世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史2021

第1問
 ローマ帝国の覇権下におかれていた古代地中海世界は、諸民族の大移動を契機として、大きな社会的変動を経験した。その際、新しく軍事的覇権を手にした征服者と被征服者との間、あるいは生き延びたローマ帝国と周辺勢力との間には、宗教をめぐるさまざまな葛藤が生じ、それが政権の交替や特定地域の帰属関係の変動につながることもあった。それらの摩擦を経ながら、かつてローマの覇権のもとに統合されていた地中海世界には現在にもその刻印を色濃く残す、3つの文化圏が並存するようになっていった。
 以上のことを踏まえ、5世紀から9世紀にかけての地中海世界において3つの文化圏が成立していった過程を、宗教の問題に着目しながら、記述しなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記し、次の7つの語句をそれぞれ必ず一度は用い、その語句に下線を付しなさい。

 ギリシア語 聖像画(イコン) グレゴリウス1世 クローヴィス ジズヤ バルカン半島 マワーリー

第2問
 歴史上では、さまざまな社会で、異なる形態の身分制度や集団間の不平等があらわれている。こうした身分や不平等は、批判され、撤廃されていくこともあればかたちを変えながら残存することもあった。このことに関する以下の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して答えなさい。

問(1) 身分制や身分にもとづく差別の状況は、国家による法整備、あるいは民衆の反乱のような直接的な働きかけだけでなく、社会的・経済的要因によっても左右されることがある。このことに関する以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)·(b)を付して答えなさい。

 (a) 14世紀から15世紀にかけての西ヨーロッパでは、農民による反乱が起こる以前から、農民の地位は向上しはじめていた。その複数の要因を3行以内で説明しなさい。

 (b) ロシアの農奴解放令によって農民の身分は自由になったが、農民の生活状況はあまり改善されなかった。それはなぜだったのかを3行以内で説明しなさい。

問(2) 16世紀後半以降、植民地となっていたフィリピンでは、19世紀後半、植民地支配に対する批判が高まっていた。このことに関する以下の(a)·(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) 小説『ノリ・メ・タンヘレ(われにふれるな)』などを通じて民族主義的な主張を展開した知識人が現れた。その人物の名前を記しなさい。
 (b) 1896年に起きたフィリピン革命によって、フィリピンの統治体制はどのように変化していくか。その歴史的過程を4行以内で説明しなさい。

問(3) 1990年代、南アフリカ共和国において、それまで継続していた人種差別的な政策が撤廃された。このことに関する以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)·(b)を付して答えなさい。

 (a) この政策の名称を片仮名で記しなさい。

 (b) この政策の内容、および、この政策が撤廃された背景について、3行以内で説明しなさい。

第3問
 人類の歴史を通じて、多様な集団が、住んでいた場所を離れて他の地域に移動した。移動の原因は政治・経済・宗教など多岐にわたり、自発的な移動も多かったが、移動を強制されることもあった。こうした移動の結果、先住民が圧迫されることも少なくなかった一方で、新しい文物がもたらされたり、新しい国家が築かれたりすることもあった。このことに関連する以下の設問(1)〜(10)に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(1O)の番号を付して記しなさい。

(1) ユーラシア大陸の東西を結ぶ「絹の道」では、さまざまな民族が交易に従事しており、その中でもイラン系のソグド人は、中央アジアから中国にいたる地域に入植・定住して交易ネットワークを築いた。ソグド人の出自をもつとされ、唐王朝で節度使を務めた人物が755年に起こした反乱の名称を記しなさい。

(2) 北欧に住んでいたノルマン人は、8世紀頃から南方に移動しはじめ、各地を襲撃してヴァイキングとして恐れられたほか、フランスのノルマンディー公国やイングランドのノルマン朝のように新しい国家や王朝を築くこともあった。彼らが地中海に築いた国家の名称を記しなさい。

(3) 9世紀以降、トルコ系の人びとは、軍事奴隷として売却されて、あるいは部族集団を保ちつつ、中東や南アジアに移動して、各地で権力を握るようになった。トルコ系の支配者のもとで10世紀後半にアフガニスタンで成立し、10世紀末から北インドヘの侵攻を繰り返した王朝の名称を記しなさい。

(4) 16世紀以降にヨーロッパの人間が南北アメリカ大陸を征服した結果、この地は先住民(インディオ)、ヨーロッパ系白人、アフリカ系黒人からなる複雑な社会に作りかえられていった。とりわけ中南米地域では、彼らの間の混血も進んだ。このうち、先住民と白人との間の混血の人々を表す名称を記しなさい。

(5) 16世紀までの台湾では、先住民が各地で部族社会を維持していたが、17世紀にオランダ人が進出して、この地をアジア貿易の拠点とした。その後、東シナ海域で貿易活動に従事しながら反清活動を行っていた人物とその一族がオランダ人を駆逐し、この地を支配した。この人物の名前を記しなさい。

(6) カリブ海地域にヨーロッパ諸国が築いた植民地のプランテーションでは、黒人奴隷が使役された。彼らの一部は、フランス植民地で反乱を起こし、自由な黒人からなる独立国家ハイチを築いた。本国は独立の動きを弾圧しようとしたが失敗した。弾圧を試みたフランスの指導者の名前を記しなさい。

(7) 18世紀後半からヨーロッパの諸国は南太平洋探検を本格化し、「発見」した地を支配下においた。その一つにイギリスが領有したニュージーランドがあるが、この地でイギリス人入植者によって武力で制圧された先住民の名称を記しなさい。

(8) 19世紀を通じて、ヨーロッパから多数の人々がアメリカ合衆国に移民したが、19世紀半ばからはアイルランドからの移民が際立って増加した。そのきっかけとなった出来事の名称を記しなさい。

(9) 日本統治下の朝鮮では、土地を失った農民の一部が中国東北部や日本への移住を余儀なくされた。また武断政治に抵抗する人々の一部も、中国に渡って抗日運動を行った。朝鮮での三・一独立運動は鎮圧されたが、この年に朝鮮人は上海で抗日運動の団体を統合してある組織を結成した。この組織の名称を記しなさい。

(10) 1950年代の西ドイツの急速な経済成長の大きな支えとなったのは第二次世界大戦の敗戦で失った地域からの引き揚げ者や、社会主義化した東ドイツからの避難民であった。だが1960年代以降は、彼らの移動が制限されて労働力が不足したため、他のヨーロッパやアジア諸国から大量の労働移民を受け入れるようになった。この移動制限を象徴する建造物の名称を記しなさい。
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コメント
第1問
 容易な問題だなあ、という面と、ややこしいぞ、という面とがある問題でした。テーマとして、また地中海世界かあ、なんど出題すんだ、というばかばかしいような感情と、しかし意外と書けないかも、という受験生への懸念とが交錯しました。
 前者の感情で書こうとおもえば、三文化圏の形成過程を書けばよく、ほぼ流れの問題だ、ということになります。過去問では「4世紀ローマ帝国の特徴(1978)」「9〜10世紀西欧・東ローマ帝国・イスラム世界の対比(1981)」「キリスト教文化圏がイスラム世界からうけた影響(1986)」「10〜17世紀西アジア・西欧・南アジアの体制変化(1991)」「1〜15世紀地中海世界と周辺の文明(1995)」などが類題といえます。一橋では、「4〜8世紀地中海世界の政治的変化(1992)」というそっくり問題もありました。
 しかし懸念になるのは、問いの要求の多さです。①征服者と被征服者との間、②あるいは生き延びたローマ帝国と周辺勢力との間には、宗教をめぐるさまざまな葛藤……摩擦、③3つの文化圏が並存、④5世紀から9世紀、⑤宗教の問題に着目しながら、の5つです。
 ①②の問い方は、「17〜19世紀米大陸での開発・移動・軋轢の差異(2013)」を思い出させます。これは流れととると危ないぞ、とおもわせる部分です。③の文化圏形成はどれくらいの文化の内容を書けばいいのか、指定語句に「ギリシア語 聖像画(イコン)」はビザンツ文化圏について使えばいいものの、他の文化圏はどうか、要求の多さからはあまり内容を詰め込めない、と感じます。④この時間で難しいのは「9世紀」です。なぜ8世紀で止めなかったのか? 800年までならカール大帝で西欧文化圏は完成するのだから、9世紀は余計じゃん? じっさい9世紀のことを書けた予備校の解答例はほとんどありません。⑤はかんたんそうですが、宗教をめぐる葛藤・摩擦は3文化圏とも書けますか? 

 ①②⑤ 西方カトリック世界における葛藤・摩擦は、政治的には侵入したゲルマン人と侵入された旧ローマ市民との対立があり、ゲルマン人はサリカ法典・リブアリア法典があり、もちろん旧ローマ市民はローマ法をもっています。二つの法が共存し対立しました。宗教的には異端のアリウス派をゲルマン人は信じ、旧ローマ市民は正統派です。フランク王国やアングロ=サクソン王国が多神教のゲルマン宗教から正統派に転じたことが、政権を長くたもつ理由でした。東方正教会・ビザンツ帝国ではゲルマン人の侵入は少なく被害はないものの、シリア・エジプトでは単性論が普及して正統派の政府と対立していました。この単性論の地域がイスラーム教支配を受けて入れたのはビザンツ帝国の弾圧を逃れるためでした。ジズヤを払えば「異端」も許されたからです。イスラーム世界では正統と異端(アリー派/シーア派)の対立があり、正統カリフ時代とウマイヤ朝の時期はアラブ人ばかり優遇したアラブ帝国であったため、マワーリーと呼ぶ非アラブ人ムスリムの反発がウマイヤ朝を倒し、アッバース朝を興す一因となりました。つまり民族摩擦もありました。
  文化圏の形成は容易です。クローヴィスの改宗(496、『ワンフレーズ』語呂(以下『ワン』と略称)、クローイ、ほ496)、アングロ=サクソン人は指定語句のグレゴリウス1世が(カンタベリーの)アウグスティヌスを派遣してから改宗がすすみました。アリウス派を信仰していた東ゲルマン人でも、みなローマ教会が浸透します。東ゴート王国やヴァンダル王国は6世紀にユスティニアヌス帝の東ローマ帝国に滅ぼされ正統派が普及しますが、7世紀にはイスラーム世界に入ります。西ゴート王国は遅れましたが、6世紀末(589)アタナシウス派に改宗しています。ここイベリア半島も8世紀からはイスラーム世界です。東ローマ帝国は初めはバルカン半島全域と北アフリカ東部(現在のリビア・エジプト)とシリア・パレスティナ・トルコを持っていましたが、7世紀のイスラーム世界の拡大で、北アフリカ全域とイベリア半島の大半が支配下にはいりました。それでもイタリア半島ではヴェネツィア市とナポリのある南部、シチリア島はまだ持っていました。予備校の中には帝国の支配地域を「東ローマ領はバルカン半島とアナトリアに限定され(S)」と書いたものがありますが、これははミスです。まだシチリア島を含む南イタリア・サルデーニャ島も持っていました。シチリア島にはいまだにギリシア語を話す地域が散在しています。今はグリコ語とよんでいる言語です。シチリア島の住民に本土ギリシアと同じDNAを持っているひとが多いのもうなずけます。もともとマグナ=グレキアの地ですから(グレン G.ストリックランド著『人類はいつどこで生まれたか』ブルーバックス、講談社)。
 このキリスト教世界である二つの文化圏は、西方のローマ教会の公用語でもあるラテン語、カロリング=ルネサンスとともに発展したカロリング小字体があります。東方は、ユスティニアヌス帝がラテン語とギリシア語のローマ法大全を作成し、テマ制をさだめたヘラクレイオス1世がギリシア語を公用語に変え、レオン3世が聖像崇拝禁止令を出しても結果は、聖像(イコン)重視の教会になりました。
 地中海世界南部はローマ帝国領でしたが7世紀にイスラーム世界に変貌しました。 642年にエジプトに入り、700年丁度にモロッコに到達しています。イベリア半島も征服して、この半島にもイスラーム文化圏に入ります。
 支配者の言語たるアラビア語は、それまでの国際語アラム語やラテン語に代わって普及します。知恵の館(バイト=アル=ヒクマ)ができ、まさにイスラーム文化圏の要になります。教科書では「ハールーン=アッラシードは、バグダードにギリシア語の文献を集めてアラビア語に翻訳する機関をつくり、マームーンの時代になるとそれは「知恵の館」(バイト=アル=ヒクマ)とよばれる機関に発展した。そこでは、組織的、網羅的に、……(東京書籍)」とあり、 「9世紀」のマームーン(813〜833年)は830年に「知恵の館」と名付けています。この館から「外来(異民族起源)の学問」が入ってきて広い学問領域ができあがります。
 ④⑤この「知恵の館」は9世紀にできましたが、このことを書いた答案は予備校の解答例には見られませんでした。一橋のように800年(カール戴冠)で閉めないで、「9世紀にかけて」と9世紀まで伸ばした理由は何かあるはずです。合格者の再現答案には書いてあります(→こちら )。
 西欧の場合は半島におけるレコンキスタを書いた答案は皆無でした。この宗教対立は「摩擦」でもあり、なぜ書かないのか不明です。レコンキスタはカール1世の半島進出から開始しており(801年のバルセロナ占拠)、半島の北端のキリスト教国(アラゴン、ナバーラ、アストゥリアス王国)も反撃しています。このレコンキスタが本格化するのは後ウマイヤ朝が滅亡する11世紀ですが、スタートは9世紀に切られています。
 また9世紀のビザンツ帝国におけるブルガリア王国(帝国)との対立も書いたものがなかった。これは細かいので書けなくてもいいてずが、チュニジアに興ったアグラブ朝のシチリア島侵入(821)も書かなかった。このアグラブ朝は細かいので、これも書けなくてもいいてすが。といってこの征服は教科書に書いてないわけではない。東京書籍に「9世紀以後、シチリア島はイスラーム勢力の支配下に置かれた」とあります。地中海が「イスラームの海」になったとこの出来事から言うようになります。このように9世紀はキリスト教側とイスラーム勢力の攻勢と逆襲が交錯している世紀でした。
 
第2問
問(1)(a) 今年の共通テストの第3問Aにデカメロンの文章とともに、「病に関する説明」として「Y 西ヨーロッパでは、この病が一因となり、農民の人口が激減したため、農民の地位向上につながった」という正文を選ばせています。「反乱が起こる以前から」とは正に黒死病であり、黒死病が1348年(『ワン』黒死病、悲1惨3死4や8)前後がひどかったので、その後にジャクリーの乱(『ワン』ジャック、貧1358)やワット=タイラーの乱(『ワン』ワッ鯛だー、父1さん381ンで)が起きてきます。地位向上の要因は、病気の流行と病死の増加の結果、人口激減となり、生き残った農民の労働力の価値を高めたため、労働条件をめぐって領主と争うことができるようになりました。歴史物語としてこの黒死病と農民の賃金高騰を分かりやすく説明してくれるのはケン・フォレット著『大聖堂─果てしなき世界』ソフトバンク文庫の中巻の後半から・下巻前半に14世紀のイギリスの実例が書いてあります。1ペニーだった賃金を2ペニーに上げて農民を募集した女子修道院院長カリス、逃げた農民夫婦ウルフリックとグヴェンダ、逃げた農民を追いかける領主ラルフなどが登場します。
 この病気の他に要因としては、イギリスに限りますが、物語のように貨幣地代の普及があります。生産物地代ものこっていますが貨幣地代に移行していきました。生産物地代だと保存のきく穀物を指定されて自由な農産物を生産できませんが、貨幣地代なら市場で売れるものをつくて貨幣に換え、それを領主(地主)に納めたらいいので、自由度が増します。領主と農奴の関係は次第に地主・小作という純粋に経済だけの関係へ、支配・隷属の関係から契約的な関係へと移りました。
 原因として生産増加をあげた答案例「農業生産力が高まり商業と都市が発展すると貨幣地代が普及して農民の経済力が上昇(S)」というのがあります。「14世紀から15世紀にかけての西ヨーロッパでは、農民による反乱が起こる以前から」という時間条件の下ではさかのぼりすぎの感じがあります。農民の地位は11世紀から15世紀までずっと向上してきたのでしょうか? 貨幣地代が確定するのはイギリスで14〜15世紀であり、それまで賦役(労働地代)から生産物地代へとゆっくり、地方によって違いも含みながら変化していた、ととるのが妥当なところです。上で「イギリスに限りますが」と断わったのは、フランスでは15世紀に貨幣地代への天下が生まれますが、その後は続かず元にもどります。この設問の「西ヨーロッパ」全体を網羅する答えは厳密にはありません。

 (b) ロシア農奴解放令の限界を問う問題。「農民の身分は自由になったが、農民の生活状況はあまり改善されなかった。それはなぜだったのか」と問うています。これも複数の原因があります。①肥えた土地は地主がとり、痩せた土地を与えられ、有償であったこと。②国から借りた支払い代金(賠償金)は、年利6%で返さなくてはならなかった。6%はそれほど高くはない利子ですが、痩せた土地で返せないので、地主の土地を借りて小作しなくてはならなかったこと。③私有は許されず、個人として土地をもらったのでなくミール(農村共同体)としてもらい、支払いは連帯責任であること。④したがって移動の自由は認められず、農閑期の出稼ぎに働きにでても収入の一部は、帰郷して旧地主である村長に支払わなければいけなかった。つまり農奴ではなくなったが、大きい負債をかかえた小作人(雇役農)になった、といえます。

問(2)(a) 小説『ノリ・メ・タンヘレ(われにふれるな)』の著者はたいていの教科書にのってます。宗主国スペインのマドリード大学に学び、軍医となったホセ=リサールは、その運動から「フィリピン独立の父」と崇められています。スカルノが宗主国オランダに留学して独立運動を展開するのと似ています。ホセ=リサールは中国人とフィリピン人の混血(メスティーソ)で、母方は日本人とスペイン人の血が混ざっているそうです。

 (b) 「フィリピン革命によって、フィリピンの統治体制はどのように変化していくか。その歴史的過程を」というもので、ポイントは「政治体制の変化」です。
 スペインの植民地ということは王政の絶対主義的支配であり、南米の支配がそうであったように、総督を派遣して半島者(ペニンスラール)を官僚として統治することです(スペイン総督領)。しかしフィリピンはスペイン本国から遠く、移民が少ないためにクリオーリョ(植民地生まれの白人)も少なく、スペイン人と現地人の混血をメスティーソといますが、スペイン出身だけでなく、中国人(華人)とフィリピン人(タガログ族他=インディオ)との混血もメスティーソと呼びます。もちろんスペイン系との混血が地位は高く中国系・現地民系メスティーソは蔑視され迫害されました。
 ホセ=リサールはベルリンで『ノリ・メ・タンヘレ』を出版し(1887)、スペインの腐敗を厳しく批判しましたが独立を求めるところまでは行っていません。しかしスペインは批判を許さず投獄します(後に銃殺)。アンドレス・ボニファシオ(孤児、出身不明)のほうは独立を追求する秘密結社カティプーナンをつくり、武装闘争を展開、マニラ近郊のカビテ州を制圧した仲間のエミリオ・アギナルド(中国系メスティーソ)が勢力をもち、社会改革をも求めたボニファシオと対立、かれの一派を処刑します。アギナルドは「フィリピン共和国」の独立宣言をだしたものの、巻き返してきたスペインと改革の約束をし香港に退却します。1898年になって米西戦争で、亡命していたアギナルドが米軍の支援の下に帰還し、革命政府をたちあげたが、米軍はアギナルドとの関係をたちマニラ市に入城させなかった。そのためアギナルドは近郊の都市を首都として「フィリピン共和国」(マロロス共和国)樹立宣言をだします。しかしスペインとパリ条約を結んで買収、領土支配権をえたアメリカがアギナルドと戦い「フィリピン・アメリカ戦争(比米戦争)」に入り、捕まったアギナルドは米国に降伏し忠誠を誓い、停戦となります。フィリピンはアメリカ領となったが、アメリカの市民権はあたえられませんでした。主人がスペインからアメリカに替わっただけでした。
 政治体制の変化は、スペイン絶対王政の支配する植民地から、アギナルドの「共和国」に一時的に変わり、これを否定した共和政アメリカ合衆国の植民地に変わりました。後に日本はこのアメリカ合衆国のフィリピン支配を認めるかわりに、朝鮮支配を確定すべくポーツマス条約(1905年9月)を結ぶ前に「桂・タフト協定」(7月)を結んでいます。

問(3)(a) 「人種差別政策の撤廃」に関する易問でした。アパルトヘイトは法的には南ア戦争終結後から徐々に法整備がされていき、牧師のマランが第二次世界大戦後の選挙(1948年)に勝利して確定したものです。この牧師はカルヴァン派ユグノーの子孫で人種差別は神の意志と確信している男でした。ヒトラーを模範と仰いだ人物です。
 (b)「政策の内容」と「撤廃された背景」と二つの問い。内容は市民権(選挙権・被選挙権、思想、居住、教育)の剥奪、行動の自由も制限し、強制移住もすすめました。1990年まで維持された原因は、西欧人のもつキリスト教的人種観が根強く、イギリスに伝統的な分割統治策があったこと。国際的にはレアメタルを得るために先進国による投資の援護があり、西側は冷戦を戦うために政策を否定しにくい状況であったこと。西側の先進国は撤廃に消極的だったこと。日本人は特別待遇を受け、日本は南アフリカの最大の貿易相手国となって体制維持を助けた、という面もありました。日本人は「名誉白人」だそうです。このように撤廃の原因を問うより、なぜ長く保持されてきたのか、ということのほうが世界史的な重要な設問です(一橋1987-2)。
 撤廃の背景は「1980年代に冷戦が緩和」してから「国内の反対運動も激化」ではなく、以前からビコ蜂起(1968)、ソウェト蜂起(1976)と大きい運動があります。なかなか功を奏しなかったものの執拗な反対運動がありました。イギリス本国の反対は、本国から独立してでもこの政策を維持したいと南アフリカ連邦の成立になりました。国際オリンピック委員会も止めるよう勧告をだしています。アフリカのサッカー選手によるボイコットもありました。次第に先進国による経済制裁も実施されようになりました。国連の反対声明もありました(1988)。こうした多方面の非難がデクラーク大統領によるマンデラの釈放(1990)に結実します。

第3問
(1)〜(8)・(10) 容易なので解説なし。
(9) 問題文の解説。「日本統治下の朝鮮では、土地を失った農民」の原因は、土地調査事業を日本がおこない、申請書や報告のない土地を東洋拓殖会社(東拓と略称)が全部(2億3400万坪)とりあげ、移民してくる日本人に安く売りさばき、日本人地主が課す多種の納税と小作料が納められなくて土地喪失に陥ったためです。日本人が1人移民すると、5人の朝鮮人が流民になった、といわれるほどでした(林えいだい著『清算されない昭和』岩波書店、『〈写真記録〉筑豊・軍艦島―朝鮮人強制連行、その後』弦書房)。
 「日本統治下の朝鮮では、土地を失った農民の一部が中国東北部や日本への移住を余儀なくされた」……ここに書いてある日本への移住者は強制連行されたものも含めて約200万人に達します。
 「武断政治に抵抗する人々の一部も、中国に渡って抗日運動」……北朝鮮から中国に入るさいに流れている国境線の川が豆満江ですが、この豆満江の北側に位置する間島(かんとう)が朝鮮人居留区で、吉林省の東部を構成しています。こ間島が抗日ゲリラの活動地でもありました。日本陸軍第19師団の活動地でもあります。
 「朝鮮での三・一独立運動は鎮圧された」……約7500人の一般人・学生が射殺され、学校・教会が燃やされました。
 「この年(1919)に朝鮮人は上海で抗日運動の団体を統合してある組織を結成した」のが大韓民国臨時政府で、最近は用語の頻度が上がっています。2014年発行の用語集では頻度1だったのが、2018年改訂では6になっています。その解説内容も少し変わっています。14年のは「1919年4月、三一運動を継承するため、上海で樹立宣言された政府。列強への依存度が高く、まもなく有名無実となった。初代大統領は李承晩。」とあり、18年改訂のは「1919 三・一独立運動後、上海で設立された政府。初代首班は李承晩。弱体ながらも第二次世界大戦後まで存続したが、進駐したアメリカ軍により事実上解体された。」
 このうち14年の「列強への依存度が高く」はウィキペディアでも「活動」という項目で「中国国民政府の蒋介石の庇護……資金援助を受け……アメリカ戦略事務局(OSS)と協約を結んで」と戦争中の特高が調べたような感覚で書いています。特高や憲兵・密偵に狙われている下で活動するのがいかに困難なことか。「列強への依存度が高く」を非難として書くのであれば、なぜ日本に頼ったインドのチャンドラ=ボースや民国復帰をねがう孫文の支援者たる梅屋庄吉・宮崎滔天・頭山満などを褒めているのか? また第2問に関連するフィリピンのアギナルドも日本・米国に武器を頼ったことをなぜ軽蔑しないのか。 
 ウィキペディア日本語版が歴史修正主義者の巣窟になっている実例をあげましょう。「大山事件」の事項です。記事を否定する内容のものが、今はブログや書籍で出ているにもかかわらず、ずっと修正なしでいます。戦前に言っていたことをそのまま繰り返しています。参考文献としても外部リンクとしても、否定史実を挙げていません。挙げるべきは、次のようなものです。たぶん知っていながら無視を決め込んでいるのです。
①千葉仁志著『日中戦争 帝国陸海軍全作戦 (秘蔵写真で知る近代日本の戦歴』フットワーク出版社 1992年
https://blog.goo.ne.jp/akebonobashi1937/e/b64a4344e27b74db7025f844429f31e3
「大山中尉射殺事件」で衝撃的な証言が(2008年)
https://scopedog.hatenablog.com/entry/20120821/1345562162
謀略だった「大山中尉殺害事件」(誰かの妄想・はてなブログ版)2013年
④笠原十九司著『海軍の日中戦争:アジア太平洋戦争への自滅のシナリオ』(平凡社) 2015年 ……とくに④は大山中尉が「射殺されに行った」ことをいろいろな角度から立証しています。「北支」事変を「支那」事変(日中戦争)に拡大するための海軍の謀略でした。