコプト教会信徒の人口は、現在と同じくエジプトの総人口の1割程度となっていたようだ。オスマン帝国では強力な中央集権体制がとられたが、18世紀までには[  h  ]制(軍事封土制)が徐々にくずれまたエジプトほかの属州に中央権力が及びづらくなった。(18)18世紀のアラビア半島では預言者ムハンマドの教えに立ちかえる運動や神秘主義教団の改革運動がおこり、19世紀後半にはイスラーム圏全域に広まった
 1805年エジプトではムハンマド=アリーがオスマン帝国から総督に任命された。(19)彼は対外的な軍事行動でオスマン帝国の要請に応える一方、国内では近代化政策をおしすすめた。エジプトは近代的な世俗国家への道を歩み始め、コプト教会の信徒たちはその後アラブ民族運動に積極的に貢献した。


(12) (ア) これに先立つ431年の公会議では、ネストリウスが異端とされた。この公会議はどこで開かれたか。都市名を記せ。

(イ) その後ネストリウス派はある王朝の下で活動し、メソポタミアで勢力を拡大した。この王朝の名を記せ。

(13) このような教会は、エジプト・シリア以外でも組織された。かつてソ連に属し、現在、教会の総本山の建造物・遺跡で有名な地域はどこか。現在の国名で記せ。

(14) この頃の征販活動にともなう軍営都市を意味したアラビア語の単語を記せ。カタカナ表記でよい。

(15) アッバース朝のトルコ系軍人がエジプトでトゥールーン朝をおこした頃、中央アジアにはイラン系の王朝が成立した。この王朝の名を記せ。

(16) ファーティマ朝はシーア派の中のイスマーイール派に属したが、現在シーア派最大の宗派は何か。その名を記せ。

(17) このときイル=ハン国君主フラグはモンゴル帝国皇帝の死去にともない前線を離れていた。死去したモンゴル帝国皇帝は誰か。その名を記せ。

(18) 19世紀前半にメッカで創設され、のちにリビアに進出して植民地支配への抵抗の核となった神秘主義教団は何か。その名を記せ。

(19) (ア) ムハンマド=アリーはオスマン帝国の要請に応じてアラビア半島に出兵し、1818年ある王国を一度は滅ぼした。その王国の名を記せ。

(イ) 1839年オスマン帝国でも近代化改革の指針となるギュルハネ勅令が出された。このときのオスマン帝国皇帝の名を記せ。

3(20点)
 社会主義世界は、1980年代に経済面および政治面で大きな変革をせまられた。ソ連、東欧諸国、中国、ベトナムにおける当時の経済体制および、政治体制の動向を、それらの国・地域の類似点と相違点に着目しつつ、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

4(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[    ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(16)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答楠に記入せよ。

A 歴史上において、人はしばしば集団をなし、大規模な移動を行ってきた。西洋の前近代においても、移動の顕著な例がいくつも見られる。それらには、強力な武器を持った戦士集団が周囲に拡大するように移動した事例が含まれてはいるものの、生命の安全と生活の糧を得るためにやむなく集団で移動するに至った、近代以降の移民や難民に似た事例も少なくない。
 西洋史上で注目される最初の大規模な移動として、前2000年頃より北方からバルカン半島に南下したギリシア人のケースをあげることができるだろう。彼らは(1)ミケーネ文明の担い手となり、(2)さらに東地中海地域に広く分布して、ポリスと呼ばれる独自の都市国家を多数形成した。また、西方のイタリア半島にも前1000年頃に古代イタリア人が南下したが、その一部であるラテン人がテヴェレ川の河畔に建てた(3)都市国家ローマが、やがて帝国を築くに至った。
 こうした地中海周辺地域での動きとは別に、アルプス山脈の北側では別の移動があった。ヨーロッパの中央部では、前8世紀頃から鉄製の武具を装備した戦士集団が拡大するように東西に移動し、西はイベリア半島、東は小アジアまで達した。彼らは[  a  ]人と総称されるが、前1世紀にローマがアルプス山脈の北にも征服を進めると、ガリア地方に居住する[  a  ]人はその支配下に組み込まれ、次第に同化した。しかし、(4)彼らと接してその北東のゲルマニアに住んでいた人々は、一部はローマ帝国の支配下に置かれたものの、多くは帝国の外に居住し、ローマと交易をしたり、掠奪のために帝国領に侵入したりした。
 4世紀後半になって、東方から[  b  ]人の移動に押されたゴート人が、生命の安全と生活の糧を求めて移動を開始し、ローマ帝国に救いを求めて376年にドナウ川を渡った。しかし、帝国領に入った人々に対してローマ帝国側が苛烈な敢り扱いをしたため、(5)移住者たちは反乱を起こて、ローマ軍を撃破し、皇帝を戦死させるに至った。これ以後、ゲルマニアやその東方に居住していた人々が集団をなして続々と西へ移動を始め、5世紀になるとローマ帝国の西半は大混乱に陥った。
 この大移動の結果、長らくローマ帝国統治下にあった西ヨーロッパでは、政治秩序が大きく変化した。(6)イタリアは東ゴート人が統治する国となり、イベリア半島には西ゴート人が王国を建てた。アルプス山脈の北でも、[  c  ]人の諸集団が(7)ク口一ヴィスによって統合されてガリア北部に王国を形成し、さらに南へと勢力を拡大していった。ブリテン島では、口ーマ帝国の支配が終わった後、島外からの来襲が繰り返されるようになり、アングル人やサクソン人の定住と支配が進んでいった。
 こうした古代の終焉期の大規模な移動によって大きく変化した陸ヨーロッパは、9世紀初めに(8)カール大常によってその大部分が統一された。(9)大帝は、数世紀前よりヨーロッパ中央部に移動して強勢をなしていた遊牧民を制圧してもいる。しかし、この頃、新たな移動が本格化した。ユトランド半島やスカンディナヴィア半島を本拠とするノルマン人は、8世紀後半からヨーロッパの各地に来航し掠奪や交易を行っていたが、次第に内陸部に到達するとともに、定住を開始し、閤家建設も始めたのである。そして、西北フランスにノルマンディ一公国を建て、イングランドをも征服した。シチリアにも王国を建て、ロシアにノヴゴロド国、次いで(10)キエフ公国を建てた。


(1) ミケーネ文明の実態を知ることができるようになったのは、出土した粘土板に書かれた文字をイギリスのヴェントリスらが解読したからである。この文字は何と呼ばれているか。

(2) ギリシア人は方言の違いからいくつかの派に分けられるが、アテネを築き、小アジアの西岸にもポリスを数多く建てた一派は何人と呼ばれるか。

(3) 都市国家ローマは、その初期、イタリア半島の先住民の王によって支配されていた。ローマの国家形成や文化に大きな影響を与えたこの先住民の名を記せ。

(4) 口ーマ人の記録によれば、ゲルマニアの往民は、集団にとって重要な決定をある機関で行っていた。その機関の名を記せ。

(5) この皇帝の敗死後に即位し、ゴート人を帝国領内に定住させて混乱を一時的に収めたローマ皇帝は、キリスト教を帝国の国教とする政策も実施した。この皇帝の名を記せ。

(6) イタリアに進撃して東ゴート人の王国を建てた王は、口一マ帝国の統治と文化の継承をはかったとされる。この王の名を記せ。

(7) クローヴィスが行った宗教的な措置は、その後の[  c  ]人の国家発展の基礎となった。この措置の内容について、簡潔に説明せよ。

(8) カール大帝は、広大な領土を集権的に統治するためにどのような行政上の措置をとったか。その内容を、役職名を示しつつ、簡潔に説明せよ。

(9) この遊牧民の名を記せ。

(10) キエフ公国に最盛期をもたらしたウラディミル1世は、ギリシア正教を国教とし、ある国の専制君主政治をまねた。ある国とはどこか。

B 16世紀以降、バルト海周辺地域の覇権をめぐって諸国の争いが繰り返された。

 スウェーデンとデンマークの対立によってカルマル同盟は解体し、両国はともにルタ一派を受容しつつ戦争を続けた。[  d  ]を中心都市とする(11)ドイツ騎士団」領でも、騎士団総長がルタ一派に改宗し、1525年にプロイセン公としてカトリックのポーランド国王に臣従した。さらに16世紀後半には口シアも、バルト海への出口を求めて争いに加わった。
 1625年、デンマークは三十年戦争に参戦したが、神聖ローマ帝国の皇帝軍に敗北した。(12)スウェーデンは1630年に参戦し、フランスと同盟を結んで皇帝軍を破った。スウェーデンはデンマークとの戦争でも勝利を重ね、17世紀後半には「バルド海帝国」と呼ばれる権勢を誇った。
 1700年からの北方戦争では、デンマーク、ポーランド、ザクセン、ロシアが同盟してスウェーデンと戦った。スウェーデン国王カール12世は各国の軍を撃破したが、1709年にウクライナのポルタヴァでロシア軍に敗れ、南に敗走して[  e  ]に亡命した。ポーランドやロシアと対立していた[  e  ]は翌年にスウェーデン側に立って参戦するが、スウェーデンの劣勢を挽回するには至らなかった。その後、ロシアによる黒海沿岸の[  f  ]併合に[  e  ]が抗議して1787年にロシアと開戦すると、翌年にはスウェーデンもロシアに宣戦布告している。
 北方戦争の結果、口シアは今日のエストニアとラトヴィアの一部を獲得した。戦争中にロシアは新首都ペテルブルクをバルト海沿岸に建設し、バルト海経由の交易を増大させた。また、1701年にプロイセン公国は王国に昇格したが、国王フリードリヒ1世は[  d  ]で戴冠式を挙行している。その後、ポーランド分割でロシアはリトアニアなどを、プ口イセンは港湾都市[  g  ]などを獲得した。ロシアの発展にバルト梅沿岸在住のドイツ人が大きく関与するようになり、また、(13)プロイセン領[  d  ]の大学からは重要な思想家や作家が輩出した
 (14)1756年に始まる戦争で、スウェーデンは当初中立を保ったが、イギリスによる中立国船舶の掌捕(だほ)政策に抗議し、デンマークとともに武装中立を提唱しのちに対英戦争に参戦した。(15)1780年の武装中立問盟の結成も、1778年にスウェーデンが戦時中の中立国船舶の保護を訴えたことに端を発している。これは国際法における中立国の権利に関する考え方を発展させるきっかけになった。
 フランス革命勃発後、スウェーデンとロシアは革命の波及を恐れ、ともに1805年の第3回対仏大同盟に参加したが、口シアはナポレオン軍との戦闘で敗退を重ね、1807年にフランスと講和を結んだ。その後ロシアは一転してスウェーデン領[  h  ]に侵攻し、[  h  ]は1809年にロシア皇帝が大公を兼任する大公出となった。
 ナポレオンの没落以降、第一次世界大戦までバルト海沿岸をめぐる大きな国境の変更はなかった。(16)第一次世界大戦に際しスウェーデンは中立を維持したが、バルト海南岸はロシアとドイツの戦場となった。口シア革命が勃発すると、バルト3国は口シアから独立した。独立を回復したポーランドも、いわゆるポーランド回廊でバルト海に接することとなり、また[  g  ]は自由都市となった。ドイツ系住民が大多数を占めていた[  g  ]のドイツへの返還要求が、ドイツのポーランドに対する宣戦布告の名目のーつとなった。
 1939年、ソ連は[  h  ]に侵攻し、1940年にはバルト3国を軍事的圧力のもとに併合した。翌年からの独ソ戦でバルト3国の住民は両陣営に分かれて戦うこととなった。[  d  ]とその周辺は、大戦末期の凄惨な包囲戦と戦後のドイツ系住民追放を経てソ連領となり、市名もカリーニングラードと変えられた。


(11) ドイツ騎士団がこの地域の植民を進めたのは、13世紀前半以降である。12世紀末の結成当初の活動目的を答えよ。

(12) スウェーデンとフランスとの同盟は、三十年戦争の性格の変化を端的に示しているといえる。なぜそのようにいえるのか、簡潔に説明せよ。

(13) この大学の総長も務め、『純粋理性批判』などを著した哲学者の名を記せ。

(14) (ア) この戦争の名称を記せ。
(イ) この抗議の思想的根拠として、17世紀オランダの法学者の議論が参照された。『海洋自由論』などを著したこの法学者の名を記せ。

(15) 中立国船舶の航行の自由などを宣言した1780年の武装中立同盟は、誰がどのような目的で提唱したか、簡潔に説明せよ。

(16) (ア) 第一次世界大戦の開戦当初は、多くの国が中立を宣言したが、その後いくつかの国が参戦に転じた。1917年に参戦した国名を一つ挙げよ。

(イ) その後もスウェーデンは独自の外交政策を展開した。スイスは19世紀に国際会議で永世中立を認められている。この会議の名を記せ。

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東大世界史2017

-東京大学 過去問

第1問
 「帝国」は、今日において現代世界を分析する言葉として用いられることがある。「古代帝国」はその原型として着目され、各地に成立した「帝国」の類似点をもとに、古代社会の法則的な発展がしばしば議論されてきた。しかしながら、それぞれの地域社会がたどった歴史的展開はひとつの法則の枠組みに収まらず、「帝国」統治者の呼び名が登場する経緯にも大きな違いがある。
 以上のことを踏まえて、前2世紀以後のローマ、および春秋時代以後の黄河・長江流域について、「古代帝国」が成立するまでのこれらニ地域の社会変化を論じなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。(太字は中谷の強調)
  漢字 私兵 諸侯 宗法
  属州 第一人者 同盟市戦争 邑

第2問
 世界史に登場する国や社会のなかで、少数者集団はそれぞれに、多数者の営む主流文化との緊張のうちに独自の発展をとげてきた。各時代・地域における「少数者」に関する以下の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して記しなさい。

問(1) ポーランド人の国家は14世紀後半から15世紀に隆盛したが、18世紀後半に至ってロシア、オーストリア、プロイセンによって分割された。ポーランド人はそれぞれの大国のなかで少数者となり、第一次世界大戦を経てようやく独立した。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) ポーランド人の国家が隆盛した時期の状況と、その後衰退した背景について、3行以内で説明しなさい。
 (b) プロイセンの主導でドイツ人の統一国家が成立した際、ポーランド人以外にも有力な少数者集団が、国内の南部を中心に存在した。それはどのような人々であり、当時いかなる政策が彼らに対してとられたか、2行以内で説明しなさい。

問(2) 史上たびたび、アジアには広域支配を行う国家が登場し、民族的に多様な人々を治めるのに工夫をこらした。また、近代に入ると、国民国家の考え方が、多数派を占める民族と少数派の民族との関係にも大きな影響をもたらした。これらは、今日に至るまで民族の統合や衝突の背景となっている。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) 清朝は、藩部を掌握するために、どのような政策をとっていたのか、2行以内で説明しなさい。
 (b) 1965年に独立国家シンガポールが成立した。その経緯について、シンガポールの多数派住民がどのような人々だったかについて触れながら、2行以内で説明しなさい。

問(3) 北アメリカ大陸各地でも、ヨーロッパ入植民以来の発展のなかで様々な少数者集団が生まれた。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) カナダの国土面積の約15パーセントを占めるケベック州では、今日なお半数以上の住民が英語以外のある言語を母語としている。このような状況が生まれる前提となった、17世紀から18世紀にかけての経緯を2行以内で記しなさい。
 (b) アメリカ合衆国では、南北戦争を経て奴隷制が廃止されたが、その後も南部諸州ではアフリカ系住民に対する差別的な待遇が続いた。その内容を1行でまとめ、その是正を求める運動の成果として制定された法律の名称と、そのときの大統領の名前を記しなさい。解答はそれぞれ行を改めて記しなさい。

第3問
 人類の歴史は戦争の歴史であったといっても過言ではない。古代から現代に至るまで世界各地で紛争や戦争が絶えなかった。戦争に関連する以下の設問(1)〜(10)に答えなさい。解答は解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(10)の番号を付して記しなさい。

問(1) パルティアの領土を引き継いだササン朝は、西方ではローマ帝国としばしば戦火を交えた。260年のエデッサの戦いでは、ローマ軍を打ち破ってウァレリアヌスを捕虜とした。このときのササン朝の君主の名前を記しなさい。

問(2) 北部を除くイベリア半島全体を支配下におさめたイスラーム勢力は、ピレネ一山脈を越えて南西フランスに侵攻したが、732年、トウール・ポワティエ間の戦いでフランク王国の騎馬軍に敗北した。このときのイスラーム勢力およびフランク王国のそれぞれの王朝名を記しなさい。

問(3) 三十年戦争は、ハプスブルク家によるカトリック信仰の強制に対して、ベーメン(ボヘミア)の新教徒が反抗したことから始まった。バルト海に影響力をもっていたある新教国は、当初は参戦していなかったが、皇帝軍の北進に脅威を抱いて途中から参戦した。この新教国の当時の国王の名前を記しなさい。

問(4) ナポレオンは、1798年、イギリスのアジアへの通商路を遮断するためエジプトに遠征し、在地のマムルークをカイロから追放し、さらにエジプトの奥地やシリアにも転戦した。その後、フランス軍は1805年にイギリス艦隊に大敗した。ジプラルタル付近で起こったこの戦いの名称を記しなさい。

問(5) 清では、1860年代から、西洋の軍事技術などを導入して富国強兵をめざす政策が推進され、兵器工場なども建てられた。この政策において、曾国藩、左宗裳とともに中心的役割を果たした人物の名前を記しなさい。

問(6) 19世紀後半、南下政策を進めるロシアは、オスマン帝国からの独立をめざすバルカン地域を支援し、オスマン帝国と戦い、勝利した。このとき、締結された条約によって、ロシアはひとたびはバルカン地域での勢力を大幅に強めた。この条約の名称を記しなさい。

問(7) 19世紀末のスーダンでは、アフリカ縦断政策を進めるイギリスと、アフリカ横断政策を進めるフランスが対立し、軍事衝突の危機が生じたが、フランスの譲歩により衝突は回避された。この事件の名称を記しなさい。

問(8) インドシナでは、1941年に共産党を中心として、統一戦線が結成された。この組織は、植民地からの独立をめざして日本やフランスと戦った。この組織の名称を記しなさい。

問(9) 1963年に3か国の間で調印された部分的核実験禁止条約(PTBT)は、地下実験を除く核兵器実験を禁じている。この3か国の名称を記しなさい。

問(10) 17世紀の前半に活躍したある法学者は、戦争の悲惨さに衝撃をうけて『戦争と平和の法』と題した書物を著し、軍人や為政者を規制する正義の法を説いた。この法学者の名前を記しなさい。

過去問

過去問 -東京大学 -一橋大学 京都大学

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解答例の依頼先を変更しました

世界史論述練習帳new 過去問

 拙著『世界史論述練習帳new』の巻末にある解答例の依頼先が変更になりました。yusurayama@enjoy.email.ne.jp となっていますが、以下に依頼のメールをください。大学名・年度・第何問と。高校名・何年・名前も忘れず。

 

whnashi◎yahoo.co.jp (← ◎の箇所を @ に変えて) 

東大オープンと実戦

模擬試験 -東京大学

2016年東大オープン
第1問
 18世紀後半、北アメリカで始まった革命を契機として、 19世紀前半までの間に大西洋を挟むヨーロッパとアメリカ大陸では、政治・社会・経済の大変革がおこった。この変革は当該地域に様々な影響をもたらしたが、その一つは内部の対立の顕在化であった。また、両地域の変革は環大西洋地域を越えて世界各地に新たな摩擦・対立を生むことになった。
 以上のことを念頭にヨーロッパとアメリカ大陸地域の変革に伴い当該地域や世界各地で生じた摩擦・対立について、19世紀中頃を中心に、その背景に留意しながら論じなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。
 フアレス 『共産党宣言』 南北戦争
 滅満興漢 日米和親条約 コッシュート
 シパーヒー フランクフルト国民議会

(解答)
ナポレオン没落後、列強はウィーン体制でナショナリズムの抑制に努めたが、二月革命に続きドイツ三月革命で体制が崩壊すると、ナショナリズムが高揚した。ドイツでは自由主義者がフランクフルト国民議会を開催して統一問題を討議し、小ドイツ主義と大ドイツ主義の対立が生じた。オーストリアの支配に対しては、コッシュートがハンガリーの独立を宣言した。イギリスで本格化した産業革命は、ヨーロッパ各地に資本主義社会を出現させ、資本家と労働者の対立が顕在化した。マルクスは『共産党宣言』を著して民族を越えた労働者の団結と社会主義国家の建設を訴えた。アメリカ合衆国の北部では工業化が進展し、奴隷制農園の批判が高まると、南部諸州が合衆国からの離脱を求め南北戦争が勃発した。中南米ではクリオーリョを主体とした独立運動の後も大土地所有制が存続し、権威主義的政治が行われたが、メキシコでは、フアレスを中心とする自由主義的改革が始まったことから、保守勢力の抵抗とフランスの干渉で内戦に発展した。欧米で進んだ資本主義体制はアジアを変動させた。日米和親条約で鎖国を破られた日本では攘夷運動を背景に倒幕の動きが活発化した。アヘン戦争の結果、自由貿易体制に組み込まれた清では銀価が高騰し、重税に苦しむ農民が滅満興漢を唱える太平天国に結集した。またイギリスの綿製品の流入で伝統的手工業の解体したインドでは、シパーヒーの反乱が起こった。
………………………………………
▲ 1800年前後の「大変革」とは産業革命であり、米仏の市民革命(大西洋革命)、ナポレオン戦争を指しているのは確かでしょう。それの「内部の対立の顕在化」を19世紀の中頃まで飛んで影響を与え、「摩擦と対立」が生じた、とする立論そのものに時間的な経緯を無視したムリがあります。
 「模範」解答例を見てみると、1800年前後の変革(内部の対立の顕在化)と関連させていない文がたくさんあります。
 まず「ナポレオン没落後(対立顕在化の終了後)」から始まっていますが、フランス革命はどこへ行ったのでしょう? これを元にしないで、ウィーン体制→二月革命に飛び、フランクフルト国民議会まで突っ走っている。摩擦・対立を書かなくてはならないので、普墺の大小主義は書かなくてはならないですが、これがフランス革命・ナポレオン戦争の「内部の対立の顕在化」とどう通じているのか説明してもらいたいものです。
 コッシュートもフランス革命とどう関係しているのか分からない。たんに国民議会のつづきとしてだけ書いている。
 産業革命と共産党宣言は通じやすいですから、なにか他にないの、という感じです。「イギリスで本格化した産業革命は、ヨーロッパ各地に資本主義社会を出現させ」ではなく、「イギリスで本格化した産業革命は、ヨーロッパ各地に工業化(産業革命)を進展させ」のはずです。飛びすぎです。
 あとの合衆国がいきなり「北部では工業化」なんて、どこに1800年前後の大変革(内部の対立の顕在化)がからんでいるのか分からない。せめて米英戦争と経済的自立のきっかけくらい書けよ、とおもいます。
 「中南米ではクリオーリョ」以降は確かに1800年前後なので、これはそのまま行けます。ただ「フアレス」と自由主義改革は1800年前後の変革(内部の対立の顕在化)とどうつながっているのか? 書いてありません。
 アジアの欧米進出と1800年前後の関連性はどこにも書いてないですね。「欧米で進んだ資本主義体制」だけで「大変革(内部の対立の顕在化)」を言い切っていいものでしょうか? 書くとすれば、「欧米市民革命は国民を統合し、産業革命は市場拡大を求めてアジアに侵出」と書くべきでしょう。「内部の対立の顕在化」より欧米側の国内結束です。
 出題文と「模範」答案のズレがひどい解答文でした。むしろ解答文からはシンプルに19世紀中頃に起こった内乱や内部対立を地域別に箇条書き風に書けばよかったようです。するとなぜ1800年前後の「大変革」をもちだしてきたのか分からなくなります。

東大実戦
第1問
 第一次世界大戦と前後してユーラシア大陸の東西では、それまで国際秩序を構成していた大帝国の解体が進み、その際、史料にあるような「強大な国家」から「弱小民族」が自立する動きが起きた。しかし、自立を目指した東欧、中央アジア、中東、東アジアの諸民族のうち、二十世紀を通じて国民国家を維持できたものは少なく、多くは新たな「帝国」支配や国際対立に組み込まれ、20世紀を通じて帝国の残像は旧領域に残った。このことは、現代にまで続く地域紛争や民族対立の原因にもなっている。
 以上のことを踏まえて、20世紀前半の帝国の解体の経緯と、その後の諸民族の動向について、21世紀初頭までを視野に入れて論じなさい。
 委任統治 ウィルソン サン=ジェルマン条約
 外モンゴル ダライ・ラマ チェコ チェチェン
 中東戦争

(解答)
東欧では、ウィルソン米大統領が提唱した民族自決の原則が適用され、オーストリア・ハンガリー帝国はサン=ジェルマン条約・トリアノン条約で解体、チェコ人などスラヴ系民族が独立した。ロシア帝国も革命で崩壊し、ポーランド・バルト3国などが独立したが、その大半は第二次大戦の際、ソ連に再併合された。第二次大戦後、東欧諸国はソ連の衛星国として共産圏に組み込まれたが、冷戦終結で社会主義政権が崩壊、チェコとスロバキアが分離し、ユーゴスラヴィアは解体した。ソ連解体で独立した各共和国では少数民族も独立を主張し内乱を起こし、ロシア連邦でもチェチェンの独立運動が起こった。旧ロシア帝国領の西トルキスタンではトルコ系ムスリムが社会主義共和国としてソ連に編入されたが、ソ連解体後に独立した。オスマン帝国はケマルの革命で滅亡し、トルコ共和国が成立した。旧オスマン領のアラブ人移住地域の多くはフセイン・マクマホン協定に反し、サイクス・ピコ協定に基づいて英仏の委任統治領となったが、シオニズムを掲げるユダヤ人がパレスチナに流入、第二次大戦後イスラエルを建国しアラブ人と中東戦争を起こした。東アジアでは清が辛亥革命で滅亡し、外モンゴルはソ連の支援で中華民国から独立した。チベットはダライ・ラマにより事実上独立したが、中華人民共和国成立後、人民解放軍が介入し抵抗を鎮圧した。その後もチベットや新疆では漢族との対立から暴動が起こった。
………………………………………
▲ 1997年の過去問に「旧来の帝国の解体の経過とその後の状況について、とくにそれぞれの帝国の解体過程の相違に留意しながら」とそっくりの問題でした。指定語句は外モンゴルが同じでしたが、「模範」答案の文には、1997年の指定語句に使われていた語句、「民族自決、三民主義、少数民族、シオニズム、アラブ、モンゴル、オーストリア・ハンガリー、バルト三国」のうち三民主義以外はすべて使って書いてあります。あまり考えなかった物まね問題でした。新しいのは時間の範囲を「21世紀初頭まで」もってきたことです。1世紀もの時間の問題です。
 無理な課題とおもわれるのは、東大オープンと同様に時間的に長すぎることです。①帝国の解体の経緯に、②その後の諸民族の動向について、21世紀初頭までを」という長さです。じっさい、「模範」解答でも21世紀初頭まで書いているのは、「チェチェン……新疆では漢族との対立から暴動」ぐらいです。バルト三国にしても「再併合」の後のソ連崩壊と連動した再独立はあっていいのに書いてありません。ソ連から独立したウクライナ問題も書いていいでしょう。中東は「中東戦争を起した」で終わっていますが、ソ連解体・湾岸戦争後の中東における民族・宗派対立は書かなくていいのでしょうか? つまりチェチェン紛争以外に、アフガニスタン紛争(介入したソ連を追放するタリバン、その後の欧米軍の介入)もあります。湾岸戦争(1991)におけるアラブの分裂、スンナ派とシーア派の対立激化、米軍のプレゼンスと対抗する勢力(タリバン、アルカイダ)の台頭、パレスティナ自治問題などです。第一次世界大戦から問題になっているクルド人問題は今も未解決です。なぜ書いてないのか? 中国の21世紀初頭は「新疆」とするより「ウイグル(中国政府によるウイグル族弾圧)」の語句を使う方が題意に合っているようにおもいます。
 出題側の意図は、過去問1997年の目線は帝国側から少数民族へ向いているが、今回は少数民族が帝国の混乱でどうなったかを書かせる、ということらしいが、問題文に活かされていません。
 それに解答例にあるチェコとスロヴァキアが分離したことは少数民族問題なのでしょうか? ユダヤ人とアラブ人の対立は少数民族問題なのでしょうか? と疑問もでてきます。

 また東大の過去問の問題文は、第一段落は導入文で、第二段落は課題文、とほぼ決まっているのに、この実戦問題は導入文に地域限定をしているらしく「東欧、中央アジア、中東、東アジアの諸民族」と書いてしまっています。導入文で民族紛争・少数民族問題が多い地域をあげただけで、この地域以外のことも書くべきなのか迷う問い方でした。第二段落の課題文で、改めて「東欧、中央アジア、中東、東アジア」の語句を入れて問うべきでした。

 オープン・実戦のどちらの問題も、時空が広く長すぎて、書けることがたくさんあるので、どの事項をどこまで書くべきかの取捨選択に迷う問題となりました。東大の今年(2016)の問題が「1970年代後半から1980年代」と1989年冷戦終結のつながりを問うた問題であったためか、近い問題をつくってはみたものの、漠然とした問題しか作る能力がなかった。問題と「模範」答案がかみ合っていないのはそのためとおもわれます。出題者が自分の作った問題が何なのか理解しないで解答を作ってしまいました。

 

『世界史論述練習帳new』訂正

世界史論述練習帳new 訂正

巻末付録「基本60字」の10p、1番
「春秋戦国期の農業の技術的変化について述べよ。(指定語句→鉄製農具 牛耕)」という問題にたいして次のような解答を出しています。

石器・木器から鉄製農具へ、黄土台地の農耕から牛耕・灌漑による沖積平野の畑作へ、氏族共同体の経営から家族単位の経営へ変化。

 このうち「氏族共同体の経営から家族単位の経営へ」は技術的変化とは言いがたく、社会的な変化です。受験生の指摘により、次のようにこの解答を訂正します。指摘者に感謝します。

石器・木器から鉄製農具へ、黄土台地の農耕から牛耕・灌漑による沖積平野の畑作へ、用水路・堤防建設により荒地を耕地に変えた。