世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

2024一橋世界史

第1問
 次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 社会経済史的にみた中世北欧都市*の特色は、何よりもまず、それが「一つの大きな家計」単位として自覚せられ、「市民的生活全体の統一」として把握されうる点に存すると思う。そのわけは、市民の経済生活は、すでに相当程度の職業分化を前提としており、各家族のオイコス(家・家政)的・自給自足的理念を克服した点において、またランドゲマインデ(村落共同体)的・地縁的因習に束縛されぬ意味において、さらには領主的封建支配の桎梏を断ちきった意味において、原理的におよそ村落団体とは異なる形成体となり得たからである。
 すぐれて結晶的な景観を示すあの都市の中央に設けられた市場は、市民全体の経済活動の核心をなしていた。市場の繁栄は、ただちにもって「一つの家計」としての同質社会たる市民全体の福祉に影響する。(中略)それゆえ、極言が許されるならばこの家計の構成員たる市民は、文字通り一つの“Stadtvolk”*であり、いうところの「都市経済」とは、“Stadtvolkswirtschaft”*にほかならないとも考えられる。
  「都市経済」がこのような基盤と性格とを前提とするものとするならば、そこには必ずこの経済単位を規制する何らかの経済意欲が誕生しなければならない。すなわち、マックス・ウェーバーのいわゆる“wirtschaftsregulierender Verband"*としての意識は、「都市」または「市民」というものをば、まったく新しい経済政策のトレーガー(担い手)として登場せしめることとなる。ここからまたわれわれはいわばパトリモニアル(家産的)な封建領主のそれとは質的に異なった高次の政策意欲を指摘することができよう。
  では都市の経済政策は、いかなるかたちをもってあらわれるのであろうか。われわれはこれを、あの有名なビュッヒァーの経済発展段階説がしめすが如き、単に封鎖的なものとして一方的に規定するのではなしに、「封鎖的な面」と「開放的な面」との統合として考察すべき十分の理由をもっている。というわけは、中世社会において、都市が果たした経済的役割の重要性を as such として評価し、他方、中世市民がもっていた経済心理を考慮する場合、どうしてもこの両面の性格が矛盾なく並存していた事実を認めざるを得ないからである
(増田四郎『増補西欧市民意識の形成』より引用。但し、一部改変)
 *北欧都市:ここではアルプス以北の都市を指す。
 *Stadtvolk:「都市住民の総体」等を意味するドイツ語。 
 *Stadtvolkswirtschaft:「都市住民全体の経済」等を意味するドイツ語。  
 *wirtschaftsregulierender Verband:「経済的規制団体」等を意味するドイツ語。

問い 文章中の下線部について、下の史料に示されたビュッヒァーの見解の批判的検証を通じて都市経済の「封鎖的な面」と「開放的な面」を明らかにしつつ、アルプス以北の地域において中世都市が果たした社会経済史的意義を、12〜14世紀の神聖ローマ帝国領域内の複数の都市の事例に即して考察しなさい。(400字以内)

史料
 中世都市市場の搬入及び供給区域は地誌学的に精確に区画され得ないことは、その搬入及び供給の区域は市場貨財の異なるに従って自然にその延長を異にしていたがためではあるが、それにもかかわらずこの区域は経済的意味よりいえば、一箇の閉鎖的区域を形作っていたのである。すなわち各都市は、その周囲の「地方」と共に、自主的なる一経済単位を形成し、この範囲内において、経済生活の全過程がその地特有の規範に準じて、独立的に完遂されていた。
 (ビュヒァー(ビュッヒァー)『増補改訂 国民経済の成立』より引用。但し、一部改変)

 

第2問
  大西洋奴隷貿易により始まった南北アメリカ大陸・カリブ海域における奴隷制は、19世紀にそのほとんどが廃止された。19世紀における一連の奴隷解放の動きは、リンカンが「奴隷解放の父」として顕彰されるなど、各国の歴史において偉業と位置づけられ、また近年ではUNESCOなどが、奴隷解放を記念する国際年のイベントを開催している。
  しかし、2020年に米国で燃え上がり、世界各地へと広がったブラック・ライヴズ・マター運動では、黒人たちの貧困や黒人への日常的な人種差別、暴力が問われ、彼らは「黒人の命も大切」と訴えた。奴隷解放から一世紀以上が経つのに、なぜ不平等な扱いをいまも強いられるのかと、ブラック・ライヴズ・マター運動ではあらためて奴隷制という負の遺産の大きさと、奴隷解放のプロセスの問題点に注目が集まった。
  奴隷貿易や奴隷制の廃止に必ずしも「偉業」とは評価できない側面があり、それが現在の黒人たちの不遇な境遇と結びついているとすれば、それはどのような点だろうか。奴隷を解放した側からではなく、解放された側、すなわち、元奴隷や黒人社会、アフリカ各国の側からみた場合、奴隷解放とその後の解放された黒人に対する政策は、どのように評価することができるか。19世紀の奴隷貿易・奴隷制廃止の一連のプロセスを概説した上で、奴隷解放の問題点を中心に当時の国際関係や政治経済情勢に着目しながら論じなさい。ただし、下記の語句をすべて必ず使用し、その語句に下線を引きなさい。(400字以内)

 13植民地の喪失、西半球の最貧国、シェアクロッパー制、アフリカ分割

 

第3問

 10世紀から12世紀頃、唐王朝の滅亡に伴って発生した東アジア世界の政治的・社会的変動を述べなさい。(400字以内)

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コメントは後日

2024京大世界史

第1問(20点)
 乾隆帝の70歳の誕生日を祝賀する行事に参加する朝鮮の使節に随行して熱河の離宮に赴いた朴趾源(ぼくしげん)の『熱河日記』は、その冒頭で年次を記すのに「後三庚(こう)子」(明の崇禎(すうてい)年間より後の三回目の庚子の年)という表記を用いている。ここには、当時の朝鮮と中国の関係の一面が表れている。16世紀末から19世紀末にいたる朝鮮と中国の関係の変化について、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問
 次の文章(A、B)を読み[  ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(20)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

 マンチュリア(今日の中国東北地方および(1)ロシア極東の一部)のうち、今日の遼寧省に相当する地域には、戦国時代に中国本土の農耕民が本格的に入植するようになった。他方、遊牧民もしばしば南下し、やがて農耕民・遊牧民が混在する独自の空間が形成された。
 (2)『史記』匈奴列伝によれば燕は東胡を破り(3)長城を築いて、上谷・漁陽・右北平・遼西・遼東の五郡を設置した。遼西・遼東の二郡が今日の遼寧省にほぼ相当する。(4)漢王朝を開いた高祖劉邦は、盧綰(ろわん)を燕王に封じたが、盧綰はのちに匈奴に亡命した。このとき朝鮮半島に逃れた中国人が今日の平壌を中心に[ a ]を建国した。漢の武帝はこれを征服し、[ b ]・玄菟・臨屯・真番の四郡を設置した。
 後漢末年、[ c ]の乱を契機に、中国は群雄割拠の状態に陥り、遼東では公孫氏が自立した。公孫氏は呉と結んで魏に対抗したが、(5)魏に滅ぼされた
魏はついで高句麗に出兵した。鮮卑慕容(ぼよう)
部は魏の公孫氏・高句麗への遠征に従軍し、遼西に定住した。[ d ]の乱で洛陽が陥落すると、遼西・遼東は混乱に陥り、これに乗じた高句麗が、[ b ]郡を征服した。慕容廆(かい)は西晋の東夷校尉崔毖(さいしつ)を破って遼東を制圧し、高句麗と交戦した。慕容皝(こう)は燕王を自称し(前燕)、(6)龍城(今日の遼寧省朝陽市)に都城を築いた。慕容儁(しゅん)は後趙を滅ぼした冉閔(ぜんびん)を破って中原(北中国の東半)を制圧し、皇帝を称したが、慕容暐(い)は前秦の苻堅(ふけん)に敗れ、前燕は滅亡した。
 北中国をほぼ統一した符堅は、東晋征服を図ったが、淝水(ひすい)の戦いで大敗し前秦は滅亡した。慕容部は独立を回復し、慕容垂が後燕を建国したが、鮮卑[ e ]部の北魏に参合陂(さんごうは)の戦いで敗れ、遼西に退去した。ついで、高句麗が遼東を奪取した。慕容宝・慕容盛ののちに立った慕容煕(き)が暗殺され、慕容宝の養子で高句麗人であった慕容雲(高雲)が擁立されたが、これも暗殺され、馮跛(ふうばつ)が北燕を建国した。馮弘のとき、(7)北魏の侵攻で北燕は滅び、馮弘は高句麗領であった遼東に亡命したが、のちに殺害された。


(1) 17〜19世紀の諸条約によって、今日の中露国境がおおむね画定された。
(ア) 1689年、外興安嶺(スタノヴォイ山脈)を国境とするネルチンスク条約が締結された。このときの清の皇帝は誰か。
(イ) ロシアは1858年の条約で黒竜江(アムール川)左岸を獲得し、1860年の条約で沿海州を獲得した。1858年の条約の名を記せ。
(2)『史記』匈奴列伝は中国北方の諸民族に関する最初のまとまった記述である。
(ア)『史記』の著者は誰か。
(イ) 長城以北の諸民族の統一を達成し、漢に対峙(じ)した匈奴の君主は誰か。
(3) 秦の始皇帝は戦国時代の中国北辺の長城に基づき万里の長城を築いた。燕の隣国で中国北辺に長城を築いた国の名を記せ。
(4) 高祖はおおむね秦王政(のちの始皇帝)即位時の秦の旧領を直轄領とし、秦以外の六国の旧領に諸侯王を封建した。このような制度は何と呼ばれるか。
(5) このときの魏の遠征軍司令官の孫で西晋を建国した人物は誰か。
(6) 北魏は龍城に営州という州を設け、マンチュリア諸民族との通交の窓口とした。のち営州出身とされる人物が8世紀半ばに起こした大乱は何と呼ばれるか。
(7) 北魏はほどなく北涼を滅ぼして北中国統一を達成した。
(ア) このときの北魏の皇帝は誰か。
(イ) このときの北魏の都の名を記せ。

 人はしばしば特定の場所や地域を神聖視する。そのことが歴史の展開に及ぼした作用、現代の事象に与える影響は無視できない。
 ヒジャーズ地方のイスラームの両聖都は、その保護者にムスリム君主としての威信を付与した。オスマン朝は、[ f ]の治世に両聖都の保護権を入手
した。このことは以後の同朝の君主たちが(8)イスラームの守護者として振舞う上での重要な根拠となった。
 世界中のムスリムが巡礼の義務の遂行や預言者の墓廟への参詣のために両聖都を目指したことは、各地の経済にとって重要な意味を持った。1324年に巡
礼を行った(9)マンサ=ムーサは、その道中に(10)カイロで大量の(11)を気前よく分け与え、当地の金価格を大暴落させたと伝えられる。これは突出した事例だが、ムスリム巡礼者たちの往来が各地に様々な経済効果をもたらしたことは疑いない。
 巡礼の義務は、政争や戦争で敗北が近づいた有力者たちの亡命の口実とされることがあった。彼らの「巡礼」も、それで無用な戦闘・破壊・混乱の継続が回避されたという意味で、経済的意義があったと言えるかもしれない。国共内戦末期、青海の軍閥のムスリム将領、馬歩芳は、蔣介石から惨敗必至の抗戦を命じられたため「巡礼」に発ち、そのまま中国に帰らずカイロに住み、のちアラビア半島の(12)ジェッダに移って同地で没した。
 両聖都へ向かうムスリムの動きは、新たな知の創出にも寄与した。両聖都のうち、北に位置する[ g ]は、17世紀、遠近のムスリム学者が集う、重要なイスラームの学術センターとなっていた。中でも、クーラーニーという(13)クルド系の人物が学者ネットワークのハブ的な存在として活躍した。彼の弟子筋に当たる人々は、世界各地におけるイスラーム思想の発展や政治・社会の動向に多大な影響を与えた。
 クーラーニーの学統に連なるイブン=アブドウル=ワッハーブは、サウード家をイデオロギー面で支え、その台頭を助けた。(14)この際のサウード家の建国運
は結局頓挫したが、のちに同家は、両聖都を支配する王国を建設した。アメリカが(15)この王国の防衛も目的として、その領内に軍隊を駐留させたことは、一部のムスリムから聖地の冒瀆(とく)とみなされ、2001年の同時多発テロ事件の一因になった。聖地は、ときに紛争の種にもなる。
 ムスリムの聖地は、(16)三大聖都以外にも数多くある。例えば(17)セイロン島のアダムズピークには、預言者アダムの足跡があるとされ、ムスリムの参詣地となっている。なお、この足跡を、仏教徒はブッダのそれ、ヒンドゥー教徒は(18)シヴァのそれとみなしている。
 (19)タリム盆地ムスリムたちはそこにイスラームを伝道したと信じられている者たちの墓を、盛んに崇敬し、参詣してきた。その参詣活動は、(20)タリム盆地のトルコ系ムスリム定住民の一体感を育んだとも言われる。


(8) マレー半島と向かい合ってマラッカ海峡を形成する南側の島の北部に、15世紀末に成立したムスリム国家は、19世紀にオスマン朝を宗主と侍んで軍
事支援を求めた。このムスリム国家の名称を記せ。
(9) この王が統治した国の名称を記せ。
(10) 当時この都市を支配していた王朝は、軍人に俸給として一定の土地の徴税権を与える制度を採用していた。この制度の名称を記せ。
(11) 10世紀、建国当初、サハラ砂漠を縦断する塩金交易路の北側の入口をおさえて隆盛し、最盛期にはヒジャーズ地方まで勢力を及ぼした王朝の名称を
記せ。
(12) 彼のジェッダ移住は、エジプトと中華人民共和国がバンドン会議(アジア=アフリカ会議)での外交接触の翌年、国交を樹立したことが契機となっ
たと言われる。当時のエジプトの指導者で、バンドン会議に参加して翌年に大統領に就任した人物は誰か。
(13) サファヴィー朝のタブリーズ再征服(1603年)に始まる戦争を避けて、多くのクルド系の学者たちがシリアなどに移住した。この戦争でサファヴィー朝の旧領を奪還した君主の名前を記せ。
(14) このサウード家の建国運動を挫折させた人物を始祖とする王朝の名称を記せ。
(15) この措置は、ある中東の国家元首が1990年に起こした軍事行動に対するものであった。この国家元首の名前を記せ。
(16) のちにイスラームの聖都となる地で、バビロン捕囚から解放されたヘブライ人が神殿を再興した。バビロンを征服してヘブライ人を捕囚から解放した
王の名前を記せ。
(17) 17世紀半ば、ポルトガルにかわって、この島の一部を支配するようになったヨーロッパの国はどこか。
(18) 南インドのある王朝では、11世紀初めに即位した王が、新都に壮大なシヴァ寺院を築いたり、セイロン島やシュリーヴィジャヤ王国に出兵して海上
交易覇権の掌握を目指したりした。この王朝の名称を記せ。
(19) 19世紀後半の一時期、この地域一帯に独立政権を樹立した、コーカンド=ハン国出身の人物は誰か。
(20) タリム盆地の西部では、10世紀末にサーマーン朝を滅ぼしたある王朝の治下で、住民のイスラーム改宗が進んだ。この王朝の名称を記せ。

第3問
 キリスト教世界がローマ=カトリック教会とギリシア正教会とに分裂していく過程について、8世紀に力点をおいて、教皇領の形成と関連づけながら、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問
 次の文章(A、B)を読み、下線部(1)〜(25)について後の問に答えよ。また、Bについては[  ]中に当てはまる最も適切な語句を答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

 黒海は、地中海につながる内海である。ヨーロッパとアジアが接するところに位置するために、この海とその周辺地域は、言語的・文化的・宗教的に多様な背景をもった集団が出会い、相互に影響を与え合い、ときには激しく衝突する舞台となってきた。
 エーゲ海の北東に位置するダーダネルス海峡からマルマラ海をへてボスポラス海峡を抜けると、黒海に入る。(1)古代ギリシア人は、紀元前8世紀頃から、このルートをつうじて黒海に進出し、その沿岸の各地にポリスを築いた。(2)これらの黒海沿岸のポリスは、ギリシア人と黒海北岸に広がるステップ地帯に住む遊牧民との交易の拠点となった。紀元前1世紀になると、黒海南岸の一帯は、ローマの支配下に組み込まれた。(3)紀元後8年には当時のローマを代表する叙情詩人であったオウイディウスが黒海沿岸に追放されている。4世紀前半になると、(4)コンスタンティヌス帝は、ボスポラス海峡の西岸に、新たな首都となる都市コンスタンティノープルを築いた。
 4世紀末にローマ帝国が東西に分裂すると、黒海の西岸から南岸にかけての地域は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配下におかれた。西ローマ帝国の滅亡後も(5)ビザンツ帝国の勢力は衰えず、6世紀には地中悔を取り囲む地域に支配を広げるにいたった。他方、11世紀末に、西方のキリスト教諸国は、ムスリムの支配下に入ったイェルサレムを奪回するために十字軍をおこした。しかし(6)13世紀になると、十字軍は当初の目的から離れて、コンスタンティノープルを占領・略奪した。14世紀からはオスマン帝国がアナトリアから西方に向かって勢力を拡大し、バルカン半島に進出した。(7)1402年、オスマン帝国は、東方からアナトリアに進出した勢力に大敗したが、その後国力を回復し、1453年にはコンスタンティノープルを占領してビザンツ帝国を滅ぼした。
 この頃、黒海北岸のクリミア半島にはクリム=ハン国が成立しており、1475年以降はオスマン帝国の宗主権のもとにおかれた。他方で、(8)バルト海南岸から東南方に勢力を拡大したリトアニア大公国は、1386年にポーランド王国と同君連合を結んだ。ローマ=カトリックの君主が支配するポーランド=リトアニア国家は、黒海北方のステップ地帯で、オスマン帝国を後ろ盾とするクリム=ハン国とたびたび衝突することになった。「ウクライナ」と呼ばれたこのステップ地帯に、15世紀から16世紀にかけて、領主の抑圧を嫌う農民たちが逃げ込み、コサックと呼ばれる集団を形成するようになる。17世紀半ば、ウクライナのコサックは、この地域を支配するポーランドに対して反乱を起こした。1654年、ウクライナ=コサックは(9)モスクワ大公国(ロシア)と協定を結んでその宗主権のもとに入るが、1667年にはロシアとポーランドが協定を結び、ウクライナは、おおむねドニプロ川(ドニエプル川)の東西で分割されることになった。
 18世紀前半、(10)ピョートル1世のもとでロシアは北方戦争に勝利し、バルト海の覇権を握ってヨーロッパの強国の一翼を担うようになる。ピョートル1世は黒海への進出も意図し、アゾフ海の制海権をめぐってオスマン帝国と戦った。18世紀後半になると、ロシアはさらに積極的に黒海北方への進出政策を
展開した。1782年、エカチェリーナ2世はウクライナ=コサックが支配していた領域を直轄領とし、(11)翌83年にはクリム=ハン国を併合してクリミア半島を支配下においた。さらに(12)ポーランド=リトアニアの分割に加わってその領上を併合することによって、ウクライナ中西部を支配下に組み込んだ。こうして黒海の北方に勢力を広げたロシアは、19世紀をつうじて、(13)黒海の覇権と地中海への自由通航権などをめぐって、オスマン帝国や西欧の列強と戦争を繰り返すことになる。


(1) このようにギリシア人が本国から離れて建設したポリスを何と呼ぶか。その名称を記せ。
(2) 紀元前5世紀に、小アジア出身のギリシア人歴史家が、ペルシア戦争を題とする歴史書のなかで、これらの黒海北岸の諸民族についても記述している。この歴史家の名を記せ。
(3) この詩人の追放は、当時のローマを支配する最高権力者の命令によるものであった。この支配者の名を記せ。
(4) この皇帝が発布した命令によって、キリスト教はローマ帝国に公認された。この命令の名称を記せ。
(5) (ア)首都コンスタンティノープルで、6世紀に、当時の皇帝の指導のもとに、ビザンツ様式を代表する大聖堂が再建されている。この大聖堂の名称を記せ。
 (イ)7世紀以降、ビザンツ帝国は異民族の侵入に対処するため、帝国の領域を区分して司令官に軍事と行政の権限を付与した。この制度の名称を記せ。
(6) このときの十字軍がコンスタンティノープルを占領して建てた国家の名称を記せ。
(7) このときの会戦でオスマン帝国に勝利した国家の指導者の名を記せ。
(8) このときに成立した王朝の名を記せ。
(9) このときのロシアの王朝の名を記せ。
(10) この戦争で敗れてバルト海の覇権を失った国の名を記せ。
(11) ロシアはクリミア半島の南端に黒海艦隊の拠点を築いた。この軍事的な要地の名を記せ。
(12) ロシアは、第2次ポーランド分割によってウクライナ中西部を併合した。このときロシアとともにポーランドの分割に加わった国の名を記せ。
(13) (ア)1878年、ロシアはオスマン帝国とのあいだに自国に有利な講和条約を結んだ。この条約の名称を記せ。
(イ)(ア)の条約におけるロシアの南下政策の成功にイギリスとオーストリアが反発し、ベルリンで開かれた国際会議によってロシアの企図は阻止さ
れた。この国際会議で調停役を務めた政治家の名前を記せ。

 人類の言語は分化と混交を繰り返している。地域や民族を超えた意思疎通の必要性から、人々は共通語を設定し、時にそれを他者に強要してきた。ヨー
ロッパにおける共通語のあり方は世界の言語状況にも影響を与えた。
 西欧ではローマ帝国で用いられていたラテン語の権威が強固だった。ラテン語が帝国の主要言語だったことに加え、教会でも(14)ラテン語訳の聖書が正典化され、典礼もラテン語でおこなわれるようになったことが大きい。しかし俗語(非ラテン語)による行政文書の作成や文芸活動は宗教改革前から進んでおり、活版印刷の普及や(15)新約聖書の俗語訳などがラテン語の地位低下を加速させた。(16)1492年には初の近代ヨーロッパ言語の文法書とされる『カスティーリャ語文法』が出版された。17世紀頃から大学の講義も徐々に俗語化されている。
 ラテン語は今も多くの国で教養として学ばれており、(17)さまざまな学問分野でラテン語の造語規則に従って新語が作られている。多言語状況の中で中立的とみなされたラテン語を用いる慣行は近代以降にも散見される。例えば、4つの公用語があるスイス連邦は、19世紀後半にラテン語の(18)「コンフェデラティオ=ヘルヴェテイカ(ヘルヴェティア連邦)」を正式国名の一つとした。また、(19)ヴァチカン市国では現在もラテン語が公用語である。しかし、ローマ=カトリック教会も1960年代に典礼の非ラテン語化を容認しており、日常的なラテン語使
用の機会は減っている。
 一方、ローマ帝国の東部地域ではギリシア語が広く用いられていたが、新約聖書はシリア語などにも翻訳されていた。トルコ系遊牧民がバルカン半島に侵
入して[ a ]を建国すると、先住民族であるスラヴ人との混血が進み、9世紀後半のキリスト教受容後に聖書や典礼のスラヴ語化が進められた。教会ス
ラヴ語はキリスト教とともに他のスラヴ系諸民族にも浸透した。加えて東欧ではドイツ語も広められたが、ギリシア語も教会スラヴ語もドイツ語も、西欧に
おけるラテン語ほどの地位を獲得することはなかった。
 17世紀には、フランスの国力を背景に、さまざまな分野でフランス語が広く使われるようになった。1635年には(20)フランス語の整備を主目的とする組織が設立された。(21)18世紀にフランス語はヨーロッパの共通語の地位を獲得した。神聖ローマ帝国の一部やロシアやオランダなどの上流階級はフランス語を常用した。しかし19世紀にはフランス語の地位も徐々に低下した。例えば1856年のパリ条約はフランス語を正文としたが、(22)1919年のヴェルサイユ条約の正文は英語とフランス語である。
  一方で16世紀以来、ヨーロッパの諸言語は植民地化を通じて話者を増加させた。この増加はときに暴力的に成し遂げられたが、(23)脱植民地化以降も、ヨーロッパの言語が非ヨーロッパ地域で使われつづけている例は多い。20世紀後半には旧植民地諸国での話者の多さや、アメリカ合衆国の超大国化などを要因として、英語が次第に優位になっていった。
  他方、既存の特定の言語ではなく人工言語を共通語にする試みもあった。ラテン語が衰退しつつあった17世紀後半には多くの人工言語が構想された。例えば、単子論を提唱し積分記号や二進法でも有名な[ b ]は漢字を参考にしつつ、概念的に整理された普遍記号を構想した。フランス語の権威が揺らぎつつあった19世紀後半にも第二の人工言語ブームがあった。特に、(24)ロシア帝国領生まれのユダヤ系ポーランド人であるザメンホフによるエスペラント語の普及活動は一定の広がりを見せた。しかし(25)国際連盟の作業言語にエスペラント語を採用する試みはフランスの反対によって実現されず、ソ連邦でもエスペラント語の普及活動は弾圧された。
 [ b ]の普遍記号構想の一部は電子計算機に受け継がれたといえる。現代では機械翻訳による言語習得の負担減も試みられつつあるが、複雑な情報の正確な伝達のツールとしてはまだまだ課題も多い。


(14) 典礼のラテン語化と前後して正統教義も確立された。三位一体説について簡潔に説明せよ。
(15) 神聖ローマ帝国のベーメン(ボヘミア)では、ルターに先駆けて聖書の俗語訳や教会改革運動がおこなわれていた。
 (ア) 改革を提唱し火刑となった人物の名を記せ。
 (イ) コンスタンツ公会議でこの人物とともに異端宣告を受けたイングランドの神学者の名を記せ。
(16) このときのカスティーリャ王国の女王は誰か。
(17) 18世紀に動植物の学名の命名法を確立したスウェーデン人学者の名を記せ。
(18) 1798年から数年間、ヘルヴェティア共和国という国家が存在していた。スイスに侵攻し、この国家を建てさせた国の名を記せ。
(19) イタリア王国と教皇庁は長らく対立状態にあった。最終的にヴァチカン市国の独立を認めた時のイタリアの首相の名を記せ。
(20) この組織の名を記せ。
(21) この時期の代表的なフランスの啓蒙思想家で『哲学書簡』(『イギリス便り』)などを著した人物の名を記せ。
(22) この条約で非武装化された地域の名を記せ。
(23) アフリカの植民地が多数独立し「アフリカの年」と呼ばれたのは何年か。
(24) ザメンホフは1870年代後半ごろから人工言語を構想していたとされるが、その後ロシアにおけるユダヤ人の状況は急激に悪化した。ある皇帝の暗
殺が大規模な反ユダヤ暴動の引き金となった。その皇帝の名を記せ。
(25) ある国はこの組織に参加しなかったが、1920年代には国際平和を求める活動を主導するようになった。1928年の不戦条約に、この国の代表として
署名した人物の名を記せ。
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東大世界史2024

第1問
 次の文章は、1964年3月に国際連合の事務総長ウ・タントが、ある会議でおこなった演説の一部である。これを読んで下記の2つの設問に答えよ。解答は、解答欄(イ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)(2)の番号を付して記せ。

 世界では二つの変化が並行して進みつつあり、戦争いらい、重要性を増してきました。一つはおもに政治的な、もう一つはおもに経済的な変化です。(中略)
 戦後には、植民地および半植民地とされていた諸民族の政治的解放が、すみやかに進みました。第二次世界大戦後、アジアの諸民族の大半は独立した存在として世界の舞台に登場してきました。1960年代になると、アフリカの台頭がみられました。より最近では、ラテンアメリカ諸国のなかで、重要な変化にはずみがついているようです。(中略)
 すでに言及した政治動向は世界の広範な部分でみられるでしょう。国際連合では発展途上地域と普通よばれているところです。しかし、これらの地域は実際には発展していないか、あるいは十分な速さでは発展していません。程度はさまざまですが、深刻かつ持続的な低開発の状態に苦しんでいます。これらの地域は、工業化された社会に比べて、ますます遅れをとっています。それだけでなく、とくに人口増加を考慮に入れれば、生活水準が絶対的に悪化している場合もあります。ここから現代のジレンマをみてとることができます。政治的な解放が得られてもそれにともなって、期待どおりの経済的な進歩が生じるわけではないのです。

問(1) 演説で述べられているように、諸民族の政治的解放が進んだが、独立を得る過程では戦乱が起こっただけでなく、独立した国どうしが対立を深めるなど、道のりが容易ではない場合も多かった。1960年代のアジアとアフリカにおける、このような戦乱や対立について、12行(1行30字─中谷の注)以内で記述せよ。その際、以下の4つの語句を必ず一度は用い、その語句に下線を付すこと。

 アルジェリア コンゴ パキスタン 南ベトナム解放民族戦線

問(2) 演説で述べられている経済的な問題は、どのような歴史的背景をもち、その解決のため1960年代に国際連合はいかなる取り組みをおこなったのかについて、5行以内で記述せよ。

第2問
 ある書物が、なぜ、どのように、書かれ、読まれ、伝えられてきたのかを問うこと、あるいはそれが葬り去られたり忘れ去られたりした理由を考えることは、歴史をみる一つの有効な視点となりうる。このことに関連する以下の3つの設問に答えよ。解答は、解答欄(口)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して記せ。

問(1) キリスト教の正典の一つである『新約聖書』は、1世紀末から4世紀末にかけての時期に次第に現在の形になったとされる。このことに関連する以下の(a)・(b)・(c)の問いに、冒頭に(a)・(b)・(c)を付して答えよ。

(a) 1世紀から4世紀末にかけてのローマ帝国におけるキリスト教と政治権力との関係の推移について、4行以内で説明せよ。
(b) 325年、キリスト教の教義形成にとって重要な会議が開催された。この会議について、その名称に触れながら3行以内で説明せよ。
(c) 『新約聖書』などの正典のほかにも、キリスト教の歴史において重要な意味をもった書物は多く挙げられる。そこにはキリスト教成立以前の書物も含まれる。その著作やそれへの注釈が翻訳されることを通じて中世のスコラ学者たちに多大な影響を与えた、「万学の祖」とも呼ばれる古代ギリシアの哲学者の名前を記せ。

問(2) 史上初のトルコ語・アラビア語辞書とされるカシュガリー著『トルコ諸語集成』は、1077年頃にバグダードで書かれた。この本は20世紀前半に①イスタンブルで初めて刊行されたが、その際に使われた写本は、②セリム1世の治世以降に彼の征服地からもたらされたものと考えられている。このことに関する以下の(a)・(b)・(c)の問いに、冒頭に(a)・(b)・(c)を付して答えよ。

(a) 『トルコ諸語集成』の著者序文には、トルコ人が広く権力を握る執筆当時の様子が記されている。その頃の西アジアー帯はあるトルコ系王朝の支配下にあったが、その王朝の初代スルタンの名前を記せ。

(b) 下線部①に関連して、13世紀初めにこの地に建てられた国家の成立の経緯を、国家の名称を挙げながら2行以内で記せ。

(c) 下線部②に関連して、セリム1世治下のオスマン帝国による対外戦争の成果について、2行以内で記せ。

問(3) 17世紀半ばに中国の支配王朝となった清は、従来の制度や慣習を認めつつ、満洲人による支配の徹底をはかった。このことに関する以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えよ。

(a) 書物に関して、清はどのような政策を展開したか。書物や編纂物の名称を挙げながら、3行以内で説明せよ。

(b) 清の支配のもとでは、儒学の経典や歴史書を厳密に校訂・検討する学問が発展した。この学問の名称と、清初にこの学問の基礎をつくった学者のうち、1名の名前を記せ。

第3問
 人類の歴史において、軍事的征服や領土の拡大が新しい統治の形態を生み出したり、支配された人々の抵抗運動が当該地域における政治意識を形成したりする現象は、時代や地域を問わず、みることができる。征服と支配、それに対する抵抗など
に関する以下の設問(1)〜(10)に答えよ。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(10)の番号を付して記せ。

問(1) ローマは第1回ポエニ戦争でカルタゴに勝利し、シチリアを獲得した。ローマはこれ以後も征服戦争を進め、地中海周辺地域を中心に多くの地域を支配下においていった。こうしたローマによるイタリア半島以外の支配地は何と呼ばれているかを記せ。

問(2) 衛氏朝鮮を滅ぼした前漢の武帝は、その領域一帯に4つの郡を設置した。このうち現在の平壌付近を中心とする地域に設けられた楽浪郡は、中国から派遣された官僚により統治され、400年あまり存続した。4世紀初めに楽浪郡を滅ぼした国の名称を記せ。

問(3) 13世紀初めにハン位についたチンギス=ハンは、モンゴル系・トルコ系の諸部族を統合するとともに周辺の諸地域も次々に征服した。その後もモンゴル帝国の膨張は続いたが、広大な帝国内の交通を円滑にするために整備された駅伝制の名称を記せ。

問(4) モスクワ大公として東北ロシアを統一し、「タタールのくびき」と呼ばれたキプチャク=ハン国によるロシア支配を15世紀後半に終わらせた人物の名前を記せ。

問(5) 18世紀のアラビア半島においで[   ]派はイスラーム教の教えの厳格な解釈を目指す改革運動をおこない、サウード家と協力してイスラーム法に基づく国家建設を主導した。文中の空欄に入る適切な語を記せ。

問(6) イギリスの植民地となったインドでは西洋的教養を身につけたインド知識人による社会変革の運動が起こった。そのなかには、妻が夫の遺体とともに焼かれて死ぬという慣習の禁止を求める運動もあった。この寡婦殉死の慣習の名称を記せ。

問(7) 19世紀後半、ベトナムでは、フランスが軍事的進出を企て、支配を強めていった。この動きに対して、黒旗軍を組織して抵抗運動をおこなった人物の名前を記せ。

問(8) ヨーロッパ列強がアフリカでの領土獲得競争に本格的に乗り出すなかで、1898年、アフリカを横断して領土拡大をめざしていた国(a)と縦断政策を進めていた国(b)との間で軍事衝突の危機が発生した。この2国の名称を、冒頭に(a)・(b)を付して記せ。

問(9) ディアス大統領による長期にわたる独裁体制がしかれていたメキシコでは、1910年、自由主義者マデロの呼びかけによりメキシコ革命が起こり、ディアス政権は打倒された。この時、北部出身の指導者ビリャとともに農地改革の推進をめざした農民運動指導者の名前を記せ。

問(10) 20世紀後半、非西洋に対する西洋のまなざしを批判的に検討する動きが活発化する。このような潮流のなかで、ポスト=コロニアル研究の代表作の一つである『オリエンタリズム』(1978年)を著し、東洋に対する西洋の見方を批判的に論じた人物もいる。その人物の名前を記せ。

………………………………………

コメントは後日

新作論述問題

 
 太平洋戦争と現行のウクライナ戦争の共通点と相違点を述べよ。その際、次の語句を1回は使用せよ。全部で500字以内で述べよ。
 
 満州国 石油 クリミア半島 常任理事国 NATO プロパガンダ 枢軸国  

 解答例
共通点は、ともに広大な土地をもつ隣国に侵略したこと、それは当時の第一次大戦と第二次大戦後の国際秩序を力で現状変更を迫る暴挙であること、戦争の始まる以前に一定の成功例があり、それを拡大した点でも共通している。満州国の樹立、チェチェン・クリミア半島侵攻である。侵略国が短期に征服が可能と誤算した点も似ている。また両国は、侵攻を戦争と呼ばず、内外の批判にたいしてプロパガンダを駆使して戦争を正当化した。共に連盟常任理事国、安保理常任理事国でもある。世界を2極化した点でも共通している。枢軸国と民主国、旧共産主義の権威主義国と民主国の対立である。侵略された国々は他国の援助で対抗した点も共通している。中国は国共合作だけでなく欧米の支援を受け、ウクライナ側もNATO他の支援を受けて戦ってる。共に大量の戦死者・負傷者をうみ、各国の軍拡を促した。相違点は、プーチンはソ連を再現しようとしたのに対し、日本は過去に帝国はなく帝国形成の最中であった。石油を豊富にもつロシアにたいして、日本は石油を奪いにいった。日本は世界的な大恐慌に発する危機を大陸の支配圏拡大で解決しようとしたが、ロシアに経済危機はなかった。
………………………………………
 この問題はわたしの創作問題とは言いがたいもので、前田朗・明治大学教授が今年7月にされた講演「ウクライナ戦争と太平洋戦争」がヒントになっています。共通点が多いのですが、相違点は語られなかったので、わたしが追加しました。


(わたしの解答例)に書いてないこととしては、次のようなことも言えます。

共通点………………………………
侵略にたいする国際的な非難(リットン調査団/国連決議)
侵略する国の混乱(国共内戦/親欧と日欧の対立)を利用した
傀儡政権(南京政府/東部自治政府)の樹立
核の使用と使用危機

相違点………………………………
共産勢力の勢いがあった/共産勢力は衰えている
連盟脱退した/連合を脱退していない

 指導者について言及する方もあるとおもわれます。つまりプーチンと昭和天皇のことです。たぶんプーチンという独裁者と昭和天皇は同列におけないという考えがあるとおもいます。「天皇制ファシズム」は政治学者・丸山真男の造語ですが、ここに「制」という語句が付いていて、天皇個人に責任を当てはめていない曖昧な言葉です。これは丸山を含めて、戦争中に天皇がどういう役割を果たしたかが不明であったこと、というより勝手な推測で天皇は「象徴/人形」に過ぎず、戦争指導者ではなかった、という認識をしていたためです。これはマッカーサーの進駐軍も同じで、天皇は戦争に関わらなかったと信じていました。

 しかし現在は天皇の側近たちの著作・メモ・日記が次々と発表され、どういう主張・行動をしていたかが判ってきました。天皇の側近たちの記録が次々と出版されているからです。
 ①侍従長だった百武三郎の日記『百武三郎日記』2019年から閲覧可能
 ②内大臣だった木戸幸一の日記『木戸幸一日記』1966年
 ③軍令部総長だった永野修身の『大本営政府連絡会議議事録』2000年
 ④参謀総長だった杉山元の『杉山メモ』2005年
 ⑤宮内庁長官だった田島道治の『拝謁記』2021年
 ⑥侍従次長だった木下道雄の『側近日誌』2017年
 ⑦宮内省御用掛の寺崎英成の『昭和天皇独白録』1995年

 これらはみな戦後もだいぶ経ってから出版されたもので、戦争中の日本人、戦後の多くの日本人も、まったく知らなかった内容です。天皇は軍部の方針・作戦を17回も変更させており、これらの記録では天皇が軍のトップを叱りつけている姿も出てきます。詳しくは山田朗『天皇と戦争責任』(新日本出版社)の第二部「天皇の戦争指導」に書いてあります。一日おきに陸軍と海軍の軍令部長が天皇に会い、戦争の進捗状況を報告に来ていて、天皇は戦争の全体をもっとも知っている唯一の人物でした。この会見の際に、疑問を出したり、怒鳴りつけたりして戦争の動向を操ろうとしました。御前会議でほとんど喋らなかったのはポーズにすぎず、根回ししていて結論は天皇にとって自明でした。
 ということなので、プーチンと同列に置いても、わたしなら加点します。

『世界史論述練習帳new』への質問

世界史論述練習帳 new』の別冊基本60字についての質問です。「……」の後がわたしの回答です。また、わたしのミスの指摘もしています。

A 「60字問題集」の別解がある問題とない問題はどのような違いがあるのでしょうか。……同問でも内容に幅のある問いとそうでなて問いとの違いです。

p2 問4 の別解に「騎兵の戦争から歩兵の戦争に変わり」とありますが、政治上の変化としてよいのですか。(毛沢東の言葉でしたっけ...)……騎兵ということは位が高く豊かなひとたちを意味し、歩兵は一般に貧しい農民の兵士という上下関係なので、政治的な上下とも関連してきます。これは西欧古代(ギリシア・ローマ)でも同じです。また軍事・兵制は政治の制度の一つです。問題によっては、軍事・兵制だけを切り取って出題される場合もありますが。

p7 問25 の直接民主政から間接民主政というのがよく分かりません。中国で直接民主政を主張したのがあまり現実的でない感じを受けます。……確かにそうです。しかし孫文は西欧を見学して西欧がたいてい「間接」であり、有力有産の一部のひとたちが政権を独占していると見たので、「直接」を唱えました。孫文も後では無理と分かって変えました。

p13 唐末五代に紙幣が流通とありますが、教科書は紙幣は北宋が初めてで飛銭は唐代に流通していたというようなことが書いてありました。前頁の問題8のように唐末五代宋を想定していらっしゃったのでしょうか。……そうです。飛銭が紙幣として使われ出したので、宋の交子・会子に繋がっていきました。飛銭は唐代だけ使う用語ではなく「銭送銭手形制度(為替業)をさす唐宋時代の用語。便換・便銭ともいう」と京大東洋史辞典では説明しています。

p19 問3 に六朝に仏図澄の布教・鳩摩羅什の訳経とありますが、北朝ではないのですか。……この「六朝」は文化史の時代表現として「六朝時代」の意味で使ったものです。初め布教の時は華北ですが、華中華南にも仏教は伝わりました。後の説明文で北朝が国家、南朝が個人と普及の仕方がちがったことを指摘しています。

p21 問10 注にp67参照とありますが、本冊にも別冊にも関連する項目が無いのですがどこでしょうか。……これはわたしのミスです。p.71の図が該当します。

p22 問16 にその帝国主義政策がはワシントン会議の9か国条約でも確認されたとありますが9か国条約は抑制的な物ではないのですか。……確かに目立ったかたちでは「帝国主義」政策は主張していないのですが、中国に関する条約だけでなく、セットとして結ばれた四ヶ国条約でフィリピンの安全保障を確保するとともに、日英同盟を廃棄させることに成功した点で、アメリカなりにすでに得ている地域(フィリピンに日本を侵出させない)は列国に認めてもらうことに成功しています。文章の中に「四カ国条約」も入れとけばよかった。わたしのミスです。

p22 問17 にイリ地方を奪取したとありますが、イリ条約で返還したのではないですか。……ヤクブ=ベクの反乱からイリ地方を領土にしていたイスラーム教徒をロシアが承認して保護国化していました。そこへ左宗棠が半分奪い返して再び清朝の領土にします。イリ地方の全部ではなく半分の東側を清朝領とするかわりに、西側は賠償金とともにロシアも取りました。歴史地図を見ると分かりやすい。清朝はバルハシ湖までもっていたのですが、天山山脈の方まで条約では後退しているのです。用語集では「(イリ条約)イリ地方は清朝に返還されたが、ロシアに貿易上の利権が与えられた」と書いていますがまちがいです。返したのは半分ですから、以前からすれば半分奪われているのです。

p23 問18 について、中国の、集団化の前の土地分配までの段階は、フランスのものとどう違うのでしょうか。解答を見ると言葉は違いますが同じようなことを表しているように見えます。……革命当初は似ています。中国共産党は土地調査をやり、家族の数も計り、貧しい者ほど多くの土地が取れるようにし、地主の多くを殺害しました。フランス革命ではここまでやっていません。また土地改革、つまり土地分配(フランスの場合は保有地を私有にしただけ)が、後の私有化のままのフランスと公有化した中国が違っている、という点もあります。

問8で、朴正煕時代にはその最初に第二共和国を打倒した他には民主化運動に関連することは起きていないのではないでしょうか。また、盧泰愚以降の大統領の記述が具体的に何を表しているのかよく分かりません。解答が全体として民主化運動に関することばかりではないように見えます。……確かに。民主化がメインではありますが、暗殺が民主化への希望を生みます。しかし独裁化も来たし、盧泰愚は大統領直接選挙を認めたことが、後の大統領選挙で軍人でない候補が立ち、軍人ではないひとたちが当選していきました。今はそれが慣例になっています。民主化という観点から戦後韓国史を書いてほしい、という問題です。

p26 問1 を普通に書いていると政治史ばかりになってしまいますが、文化面の活動も書いた方がいいということですか。……政治史として課題を出す大学もあり、文化史も伴う変遷を書いてほしい、という出題もあります。双方とも書けるとベターです。

p26 問2(1) はソグド人は書かなくて良いのですか。……書いてもいいですが、字数からトルコ人に限定したほうがいいです。ソグド商人はイラン系ですから。仲介的なことはしているので、字数がもっとあれば書いて良いとおもいます。

p27 問5 の革命干渉戦争の終息とともに、というのがよく分かりません。もともと人民党が主導していたのではないですか。……(注)でも書いていますように、人民革命党単独では軍事的な平定は無理でした。援助によって独立したので、ソ連の衛星国とも採られるのはそのためです。

p28 問1 注にモン人たちの国々にペグーが挙げてありますが、ピューではないでしょうか。……ペグー朝の民族も言語もモン人・モン語です。ピューは別名モン王国ともいうようにモン語を使うひとたちもいました。ともにミャンマーの南部にいた民族なので、重なっています。

p28 問3 タイ人の南下は元に大理が滅ぼされて起こったと書いてあるものがありましたが、それは間違いですか。……いいえ。正しいです。大理はビルマ(ミャンマー)人・タイ人の故郷です。今の中国領雲南省にあった国ですが、蒙古人が初めて中国領にしました。それまで中国領ではなく「南詔→大理」と代わった非中国の地域です。

p29 問5 香料貿易と香辛料貿易は違うのでしょうか。……香料の中に香辛料があります。一般に香料貿易といったら香辛料の取引をさしますが、香料はこの香辛料の他に油・木・樹脂なども入ります。

p29 問6 華僑の小王国とは何のことですか。……東南アジアの島々の各地に華僑の住む王国が築かれました。実例としては、タイにトンブリー朝を興したのは華僑の子、別にインドネシアのデマック王国などです。これらは教科書に載っていません。

p29 問7 海外の熱帯産品を内陸に運ぶというところの熱帯産品とはどういうものですか。また港市国家は内陸から香辛料等を運び出して輸出するのだと思っていましたが、違うのですか。……熱帯産品とは熱帯で採れる果実・香料・油・ゴム・コーヒー・バナナ・カカオなどです。
 港市国家はたいてい東南アジアの島々の沿岸に位置していて、河口があればそこから内陸に運びますし、内陸のものを河口から輸出するので、どちらも使われます。シュリーヴィジャヤ王国の首都パレンバンは内陸にありますが、川で海とつながっていました。

p30 問9 オランダがインドネシアを独占したことは含めなくて良いのですか。……ボルネオ島はイギリスが北部をとり、ポルトガルティモール島を取るので完全ではないです。

p30 問10 イギリスがマレーを獲得したことは重要ではないのですか。……書いてもいいです。字数が許せば。

p35 問6 問題文にヘブライ人とあってもユダヤ人と言い換えても良いのですか。また、どちらの表記でも大きな違いは無いですか。……ないです。

p37 問15 2行目に11世紀前半の事が書いてあるのはなぜですか。……正確を期すために「前半」としました。当然ながらその状態は「後半」も続きますから。後ウマイヤ朝のアブド=アッラフマーン3世は929年にカリフを名乗り、ファーティマ朝も909年に建国当初から名乗りました。

p37 問18 指定語句がミッレト"制"だと文章構成が少し変わると思うのですが、どうするのが良いですか。……指定語句の通りでないのは、わたしのミスです。「ミッレト」を構成し→(正)はミッレト制を認められ

p40 問2 法前平等の前提にたたずとはどういうことですか。……「たたず」は「立たず」と同じで、そういう原則を前提にしない、制度化していない、という意味です。

p41 問6 工場とは手工業者の仕事場という意味ですか。また、市民が数家族をもちとありますがどういう意味ですか。……仕事場は、奴隷なので集団で働かせているため工場の形態をとっています。陶器・金細工・オリーブなどの工場です。
 奴隷は家族を持たないのではないですか。……「数家族」とは一人のスパルタ市民が、征服した先住のギリシア人を農家の数家族まとめて所有することを指しています。アテナイのように購買奴隷ではなく、一人一人別々に所有するのと違います。
 「奴隷は家族を持たない」はアテナイでは該当しますが、スパルタでは違います。先住民全体の支配ですから。
 「征服された先住民……第3身分がへイロータイ(へロットhelot)で、彼らはスパルタに抵抗して征服された隷属民で、スパルタ市民の土地に分属させられ、貢納の義務を負わされた。しかしへイロータイは自分たちの集落と家族をもち、財産も有していたから、奴隷とはことなる隷属民であった」(『詳説世界史研究』から)。スバルタの奴隷を奴隷としないで「隷農」と訳す学者もいるのはこのためです。

p42 問11 教科書等だと大土地所有が進んだというような記述がありますが、解答に含まれていないのは戦争前から大土地所有の進行の傾向があったからですか。……そうです。イタリアはギリシアと違いポー川、ティベル川、アルノ川などオールシーズンの川があり、周辺に平野が広がっていて、初めから大土地所有があり、貧富差が大きく、その点でも民主主義は不可能という土地柄です。もちろん戦争のたびにこの差は拡大しましたから、大土地所有が広がった、と書いても間違いではありません。

p42 問12 弟ガイウスは自殺した…兄弟ともに大土地所有者により殺された、と言っているようにも解釈できるのではないですか。
 ……確かにそうも採れます。わたしは弟のガイウスも追い詰められた殺されたに等しいとおもってます。かたちは自殺とも他殺ともとれる死に方をしています。本能寺の信長は自殺ですが、追い詰められて殺されたに等しいのと似ています。
  ウィキペディアの「ガイウス・グラックス」のところに次のような解説があります。
「奴隷の機転でガイウスは一旦は逃げ遂せるが、敵対者に捕まりそうになり、別の奴隷に自分を殺すよう命令。ガイウスは死亡、その奴隷も自ら命を絶ち、ガイウスの支持者たち3,000人が殺された。」

p44 問17 地方の有力者の大所領が帝国から独立するとはどういう意味ですか。……初めに経済的に独立し、後にゲルマン大移動とともに政治的にも独立します。ゲルマン人の諸小王国がたくさんできます。

p44 問19 最後の文は農奴の社会とコロヌス制が並列してありますが、この二つは違うものではありますが、貨幣政策の結果として対照をなすほどの違いがあるのでしょうか。……自然経済とは貨幣のない経済です。物々交換といってもいい社会になり、農民(コロヌス)への領主による圧力・閉鎖性が強まります。コロヌスではまだ小作人ではあっても領主の圧力が小さい状態をさしますし、ビザンツ帝国貨幣経済を維持します。

p46 問5 東にはポーランド王国ができ、とありポーランド王国が外圧の一つになっています。参考書にポーランド王国はドイツからの干渉を防ぐためにキリスト教を受容したということが書いてありましたが違うのですか。また、聖俗最高の支配者とありますが聖俗としてよいのですか。……「王国ができ」を外圧ととるのはオットー1世側の方で、「外圧・脅威」は侵略側の口実です。
 「参考書にポーランド王国はドイツからの干渉を防ぐためにキリスト教を受容」は古い説で、オットーの支配を受けないために、教皇と直接交渉してキリスト教化した、と今は新説があります。
 「聖俗」がまさに帝国教会政策です。教皇の就任に皇帝の認可を必要としました。ビザンツの皇帝教皇主義の西側の言い換えです。

p52 問4 ルピー銀貨について書いてあるものが見つけられなかったので少し教えてください。……デリー=スルタン朝末期にインドで発行され、ムガル帝国でも受け継いで発行しました。イギリスとの貿易でも使われた品質の良い貨幣です。

p55 問4 議会主権の共和制とありますが、議会は途中で解散されたのに議会主権としてよいのですか。……確かに変転はしましたが、革命派は議会派であり、議会を拠点に戦い国王を処刑したのであれば、決定機関としての「議会主権」は共和制の土台です。

P55 問5 近代的土地所有と営業の自由に関する記述がまとまっているものが無いので教えてください。……近代的土地所有とは、封建的土地所有という国王の上級所有権・諸侯の下級所有権・農民の保有権と重層的で相対的な所有権であったものを廃止したこと。国王の所有権と農民の保有権を廃止して地主の所有権=私有権=近代的土地所有権だけを認めました。一(いち)土地に一人の所有権(私有権)しか認めない。これにより私有地の売買が自由になった。ために土地は商品に転化します。
 国王の上級所有権……①
 諸侯の下級所有権……②
 農民の保有権…………③
という三層構造になっている状態が封建的土地所有(重層的土地所有)で、このうち誰か一人だけの所有を認めると近代的・絶対的な、つまりは私的な所有になります。私一人で上下の承認なしに土地の売買ができるようになり、これが土地売買の自由を生み、経済・営業が動き出しやすくなります。

p60 問8 注にメキシコ革命とあるのは誤植ではないかと思うのですが、革命の二文字を削除すればよいのかあるいは他の二文字の言葉を当てはめればよいのか分かりません。……そのとおりで、わたしのミスです。革命は要りません。

p63 問7 1922年に自治法が通過とありますがそうなのですか。1920年アイルランド統治法が成立というのは見たことがありますが。……これは私のミスです。形式的にはそのとおりなのですが、20年に調印しても英国政府と反乱側が対立した状態のままで、1922年に双方で「イギリス・アイルランド条約」を結ぶことで、やっとアイルランド自治が実現します。しかし法は1920年です。

p65 問10 ネップの自由化から五カ年計画で再統制という流れは必要ないのですか。……「集団化」が統制にあたる政策です。

p67 問17 共産主義対反対派という構図は強調されるほど第二次世界大戦に当てはまるわけではないように思えますがどうなのですか。……もちろん第二次世界大戦がいろいろな側面をもっているのですが、スペイン内戦でもいろいろな側面があり、すべての面を書くのが課題ではないです。

p67 問2 天皇を決意させというのは意味内容が曖昧になってしまわないでしょうか。……敗戦しても権威者・天皇が生き残ったのが3国では日本だけであり、かれの決定により敗戦となりました。「曖昧」より特異性を示したつもりです。3国比較の問題なので。

p68 問6 マーシャルプランに対抗してコミンフォルムを結成という記述は他でも見られますが、なぜですか。マーシャルプランに対抗するのはコメコンであるような感じがするのですが。……確かに経済には経済ですが、この時期の経済は原爆を所有する米国が第一の軍事力をもち、それが背後にいてマーシャル・プランを提示されると、軍事力と同じように東側には脅威ととられました。

B 本冊について、
p12 問1 1910年までの段階でシンフェイン党は武装闘争をしているのですか。またイースター蜂起〜アイルランド自由国までの過程のシンフェイン党の関与が教科書等だとはっきりしないので教えてください。……武装闘争はIRA(アイルランド共和軍)といって別の組織で、かれらは19世紀中頃から武装闘争はやっていました。それが1905年に結成された政治的な組織であるシンフェイン党と1907年に合体し闘争に入ります。第一次世界大戦中のイースター蜂起は名高い武装闘争です。それが1920年自治法(統治法)で認められながらも上であげたように納得しておらず、闘争は続きましたが、やっと22年に妥協します。

p13 問2 エカチェリーナ2世は宗教寛容策を採ったのですか。……そうです。新旧のキリスト教イスラーム教の信仰の自由を認めています。啓蒙専制君主の一人とみなされるようにロシアでの『百科全書』の発売を認めて啓蒙思想を尊ぶ姿勢をとりました。宗教だけでない各種学校の設立も進めました。ディドロダランベールと文通をしていました。もっともこれらの政策は西側の評判がほしいためのジェスチャーともいわれています。

C 東大の問題について
1 パクス・ブリタニカという言葉か色々な物事を指すのに使われていて、意味がよく分からないので教えてください。……大英帝国が世界の大半の政治・経済を動かすような覇権状態が「イギリスの平和」です。イギリスの世界支配といってもいい状態です。すこし誇張気味ですが。

2 世界史の入試対策について、また東大の世界史について質問があります。
 東大2011-1の添削を受けたり『東大世界史解答文』を読んだりして気づいたのですが、イスラム文化に関して引用されている教科書の記述の多くが手持ちの山川教科書には記載がありませんでしたがどうすると良いでしょうか。……指定語句は東大ですから教科書に載っているものを出してくるので、大半は教科書に書いてあるか、用語集に書いてあります。たとえば私の解答例の「カナート・カレーズ」のうちカナートは東京書籍にあり、持っていなければ山川の用語集に載ってます。中国の絵画技法とは細密画に応用されているものです。アスパラガス・オレンジは教科書も用語集も載っていませんが、私の添削を通して覚えてください。
 
3 東大の世界史の得点分布がどういった様子かご存じの範囲で教えてください。2022年度の出題意図を見るとその年はあまりよくなかったのは分かりました。……年度によって違うと見ています。第1問が難しく白紙が多いとか、字数が埋まっていない、という時は第2問・第3問の得点配分を高めにする、という具合に。固定していない、という根拠は、開示された得点を合否のいろいろな年度の受験生が教えてくれるので、その全体を見ての推理です。

4 先生のブログで東大は採点が厳しいという記述を拝見しましたが、もう少し詳しく教えてください。……課題から外れた内容であれば、どんなにマス目が埋まっていても得点はない、ということです。厳しいのは採点官の裁量次第という点もあります。日本語の文章としてどうかと判断する教授もいて、そのひとの目に適わなければ、低く採点される、という場合もあります。似た答案でも採点官によって違った評価が有り得る、ということてす。何も東大は名文を求めていないのに。これは運です。

5 加点方式の場合、例えば20点満点の問題は加点ポイントは20を超えて用意されているのですか。……もちろん用意は2倍も3倍もあります。東大の採点にかかわった方の東大実戦での基準を見せてもらいましたが、いろいろな解答例を挙げて得点差をつけた詳しい基準でした。ただし、これはその方の基準であり、今はもっと簡略な基準に堕落・劣化しているようです。

6 東大の世界史は1989年に大きく傾向が変わったということを読みましたが、どう変わったのですか。……わたしには分かりません。何も「大きく」は変わっていないので。

2023年度・共通テストの解き方

2023年度・共通テストの解き方
問題文は以下のサイトから手に入れてください。
https://edu.chunichi.co.jp/site_home/center/pdf/2023sekaishi-B_q.pdf

第1問
 女性参政権について、第一次世界大戦に出征した男性に代わって女性が工場などで働く→女性参政権、という文脈で選挙権が実現したことを語るのが日本の教科書の筋書きです。しかしこれは女性たちが18世紀末からこの選挙権獲得の運動をしてきており、それを無視した失礼な内容です。 
 一橋の2010年の過去問に「女性たちの参政権運動は、1848年にセネカ・フォールズにて開催されたアメリカ女性の権利獲得のための集会から始まったといわれる。19世紀後半には女性団体が運動を展開し、1920年になってようやく憲法修正19条により「合衆国市民の投票権は、性別を理由として、合衆国またはいかなる州によっても、これを拒否または制限されてはならない」と定められ、女性の連邦政治への参加が可能となった」」という導入文がありました。この1848年から始まって、各州で実現しました。ワイオミング州の1869年、ユタ準州の1870年、ミシガン州ミネソタ州は1875年、ワシントン準州が1883年、コロラド州1893年とつづきます。「1920年」は連邦憲法で定められたので、合衆国全体での実現になります。この修正19条は総仕上げ、最終段階としてあったということです。
 18世紀末はフランス革命中にオランプ=ド=グージュがおり、『人権宣言』の中の「人間」には女性が含まれていないと抗議し、『女性および女性市民の権利宣言(女権宣言)』を書いて発表したひとです。
 2010年の東大の第1問「19〜20世紀の男性中心の社会の中で活躍した女性の活動について、また女性参政権獲得の歩みや女性解放運動について」というものでした。20世紀だけの運動しか知らないのでは、東大の問題は解けません。この問題では、先生と生徒の会話も20世紀に限定されています。出題自体が時代遅れです。
 日本でも19世紀に運動家がいました。楠瀬喜多さんです。→
https://www.tosa-jin.com/kita/kita.htm

問1(解答番号[1]) 文章中の空欄[ ア ]の国とは、導入文が「フィンランドは19世紀に、当時帝国だった[ ア ]の領土」とあるので、隣のロシア・ソ連の領土ということになります。
 ① 北方戦争の敵は「イギリス」ではなくスウェーデンです。フィンランドはロシアがウィーン会議で得ています。
 ② 「両公国を失った」という歴史はデンマーク戦争の歴史(両公国へのデンマークの南下を阻止した普墺の抗戦)です。
 ③ ピウスツキ独裁とあればポーランドの歴史。
 ④ 21世紀に入ると、中国などとともにBRICS(BRICs)と呼ばれた。……これが正解BRICSとは、Brazil, Russia, India, China に南アフリカ共和国 (South Africa) を加えた表現です。この語句を知らなかったとしても①〜③の消去法で解けます。 

問2[2] 下線部(a)「多くの国や地域を巻き込んだ第一次世界大戦」についての正誤問題。
 ① オスマン帝国が、協商国(連合国)側でなく、同盟国側でした。独墺ブルガリアの3国につづくオスマン帝国は「斜め」につらなる4国が同盟国側です。地図で確かめましょう。
 ② フランス軍でなくドイツ軍が、タンネンベルクの戦いでロシア軍の進撃を阻んだ、です。あるいは、マルヌの戦いでフランス軍がドイツ軍の進撃を阻んだ。
 ③が正解。インドに自治の空約束をして徴兵し、インド兵は犬死にとなりました。
 ④「レーニンが」でなく「米大統領ウィルソンが」です。十四か条の平和原則は民族自決を唱えたので有名ですが、レーニンはウィルソンの言う前の17年に「平和に関する布告」ですでに唱えていました。

問3[3] 生徒たちがまとめた次のメモの正誤。
 室井さんのメモ
 ニュージーランドでは、自治領となった後に女性が全国レベルの参政権を獲得した。……白人支配が明白なところから自治が認められていきますが、最初はカナダ(1840)、次はオーストラリア(1901)、そしてニュージーランド(1907)、南アフリカ(1910)という順です。地理的にはジグザグです。オーストラリア(1901、語呂は「オーストラリア、人ひと1901」これは中谷まちよ著『世界史年代ワンフレーズnew』パレード、以降『ワン』で省略)の後だろうなという予想はできます。
 渡部さんのメモ
 第一次世界大戦……1918年に初めて女性参政権が認められた。この文章は問題ないです。なにしろ「佐藤:1918年にはイギリス」と発言しています。これは第四次選挙法改正で、男子は21歳以上の全員が持てました。だから②が正解。戦争中にもかかわらず女性たちは、19世紀につづいて選挙権獲得運動を行ないました。
 佐藤さんのメモ
 アメリカ合衆国では第一次世界大戦末期のキング牧師による公民権運動……キング牧師の運動は第二次世界大戦後の1960年代です。公民権法が成立したのは1964年です(『ワン』語呂→「公民、1964)

 
問4[4] 文章中の空欄[ イ ]に入れる語句として最も適当なものを選べ。……「6世紀後半」に中国北部にあった王朝はどれ? という問いでもあります。またこれは資料の「平城に都が置かれていた時代」という語句もヒントになります。
 ① 西晋を滅ぼした匈奴の風習……確かに匈奴は4世紀に洛陽を都にしていた西晋永嘉の乱で陥落しますが、五胡十六国時代(316〜439)には鮮卑に支配者は代わっています。
 ② 北魏を建国した鮮卑の風習……初めは史料の「平城」に都を置いていたのが5世紀に洛陽に遷都し、6世紀には西魏東魏に分裂し、それが北周北斉に受け継がれます。6世紀前半までは、華北の統一が保たれていました。北魏華北統一(『ワン』語呂、北魏439)か、孝文帝の均田制(『ワン』語呂、均田は485)を覚えておくと良いです。これが正解
 ③ 貴族が主導した六朝文化……南朝中心の文化を指します。
 ④ 隋による南北統一は6世紀末です(初めは華北統一、そして華中華南も征服して統一、『ワン』語呂、隋こ5わ8い1、こ5わ8く9ないと統一)。

問5[5] 「中国に女性皇帝が出現する背景」とは、という問に妥当な文章は、
 ① 唐を建てた一族が、北朝の出身であった……が正解。というのは隋唐両王朝とも鮮卑系だからです。則天武后鮮卑系です。
 ② 古い家柄の貴族から科挙官僚へ移るという移行を進めたのは則天武后ですが、といって官僚が皇帝になるわけではありません。(『詳説世界史』→則天武后が帝位についた際、科挙官僚を積極的に任用したことは、政治の担い手が古い家柄の貴族から科挙官僚へと移ってくる一つの転機となった)
 ③ 隋の大運河の完成によって、江南が華北に結び付けられた……これは女性の地位低下につながるかどうか不明です。
 ④ 北魏で、都が洛陽へと移され、漢化政策が実施されたのですが、「漢化」は男性優位をもたらすはずです。第二の武后になるべく、毛沢東亡き後は江青が後継者になろうと武后を褒めたたえる運動を展開しましたが、皇帝にはなれませんでした。武后が稀な例であったことが判ります。

問6[6] 下線部(b)「この時代以降の儒学」について述べた文として最も適当なもの……ということは唐以降の儒学ということです。
 ① 世俗を超越した清談が流行した。……魏晉南北朝時代なら該当します。
 ② 董仲舒の提案……前漢武帝代の儒者です。
 ③ 寇謙之が教団を作り、仏教に対抗した。……北魏・太武帝の顧問で道教国教化につくした人物。
 ④ 『五経正義』が編纂され……これが正解。孔穎達が太宗の命で編纂したもの。

第2問 

問1[7] 家系図を参考に。
 ① 右の図柄は、上の対話中「左の図柄は、……クレシーの戦いの図版」と百年戦争初期の戦いであるクレシーの戦い(1346)と説明しているので、左右が逆になっています。
 ② 左の図柄は、アンリ4世カペー朝とつながりがあることを表している。……これは上段の先生の説明「この図はアンリ4世から始まる王朝で使用されるようになる紋章」とあるので、これが正解です。対話文をなぞるだけの問題で、これは思考力と関係しているのか疑問。
 ③ 二つの王家の「統合」ではなく、「血筋」の繋がりを表している、とは言えます。
 ④「ナバラ王位」は系図では「ジャンヌ=ダルブレ
(1572年までナバラ女王)」という母方を継承したことを表しているので「父から」は間違いです。

問2[8] 下線部(a)「ユグノー」に関連……プロテスタントについて、という問題。
 ① サン=バルテルミの虐殺により、多くの犠牲者が出た。……この文章が正解ユグノー戦争中の出来事として教科書に必ずといっていいほどに虐殺図が載っています。
 ② ツヴィングリはスイスの改革者。ドイツ農民戦争はミュンツァーが指導者。
 ③ 国王至上法(首長法)の制定はヘンリ7世でなく「8世」が正しい。
 ④ イグナティウス=ロヨラが.イエズス会を結成した……これはプロテスタントでなくカトリック側の反宗教改革の一環。パリで結成されました。

問3[9]
 [ ア ]に入れる人物の名は対話文の「宰相マザランが死去した後親政を始めた」とあるのでルイ14世ルイ13世の宰相リシュリューと区別するために、★ザコンの14世、と覚えます(拙著『センター世界史B各駅停車』以降は『各駅』と省略、→https://worldhistoryclass.hatenablog.com/entry/2017/07/02/『センター世界史B各駅停車』の発売)。
 [  イ  ]に入れる文、とは「国家財政の問題を解決する手段として使います。当時、」とあるので、「X ネッケルによる財政改革」というフランス革命直前のことではありません。「
Y 度重なる戦争によって戦費が膨れ上がっていました」が該当します。正解は②
 ルイ13世ルイ14世ルイ15世ルイ16世の時に革命です。

B 
問4[10] 空欄[ ウ ]の王朝が10世紀に支配していた半島の歴史の空欄は「半島(イベリア半島)」や、資料1の「私たちウマイヤ家」から「後」ウマイヤ朝だと推理できます。これがハッキリしないと問題は解けません。
 ① ルーム=セルジューク朝ができた場所は、現在のトルコ、アナトリア地方です。スペインのあるイベリア半島ではありません。「ルーム」=セルジューク朝とはセルジューク族の一派で、後にオスマン帝国をつくる起源となった王朝です。
 ② この半島における最後のイスラーム王朝となるのは「ムラービト朝」ではなく、ナスル朝グラナダ王国です。
 半島のイスラーム王朝は、ウマイヤ朝後ウマイヤ朝ムラービト朝ムワッヒド朝ナスル朝の順です。覚え方は★ウウ、ムム何するん?(拙著『各駅』p.150に載っています)
 ③ ベルベル人によって建てられたムワッヒド朝が、この半島に進出した。……これが正解
 ④ この半島はアラビア半島です。

問5[11] 下線部(b)「カリフ」の歴史。
 ① 預言者ムハンマドが死亡すると、アブー=バクルが初代カリフとなった。これが正解。アブー=バクルはムハンマド(53歳)の幼妻アイーシャ(6歳)の父親です。
 ② アブデュルハミト2世(在位が1876〜1909)は、カリフ制を廃止(1924)したカリフではありません。カリフがカリフを廃止することもありえません。ハミト2世はミドハト憲法が制定されたときのスルタン=カリフです。覚え方は「★ミドハミト2世」です。19世紀中頃のタンジマート(恩恵改革)のときのスルタン=カリフであるアブドゥル=メジト1世と区別できないといけませんが、かれの覚え方は「★タンジト(タンジマートはアブドゥル=メジト1世の改革)」です。
 ③ ブワイフ朝の君主はバグダードに入った後、カリフとして権力を握ったのではなく、「スルタン」称号をもらいます。
 ④ サファヴィー朝は1500/01年に成立した王朝で(『ワン』語呂→サファリ、イン1501)、アッバース朝は750年からの王朝であり、事実上1258年に滅亡しています(『ワン』語呂→あっ、バス、1258れたの)。

問6[12] ファーティマ朝の歴史とそのカリフについて
  ① ファーティマ朝アッバース朝成立以前に成立した王朝……以前がまちがい。アッバース朝の成立は750年(『ワン』語呂→あっ、バスならも750ろ)で、ファーティマ朝チュニジアできたのが909年ですが、この王朝が大事なのはエジプトに入った時点の969年です(『ワン』語呂→不安定、969)。
 ② ファーテイマ朝はスンナ派でなく、シーア派シーア派の王朝名は「フ」が多い。★「フ」の付く王朝はシーア派:ブワイフ朝・ファー ティマ朝・サファヴィー朝・パフレヴィー朝──『各駅』p.145)。
 ③ ファーティマ朝はカイロを首都とした、のは正しい。建国の翌年に建設しています(970)。しかし、「シリアやエジプトを取り戻せない」というよりエジプトが根拠地であり、シリアにも進出して十字軍と戦っています。
 ④ 正解

第3問 

問1[13] 図は「フランスに帰還する様子が象徴的に描かれている」ナポレオンのですね。ということは一旦追放されてから、今は君臨している前の王朝と対決することになります。「統治していた国王」のルイ18世についての選択問題です。
 ① アルジェリアを占領した(1830)、ときはルイ18世の弟シャルル10世のときでした(『ワン』語呂→あるじ、1830)。
 ② 恐怖政治を敷いた、のはロベスピエールジャコバン政権のとき(1793〜94)、まだ革命中です。
 ③ 国外逃亡を図り、ヴァレンヌで捕らえられたのは、ルイ16世国王夫妻でした(1791)。
 ④ 王位に就いて、ブルボン朝が復活したのが1814年ウィーン会議開催と共にでした。これが正解で、ルイ18世の就任です。

問2[14] 空欄[ ア ]は「トゥサン=ルヴェルチュールが指導する」とあるのでハイチだから左図のa、[ イ ]は「対仏同盟軍に敗れて[ イ ]に流され 」とあるのでエルバ島で、右図bです。中図のcはナポレオンが最後に流された大西洋の島でセント=ヘレナ島です。正解は②です。 

科挙に関する授業。
問3[15] 文章中の空欄[ ウ ]は前文に「宋代には……新しい学問」とあるので朱子学(宋学)のことです。
 ① 科挙が創設された時代は隋なので、隋代「書院を中心に新しい学問」はありえないです。隋代に「新しい学問」はおきていません。また隋代に「宋代には私立学校の書院が各地にでき」ていません。
 ② 金の支配下で、儒教・仏教・道教の三教の調和を説いたのは王重陽の全真教の説明文です。
 ③ 臨安が都とされた時代は、南宋の時代ということで、朱熹によって「大成され、儒学の経典の中で、特に四書を重視した」となります。これが正解
 ④ 実践を重んじる王守仁が、知行合一の説を唱えた。……明末、1500年前後のひとで陽明学の大成者。

問4[16] 文章中の空欄[  エ  ]は「同時代……書院を拠点とした争い」とあるので儒学の派閥争い、明末では東林党党と非東林党党の争いです。
 ① 太平道黄巾の乱後漢末の反乱です(『ワン』語呂→黄巾の乱、黄色い184)。
 ② 南宋初期に、対金政策をめぐって争った秦檜と岳飛(『ワン』語呂→何艘、1127出か)。
 ③ 土木の変で.皇帝が捕らえられたのは、明朝初期です(『ワン』語呂→土木、石14敷4く9)
 ④ 東林派の人々が.政府を批判した……これが正解

問5[17] 下線部(a)「中国で科挙の開始より古い時代に行われた人材登用制度」は推薦制の九品官人法です。
 下線部(a)について述べた文
 あ 豪族が政界に進出、が正しい説明。
 い 貴族の高官独占が抑制、がまちがい。

 朝鮮や日本で見られた人材登用制度に関する考え
 X この文章は先生の発言どおりで、正しい。
 Y 日本の儒学者が……科挙の導入を提唱、がまちがいだから、正解は①

 中国における書籍分類の歴史。
問6[18] [ オ ]は「18世紀の中国で編纂」とあり清朝と判ります。
 ① 『四書大全』の大全は永楽帝の編纂書を表しています。『永楽大典』『四書大全』『五経大全』と「★「大」がつく作品は永楽帝(『各駅』)」と覚えましょう。
  「皇帝に権力を集中させるため、中書省を廃止した」は正しいぶんですが、これは明朝創始者朱元璋洪武帝の政策。
 ② 漢人男性に辮髪を強制した、のは清朝
 ③ 中書省を廃止したのは明朝。
 ④ 正解

問7[19] 次の書籍あ・いが『漢書』芸文志の六芸略に掲載されているかどうか。これは「資料2『漢書』芸文志で六芸略に掲載されている書籍の一部は『易経』『尚書書経)』『春秋』」とあり五経の三つが書いてあり、欠けているものはどれか、という問い。もちろん「あ『詩経』」です。「い『資治通鑑』」は時代が北宋司馬光によるもので、時代的にも『漢書』に記されている可能性はゼロ。①が正解
 四書と五経の区別はできますか?
 四書:孟子論語・大学・中庸
 五経:春秋・礼記易経詩経書経
 覚え方は(★四書→もちろん、ダッチューの五経春に礼、易しく詩を書く(『各駅』p.8))

 ちなみにチャットGPTで「四書と五経の区別がしやすい覚え方は?」と問うたら、
 ……(前半省略)つまり、「大中論孟」と「詩書礼易春」の2つのフレーズを覚えることで、四書と五経を簡単に区別することができます。

 とのお答えでした。覚えられますか?

問8[20] 前中国における書籍分類の歴史について。
 ① 1世紀には……史部という分類も定着していた、はまちがい。これは「1世紀にはまだ四部分類がなかったのですか。教授:そのとおりです。当時は史部という分類自体、存在しませんでした」に反します。
 ② 「木版印刷の技術が普及した」のは「3世紀から6世紀にかけて」ではなく、唐代です。
 ③ 7世紀の書籍目録において、『史記』と同じ分類に本紀と列伝を主体とする形式の書籍が収められた。これが正解
 ④ 「18世紀……四部分類は用いられなくなっていた」は内藤くんの質問にたいする教授の解答「18世紀……、四つに分類されているためです。これを四部分類と言い」とあり、これと矛盾します。

第4問
A 
問1[21] 「貨幣1を発行した国」は「コンスタンティノープルで造られた金貨です。ソリドゥスと呼ばれ」でビザンツ帝国であり、「貨幣2を発行した王朝」は鈴木さんの発言「ムアーウィヤが開いた王朝」でウマイヤ朝と判断できます。
 ① ゾロアスター教が国教とされた、のはササン朝だからまちがい。
 ② パルティアはササン朝に代わられています(ササン朝226年から『ワン』語呂→笹で226)。
 ③ 貨幣1の発行国では、ローマ法の集大成が行われた。これはユスティニアヌス帝が作らせたものでしたから、正解
 ④ バグダードに都を置いたのはアッバース朝ウマイヤ朝の都はダマスクス

問2[22] 
 佐々木さんのメモ
 初めは「各地で使われていた言語を行政において用いることを認めていたが」後で「アラビア文字のみが刻まれた独自貨幣の発行」となったので、正しいメモ。
 鈴木さんのメモ
 「貨幣2を発行した王朝は」は佐々木さんの説明文の後半をより説明していて、正しい。
 広田さんのメモ
 「ソリドゥス金貨は、ヴァンダル王国を滅ぼした皇帝」はユスティニアヌス帝ですが、かれは6世紀の皇帝です(『ワン』語呂→ユスティニアヌス527い)。ローマが東西に分裂する前から発行しています。遅すぎます。したがって正解は②

 古代ギリシアについて
 資料二つと対話文がごっちゃになっていて分かりにくいものになっています。
 整理してみると、
 資料1・2ともに「二人とも、五賢帝の時代(96〜180年『ワン』語呂→五賢帝は賢9六6〜言1わ8れ0)を中心に活躍」したひとたちの書いたもの。つまりマラトンの戦い(前490年『ワン』語呂→マラソン490)はペルシア戦争(前500〜前449)より相当後の言説です。
 資料1の「ヘラクレイデスはアリストテレスの下で」、アリストテレスアレクサンドロス大王の師であり(前334年東征開始『ワン』語呂→アレクサンドロスで、334)、前4世紀のひと、マラトンの戦いに時間が近くなります。

 前490年 マラトンの戦い…………………………①
 前4世紀 ヘラクレイデスのテルシッポス……②
 後96〜180 五賢帝、『対比列伝』……………③
 対話文・資料が長いと判別しにくくなるので、このように①〜③のように時間順に番号をメモっていきましょう。

問3[23] 
[ ア ]に入れる語句
 「ヘラクレイデスはアリストテレスの下で学んでいた人物……松山:ということは[ ア ]ことになりますね」
 あ 資料1・2の著者は二人とも、ヘラクレイデスよりもマラトンの戦いに「近い時代」に生きていた、の「近い時代」がまちがいです。
 い ヘラクレイデスは、資料1・2の著者たちよりもマラトンの戦いに近い時代に生きていた……正しい。
 [ イ ]に入れる人物の名は「マラトンの戦いに時代が近い人物……使者の名前は[ イ ]」とあるので、「Yテルシッポス」になります。したがって正解は⑤

問4[24] 文章中の空欄[ ウ ]は「マラトンの戦いを含む」とあるのでペルシア戦争です。
 ① イオニア地方のギリシア人の反乱が、この戦争のきっかけとなった。……ミレトス市の反乱からスタートが通説です。これが正解
 ② エフタルは突厥ササン朝で挟撃した民族・国ですが、時代が5〜6世紀でずれすぎてます(『ワン』語呂→F樽、5〜6がす)。
 ③ この戦争の後に、アテネを盟主としてコリントス同盟(ヘラス同盟)が結成された。……この「戦争」はアレクサンドロスの父フィリッポス2世の勝利したカイロネイアの戦いの後に結ばれたもの。ペルシア戦争ではない。
 ④ ギリシア軍が、この戦争中にプラタイアイの戦いで敗北した。……敗北でなく勝利した(前479)。

問5[25] マラトンの戦いの勝利をアテネに伝えた使者について
 ① アテネで僭主となったペイシストラトスは使者の話を知っていた可能性がある。……この人物は戦争前の僭主として知られています(前561『ワン』語呂→ペイシス561)
 ② トゥキデイデスの『歴史』はペロポネソス戦争
 ③ プルタルコスは.使者の名前について異なる説を併記している、から「対比」の列伝です。これが正解。上の資料のように二人を挙げました。
 ④ 使者についての資料2の記述は.ヘロドトスの『歴史』を正確に反映している。……これは後段で先生が「紀元前5世紀の歴史家の著作には、資料2にあるフィリッピデスという名前が、マラトンの戦いの後ではなく、その前にスパルタに派遣された使者」とあり、これをそのまま反映していません。

 ベーダが、731年頃に執筆した著作
問6[26] 文章中の空欄[ エ ]に入れる語句と、資料1と資料2が示す「アングル人」について。
空欄は「歴史的出来事……[ゲルマンの三つの民」」とあり、ゲルマン人の大移動であることは容易です。
 あ 大陸から渡来してきた民の一つで、サクソン人やジュート人(ユート人)と並置される集団のことである。……これが資料1の「三つの民」。
 い サクソン人やジュート人(ユート人)をも含めた、共通の言語を話す集団の総称である。……資料2には「アングル人の言語」しか書いてないが、資料3の(注5)に「発音の類似性から.「アングル人」」と書いてあります。したがって正解は③

問7[27] 資料1〜3……古いものから順に正しく配列
 資料1「カルケドン公会議」は細かいですが、正当か異端かを決める公会議が何回も開かれていた(初めのニケーア公会議、325年、次はエフェソス公会議、431年)、そしてこのカルケドン公会議は単性論を異端とした会議でした。年代は451年でカタラウヌムの戦いと同年(『ワン』語呂→語らぬ、451さん)。
 資料2の初めに「私ことベーダが執筆している今のブリテン島」と問題文の初めに「ベーダが、731年頃に執筆した著作」とあります。
 資料3はグレゴリウス1世で、ゲルマン人布教につくした教皇として名高く、かれが派遣したブリテン島は七王国が成立する頃(600年)でもありました(教皇就任が590年『ワン』語呂→グレゴ5グ9レ0)。よって正解は②

問8[28] 下線部(a)「布教対象の民」はイギリスです。
 ① フランク王国
 ② ジョン=ボールが……農民一揆を指導、これがイギリス史で、正解
 ③ コンスタンティヌス帝は、勢力を増したキリスト教徒を統治に取り込むためには統一法ではなくミラノ勅令、統一法はエリザベス1世
 ④ ボニファティウス8世ではなくウルバヌス2世が「提唱した第1回十字軍」、ボニファティウス8世はアナーニ事件の危なかった教皇(1303年『ワン』語呂→穴にむ、1さん303)。

第5問
A 
問1[29] 下線部(a)「マラヤの宗主国」の歴史
 ① シンガポールを獲得はイギリスだから正解
 ② 19世紀後半でなく前半の1833年
 ③ 公行の廃止は南京条約。北京議定書は義和団事件の条約。
 ④ 廃止でなく成立した。

問2[30] 文章中の空欄[ ア ]と線部(b)「統計が取られた時点で、[ ア ]において、ゴムの需要が高まっていた」の背景

 [ ア ]に入れる国の名は表のフィリピンの宗主国アメリカが書けているので合衆国だと判定できます。
 下線部(b)「ゴムの需要」の背景は、ベルトコンベアー方式の自動車生産ですね。アウトバーンの建設はその後です。よく「ヒトラーアウトバーンを建設して失業者に職を与えた」とのプロパガンダが知られています。ナチス政権以前からあった政策をナチス政権の成果として宣伝したことが今も響いています。
 正解は③。  

問3[31] 1929年当時の東南アジア各地の経済
 ① コーヒー栽培……インドネシアは、宗主国(オランダ)向けの輸出額の割合が4地域の中で最も低かった、ではなく2番目の高さ。
 ② ゴムプランテーション(ゴム園)の労働者として移民が流入したマラヤは、インドシナの輸出額上位5地域の中に入っていた。……これが正解。文章中の「インドシナ」は東南アジア全体を意味することもあります。「仏領」を付けるべきでしたが、そうすると宗主国が分かっちゃうので付けられなかった。
 ③ フィリピンでは強制栽培制度はオランダがインドネシアでやった政策です、フィリピンではない。
 ④ インドシナの輸出額において最大であった地域は、インドシナと同じ宗主国の植民地であった。……この「インドシナ」は表の仏領「インドシナ」連邦のことでしょう。とすれば、香港が最大輸出先で、香港の宗主国アヘン戦争で奪ったイギリスです。

 歴史統計。
問4[32] 空欄[  イ  ]と[  ウ  ]
 ① イー表1を見ると、都市人口比率が上昇している……1600年335000人→1801年2380000人だから正しい。
  ウー土地が囲い込まれ(第2次囲い込み)、新農法が導入された……「食料の供給が安定していた」のはエンクロージュアと四圃制・改良三圃制が新農法です。これが正解
 ② イー「都市人口比率が減少」が誤文。
  ウー全国的に鉄道の輸送網が完成はまだ。完成は19世紀末。
 ③ イー表2を見ると、農村農業人口100人当たりの総人口が上昇している……これは合っている。
  ウー農業調整法(AAA)が制定され、農産物の生産量が調整された……これは合衆国の恐慌対策。
 ④ イー表2を見ると、農村農業人口100人当たりの総人口が減少している……まちがい。
  ウー穀物法の廃止により、穀物輸入が自由化された……穀物法廃止は1846年(『ワン』語呂→穀物ひと1846)。「18世紀後半の時期」ではない。

問5[33] 空欄[  エ  ]の前後文は「移民の送り出し国や受け入れ国で起こった出来事が移民数の変動に影響」とあり、「先生:よく勉強していますね」の内容は何か、という問い。アイルランドの点線が1845〜55年の間が山になってます。
 ① 大飢饉(ジャガイモ飢饉)ですね。これが正解
 ② クロムウェルにより征服は、17世紀のピューリタン革命(『ワン』語呂→ピューと1642)。
 ③ 1870年代初め……南北戦争が始まった、がまちがい。1861年から(『ワン』語呂→南北戦争1861)。「移民は、1870年よりも減少している」は正しいが。
 ④ 移民は、1890年よりも増加していない。

問6[34] 下線部(c)「世界初の産業革命は、イギリスで起こりました」
 ① 「大西洋」の三角貿易を通じて、綿製品、茶、アヘンが取引された。ではなくインド洋/アジア。
 ② ダービーによって開発された、コークスを使用する製鉄法が利用された。これが正解
 ③ ラダイト運動は「選挙権の拡大を目指して、」ではない。産業革命への反発運動でした。
 ④ 1833年の工場法は「大気や水の汚染問題の改善が図」るものでなく、子ども労働者の夜業禁止。

 共通テストで高得点をとるには、
(1)対話文をよく読んでチェックを入れていくこと、
(2)年代を覚えること。

23年度合格メール

23年度合格メール

Aくん
中谷先生の世界史教室を夏休みごろから利用し、40年分の過去問をこなすことができました。中谷先生の解答例や講評を自分の答案との乖離や、知識の補充に利用することでかなりの実力がついたと自負しています。
また、中谷先生の基本60字は第3問の対策に非常に役立ちましたし、中国史の年号は全て中谷先生の語呂で覚えました。
私の合格、特に世界史の点数は全て中谷先生の著作によると言っても過言でありません。
本当にありがとうございました。
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Bくん
筑波大学に合格しました。
入試で世界史を選択しないことになったため、途中で添削指導をキャンセルしたのですが、その際にご丁寧にメールをいただき感激しました。先生のキャリアから学ぶところが多くありました。
これからは筑波大で教育学や障害科学を中心に学びたいと思います。
これまで、論述構成力や世界史の知識など多くのことを教わりました。お世話になりました。ありがとうございました。何かの形で先生の教えを活かせるよう精進していきます。
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Cくん
一橋大学法学部合格しました!
10月からの約半年間世界史の添削をしていただきありがとうございました。数学で失敗したと思うので、確実に世界史のおかげで受かったと思います。これも中谷先生が私の拙い解答を詳らかに見て、一橋に通用する世界史を私に教えていただいたおかげです。
改めて添削ありがとうございました!
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Dくん
お久しぶりです、添削でお世話になっておりました。一橋大学商学部合格していました!!拙い文章で恐縮ですが、お読みいただけると幸いです。
数ヶ月の間、添削をお受けくださり、本当にありがとうございました。先生の論述練習帳のおかげで、論述で何を書くべきなのかが明確になり、少しずつ論述問題への免疫もついてきました。そして、先生の添削のおかげで、自分のできていないこととできていることがはっきりし、少しずつ論述問題への対処法が確立していきました。先生の解法は論理的で、かつ「なぜこれを書くのか」「なぜこれを書かないのか」も明確で、先生の模範解答には非常に納得感がありました。
できていることはしっかり褒めてくださり、できていないことも優しくご指摘いただいたおかげで、添削も嫌にならずに続けることができました。
先生の添削のおかげで、(第二問は多分0点ですが...)知っている知識を、設問に適合する形でよく書けたと思います。
数ヶ月の間、本当にありがとうございました!
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Eくん
一橋大学社会学部に合格しました。世界史の論述に関しては先生のご指導があってこそでした。当日は問題に困惑しましたがベストを尽くせました。ご指導いただいた比較の方法などはこれからも生かしていきたいです。短い間でしたがありがとうございました。
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Fくん
おかげさまで一橋大学社会学部に合格できました!!
過去問の添削の際にアドバイスに加え、褒めて頂いたことがとても励みになりました。
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Gくん
本日合格発表があり、東京大学文科Ⅲ類に合格していました。
先生の丁寧な指導のおかげで題意に沿った解答ができるようになり、
合格に必要な世界史の力をつけることができたと思っています。
本当に添削ありがとうございました。
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Hさん
こんばんは。
おかげさまで東京大学文科二類に合格することができました。世界史は塾に行かないで、学校の授業だけで勉強していたため、このような形でたくさん添削していただけたのは、本当にありがたかったです。たくさん頼らせて頂きました。
得点開示が出たら、また連絡させて頂きます。
本当にありがとうございました。
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Iさん
ご無沙汰しております。
東京大学文科III類に無事、合格しました。
12月から3ヶ月間、東大の添削を見てくださり、ありがとうございました。
質問にも丁寧に対応していただき、論述力を格段に伸ばすことができました。
本番も直前まで先生の添削をプリントしたものを読んで、自分が間違えやすいポイントや、論述の構成を復習し、心を落ち着かせることができました。
本当にご指導ありがとうございました。
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Jくん
東京大学文科Ⅲ類に合格しました。長い間のご指導ありがとうございました。この合格は学生の視点の把握を追求する、先生の添削のお陰かと思います。質問対応もある双方向的な添削指導のお陰で自分の納得がいく唯一の答案作成を重ねていくことができ、これを復習することで過去の演習で培った知識・技術(テクニック)を自分の血肉として蓄えていくことができたと感じています。本番でも45/60点を下らない自信があったのは、先生のご指導の下でこうして身に着けた問題把握能力・史的論理力があったからです。本当にありがとうございました。
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Kくん
一橋大学社会学部に合格しました。世界史の論述に関しては先生のご指導があってこそでした。当日は問題に困惑しましたがベストを尽くせました。ご指導いただいた比較の方法などはこれからも生かしていきたいです。短い間でしたがありがとうございました。
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Lさん
この度東京大学文科三類に合格することができました。2ヶ月間、第1問を添削していただきありがとうございました。また、世界史論述演習帳newと基本60字にも大変お世話になりました。添削いただいたおかげで、問題文の要求に素直に過不足なく答えることの重要さを強く意識することができました。短い期間でしたが、本当にありがとうございました。