世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

『センター世界史B各駅停車』の発売

 絶版になっていた『センター世界史B各駅停車』の販売です。資金上のことから自費出版は無理なので、このブログから売りだすことにしました。
 以前の紙の本は、税込み、2880円で販売していました(http://books.parade.co.jp/category/genre05/978-4-434-07159-1.html)が、これをPDF書類で、1000円で販売します。
 まず下の見本ページをご覧になり、気に入ったら、「先史・中国史(1)を送ってください」とメールをください(whnashi〇yahoo.co.jp 〇は@に変換)。送信された36ページを見て、全部手に入れたいと思われたら、1000円を以下に振込んでください。折り返し、つづきの中国史ほか全文をメールに添付して送ります。全部で455ページ、23.2MBあります。PDF書類なので、スマートフォンにダウンロードして見ることもできます。この参考書の評判については、アマゾンにレビューが残っていますから、ご覧ください。

 ゆうちょ銀行の振込番号
  記号 14480 番号 29455851
  加入者名 「世界史教室 代表者 中谷 臣」

 紹介してくださったブログも以下にあります。
 http://manaviism.com/analysis/reference_book/center-sekaishi-kakueki/
 内容の基本的な点は以前のものと変わっていませんが、最初の出版から10年以上経っていたるため、気がついた点(誤字脱字、説得的でない文章)、時間の経緯で発見されたり追加しなくてはならないことも現れました。それらを修正・追加しています。

 目次
1:先史時代
2:中国史
3:朝鮮・日本・琉球史
4:インド史
5:東南アジア史
6:西アジア史
7:アフリカ史
8:ギリシア史
9:ローマ史
10:中世西欧とビサンツ
11:近世西欧
12:近代西欧
13:西欧現代史
14:東欧史
15:アメリカ大陸史

 センター試験向きにまぎらわしい用語の覚え方、正誤で問われやすい内容の判定の仕方を教えています。センター試験必須用語は赤字(98%ここから出る)で示し、経済・文化の用語と解説をしています。

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  『東大世界史解答文.txt』も販売しています。25カ年分(2011-1987年)のすべての問題(第1問・第2問・第3問)とその解き方・解答文、それに12〜17年度までの解答文です。振込先は同じです。

東大模試雑感

A模試
 問題

 8世紀頃のユーラシア大陸では、商業ネットワークの拠点でもある大都市を都とする3つの帝国が繁栄した。それぞれの帝国の権力のあり方と、それを支える法体系や宗教・文化は、支配地域のみならず周辺の地域や人々にも影響を与え、特徴ある各地域世界を形成する基盤となった。また、他の地域世界の成立に影響を与えることもあった。3つの帝国を結ぶネットワークも成立し、交易活動を担う勢力が活躍して、帝国の都はさまざまな言語が行き交う国際都市となった。
 以上のことを踏まえて、8世紀頃のユーラシア大陸で繁栄した3つの帝国と、それらが各地域世界の形成に果たした役割について、同時代における商業勢力の活動にも言及しつつ論じなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。

 儒教 シャリーア コンスタンティノープル
 スラヴ人布教 啓典の民 朝貢
 ダウ船 カール戴冠

 解答

長安を都とする唐は、仏教を保護し国家の安寧を図る一方、儒教を体制教学と定め皇帝を天子とし、律令を整備した。周辺諸国とは君臣関係の冊封や親族関係を結び唐中心の国際秩序を構築し、朝貢を促した。日本や朝鮮は、朝貢使節とともに留学生を派遣し仏教・儒教・律令・漢字を移入し、東アジア文化圏を形成した。バグダードを都とするアッバース朝は、カリフが政教の両権を握り、イスラーム法であるシャリーアを整備した。信徒の平等を実現し非アラブ人ムスリムのイラン人などを登用し、ユダヤ教徒・キリスト教徒を啓典の民として処遇し、アラビア語を共通語とするイスラーム世界を確立させた。コンスタンティノープルを都としギリシア語を公用語としたビザンツ帝国は、皇帝がキリスト教を国教として教会組織を影響下に置き、ローマ法を整備・体系化し、スラヴ人布教でギリシア正教圏を拡大させ東欧世界の基盤を築いた。一方、聖像問題でコンスタンティノープル教会と対立したローマ教会では、教皇がビザンツ皇帝権からの自立を求め、イスラーム勢力を退けたフランク王国に接近し、カール戴冠でラテン語・カトリックを特徴とする西欧世界を形成した。長安とバグダードを結ぶ内陸交通路では、突厥やウイグルの保護下でイラン系ソグド人が活躍し、のちムスリム商人も進出した。ムスリム商人は海の道を通ってダウ船で広州に到来しコンスタンティノープルと東方世界は陸路と海路で結ぼれた。

▲コメント
 課題は「8世紀頃のユーラシア大陸で繁栄した3つの帝国と、それらが各地域世界の形成に果たした役割について、同時代における商業勢力の活動にも言及しつつ」でした。このうち「帝国と、それらが各地域世界の形成」にかかわる内容は導入文の「法体系や宗教・文化」であるらしい。
 解答文で「法体系」にあたるものは、唐「律令」、アッバース朝「シャリーア」、ビザンツ帝国の「ローマ法」とあり、フランク王国には法の言及がありません。それと「3つの帝国……3つの帝国」とあるのにここには4つの帝国が書いてあります。なぜ? 東大過去問に似た時代のものとして、1981年の「9〜10世紀西欧・東ローマ帝国・イスラム世界の対比」というものがありました。しっかり3つの帝国名を指定しています。なぜこの模試はそうしなかったのか? 不明です。「王国」だから「帝国」ではない? 800年も「8世紀」の中に入るし、「戴冠」の後の文章も他の3つの帝国同様のこと書いています。3と4のちがいが分からなかった? もしこの問題文に合わせた解答文にするとすれば、フランク王国のサリカ法典(サリカ法)をあげなくてはならないはず。
 この法とともに唐「皇帝を天子」、アッバース朝「カリフが政教の両権を握り」、ビザンツ「教会組織を影響下に置き」と君主の権力について言及があり、やはりフランク王国の権力については書いておらず、「戴冠」で示唆したつもりかな? どの帝国も戴冠はしているはずですが。
 「宗教」については、唐「仏教を保護……儒教を体制教学」、ビザンツ「キリスト教を国教……ギリシア正教」、フランク王国「カトリック」としています。やはり4つ書かせたかったのか?
 「文化」については、唐「仏教・儒教・律令・漢字」、アッバース朝「アラビア語」、ビザンツ「ギリシア語」、フランク「ラテン語」と唐と比べて言語ばかり書いて「文化」にしています。公用語だけで「文化」? 要するに過大な課題だったということです。フランク王国に言及しなければもっと書けたのに。
 対外関係は「各地域世界の形成に果たした役割……他の地域世界の成立に影響」にあたります。唐「周辺諸国とは君臣関係の冊封……東アジア文化圏を形成」、アッバース朝「信徒の平等を実現し……イスラーム世界を確立させた」、ビザンツ「スラヴ人布教でギリシア正教圏を拡大させ東欧世界の基盤を築いた。一方、聖像問題でコンスタンティノープル教会と対立」、フランクは「西欧世界を形成」の他は書いてありません。
 最後は「同時代における商業勢力の活動」という課題についての解答文です。唐とアッバース朝をつないた「ソグド商人」と「ムスリム商人」、「ダウ船」とし、フランク王国が含まれるのかどうか定かではありませんがコンスタンティノープルは陸路と海路で「結ばれた」として誰が担手「商業勢力」なのか言及していません。
 大風呂敷の課題に小さい中身。自作問題に自ら応えられなかった、という「模範」答案でした。

 

B模試

 問題

 13〜14世紀のユーラシア大陸では、モンゴル帝国のもとで広域的な商業ネットワークが構築されたと考えられているがそれに先立つ時代すでに複数の地域的商業ネットワークが成立していた事実を忘れてはならなし、なかでも11世紀以降の西欧と宋代の中国で農業・商工業が発展した結果、ネットワークの拠点となる商業都市の成長とこれに伴う社会変化がもたらされた。以前とは異なる新たな支配層が台頭し彼らを中心に新しい文化も生まれたのである。
 以上のことを踏まえて11世紀からモンゴル帝国のもとでのネットワーク成立に至る間の西欧と中国を対比させながら、二つの地域の農業・商工業と都市の発展、および新たな支配層の台頭といった社会変化について論じなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述し必ず次の8つの語句を一度は用いて、その詩句に下線を付しなさい。

 形勢戸 交子・会子 三圃制 十字軍
 スコラ学 鎮・市 特許状 木版印刷

 解答

西欧では森林の開墾、三圃制や有輪犁の普及により農業生産力が増大し余剰生産物の取引から商業が発展し、定期市が成立した。十字軍などの影響で毛織物を中心に遠隔地商業が盛んになると、領主の許可を得た商人や手工業者の移住により定期市が中世都市へと発展し金貨や銀貨による貨幣経済が普及した。都市では商人ギルドが市政を掌握し同業組合であるギルドが商工業を規制した。領主から特許状を得て自治権を獲得した都市は同盟を結んで領主に対抗しイタリアでは周辺部まで支配するコムーネが、ドイツでは皇帝直属の帝国都市が成立した。また都市では聖職者がラテン語でスコラ学研究や写本制作を行い、彼らの学ぶ場が大学の起源となった。中国では長江下流械が囲田など干拓地の増加や占城稲の普及で穀倉化し茶や桑などの生産も広まって客商が活躍した。唐末に商業統制が崩れて以降、草市と呼ばれる定期市が域外に現れ、商業都市である鎮・市に発展した。都市では陶磁器や絹織物などの手工業も発展して、商人は行、手工業者は作という同業組合を作った。北方民族に圧迫された宋が戦費確保のために物資や税を集めたこともあって貨幣経済が発達し銅銭のほか、交子・会子が紙幣として流通した。新興地主層の形勢戸が佃戸を使役して土地経営を行う一方、その子弟は科挙に合格して徭役免除などの特権を持つ士大夫となり、宋学を発展させた。木版印刷の普及が科挙や宋学の発展を支えた。

▲コメント

 課題は「11世紀からモンゴル帝国のもとでのネットワーク成立に至る間の西欧と中国を対比させながら、二つの地域の農業・商工業と都市の発展、および新たな支配層の台頭といった社会変化について論じなさい」でした。
 ネットワークを使う必要性がよく分からない問題文ですが、ただ問われている第一のことは「対比させながら」です。
 「対比」とは「二つの物を比べて、その違いを見ること」(新明解国語辞典)です。「対比させながら」ということは西欧と中国を比べて、その違いを説明することです。英語では contrast にあたります。
 解答文を見てみると、西欧は「森林の開墾、三圃制や有輪犁の普及により農業生産力が増大し余剰生産物の取引から商業が発展し、定期市が成立した」にたいして中国は「長江下流械が囲田など干拓地の増加や占城稲の普及で穀倉化し茶や桑などの生産も広まって客商が活躍した」と。
 ここに「違い」が示されているでしょうか? 「森林の開墾」と「長江下流械が囲田など干拓地の増加」は違いでしょうか? 穀物生産地の増加という点で共通しています。それぞれの歴史の名称はラベルであって中身の違いまでは示していません。畑作と水田という違いが示されているわけでもない。「三圃制や有輪犁」と「占城稲」という技術と新品種の導入という内容のちがうことを並べて、どんな違いを示しているのか? 「商業が発展し、定期市」と「客商」はともに遠隔地商業のことで類似点です。どこに違いの説明があるのか?
解説文を見ても違いは示されていません。

 西欧の「十字軍などの影響で毛織物を中心に遠隔地商業が盛んになると、領主の許可を得た商人や手工業者の移住により定期市が中世都市へと発展し金貨や銀貨による貨幣経済が普及した」と、中国の「唐末に商業統制が崩れて以降、草市と呼ばれる定期市が域外に現れ、商業都市である鎮・市に発展した」とあります。西欧では遠隔地商業の発展要因として十字軍があげてあり、中国ではそういう外的要因がなく、市内の規制が崩れたといきなり書き、西欧では中世都市への発展と金貨・銀貨の流通が書いてあり、中国では鎮・市のことを書いています。どういう「対比」がここで成立しているのか? 西欧の金貨・銀貨に対して下の方で「交子・会子が紙幣として流通した」としていて対比にしているようですが、本来、解答文は上に書いた順に下でも書かないと、採点官に「対比させる」つまり対比しているかどうか探させることになり、こういう順を乱した書き方はマイナスです。解説文に「分野別に順を追って書く」と自ら書いているのに。
 金貨銀貨の西欧と紙幣の中国の対比は成り立ちますが、中国は銅銭の流通が主であり、西欧の金貨銀貨とてその純度は低く銅貨に変わらないものでしたから、対比するほどのものでもない、と言えます。中国でも宋代には「銅銭のほか金銀も地金のままもちいられ(詳説世界史)」とあり、それほどの違いはないでしょう。中世西欧でも金貨銀貨を使ったのは一部の人たちでしたから。
 また「十字軍に対比できる、物資の流通を促した宋代の軍事行動は、遼・西夏などの遊牧国家に対抗する戦費や物資の調達である」と解説文にありますが、これは「対比=相違点」になるでしょうか? 類似の軍事行動です。このあたりでこの作問者が「対比」という言葉を「対応 correspond」「類似現象 similar phenomenon」と混同していることが次第に分かってきます。

 西欧では「都市では商人ギルドが市政を掌握し同業組合であるギルドが商工業を規制した。領主から特許状を得て自治権を獲得した都市は同盟を結んで領主に対抗しイタリアでは周辺部まで支配するコムーネが、ドイツでは皇帝直属の帝国都市が成立した」に対して中国では「都市では陶磁器や絹織物などの手工業も発展して、商人は行、手工業者は作という同業組合を作った」とあります。西欧では生産した物が何か書いてなく、中国では「陶磁器や絹織物」と商品名をあげているのは、どういう対比なのか? 組合は「ギルド」と「行、……作」とあげ、西欧では「自治権を獲得」と書いていても中国の行・作がそれを得られなかったことは、解説文には書いてあるものの、この解答文に書かなかったら「違い」にならなのではないか? それは読み取ってくれよ、という言い訳は解答文として失格です。対比は鮮明さが大事です。
 都市同盟は中国の場合はどうなのか、何も言及がありません。中国と対比しようがないコムーネや帝国都市をなぜ書いているのか? 対比しにくいものは省くべきです。

 西欧の「都市では聖職者がラテン語でスコラ学研究や写本制作を行い、彼らの学ぶ場が大学の起源となった」にたいして中国では「新興地主層の形勢戸が佃戸を使役して土地経営を行う一方、その子弟は科挙に合格して徭役免除などの特権を持つ士大夫となり、宋学を発展させた。木版印刷の普及が科挙や宋学の発展を支えた」とあり、これは対比でしょうか? 
 「支配層」として聖職者と形勢戸をあげていますが、この対比は適格でしょうか? 中世西欧の支配層の大半は剣をもった領主層であり、聖職者を兼ねる領主もいますが、たいていは文盲の「戦う者」たちです、それと形勢戸は対比できますが、一部の聖職者で対比は無理でしょう。
 スコラ学と宋学は対比に解説文ではしていますが、いったい二つの学問にどういう相違点があるのでしょうか? ラベルが違うことは中身の違いを表わしません。骨品制とヴァルナ制と並べて、違いを示したことになる? そんなことはありません。スコラ学も宋学も既成の身分秩序を正当化する封建思想であることは共通しているのでは?
 解説文では「宋代の木版印刷に対応できる西欧の出版は写本である」と書き、やはり「対比」と「対応」を混同しているようです。この解説文はむしろ「対応」のところは「対比」がかえって良いとおもいますが。宋代には活版印刷術の発明もありましたが、木版印刷が主流でした。

 解説文の終わり頃に「以下のような要素が並べられるだろう」と採点基準らしいものが33個書いてありますが、不思議なことに「対比」したかどうかを検討する箇所はどこにもなく、それを採点するつもりもないことが分かります。だらだら西欧と中国について指定語句をちょっと説明しながら書いたら、ある程度の得点にたっすることが分かります。そんなことでいいんですかね?

東大世界史解答文

東大世界史解答文.txt』は、

25カ年分(2011-1987年)のすべての問題(第1問・第2問・第3問)とその解答文を掲載しました。東大の世界史は、とくに第1問の採点が厳しく、なかなか高得点はとりにくい。そこで添削例を示し、かつ3段階(3レベル)の解答文を示して、段階的にレベルを上げていく。読むだけで東大型の世界史答案の書き方を習得できるようにする。この3段階の解答文から、課題への取りくみ方、思考の広げ方を学んでほしい。

 なおこのブログから販売する場合は、パブーや楽天で売っているものとちがい、2012年〜2017年の問題・解答も『追加』で付いています。双方で価格は900円でです。ただし、前者にある「答えに行く」「問いに返る」のリンクはつながっていません。

東大世界史解答文.txt』(3.1mb)と『東大世界史解答文の追加』(952kb)の2ファイルをメールに添付して送ります。振込先は以下。すでにパブーや楽天で前者を購入していただいた方には、後者の『追加』は無料で送ります。その旨メールをくだされば返信します。

 

 ゆうちょ銀行の振込番号
  記号 14480 番号 29455851
  加入者名 「世界史教室 代表者 中谷 臣」

『日本史年代ワンフレーズ』紹介していただきました

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ほめてもらったのかなあ?


「【既修】慶應口一受験スレ」 で宣伝していただきました。

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「大学受験の話題」 で宣伝していただきました。

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http://www.daigakujyuken-blog.com/books/rec-2/
大阪大学入試に合格するためには大阪大学独特の癖を
攻略しなければなりません。大阪大学に実際に合格した
受験生が使用していた問題集をこちらで紹介しますので、
大阪大学入試を受験する予定の受験生は必見です。

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http://daigakujyuken.e-jams.net/daigakujyuken/217/
信州大学受験生スレ 6 51-100

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http://jyuken.e-jams.net/jyuken/324/
■◇高認(旧大検)→大学受験の奴集まれPART91◇■ 251-300

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紹介していただきました。
http://www.casphy.com/bbs/test/read.cgi/study/1277115464/l50

『世界史年代ワンフレーズnew』評価してもらいました

f:id:kufuhigashi2:20170620153237g:plain東大文I 合格の秘訣(2011/6/24) 「オススメの参考書」に、3人の方が薦めてくれました。ありがとう。
○『世界史年代ワンフレーズ』(パレード)
 センター・二次に役立つ。中谷先生の論述問題集も良書と思う。
○ これのお陰でセンター世界史は満点でした。大論述にも年代暗記は有効。
○ これなしには僕の世界史学習は始まらなかった。
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緑鐵(りょくてつ)ブログで紹介してもらいました !

http://ameblo.jp/ryokutetsu-kyomu/entry-11392390335.html



(ブログ)うらのうら
世界史:98点
・世界史も普通の3誤1正の問題は楽でしたが、年代判定が多かったですね。直前に「世界史ワンフレーズ」を流し読みしといてよかったです。

http://ameblo.jp/ryokutetsu-kyomu/entry-11392390335.html



(ブログ) 大学受験TIPs
 中谷臣先生は世界史におけるある程度の年代暗記は高得点への近道だと述べています(ソースはこちら)。わたしは最初半信半疑でしたが実際に試してみると自分でもびっくりするくらい点数が上昇しました。そのとき使用した本が『世界史年代ワンフレーズnew (中谷まちよ、パレードブックス)』です。

http://ameblo.jp/ryokutetsu-kyomu/entry-11392390335.html



(ブログ)ビジネス・投資に役立つ最新経済ニュース
 『世界史年代ワンフレーズnew/パレード』『日本史年代ワンフレーズ/パレード』の「年代暗記ゴロ」を、自分で声に出して読み上げ、それをICレコーダーで録音し、A-Bリピート再生を使って、耳に焼きつけます。

http://ameblo.jp/ryokutetsu-kyomu/entry-11392390335.html

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 f:id:kufuhigashi2:20170620154923g:plain東大入試問題分析会の体験記

http://ameblo.jp/ryokutetsu-kyomu/entry-11392390335.html

 

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◆ 世界史年号について
 世界史について。基礎工事って何だよ! と思うかもしれません。ここで有効なのは年号を覚えることです。タテの繋がり・ヨコの繋がりが同時に抑えられます。日常学習の+αとして平行して行えるので、現在の勉強の邪魔をしません。総括編に書いたように勉強法は各自で編み出すものであると考えるため、自分の勉強法を押しつけるつもりは全くないんですが、年号だけは絶対の自信を持って、必ず覚えるべきだと断言できます。ここでお勧めしたいのは中谷まちよ著「世界史年代ワンフレーズ」です。
簡潔で、バカらしく、そしてたくさんの語呂が並んでいます。無駄な説明を省いているため覚えやすく、特に量は他の追随を許しません。
 バカらしさについても同様です。1905年ベンガル分割令「便が、僕うんこ」、1828年トルコマンチャーイ条約「トルコマン、頭髪ハゲ」、916年耶律阿保機の遼建国「アホは黄色」、1126年靖康の変「成功のバント、人1、2塁」、1492年コロンブス新大陸到達「ころんだブス、意識不明」……など、友達に紹介してもピンと来ないような(笑)ものが並んでいます。
 語呂を突き詰めるとこうなるものであり、いろいろ見た中では最も覚えやすかったと自分は思います。ただあまりに突き詰めすぎてしまっているが故にアレルギーを起こしている友人を多く見受けました。僕はあくまで食わず嫌いだと信じて疑っていませんが、結局紹介しまくって採用してくれたのはひとりだけだったことを付記しておきます。最終的には自分で判断してください。

藤枝東高生への大学受験指南から
 センターでよく問われるのは年代です。もちろん、直接年代を問うことは無いのですが、同時代の出来事を指摘させたり、事象の並び替えを問うたりして、間接的に年代知識を試してくるのがセンター試験です。そこで世界史年代ワンフレーズです。よくあるゴロ覚え本なのですが、笑えるものが多く、同時代の出来事を並べてあったりと、何かと使えます。もちろん自分にあった他の年代暗記本でも結構です。自分はゴロを授業ノートに書き込んで、頻繁に目に入るようにしておきました。友達で一橋に合格した人は、ゴロなど使わずに暗記できたそうですが・・。用語がわかっていても年代をサボるとセンター9割はかなり難しくなってきます。特に09年のセンターでは、自分の周りにも年代問題で苦戦した人がとても多かったと記憶しています。それは年代の対策が不十分だったためのようです。あと、各駅停車は面白い無駄話も多くて楽しめるものです。用語集は私大を本気で考えてる人以外はあまり深入りしなくていいです。

ノンナさん 
センター試験世界史B満点です!
これはすべて『ワンフレーズ』と『各駅停車』のおかげです!
本当にありがとうございます!(2009.1.18、最終結果は東大合格)

ヤッホーくん 
センター、93点でした!自己最高点です。ワンフレーズと各駅停車のおかげです。
(2009.1.19、立命館合格)

osayuくん 
世界史年代ワンフレーズと各駅停車センター世界史Bを使わせていただきました。
センター世界史97点をとれました。
ありがとうございます。(2009.1.20、東大合格)

超空くん
センター世界史はワンフレーズのおかげもあって97点をとることができました。
(2009.1.23、東大合格)

クッキーさん 
3週間『世界史年代ワンフレーズnew』を頑張って覚えたことで,
今までなんとなくマークしていた問題は確信を持って選べるようになり,
今まで勘でマークしていた問題もある程度の自信を持って選べるようになりました。
センター世界史は85点くらい取れれば嬉しいなぁと思っていたので,
95点には本当に驚き,本当に嬉しかったです。(2009.3.10、医学部合格)

カロメくん
ワンフレーズのお陰でセンター世界史満点とれました
どうもありがとうございます。(2008.1.21)

ヒーロー・ルイくん
センター世界史は百点でした。『ワンフレーズ』のおかげでした。ゴロもさるこ
とながら、柔然=五世紀が決定法で選べたときに、覚えるべき年号の取捨選択が
すばらしいと実感しました。あれだけ年号を覚えると、ほとんど年号を根拠に解
答できますね♪(2008.2.1)

別人二十八号くん
世界史はナポレオンが流されたとこと宋の文人画を間違えて95点でした。
何度もワンフレーズのおかげで確実に答えられたのでホント感謝です!
特に13世紀のユーラシアについての問題などはやっといて良かったと思いました。
(ナポレオンのは過去問か何かで見たような・・・)(2008.1.23)

はっしーくん
 世界史ですが(95点とりました)、どうしても報告させていただきたくメールしました。『世界史年代ワンフレーズ』は最高です。今日の試験でも20点分くらいはリアルに『ワンフレーズ』で稼ぎました。例えばジャックリーの乱のところは他の選択肢の正誤はいまいち判定できなかったんですが、「貧民小屋」のおかげでとりあえずジャックリーの選択肢が間違いではないことがわかったので即答です(フランスで起こったことは知っていた)。
しかし本当にセンターは年号が全て、といっても過言でないほど年号を知っていれば得点できてしまいますね。第2問問1も「突然ここに」で即答でしたし。スキタイ・月氏・匈奴あたりはなかなか迷ってしまうところだと思うんですよ。単純にお礼がいいたいです。センター対策としては過去問をやるよりは『ワンフレーズ』をやれば? と人に薦めたいくらいです。
 ちなみに僕は後ろの「センター必修年代」のところをコピーしてホッチキスでとめ、覚えてないところに蛍光ペンを引いてそこだけ覚え、直前に見直してそこで答えられなかったところは赤いシートで消えるペンを使って消し、本番は会場の外の廊下でそれを復習していました。結果、笑ってしまうほど出ました。感謝しています。(2007年1月20日 22:19:27)(この方は東京外国語大学に合格しました)


四人組さん
 『世界史年代ワンフレーズ』は、うちの寮の京大コースの四人で夕ご飯の時いつも問題を出しあっていました。私以外の三人はセンターが世界史でしたが、三人ともセンター後、年代やって良かったと喜んでました。私も年号を覚えることで論述がとても書きやすくなりました。(京大法学部合格)

何やねんくん
 『ワンフレーズ』を実際に使ってみて、あのゴロはかなり記憶に残るもので、通史をする時の歴史の流れがバッチリわかったり、横の論述の時にも効果が絶大であることを身をもって感じました。  ゴロの暗記の一番効果的な方法は、友達同士で口ずさみながら、時には「何やねん(笑) このゴロ!!」とゴロをバカにすることだと思いました。こうすることで記憶に鮮明に残ります!(東大文一合格)

三太郎くん
中谷まちよ著『世界史年代 one phrase 』は名著です。(京大法学部合格) 

菜々丸さん
  届きました。とても可愛らしい装丁で気に入っております。今週毎日持って歩いてたのですが、他の年代暗記書と比べて優れていると思ったのは、
・思わず笑ってしまう語呂ですぐに覚えられる
・楽しい絵が印象的で、記憶に残りやすい(暗記に一番効果的なのはおもしろくて変な絵らしいですね。「春秋、菜々丸」の菜々丸の絵が可愛らしくて忘れられません(笑)
・事象→年代の順にすぐに年代が出てくる
 などの点です。より多くの人に勧めていきたい一冊です。ありがとうございました。

ニヤケくん
  今日ワンフレーズが届きました。別の語呂の本を持っていたのですが、語呂自体を覚えられなかったりテスト中に思い出せなくて苦労していたのです。この本は用語のダジャレがいいですね。テスト中ニヤけないように気を付けます。どうもありがとうございました。

汽車さん
  今日、本が届きました!面白い語呂がたくさん載っていて、また挿し絵もいい感じで、とても気に入りました。
 ハンディサイズなので、通学の汽車の中で利用したいと思います。本当にありがとうございました。

キエフ
くん
  届きました。さっそくページを開くとノヴゴロド国とキエフ公国の「信子、春に、母に」が目に飛び込んできて、ふいてしまいました。とってもおもしろいです。どの年号を覚えたらいいのかもよくわかっていなかったのですが、それもよくわかりありがたいです。 

東大世界史2017

第1問
 「帝国」は、今日において現代世界を分析する言葉として用いられることがある。「古代帝国」はその原型として着目され、各地に成立した「帝国」の類似点をもとに、古代社会の法則的な発展がしばしば議論されてきた。しかしながら、それぞれの地域社会がたどった歴史的展開はひとつの法則の枠組みに収まらず、「帝国」統治者の呼び名が登場する経緯にも大きな違いがある。
 以上のことを踏まえて、前2世紀以後のローマ、および春秋時代以後の黄河・長江流域について、「古代帝国」が成立するまでのこれらニ地域の社会変化を論じなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。(太字は中谷の強調)
  漢字 私兵 諸侯 宗法
  属州 第一人者 同盟市戦争 邑

第2問
 世界史に登場する国や社会のなかで、少数者集団はそれぞれに、多数者の営む主流文化との緊張のうちに独自の発展をとげてきた。各時代・地域における「少数者」に関する以下の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して記しなさい。

問(1) ポーランド人の国家は14世紀後半から15世紀に隆盛したが、18世紀後半に至ってロシア、オーストリア、プロイセンによって分割された。ポーランド人はそれぞれの大国のなかで少数者となり、第一次世界大戦を経てようやく独立した。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) ポーランド人の国家が隆盛した時期の状況と、その後衰退した背景について、3行以内で説明しなさい。
 (b) プロイセンの主導でドイツ人の統一国家が成立した際、ポーランド人以外にも有力な少数者集団が、国内の南部を中心に存在した。それはどのような人々であり、当時いかなる政策が彼らに対してとられたか、2行以内で説明しなさい。

問(2) 史上たびたび、アジアには広域支配を行う国家が登場し、民族的に多様な人々を治めるのに工夫をこらした。また、近代に入ると、国民国家の考え方が、多数派を占める民族と少数派の民族との関係にも大きな影響をもたらした。これらは、今日に至るまで民族の統合や衝突の背景となっている。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) 清朝は、藩部を掌握するために、どのような政策をとっていたのか、2行以内で説明しなさい。
 (b) 1965年に独立国家シンガポールが成立した。その経緯について、シンガポールの多数派住民がどのような人々だったかについて触れながら、2行以内で説明しなさい。

問(3) 北アメリカ大陸各地でも、ヨーロッパ人植民以来の発展のなかで様々な少数者集団が生まれた。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) カナダの国土面積の約15パーセントを占めるケベック州では、今日なお半数以上の住民が英語以外のある言語を母語としている。このような状況が生まれる前提となった、17世紀から18世紀にかけての経緯を2行以内で記しなさい。
 (b) アメリカ合衆国では、南北戦争を経て奴隷制が廃止されたが、その後も南部諸州ではアフリカ系住民に対する差別的な待遇が続いた。その内容を1行でまとめ、その是正を求める運動の成果として制定された法律の名称と、そのときの大統領の名前を記しなさい。解答はそれぞれ行を改めて記しなさい。

第3問
 人類の歴史は戦争の歴史であったといっても過言ではない。古代から現代に至るまで世界各地で紛争や戦争が絶えなかった。戦争に関連する以下の設問(1)〜(10)に答えなさい。解答は解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(10)の番号を付して記しなさい。

問(1) パルティアの領土を引き継いだササン朝は、西方ではローマ帝国としばしば戦火を交えた。260年のエデッサの戦いでは、ローマ軍を打ち破ってウァレリアヌスを捕虜とした。このときのササン朝の君主の名前を記しなさい。

問(2) 北部を除くイベリア半島全体を支配下におさめたイスラーム勢力は、ピレネ一山脈を越えて南西フランスに侵攻したが、732年、トウール・ポワティエ間の戦いでフランク王国の騎馬軍に敗北した。このときのイスラーム勢力およびフランク王国のそれぞれの王朝名を記しなさい。

問(3) 三十年戦争は、ハプスブルク家によるカトリック信仰の強制に対して、ベーメン(ボヘミア)の新教徒が反抗したことから始まった。バルト海に影響力をもっていたある新教国は、当初は参戦していなかったが、皇帝軍の北進に脅威を抱いて途中から参戦した。この新教国の当時の国王の名前を記しなさい。

問(4) ナポレオンは、1798年、イギリスのアジアへの通商路を遮断するためエジプトに遠征し、在地のマムルークをカイロから追放し、さらにエジプトの奥地やシリアにも転戦した。その後、フランス軍は1805年にイギリス艦隊に大敗した。ジプラルタル付近で起こったこの戦いの名称を記しなさい。

問(5) 清では、1860年代から、西洋の軍事技術などを導入して富国強兵をめざす政策が推進され、兵器工場なども建てられた。この政策において、曾国藩、左宗裳とともに中心的役割を果たした人物の名前を記しなさい。

問(6) 19世紀後半、南下政策を進めるロシアは、オスマン帝国からの独立をめざすバルカン地域を支援し、オスマン帝国と戦い、勝利した。このとき、締結された条約によって、ロシアはひとたびはバルカン地域での勢力を大幅に強めた。この条約の名称を記しなさい。

問(7) 19世紀末のスーダンでは、アフリカ縦断政策を進めるイギリスと、アフリカ横断政策を進めるフランスが対立し、軍事衝突の危機が生じたが、フランスの譲歩により衝突は回避された。この事件の名称を記しなさい。

問(8) インドシナでは、1941年に共産党を中心として、統一戦線が結成された。この組織は、植民地からの独立をめざして日本やフランスと戦った。この組織の名称を記しなさい。

問(9) 1963年に3か国の間で調印された部分的核実験禁止条約(PTBT)は、地下実験を除く核兵器実験を禁じている。この3か国の名称を記しなさい。

問(10) 17世紀の前半に活躍したある法学者は、戦争の悲惨さに衝撃をうけて『戦争と平和の法』と題した書物を著し、軍人や為政者を規制する正義の法を説いた。この法学者の名前を記しなさい。

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第1問
 この問題を作ったひとはフランシス・フクヤマ著『政治の起源 上・下』(講談社)を読んで刺激を受けたとおもわれます。この本は始皇帝のつくった帝国が西欧で19世紀になって実現する中央集権国家をすでに実現していた、と主張するものです。西欧のギリシア・ローマに見られる古代帝国の形成についてはわずかにしか説明されていませんが、ちょこちょこ比較しつつ指摘するだけです。ならば、ローマ帝国の形成と比較する問題を出してみよう、と。
 フクヤマは序文で「国家は、その過去にとらわれ続けるわけではない。ただ、数百年、あるいは数千年も前に起きたことが、政治の本質に大きな影響を与え続けていることが、往々にしてある。今ある諸制度の機能を理解しようとするなら、その起源と、制度を生みだした偶然の力を考えてみる必要がある。……私は中国の国家形成を一つの基本的な枠組みと考え、他の文明がなぜ中国のたどった道をたどらなかったのか考えてみたい」と述べていて、世界史を学ぶひとには頭の体操になる面白い書です。

 この第1問のポイントは「大きな違いがある。以上のことを踏まえて」とある部分です。フクヤマと同様に帝国形成過程を書かせて、二つの帝国がどういう違った帝国を形成してしまったかを探させようとしています。
 ある予備校が発表している次の解答例を読んでみてください。

重装歩兵を担う市民団を基盤とする都市国家ローマは、ポエニ戦争に勝利し属州を広げたが、市民団を支える中小農民が長期の従軍と属州の安価な穀物流入によって没落した。一方、同盟市戦争でローマ市民権がイタリア半島の全自由民に認められ、ローマ市民団は拡大し公用語のラテン語も広がった。没落した無産市民を私兵化して台頭した実力者の内乱は激化し、有力軍人による三頭政治・カエサルの独裁を経て、オクタウィアヌスが勝利し地中海地域を統一した。その後、市民の第一人者を意味するプリンケプスを称して市民共同体の理念を尊重しつつ、元老院からアウグストゥスの称号を受け、軍事・政治の最高指導者となった。春秋時代から戦国時代にかけて、宗法を基盤とする血縁的なの連合体が存在していたが、鉄製農具や牛耕の普及などで農業生産力が向上すると、家族単位の農業が可能となり、氏族共同体の結束は失われて封建制は崩れていった。諸侯は新県を設け開発を進めて小農民を統率し、商業を振興し有能な人材を実力本位で登用するなど富国強兵策を推進し、地域的な領域国家が形成された。周王の権威は失われ各国君主が王を称していたが、諸子百家のうち法家思想を採用した秦が中国を統一すると、光り輝く天の支配者を意味する皇帝を称し諸王の上に君臨した。郡県制による支配が各地に拡大し、篆書に統一された漢字は、長江流域を含む各地での集権的な官僚統治に役立てられた。

 この答案の中で「大きな違い」にあたるものを指摘しなさい、と問われて指摘できるとひとはどれだけいるでしょう?
 歴史の名称がちがうことは相違点を意味しません。たんにラベルが違うことを制度の意味の違いとは言わない。インドのヴァルナ制と新羅の骨品制はどちらも身分制度ですが、名称がちがうことは中身の違いを指摘していない。イクター制はイスラーム世界の封建制で、ビザンツ帝国のプロノイア制も封建制ですが、それは中身がどう違っているのか名称だけでは何も示していません。こんなに当り前のことを言わなくてはならないくらい、思考が劣化している答案です。答案の作者は違いを書いたつもりでしょう。たんに羅列しただけなのに、比較して「大きな違い」を表わしたとおもっているようです。
 も少し具体的に見てみましょう。ローマではしきりに「市民団」という語句を使ってますが、これは中国では何に当たるのか? 家族でも氏族でもない。何か個人の権利を指している「市民」とその団体という言葉「市民団」は中国古代には存在しない。なぜこの市民という概念、個人の権利の上に立つ国家という、ギリシア以来の西欧独特の語句を使いながら、中国にそれがないことを指摘しないのでしょうか? 指定語句に「同盟市戦争」があるのになぜ気づかないのか? 過去問に「ローマの市民権の拡大について2行以内で説明しなさい。(2011)」というのもあったのに?
 ローマで農民の没落と私兵化が書かれていますが、これは中国ではないのか、あるのか? 中国の鉄製農具と牛耕農法が書いてありますが、ローマでは農業技術の革新はない? 比較・対比は同じ分野・テーマで比べる、という比較する際の基本が分かっていないようです。ローマでA・B・Cを書いて、中国でD・E・F・Gという風にちがう分野のことを書いても比較したことにならない、A-A'、B-B'、C-C'、D-D'と分野毎に比較しないと比較したことにならない、という基本のことです。
 ローマでは都市国家ということから出発していますが、中国の都市とローマの都市はどう違うのか? 統一への過程において都市はどう変化したのか? 中国では法家思想が統一への思想となっていますが、ローマの思想は何か? 万民法と法家思想はどうちがうのか? 中国の漢字・諸子百家という文化的なことがらはローマではどれが該当するのか?
 「公用語のラテン語も広がった」と「統一された漢字」とどう違うと言いたいのか? 言語と文字?
 君主の称号「アウグストゥス」は「尊厳者」という神にささげる尊称であり、じっさい死後ローマ皇帝はみな神として礼拝されることになります。この称号と「光り輝く天の支配者を意味する皇帝」とどう違うのか? 同じではないのか? アウグストゥス帝が残した自身の記録は『神皇アウグストゥス業績録』と呼ばれています(桜井・木村共著『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論社 p.322)。

 これほど「大きな違い」を何も書かない答案を採点官はどう評価するのか聞いてみたいものです。この「大きな違い」が必要ないのであれば、第2問の(a)・(b)のように分けて別々に書いたらいい問題になります。なぜ同一の問題の中で、同時代の二つの帝国形成について書かせているのか出題意図が分からなくなります。
 この問題だけでなく、比較の問題になるとどの予備校(講師)もまともな解答文が書けません。例年のことなので何も驚くことではないですが。東大はこれまでにも「奴隷制廃止前後の差異に留意しながら(2013)」「差異を考えながら(2012)」「特徴を比較して(2009)」「対照的な性格に留意しつつ(1998)」「解体過程の相違に留意(1997)」と比較の思考を要求してきた過去があり、比較文が書けることは必須の論術です。これではいつまで経っても進歩がないですね。進歩のなさが、怖いところです。

 「大きな違い」という語句を無視した、問題文が読めなかった、比較文が書けない、というだけでなく、出題者の意図がまったく読めなかった、という欠陥もあります。まったく違うタイプの帝国を比較するという課題がなぜ捉えられなかったのか?
 他人の答案を批判したので、自分の答案を下の方で載せておきました。
 予備校だけでなく、受験生も中国とローマの統一なんてなんとか書けるととおもい、それぞれの流れをずらずら書いて終わったでしょう。ちょっとでも踏ん張って構想メモをつくったひとは居るでしょうか。流れに埋没して「大きな違い」なんて独りでに現れるはず、と甘く考えたでしょう。しかし受験生が書いてくれた再現答案の中では、少しでも違いを書いた受験生が合格しています。上の予備校講師の解答を越える解答です。

 さて、出題意図を探ってみます。政治・経済・文化の三つの分野に分けます。課題は「ニ地域の社会変化」といいながら、この「社会」は一番広い使い方です。一般には「社会」とあれば政治以外のすべてですが、たいていは経済を書けばいいものの、この導入文の「社会」の使い方は政治も文化もみな入っているようです。というのは、「「古代帝国」……古代社会……「古代帝国」の成立」と「帝国」は明らかに政治用語であり、ここでは政治と社会が等価で扱われています。「法則」という議論にまで言及すると、政治と経済がからむことは自明でしょう。

 導入文にある「古代社会の法則的な発展がしばしば議論されてきた。しかしながら、それぞれの地域社会がたどった歴史的展開はひとつの法則の枠組みに収まらず、「帝国」統治者の呼び名が登場する経緯にも大きな違いがある」という部分についての考察です。マルクス主義の法則的な階級闘争的史観(唯物史観)では「古代」は奴隷制社会のはずでした。しかしこの単純な「法則」ではすべての古代帝国は捉えられないとして「法則の枠組みに収まらず」と述べ、その実例として君主の「呼び名」にも現れていると指摘しています。
 上の疑問点をあげたところで、オクタウィアヌスはアウグストゥスと元老院から授けられた称号を自らは名乗りませんでした。かれの強調点は指定語句になっている市民の中の「第一人者」、「第一の市民」という意味のプリンケプスです。権力は集中していて後世の史家は皇帝政の開始ととっていますが、この表現は避けて市民の中の「第一人者」と呼ぶことで独裁者カエサルの二の舞になりたくない、という意志が働いていました。カエサルのように地位を終身にせず、毎年更新するかたちをとったのも、その慎重さを表わしてます。皇帝は元老院で選ばれる地位であり、その元老院議員はパトロヌス(保護者)とクリエンテス(被保護者)という庇護関係(パトロネージ)の親分たちでした。元首政を皇帝と元老院の共同統治と表現します。元老院はまだ無視できない権威をもっていました。アウグストゥス帝とて「護民官」という平民を守る官職と義務を負っています。本来、アウグストゥス帝はパトリキなので、パトリキはプレブスだけが就けるこの官職に就けなかったのに、わざわざ元老院に法案を通過させて就任しています。
 この問題の場合は専制君主政(ドミナートゥス)まで言及する必要はないでしょう。後者の場合は元老院の意味がなくなるからです(拙著『世界史論述練習帳new』別冊のp43「元首政と専制君主政のちがい」参照)。

 「市民」という政治的な権利については、中国史では現代にいたるまで認められた歴史がありません。始皇帝は個人の生殺与奪の権利をもつ、いわば唯一自由な地位にありました。現・中華人民共和国憲法の第二章に市民の権利を定めたものがありますが、それらは「いかなる組織ないし個人も社会主義体制を破壊することを禁止する」という条項によって無意味にされます。同じように自民党改憲案・第13条では「全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福求に対する国民の権利」としながら、その後に「公益及び公の秩序に反しない限り」と条件を付けることで前文を反古にしてしまいます。自民党は市民の権利を削ることに余念がない。ローマ史には平民が貴族の権利をつかみとる長い歴史がありました。個人の権利を認めた上での帝国、という西欧近代国家に近いものです。

 また官僚制の発展も帝国形成には不可欠の事柄であり、中国の場合は能力主義の官僚制を発展させることと連動していました。それは封建制度・血縁の関係の強い社会のつながりを切り裂くものでした。諸子百家といわれる有能者たちは、各国に誘われ、自ら求めて遊説して回りました。孔子が遍歴した国は故郷の魯から周→斉→魯→衛→陳→宋→鄭→蔡→楚→衛と回って魯に帰国しました。孟子は梁→斉→宋→藤→魯→鄒と遍歴しました。商鞅の遍歴は衛→魏と回って秦で落ち着きました。呉起の遍歴は衛→魏→楚でした。これらのうち商鞅・韓非・李斯の法家グループが官僚制の必要性を説いて、法家に学んだ始皇帝が統一に成功しました。この点についてフクヤマは「中国では知識人と官僚の役割の融合が行われたが、これは世界のほかの文明では見られなかったことだ」と指摘しています(p.176)。これは新しい指摘ではなくエチアヌ・バラーシュの『中国文明と官僚制』(みすず書房)で明解に説いていることでした。
 ローマ帝国の官僚制はどうだったでしょう? 専制君主政になって「巨大な官僚体制をきずいた。官吏の力は強大となり、皇帝が官吏を使って帝国を専制支配する体制ができあがった(詳説世界史)」とあるのであれば、それ以前の元首政においては官僚制は発展していなかった、と推理できます。もっと詳しく説明しているのは東京書籍の教授資料(先生用のアンチョコ)です。以下。

 ローマ皇帝は、帝国の細部にわたって綿密な管理をほどこすといった体制をとらず、各地の都市に広範な自治を与えていた。皇帝の公務は、午前中いっぱいと午後の一部であった。また、一日の政務の多くは裁判が占め、巨大帝国の統治者のわりには、行政そのものを行う時間が少なかった。皇帝が行政に励まなくとも、帝国は麻痺しなかった。その理由は、皇帝は一切を集中管理せず、各官僚に裁量権を与え、行政決定を任せていたからである。官僚も多大な時間を公務に割いたわけではなかった。勤務時間は、夏至ならば午前7時から10時半すぎまで、冬至ならば9時から11時すぎの午前中のみであった。また、官僚の定員も帝国の人口約6000万人に対して、ただの300人であった。
 このように帝国は驚くほど少数の官僚で運営され、皇帝も行政のすべてを陣頭指揮したわけではなかった。巨大帝国がなぜ「官僚制なき小さな政府」で統治できたのだろうか。その理由をあげると、中央政府は地方行政を各都市へ丸ごとゆだね、最低限の干渉にとどめたこと、各地の秩序が維持され徴税が確保されれば行政の目的を達成したとみなしたこと、などであった。ローマ帝国は、地方の都市を帝国行政の歯車に利用することで、帝国存立に最低限必要とされた各地の秩序維持と徴税が確保できたのである。

 時期は少しずれますが、ローマが「人口約6000万人」だった頃、前漢末の人口数も約6000万人弱(5959万4978人)でした。ローマの官僚が300人だったのに対して、前漢の官僚数は約13万人と見積もられています(鈴木正幸他三氏編『比較国制史研究序説』の中の渡辺信一郎「中国古代専制国家論」)。秦の人口数は前漢より半分以下と見られていますが、それでも官僚比率の差は大きいといえるでしょう。

 こうした事柄を知らなくても、ローマが征服地の統治に関して、徴税請負制をとったことは習うでしょう。請け負ったものたちが財産を蓄え、「騎士(エクイテス)」と呼ばれるようになることも習いますね。かれらが本来ローマが国家としてやらねばならない仕事を請け負いました。仕事の内容は広範です。

かれらが請負ったものに、第二次ポエニ戦争中のごとき公共建築・土木請負や戦時の食糧・軍衣供給などのほか、財産税・奴隷解放税・関税等の徴集、公有地とくに共同牧地における放牧税、属州の十分の一税の徴集、さらには塩の専売、鉱山採掘権、森林・漁撈権にまで及んだ。これらの請負契約はローマで戸口調査官との間で結ばれ、初めは個人が契約したが、おそくも前二世紀の初めには一種の会社組織(societas)が現われている。(弓削達『ローマ帝国論』吉川弘文館 p.94)

 上の上の引用文に都市について「中央政府は地方行政を各都市へ丸ごとゆだね」とある点でも中国との違いを示しています。ローマは半島統一戦争の過程で、都市との戦いに勝利しても、その所有地の全てを奪っておらず、3分の1くらいを取りあげて、後は従来通りの自治を認め、その代わりローマ市との関係では市民権格差を設けて分割統治をしました。植民市・自治市・同盟市の3区分です。こうした都市自治の伝統が、6世紀のユスティニアヌス帝のときに起きたニカの反乱でも現れていて、この皇帝のときになってやっと自治を奪いました。
 対して中国の都市は初め「邑」という都市国家(邑制国家)にあたる表現でしたが、戦国時代にこれらの邑は「郡」「県」と名付けられて中央政府の末端基地としての役割を担わされます。新しい開拓地や他国との戦争に勝利すれば、全ての土地を奪い、その中心都市(邑)を郡・県と呼んで王の直轄地とし、家臣には有能な人材を選びかれらを官僚として郡や県に派遣し統治させました。そこにはローマのような自治を認める要素はなく、独立性の乏しいものでした。帝国にとっての都市の位置づけがローマと違っていたのです。

 奴隷制についてはどうでしょう? ローマはラティフンディアが発展したので奴隷制は前提ですが、中国はかつてはマルクス史観(郭沫若)にたって殷周時代を奴隷制としていましたが、今は殷代までしか奴隷制をあてはめていません。ローマは帝国領の拡大とともに奴隷の増大になりましたが、戦国時代の中国が奴隷制を発展させたとは言えないようです。戦争があり、捕虜が奴隷になるのは中国でもありえましたが、あくまで「捕捉的な」労働力でした(貝塚茂樹・伊藤道治『中国の歴史1』講談社 p.382)。
 その点でいえば、ローマでは奴隷労働が要らなくなるような技術革新をしないことになっていて、農業技術の変化は見られません。戦国に鉄製農具・牛耕農法が普及しますが、各国も富国強兵策のため開墾・干拓・灌漑を奨励し、土地の私有制を広めました。「従来、共同体に所属している農民たちは、土地の占有権を持っただけで、所有権は持たなかったが、その土地の売買が自由化していく過程で、しだいに所有権に変わった。共同体の土地を共同で利用していたはずの農地が、小単位に分割され、それに対する所有権をもつことになった結果、地主階級が生まれてくることになった。」(前掲書p.380-382)。そうすると貧富差も出てきますが、大多数の農民は小規模自作農民でした。
 ローマは半島統一戦争の過程で3分の1ほどを取りあげる、と書きましたが、それらは公有地とし、中小農民が参戦して取りあげた土地、すなわち「公」有地でありながら、じっさいには大土地所有者が利用しました。そこでリキニウス法(前367)が制定され、公有地500ユゲラ(約125ha)以上占有禁止、公有地に100頭以上の牛、500頭以上の羊の放牧の禁止、という内容から中小農民が外されていることが分かります。前111年には占有地の私有を認めていき、それはまさに大土地所有の容認でした。大きい例では1人が2万人の奴隷を所有して経営していたことが知られています。中国ではありえない異様な光景です。

 中国統一の原動力となった法家思想とローマの万民法はどう違うのでしょう? 
 戦国時代に『法経』を著わした李克(李悝 りかい)から法家思想が始まり、商鞅、韓非、李斯と受け継がれ、富国強兵・信賞必罰の徹底で統一を実現しました。人間を信用せず、並ぶ者のない専制君主の下で法の施行(法治主義)こそ統治の基本と考えるひとたちです。
 ローマの法は十二表法から始まりますが、これは市民にだけ通用する法であり、万民法はローマの支配地域が拡大すると必然的に現れました。ストア哲学から受け継いだ法の前の平等の考えが影響したようです(福田歓一『政治学史』東京大学出版会 p.62-75)。前242年の外国人との商法を定めたのが最初とみられていて、中国のように国内の集権化や統一のための政治的な法ではありません。万民法は非市民である外国人との関係法として発展し、これが増えていき、212年のカラカラ帝のアントニヌス勅令で、帝国内全自由民に市民権を与えたため、市民法と万民法の区別がなくなりました。これはしかしアウグストゥス帝の登場のあと約250年後のことです。帝国成立までに果たした役割は小さかったと言えるでしょう。

 指定語句となっている「漢字」は始皇帝が統一とともに小篆に統一したことも名高いできごとです。七雄が官僚制を拡大していく際に、それぞれの余り違いのない文字(金文)を使用していて、統一後に秦の使用していた大篆を簡略化した小篆に統一しました。上に書いた知識人たちの全国遊説も漢字の拡大につながったでしょう。官僚は、徴税記録、認可証明書などの事務処理のために漢字を多用したはずです。
 ローマの場合は、東方属州はギリシア語とギリシア文字、西方属州はラテン語が公用語で、ラテン文字が使われています。これだけでなく、帝国内にはゲルマン人たちのそれぞれの言語にルーン文字、フェニキア人のアルファベット、シリア人のシリア文字、ユダヤ人のヘブライ語とヘブライ文字、アラム語は当時の西アジア公用語で、アラム文字はアラム商人を通して東方に伝わります。旧約聖書の一部はアラム語で書かれています。200年頃に編纂された新約聖書はギリシア語で書かれました。マルクス帝のようなストア哲学者たちはギリシア語で著作しました。バイリンガルであることがローマ知識人の常識でした。このように中国との違いは大きい。

 長くなったので、第2問・第3問の解説は省略です。

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(わたしの解答例)

第1問

黄河・長江流域の氏族共同体は宗法で維持されていたが、をもつ諸侯たちが互いに覇を争い、それは七雄の抗争に発展し、秦が統一帝国を形成した。その間、奪った国・土地・都市に官僚を派遣して直接統治をした。ローマは半島以外の征服地を属州としたが、都市の土地を全土奪わず、市民権を3段階に分けて分割統治をした。同盟市戦争が市民権格差をなくし、都市自治を認め、官僚制は徹底しなかった。次第に私兵を養う将軍たちが台頭し政治を左右した。三頭政治を勝ち抜いた将軍のオクタウィアヌスが元首政を始める。始皇帝は神・上帝に等しくなったが、元首は元老院で選ばれ、護民官も兼ね、市民の第一人者を自称した。経済面。中国では鉄製農具の導入以降から共同体経営が崩れ、家族経営の小地主たちが戦国の各国を支えた。ローマは戦争の捕虜が奴隷として売買され、奴隷制立脚のラティフンディウムが発展した。そのため中小農民が没落した。奴隷がローマを支えたため、奴隷労働が要らなくなるような技術革新は抑えられた。中国にはこのような奴隷制は発展しなかった。文化面。七雄君主は諸子を招いて富国強兵を図ったが、法家が集権化に貢献した。また金文から発展した各国の漢字は似通っていて統一とともに秦の小篆にまとめられた。ローマではラテン語を公用語としたが、多くの異言語・異文字と共存した。万民法は市民法以外の法として徐々に整えられたが統一に寄与することはなかった。