世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

共通テスト対策

問題は以下でダウンロードしてください。地図・グラフは省いてあるので。ただし第1問だけ地図を載せました。
https://www.dnc.ac.jp/albums/abm.php?f=abm00035517.pdf&n=02-04-2_問題冊子_世界史B.pdf

 2回の試行テストの中ではこの2回目の問題が来年[2021]のテスト内容に近いと思われるので、このテストで検討します。これは1回目の試行テストと現行センター試験の中間くらいの形式だからです。1回目はがんばりすぎて写真・図・グラフが多すぎました。
 わたしの解説箇所は以下の◆のところ。対策は末尾に書いてあります。

世界史B(解答番号1〜34)
第1問
 現在の世界の諸地域は,長年にわたる地域間の接触と交流の中で形成されてきた。世界史における接触と交流について述べた次の文章A〜Cを読み,下の問い(問1〜8)に答えよ。(配点 24)
A 次の地図は,地中海とその周辺地域を表している。この地図中の矢印は,歴史上生じた大規模な人の移動の始点と終点並びに移動の方向を,大まかに描いたものである。矢印aと矢印bは,ヨーロッパと北アフリカとの間の南北方向の移動を,また,矢印cと矢印dは,ヨーロッパと西アジアとの間の東西方向の移動を,それぞれ指している。

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A
問1 矢印aまたは矢印bが示す人の移動について述べた文として最も適当なものを,次の①〜④のうちから一つ選べ。[ 1 ]
 ① 矢印aは,ノルマン人によるシチリア王国の建国を表している。
 ② 矢印aは,ウマイヤ朝による西ゴート王国の征服を表している。
 ③ 矢印bは,ムッソリーニによるエチオピア侵攻を表している。
 ④ 矢印bは,ド=ゴールによるアルジェリアの植民地化を表している。

 ◆矢印aはモロッコからイベリア半島に向かっていて、矢印b はフランスからアルジェリアに向かっています。①ノルマン人はスカンディナビア半島から南下するので、この地図の矢印のどれも該当しません。②これが正解。711年にジブラルターリクが海峡を越えてゲルマン人の西ゴート王国を征服しました。③これは地理の問題でもあり、この地図の中にエチオピアが存在しないことが分かるかどうか。④ド=ゴールはアルジェリアの独立を承認した大統領であり(『ワンフレーズ』[以後『ワン』]語呂「あるじ独立、僕196622[歳])、植民地化したときの王はシャルル10世(『ワン』語呂1830、「あるじ、飛1ば8さ3れ0」)です。
 時間が中世と現代にまたがり、歴史地理も広くとっていて世界史らしい良問です。通常から教科書の地図をよく見ながら勉強しないと解けないですね。

問2 矢印cまたは矢印dが示す人の移動の事例あ〜えと,それについて説明した文X・Yとの組合せとして正しいものを,下の①〜④のうちから一つ選べ。[ 2 ]

 事例
 あ 矢印c―第1回十字軍
 い 矢印c―東方植民
 う 矢印d―フン人の西進
 え 矢印d―ウィーン包囲

 説明
 X エルベ川以東で,ドイツ騎士団が中心となって行った。
 Y オスマン帝国のスレイマン1世が行った。

 ① あ―X
 ② い―Y
 ③ う―X
 ④ え―Y

 ◆「あ」の矢印cが正しい。「え」の矢印dが該当しています。Xは東方植民の一例であり、地図に矢印がありません。したがって④のスレイマン1世の遠征の一つとしてウィーン包囲がありました。

問3 上の地図で表された地域において接触した可能性がある勢力の組合せとして誤っているものを,次の①〜④のうちから一つ選べ。[ 3 ]

 ① 共和政ローマとカルタゴ
 ② メロヴィング朝とマムルーク朝
 ③ ビザンツ帝国(東ローマ帝国)とヴァンダル王国
 ④ スペイン王国とナスル朝

 ◆地図上の矢印は無視しないといけない。「地域」ということなので地中海世界全体での対立関係を考えなくてはならない。すると時間的に対立関係になりそうもないものが②です。メロヴィング朝はカロリング朝ができるまでつづいた王朝で、751年まででした(『ワン』語呂「カロリー、ピンピン、長7ご5〜い1王朝」)。マムルーク朝は1250年がスタートでした(『ワン』語呂「マルーク、一1つ2小5丸0」)。時間がちがいすぎます。

B 地図1は,朝鮮で作製された『混一疆理(こんいつきょうり)歴代国都之図』である。14世紀に中国で作られた2種類の地図を基に,朝鮮半島と日本列島の地図を合わせて,1402年に作製されたと伝えられている。地図1の左端には,参考図に示したように,不正確とはいえ,アラビア半島とアフリカ,それにヨーロッパが描かれている。アフリカの中に描かれている巨大な湖のようなものは,①当時サハラ貿易で栄えていたトンブクトゥのある,ニジェール川流域を描いたものとする説もある。地図1の基となった地図が作られた時代には,[    ]ことが知られているように東西交通が活発であり,これらは,そのような交流を通じてもたらされた知識の反映と考えられている。地図2,地図1から200年後に中国で作製された『坤輿万国全図』である。地図1と比べると,描かれた大陸が実際の形に近づいただけでなく,地図1には描かれなかった大陸が増えていて,その間に[  ]ことなどを通して,地理的知識が拡大したことが読み取れる。
地図1
地図2
地図1参考図(部分)
ナイル川
ヨーロッパ
アラビア半島
アフリカ
インド洋
(この地図は,海岸線が明確になるよう,元の地図に加工を施している。)

問4 下線部①について述べた文として最も適当なものを,次の①〜④のうちから一つ選べ。[ 4 ]

 ① 生糸と銀の貿易で栄えた。
 ② 金と塩(岩塩)の貿易が行われた。
 ③ 毛皮と薬用人参が主な貿易品だった。
 ④ 香辛料を求めて,ヨーロッパ人が進出した。

 ◆サハラ貿易の正解は②です。モロッコの岩塩とニジェール川上流で採れる金が同じ目方で取引きしたという貿易。センター試験の過去問にもあります(2003追、2008、2010、2015)。


問5 文章中の空欄[ ア ]と[ イ ]に入れる文a〜fの組合せとして正しいものを,下の①〜⑥のうちから一つ選べ。[ 5 ]
 a ヴァスコ=ダ=ガマが,ヨーロッパからのインド航路を開拓した
 b 大秦王安敦の使者とされる者が,東南アジアに到来した
 c アムンゼンが,南極点に到達した
 d イブン=バットゥータが,アフリカやユーラシアを旅行した
 e クックが,太平洋を探検した
 f マゼランの艦隊が,世界周航を行った

 ① ア―a  イ―b
 ② ア―a  イ―e
 ③ ア―c  イ―b
 ④ ア―c  イ―f
 ⑤ ア―d  イ―e
 ⑥ ア―d  イ―f

 ◆導入文「14世紀に中国で作られた……1402年に作製された」がヒント。この時期以前に旅行しているひとの文章はbとdになり、とくに「ニジェール川」云々とあればこの地域を旅行したイブンバットゥータがふさわしい。ところが地図2になると、「大陸が実際の形に近づいた」とあるので16世紀の大航海時代のもの、と推測されるので、正解⑥。eクックは18世紀のひと。cアムンゼンは1911年に南極到達。


問6 地図1の作製時期と,朝鮮半島の歴史について述べた次の文a〜cとが,年代の古いものから順に正しく配列されているものを,下の①〜⑥のうちから一つ選べ。[ 6 ]

 a 甲午農民戦争が起こった。
 b 楽浪郡が置かれた。
 c 豊臣秀吉が送った軍勢の侵攻を受けた。

 ① 地図1→a→b→c  ② a→地図1→b→c
 ③ b→地図1→c→a  ④ a→b→地図1→c
 ⑤ b→c→地図1→a  ⑥ b→c→a→地図1

 ◆「地図1の作製時期」は「1402年」と書いてあり、するとaは日清戦争の原因にしたものととるか、あるいは年代を覚えていたらいい(『ワン』語呂は「百189姓4」、日清戦争の語呂は「日清焼きそば、人1焼8く9よ4」)、b楽浪郡設置は前108(『ワン』語呂は「楽天10馬8」)、c秀吉の朝鮮侵略(秀吉は異1国59に2来9な7)。正解は③となる。かつてのセンター試験の時間差問題(年代の古いものから順に)から比べると時間の長さが長く、区別しやすく、容易なものになっています。

C 海外旅行の候補地としてカナダに興味を持った林さんは,カナダでは1969年に制定された公用語法によって,英語とフランス語を公用語とする二言語政策を採っていることを知った。この政策は,ヨーロッパ人による入植以降の北アメリカ大陸の歴史を反映したものであり,近年では外国からの移民の増加に伴って,英語・フランス語以外の言語を第一言語とする人々が増加の傾向にあるという。そこで,林さんは下調べのために図書館へ行き,カナダの言語事情に関する次の資料を見つけて,メモ作りを始めた。

カナダ全体
ケベック州
ケベック州以外

英語
フランス語
その他

2011年国勢調査で申告された第一言語(母語)の比率

問7 林さんは,2011年国勢調査における第一言語の比率について,その歴史的な要因を考えて,次のメモ1を作った。メモ1中の空欄[ ウ ]と[  ]に入れる文a〜dの組合せとして正しいものを,下の1〜8のうちから一つ選べ。[ 7 ]

メモ1
⃝●カナダ全体で,第一言語の比率が資料のようになっているのは,[ ウ ]ことが要因だと考えられる。
⃝●ケベック州で,第一言語の比率が資料のようになっているのは,[ エ ]ことが要因だと考えられる。

歴史的な要因
 a 史上初の黒人共和国になるまで,フランスの植民地であった
 b イギリス連邦の成立まで,イギリスに従属する植民地であった
 c ブルボン朝の時代に,フランスの植民地が建設された
 d プラッシーの戦いの結果,イギリスによる支配の基礎が築かれた

 ① ウ―a  エ―b
 ② ウ―a  エ―c
 ③ ウ―b  エ―c
 ④ ウ―b  エ―d
 ⑤ ウ―c  エ―d
 ⑥ ウ―c  エ―a
 ⑦ ウ―d  エ―a
 ⑧ ウ―d  エ―b

 ◆易しすぎる問題。比率表では英語が多いことは、歴史的な要因のbを、ケベック州だけはフランス語が圧倒的に多いので、空欄エに入るのは文章cとなります。aは黒人で共和国になるまでとはフランスのアフリカにある植民地であり、dプラッシーの戦いはインドの出来事。正解③。


問8 林さんは,上の国勢調査でその他の言語を第一言語として申告した人々には,アジア系の移民が多く含まれていることを知った。アジアから北アメリカ大陸への移民に関する次のメモ2中の空欄[ オ ]と[ カ ]に入れる語句の組合せとして正しいものを,下の①〜④のうちから一つ選べ。[ 8 ]

メモ2
 アジアからアメリカ合衆国への初期の移民の多くは中国人であり,1860年代の西部での[  ]のための労働力需要を支えた。中国人に続いて,日本人の移民も増加した。しかし,新たな移民に対する反感が強まり,1920年代には,人種偏見を背景として,[  ]移民法が制定された。

 ① オ―大陸横断鉄道の建設  カ―アジア系の移民を禁止する
 ② オ―大陸横断鉄道の建設  カ―特定の居住地に強制移住させる
 ③ オ―パナマ運河の開削   カ―アジア系の移民を禁止する
 ④ オ―パナマ運河の開削   カ―特定の居住地に強制移住させる

 ◆これも容易な問題。空欄オは「1860年代の西部……労働力需要」とあるので、1869年の大陸横断鉄道の開通事業にあたります(『ワン』語呂は「人1は8ロ6ケ9ット」)。パナマ運河は西部でなく南部になります。空欄カは「人種偏見……移民法」なのでアジア人差別として移民を禁止する法が制定されました(1882年中国人排斥法、1924年排日移民法)。正解は①。

(下書き用紙)

第2問 世界史上の政治思想について述べた次の文章A〜Cを読み,下の問い(問1〜8)に答えよ。(配点 23)

 ギリシア人ポリュビオスは,著書『歴史』の中で,ローマ共和政の国制(政治体制)を優れたものと評価している。彼によれば,その国制には,コンスルという王制的要素,元老院という[  ]制的要素,民衆という民主制的要素が存在しており,これら三者が互いに協調や牽けん制せいをしあって均衡しているというのである。ローマ人はこの政治体制を誇りとしており,それは,彼らが自らの国家を指して呼んだ「ローマの元老院と民衆」という名称からも読み取ることができる。共和政期末の内戦を勝ち抜いたかに見えた[  ]でさえも,この体制を壊そうとしているという疑いをかけられ,暗殺されてしまった。
 こうしたローマ国制についての理解は,以後のローマ人著作家を経由して,近世以降のヨーロッパ知識人層にも受け継がれていった。その影響は,モンテスキューらが唱え,アメリカ合衆国憲法をはじめとする近代憲法にも定められている[  ]という考え方にも見ることができる。
 ポリュビオスはまた,ギリシアのポリスの国制についても詳しく述べている。ただし,アテネについては「幾度か繁栄のときを迎え,とくにテミストクレスの活躍と時を同じくして最高度の輝きを放ったけれども,その浮(うわ)ついた国民性のゆえにたちまち逆境の淵(ふち)に突き落とされた」と述べ,例外的な存在と位置づけている。

問1 文章中の空欄アとイに入れる語の組合せとして正しいものを,次の①〜④のうちから一つ選べ。[ 9 ]

 ① ア―貴族  イ―カエサル
 ② ア―貴族  イ―オクタウィアヌス
 ③ ア―僭主  イ―カエサル  
 ④ ア―僭主  イ―オクタウィアヌス

 ◆これも容易な問題。空欄アは「元老院という……制的要素」とあり、貴族制が該当します。僭主は独裁者のことだから「要素」にはなりらくい。空欄イの後に「暗殺されてしまった」とあるのでカエサルと分かります。よって正解は①。


問2 文章中の空欄ウに入れる語句として最も適当なものを,次の①〜④のうちから一つ選べ。[ 10 ]
 ① 最大多数の最大幸福
 ② 君主の権力は神によって授けられた
 ③ 立法・司法・行政をそれぞれ異なる機関に委ね,権力の均衡を図る
 ④ 王は君臨すれども統治せず

 ◆空欄ウの前に「アメリカ合衆国憲法をはじめ」とあり、モンテスキューの唱えた三権分立が該当するので、正解は③となります。①ベンサム、②王権神授説、④英国の責任内閣制。


問3 ポリュビオスが言う「最高度の輝きを放った」時期のアテネについて説明している文として最も適当なものを,次の①〜④のうちから一つ選べ。[ 11 ]

 ① 国を二分した内戦の中で,奴隷解放宣言が出された。
 ② 市民を債務奴隷にすることが禁じられるとともに,財産政治が導入された。
 ③ 戦車と鉄製の武器を用いて,オリエントを統一した。
 ④ 軍船の漕ぎ手として活躍した下層市民が,政治的発言力を強めた。

 ◆これも容易な問題。④下層市民が発言権を高めた、という部分は民主政最盛期を表しています。①アメリカ合衆国、②ソロンの改革はまだ民主政の前の段階。③アッシリア帝国。


 次の文章は,ある日本人の回想録の一節である。(引用文は原文を一部省略したり,改めたりしたところがある。)

 当時,清国皇帝は,康有為の意見をいれて鋭意国政の改革をはかり,要路(注1)の旧守派(注2)はこれに反抗の色を示し,北京の政界ようやく不穏の形勢を現じ来たれる時なりしかば,余は先ず香港に至り,ひそかに興中会および三合会(さんごうかい)中の人に交(まじわ)りを結んでその形勢を視察し,またフィリピンの志士と交結するの機会を得たり。はじめてポンセ君(注3)と相い見(まみゆ)るや,彼,テーブルを拍(たた)いていわく,「君知らずや,さきに[ a ]の[ b ]と釁(さん)を生ずるや(注4),我らをして内応せしめて,事平(たいら)ぐに至らば自主独立を許すを誓う。我らはその言を信じて,命を賭として戦えり,自主独立を希(こいねが)うが故(ゆえ)なり。しかして[ c ]は敗走せり,皆おもえらく,自主独立の民たるを得ん,と。いずくんぞ知らん,[ d ]のために①隷属を強いられんとは」。自由のために[ e ]と戦いし我らは,今また自由のために[ f ]と戦わざるべからざるなり」と。(宮崎滔天(とうてん)『三十三年之夢』)
(注1) 要路──重要な地位
(注2) 旧守派──守旧派に同じ。保守派
(注3) ポンセ君──文中に見える「フィリピンの志士」の一人
(注4) 釁を生ずる──戦争を始める

問4 文章中の空欄a〜fは,二つの国名によって埋めることができる。その国名の組合せとして正しいものを,次の①〜④のうちから一つ選べ。[ 12 ]

 ① ロシア 日本   ② スペイン 清国
 ③ 日本 清国    ④ アメリカ合衆国 スペイン

 ◆ヒントはフィリピンの志士の発言であること、康有為・興中会の用語から 19世紀末の戦争であること、フィりピンが関わる戦争だな、とすれば米西戦争ではないか、という推理です。正解は④。

問5 下線部①の「隷属を強いられんとは」という言葉によって,「ポンセ君」が言い表そうとした事態として最も適当なものを,次の①〜④のうちから一つ選べ。[ 13 ]

 ① 植民地として統治される。
 ② 不平等条約によって,関税自主権などを失う。
 ③ アパルトヘイトによって差別される。
 ④ 大国の委任統治領とされる。

 ◆この場合もポンセ君がフィリピンのひとなので、米西戦争の結果として「植民地」になった①が正解。②は中国・朝鮮・日本など。③南アフリカ、④第一次世界大戦後の中東。

問6 上の文章から判断して,この回想録の著者である「余」はどのような活動に従事していたと考えられるか。考えられる活動として最も適当なものを,次の①〜④のうちから一つ選べ。[ 14 ]

 ① 文章中の「清国皇帝」に協力して,同国の政治改革を阻もうとする活動
 ② 中国や他のアジア諸地域における民族主義を支援する活動
 ③ コミンテルンの指導の下に,社会主義者を組織する活動
 ④ 文章中の「旧守派」と連携して,共和国の樹立を目指す活動

 ◆「隷属」と非難するポンセ君や「余は先ず香港に至り,ひそかに興中会および三合会中の人に交(まじわ)りを結んで」いるので、民族主義を応援する立場にあることは明らかです。といってコミンテルン(1919、『ワン』語呂は「小耳、ヒ1ク9ヒ1ク9」)はまだできていないので除外。②が妥当です。

C 日本に留学しているスラメットさんが,友人の香織さんに,次の図を見せながら,母国のインドネシアについて説明している。
  ■図

スラメット:この図は,1950年に制定された「パンチャシラ=ガルーダ」と呼ばれるインドネシア共和国の国章です。
香 織  :ガルーダは,ヴィシュヌ神の乗り物とされる神鳥ですね。ガルーダが両足でつかんでいるリボンには,何が書かれているのですか。
スラメット:「多様性の中の統一」という意味で,インドネシアを象徴する言葉です。
香 織  :なぜ,国章にそのような言葉が使われているのですか。
スラメット:②現在のインドネシアは,多くの島々から構成されており,たどってきた歴史も多様です。20世紀になると,植民地支配からの独立運動が展開され,インドネシアとしての統合のため「多様性の中の統一」が共通のスローガンとして用いられるようになりました。
香 織  :ガルーダが身に付けている盾は何を意味しているのですか。
スラメット:パンチャシラという,インドネシアの建国五原則を図案化したものです。例えば,真ん中の星は唯一神への信仰を表しています。これは,イスラーム教を国教としているということではなく,キリスト教やヒンドゥー教,仏教も容認されており,国民それぞれが自分の宗教を持つことを勧めているのです。その他には,インドネシア民族主義,国際主義・人道主義,全員一致の原則,社会の福利があり,現在の憲法前文にも引き継がれています。

問7 下線部②について述べた文として正しいものを,次の①〜④のうちから一つ選べ。[ 15 ]

 ① 交易で海港都市が栄え,スワヒリ語が生まれた。
 ② 大乗仏教の寺院であるボロブドゥールが建設された。
 ③ ドンズー(東遊)運動が提唱され,日本への留学が奨励された。
 ④ ソ連のミサイル基地が建設され,アメリカ合衆国との間で緊張が高まった。

 ◆①スワヒリ語はアフリカの言葉、②これが正解。「ボロでも大丈夫(大乗仏教)シャ(シャイレンドラ朝)」と覚えます。③ベトナム、ファン=ボイチャウ(潘佩珠)の日本留学運動です。④キューバ危機。


問8 会話文にあるパンチャシラ(建国五原則)の内容と国章の図柄とを参考に,インドネシアの建国の指導者の名a・bと,その人物が目指したと考えられる事柄について述べた文あ・いとの組合せとして正しいものを,下の①〜④のうちから一つ選べ。[ 16 ]

インドネシアの建国の指導者の名
 a スカルノ            b ナセル

インドネシアの建国の指導者が目指したと考えられる事柄
  あ 地域や宗教の違いを超えて,国民全体の統合を目指した。
  国民の政治的な権利を抑圧しながら,国家主導の経済開発を目指した。

 ① a―あ   ② a―い
 ③ b―あ   ④ b―い

 ◆aインドネシアの指導者で、bはエジプトの2代目の大統領、「あ」がスラメットの発言の中に「国民それぞれが自分の宗教を持つことを勧めている」とあるので、正解は①。「い」はナセルのスエズ運河国有化政策があります。


第3問 現在,世界各地の博物館や美術館には,かつて世界を結び付けてきた交易品や貨幣が収蔵されている。世界史上のモノについて述べた次の文章A・Bを読み,下の問い(問①〜⑥)に答えよ。(配点 18)

A 次の図1・2は,イスタンブルのトプカプ宮殿に収蔵されている中国製磁器である。
 ■図1 図2

問1 図1の碗(わん)は,マラッカ(ムラカ)の総督であったPerodeFariaという人物が注文して,1541年に中国で作らせたものである。その名と製作年が,碗の縁に沿って記されている。この碗の来歴はどのようなものと推測できるか。考えられることとして最も適当なものを,次の①〜④のうちから一つ選べ。[ 17 ]

 ① この碗が作られた当時,マラッカを統治していたオスマン帝国の総督が,碗をイスタンブルのスルタンに献上したのだろう。
 ② この碗が作られた当時,碗は注文主の手によって,インド洋を横断し,スエズ運河を経由してイスタンブルにもたらされたのだろう。
 ③ この碗が作られた当時,カントン(広州)貿易はイギリスが支配していたので,碗を運んだのは東インド会社の船だったのだろう。
 ④ この碗が作られた当時,マラッカは東洋貿易の拠点であったので,碗は中国からまずマラッカに運ばれたのだろう。

 ◆①マラッカをオスマン帝国が支配することは地理的に無理です。②スエズ運河は1869年にできるので、1541年当時にまだ存在しません。③カントン貿易をイギリスが支配できるのはアヘン戦争(1840〜42)以降なので無理。④これが問題のない文章で、正解。


問2 図1の碗が作られた世紀には,中国で社会・経済にわたる変化が起こった。その変化について述べた文ア・イと,その変化について説明した文a〜dとの組合せとして正しいものを,下の①〜⑥のうちから一つ選べ。[ 18 ]

中国で起こった変化
 ア 海上貿易が活発化し,海禁政策が崩れた。
 イ 銀の流通が拡大した。

その変化についての説明
 a これを一因として,新法と呼ばれる制度改革が実現した。
 b 日本やアメリカ大陸からの流入の増大が,その一因であった。
 c これによって,公行を通した貿易の管理が廃止された。
 d これによって,日本との間で勘合貿易が始まった。

 ① ア―a  ② ア―c  ③ ア―d
 ④ イ―a  ⑤ イ―b  ⑥ イ―c

 ◆「図1の碗が作られた世紀」とは16世紀、明末といわれる時期です。中国でおこった変化は「ア」「イ」どちらでも良いみたいですが、海禁が「崩れた」と断言できるのは、アヘン戦争以降です。緩和はしていますが。すると「イ」で、「その変化の説明」としては「b」が適切です。正解は⑤。「a」新法は宋代の王安石(『ワン』語呂は「新法は登10録69で」)。「c」1842年の南京条約で廃止。「d」勘合貿易は明朝・永楽帝の代から(1404)。
 

問3 図2の器のように,顧客の注文によって中国で製作された磁器は,18世紀のヨーロッパにも輸入された。こうした磁器の輸入は,ヨーロッパにおいて,新しい飲食習慣が拡大したことと並行していた。このことについて述べた文として誤っているものを,次の①〜④のうちから一つ選べ。[ 19 ]

 ① 茶を飲む習慣が広まった。
 ② 輸入された砂糖の消費が拡大した。
 ③ 穀物からパンが作られるようになった。
 ④ コーヒーハウスが流行した。

 ◆正解③「穀物からパン」は新石器時代の農耕のときからあります。①日本からオランダに伝わり、名誉革命のさいにオレンジ公がイギリスに伝えます。②17世紀、紅茶はコーヒーハウスから生まれます。④1650年にオクスフォードで出来たのが最初の店らしい。

B 次の貨幣X〜Zは,ロンドンの大英博物館に収蔵されている,南アジアの金貨である。なお,貨幣の写真は左が表側,右が裏側である。

貨幣X ■
 裏側に描かれているのはインドの女神である。この貨幣を発行した王朝では,サンスクリット文学が栄え,それまで伝承されてきた法典や叙事詩が,現在に伝わるような形へと集大成された。仏教も盛んで,ナーランダー僧院など
を通じて,①中国との交流も行われた」。

貨幣Y ■
 表側にはこの貨幣を発行した王朝の君主が描かれ,裏側にはブッダを意味する語がギリシア文字で刻まれている。この王朝の西に位置したパルティアも,初期には貨幣の銘文にギリシア文字を採用していた。だが,これらの地域ではギリシア文化の影響は次第に小さくなり,パルティアを滅ぼした国家では,[ ア ]など,イラン地方の伝統に回帰した。

貨幣Z ■
 貨幣の表側にはアラビア文字が刻まれており,「アッラーの他に神はなく,ムハンマドは神の使徒である」と記されている。貨幣Zを発行した君主は,この銘文が表している宗教を信仰しながらも,人頭税(ジズヤ)を免除するなどしてインドの住民の信仰との融和を図り,北インドをほぼ支配下に収めることに成功した。

問4 下線部①について述べた次の文aとbの正誤の組合せとして正しいものを,下の①〜④のうちから一つ選べ。[ 20 ]

 a 鳩摩羅什が,中国から西域へ旅し,仏教を広めた。
 b 法顕が,中国からインドへ旅し,『仏国記』を著した。

 ① a―正  b―正
 ② a―正  b―誤
 ③ a―誤  b―正
 ④ a―誤  b―誤

 ◆「a」鳩摩羅什の説明がまちがい。鳩摩羅什はクチャ(亀茲)出身でインドに留学して学び、それを中国に伝えにきた訳経僧です。「b」正しい説明。正解は③。


問5 文章中の空欄[ ア ]に入れる語句として正しいものを,次の①〜④のうちから一つ選べ。[ 21 ]

 ① ゾロアスター教を国教とする
 ② ゴシック様式の建築が広まる
 ③ キープ(結縄)を用いる
 ④ 神聖文字を用いる

 ◆「パルティアを滅ぼした国家では,[ ア ]など,イラン地方の伝統に回帰」の国家はササン朝であり、この王朝では①のようにゾロアスター教が国教になりました。これが正解。②西欧の12世紀から、③インカ文明、④古代エジプト。

問6 貨幣X〜Zが,発行年代の古いものから順に正しく配列されているものを,次の①〜⑥のうちから一つ選べ。[ 22 ]

 ① X→Y→Z ② X→Z→Y  ③ Y→X→Z
 ④ Y→Z→X ⑤ Z→X→Y  ⑥ Z→Y→X

 ◆Xは「サンスクリット文学が栄え」とありグプタ朝が連想できます。ナーランダー僧院もグプタ朝でした(グプタ朝は『ワン』語呂は「愚豚にさ3つ2まる0いも」)。Yは「西にパルティア」とあり、クシャーナ朝の君主カニシカ王で、第4回仏典結集を行っています(『ワン』語呂は「クシャーミ44個5」)。Z「人頭税(ジズヤ)を免除」とあるのでムガル帝国のアクバル帝(『ワン』語呂は「悪張る千1個5殺56す」)。正解は③。

(下書き用紙)

第4問 世界史上の国家間の関係について述べた次の文章A・Bを読み,下の問い(問1〜5)に答えよ。(配点 17)

 次の絵は,「王のケーキ」という題が付いている風刺画で,ポーランドの王と,ポーランドを分割する3国の君主たちが描かれている。君主たちの上方に描かれているのは,噂(うわさ)や名声を象徴する天使ペーメーで,ラッパでこの知らせを広めている。ポーランドは,この後,数回にわたって分割され,19世紀には独自の国家を持つことはなかった。①20世紀になって独立を回復したが,大国の狭間(はざま)にあって,たびたび難しい舵(かじ)取りを迫られた。

問1 下線部①に関連して,20世紀前半のヨーロッパにおける政治状況について述べた文として誤っているものを,次の①〜④のうちから一つ選べ。[ 23 ]

 ① スペイン内戦で,フランコが勝利した。
 ② ユーゴスラヴィア連邦が解体した。
 ③ イギリスで,保守党と労働党が二大政党となった。
 ④ フランスとベルギーが,ルール地方を占領した。

 ◆「20世紀前半」とあり、①1935年(『ワン』語呂「スペイン内、闘1牛9見3る6」)、②1991年、東欧の共産党政権崩壊につづく出来事(『ワン』語呂は「東欧、東1旧9焼8く9」)、20世紀後半になります。これが正解。③労働党が政権をとったのが1924年が最初で、自由党に代わることになりました(『ワン』語呂はマクドナルド労働党内閣「マック、一1工9夫2よ4、肉29、最高31」)。④1923年(『ワン』語呂は「ルール、い1く9つ2さ3」)。この問題はセンター試験とよく似ています。


問2 
⑴ 絵の中の「あ」と「い」について,それぞれが表している国とその君主の名の組合せとして正しいものを,次の①〜⑥のうちから一つ選べなお,正しいものは複数あるが,解答は一つでよい。[ 24 ]

 ① あ:ロシア―エカチェリーナ2世
 ② あ:イギリス―エリザベス1世
 ③ あ:フランス―ルイ14世
 ④ い:ロシア―ニコライ2世
 ⑤ い:プロイセン―フリードリヒ2世
 ⑥ い:イタリア―ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世

 ◆ポーランド分割に加わった国々として、書いてあるオーストリア以外にプロイセンとロシアがあり、ロシアのエカチェリーナ2世が3回のどの分割にも参加しているので、①と⑤が双方とも該当します。

 ⑴で選んだ答えについて,その国や王朝の歴史について述べているものを,次のa〜hから三つ選択し,それらを年代順に配列したものとして正しいものを,下の①〜⑧のうちから一つ選べ。[ 25 ]

 a シュレジエンを獲得した。 
 b ウィーン会議に参加した。
 c ローマ教皇領を併合した。
 d ペテルブルクを築いて,都とした。
 e テューダー朝が開かれた。
 f ユトレヒト同盟を結成した。
 g ドイツ帝国を建国した。
 h 三国協商を形成した。

 ① a→b→g  ② b→a→h  ③ c→a→b
 ④ d→b→h  ⑤ e→f→b  ⑥ f→g→h
 ⑦ g→a→d  ⑧ h→e→c

 ◆ 「a」プロイセンがオーストリア継承戦争と七年戦争で取り上げた地域です。「b」普露ともに参加してます。「c」イタリア王国が1870年に実現。「d」ピョートル1世のとき。「e」イギリスの王朝。「f」オランダ(ネーデルラント連邦共和国)の対スペイン独立戦争。「g」プロイセン王国が主導しました。「h」英仏露の協商(英仏協商と英露協商)。上の24の解答を①にした場合は④、解答が⑤の場合は① となります。


B 次の資料1・2は,中国の王朝と近隣の国家との関係に関するものである。(引用文は原文を一部省略したり,改めたりしたところがある。)

資料1 トルコ語碑文「ビルゲ=カガン碑文」(735年建立)

天神のごとき天から生まれた突厥のビルゲ=カガンとして,この時,私は即位した。ウテュケン(モンゴル高原にある聖山)の山林より良いところはない。国を保つべき地はウテュケンの山林である。この地に住んで,我々は中国の民と和睦した。彼らは金・銀・酒・[ ア ]を限りなく与える。中国の民の言葉は甘く,その[ ア ]は柔らかい。甘いその言葉,柔らかいその[ ア ]に欺かれて,多くの突厥の民が死んだ。その地に行くと,お前たち突厥の民よ,死ぬぞ! ウテュケンの地に住んで,隊商を送るのであれば,お前たちにいかなる憂苦もない。

資料2 モンゴル語年代記『アルタン=ハーン伝』

アルタン=ハーンが中国に出発して迫り,平等に大いなる政事を話し合うために駐営すると,中国の明皇帝は,モンゴルのアルタン=ハーンに順義王という尊い称号を奉り,大いに金銀など諸々の財物と,莫大(ばくだい)な量のさまざまな[ ア ]の衣服を与えた。アルタン=ハーンをはじめ数多くの王侯たちは,規約を定めて中国とモンゴルの政事を協議して定めて,莫大な賞賜と交易品の望んだものを取って,引き揚げた。

問3 資料中の空欄[ ア ]に当てはまる語a・bと,資料1と資料2から読み取れる事柄あ・いとの組合せとして正しいものを,下の①〜④のうちから一つ選べ。26
 [ ア ]に当てはまる語
  a 綿織物  b 絹織物

読み取れる事柄
 あ 中国王朝は,遊牧国家の武力を警戒する一方で,遊牧社会から物産を入手しようとしている。
 い 遊牧国家は,漢人社会の経済に組み込まれることを警戒しながらも,中国王朝から物産を入手しようとしている。

 ① a―あ   ② a―い
 ③ b―あ   ④ b―い

 ◆容易な問題です。空欄[ ア ]はb絹織物が正解。遊牧民と中国・農民との交易は絹馬貿易と言います。「読み取れる事柄」の文章は、「あ」が中国側からの説明ですが、「警戒」しているのは中国側より、資料1が中国への遊牧民側の警戒心が強く出されています。それが資料2では「憂苦」に陥らないように規約・協議という方法を打ち出しています。④が一番適当。


問4 資料1は,630年に中国王朝に一度滅ぼされた後,復興した突厥で立てられた碑文の一部である。この中国王朝について述べた文として最も適当なものを,次の①〜④のうちから一つ選べ。[ 27 ]

 ① 現住地で所有している土地・財産に対して課税する税制が採用された。
 ② 天子の力が衰え,有力な諸侯が,天子に代わって諸国を束ねた。
 ③ 口語に近い文体で表現する,新しい文学運動が唱えられた。
 ④ 人材を九等で評価して推薦する官僚登用法が採用された。

 ◆「630年」が唐代に入っていることが分かれば容易な問題です。つまり年代問題です。「唐ロ6イ1ヤ8ル」から始まりました。①は「原住地」とあるので両税法の説明、両税法は唐代から始まった税法(両税は納7屋8を0とる)で、これが正解。②東周・春秋時代の覇者のこと、③1917年頃から始まる白話運動、④三国時代の魏が始めた登用法。


問5 資料2は,中国の王朝と自国との関係を,自国の優位ないし対等とする立場から述べた歴史書の記述である。これとは異なる立場に立って書かれたと考えられる資料を,次の①〜④から一つ選べ。[ 28 ]

 ① 隋に宛てた日本(倭)の国書

 日出ずる処(ところ)の天子が,書を日没する処の天子に致す,恙(つつが)はないか。

   ② 明に送った琉球国王の国書
 琉球国王の尚巴志(しょうはし)はが謹んで申し上げる。我が国は,父祖が太祖皇帝(洪武帝)から暦を頂戴して臣属して以来,今に至るまで五十数年,厚い恩を受け,折にふれ朝貢している。

 ③ ベトナムの黎朝が出した布告
 我が大越の国は文を重んじる国であり,国土は別々である上に,習俗もまた南北(ベトナムと中国)で異なっている。趙・丁・李・陳(ベトナムの諸王朝)が我が国を興して以来,漢・唐・宋・元とそれぞれ並び立つ帝国をつくってきた。

  ④ チベットのラサに立てられた「唐蕃会盟碑」
 チベットと中国の両国は,現在支配している領域と境界を守り,その東方全ては大中国の領域,西方全てはまさしく大チベットの領域で,チベット人はチベットで安らかにし,中国人は中国で安らかにするという大いなる政事を結んで一つにした。

 ◆②の「臣属」が、他の対等な関係を強調する文書と違ってます。なにか沖縄に対して今の日本政府が強調したがっているような問題。


第5問 世界史に関わる経済・統計の資料に基づく授業を想定した,次の会話文A・Bを読み,下の問い(問①〜⑥)に答えよ。(配点 18)

A イギリスの綿工業に関する授業
先 生:今日は,産業革命をリードしたイギリスの綿工業について学びます。表1は,ワイシャツ生地の原料となる細い綿糸の価格の推移を表しています。原料綿花コストと生産コストの合計が綿糸価格です。

表1
年      1779 1784 1799 1812 1830 1860 1882
原料綿花コスト(x)24 24 40 18 7.75 6.875 7.125
生産コスト(y)168 107 50 12 6.75 4.625 3.375
綿糸価格(x+y)192 131 90 30 14.5 11.5 10.5 
  ※単位:綿糸1ポンド(約454g)当たりペンス

先 生:表1からは,綿糸価格が年とともに下落していくことが読み取れます。その理由を考えてみましょう。
生徒P:機械化によって大量生産が可能になったことが重要だと思います。
生徒Q:機械の燃料となる石炭の輸送費が下がったのも理由ではないでしょうか。
生徒R:人件費が安くなったことも影響しているはずです。
先 生:なるほど。では,3人の考えはどのような事実に基づいていますか。
生徒S:例えば,表1の時期に,[ ア ]が挙げられます。
先 生:そうですね。

問1 生徒Sの発言中にある空欄[ ア ]に入れる文として適当でないものを,次の①〜④のうちから一つ選べ。[ 29 ]
 ① 蒸気機関が,工場の動力として導入されたこと
 ② 運河や鉄道などの交通網が整備されたこと
 ③ 保護貿易によって,輸入品の価格が下がったこと
 ④ 囲い込みの進展で,都市部に人口が流入したこと

 ◆①技術的なことで生徒Pの「機械化・大領生産」に該当、②生徒Qの「輸送費が下がった」に該当、③保護貿易は輸入品に関税をかけるので「価格が下がった」はありえない。これが正解。④は生徒Rの「人件費が安く」と関係しています。


生徒T:原料綿花の供給状況も,価格の下落に関係しているのではないでしょうか。
先 生:それも理由の一つですね。では,原料綿花の供給状況について見てみましょう。グラフ1は,イギリスで消費された綿花の生産地別の比率(帯グラフ)と,消費量の総量(折れ線グラフ)とを示すものです。

グラフ1
アメリカ合衆国 英領西インド インド その他(左目盛)
総量(右目盛 1ベイルは約227kg)

先 生:イギリスで消費される原料綿花は,18世紀末まではイギリス領西インド産の割合が多いのですが,19世紀に入ると,[ イ ]産の割合が急増し,1840年頃には4分の3以上を占めます。[ イ ]産は,[  ウ  ]で大量生産される低コストの綿花でしたので,その割合が急激に増加したものと考えられます。

問2 先生の説明の中にある空欄[ イ ]と[  ウ  ]に入れる語句の組合せとして正しいものを,次の①〜④のうちから一つ選べ。[ 30 ]

 ① イ―インド ウ―農奴を領主直営地で働かせる制度
 ② イ―インド ウ―黒人奴隷を大農園で働かせる制度
 ③ イ―アメリカ合衆国 ウ―農奴を領主直営地で働かせる制度
 ④ イ―アメリカ合衆国 ウ―黒人奴隷を大農園で働かせる制度

 ◆これも容易な問題。グラフの通り、棉花が大半の時期で多いのはアメリカ産であり、アメリカとすれば奴隷労働となります。なので正解は④。しかしこれらのグラフに表されていない、「産業革命をリードしたイギリス」の姿があります。それは産業革命と同時進行したインドでの征服戦争であり、征服の過程で、インド綿の工場破壊と技術者殺害でした。インドで綿織物を生産できないようにした強欲・冷酷な大英帝国の姿です。産業革命はイギリスの技術改良とともにインド征服史も同時に学ぶべきものです。


先 生:最後に,東西間の綿布の流れを示すグラフ2と,これまでの表1やグラフ1を参考にして,イギリスの産業革命によって,当時の経済状況がどのように変化したのか,パネルにまとめてください。

グラフ2
a アジア(主にインド)から西へ輸出された綿布の総額
b イギリスから東へ輸出された綿布の総額

問3 先生の指示によって生徒たちが作った次のパネルのうち適当でないものを,次の①〜④のうちから一つ選べ。[ 31 ]

 ① 1820年頃を境に,イギリス産綿布の東への輸出総額が,インド産綿布の西への輸出総額を上回りました。
 ② 産業革命期において,イギリスの綿糸価格が下落した最も大きな要因は,原料綿花コストが下がったことです。
 ③ 19世紀半ばのイギリスは,アメリカ合衆国産の綿花を主な原料として綿布を生産し,インドなど東へ大量に輸出しました。
 ④ イギリスで産業革命が進展した時期には,イギリスからの綿布輸出と,イギリスへの原料綿花の輸入は共に増加傾向にあります。

 ◆①グラフの通り。②これは表1の「綿糸価格」では産業革命期(1760年代〜1830年)に192から14.5に下がっているのは確かであるものの、「原料棉花」は1799年に値上がりして、また下がっている、という一貫性のない数値があり、綿糸価格と必ずしも一致していない。これが適当ではない正解。④「綿布輸出」の増加はグラフ2から判明します。「原料綿花の輸入」の増加はグラフ1の消費量から判明します。


B 為替相場と原油価格に関する授業
先 生:今日は,第二次世界大戦後の世界の動向を,経済資料から検証してみましょう。グラフ3・4に共通する特徴を挙げてください。

グラフ3 米ドルに対する日本円の為替相場の推移

グラフ4 国際原油価格の推移(1バレル当たり)

生 徒:両方とも,1970年頃までは値がほとんど動いていません。グラフ3については,[ エ ]ことが原因だと思います。グラフ4については,先進国の国際石油資本が原油価格の決定権を握っていたからだと思います。
先 生:その通りです。しかし,グラフ3については,①矢印Xの時期のアメリカ合衆国大統領がとった政策によって,状況が大きく変化しています。
生 徒:グラフ4でも,1970年から数年して,価格の変動が始まります。
先 生:よく気がつきましたね。②グラフ4の矢印Yと矢印Zの時期の価格変動は,中東地域の革命や戦争が関係しています

問4 生徒の発言中にある空欄[ エ ]に入れる文として最も適当なものを,次の①〜④のうちから一つ選べ。[ 32 ]

 ① 世界貿易機関が,自由貿易のルールづくりを推進していた
 ② 米ドルに対する各国通貨の交換比率が固定されていた
 ③ アムステルダムが,国際金融の中心として機能していた
 ④ 大国が,植民地を囲い込む経済ブロックを形成していた

 ◆変動相場制がいつから始まったのか、それまでの固定とは何か、という問題です。ニクソンがこのニクソン=ショックを起こすまでのあり方としては、②が適当です。①第二次世界大戦直後、②17世紀、④1930年代世界恐慌期。


問5 下線部①の人物の外交に関する事績として正しいものを,次の①〜④のうちから一つ選べ。[ 33 ]

 ① ヨーロッパ諸国とアメリカ大陸の相互不干渉を表明した。
 ② 国交のない中華人民共和国を訪問し,関係改善に踏み出した。
 ③ 共産主義陣営に対し,封じ込め政策を開始した。
 ④ ラテンアメリカ諸国に対し,善隣外交を展開した。

 ◆ニクソンの政策はどれ、という問題。②訪中です(訪中、行1く9な7二2人)。①モンロー大統領、③トルーマン大統領、④フランクリン=ローズヴェルト。


問6 下線部②に関連して,次の文章中の空欄オとカに当てはまる国について,それぞれの位置を示す地図中のa〜dの組合せとして正しいものを,下の①〜④のうちから一つ選べ。[ 34 ]

 Yの時期には,オで王政が倒れ,イスラーム共和国が成立した。
 Zの時期には,隣国を侵略した[   ]に対し,多国籍軍が組織された。
 ■地図
 ① オ―a  カ―c  ② オ―a  カ―d
 ③ オ―b  カ―c  ④ オ―b  カ―d

 ◆Yは1970年代の終わり、Zは1990年代の初めです。「オ」は1979年のイラン=イスラム革命です。シーア派指導者ホメイニによるパフレヴィー朝の追放です(イラン革命、電1気9な7く9)。
 「カ」はイラクであり、多国籍軍とあるので、イラクのフセイン大統領によるクウェート侵略の「湾岸戦争」です(湾岸、イ1ク9ク9ィ1ート)。正解は③。

………………………………………
センター試験との相違点は、
① 地図 5枚(2020年のセンター試験・世界史Bは1枚)
② 写真・絵 10枚(2020年は4枚)
③ グラフ 6枚(2020年は1枚)
④ 対話形式 第1問のC、第2問のC、第5問(2020年は0)
⑤ 文字数 13509字(2020年は10643字)
⑥ 下書き用紙が付いたこと。

対策は、
① 歴史の事件を地図で確かめる習慣を養っておくこと。
② 年代を覚えること。語呂は中谷まちよ著『ワンフレーズnew』が抜群。
④ センター試験の過去問で正誤判定の精度を磨くこと。①のために、過去問の中の地図問題を解いておくこと。
⑤ 対話形式や思考的な問題の練習用に阪大の過去問を解いてみる。

阪大世界史2020

Ⅰ・Ⅱ 世界史問題(外国語学部・文学部は同問)

 ある高校の生徒たちが、2年生の秋の海外実習でベトナムの首都ハノイを訪れ、ベトナム独立の父とされるホー・チ・ミンの廟(びょう)を見学した。生徒たちのうち
AさんからDさんまでの4人は、そのときの経験が忘れられず、実習の詳しいレポートを作成しただけでなく、大学進学後にもそれぞれ、ベトナムと世界の歴史を研究している。これについて、下の問い(問1〜問7)に答えよ。なお個々の問いは完全に独立してはいない。ある問いを考えるのに別の問いの情報が役立つことがありうる。

問1 生徒たちは最初に、同じ高校出身の先輩で大学院生のPさんに手伝ってもらいながら、実習レポートを書くためにホー・チ・ミンの生涯を調べ、関連する世界の動きも加筆して、下のような年表を作った(資料イ)。年表中の空欄[ ア ]〜[ ウ ]に補うべき適切な語句を、解答欄にそれぞれ記入せよ。

資料イ ホー・チ・ミンの生涯と世界の動き
────────────────────────
1890年ごろ 北中部のゲアン省で生まれる(本名グエン・タッ・タイン)。父は科挙試験に合格しフランスの保護国だった阮朝の官僚となる。タインは父とともに首都フエに行き、そこの小中学校で学ぶ。
1911年 フランス船で出国、米英仏などで働きながら学ぶ。
1914〜18年 第一次世界大戦
1919年 ヴェルサイユ講和会議に、グエン・アイクオック(阮愛国)の名前で、ベトナム独立を求める「アンナン人の要求」を提出。フランス社会党に加入。
1920年 フランス共産党創立大会に参加。2年後にソ連にわたり、社会主義の理論・運動方法を学び、世界の共産党の指導機関である[ ア ]の活動家として、アジア各地で活動。
1924年 孫文が建てた広東政府を援助するソ連のボロディン使節団に加わり、広州・香港を中心に活動。翌年香港でベトナム青年革命会を結成。
1930年 香港でベトナム共産党結成(すぐにカンボジア・ラオスを含むインドシナ共産党に改組されるが、1951年に分離してベトナム労働党、1976年にベトナム共産党となる)。
1939〜45年 第二次世界大戦(41〜45年アジア太平洋戦争)
1940年 日本軍がフランス領インドシナ北部に進駐(翌年、南部にも進駐)。
1941年 ベトナムに戻り、日本に抵抗するために多くの階層・組織を含むベトミンを結成。中国の国民党政権の支援も得ようとする。その際、中国向けにホー・チ・ミン(胡志明)と名乗り、それが定着。
1945年 日本の降伏直後に全土を掌握して9月2日に独立を宣言し、ベトナム民主共和国臨時政府を樹立(ベトナム8月革命)。阮朝のバオダイ帝を最高顧問に迎える(バオダイはのちフランスの働きかけで離脱し、「ベトナム国」元首となる)。翌年、総選挙を経て正式の政府をつくり国家主席となるが、独立を認めないフランスとの戦争(インドシナ戦争)が始まる。
1949年 中華人民共和国が成立。
1954年 ディエンビエンフーの戦いで敗れたフランスがインドシナからの撤退を決め、[ イ ]停戦協定で暫定的にベトナムは南北に分けられる(ベトナム民主共和国は北部を支配。南部はバオダイのベトナム国)。
1955年 アメリカがバオダイに代えてゴー・ディン・ジエムを立て、南部にベトナム共和国を樹立、南北分断が固定化。
1960年 ベトナム共和国(南ベトナム)で、共産党以外の諸勢力も巻き込んで、ジエム政権に反対する[ ウ ]が結成され、ゲリラ闘争を開始。これを支援するベトナム民主共和国(北ベトナム)では計画経済開始。
1963年 中ソ対立が激化し公開論争が行われる。
1965年 アメリカが北ベトナム爆撃の一方で南ベトナムに直接派兵し、ベトナム戦争が始まる(〜75年)。
1969年 9月2日に国家主席のままハノイで死去(レー・ズアンらによる集団指導体制で戦争継続)。遺体はハノイのホー・チ・ミン廟に保存される。
────────────────────────
問2 Aさんは大学入学後、政治リーダーについてのレポートを書くことになった。そこで年表作成の際に読んだホー・チ・ミンの伝記を思い出し、ソ連で学んで社会主義革命を起こそうとしたリーダーについて想像されるのとは違った、民族主義的な行動が見られることに気づいた。さらにホー・チ・ミンが起草した独立宣言(資料口)を読んだところ、冒頭に資本主義国であるアメリカとフランスの宣言が引用されているので、Aさんはさらに驚いた。中略部分も含めて、フランスの植民地支配への批判はあるが、資本主義そのものを批判した言葉は見つからない。

資料ロ ベトナム民主共和国独立宣言
────────────────────────
 国中の同胞たちよ。
 「すべての人間は平等の権利をもって生まれてくる。造物主*は人々に、だれも犯すことのできない権利を与えている。その諸権利のなかには、生きる権利、自由の権利と幸福追求の権利が含まれる」
 この不朽の言葉は、1776年の「アメリカ独立宣言」のなかにあるものだ。広く考えるとこの文は、世界の各民族はすべて平等に生まれ、どの民族も生きる権利、幸福の権利と自由の権利をもつことを意味する。
 1791年のフランス革命の「人権と市民権に関する宣言」もやはり言っている。
 「人は権利において自由かつ平等に生まれ、そしてつねに、権利において自由かつ平等であらねばならない」と。
 それは、だれも争うことのできない道理なのである。
 にもかかわらず、この80年以上というもの、フランス植民地主義者たちは、自由・平等・博愛の旗印を利用して、わが国土を奪いわが同胞を圧迫してきた。かれらの行動は、人道と正義にまったく反している。
(中略)
 われわれはテヘランとサンフランシスコの会議で民族平等の原則を認めた連合諸国が、ベトナム人民の独立の権利を認めないわけは決してないと信じる。
 この80年以上にわたってフランスの奴隷のくびきに勇敢に抵抗してきた民族、この数年は連合国側に立ってファシストに勇敢に抵抗してきた民族、この民族は自由を得なければならない。この民族は独立を得なければならない。
 この道理にもとづき、われわれベトナム民主共和国臨時政府は、世界に対しておごそかに宣言する。
 ベトナムの国は自由と独立を享受する権利をもち、事実、すでに自由で独立した国になっている。すべてのベトナム民族は、あらゆる心と力、命と財産をもって、この自由と独立の権利を守るであろう。
  *造物主 天地を創造したキリスト教の神のこと。
────────────────────────

 そこで政治思想の研究を目指しているBさんに相談したところ、Bさんは、第一に「もともと社会主義思想は、ブルジョワジーによる革命が掲げた自由や平等の理想自体は肯定していること」、第二に「ロシア革命後の社会主義国や共産党の内部でも、自由主義や社会民主主義を排斥する動きがある一方で、帝国主義やファシズムとたたかうために、社会主義革命を将来の課題として棚上げし、『ブルジョワ民主主義』や民族解放運動を含めた幅広い勢力と提携したりこれを支援しようとする動きがあったこと」、第三に「社会主義陣営が衰退する1980年代より前は、民族解放の道として社会主義に親近感をもつ植民地や新興国のリーダーが少なくなかったこと」などの点を指摘した。そこで、ソ連が連合国に加わった第二次世界大戦の直後にホー・チ・ミンが発表した独立宣言も、こうした提携の戦略によるブルジョワジーやナショナリストの理想への歩み寄りがあったのではないかと考えたAさんは独立宜言に至るホー・チ・ミンの歩みに影響を与えた可能性があるできごと、資本主義国とも提携する戦略がその後に変更を余儀なくされたできごとなどを、年表(資料イ)に補足することにした。その際に補足した下の3つの年の記述の空欄[ X ][ Y ][ Z ]に入る適当なできごとを解答欄にそれぞれ記入せよ。

1935年 [ ア ]が[ X ]を提唱。
1937年 [ Y ]が始まり、中国側で第二次国共合作が具体化。
1946年 米ソ両陣営の[ Z ]が表面化。

問3 Aさん・Bさんが、ホー・チ・ミンがもつ社会主義者(共産主義者)と民族主義者(ナショナリスト)の二面性について、さらに掘り下げたいと希望したので、大学院生のPさんは、ホー・チ・ミンが死去した直後に公表された遺言も読むように勧めた。2人は遣言の文章を細かく区切り、社会主義的な内容、民族主義的な内容、両方にまたがる内容のどれに分類できるかを考察した。下のア〜オはその一部である。かれが最後まで純粋な社会主義者でありつづけたと考える場合に、この中のどれが根拠にできるだろうか。社会主義者でなければ言わないことがらと社会主義者以外でも言いそうなことがらの区別や、かれが没した当時の社会主義諸国の動きにも注意しながら、適切と考えられるものを二つ選んで解答欄に記号を記入せよ。

 わたしがカール・マルクスやレーニンおよびその他の先輩革命家に会いに行くようなことになったとき、全国の同胞、党内の同志、各地の友人たちみんなが、思いがけないことと感じないように、ここにいくつかのことを書き残しておく。

 わが同胞は、なお多くの財産・生命を犠牲にしなければならないかもしれない。それでも(中略)山はある、川はある、人はいる。アメリカに勝ったらいまの十倍美しく再建しよう!

 アメリカ帝国主義は必ずわが国から撤退しなければならなくなるだろう。わが祖国は必ず統一されるだろう。南と北の同胞は必ず一家につどうだろう。

 わが国は一小国でありながら、フランス、アメリカという二つの大帝国主義国に英雄的にうちかち、民族解放運動の名に恥じない貢献をしたという、大きな栄誉をになうことになるだろう。

 わたしは、兄弟諸党、兄弟諸国が必ず団結を取り戻すと、かた<信じている。

問4 ホー・チ・ミンは終始一貰して、社会主義陣営の提携戦略の枠に収まらない民族主義者であったのだと考える場合、問1〜3の資料や情報から、どのような根拠をあげることができるだろうか。三つ以上の根拠をあげて、200字程度で説明せよ。通常の社会主義者ならしないはずの行動や発言にも注意すること。

問5 Aさんは大学でヨーロッパの思想や学術を研究しているCさんにも相談した。そこでホー・チ・ミンの独立宣言を読んだCさんは、違和感をいだいた。アメリカ独立革命やフランス革命など「環大西洋革命」が目ざしたのは個人の自由と、自由な個人の選択の結果として社会契約によって形成され国民の意思で変更可能な国家だと習っていたのに対し、ホー・チ・ミンが用いた民族という漢語には、言語や文化を共有し、個人の選択を超越した変更不可能なまとまりというニュアンスが感じられるからである。Cさんはそこで、入学後に聞いた講義の内容を思い出した。変更不可能な集団としての民族が自然に持つ権利という思想は、19世紀半ばの中欧・東欧あたりで最初に強く主張され、第一次世界大戦後に民族自決権が広く認められたのと並行して世界に広がったものだ、という内容だった。Cさんが「環大西洋革命」と同じ18世紀末から、19世紀半ばにかけての中欧・東欧の政治情勢を整理することにしたので、Pさんは、次の3枚のカードに、教科書から関連事項を書き抜くようにアドバイスした。

カード1:この時期の中欧・東欧にすでに存在した帝国、帝国形成に向かいつつあった国家(できたのはどんな国家?)
カード2:それらの諸国に支配されていた国家や民族
カード3:ナポレオン戦争のインパクト、1815年および1848年の変化

 そこで、あなたがCさんならば、18世紀末から19世紀半ばの中欧・東欧の各民族の動きについて、どのように説明するか。カード1からカード3の内容にふれながら300字程度で述べよ。なお、会議や条約の名前、各民族内部の主導権をめぐる対立などは書く必要がない。

問6 Dさんは、ベトナムの指導者たちの歴史認識というテーマで大学での研究を進めている。まず日本語訳されているベトナムの歴史教科書を図書館で読んだところ、近代以前のベトナムも外国の支配や侵略とたびたび戦ってきた点が強調され、外国を撃退した王朝が高く評価されている一方で、フランスに屈した阮朝は、低い評価をされていることに、強い印象を受けた。次に日本人が書いたベトナム史の入門書も読んでみると、阮朝については歴史学界でも、肯定的な見方と否定的な見方の対立があることがわかった。将来はベトナム留学もしてベトナム史を研究したいと考えているDさんは、阮朝について、どこでどう調べると、どんな結果になりそうかについて予想し、下のような複数の仮説を立てた。そのうち明らかに事実誤認を含む仮説を一つ選んで、解答欄に記号を記入せよ。

 首都だったフエで阮朝王室の子孫にインタビューすると、南北ベトナムを統一した阮朝について、肯定的な意見が聞けるだろう。

 南部のホーチミン市でベトナム共和国時代の教科書を調べたら、阮氏が南部に領土を広げたことなどについて、肯定的な評価がされているだろう。

 北部のハノイで出版されている学者の論文を読んだら、タイソン反乱と戦う過程でシャム(タイ)やフランスの宣教師の支援を受けるなど、「売国的」なやりかたで王朝を立てた阮朝の行動が非難されているだろう。

 山岳地帯の少数民族社会を調べたら、ラオスやカンボジアなどの強国の圧迫から守ってくれなかった阮朝に対する否定的な評価が出てくるだろう。

問7 先輩のPさんから、たとえば明治維新期の日本のリーダーなども参考にするように言われ、明治維新が「富国強兵」による近代国家の建設と、「王政復古」で「神武*創業」に戻るという、二重の主張をしていたことに気づいたDさんは、「近代国家を作ろうとしたリーダーたちは、必ず直前の時代や政権を否定するが、近代化によって前の時代を超えようとするだけでなく、もっと前の歴史や宗教・文化にもよりどころを求める」というパターンがあるのではないかと考えた。Dさんはそこで、過去の歴史や宗教の栄光を強調したり、その復興を主張した近現代の政治運動の例を探したところ、世界のあちこちでこのパターンが見られることがわかった。下のカードには、Dさんがメモした事項が書かれている。
 *神武は建国神話上の初代天皇を指す。

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サウジアラビア建国やイラン革命とイスラーム
ガンディーのインド独立運動とヒンドゥー教
イスラエル建国と古代ユダヤ人の宗教・国家
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 このカードの例から一つの国を選んで、カードに書かれた近現代のリーダーまたは政権がよりどころにした過去の国家や宗教の興亡の歴史について、250字程度で論述せよ。
………………………………………

コメント
問1 4人の研究という全体のスタイルは共通テストを真似ています。この空欄補充の問題は容易でした。空欄アは「世界の共産党の指導機関である」と年代の1920年がヒントで前年(1919年)にコミンテルン(第三インターナショナル)ができているので、これが答と推理できます。この前に「1911年 フランス船で出国、米英仏などで働きながら学ぶ」という足跡が記してあります。これは東大の過去問(1982)に「少年時代から独立運動に身を投じたホー=チミンは、官憲の追跡を逃れて、船員となってヴェトナムを脱出した。ヨーロッパに渡った彼はフランス社会党員となり、1920年フランス共産党が成立するとただちにこれに加入、モスクワを経て中国に入り、中国革命にも参加した。この間、在外ヴェトナム人の組織化をすすめ、被圧迫民族解放同盟を結成するなどして、国際的体験を深めた」と。ベトナムの青年は東遊運動(ドンズー運動)といって日本を目指したのに、日本は信用できない、と踏んで来ませんでした。周りに惑わされず、見る目が若いときからあったことになります。日本は日仏協約(1907)を結び、フランスの依頼で留学生を追放しました。
 空欄イも「インドシナからの撤退を決め、[ イ ]停戦協定」というのは易しい。ジュネーヴ休戦協定です。
 空欄ウも「ジエム政権に反対する[ ウ ]が結成され、ゲリラ闘争を開始。これを支援するベトナム民主共和国(北ベトナム)」からは長い名称ですが正しく書けることが必要です。この南ヴェトナム解放民族戦線をアメリカはベトコン(Vietcong ベトナムのコミュニスト)と呼びました。当時、日本ではベトナム反戦運動がさかんで、これはアメリカ側の誤った表現であるとして、「愛国・民主・平和の共産主義者・民族主義者から仏教徒・カトリック教徒まで包含した民族・民主統一戦線」(当時の『世界史B用語集』の説明)であった、とゲリラ側の表明をそのまま信じていました。NHKスペシャル『社会主義の20世紀』第5巻(日本放送出版会、私はこのNHKの放送を見ています。これはそれを本にしたものです)の中で「南ヴェトナム解放民族戦線の組織、その目的はどのように決定されたのですか」「1959年、ベトナム労働党中央委員会の第15回会議で解放戦線の結成を決定したのでしたね」という問いに対して、ファン・バン・ドン元首相が「そうです。同時に、南の全人民を動員して抵抗運動に立ち上がらせることも決定しました。それは一斉蜂起運動です」と。多くの共産党員がそれを隠して南にわたり活動しました。蔑称表現はときに的を射た言葉になっている場合もあります。この問題の年表にも「1960年 ……支援するベトナム民主共和国(北ベトナム)」と書いてありますが、正しくは「支援」でなく「企画・実施」です。

 
問2 たった3つの空欄を埋めるのに、また長い文章を読ませています。「1935年の[ ア ]コミンテルンが[ X ]を提唱」とあり、この35年はヒトラーの再軍備宣言があり、戦争の危機が迫ってくる中で、共産党ではないものとも組もうという戦略のことです。人民戦線(方式)です。反ファシズムのために資本家・民族主義者とも組むという方法です。
 空欄[ Y ]は「が始まり、中国側で第二次国共合作が具体化」という後の文章からは日中戦争しかありません。当時の日本人は戦争といわないで支那事変と呼んでいました。
 空欄Zは「1946年」という年代、「米ソ両陣営の[ Z ]が表面化」が冷戦を示しています。

問3 課題は「最後まで純粋な社会主義者でありつづけたと考える場合に、この中のどれが根拠にできるだろうか」です。5つの文章から選ばせるのも共通テストに似たタイプの形式にしています。これは二次試験なのになぜ真似なければならないのか不思議です。もちろんいろんなタイプの問題があってもいいのですが……。
 文章アはあの世の「革命家に会いに行く」は「社会主義者でありつづけた」ことになります。
 文章イはなんだか不明です。「財産・生命を犠牲に」は日本の特攻隊でも、ヒトラー崇拝者でも言うでしょう。
 文章ウは「アメリカ帝国主義」という語句で「社会主義者」でも、社会主義者でない反米感情の強いひとなら言うでしょう。「ありつづけた」という厳密な条件では首をかしげざるをえません。
 文章エの「民族解放運動」が社会主義者であるかどうかの判断を鈍らせます。
 文章オの「兄弟諸党、兄弟諸国」は同じ主義主張のひと・国の団結を唱えているので、共産党宣言の最後の言葉「万国の労働者よ団結せよ」と同じなので、これは「ありつづけた」でしょう。

問4 「ホー・チ・ミンは終始一貰して、社会主義陣営の提携戦略の枠に収まらない民族主義……三つ以上の根拠をあげて……通常の社会主義者ならしないはずの行動や発言にも注意」という課題です。問1の年表と問2の独立宣言書、問3の遺言から抜き出してきて「まとめ」る能力を見ようとしています。良問です。
 問1の年表では、1924年のソ連・コミンテルンの使節団員となった点は社会主義者としてですが、同年の「孫文……ベトナム青年革命会を結成」は社会主義と民族主義が混ざっています。
 1941年の「多くの階層・組織を含むベトミンを結成」は民族主義者として活動しています。直後の「中国の国民党政権の支援も得ようとする」も民族主義者として妥協的な部分です。
 1945年の「ベトナム民主共和国臨時政府を樹立」は社会主義と民族主義が混在しています。またこの年に「阮朝のバオダイ帝を最高顧問に迎え」という妥協的なところが民族主義です。
 問2の独立宣言書はアメリカ独立革命とフランス革命という代表的なブルジョワ革命の宣言を模範としている点、またその末尾には、「すべてのベトナム民族は、あらゆる心と力、命と財産をもって、この自由と独立の権利を守るであろう」と民族主義を唱えています。
 問3の遺言に「両方にまたがる内容」があり、解答ではなかった「イウエ」の文章が民族主義を表しています。
 これらを行動と発言に分けて書いてもいいし、混ぜて書いてもいいでしょう。

問5 課題は「18世紀末から19世紀半ばの中欧・東欧の各民族の動きについて、どのように説明するか。カード1からカード3の内容にふれながら」でした。
 カード1のすでに存在した帝国とは、東のロシア帝国、北はプロイセン王国中心とするドイツ帝国、このプロイセンに敗戦したハプスブルク家の支配する神聖ローマ帝国と、結果としてのオーストリア=ハンガリー二重帝国がありました。「帝国形成に向かいつつあった国家」とはプロイセン王国のことでしょう。南部にはオスマン帝国がありました。
 カード2:それらの諸国に支配されていた国家や民族……「支配されていた国家」には言葉の矛盾がありますが、カード1の帝国から独立する予定の国々、あるいはかつて国家をもっていたが滅ぼされた国家を指しているでしょう。神聖ローマ帝国にはボヘミア(ベーメン)王国があり、かつて3分割されたポーランド、ハンガリー(二重帝国の自治国)、露土戦争(1877〜1878)で独立するルーマニア・セルビア・モンテネグロ、ブルガリア、ギリシア(1830)などがあります。
  阪大の出題意図の中に「中欧・東欧(南欧ではない)が指す範囲」という文章がありますが、おかしなことです。教科書では東欧といえば中世から書き出していますが、そこでは何よりビザンツ帝国から書き出しています。つまりバルカン半島の南欧の歴史からであり、東欧といえば南欧が入ることは教科書では自明です。何か勘違いしているのでしょう。
https://www.osaka-u.ac.jp/ja/admissions/faculty/general/pastexam-answer
 民族としては上の国々と重なりますが、西スラヴ人のポーランド人、チェコ人、スロヴァキア人、マジャール人、南スラヴ人のセルビア人、ボスニア人、ヘルツェゴビナ人、モンテネグロ人、アジア系のブルガリア人、印欧系のルーマニア人とアルバニア人とギリシア人などです。各地にユダヤ人、植民してきたドイツ人、インド由来とみられるロマ人(ジプシー)も。
 カード3:ナポレオン戦争のインパクトはフランス革命軍が国民軍であったため、侵略された国々で自らも国民軍を創ろうという動きになったナショナリズムの刺激。また分割された国が消えていたポーランドはナポレオンによってワルシャワ大公国を創ってもらい、ナポレオンのモスクワ遠征にも参戦していたこと、などがあげられます。1815年のウィーン会議で民族主義を抑える、革命以前の旧王朝に復帰する、という正統主義が決められながら、それに対する反発が各地でおきたこと、また神聖ローマ帝国は崩壊していて、ドイツはドイツ連邦という35の君主国と4自由市の連合というかたちをとり、かつて中世以来300もの領邦の集団であったのが、ドイツ民族のまとまりが促されたこと。1848年の革命の結果、ウィーン体制は崩壊し、一時的に共和政の国ができたこと、東欧ではドイツ統一の会議(フランクフルト国民議会)の向こうを張ってプラハでスラヴ民族会議を開き、オーストリア帝国の解体を画策しましたが失敗しています。このスラヴ民族会議を書いた答案が予備校のものにないのは情けないですね。東欧が課題なのに。
 ナポレオン戦争が始まる前にはポーランドでコシューシコ(コシチューシコ)の反乱がありました。第二次分割に対する反抗でしたがつぶされました。
 いろいろデータがありすぎて困りますが、これらの全部は書き切れないので、大きな動きを中心にまとめることになります。「中欧・東欧」のうち中欧はドイツも入れて書け、ということでしょう。今の国境線とはちがい、プロイセン王国はポーランドの北部を領土として持っていましたから。

問6 阪大らしく東南アジア史重視の問題でした。ここでも更に畳み掛けるようにベトナム史を追いかけています。課題は「事実誤認を含む仮説」を選べ、というもの。面白い問題です。
 文章ア 「阮朝王室の子孫にインタビュー……肯定的な意見が聞けるだろう」なんて当り前です。
 文章イ 「南部のホーチミン市でベトナム共和国時代の教科書」は米軍の支援を受けていた時期なので、「南部に領土を広げたことなどについて、肯定的な評価」がされるはずがありません。北部と対決しているのに北部が南部を侵略するのを肯定できません。
 文章ウ 「北部のハノイ」ということは元朝共産党政権の教科書になるので、「シャム(タイ)やフランスの宣教師の支援を受けるなど、「売国的」なやりかたで王朝を立てた阮朝の行動が非難」は当然です。
 文章エ 「山岳地帯の少数民族社会を調べたら、ラオスやカンボジアなどの強国の圧迫から守ってくれなかった阮朝に対する否定的な評価が出てくるだろう。」は当然です。共産党は少数民族を重んじません。

問7 課題は「もっと前の歴史や宗教・文化にもよりどころを求める」というパターン……一つの国を選んで、カードに書かれた近現代のリーダーまたは政権がよりどころにした過去の国家や宗教の興亡の歴史について」でした。これも面白いが嫌な問題です。というのは、予備校の解答例のように、だらだらとそれぞれの歴史を適当に書けばいいのではなく、「政権がよりどころにした過去」に注目しつつ書かなくてはならないことです。
 どれが書きやすいか受験場で即決しなくてはいけません。ユダヤ人の歴史が書きやすいように思いますが、どうですか?
 「サウジアラビア建国」これを書けるには、サウジアラビアが原理主義のワッハーブ派であること、サウード家がこの派を支援してできたのか現在の国であること、これだけでは書き切れないので、「イスラーム」という部分ではムハンマド以来のかんたんな歴史を書く。
 イランを選ぶなら、イラン革命もサウジアラビアと同様に原理主義的なシーア派を基にイラン=イスラム革命でできた国であること、シーア派そのものの歴史、この派を国是としたブワイフ朝・(ファーティマ朝・)サファヴィー朝・パフレヴィー朝など「フ」付き王朝についてかんたんに説明する。
 インドならガンディーの非暴力・不服従運動(サティヤーグラハ運動)がまさにヒンドゥー教の聖典バガヴァット・ギーターに書いてある「不殺生と禁欲」の教理を基にしていること、南アフリカでの弁護士活動、国民会議派としての活動、塩の行進、宗教間対立に反対、ハリジャン(不可触民)の解放運動など、いろいろ書けばいいでしょう。
 イスラエルの場合はユダヤ人の古代の歴史と再現をはかるシオニズムの歴史がふさわしい。
 
 なお導入文に書いてある「王政復古」と注の「神武は建国神話上の初代天皇を指す」は前660年に即位したとされる天皇です。当時日本に国家はないのに天皇だけで居るという不思議な話です。神国だとの主張が日中戦争中になんども強調されました。負けるはずのない国というわけです。4世紀の神功皇后(じんぐうこうごう)もよく持ち出された神話でした、この皇后は新羅出兵を行い、朝鮮半島の広い地域、高句麗も百済も服属下においたとされました。この神話が征韓論の起源として長々と信仰されました。代表的な人物は吉田松陰(1830〜59)です。次のように書いてます。

蝦夷を墾き琉球を収め、朝鮮を取り満洲を拉き、支那を圧し印度に臨みて、以て進取の勢を張り、以て退守の基を固めて、神功の未だ遂げたまはざりし所を遂げ、豊国の未だ果さざりし所を果すに若かざるなり

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第三次日韓協約

 この絵は第3次日韓協約を締結させた中心人物である伊藤博文と外相・林董(ただす)が、ひざまずいて条約文に捺印している李完用を見下ろしていて、いかにも屈辱を与えている姿ですが、上には征韓にかかわる昔の人物たちが慶事として見守っています。大きく描かれた神功皇后・豊臣秀吉・西郷隆盛たちです。出典は雑誌「東京パック」1907年8月1日号発行。

2020年合格メール

Aくん 3月6日 17:36
東京外国語大学言語文化学部イタリア語学科、合格しました。
短い間でしたが、添削して下さってありがとうございました。
先生の添削あればこその合格であると信じています。
本当にありがとうございました。

Bさん 3月7日 11:02
本日、筑波大学人間学群教育学類に合格しましたので報告致します。
センター試験で世界史以外は失敗して、どうなることかと思いましたが、二次の世界史で全問埋めることができました。世界史で合格したと思っています。センター世界史で97点取ることができたのも中谷先生とまちよ先生のおかげです。
もともと世界史は苦手だったのですが、今後も世界史の勉強を続けていきたいと思っています。添削中にお勧めしていただいた本もやっと読むことができます。

Cくん 3月9日 15:51
LBのCです。無事大阪大学に合格することができました。今年は難化といわれましたが、中谷先生に約50枚添削していただいたおかげで押さえるべきポイントは最低限解答に入れることができたと思います。あまり見慣れないテーマでも焦ることはありませんでした。僕が世界史を選択したのは浪人生になってからなので、不安しかありませんでしたが、論述まで持っていくことができたのは100%先生のおかげです。本当にありがとうございました。

Dさん 3月10日 15:40
中谷先生お久しぶりです。
一橋大学商学部に合格することができました。
添削ありがとうございました。また、世界史論述練習帳や年号暗記の本もとても役に立ちました。
本当にありがとうございました!!

Eくん 3月10日 13:10
今年度8月から先生に添削指導していただいていたEです。第1志望の東京大学に合格したので連絡しました。
現役時は世界史が嫌いで、苦手な科目でしたが、浪人時にはもう一度いちから勉強し直し、先生の添削を受けさせていただきました。するとだんだん世界史が好きになるとともに成績も急速に伸びました。
僕は自宅浪人だったので、中谷先生の添削指導は自分にとって自信につながり、本番でも世界史だけは絶対に大丈夫だ、と強い自信を持って挑めました。今年の第1問では「世界史論述練習帳new」の基本60字の該当箇所が思い浮かび、すぐに概観を完成させられました。求められる詳細事項については知識不足でしたが、そこそこの点数が取れたと思います。
半年間の添削指導と世界史論述練習帳にはとてもお世話になりました。本当にありがとうございました。

Fくん 3月10日 14:51
東大文科一類に合格しました。
自分が合格出来たのは偏に先生の添削のおかげです。
本当にありがとうございました。

Gくん 3月11日 18:10
京都校LAクラスのHです。
京都大学経済学部に無事合格しました!
先生には、50枚以上添削してもらい、
論述の改善ができたこと
本当に感謝しています。
せめてもの恩返しとして
再現答案は書かせていただきます。

Hくん 3月13日 14:06
東京大学文科一類、無事合格しました。先生の参考書のおかげです、本当にありがとうございます。
貴著「世界史論述練習帳」を8月に購入し、基本60字を毎日のように電車内で見返していました。
冬からの過去問研究の際も、先生の「世界史解答文」を参考にしつつ、知識豊富な解答例に刮目するばかりでした。自画自賛ながら、本番では少しは立派な解答が書けたかと思います。
最後に、メールでの質問に丁寧に答えてくださったことは、感謝のあまりです。
ありがとうございました。

I くん 3月16日 23:38
駿台京都校でお世話になりましたIです。
京都大学文学部に合格することができました!
先生には授業の他に添削も沢山してもらって世界史の成績を伸ばすことができました。
本当にありがとうございました!

一橋世界史2020

第1問
 次の文章は、ルターがその前年に起こった大規模な反乱について1525年に書いた著作の一部である。この文章を読んで、問いに答えなさい。(問1、問2をあわせて400字以内)

  農民たちが創世記1章、2章を引きあいに出して、いっさいの事物は自由にそして[すべての人々の]共有物として創造せられたものであると言い、また私たちはみなひとしく洗礼をうけたのだと詐称してみても、そんなことは農民にはなんの役にもたちはしない。なぜならモーセは、新約聖書においては発言権をもたないからである。そこには私たちの主キリストが立ちたもうて、私たちも、私たちのからだも財産も挙げてことごとく、皇帝とこの世の法律に従わせておられるからである。彼は「皇帝のものは皇帝にかえしなさい」と言われた。パウロもローマ13章において、洗礼をうけたすべてのキリスト者に、「だれでも上にたつ権威に従うべきである」と言っている。(中略)
 それゆえに、愛する諸侯よ、ここで解放し、ここで救い、ここで助けなさい。領民にあわれみを垂れなさい。なしうるものはだれでも刺し殺し、打ち殺し、絞め殺しなさい。そのために死ぬならば、あなたにとって幸いである。
(「農民の殺人・強盗団に抗して」『ルター著作集』第1集第6巻より引用。但し、一部改変)

問1 下線部は「農民たち」によって提出された要求を比喩的に説明したものである。具体的にはどのような要求であったか述べなさい。

問2 「聖書のみ」というルターの主張は、各方面に大きな影響を及ぼした。「農民たち」が考える「聖書のみ」と、ここでルターが表明している意見の相違はどのようなものであり、どのような理由で生じたと考えられるか、述べなさい。

第2問
 20世紀中葉において資本主義世界の覇権がイギリスからアメリカ合衆国に移行した過程を、19世紀後半以降の世界史の展開をふまえ、第2次世界大戦・冷戦・脱植民地化との関係に必ず言及して論じなさい。(400字以内)

第3問
 次の文章A,Bを読んで、問いに答えなさい。(問1、問2をあわせて400字以内)

A (1860年代において、当時の朝鮮の政権と思想的方向性を同じくする)奇正鎮・李恒老は(中略)攘夷論を開陳した。たとえば奇正鎮は、「洋胡」(西洋諸国)と条約を結べば、儒教の道徳や礼制はたちまちに滅び、「人類」(朝鮮の人間)は禽獣となると危機感を表明した。これは、「邪説」を排撃して「正学」(朱子学)を崇ぶという「衛正斥邪」の内容をさらに拡大して、西洋諸国を夷秋(「洋夷」).禽獣であるとして全面的に排斥し、儒教道徳・礼制、それに支えられた支配体制を維持擁護しようとする主張であった。
 西洋諸国を夷狄・禽獣と視るのは[ ① ]意識によるものであった。(中略)西洋諸国は儒教を否定する「邪教」の国であるから、夷狄あるいはそれ以下の存在である禽獣ということになる。

B (1876年に)李恒老の門人の崔益絃は開国反対上流を呈した。崔益絃は条約調印に反対する理由として五点を挙げたが、そのなかには次のような点があった。
 「日本との交易を通じて、『邪学』が広まり、人類は禽獣に化してしまう。」「内地往来・居住を拒めないから、日本人による財貨・婦女の略奪、殺人、放火が横行して、人理は地を払い、『生霊(じんみん)』の生活は脅かされる。」「人と『禽獣』の日本人とが和約して、何の憂いもないということはありえない。」
 崔益絃の描く日本人像は、奇正鎮の描いた「洋夷」像と何ら異なるところがない。実際に崔益絃は上疏において、倭(日本)と洋は一心同体であるとする「倭洋一体論」を展開した。
(糟谷憲一「朝鮮ナショナリズムの展開」『岩波講座世界歴史20 アジアのく近代>』より引用。但し、一部改変)

問1 [ ① ]は、17世紀の国際関係の変化を受けて高揚した、自国に対する朝鮮の支配層の意識を表す言葉である。これを記しなさい。
問1 [ ① ]意識がいかなるものであり、どのような背景があったのか、また、それが1860〜70年代にどのような役割を果たしたかについて、それぞれ国際関係の変化と関連付けて述べなさい。
………………………………………
コメント
第1問
問1 課題は「要求を比喩的に説明したものである。具体的にはどのような要求であったか述べなさい」というものです。下線部の「比喩的」とは「いっさいの事物は,自由にそして[すべての人々の]共有物……私たちはみなひとしく洗礼をうけたのだと詐称」という平等を唱えている部分のことらしい。これは「比喩的」と作問者は形容していますが、「農民たち」の声そのままではないかとおもわれます。農民戦争での「12カ条要求」では第三項目に「キリストは自らの血を流して身分の高いもの、低いものの例外なく解放した給うた。われわれが自由であるべきこと、自由であろうと望むことは聖書に合致している。キリスト教徒としてわれわれを農奴の地位から救い出してくれることはとうぜんである」とあります。また4項目の「貧乏人には鹿や野鳥や魚を捕ることが許されないという習慣をなくし、キリスト者として同じ権利を与えること」も、10項目の「かつて村に属していた牧場や耕地(入会地)を個人が占有しているのを、とりもどせること」は共有・平等の要求でしょう。
 「具体的に」とは、上に引用したものの中にありますが、その他に、聖書に基づく社会の根底からの変革を求めて、牧師選任の自由、農奴制・十分の一税廃止、賦役・地代の軽減、共有地の開放などを掲げています。
 

問2 「「農民たち」が考える「聖書のみ」と、ここでルターが表明している意見の相違はどのようなものであり、どのような埋由で生じたと考えられるか」という難問でした。
 「農民たち」が考える「聖書のみ」という文章が理解しにくいですね。「聖書のみ」はルターの主張であり、農民も「聖書のみ」とどこで主張しているのでしょうか? 史料からは分かりません。「12ヶ条」の12項目目に「以上の箇条が聖書の言葉と一致しないものであれば、その箇条は喜んで撤回する」といっていて、農民たちも聖書に根拠がなければ要求を撤回すると表明しています。印刷によって聖書は広く普及し、とくにプロテスタントは教会で聖書を学ぶことをもっとも重要なこととしていて、カトリックのような儀式を軽視しています。聖書を根拠にすることは農民にとっても当然でした。
 ルターの「聖書のみ」はなによりカトリック教会に対抗する主張でした。教皇に教義の決定権があり、かつプロテスタントが認めない聖書以外の外典や教父たちの著作も聖典あつかいしているのに反対しての主張です。
 しかし「農民たち」が考えているのはカトリックであれプロテスタントであれ、領主という経済的・人格的な支配者に対抗して聖書を利用しています。
 ルターはこの「農民たち」の聖書利用はまちがっていると見なしています。「モーセは、新約聖書においては発言権をもたない」というのは「創世記」から始まる旧約聖書は創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記の5冊を「モーセ五書」といい、新約聖書で語られることとは別のことを書いているのだ、新しい段階・時代に入っているのであり、創世記は適用できない、と。それが「モーセは、新約聖書においては発言権をもたない」という文章になります。「主キリスト」は「皇帝(カエサル)のものは皇帝(カエサル)に、神のものは神に返しなさい」(マタイによる福音書」22章15〜22節)と「パウロもローマ13章」の「だれでも上にたつ権威に従うべきである」を根拠に農民の抗議と要求を弾圧すべきこととしています。つまり社会的な改革に聖書を適用すべきではない、お上には従いなさい、ということです。それは領主側に立っての物言いです。
 同じ聖書を根拠に、農民は労働の負担を軽くしてくれ、と要求し、ルターは既存の領主による支配体制は変えるべきではない、という対立になりました。これが「相違」です。さらに進んで「刺し殺し、打ち殺し、絞め殺し」とまで言うようになります。
 この相違が現れた理由は史料からは分かりません。教科書を読んでも理由は書いてありません。詳説世界史では「民衆が直接キリストの教えに接することができるようになった。他方、ルターの説に影響をうけたミュンツァーは、農奴制の廃止などを要求するドイツ農民戦争(1524〜25年)を指導して、処刑された。ルター自身、最初は農民蜂起に同情的であったが、やがて、これを弾圧する諸侯の側にまわった」と経過だけ書いています。帝国書院の教科書『新選・世界史』は「しかし農民の反乱がトマス=ミュンツアーの指導のもとに急進化すると, ルターは反乱を抑圧するようはたらきかけたとされる」と弾圧の理由を書いています。しかし相違がなぜ生まれたのか、という点までは書いてありません。
 注でも「ルターが農民戦争を抑圧した理由 ルターは,諸侯の保護を受けており,カトリック教会の腐敗に抗議したが,身分制度など、これまでの社会秩序を破壊することには反対だった。したがって,農民戦争が農奴解放など、社会改革の性格をもつようになると、これに反対した」という説明は相違の理由ではなく、弾圧の理由です。
 「相違」は聖書にたいする姿勢の違いです。相違は双方にもともとありませんでした。なぜなら農民戦争が始まり、「12ヶ条要求」を読んだルターは内容に納得して「シュワーベン農民の十二ヵ条に対する平和勧告」を発表し、領主たちに対して搾取と専制を戒めています。ところが、過激化すると弾圧する側に転向します。農民たちはルターの「九十五ヶ条の論題」に急に刺激されて過激になったのでしょうか? そんなことはありません。イギリスでもフランスでも、14世紀の農民反乱が知られていて、ワット=タイラーの反乱の場合はジョン=ボールが「アダムが耕しイヴが紡いだとき、だれが貴族(領主)であったか」と平等が人間の初めからあるのだという思想をすでに持っています。この問題の農民戦争は1524年ですが、ドイツではブントシュー運動といって4回大規模な蜂起がおきていました。1493年、1502年、1513年、1517年です。1513年のときに農民たちは、教会領の分割、一切の貢租の廃止、没収された共同地の返還などを要求しています。宗教改革以前の出来事です。「12ヵ条」の共同綱領を起草したのはメミンゲン市の革なめし職人セパスチァン=ロッツァーでした。彼は職人でありながら、聖書を熟知しており、俗人説教者でした。
 相違が現れたのはルターの変心と言う他ありません。ある予備校の解答に「「農民たち」が現世の利益のみを追求しているとして,諸侯の鎮圧を支持した」と書いたものがありますが、「現世の利益」ではない、あの世の利益をルターは説いたのでしょうか? であれば、ルターが初めに農民に共鳴したことはどうなるのでしょうか? ルターとて農民が苦しい状況にあることは知っています。現世であろうと放置できないはずです。
 ルターが弾圧の理由付けにしたのは運動の過激化であり、要求自体は妥当と思っていたのですから、平穏のほうが大事と考え、お上に従えと命じました。良くいえば平和を求めたためとも言えないことはないです。この変心の理由は、過激化を薦めたミュンツァーたちが「再洗礼派(アナバプテスト)」であったことも理由にできます。かれらの教義(幼児洗礼・三位一体説の否定)がルターにとっては容れられない信仰内容でした。いわば宗派対立です。
 なおルターの信仰義認や万人祭司という説と関連づけた解答例が見受けられますが、この問題とは特に関連があるともおもえない。この信仰内容と教会組織のあり方は農民とルターの間で対立する問題になっていないからです。
 導入文を読むと一見、旧約聖書と新約聖書を根拠にすることの対立のように見えます。「農民たちが創世記1章、2章を引きあい……モーセは、新約聖書においては発言権をもたない」と。この旧約と新約の対立だと書いた答案例もネットにはあります。しかしパウロが書いた「ローマ人への手紙」3章22節に「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません」という文章があり、信仰義認論の文章として知られているものですが、ここには「差別」はないとハッキリした表現があります。信徒になる前は何人でもいいわけで、義認される者に差別はないのです。この義認は全ての人間に適用できます。神の前の平等はキリスト教の基本理念の一つです。創世記に「アダムが耕しイヴが紡いだとき、だれが貴族(領主)であったか」という文章があるのでなく、これは古くからの信徒たちの解釈です。キリスト教徒は旧約聖書も新約聖書もセットで聖書ととっています。ルターから新約聖書を重んじるようになったという訳でもありません。結局「ローマ人への手紙」から、ルターにとって都合のいい部分、13章から引いてきて弾圧の根拠にした、ということになります。ルターの限界・弱さ・ずる賢さです。
 史料からは旧約と新約の対立として解答しても許容解としなければならないでしょう。それほど受験生に聖書の知識があるとは思えないし、史料文から判断させるのは無理があり、問題自体に疑問が残ります。

第2問
 課題は「20世紀中葉において資本主義世界の覇権がイギリスからアメリカ合衆国に移行した過程を,19世紀後半以降の世界史の展開をふまえ,第2次世界大戦・冷戦・脱植民地化との関係に必ず言及して」でした。主問は前半の「資本主義世界の覇権がイギリスからアメリカ合衆国に移行した過程」で、副問は「19世紀後半以降の世界史の展開をふまえ,第2次世界大戦・冷戦・脱植民地化との関係」です。副問が具体的な史実をあげつつということです。
 「世界史の展開」としてはイギリスの世界覇権、いいかえれば「パクス=ブリタニカ」の形成が「19世紀後半以降」に目立つのであり、その当時はアメリカは専ら「国内の征服」、というよりインディアンの居住地を奪っていく最中で「フロンティア」を西に移住しつつありました。アメリカの太陽は西から昇っていました。その間、イギリスは中国(アヘン戦争・アロー戦争)、インド(第二次シク戦争・大反乱鎮圧・インド帝国)、エジプト(スエズ運河株買収。ウラービー反乱鎮圧)、カージャール朝半植民地化、アフガン戦争・ビルマ戦争(英緬戦争)、南ア戦争と植民地を拡大しています。
 19世紀末になってインディアンの抵抗が終わり、フロンティアが消滅します。同時に世界一の工業国になりました。この「世界一」は鉄鋼製品の元になる銑鉄の生産量で測ります。といってすぐイギリスに代われたのではありません。投資・金融・貿易・海運の面でまだイギリスが世界一でした。この状態は第二次世界大戦の開始までつづきます。南ア戦争のころから20世紀はアメリカの世紀だといわれ始めしたが、それは第一次世界大戦でハッキリしました。イギリスは債務国になり、アメリカが債権国に変わりました。
 戦後の世界はアメリカの経済で持ちこたえました。ドイツへの資金援助(ドーズ案・ヤング案)、この援助で復興したドイツは英仏に賠償金として払いました。これが世界全体で生産過剰のため大恐慌をきたし、ニューヨークから破綻がはじままり、ファシズムを興起させることになりました。ニューディール政策で復興をはかるも十分な復興にならず、第二次世界大戦がアメリカ経済を救いました。ハワイを別にすれば戦場にならず戦後を迎えた合衆国は並ぶもののない経済力をもった資本主義国家として発展することになりました。大戦末期に金ドルを基軸とした世界経済がブレトン=ウッズにおいて成立します。マーシャル=プランを対ソ的に共産主義化防止策として使い、資金を振りまきました。一方のイギリスは植民地の独立があいつぎ世界から撤退するととなり。アメリカの資金援助で生きていく国に転落しました。
 この問題は、東大の過去問(1996-1)にある「パクス=ブリタニカの盛衰」と類似しています。易問でした。

第3問
問1 史料文は19世紀のものであるのに、空欄[ ① ]は,「17世紀の国際関係の変化」を受けて高揚した、「自国に対する朝鮮の支配層の意識」は何か、という問い。つまり西洋諸国を夷狄(「洋夷」)・ 禽獣と視たように、17世紀の明朝に代わった清朝も夷狄と視ました。史料Bの日本は「倭夷」と呼びました。「倭(日本)と洋は一心同体であるとする「倭洋一体論」」となります。
 史料Bの1行目にある「雀益絃は開国反対上流を呈した」の「流」はさんずい偏になっていますが、8行目の「疏」が正しい漢字です。誤字に気がつかなかったようです。正しくは「疋(ひき)」偏です。

問2 課題は、①小中華意識とは何かの説明、②背景、③1860~70年代にどのような役割を果たしたのか、④それぞれ国際関係の変化と関連付けて、という条件が付いています。
 ①この言葉を知らなかったらアウトですが、用語集には頻度6として載っています。「朝鮮が唯一中国の伝統文化を継承しているという思想。朝鮮の支配層は.清の征服によって中国は「夷秋化」し.明以降の正統な「中華」を守っているのは自分たちだけであると自負した」と説明しています。用語集のこの語句のすぐ上には「夷狄(いてき)」という項目もあり、「中国で周辺諸民族を呼んだ蔑称。文明化されていない.道徳的に劣った人々とみなす考えが.中国知識人のあいだで一般的であった」と。もともと中国で使っていた表現を朝鮮側で中国(清朝)蔑視の表現として使った、ということです。拙著『世界史論述練習帳new』にも「小中華」を指定語句にした筑波大の問題を解説しています。
 満州族という狩猟民を蔑視したのですが、しかし清朝自体も中国支配において儒教・儒学を国家教学として基本に置いている国であり、実施する科挙も儒学の試験であり、李氏朝鮮はこの清朝に家臣として事大の礼をとっているのに、なぜ、という疑問がわきます。元々の中国では夷(野蛮人)に該当する東北地方出身ということが一つ、また清朝の皇帝は自らを満珠菩薩の化身とみなしていることの二つめが問題です。この満珠菩薩であるとの表れは正式な清朝皇帝がみな数珠を首からかけている図で示されています。しかし朱子学を国学とする朝鮮からすれば仏教は邪教とみなします。

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清朝皇帝

 こうしたことから朝鮮だけが純粋中華だ、というわけです。④「国際関係の変化と関連付けて」は明清交代です。朝鮮にとって服属する主人の交代です。もちろん服属といっても何もかも服従するのでなく、外交上の上下関係、君臣関係であって、清朝が朝鮮の内政に干渉することはありません。この「服属」を文字どおり採って朝鮮はずっと中国に従ってきた弱小国だとみるひとたちがいます。今年(2020)の東大の第1問の導入文に「中国王朝の皇帝に対して臣下の礼をとる形で関係を取り結んだが、それは現実において従属関係を意味していたわけではない。また国内的には、それぞれがその関係を、自らの支配の強化に利用したり異なる説明で正当化したりしていた」と書いています。お互いの関係でした。中国にとっては周辺国も中国文化を尊び、皇帝の徳をあがめている、世界の中心である、という満足感があり、朝鮮側はこの中心から承認された正統な君主である、と自国内への権威として利用できました。
 朝鮮半島にとって中国は国境を接する国であり、ときに国境紛争がおきています。しかしいつも敗北していたわけではありません。隋の高句麗遠征は高句麗側の抵抗で敗退しており、唐太宗の侵略も失敗しています。新羅は唐軍を追放して版図を統一しています。その後、負けた唐と「服属」の関係をもちました。「服属」は平和のあり方の一つです。遼金の侵入に対抗した戦いでは高麗が勝利して領土を鴨緑江まで拡大しましたが、外交上は「服属」という和平のかたちです。紅巾軍が入ってきたこともありますが、撃退して李氏朝鮮ができています。16世紀末の秀吉の侵略が失敗したことは誰も知っていることです。後金・清朝とは紛争がおきましたが領土の変化はなく「服属」になりました。

 ②背景として、朱子学を奉ずる支配層である官僚たち、朝鮮半島の場合は両班(ヤンバン)がいます。受験資格は両班の子弟にかぎるという中国とはちがい狭いものにしましたが、かれらが朱子学の大義名分論にしたがって生きることを誇りにしています。この誇りが「小中華」という自己認識、儒学的ナショナリズムを主張する背景です。

 ③年代が「1860~70年代」で、この時期に「どのような役割」と問うています。
 この時期は何より外圧が大きい。このことは「④それぞれ国際関係」でもあります。1860年に北京条約で沿海州を割譲されたロシアの船がたびたび朝鮮半島沿岸に出没するようになります。1866年にフランスの船が江華島を占領したが大院君(高宗の父で実権者)は義勇兵を集めて抵抗しフランス艦隊を退散させています。同年アメリカのシューマン号が大同江をのぼり威嚇しますが、平安道観察使の朴珪寿が火攻で応じて挫いています。アメリカ軍はその後なんども襲撃してきますが朝鮮側の反撃が鋭く断念しています。こうした状況下で大院君は「洋夷侵犯、非戦則和、主和売国、戒我万年子孫(洋夷が侵犯しているのに、戦わないのであれば和することである。和を主とするのは売国の行いである。このことを万年の子孫に戒める)」と書いた斥和碑を、漢城(ソウル)と全国の都会地に建てさせました(趙景達『近代朝鮮と日本』岩波新書)。尚武の武国・日本はアメリカの黒船の威力の前にかなわないと和を認めますが、尚文の文国・朝鮮は、和を嫌い徹底抗戦をしています。
 70年代に他国が失敗した侵略に日本が成功します。井上良馨(よしか)という明治の諸戦に海軍として活躍した男は西郷隆盛の征韓論に共鳴して次のような意見書を政府に出していました。
 「朝鮮はわが国にとても必要な土地である。……朝鮮を日本が領有するときはますます日本は国の基礎が強くなり、世界に飛雄する第一歩になります。日本の強弱は、朝鮮を日本の領地とするかどうか、この一挙にかかっている。……いま朝鮮は国が乱れている。もしこの天が与えたチャンスをはずしてしまい朝鮮を討たないときは、後々悔やむことになるかもしれない。……このチャンスを深く見抜いて、ぜひ早くご出兵になることを希望します」
 かれが雲揚号の艦長となり、江華島に発砲しながら近づいていくと、朝鮮側も発砲してきたので、挑発に乗ってくれた、しめた、となり上陸して戦闘になり35人を殺し、江華府の大砲・文書を奪っています。ペリーによる平和な日本開国とは違ったものになりました。
 井上良馨は明治8年9月29日に出した報告書では、「①測量および諸事検捜かつ当国官吏工面会万事尋問をなさんと、海兵4名、水夫拾人に小銃をもたらし……②ここへ上陸せんと思えども日もいまだ高いため今少し奥に進み帰路上陸に決し……③すぐに距離試しのため40斤を発すれば八分時を後れて彼よりもまた発砲か」と書いていましたが、10月8日の報告書では「①朝鮮から清国牛荘までの航路研究中に清水の補充を必要と考え、海図に水深の記載がある江華島付近に寄航しようとした。②9月20日、端艇に乗り、江華島の第三砲台(日本側呼称)付近で「此辺に上陸良水を請求せんとし右営門及砲台前を航過せんとするや突然、銃砲で発砲された」と違う内容に書き換えています(『史学雑誌』111巻12号、鈴木淳の論文)。後者では初めはなかった「良水」と書き、「発砲された」と受身で書き直しました。改竄(かいざん)です。
 翌年(1876)8隻の軍艦で威圧して調印させたのが日朝修好条規でした。(1)朝鮮の自主独立、(2)釜山・元山・仁川3港の開港、(3)日本公使館領事館の設置、(4)日本人の領事裁判権、(5)無関税貿易という不平等条約でした。
 この時期、朝鮮は小中華思想で満足し、外圧があれば、それに対して抵抗だけで済ましてきた訳ではありません。魏源の『海国図志』の紹介、中国にも日本にも使節を派遣して近代化を学び、製鉄・兵器工場をつくり、軍制改革・行政改革にとりくんでいました。開化政策といいます。しかし日本の方が一歩先んじていたため、火力の差がつき負けました。時間的なわずかな差が勝敗を決しました。それをものすごく差があるかのように誇張して、遅れた朝鮮を野蛮視したのが明治の日本でした。
 この事件について、日本のヘイトスピーカー福沢諭吉は次のように書いています。

 日本にとって今大事なのは欧米諸国との対応であって、アジア諸国と戦おうと和を結ぼうと名誉にも恥にもならない。朝鮮はアジアの一小野蛮国で、その文明は日本に遠く及ばない、貿易をしても、外交関係を持っても利益はない。たとえ、朝鮮から貢ぎ物を持ってきて日本の属国となると言っても喜ぶに足りない。我が国が欧米諸国を制するのに力にならない。ましてや、戦う意味はない。勝っても栄誉にならないし利益もない。今度の事件(江華島事件)は手足にけがを負った程度の朝鮮は小野蛮国だから、このことで深く心配する必要はない」(全集20巻 p.149)。 

 引用された崔益絃(チェイッキョン)の倭洋一体論は、倭洋双方とも尚武の歴史・伝統をもっているので適切な指摘です。条規を結んだ後の朝鮮半島がどうなるか、日本人が何をしでかすのか崔は透視していました。「日本人による財貨・婦女の略奪、殺人、放火が横行して、人理は地を払い、『生霊(じんみん)』の生活は脅かされる」は秀吉の侵略のときにすでに経験していることでした。
 こうした日本も夷狄「倭夷」と視たと指摘した解答例は予備校のものに無いのは不思議です。史料Bにしっかり書いてあるのに、そうは書きたくなかった、ということでしょうか。

東大世界史2020

第1問
 国際関係にはさまざまな形式があり、それは国家間の関係を規定するだけでなく、各国の国内支配とも密接な関わりを持っている。近代以前の東アジアにおいて、中国王朝とその近隣諸国が取り結んだ国際関係の形式は、その一つである。そこでは、近隣諸国の君主は中国王朝の皇帝に対して臣下の礼をとる形で関係を取り結んだが、それは現実において従属関係を意味していたわけではない。また国内的には、それぞれがその関係を、自らの支配の強化に利用したり異なる説明で正当化したりしていた。しかし、このような関係は、ヨーロッパで形づくられた国際関係が近代になって持ち込まれてくると、現実と理念の両面で変容を余儀なくされることになる。
 以上のことを踏まえて、15世紀頃から19世紀末までの時期における、東アジアの伝統的な国際関係のあり方と近代におけるその変容について、朝鮮とベトナムの事例を中心に、具体的に記述しなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述しなさい。その際、次の6つの語句を必ず一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。また、下の史料A〜Cを読んで、例えば、「〇〇は××だった(史料A)。」や、「史料Bに記されているように、〇〇が××した。」などといった形で史料番号を挙げて、論述内容の事例として、それぞれ必ず一度は用いなさい。

 薩摩 下関条約 小中華 条約 清仏戦争 朝貢

史料A
 なぜ、(私は)今なお崇禎(すうてい)という年号を使うのか。清(しん)人が中国に入って主となり、古代の聖王の制度は彼らのものに変えられてしまった。その東方の数千里の国土を持つわが朝鮮が、鴨緑江を境として国を立て、古代の聖王の制度を独り守っているのは明らかである。(中略)崇禎百五十六年(1780年)、記す。

史料B
 1875年から1878年までの間においてもわが国(フランス)の総督や領事や外交官たちの眼前で、フエの宮廷は何のためらいもなく使節団を送り出した。そのような使節団を3年ごとに北京に派遣して清に服従の意を示すのが、この宮廷の慣習であった。

史料c
 琉球国は南海の恵まれた地域に立地しており、朝鮮の豊かな文化を一手に集め、明とは上下のあごのような、日本とは唇と歯のような密接な関係にある。この二つの中間にある琉球は、まさに理想郷といえよう。貿易船を操って諸外国との間の架け橋となり、異国の珍品・至宝が国中に満ちあふれている。


第2問
 異なる文化に属する人々の移動や接触が活発になることは、より多様性のある豊かな文化を生む一方で、民族の対立や衝突に結びつくこともあった。民族の対立や共存に関する以下の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(口)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して記しなさい。

問(1) 大陸に位置する中国では、古くからさまざまな文化をもつ人々の間の交流がさかんであり、民族を固有のものとする意識は強くなかった。しかし、近代に入ると、中国でも日本や欧米列強との対抗を通じて民族意識が強まっていった。これに関する以下の(a)·(b)の問いに、冒頭に(a)·(b)を付して答えなさい。

 (a) 漢の武帝の時代、中国の北辺の支配をめぐり激しい攻防を繰り返した騎馬遊牧民国家の前3世紀末頃の状況について、2行以内で記しなさい。

 (b) 清末には、漢民族自立の気運がおこる一方で、清朝の下にあったモンゴルやチベットでも独立の気運が高まった。辛亥革命前後のモンゴルとチベットの独立の動きについて、3行以内で記しなさい。

問(2) 近代に入ると、西洋列強の進出によって、さまざまな形の植民地支配が広がった。その下では多様な差別や搾取があり、それに対する抵抗があった。これに関する以下の(a)·(b)の問いに、冒頭に(a)·(b)を付して答えなさい。
 

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 (a) 図版は、19世紀後半の世界の一体化を進める画期となった一大工事を描いたものである。その施設を含む地域は、1922年に王国として独立した。どこで何が造られたかを明らかにし、その完成から20年程の間のその地域に対するイギリスの関与とそれに対する反発とを4行以内で記しなさい。

 (b) オーストラリアは、ヨーロッパから最も遠く離れた植民地の一つであった。現在では多民族主義・多文化主義の国であるが、1970年代までは白人中心主義がとられてきた。ヨーロッパ人の入植の経緯と白人中心主義が形成された過程とを、2行以内で記しなさい。

問(3) 移民の国と言われるアメリカ合衆国では、移民社会特有の文化や社会的多様性が生まれたが、同時に、移民はしばしば排斥の対象ともなった。これに関する以下の(a)·(b)の問いに、冒頭に(a)·(b)を付して答えなさい。

 (a) 第一次世界大戦後、1920年代のアメリカ合衆国では、移民や黒人に対する排斥運動が活発化した。これらの運動やそれに関わる政策の概要を、3行以内で記しなさい。

 (b) アメリカ合衆国は、戦争による領土の拡大や併合によっても多様な住民を抱えることになった。このうち、1846年に開始された戦争の名、およびその戦争の経緯について、2行以内で記しなさい。

第3問
 人間は言語を用いることによってその時代や地域に応じた思想を生みだし、またその思想は、人間ないし人間集団のあり方を変化させる原動力ともなった。このことに関連する以下の設問(1)〜(10)に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(10)の番号を付して記しなさい。

問(1) 古代ギリシアの都市国家では、前7世紀に入ると、経済的格差や参政権の不平等といった問題があらわになりはじめた。ギリシア七賢人の一人に数えられ、前6世紀初頭のアテネで貴族と平民の調停者に選ばれて、さまざまな社会的・政治的改革を断行した思想家の名を記しなさい。

問(2) この思想集団は孔子を開祖とする学派を批判し、人をその身分や血縁に関係なく任用しかつ愛するよう唱える一方で、指導者に対して絶対的服従を強いる結束の固い組織でもあった。この集団は秦漢時代以降消え去り、清代以後その思想が見直された。この思想集団の名を記しなさい。

問(3) キリスト教徒によるレコンキスタの結果、イスラーム教勢力は1492年までにイベリア半島から駆逐された。その過程で、8世紀後半に建造された大モスクが、13世紀にキリスト教の大聖堂に転用された。この建造物が残り、後ウマイヤ朝の首都として知られる、イベリア半島の都市の名を記しなさい。

問(4) 10世紀頃から、イスラーム教が普及した地域では、修行などによって神との一体感を求めようとする神秘主義がさかんになった。その後、12世紀頃から神秘主義教団が生まれ、民衆の支持を獲得した。その過程で、神秘主義を理論化し、スンナ派の神学体系の中に位置づけるなど、神秘主義の発展に貢献したことで知られる、セルジューク朝時代に活躍したスンナ派学者の名を記しなさい。

問(5) 華北では金代になると、道教におけるそれまでの主流を批判して道教の革新をはかり、儒・仏・道の三教の融合をめざす教団が成立した。これは華北を中心に勢力を広げ、モンゴルのフビライの保護を受けるなどして、後の時代まで道教を二分する教団の一つとなった。この教団の名を記しなさい。

問(6) アラビア半島で誕生したイスラーム教は西アフリカにまで広がり、13世紀以降には、ムスリムを支配者とするマリ王国やソンガイ王国などが成立し、金などの交易で繁栄した。両王国の時代の中心的都市として知られ、交易の中心地としてだけではなく、学術の中心地としても栄えたニジェール川中流域の都市の名を記しなさい。

問(7) 清代に入ると、宋から明の学問の主流を批判し、訓詰学・文字学・音韻学などを重視し、精密な文献批判によって古典を研究する学問がさかんになった。この学問は、日本を含む近代以降の漢字文化圏における文献研究の基盤をも形成した。この学問の名を記しなさい。

問(8) 19世紀半ば頃イランでは、イスラーム教シーア派から派生した宗教が生まれ、農民や商人の間に広まった。この宗教の信徒たちは1848年にカージャール朝に対して武装蜂起したが鎮圧された。この宗教の名を記しなさい。

問(9) アダム=スミスにはじまる古典派経済学は19世紀に発展し、経済理論を探究した。主著『人口論』で、食料生産が算術級数的にしか増えないのに対し、人口は幾何級数的に増えることを指摘して、人口抑制の必要を主張した古典派経済学者の名を記しなさい。

問(1O) 19世紀から20世紀への転換期には、人間の精神のあり方について、それまでの通念を根本的にくつがえすような思想が現れた。意識の表層の下に巨大な無意識の深層が隠れていると考え、夢の分析を精神治療に初めて取り入れたオーストリアの精神医学者の名を記しなさい。
………………………………………
第1問
 東大としては分かりやすい問題を出題しました。一橋の過去問(2015-3)に引用文の後に「問い 下線①皇帝の名前(乾隆帝)を記し、その皇帝によって語られた清朝の対外関係の特徴とその崩壊過程を説明しなさい。(400字以内)」という課題があり似ています。東大の場合は「対外関係の特徴」はすでに導入文に書いてあり、むしろ「崩壊過程(変容)」を「朝鮮とベトナムの事例を中心に」という点が違っています(なお一橋は1998年にも類題を出題していて、これは拙著『世界史論述練習帳new』でも解説しています。p.48)。
 導入文に異議を唱えるひともいそうです。「皇帝に対して臣下の礼をとる形で関係を取り結んだが、それは現実において従属関係を意味していたわけではない」という部分です。あるテレビに出演した予備校講師が「朝鮮は歴史において主体性をもったことは一度もない」という趣旨のことを語っていました。「現実と理念」という言い方をこの導入文はしていますが、この講師は「現実と理念」を混同していて、理念が現実(この場合は史実でも可)に勝った見方をしています。なんのことはない、この講師は韓国・朝鮮にたいする蔑視観で歴史を語っているヘイトスピーカーです。
 指定語句の「朝貢」は、そのまま朝貢関係・朝貢貿易という語句でも使用するように、外交上、中国皇帝を上にして周辺国が「臣下の礼をとる形で関係を取り結んだ」のです。儀礼的な関係です。中国皇帝は世界における唯一無二の「天子」という存在であり、天子の恩恵と周辺国君主たちの服従という相互関係は、下賜(かし)と朝貢という儀式的な授受の形をとりました。
 朝貢を政治的な言い換えとして、冊封体制といいます。皇帝から周辺国の君主は自分の地位(官爵、爵位、官号)、国土を認めてもらい、印綬される場合もあります。中国本土は中央集権で支配し、周辺国の支配は印綬した君主に任せる、という前漢・後漢が実施した郡国制の国際版です。
 京都・東山に妙法院という寺があり、ここに明官服類と呼ぶ秀吉が明朝から下賜された服装とその他もろもろの礼服があります。これは明朝使節と会見するために明朝側が用意した服装です。家臣の立場をとらせる儀式のために、「君主」側が家臣のために着るものを用意し、会見のさいにはこれを着てこいという世話のやき過ぎではないか、とおもえる儀礼の重視です。これは朝鮮侵略(壬辰倭乱)が明軍の援軍により三国戦争に発展し、講和をするために明朝側から秀吉を日本国王と認める(冊封する)ために、1596年9月、明の使者(楊方亭・沈惟敬)が大坂城におもむいた出来事です。秀吉に会い、勅諭の伝達、国王としての金印と冠服を授けます。翌日、この冠服を着て明使との饗宴に臨みますが、明使が「なんじを封じて日本国王となす」と告げるだけで、秀吉の願いは無視されたため激怒し講和は決裂した、と伝えられています。「願い」とは、朝鮮半島南部の割譲、朝鮮王子を人質に、明朝皇女を天皇の妃に、といった横暴なものです。なおこの際、秀吉以外にも配下の徳川家康が都督、毛利輝元・上杉景勝が都督同知、前田玄以が都督検事に任命されており、同じように冠服を授かっています。秀吉のような対決姿勢では儀礼的な外交関係は無理でした。刀を振り回してきた猿が仰々しい礼服を着ても似合いません。
 
 時間が「15世紀頃から19世紀末」で、主問は「アジアの伝統的な国際関係のあり方と近代におけるその変容」、副問は「朝鮮とベトナムの事例を中心に」でした。
 「近代における変容」とは19世紀の変容とおなじです。18世紀、いや19世紀の前半までつづいた「伝統的な国際関係」は、どう変化したかという問いでした。
 朝鮮の事例は、史料Aに「古代の聖王の制度は彼らのものに変えられてしまった。……わが朝鮮が、……古代の聖王の制度を独り守っている」と儀礼の外交を続けながらも、17世紀に相手が明朝から清朝に変わったため、指定語句の「小中華」思想をもつようになります。夷秋化した中国の清朝も儒教を尊重するものの、皇帝たちは満珠菩薩の生まれかわりと自己認識をしていて、朝鮮からすれば朱子学でない仏教は邪教とみなします。中国の支配者が清朝に代わっても「聖王の制度」の使者として、日本には通信使を送り、中国文化の正統な継承者として中国文明を教えにきました。近代になると、西洋は洋夷であり、日本も倭夷と見なします。これらの夷(野蛮人)に対して自己を守るありかたを「衛正斥邪」と呼びました。
 これらは理念面での説明です。現実は指定語句「下関条約」にあるように、日清戦争という侵略行為があり、その前に江華島事件と日朝修好条規もあります。もちろん「15世紀頃から」なので遡って14世紀末にできた李氏朝鮮が明朝との関係について言及してから、日本との関係にもってきます。
 中国では紅巾の乱が背景となって明朝が成立しましたが、紅巾軍は高麗時代の朝鮮領内にも入り、1362年に開城を陥落させたこともあり、この紅巾軍を追撃して李成桂が台頭します。李成桂は朱子学を奉じ、明朝とは朝貢関係を築きます。上に書いた秀吉の侵略のさいは明軍の援助を受けることで国土の保持になりましが、やたら食糧を請求する明軍に悩まされ、「援軍」だったかどうか怪しいらしい。李朝は北京に朝貢使を派遣し、大きな見返りを得ました。中国王朝への朝貢は、中国側が倍返ししてくれるので経済的利益が大きいので止められない。
 清朝を名のる前の女真族・後金のさいは、伉礼(こうれい、対等の礼)による交隣関係でしたが、清朝と改称して中国を支配すると事大の礼をとります。ホンタイジが鴨緑江を越えて、国王は江華島に逃げたが、降伏して事大の礼をとることになりました(1636)。領土を奪われてはいないものの、君臣関係という和平のかたちをとりました。朝鮮ではこれを「丙子胡乱」と呼んでいます。「胡」ですから蔑視表現です。これから毎年、北京に燕行使という朝貢の使節を派遣することになりました。
 この儀礼関係を破壊したのが明治日本でした。「朝鮮を日本が領有するときはますます日本は国の基礎が強くなり、世界に飛雄する第一歩になります」と意見書を出していた井上良馨が雲揚号艦長となって朝鮮を挑発し、江華島を占領しました。水の補充は後になって国際的非難を避けるための言い訳でした(『史学雑誌』111巻12号 鈴木淳の論文)。つづく武力の脅威を背景に日朝修好条規(江華条約)を結ばせます。そこには「朝鮮の自主独立」が書いてありますが、これは清朝から離す意図と、日本がコントロールしたいという二重の意図が込められています。
 この段階から「条約関係」というヨーロッパで成立した主権国家同士の関係が東アジアにも波及した、と解答しているものがあります(S,T予備校)。教科書(『現代の世界史A』p.110)でも、アヘン戦争のところで「東アジアの各地域は外国の圧力のもと、1870年代頃までにいわゆる「開国」をおこなって、新しい条約体制へと移行していった」と書いています。条約関係であれ条約体制であれ、これは対等な国家同士の関係を表す表現としては頷けるものの、アジアと欧米列強との関係を説明する場合にはふさわしい語句とはおもえません。この時期の関係をつくったのは武力・暴力であり、城壁だけでなく人間も粉砕する火力・砲弾です。もちろんこの時期ではない時期も戦争はありますが、これほどの圧倒的な力の差がなく、全土を占領するところまで行かなければ共存の道、すなわち兄弟か君臣かの関係を結んで和平にいたりました。こうした関係が許されない、支配か被支配かのどちらかしかない関係が迫られました。条約関係という語句が示唆する対等な国家同士というイメージからは隔たったすがたです。条約調印を迫られた国にとっては必ず不平等条約でした。対等なんてありません。植民地化です。帝国は被征服地を隷属させ、その資源を奪う野獣になります。なぜこういう語句を安易に使うのか? 欧米と中国の関係は南京条約(1842)から不平等条約撤廃の1943年まで主権国家同士の対等な条約関係ではありませんでした。

 しかし出題者側の意図は指定語句に「条約」を加えているので、上で否定した考えで出しているだろう、とは推理できました。
https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400138205.pdf
「地理歴史(世界史)」の出題意図に「理念上階層的な関係である朝貢・冊封関係が、形式上は対等な主権国家間で結ばれる条約(不平等条約を含む)や近代国際法に基づく関係に取って代わられる過程」と。

 理念上階層的な関係である朝貢・冊封関係が、形式上は対等な主権国家間で結ばれる条約(不平等条約を含む)や近代国際法に基づく関係に取って代わられる過程を史料と結びつけながら説明することを求めました。

 しかしこの考えを改めなくてはならないですね。出題者側に対して言っていることです。この時期に「対等」はないのですから。
 日清戦争でも日本側の行動は暴力的でした。甲午農民戦争が全州和約で終息したため、日清両軍の派兵は無意味になり、そのため内政改革を求めることにしましたが、清朝は内乱は鎮静し、内政改革は朝鮮政府の仕事であるから日本軍は撤退せよ、と求めてきました。それに対する日本側の対応は開戦の決定でした。王宮を占領して国王捕虜とし、清軍追放を日本に依頼させるという工作をします。国王は中立宣言をしますが、無視して仁川の清朝海軍の攻撃をはじめ上陸します。秋になって農民は日本軍にたいして再蜂起します(第二次農民戦争)。遼東半島にも進撃して旅順虐殺事件もおこしました。台湾に関しては、下関条約で認められても、その時点では台湾は台湾民主国独立宣言を出していましたが、これに樺山資紀(すけのり)が戦闘をいどみ日本領にしてしまいました。台湾征服戦争と呼ばれます。台湾人1万4000人が殺害されました。下関条約でも朝鮮の「独立」が書かれますが、日本軍の駐留する下では無意味になります。儀礼外交は砲弾によって破られ支配─被支配の関係に変容しました。
 
 史料Bは「わが国(フランス)の総督や領事や外交官たちの眼前で、フエの宮廷は何のためらいもなく使節団を送り出した」という部分に、ベトナムでは従来の朝貢関係が維持されていたことを示しています。この儀礼外交の時期が「1875年から1878年」とあるので、清仏戦争(1884〜85)が待っています。それまで、つまり15世紀の中越関係をたどれば、黎朝大越(1428〜1789)も明朝に服属し、西山朝(1773)を経て、阮朝(1802)も服属しました。阮朝成立に貢献したフランスが仏越戦争に勝利してサイゴン条約(1862)、そしてユエ条約(1883、1884)を結んで獲得すると、清朝が宗主権を唱えて清仏戦争に発展しました。結果、敗北した清朝は天津条約でフランスの宗主権を認めた、ということになります。教科書的な話ではないのですが、「戦争(清仏戦争)全体は必ずしも負けていたわけではないのに、李鴻章は清朝のために自分の郷勇を使いたくなく、「負けたことにしてくれ」とフランスに頼み、和平に走りました。日本の朝鮮半島への圧力が強くなっていたことも背景として存在しました」と拙著『センター試験・各駅停車』で書いてます。清朝の強さの理由は、洋務運動の効果が現れていた、といわれます。事情はどうあれ、ここに仏領インドシナ連邦が成立します(1887〜1945)。

 史料cでは琉球が朝鮮・明朝・日本と関係していたこと、そのうち明朝・日本との関係を指して「二つの中間」と両属関係であったことも示しています。位置的にも「諸外国との間の架け橋」であると貿易立国であることを書いています。2016年に沖縄教育委員会は、ローマ帝国(3〜4世紀)とオスマン帝国(17世紀)の金属製の貨幣(コイン)計5点(ローマが4点)が出土したと発表しました。古くからの貿易立国であることが証拠だてられました。
 ここに日本の暴力が加わります。1609年、薩摩藩の島津氏が約3000名の兵を率いて奄美大島、ついで沖縄本島に上陸し、首里城に進軍しました。琉球側は抵抗したが敗れます。この時の戦いは山下文武『琉球軍記薩琉軍談』(南方新社)に「鉄砲三百挺が一度に打ち続けたところ百千の雷が一度に落ちたかのように黒煙は天をおおい音は地に轟き渡った」と攻撃のようすを描いています。抵抗する琉球側の部将のことばも記されていて、「賤奴がいわれもない戦を起し、当国へ乱入してきた事は憎きに余りあることだ。琉球国で万夫不当と言われた私が、将軍千戸候泰物という者である。倭賊の奴等に手並を見せて仕わそう」と。ここに日本・薩摩を「賤奴」「倭賊」と蔑視した表現がつかわれています。首里を訪れると赤い「守礼門」という竜宮城の門のようなものが建っていて門の上に「守禮之邦」と大書してあります。平和にくらしてきた琉球のひとたちが、乱世の戦場を勝ち抜けてきた尚武の日本国と戦うには、その武器と残忍性に勝てる訳がありません。平和に生きる生き方の一つが禮(礼)を尊び、礼を交わし、尚文であった琉球。それと日本とでは対照的でした。この日本の尚武の観念、いいかえれば「強い男」を発揮せねばならない、攻撃的であれ、暴力をエスカレートせよ、という理念は20世紀までつづきました。東條英機の『戦陣訓』(1941)には「尚武の伝統に培(つちか)ひ、武徳の涵養(かんよう)、技能の練磨に勉むべし」と。いや21世紀にも陸上自衛隊のエンブレムを見れば継承されていて、かれらが何を誇りにしているかは、刀が示しています。
https://www.mod.go.jp/gsdf/about/mark/index.html
 さて薩摩に攻められて以降、琉球王国は薩摩藩への貢納を義務づけられ、江戸に使節を派遣しなければならなくなりました。その後、明朝に代わった清朝にも朝貢をつづけ、薩摩藩と清への両属という体制をとりながらも、琉球王国は独立国家の体裁を保ち、独自の文化を発展させました。
 また19世紀にはアメリカと琉米条約 (琉球米国修好条約、1854)をペリーと結んでおり、フランスと琉仏修好条約(1855)を、オランダと琉蘭修好条約(1859)を締結しています。琉球王は初め条約締結を拒否しましたが、日米和親条約の締結を知りペリーの要求を受け入れることにしました。アメリカ議会は翌年これを批准しており、正式に独立国としての扱いをしました。しかし3条約とも明治政府が没収します(1874)。この没収ももちろん武力によります。琉球処分官の松田道之が約600人の兵で、首里城の明け渡しを要求し、琉球藩の廃止して沖縄県の設置を強行しました。

 課題が「朝鮮とベトナムの事例を中心に」と副問にありながら、史料cも含めて「論述内容の事例として、それぞれ必ず一度は用いなさい」とあり、二つ以外も挙げていいとしています。琉球だけでなく、清朝と周辺国との関係は儀礼的な関係としては理藩院が管轄した蒙古・青海・西蔵(チベット)・新疆の4藩部があり、これらも間接統治地域でありそれぞれの首長を認可して、清朝の官職を与えて自治を許した点は儀礼的な関係です。蒙古ではジャサク、回部ではベグ、西蔵ではダライ=ラマかパンチェン=ラマの従来からの支配認め、中央では理藩院をおいて管轄したとしても、基本的に不干渉主義でした。合格者の再現答案では、トルキスタンのことを書いていますが(→こちら)、琉球と同様に中国がかかわったところは書いてもいいのです。

第2問
問(1)(a) 「漢の武帝の時代、中国の北辺の支配をめぐり激しい攻防を繰り返した騎馬遊牧民国家の前3世紀末頃の状況について」という時間のずれた問いです。武帝は前141〜前87年のひと。つまり前2世紀後半から前1世紀にかけての皇帝です。しかし問いは「前3世紀末頃」とあり、これだと冒頓単于と前漢の建国者・劉邦の対立があった時代です。始皇帝が死んで1年目に陳勝呉広の乱がおき、同年に冒頓単于が即位します(前209年、『世界史年代ワンフレーズnew』の語呂「陳勝・冒頓はブ2レ0ーク9」)。父(頭曼単于──書けなくていい)を殺して蒙古の支配者となり、内蒙・東北にいた東胡や敦煌の月氏など黄河の北・西にいた部族を制圧し、オアシス都市を支配下におきました。劉邦はこれを撃つべく派兵したものの包囲されて危機に陥り、兄弟の関係を結んで和平としました。兄が冒頓単于です。これは白登山の戦いといわれるものです(前200)。

 (b)「辛亥革命前後のモンゴルとチベットの独立の動きについて」……盲点をついたような問題です。
 教科書(詳説)では「中華民国は、清朝の領有していた漢・満・モンゴル・チベット・ウイグルの諸民族が居住する地域をその領土としたが、辛亥革命を機に周辺部では独立に向かう動きがおこり、1911年には外モンゴルが独立を宣言し、13年にはチベットでダライ=ラマ13世が独立を主張する布告を出した。しかし24年にソヴィエト連邦の影響のもとモンゴル人民共和国を成立させた外モンゴルをのぞき、その他の地域は中華民国のなかにとどまった」と書いています。

問(2)(a) 図版は「19世紀後半……その施設を含む地域は、1922年に王国として独立」とあるのでスエズ運河が推理できます。課題は「どこで何が造られたかを明らかにし、その完成から20年程の間のその地域に対するイギリスの関与とそれに対する反発とを」で易問でした。完成は1869年でアメリカの大陸間鉄道と同年(『世界史年代ワンフレーズnew』語呂「運河・鉄道で、ひと1は8ロ6ケ9ット」)です。この運河の株買収と反発したウラービー(オラービー)の乱(1881)があり、イギリス軍に鎮圧されます。

 (b) 課題は「オーストラリア……ヨーロッパ人の入植の経緯と白人中心主義が形成された過程とを」です。経緯も過程も流れです。クックの到達(1770)、その後は英領の流刑植民地(1788)、先住民のアボリジニ(アボリジナル・オーストラリアン)を虐殺・追放して牧羊地を広げ、金鉱発掘(1850年代)もあり、白人たちの入植が増加し、オーストラリアを白人で独占する方針、すなわち先住民とアジア系移民を制限する白豪主義を採ります(1870年代〜1970年代)。なおアボリジニもアメリカのインディオと同様に西欧人の到来で主に天然痘に免役がなく人口大減少(90%)がおきました。白豪主義というオーストラリア型のアパルトヘイト政策について、2008年にオーストラリア政府はアボリジニに謝罪をしました。
https://www.afpbb.com/articles/-/2350297

問(3)(a) 課題は「1920年代のアメリカ合衆国では、移民や黒人に対する排斥運動が活発化した。これらの運動やそれに関わる政策の概要」でした。移民排斥運動としては、イタリア人移民への差別事件としてサッコ・ヴァンゼッティ事件(1927年死刑)があり、KKK(産経ではなく、クークラックスクラン)による黒人リンチ、日本人漁業禁止令や児童の修学拒否・隔離・転校強制などがあります。政策としては、移民法(1924)があり、南欧・東欧系の移民割り当て(第一次世界大戦前の80%削減)、アジアからの移民は全面禁止でした。

(b)課題は「1846年に開始された戦争の名、およびその戦争の経緯」でした。年代は米墨戦争(アメリカ・メキシコ戦争)を示しています(『世界史年代ワンフレーズnew』語呂「米が墨を、一1番8白46くする」)。すでにスペインから独立している白人の国を白人の合衆国が「膨張の天命(明白な使命)」と唱えて征服します。経緯としては10年前にメキシコ領に合衆国市民が入って独立宣言をし、1845年に合衆国が併合してしまう、という暴挙に、国境の川をめぐる争いから戦争に発展しました。合衆国が勝ち、グアダルーペ・イダルゴ条約を結び、すでに取っているテキサスとともにカリフォルニア、ニューメキシコ(さらにワイオミング、ネバダ、ユタ、アリゾナ、コロラドの大半)も取りました。

第3問
問(1) 「前6世紀初頭のアテネで貴族と平民の調停者」とあればソロン。
問(2) 「身分や血縁に関係なく任用しかつ愛するよう唱える」とあれば兼愛を唱えた墨家。
問(3) 「後ウマイヤ朝の首都」コルドバ。
問(4) 「神秘主義を理論化……スンナ派学者」は少々細かいがガザーリー。
問(5) 「金代になると、……道教の革新」とあれば全真教。「全真教」はいつできた? 「金真教」とおぼえる。
問(6) 「中心的都市……ニジェール川中流域の都市」はトンブクトゥ。
問(7) 「精密な文献批判によって古典を研究する学問」は考証学。問(2)の墨家を発見した。
問(8) 「1848年にカージャール朝に対して武装蜂起したが鎮圧された。この宗教の名」はバーブ教(『世界史年代ワンフレーズnew』』「ハーブ、一葉四葉」)。
問(9) 「主著『人口論』」ならマルサス。
問(1O) 「夢の分析」とあればフロイト。それまでヒステリーは女性特有の病気とみなしていたのですが、第一次世界大戦が終わって帰国した兵士たちの異様な行動を観察して、男性もヒステリーにかかることを見つけます。当時は Shell Shock (戦争後遺症、砲弾ショック、戦場ショック、戦争神経症) と呼ばれた症状です。今ならPTSD(心的外傷後ストレス障害)と表現するもの。帰還兵の症状は下の動画で見ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=IWHbF5jGJY0
 日本人もこの症状はあり、NHKの「ETV特集 アンコール「隠されたトラウマ〜精神障害兵士8000人の記録」
https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/20/2259620/index.html
は日中戦争での実状を千葉県の国府台陸軍病院・国立下総療養所と中国・太原の陸軍病院の記録と映像で詳説しています。数が数えられない知的障害者を500人も徴兵しました。狂った日本軍のすがたです。