世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

2019年夏の模試(東大・京大)雑感

A模試
 第一次世界大戦前後、最後の中華帝国である清朝や、ロ一マ帝国の理念を継承した諸地域、例えばオーストリア・ロシアにおいて、「皇帝」位が相次いで消滅した。このことは、古代から続いた長い伝統の断絶を意味した。
 ユーラシア大陸の東西において、秦漢帝国・ロ一マ帝国に始まる「皇帝」の権威は、民族移動の混乱や抗争によって帝国分裂の危機に直面しながらも、様々な勢力によって継承されていった。古代における集権的な帝国統治は、その後に強化されていく地域がある一方で、分権的な性格をみせていく地域もあった。「皇帝」の権威は、特定の教理や教学と結びつくことで一層高められ、帝国とその周辺に及ぶ広域秩序を形成することもみられた。こうした一連の動きは、17〜18世紀頃までに、地域ごとの特色のある形で収斂していくことになった。
 以上のことを踏まえ、14世紀半ばからの「皇帝」の権威の展開について、権威を支えた理念や帝国統治のあり方、皇帝位の担い手などに言及しつつ、それぞれの地域ごとに特色ある形で収斂するまでを記述しなさい。解答は、解答欄(イ)に22行以内で記し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。

 一世一元の制 ウェストファリア条約 カール5世 金印勅書 正教会 大編纂事業 朝鮮王朝 農奴制の強化

解答例──下線なし)
14世紀、元を駆逐した朱元璋は明を興した。「華夷の別」を重視する朱子学を官学とし、一世一元の制を定め、中書省を廃止して六部を皇帝直属とするなど皇帝独裁体制を完成した。永楽帝は南海遠征を通じ朝貢貿易を促進させ、儒教理念に基づく中華秩序の再編を図った。17世紀に満州で自立した女真の後金は国号を清と改め、朝鮮王朝を属国とした。李自成の乱で明が滅ぶと中国本土に進出し、皇帝として明の官僚機構や冊封体制を継承しつつ、モンゴル・チベットなどを藩部として間接統治し、大編纂事業を行い中華文明の保護者ともなった。神聖ロ一マ帝国では、皇帝カール4世が金印勅書を発布し七選帝侯に皇帝選出権を認めた結果、領邦の自立が進んだ。15世紀以降皇帝位はハプスブルク家が事実上世襲し、16世紀にカトリックの擁護者として皇帝権威の復興を図ったカール5 世は、宗教改革を進めるプロテスタント諸侯に対抗したが、アウクスブルクの和議で領邦教会制を認め、権威は動揺した。17世紀の三十年戦争では、ウェストファリア条約で帝国内の領邦主権が承認され、皇帝の支配権はハプスブルクの家領に限定された。キプチャク=ハン国から自立したモスクワ大公イヴァン3世は、東ロ一マ帝国滅亡を背景に皇帝位の継承を主張し、16世紀にイヴァン4世はツァーリを君主の称号として正式に定め、正教会の主宰者として東方キリスト教世界に君臨した。17世紀に成立したロマノフ朝は、ピョートル1世のもとユーラシア東方までの領域支配を固めつつ、バルト海に進出し、官僚制の導入や農奴制の強化を通じ皇帝専制体制を強化した。

▲皇帝という称号はヨーロッパ・ロシア、中国で使うのは確かです。しかしイスラーム世界ではどうなのか? インドのムガル帝国(アクバル帝)でもオスマン帝国(スレイマン大帝)でも使います。スルタンやシャーに「皇帝」の訳をあてることもあります。
 「模範」答案では中国・神聖ローマ帝国・ロシアだけに限定して書いていますが、そのような限定の指示は問題文のどこにも見当たらない。導入文のはじめのところで「中華帝国……諸地域、例えばオーストリア・ロシア」と書いてありますが、3段落目の本格的な問いの中には「それぞれの地域ごとに」とあり、この「それぞれ」がどこを指しているのか不明です。皇帝をいただいた国々ということなのでしょうが、はてそれはどこ?
 この課題文の前文では「ユーラシア大陸の東西において、秦漢帝国・ローマ帝国…に始まる…」と書いてあってどこにも限定した地域名は指定されていません。どうやら、指定語句から類推しろ、ということらしい。
 一世一元の制・大編纂事業・朝鮮王朝は中国、ウェストファリア条約・カール5世・金印勅書は神聖ローマ帝国、正教会・農奴制の強化はロシア、となります。しかし指定語句は指定語句であり、問題(課題)そのものではありません。40年ほど前の東大の過去問にそういう指定語句から類推させて書かせる問題はありましたが、最近のではまったくありません。じじいが作ったのか。
 また求められている解答は、皇帝権威・権力の強化か分権か、支配の理念ですが、「模範」答案の内容は冗長で不要な文章が多い。たとえば「満州で自立した女真の後金は国号を清と改め……李自成の乱で滅ぶと中国本土に進出し、……宗教改革を進めるプロテスタント諸侯に対抗したが、アウグスブルク和議で領邦教会制を認め、権威は動揺した……キプチャク=ハン国から自立した……17世紀に成立したロマノフ朝は、ピョートル1世のもとユーラシア東方までの領域支配を固めつつ、バルト海に進出し」などが不要です。
わたしの解答例──下線なし)
東アジアでは明朝が中書省を廃止して六部を直轄し、内閣に補佐させる皇帝独裁体制を築いた。一世一元の制、衛所制によって皇帝権を強化した。この体制は清朝にも受けつがれ雍正帝の段階で内閣に代わり軍機処が支配の中枢となった。朝鮮王朝や大越など周辺国は冊封体制に組み込み、征服した周辺民の地域は藩部としてその首長を官僚の末端に位置づけた。支配の理念は儒教であり、共に朱子学を国教とし、大編纂事業期に文字の獄で思想統制に努めた。南アジアではデリー=スルタン朝期にムスリムが定着、ムガル帝国はジスヤを廃止して回印共存の理念を強化した。しかし17世紀にジズヤを廃止しイスラーム化をすすめたため分権的な傾向をもたらした。西アジアではオスマン帝国が台頭し、スンナ派の盟主としてアッバース朝以来のカリフ政治を継承した。18世紀にはスルタン=カリフ制となり政教一致の体制を築いた。ロシアではコンスタンティノープル陥落を受けてビザンツ皇帝位はモスクワに遷ったとし、東方正教会の盟主であり、かつ絶対的なツァーリズムを形成した。しだいに農奴制を強化し、18世紀には農奴の売買まで認めた。中欧の神聖ローマ帝国では、14世紀に金印勅書が定められて皇帝は選挙制となり、同時に選帝侯の大幅な内政権が認められた。その権利は小領邦にも拡大された。皇帝位はハプスブルク家が受けつぐようになり、カール5世がその全盛期をきずいた。17世紀の三十年戦争は帝国を分裂させ、ウェストファリア条約により、皇帝の独占的権利であった外交権を領邦に与えたため、領邦は主権国家となった。

B模試
 次の文章は、14世紀半ばにフィレンツェの商人によって書かれたとされる商業の手引きの一部である。

 中国へ旅をする商人たちに必要なこと
 第ーに髯を剃らずに長く伸ばしている方がよい。そしてタナ※では通訳を雇うべきである……通訳の外にクマニア語に通じているもの二人、召使に雇った方がよい。……タナから中国までの道中は、実際に通った商人がいうには日中であろうが夜間であろうが、絶対に安全である。……中国は沢山の都市や町を含む地方である。その中でも特別な都市、すなわち首都は、沢山の商人たちが集り、交易量もはなはだ大きいもので、その名をカンバレクと呼ぶ。……ジェノワやヴェネツィアから出発し、上記の都市に行き、さらに中国まで旅するものは誰でも麻布をもっていくべきである。オルガンチ※を訪ればそこで売ることができるからだ。オルガンチでは銀のソンミ※を買い、何も他のものを購入せずにそれをもって進んだ方がよい。……どんな銀でも、商人たちが中国まで持って行くと、中国の君主はそれを取り上げ彼の金庫の中にしまってしまうだろう。そしてその引き換えに銀をもってくる商人に紙幣をくれるのである。これは黄色をした紙幣で、前述の君主の印が押してありバリシと呼ばれている。この金で絹や他のどんな商品でも買うことができる。この国の人々はすべて、これを受け取るように決められているのである。……
 (ペゴロッティ『商業指南』、田中英道・田中俊子訳)
※タナ 「ターナ」とも。南ロシアを流れるドン川がアゾフ海に注ぐ地に、北イタリア商人が建てた商業都市。
※オルガンチ アラル海の南にあった商業都市。
※銀のソンミ 銀のインゴット(かたまり)のこと。

 この手引きからは、いわゆる「モンゴル時代」の全盛期における広域の交通・商業ネットワークの一端をうかがい知ることができる。そしてこの時代に銀が、あたかも経済活動を活性化させる血液のようにユーラシアの大部分を循環し、国際通貨としての地位を確立させたことは、16世紀後半〜17世紀前半に大量の銀が供給されたときに進んだ世界経済の一体化の基礎になったと考えられる。
 以上を念頭におきながら、13世紀後半〜14世紀前半のユーラシアにおける銀を中心とする経済・商業の状況と16世紀後半〜17世紀前半に世界規模で起こった銀を中心とする経済・商業の状況を対比しながら概観しなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。なお( )で併記した語句は、どちらかー方を用いて解答すること。

 価格革命 ガレオン貿易(アカプルコ貿易)泉州 ジャムチ 日本銀 東方貿易(レヴァント貿易)農場領主制(グ一ツヘルシャフト) ムスリム商人

解答例──下線なし)
モンゴル帝国はジャムチにより陸上交通路を整備し、銀を中心とする貨幣制度を整えたため、ムスリム商人が遠隔地交易で活躍した。元は銀納税制を始めるとともに、銀との交換を保証した紙幣である交鈔を発行して銀を集め、宗主国として諸ハン国に銀を下賜した。紙幣の流通で不要とされた銅銭は日本などに輸出され、経済活動を刺激した。さらに元は華南の泉州などの海港都市と華北の大都を結ぶ大運河と海運を整備し、海上交易を活性化させた。このため銀は、泉州などに来航するムスリム商人を経由して元に環流した。西方ではイタリア商人が黒海経由でモンゴルの陸上交通路とつながり、また地中海では東方貿易でムスリム商人と南ドイツ産の銀とアジア産の絹や香辛料を交易した。16世紀にはポルトガル・スペイン船が直接アジアに来航した。中国商人と結ぶポルトガル商人は日本銀と明の生糸の中継交易を行った。17世紀前半にはオランダ商人がこれに参入し、日本からも朱印船が東南アジアに渡航し、日本銀で中国商人と交易した。またスペインはマニラを拠点とし、メキシコ銀を太平洋経由でマニラに運び、明の絹などと交換するガレオン貿易を行った。スペインがポトシ産の銀をヨーロッパに流入させると、価格革命と呼ばれる物価騰貴が起こった。西欧では主に新大陸を市場として商工業が発達し、エルベ川以東では農民の賦役を強化し西欧向けの穀物を生産する農場領主制が広まり、国際的分業が進んだ。
▲ 「対比しながら」という語句を安易に使ってしまったようです。どこにも対比した跡が見られません。「13世紀後半〜14世紀前半のユーラシア」と「16世紀後半〜17世紀前半に世界規模」の二つの時期の「経済・商業の状況」で対比するという課題です。違いは「ユーラシアと世界規模」で空間的に違うことは示されていても、その中身、とくに銀経済が違うという前提の問題です。解説文では表で示しながらも、どこにも対比になっている表がありません。たんに語句を二つの時期にあてはめているだけです。対比は違いを表す思考法なので、対比表ができて当り前なのですが、内容が伴っていません。

 東大で「対比しながら/しつつ」という課題で出題した過去問は以下のようなものがあります。
 1991年第1問 西アジアを中心にして、これに続く10世紀から17世紀にかけてのイスラム世界における政治体制の変化を簡潔に述べ、次いでこれと対比しつつ同時代の西ヨーロッパ世界、南アジア世界における政治体制の変化を略述せよ。
 1983年第1問 (A)10世紀ころに変動した朝鮮の国内情勢および国際関係について、その変動の前・後を対比しながら述べよ。
 1981年 9〜10世紀における西ヨーロッパ、東ローマ帝国、イスラム世界は、それぞれどのような特色をもっていたか、互いに対比しながら。
 1972年第2問 (A)古代ギリシアのポリスにおける、政治的・社会的な自由の歴史的意義とその特質を、古代オリエント世界および近代市民社会と対比しつつ、100字程度で記せ。

 「対比」とは辞書では、「二つのものを並べ合わせて、違いやそれぞれの特性を比べること。(デジタル大辞泉)」「複数個のものを異同を明らかにするためにくらべること(日本国語大辞典)」などとあるように、違いを明確にするための方法であり、違いを叙述することです。
 「対比」という語句を使わないで、違いを求めた問題は東大に多いです。2017年の古代帝国(秦漢とローマ)、2013年の米大陸の開発・軋轢の差異、2012年の植民地政策と独立運動の差異、1998年の18〜19世紀合衆国とラテンアメリカの対照性、1997年の帝国解体過程の比較、などです。
 この模試の問題は、過去問2015年の13〜14世紀モンゴル時代と2004年の16〜18世紀における銀を中心とした世界経済の一体化の二つを抱き合わせた問題でした。
 二つの時代を前半と後半に分けて書いても、それは羅列であって「対比」したことになりません。それでいいのなら第2問のように(a)・(b)に分けて書けばよいはずです。二つの時期を流れとして書いてしまったため、対比したかどうかは採点官に違いを探してください、と預けたかっこうになります。真面目に問題文をとって対比して書いた受験生は、その部分が無駄になりました。本番では無駄になりませんが。

わたしの解答例──下線なし)
13後半から14世紀前半の経済・商業。中国国内に新運河を建設し港湾も整備、銀を土台に紙幣を流通させる商業環境をつくった。モンゴル帝国内にジャムチを敷き、各ハン国間の通商も活発になった。泉州は東洋第一の港として栄えた。西欧でも商業ルネサンスがおき、東方貿易でイスラーム世界とつながりムスリム商人が陸路・海路にラクダが、ダウ船とジャンク船が行き交った。流通した銀は南ドイツと中国が産地であり、それほど大量ではなかった。ところが16世紀後半〜17世紀前半の経済・商業では銀はポトシ銀山を代表とする新大陸産のものと日本銀が大量に世界に流通した。西欧はインディオの帝国を破壊し、マラッカ王国を滅ぼして金銀を獲得した。それは明清の税を一条鞭法・地丁銀に変え、ムガル帝国にルピー銀貨を発行させ、欧州では価格革命を起こした。そのため東欧は農場領主制が普及し、西欧の商工業を支える後背地となった。商品を運ぶ手段も、大砲を装備したガレオン船によるアカプルコ貿易もはじまり、列強は東インド会社・西インド会社などをつくり海外に貿易基地を建設しだした。大西洋では奴隷貿易も始まり、港のリヴァプールは資本を蓄積した。このように前者の時期は商業のネットワークはつくったが各地の経済構造を変えることはなかった。後者の時期には経済構造を大きく変える変動を招来した。とくに西欧では資本主義の発展に寄与し、アジア・アフリカは従属の端緒となった。

C模試
 19世紀初頭のナポレオンによる大陸制覇とその後の保守的な国際体制の成立は、イギリスを始めとする諸国の多様な動きを生じさせ、そのことがヨーロッパのみならずアメリカ大陸に大きな政治的・経済的な変動を引き起こした。
 1810年代から1820年代にかけてイギリスの採った対外政策が、ヨーロッパおよび南北アメリカ大陸での政治的動きとどのように関わったかについて、それがアメリカ大陸に与えた経済的影響にも留意しつつ300字以内で説明せよ。

解答例
イギリスはナポレオンが発した大陸封鎖に対し海上封鎖で通商を妨害したが、反発したアメリカ合衆国がアメリカ=イギリス戦争を起こし、これを機にアメリカ合衆国は経済的自立を果たした。イギリスはナポレオンを破ると、その後成立した保守反動的なウィーン体制の支柱である四国同盟に参加した。しかしギリシア独立戦争が勃発すると、イギリスはフランスやロシアとともにギリシアを支援してオスマン帝国を破り、ギリシアの独立が実現した。またラテンアメリカの独立運動では、イギリスは外相カニングのもと自由貿易主義の立場から独立を支持したが、独立後は経済進出を進めた結果、ラテンアメリカ諸国のイギリスに対する経済的従属が強まった。

 この問題の類題は、東大過去問1986年第2問です。

 ナポレオン戦争およびこれに続くウィーン体制の成立は、南北アメリカにいかなる影響を及ぼし、またどのような動きをひき起こしたか。

 今回のようにイギリスの対外政策に的をしぼった点は違うが、欧州と米大陸への影響といった点は同類の問題です。
 解答文の問題点は3つ。
 第一文の末尾「経済的自立を果たした」のところ。かつて合衆国の産業革命がこの米英戦争の最中であったとの説があり、これは今は否定されているのに、受験の世界では生きている説です。山川の『用語集』を見たらわかるように(以下)、今は1830年から、という説が経済史の本でも通例見られる年代です。

アメリカ産業革命 ⑤ イギリス製品に対する保護関税政策で北部の工業が発達し、豊富な資源と労働力不足が農業工業の機械化を進めた。1830年代、木綿工業金属機械工業を中心に産業革命が本格化し……

 まして「果たした」という表現はそれが完成したかのような表現になっています。そうではなく対外関係が破綻したため商人は貿易ができなくなり、その分を木綿工業をつくることで埋め合わせようとしたのであり、わずかな工場ができただけでした。本格的には1830年代です。第一次世界大戦の最中にやっと債権国になるように、それまでイギリスの資金に依存して工業化していくのが合衆国の工業化のあり方です。『詳説世界史研究』(山川出版社)のように「アメリカ合衆国の経済的自立が始まり,ニューイングランド地方を中心に木綿工業の進展がみられた」というのが的確な説明です。やっと「始まり」に注目。果たした、ではない。
 第二の疑義は、「対外政策が、ヨーロッパ……での政治的動きとどのように関わったか」という問に対して四国同盟参加とギリシア独立しか書いてないことです。「関わ」りがどの程度のことを指しているのか不明ですが、広く「ヨーロッパ……影響」ととれば、もっと多くデータを挙げるべきです。イギリスだけの影響ではないものの、ナポレオン没落後も開放的な自由主義の動きはつづきました。その中にイギリス自身もあり、奴隷貿易の廃止(1807)、団結禁止法廃止(1824)、審査法廃止(1828)、カトリック教徒解放法(1829)、選挙権拡大運動と自由主義の運動が展開し、それらは他のヨーロッパ諸国にも影響しました。
 第三の疑義は、「独立後は経済進出を進めた結果、ラテンアメリカ諸国のイギリスに対する経済的従属が強まった」のところ。これはミスです。戦争前からイギリスはラテンアメリカに進出しています。ポルトガルと締結した通商条約であるメシュエン条約(1703)はラテンアメリカ進出のきっかけとなったものでした。戦争中も進出しています。なにより大陸封鎖令のためラテンアメリカはイギリスしか貿易相手はなく、じっさい英国の商品輸出は対欧州と対中南米を、1805〜11年で見ても、ほぼ同額で推移していて、戦後もあまり変動がない(外山忠著「ラテン・アメリカ市場への英・米の進出 : 1820年代から第 1次大戦前まで」北海道大学・経済学研究 https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/31290/1/24(2)_P235-292.pdf)。
軍事的にはイギリス軍がブエノスアイレス(アルゼンチンの首都)を占領する(1806)ということもやっています。

わたしの解答例
対仏大同盟の盟主として海戦・陸戦を戦い、フランス革命政府を屈服させた。四国同盟に加わったが、神聖同盟に加わらないことでラテンアメリカ独立革命への干渉拒否の立場を堅持した。欧州では自由主義運動に影響を与えた。国内のラダイト運動、国外でのブルシェンシャフト運動、スペイン立憲革命、カルボナリ運動、デカブリストの乱、ギリシアのトルコからの独立戦争などである。ラテンアメリカへは独立革命が継続し、20年代に実現した。戦争中からイギリスは市場として進出していたが戦後も市場化・原料供給地化をすすめた。北米の合衆国とは米英戦争がおき、それは合衆国の国民主義を起し、経済的自立の契機を与えたため木綿工業が興った。

欺史作家の『日本国紀』─2

 p.326に「日本は欧米諸国のような収奪型の植民地政策を行なうつもりはなく、朝鮮半島は東南アジアのように資源が豊富ではなかっただけに、併合によるメリットがなかったのだ。」とある。
 「収奪型」でない植民地経営などあるものか。

(1)棉花
「欧米諸国のような収奪型」としては英国のインド支配が典型である。イントがたとえ「豊富」であっても、英国の都合の良いようにつくり変えるていった。つまり、在来手工業を破壊し、英国工業のための原料供給地化・食糧供給地化・英国商品のために市場化する、そのため農業は混栽を止めさせてモノカルチャー(単一栽培)を強制していく、というやり方である。またインドへの課税が最大の収入源で、現地の地主勢力を温存し、下のものに重税を課けて土地を奪っていく。
 教科書(詳説世界史)では次のように書かれている。

 植民地政府の最大の目的は、より多くの富を効率よく収奪することにあった。最大の収入源は地税であった。その徴収に関しては、政府と農民とのあいだを仲介するものに徴税をまかせ、その仲介者に土地所有権をあたえるザミンダーリー制や、仲介者を排除して農民(ライヤット)に土地保有権をあたえ、農民から直接に徴税するライヤットワーリー制などが実施された。

 植民地下の朝鮮を旅した中野正剛は次のような記事を書いている。→http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953853 (これは朝日新聞の記者をしていたとき[1909-1916]に書いたものとおもわれ、後に『我が観たる満鮮』政教社として出版、大正4年(1915)、p.23〜26)

 由来韓國時代より綿は全羅南道の特産物……総督府も日本全國に於て適産地なき棉花の栽培が、全南に於て好成績なるを見るより頗る興味を催し百方之が奨励に力を盡せり。今や総督府は全南の九分九厘……原料を悉く外國に仰がざる可からざるは、國家の経済を憂ふる者の常に遺憾となす所なり。今総督府が其管轄區内に棉花の適産地あるを知りて、熱狂して栽培の奨励をなすは、是れ實に國を思ふの至情なり。……又棉花の産出増加せしと共に、著るしく蔬菜雑殻の産出を減じ、農民の生活に不便を来せしは、何人も疑はざる所なり。然れども此等は利の害を償ひて餘りあるを以て、多く悲しむに足らすとするも、全南を以て全然棉花の單一作地とするの不可なきや否やは、大いに考慮せざる可らず。由来棉は暖地の産物にして、如何に之を朝鮮にて奨励するも、到底印度に於けるが如き好成績を収入め得べきに非ず況んや歳によりて早寒の憂あるをや。又朝鮮は地勢上自作自給の小農に適し、決して満洲の如く、或單一なる生産をなし、貿易によりて生活するに適せざるを知らざる可らざるなり。
 以上の説、或いは一半は杞憂ならん。然れども総督府が棉花栽培の奨励より一歩を進めて、例の官権万能主義を振廻し、棉花販売施設を行ふに至りでは、吾人は農民に代りて、其弊に堪へざるを訴えざる可からず。
………………………………………
 これを読んで分かるように、日本で栽培がうまくいかない棉花栽培が「全南」ではうまくいく、「熱狂」している日本人にとってい良いが、朝鮮農民にとっては単一栽培を強制されて「不便……堪へざる」状態だと訴えている。インドと同じやり方だ。
 これは次のような文章に現れている。この文章は綿業だけではないが、朝鮮を造り替えるために、綿業が大きい比重を占めたことがわかる。

 三井系統の南北綿業・郡是製糸・東洋製糸・小野田セメント、三菱系統の朝鮮重工業、ニチメン (日本綿花)系統の朝鮮綿花・全南道是製糸、鍾紡系統の鍾淵紡績、片倉系統の片倉製糸、東拓系統の朝鮮煉炭、浅野系統の浅野セメントスレートなどの14の工場が設立された。この数字は以前と比較してはるかに多く、この時進出した大資本の大部分が1930年代にも朝鮮工業の発達を主導していく資本系統となった。(許粹烈『植民地期朝鮮の開発と民衆』明石書店、p.117)

  また米国が真珠湾奇襲の後に「日本の戦略的概観」という調査記録をつくっていて(1942年)、その経済について「対外依存の日本経済」と題して、「朝鮮の綿・毛・石炭・米」と記されている(加藤哲郎『象徴天皇制の起源』平凡社新書、p.103)。朝鮮からの収奪なしに日本の経済が立ちゆかないことをアメリかは知っていた。

(2)コメ
 農業でいえば何より「産米増殖計画」について日本史・世界史を学んでいたら知っているだろう。朝鮮半島の米がなければ日本の食卓を維持することはできなかった。山川の『日本史用語集』ではこう説明している。

 日本国内の人口増加と工業化・都市化による米需要の増大や米騒動で露呈された食糧危機に対応するため、植民地朝鮮で行おうとしたコメの大増産計画。1920年から灌漑施設の拡充、耕地整理の強行による安価なコメの内地移出を目指す(「内地」とは日本のこと──中谷の注)。

 コメに関しては、「供出」という名の収奪も盛んに盛んに行なわれた。『百萬人の身世打鈴』(前田憲二他、東方出版)はこの供出の証言に満ちている。一例をあげる。呉昞權(取材日・1997年9月9日、本藉・全羅南道光州市、現住所・同左、生年月日・1922年1月23日、取材者・沢沼紀子と李義削)さんの証言(p.88)。

 その当時はお米は全部供出させられるので、貧しい人はみんな困っていました。お米は貴重ですから、みんな少しでもとっておきたいから隠しておくんですね。そうすると、警察から人がやって来て、土の中に隠しているかどうか、地面を叩いて調べたり、家中を調ぺたりされて、見つかると、牢屋に入れられたり、拷問を受けたりしました。わたしもそういう光景を見たことがあります。全部供出してしまったら、後は配給になるんです。

 もう一人の高成春(女性)(1996年1月1〜3月、本籍・済州島、現住所・東京、生年月日・1916年10月1日、取材日・菅沼紀子と趙顕洙)さんの証言(p.320)。

 日本人の支配として今でもはっきりと目に焼きついているのは、供出の強制のことだ。芋だとか、豚、牛だとか、何でも持っているものは供出の命令がきて、それに逆らうと殺された。わたしの伯父さん、伯母さんがそうだった。年二回ぐらい、供出を迫られ、良いものは何でも出させられた。わたしの伯母さんの家(お父さんのお兄さんの妻)では警察が10人ばかりやって来て、金目のものから食べ物まで何―つ残らないほど取られてしま った。

(3)土地
 土台となる土地の収奪は東洋拓殖会社(略称は東拓)がやったことも学ぶだろう。併合後の土地調査によって農民に所有地の申告をさせ、日本式の書類に不備があったり申告しない場合、その土地をとりあげる。所有権の設定されていない国有地の農民は代々耕作権をもっていたが、それも取りあげ、これらの土地は日本の国策会社である東拓を設立して吸収した。また日本人地主の小作人への地代、全国民にたいする直接税・間接税の高騰も土地を放棄させる原因となり土地を奪った。日本人が1人移民すると、5人の朝鮮人が流民になった、といわれるほどであった(林えいだい『清算されない昭和』岩波書店、p.24)。

 1910〜35年の間に、日本人所有耕地面積は6万9000町歩から45万2000町歩に6.5倍に増加したし、田面積は4万3000町歩から31万2000町歩に7.3倍、畑面種は2万7000町歩から14万町歩に5.2倍増大した。日帝時代を通じて朝鮮の耕地面積はほとんど変わらなかったので、日本人所有地の急増は朝鮮の耕地に日本人の占める割合が急増したことを意味する。(許粹烈、前掲書、p.296)

(4)課税
 収奪の典型例は英国のインド政策と同じで、課税は徹底していた(朴慶植『日本帝国主義の朝鮮支配・上』青木書店、p.279)。

1 国税──地税、市街地税、営業税、鉱産税、鉱区税、酒税、所得税
2 地方税──地税附加税、市街地税附加税、戸税、家屋税、車輛税、漁業税、不動産取得税、屠場税、屠畜税、市場税
3 府面費──府税(市街地税附加税、所得税附加税、家屋税附加税、車輛税附加税、戸別税、営業税等)
 面費(地税割または市街地税割、漁業割、鉱業割、雑税割、営業割、林野割など)
4 その他──学校費(地税または市街地税附加金、営業割、戸税附加金、家屋税附加金)
 農会費(会費割および地税割)、水利組合費、各種農業組合費

 秋になると、これらの税と借金取りがやってきた。かれらのことを朝鮮農民たちは「鬼」と形容していた。流民にならざるを得ない農民たちは、半島南部のひとたちは主に日本に、北部のひとたちは中国東北に向かった。

(5)金
 また「資源が豊富ではなかった」は「作家」の無知である。
 鉱山資源が豊富だったことは、ウィキペディアの「朝鮮民主主義人民共和国の鉱業」という記事にある。

日本統治時代
 朝鮮半島における鉱業権出願の件数は韓国併合の前年の1909年から急増し、……朝鮮でも1916年に鉱業権の出願数が前年の3.8倍、1917年にはさらにその2倍に増加している。なお、1906年から1919年までの出願件数のうち、日本人は66%を占め、朝鮮人が37%、その他外国人が3%となっている。

 つまり日本人は鉱山資源を求め、「出願」したのだ。朝鮮半島は金の産地として古くから知られていた。

 日本書紀「神代・上」に「素戔嗚尊曰「韓鄕之嶋、是有金銀。……」(すさのをのみことのたまわく「韓鄕(からくに)の嶋(しま)には、是(これ)金(こがね)銀(しろかね)有り。)と(岩波文庫『日本書紀 巻第一』p.100)。ここを中公クラシックス版では「韓郷の島には、金銀が満ちている」と訳している(p.53)。
 文禄・慶長の役で朝鮮に侵攻した加藤清正は、咸鏡道の檜億銀山で銀を製錬し、豊臣秀吉に献上したという。

 「北朝鮮は黄金の国?」という論文(https://www.gsj.jp/data/chishitsunews/06_01_02.pdf)には次のような記事がある。

 1986年(明治29年)のアメリカ人グループによる平安北道雲山郡下の鉱物採掘権取得後は,ロシア・ドイツ・イギリス・日本・フランス・イタリアが,時のコリア政府に競って申請し,鉱山開発に着手した。

 列強が「競って申請」するほどであったのだ。

 日本のドロボーたちの会話を紹介しよう。『東洋文化研究』2号(2000年3月、学習院大学)に朝鮮総督府の高官であった穂積真六郎(1914〜41年、理財課長〜殖産局長)と大野録一郎(1936〜42、政務総監)がインタビューアーの宮田節子・朴宗根・姜徳相にたいして応えている場面(p.75〜76)。

宮田 それから、先生(大野のこと)の時期になって鉱山なんかで問題になるのは金(きん)の問題がすごく出てきますね。何回も何回も、金の問題。
大野 そうそう。金はまあ非常にね、金はとにかく非常にとれましたね。
穂積 これもだけどね。金に困って、整理したのは田中さんになってからじゃない?
大野 ああ、その、整理したのはあるんですか、あと。それは知りません。私どもの時分はは掘らせたほうだから。「25トンにする」と議会政治で大見得を切ったんだけど、出なかった。
穂積 75トン。
大野 うーん。
富田 そうそう。
朴宗根 日本全体の産金額の何%ぐらいだったんですか、それは。
大野 朝鮮のほうがむしろ多いぐらいだったね。あれは……。
穂積 あれはね。実際に金は多いし、それは産金増産計画というのは朝鮮が75トンにして内地は55トンにするという……。
姜徳相 李承晩が「金を返せ」なんていうことを言っているけど(笑)、金を返せ……。

 奪ったものは他にもあるが、おいおい説明していくつもりだ。「資源が豊富ではなかった……メリットがなかった」という文章には、他人の家をのぞいて盗れるものはないか探っている、戦前の日本人と変らぬ卑しい目付きがある。
 「朝鮮半島は…」ではなく、豊富でないのは日本である。戦争を起せば資源が枯渇することが分かっていたので、「収奪」に行ったのは日本ではないか。なにを勘違いしているのか?

欺史作家の『日本国紀』-1

欺史作家の『日本国紀』-1
 一例をあげる。p.327「近代化に大きく貢献した……30年足らずで人口を約2倍に増やした」と書いている。これは『日本国紀』以前に書いた『今こそ、韓国に謝ろう』飛鳥新社にもっと詳しく、次のように述べている(p.47)。 

なんと、朝鮮半島に人口爆発をもたらしてしまったのです。

 併合時、朝鮮人の人口は約1300万人余りでしたが、1942年には2550万人以上にまで膨れ上がってしまいました。ちなみに江戸時代の日本は、260年間かかっても、人口は3倍にも増えていません。わずか30年足らずで約2倍の人口増加というのは世界の歴史でも珍しいことです。
 ……人口の増加も平均寿命の伸びも、自然に起こったものではありません。これらはすべて日本のお節介によって、人為的に引き起こされたものです。

   『今こそ、韓国に謝ろう』ではこの人口増加を誇って何度も言及していて(p.10、146〜149)、さも日本が善政をほどこしやったおかげである、と力説している。
 この「作」家は統計を読むことができず、調べもせず、でたらめな偽説を述べるいる。
 数字の根拠をあげていないが、根拠になっているのは『朝鮮総督府統計年鑑』で、その後の研究も含めて分かっている数字が以下のもの。

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『日本国紀の植民地支配─肯定・賛美を検証する』岩波ブックレット p.31

  「併合時、朝鮮人の人口は約1300万人余り」で、「1942年には2550万人」なら「約2倍」は正しいが、その前に1906年の統計もあり、978万人となっている。つまり1906年から1910年(併合の年)までに335万人増え、1910年から1915年に1596万人になっていて282万人増え、1915年から1920年には1692万人で、増えたのが96万人であり、その後も増え方は100万人前後で、要するに増え方が鈍っている。1906年から1915年までに増えたのが618万人であり、ここが異常なのだ。併合前と併合したばっかりのときが増えすぎていて、「何か変」とおもってもいい数字である。
 表で注意すべきは「男女比率(女100に対する)」という部分。1906年の男女比は女100にたいして117となっていて、不自然な数字である。女を相当数を数えなかったための調査の不備である。だんだんと調査の精度をあげていき、男女比102の比率になったのが1940年の数字だ。
 このように欺史作家がいう「日本支配が人口増加を与えてやった」との主張は怪しい。人口増加説はすでに論破されており、「作家」が無知なだけである。
 上の表をあげた『日本の植民地支配―肯定・賛美論を検証する』 (水野 直樹, 駒込 武他、岩波ブックレット、2001年出版)が何よりの論破である。またscopedogさんのブログ(http://scopedog.hatenablog.com/entry/20081012/1223815346)では、同時期の日本人は1910年が4818万人で、1940年が7193万人。朝鮮と似たような増加率。中華人民共和国の1950年は6億人、2000年は12.7億人になっていて、中国共産党の「善政」であったようだ、とある。
 また「データで見る植民地朝鮮史」
http://www.wayto1945.sakura.ne.jp/KOR10-population.html
でも詳しく説明している。
 欺作者が「約2倍の人口増加というのは世界の歴史でも珍しいことです」というなら証明してみてほしいものだ。最近の言動からは、「証明」なんてさらさらしないだろう。
 また「人為的に引き起こされたもの」というのなら、それを証明する計画書を示してもらいたい。もちろん増加は日本が意図したから増えたわけではない。当時の日本が考えていたのは増加でなく「朝鮮民族の数は少しずつ減少させることが適切である」で、これは「朝鮮統治施策企画上ノ問題案」という文書にある言葉。貴族院で昭和19年11月18日に企画したもので、確かめたかったら、国立公文書館アジア歴史資料センター(http://www.jacar.go.jp)、レファレンスコードB02031286000 の36枚目以降を見よ。ナチスのユダヤ人絶滅計画ほどではないが、周到な減少計画であった。計画の一部は実行している。しかし増加したので減少政策は失敗した。欺作者が誇る「人口増加」は成功例でなく、失策の証明になっている。

駿台大阪校wikiの捏造

駿台大阪校wiki
https://osaka.wicurio.com
というサイトがあり、そこにわたしの紹介が載っています。その「授業」欄に以下のように書いてあります。

授業
前期の初回100人いたはずだか、後期からは6人になった。(2018 京都校)

 わたしは行っていないのに、なぜ駿台大阪校に載っているのかが不思議。それと(2018 京都校)とありますが、10年間ほど前から、わたしが教えている難関国立文系のクラスは定員60人と決められており(少数精鋭とは職員の言い草)、教室もぎしぎし一杯につめても70人くらいしか入らない小さい教室です。なんで100人もはいるのか、空中遊泳しながら受講しているひとがいるのか? その60人のうち40人前後が例年の世界史選択者です。もちろん「6人」に減ったことは一度もなく、4月に入ってきた人数はそのまま受講してきました。私立文系は昨年も今年も4月から10〜20人くらいしか受講しておらず、「100人」がどこから出てきた数字なのか不思議です。
 他のクラスへの出入りが禁止されているのに、こんな数字がどのようにひねり出したのか?
 捏造することに何か意図があるのでしょう。[人物]のところに「現在は第一線を退きつつある」とありますが、「退かせたい」ということでしょう。誰かに嫌われていることを確認することはできます(笑)。
 きっと記事を書いたひとは能力があるでしょう。官僚になって統計不正で貢献できます。ご希望の数字はなんでもでっちあげまっせ。数字は100にしますか? 1000でもいいですよ……。(現在、この捏造くんは、授業の記事を書き換えています)

『練習帳new』への疑問

疑問

「世界史論述練習帳 new」の別冊p.17の「元代の中国文化について、儒学・文学・書画・技術面の発展について60字以内で述べよ。」という問題の解答「儒学では朱子学が普及する。元曲・白話小説がはやり、文人画が完成した。技術ではイスラムの天文暦学・数学・地理が発展した。」についての質問、疑問です。

元代は科挙はあんまり盛んではなく、儒教を身につけた人たちは没落したと習った気がします。だから朱子学も必然的に普及とは真逆に行くと思ってました。なぜ普及したのですか?

………………………………………

 ご質問、ありがとうございます。
 元代に儒学では朱子学が普及したことは、元末の朱元璋が江南の朱子学を信奉する士大夫たちの協力で明朝を建てたことに表されています。
 宋代に偽学として疎んぜられた朱子学がゆっくり元代に広まりました。元朝が科挙を復活させたとき(1315)に採用したのは朱子学でした。このことを知らないひとが多いです。
 朱元璋は建国前に南京を根拠地にしたときに儒者を10人採用してその意見を聞きながら統一していきました。朱子学を学ぶ「義塾」というものが士大夫たちによってつくられ、この義塾ネットワークが江南で発展しました。それが明朝ができると国教化されることになります。
 「元代には儒者が冷遇された」は確かに科挙を初めは行いませんでしたし、また儒者の一人が「九儒十丐(じゅっかい)」と誇張して儒者を卑下したことからきていますが、実際にはけっこう儒者は重んじられました。『授時暦』の郭守敬も儒者です。モンゴル人は中国統治に中国人を使うのが得策と考え、登用しました。中国人からすれば宋代の比ではないから、「冷遇」でしょうが。儒者が重んじられた例は中公新書『大都の春』を読むと分かります。
 またウィキペディアの「朱子学」では以下のように書いてあります。

朱熹の学は、社会の統治を担う士大夫層の学として受け入れられたが、慶元の党禁によって弾圧され、朱熹も不遇の晩年を送った。その後、一転して理宗の時代に孔子廟に従祀されることとなり、続く元代には科挙試験が準拠する経書解釈として国に認定されるに至り、国家教学としてその姿を変えることになった。その結果、科挙で唯一採用された朱子学を学ぶことが中国社会を生きる上での必要かつ十分条件として位置づけられるようになり、反対に科挙から排除された他の学説は一部の「偏屈な人あるいは変わり者」が学ぶものとする風潮が醸成されるようになった。

2019年度再現答案


(再現答案について)
 どんな答案を書いたから合格したのか知ることができないものです。そこで実際に合格されたかたに受験場で書いた答案を、試験が終わってから時間のあまり経過していない段階で再現していただきました。合格者本人から掲載の許可をえています。答案として完全ではありませんが、合格に寄与した答案であることは確かです(もちろん世界史だけで合格できるわけでもないことは言うまでもありません)。ただ予備校の細かい知識を駆使(ひけらか)した答案ではなく、高校生・高卒生が書ける合格答案とはどういうものかを知ることができます。受験場ではカンニングする教科書・参考書・用語集はなく、それまで勉強してきたことを精一杯発揮した貴重なものです。(なお下線の必要な答案に下線が引いてありません)
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東大2019
第1問
帝国は18世紀に露に敗北しクリム=ハン国を奪われた。19世紀初頭にはナポレオンの遠征を撃退したムハンマド=アリーがエジプトで自立した。アフガーニーの提唱したパン=イスラーム主義はワッハーブ派のアラビア半島での国家建設運動を刺激した。東方問題での欧米列強の介入も帝国の解体を促した。ギリシアは英仏露の支援を受けロンドン会議で帝国から独立、2度のエジプト=トルコ戦争後の列強主催の会議では帝国はアリー朝にエジプト総督の世襲を認めた。この間アブデュルメジト1世下の帝国ではギュルハネ勅令発布でタンジマートを開始し富国強兵政策で近代化を進めた。しかし英との通商条約を機に安価な英製品が流入し経済的進出を許し、これもまた帝国の解体を促した。クリミア戦争では帝国は英仏墺の支援で露に勝利したが民衆からの立憲政要求が高まりアブデュルハミト2世はミドハド憲法発布するも、露土戦争勃発で停止された。露土戦争後のベルリン条約ではバルカン三国が独立した。日露戦争での日本の勝利が帝国に伝わると、再び立憲政要求が高揚し青年トルコ革命が起こり、憲法復活で立憲君主制が確立した。帝国は1次大戦で敗北するとセーヴル条約でシリアやイラクなどが英仏の委任統治下となり、フサイン=マクマホン協定に沿って一部がアラブ人の王国として独立した。またワッハーブ派はサウード家と結んでアラビア半島で国家を建設した。対して帝国はケマル=パシャのトルコ革命期に共和政と政教分離が実現して解体が決定的となった。ケマルは不平等条約を改定し、一部領土を奪回、文字、暦革命や女性解放などを行った。
第2問
(1)ヒンドゥー教徒の多い西側とイスラム教徒の多い東側に分割し、両教徒の対立を煽ることで、印全体を支配する英への不満をそらす意図があった。
(2)
(a)ヴィルヘルム2世下の独に植民地化されたが、1次大戦中に日本が占領し大戦で独の敗北後に4カ国条約で日本の統治下となった。
(b)世界恐慌期にブロック経済形成のために英がウエストミンスター憲章を発布したため英の直轄領から自治国へと地位が上がった。
(3)
(a)西晋が弱体化すると高句麗が楽浪郡を占領し、3国が分立した。そのうち新羅が唐と結び高句麗と百済を倒した後に唐を排除した。
(b)唐の都長安の都城の制を模して渤海の都の上京竜泉府が建設され、唐の科挙や儒教、仏教、官僚制、律令制を渤海は取り入れたり。
第3問
(1)世界市民主義
(2)エリュトゥラー海案内記
(3)班超
(4)義浄
(5)ヴォルガ川
(6)スワヒリ語
(7)
(a)プラノ=カルピニ
(b)ルブルック
(8)ジャガイモ、トウモロコシ
(9)キャラコ
(10)ニューヨーク、フィラデルフィア
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一橋2019
第1問
1ハンガリー王国・ポーランド王国、モラヴィア王国。2議会政治。議会では君主は貴族らに免税特権を与える代わりに市民への課税を認めてもらった。イギリスでは、11世紀には王権が強大であったが、ジョン王に発布されたマグナ=カルタがヘンリ3世に無視されると、貴族の反乱が起きその後に身分制議会が開かれた。だが、16世紀ごろから国王は絶対主義的になり、17世紀には国王専制とカトリック政策が行われた。旧教徒らはこれに反発し、2つの革命を経て国王は名目化し議会政治は本格化した。選挙制になり選挙権は拡大し、責任内閣制がとられた。フランスではアナーニ事件を機に三部会が開かれたが、百年戦争以後封建諸侯の関係は整理され絶対王政の幕開けとなった。17世紀以後三部会は開かれなくなる。ルイ14世は財政難に陥ると貴族らを集めて名士会を開いて課税を認めてもらった。仏革命で自由主義貴族に議会政が達成されたが、その後ブルボン王朝は復活した。
(注:11世紀→13世紀、旧教徒→清教徒、ルイ14世→ルイ13世)
第2問
背景は植民地獲得を巡る対立であった。ルイ14世は対外戦争を繰り返した。仏国やスペイン王位継承に乗り出すと、英国はこれに反発し戦争が起こった。北米ではアン女王戦争が起こった。ユトレヒト条約で仏国の王位継承権は認められたが、仏国は英国にハドソン湾など北米の領土を渡した。この頃英国はイングランド銀行を設立して戦争を有利にした。1740年墺継承戦争が勃発すると、北米・インドで英仏は対立した。その後外交革命で仏国はオーストリアと組むと、英国はプロイセンについて七年戦争を戦った。同時期に北米・インドではフレンチ=インディアン戦争、プラッシーの戦いがあった。英国は勝利しパリ条約でミシシッピ川以東のルイジアナとカナダを獲得した。戦費の拡大は英国の植民地への課税を強め米独立革命の契機となった。英国はインドの徴税権を獲得し支配を固めていく。インディアンが条約に参加できなかったことは彼らの権利が認められない風潮を作った。
第3問
1共産党 2五・四運動が契機となって孫文が国民党を結成し、コミンテルンの指導下に中国共産党が成立した。共産党員が国民党に入党することで第1次国共合作が成立する。だが北伐の途上、浙江財閥と組んだ国民党は上海クーデターで共産党と対立し合作は崩壊した。その後張学良が国民党に帰順して北伐は完了した。完了後国民党は共産党を攻撃し共産党は瑞金で中華ソビエト臨時政府を建てた。共産党は大西遷を始める。この頃日本が満州に満州国を建国し中国進出を準備していた。これを受け共産党は八・一宣言で抗日と国共合作を主張した。張学良が蒋介石を監禁してこれらを説くと第二次国共合作が成立した。盧溝橋事件を機に抗日戦争を共に戦ったが太平洋戦争勃発後から合作は崩壊し始め、終了後に国共内戦が再開した。土地改革を実行し民衆の支持を得た共産党が勝利し、49年に国民党が台湾に中華民国を、共産党が中華人民共和国を建国した。(注:第二次国共合作は盧溝橋事件後に成立)
………………………………………
京大2019
第1問
4世紀、マンチュリアは朝鮮半島の三国の一つである高句麗によって支配されていた。7世紀に高句麗が唐と新羅の連合軍に敗れると、マンチュリアンは新羅の一部となった。しかしその後、大祚栄が高句麗の移民を引き連れて渤海国を経てマンチュリアは渤海に支配された。12世紀には女真人の完顔阿骨打が建てた金がマンチュリアで起こり、金に支配された。13世紀には元が金を滅ぼしたことでマンチュリアは元の支配下に入った。14世紀に元が北方に後退し、明が建てられると、明がマンチュリアを支配した。17世紀には満州人のヌルハチが台頭して明を破った。彼は後金を立ててマンチュリアン支配し、後に中国全土を支配するようになった。
第2問
16世紀にポルトガルのヴァスコダ=ガマが東回り航路でインドに到達し、ゴアを拠点として香辛料貿易が始まった。17世紀初めにイギリスのエリザベス女王によって東インド会社が設立された。イギリスはマドラス、ボンベイ、カルカッタを拠点として綿布を交易した。フランスはルイ14世の時代の財務長官コルベールが東インド会社を再建し、ポンディシェリ、シャンデルナゴルを拠点とした。18世紀のプラッシーの戦いで勝利したイギリスはインドからフランス勢力を駆逐した。同世紀後半、イギリスでは産業革命が始まり、インド産の綿花の需要が急激に高まった。また、庶民の間で飲茶の風習が広まり、インド産のお茶が輸出された。

2019年度合格メール

A くん 8日10:16
今発表があって、一橋合格してました!!
本当にラスト一ヶ月の先生の添削あってのおかげです。
それだけでなく、世界史論述練習帳及び基本60字と本当にお世話になりました。
本当にありがとうございました!
本試は数英がぱっとしなかったので、世界史で差をつけれたと思っています。
それとこれからもブログを続けられるのであれば、予備校との戦いを頑張ってください!自分も夏頃は予備校答案を盲信して勉強していたので、先生の本から書き方を習うまでは世界史は苦手教科だと思いこんでました。夏の模試では東大模試の大論述が4点だった記憶があります(笑)秋から論述練習帳の革新的な書き方(使わない単語は最後に使いませんでしたと記すなど)やメモのとり方を習って知識もついてきて徐々にできるようになっていきました。僕と同じような境遇の受験生には先生の本が届いてほしいです。
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B さん 8日12:22
今まで添削していただきありがとうございました!!無事、第一志望の一橋大学社会学部に合格しました。宅浪のため様々な不安がありましたが、添削を受けて自信をつけることができました。中谷さん著書の世界史論述練習帳についていた基本60字が、試験で大活躍でした!今後も悩んでいる受験生に会う機会があればぜひおすすめしたいと思います。本当にありがとうございました。
………………………………………
C くん 8日14:14
先生のとても丁寧な添削、解説のおかげで一橋大学経済学部に合格することができました。
本当にありがとうございました。
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D くん 8日15:56
Dです。一橋大学社会学部に合格したので、報告させて頂きます。世界史は中谷先生のご指導のお陰で大きく差をつけることができたと確信しています。本当にありがとうございました。
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E くん 10日12:34
(東大)受かってました。 感謝しかないです 世界史深いなーと感じるようになったのは先生のおかげです ありがとうございます。
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F くん 10日14:17
駿台京都校LAクラスのFです
京都大学法学部合格しました!
先生に教えていただいたことを大学でも存分に活かしたいと思います!
一年間添削してくださってありがとうございました!
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G くん 10日15:56
京都校のGです
京都大学法学部合格しました!
1年間の添削、ありがとうございました。
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H くん 10日18:17
東大文科2類に合格しました!
短い間でしたが添削ありがとうございました!
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I くん 10日19:05
添削でお世話になった I です。東大に無事合格できました。正直自分は世界史の通史が終わるのが遅く、過去問対策も遅れてしまいました。しかし、先生の添削のおかげで、その短い時間の中で大論述のノウハウを学び、本番に活かすことができました。本当にありがとうございました。
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J くん 10日22:48
東京大学文科一類に合格できました。世界史に関しては先生の添削のおかげで質の高い答案を書くことができたのみならず今後に活かせるような知識も身につけることができました。
ありがとうございました。
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K くん 10日22:48
中谷先生、初めまして!
私は中谷先生の授業や添削を受けていた訳でないのですが、中谷まちよの世界史年代ワンフレーズと先生のセンター世界史各駅停車で学んでセンター世界史満点取れて無事理三に合格できました!!!理系ながらセンター世界史各駅停車は色々な脇道のような話があって楽しく学べました!(アヘン戦争でサルに火薬を取り付けた話とか)先生のおかげで東大合格できましたありがとうございます!
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L くん 13日23:27
京都校LAクラスのMです。
京都大学法学部に合格しました!
中谷先生にはとにかく丁寧に採点していただきました。ありがとうございました。
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M くん 20日22:44
東大の第一問を中心に添削をして頂いていたMです。
報告が遅れましたが、無事東京大学に合格し入学する予定となりました。
お忙しい間も添削を頂き、宅浪のなかこれをモチベーションに学習を進めることができました。感謝しております。
これからも中谷先生の尚一層のご活躍に期待しております。
………………………………………
N くん 4月20日12:36
船橋高校出身のOと申します。
この度、入試結果の報告をさせていただきたく、メールいたしました。報告が遅れてすみません。
一橋大学社会学部に合格しました。
数多くの過去問とその解説を含む先生のブログは僕の合格の大きな助けになりました。
ありがとうございました。