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世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

一橋世界史2008

第1問
 西ヨーロッパでは11,12世紀の経済発展により、遠隔地商業が盛んに行なわれるようになった。13世紀から17世紀初めのハンザ同盟の活動について、担い手、地域、交易品、そして衰退の理由に触れつつ、同時代の東方(レヴァント)貿易と対比して論じなさい。(400字以内)

第2問
 以下の設問に答えなさい。
問1 1898年のアメリカ=スペイン戦争(米西戦争)の原因を述べなさい。(100字以内)

問2 米西戦争がフィリピンの独立運動に与えた影響を述べなさい。(150字以内)

問3 米西戦争以後、アジア太平洋の国際関係への関心を強めたアメリカの、太平洋戦争(1941-45年)開戦にいたるまでのアジア政策を述べなさい。(150字以内)

第3問
 次の文章を読んで、問いに答えなさい。
 日露戦争を機に、日本は朝鮮(韓国)に対する支配を強め、戦争の終結から5年目に当たる1910年には朝鮮を植民地化した。以下に掲げる史料1~2は、この時期に日本・韓国両政府の間に結ばれた重要な取り決め(条約)であり、それぞれ、その一部を示したものである。

〔史料1〕 1904年2月23日調印、 日韓議定書
第3条 大日本帝国政府ハ大韓帝国ノ独立及領土保全ヲ確実ニ保証スル事
第4条 第三国ノ侵害ニ依リ若クハ内乱ノ為メ大韓帝国ノ皇室ノ安寧或ハ領土ノ保全ニ危険アル場合ハ大日本帝国政府ハ速ニ臨機必要ノ措置ヲ取ルヘシ而シテ大韓帝国政府ハ右大日本帝国政府ノ行動ヲ容易ナラシムル為メ十分便宜ヲ与フル事
大日本帝国政府ハ前項ノ目的ヲ達スル為メ軍略上必要ノ地点ヲ臨機収用スルコトヲ得ル事
〔史料2〕 1907年7月24日調印、第3次日韓協約
第1条 韓国政府ハ施政改善ニ関シ統監ノ指導ヲ受クルコト
第2条 韓国政府ノ法令ノ制定及重要ナル行政上ノ処分ハ予メ統監ノ承認ヲ経ルコト
第4条 韓国高等官吏ノ任免ハ統監ノ同意ヲ以テ之ヲ行フコト
第5条 韓国政府ハ統監ノ推薦スル日本人ヲ韓国官吏ニ任命スルコト

問1 日露戦争開戦後に日本の朝鮮に対する支配の強化はどのように進んだのか、戦争後にそれはどのようにして植民地化(「韓国併合」) へと進んだのか、また、こうした日本の政策に対する朝鮮内部における反応はどのようであったのか、説明しなさい。(200字以内)

問2 清朝政府は同じ頃「光緒新政」といわれる一連の制度改革を実施した。この「新政」の重要な項目を二つ以上あげてその結果も述べなさい。(200字以内)


コメント
第1問
 「対比」とは比較して相違点を表わすことです。一橋の過去問では比較させて相違点(違い)を求める問題形式は多い方でしょう。以下の問題が実例です。
 空間革命の内容をそれ以前の空間意識と対比しながら経済、政治、文化の諸側面について説明せよ。(1982)
 第二次世界大戦における日本、ドイツ、イタリア三国の敗戦過程の特徴を比較しながら説明せよ(1983)
 アメリカ独立革命とフランス革命とを比較し、共通点と相違点とを述べよ(1985)
 三時期のうち(1)と(3)とでは、食糧増産に結びつく農業の制度的ならびに技術的変化にどのような基本的相違があったか、述べなさい(1996)
 両国の政治・社会状況のいかなる違いによるものか(1998) 
 両国の人口変動で最大の違いは何か、またこの違いが生じたのは、両国の政治・社会状況のいかなる違いによるものか、説明しなさい。(1998)
 フランス民法典と比較しつつ、1870年から1900年までの政治的・社会的状況を説明しなさい(1999)
 この二つの改革の相違点を説明しなさい(2003)
 ドイツとイギリスそれぞれにおける宗教改革の経緯を比較(2004)
 近代の議会との違いに留意しながら具体的に(2005)

 比較することは意外と難しいようで、わたしがこのHPの参考書のコーナーで批評している論述本のほとんどは比較ができていない、という弱点をもっています。拙著『世界史論述練習帳 new』の最後に「比較しなさい」という方法論をもっていったのも、これが困難な思考であるからです。しかし本番ではよく問われるかたちです。比較することで似た現象の違いが判明し、歴史事象の独自性を明らかにできますから、歴史学ではよく使われる方法であり、論述問題として出題されるのは不思議ではありません。しかし比較の書き方・思考法を書いた参考書なり、訓練の場はほとんどありません。それでいて受験場では問われます。いくら長いこと世界史の教師・講師をしていても、この練習をしていないと進歩がありません。この思考方法を習得したら受験生の方が優れた答案を書きます。今年(2008)の問題で、拙著の方法で、ノートの真ん中にタテの線を引き、左右に4項目が対比的に書いてあるのか、予備校の答案をピックアップしたら、その出来具合が明快に出てきます。たとえ内容にまちがいがなくても対比していない答案は得点がありません。やってみましょう。この問題のテーマは易しいものでした、できているはずですが……   

(K)  <ハンザ同盟>     <東方貿易> 
担い手 ドイツ人都市     イタリア商人 
地域  北海・バルト海    地中海 
交易品 木材・海産物…日用品 香辛料など奢侈品 
衰退  オランダ商人が台頭  ※1  
    商業革命・重商主義政策  
(S-1) 
担い手 北ドイツの諸都市   イタリ諸都市の商人 
地域  北海とバルト海    ※2 
交易品 安価な日用品     東方産奢侈品
衰退  オランダ商人やイギリス商人の進出          
              オスマン帝国の地中海進出
    領邦勢カの拡大・重商主義政策      
              新大陸市場の出現とインド航路の開拓 
(Y) 
担い手 加盟市        北イタリア 
地域  北ドイツ、北海・バルト海一帯   
               地中海東岸地方
交易品 生活必需品      奢侈品を輸入
衰退  同盟内対立      ※3  
    オランダやイギリスの台頭   
    絶対主義国家の発展 
(T) 担い手(諸都市名を列挙)北イタリア諸郡市
地域  北海・バルト海域   東地中海地域
交易品 生活必需品      奢侈品
衰退  オランダ商人やイギリス商人の進出 ※4
    領邦内諸都市への圧迫  
    英露の重商主義政策  
    都市内部での商人と手工業者との対立

 これで一目瞭然、衰退理由のところ ※1、※3、※4に答えがありません(S-2は上にあげてないですが、ここでも理由は書いてありません)。ハンザ同盟の理由だけに集中しています。「担い手、地域、交易品」だけ対比して、理由は対比しなくていいとは問題文からは読めません。「論じなさい」とあるのに逃げてしまった。的中にうつつを抜かさないで、まともな解答を作成することが務めではないか? たとえ問題が的中したとして学生がまともな解答を作成できるかは未知数ですし、まして教師たるひとたちがまともな解答が作成できないのなら、生徒たる受験生はできないでしょう。初めの三つの対比は容易であり、ここで点差が開くというキーポイントで逃げたら何のため金をとっているのか。再現してくれた受験生の答案は対比は不十分としても逃げていない(→こちら)。
 ※2は理由を書いていますが(この解答の正否は後で説明)、「ムスリム商人を介して」とだけあり地域名をあげなくてはならないのに書いてありません。「ムスリム商人」は担い手ともとれますが、そうするとやはり地域名が書いてありません。問題文に「東方(レヴァント)貿易」とあり、このレヴァントが地域名を示しているので書く必要はない、というのでは採点を無視しています。「地域」を書くように要求している以上、得点になるのであり、一橋はこのレヴァントの意味が受験生に分かっているか知りたくて出題したととれます。 

 『練習帳 new』の別冊 「基本60字」p.47に「12 北ドイツの都市と北イタリアの都市の違いについて、その商業圏と商品から説明せよ。指定語句は、北海・香辛料(右頁に答えと解説あり)」とある易問です。京大の過去問(1995)にも類題がありました(11─14世紀のヨーロッパの遠隔地商業について、主な商業圏とその代表的都市および商品を挙げて、200字以内で論述せよ)。  もっともかんたんな交易品の対比は、どの解答例も、日用品(生活必需品)と奢侈品としてしか書いていませんが、ハンザ同盟があつかう商品は重量が重く単価は安く近郊で取れるものばかりです。東方貿易があつかうものは、軽くて高いものばかりです。高い理由は近郊で取れるものでなく見知らぬ世界から何人もの手をへて西欧に到達するアジアの商品です。こうした対比を書いたものは皆無でした。 
 さて、問題の衰退理由の対比についてです。唯一書いている解答で、この部分は、「東方貿易はオスマン帝国の地中海進出や15世紀末以降の新大陸市場の出現とインド航路の開拓がもたらした商業革命で衰退に向かったがハンザ同盟はオランダ商人やイギリス商人の進出、ドイツにおける領邦勢力の拡大、絶対主義諸国が進めた重商主義政策などによって衰退し、17世紀初めには事実上活動を停止した」とあります。
 内容としては、ほぼまちがいは認められないですが「対比して」いるかが問題です。東方貿易は、オスマン帝国の進出と商業革命で、ハンザ同盟は蘭英の進出、領邦、重商主義政策としています。外国勢力(オスマン・蘭・英)の進出という点では共通点を書いています。国の名前がちがう点は買ってくれますが、得点は小さいでしょう。「領邦勢カの拡大」は国内(ドイツ内)のことがらで、東方貿易の担い手たるイタリア内部のことはどこにも書いてありませんから対比は成立していません(書くとすれば、都市間戦争・傭兵依存)。「絶対主義諸国が進めた重商主義政策」も外国勢力の動きで、これが「商業革命」とどう対比しているかがハッキリしません。重商・商業という点では類似点でしょう。
 ハンザ同盟の衰退理由は三十年戦争中の都市破壊・略奪があります。これをあげているのは(K)(S-2)です。これに類似したものはイタリアの場合はイタリア戦争(1494─1544)です。教科書に「イタリア戦争によってイタリア諸国家は衰退」(山川の『新世界史』)とあります。「イタリア各地の没落や混乱は“イタリア戦争”と一体のものであった。イタリア戦争とは立ち直る暇のない戦争の連続を意味した。」(永井三明著『ヴェネツィアの歴史─共和国の残照』刀水書房、p.41)。イタリア戦争を解答にあげた答案は見られません。三十年戦争は新旧の宗教戦争でしたが、イタリア戦争は入ってくる国も入られた地域も旧教です。また三十年戦争が終わるとドイツは次第に回復して領邦の台頭となりますが、イタリアは3分の2がスペインの支配下に入り、戦後の圧政は過酷をきわめ衰退します。前掲書はナポリ王国の例として、「最も貧困な者にも課税され、“窓”に対しても税金を課したほどだった。それが払えぬとなると屋根をはがしてその売却金を税にあてるにいたった。“王国は完全に荒廃し、地方は奈落の底に堕ちた”と当時の人は訴えている。スペインの牧羊奨励政策によって土地を追い立てられた小作農は土地を喪失したばかりでなく、生活必需品の苛酷な専売制によって逃亡をよぎなくされてナポリ名物の乞食になり果てるか、山賊に転落せざるをえなかった。」(p.37-38)と描いています。このスペイン人の圧政はラテンアメリカでも繰り返されました。 
 しかし東方貿易は完全に衰えることはありません。ドイツは少しずつ復興するとしてもハンザ同盟の復活はありません。スペイン支配を受けなかったヴェネツィアは健在で、18世紀末のナポレオンがイギリスの東方貿易を絶つために遠征したように、商業革命の影響は少なく(アメリカ大陸との距離が大西洋岸だけ有利でイタリア半島だけ遠いということはない)、中世末ほどの繁栄は取り戻せなくても東方貿易は盛んでした。 
 カピチュレーションを指摘して東方貿易の担い手たる北イタリア諸都市に圧力がかかったことを指摘した答案もありません。フランソワ1世とスレイマン1世とのあいだに結ばれた協定(1535)によって、オスマン帝国内の市場にフランス人商人は自由に出入し、代理人の駐在や倉庫・商館を設置し、重要な市場に領事をおく権利を得たのです。この協定の効果はじわじわと現れ、1560年代には、「過去には、われわれは香料、薬種、獣皮、綿をヴェネツィアから手に入れることを強いられた。しかし、今では王国は完全にマルセイユから供給されている」(前掲書、p.51)となりました。ハンザ同盟の場合は、各地にあった商館が現地の国の政策で閉館をせまられていき、かつ同盟の会議も開かれなくなって息の根を止められます(このホームページ→疑問教室→西欧近世史Q16)。イタリアのようにイスラーム側の影響がハンザ同盟にありません。むしろアジアとむすびついた西欧諸国が繁栄し、アジアまで手を伸ばせなかった同盟は存続できませんでした。

第2問
問1 ラテンアメリカに関する一橋のラテンアメリカ問題(1980-1 1990-2 2003-2(2))はそれほど多くはないですが、「米西戦争」は論述としてはよく問われるテーマのひとつです。拙著『練習帳 new』巻末「基本60字」」に二つの問題が載っています(p.70-71)。以下がそうです。

6 19世紀から第一次世界大戦まで、合衆国はラテン=アメリカの歴史にどのような影響をおよぼしたか(120字)。 (指定語句→)モンロー宣言 米西戦争

7 米西戦争(アメリカ=スペイン戦争 1898年)の結果は、その後のアメリカ合衆国の対外進出にどのような影響を与えたか。(指定語句→)太平洋 門戸開放  

 またまた京大の過去問(1991)に今年(2008)の問1・問2の類題がありました。 

 米西戦争(アメリカ=スペイン戦争 1898年)の結果は、その後のアメリカ合衆国の対外進出にどのような影響を与えたか。東西両半球を視野に入れ、具体的事例を示して150字以内で説明せよ。  

 戦争の原因。直接的原因(近因)は戦艦メイン(メーン、Maine)号爆沈事件であり、マッキンレー大統領の民主党に中間選挙で勝つための選挙対策、これをスペインのせいと決めつけたジャーナリズムです。背景的(遠因)にはこの戦争以前から起きていたキューバ独立運動(ゲリラ闘争)の支援、国内的にはフロンティアの消滅による「海のフロンティア」への進出を求めた経済界の要請、スペインの圧政に対する人道的支援という名の米国の派兵熱があります。経済界の要請とは、年1億ドルの取引があり、砂糖とタバコ・プランテーションに5000万ドルの投資をしていました。経済界にはこの資産が失われる心配もあり一部は戦争に反対していました。  戦う気のなかったスペインはかんたんにいくつもの島(フィリピン・グアム・プエルトリコ)を占領されました。

問2 「米西戦争がフィリピンの独立運動に与えた影響」ということは既に独立運動は始まっているという前提での影響です。対西が対米に変わった、ということを書けば済むことですが、150字の字数は圧力です。ある程度は説明しなくてはならない。字数も課題の一つですから。 
 まず対西の戦いは米西戦争以前からあること、その例としてフィリピン人神父3名の処刑(1872)が民族運動を喚起し、ホセ=リサールのつくった非暴力運動団体のフィリピン同盟結成(1892)、このホセ=リサールが逮捕されたためボニファシオが結成した暴力闘争組織のカティプナン同盟(1892)、この組織との関係を疑われたホセ=リサール銃殺(1896)、カティプナン同盟の指導者となったアギナルドの対西闘争と亡命、アメリカの援助(策略/だまし)で帰国し(1898),独立宣言を発して大統領に就任(マロロス共和国、1899年6月)、これを無視して米軍の上陸(8月)と占領に対する抗戦(米比戦争/フィリピン・アメリカ戦争/アギナルドの反乱、1902年まで)、これを鎮圧するとともに独立運動つぶしのためにの容疑者を拷問にかけて殺していきました。帝国日本が米国の行動を承認(桂・タフト協定、1905)といったところですが、判る範囲で書けばいいです。
 最後に出てくる米比戦争は、もちろんフィリピン側の言い方で、当時の米大統領マッキンレーは独立を求める者たちを騒乱をおこす犯罪者とみなし、「比(フィリピン)」を国家として認めない弾圧を加えました。戦争の初めから批判していたマーク=トゥエインのような知識人は別(『地獄のペン』平凡社※)として、この米西戦争とフィリピンの弾圧を米国人は歓迎しました。しだいにその弾圧のひどさが報道されると支持は低くなっていきます。この辺りは合衆国がなんども繰り返すパターンです。「メイン号を忘れるな Remember the Maine!」と初めに叫んではじめた戦争ですが、過去は忘れて過去を繰り返すのが合衆国の病気です。この忘れっぽい国民につける薬はないようです。

※ われわれはフィリピン人を解放したのではなく、征服したのである。……従属を強制するのが目的だった。(p.22)

 現在のフィリピンは、数10人のプランテーションを経営する大地主が、国土の半分以上の土地を所有しており、約8000万人のフィリピン人のうち約40%が、1日100円以下の収入で生活をしています。国連の調査でも貧富の格差は東南アジア第一です。この貧困はキリスト教徒であるスペイン人支配がもたらし、アメリカ人支配に変わっても変わることがないものでした。スペインは支配地域に市民権を与えていないと責めて戦争を始めたのに、フィリピン人には市民権を米国は与えませんでした。

問3 「太平洋戦争(1941-45年)開戦にいたるまでのアジア政策」とあるが、アジア全部なのでしょうか? 初めに「アジア太平洋の国際関係への関心」と導入文にあげながら、後半の問いでは「太平洋」がなくなり「アジア」だけになっています。前問を受けついで極東に限定するのか、ユダヤ人に対する姿勢は書いて良いのか? 素直にとれば書いていいはずです。
 門戸開放外交といってドルの力でアジアに浸透を図るのが米西戦争後の政策でした。政治的・軍事的なコミットはしない、これ以上の列強の中国分割は止めさせよう、というのが外交の意図です。といいながら義和団事件のさいには8ヶ国出兵の中に加わっています。しかし日露戦争で日本の中国東北進出と発言権の高まりを警戒して、ポーツマスでセオドア=ルーズヴェルトが日露の仲介をします。政府としては表だった反日政策はまだとっていませんが、国内では反日気運は高まっていました。日露戦争後日系移民への排斥運動がカリフォルニアで特に激しく、西海岸で、日本人・朝鮮人排斥同盟が結成され(1905)、サンフランシスコの教育委員会は東洋人学校の設立を決定して、中国人、日本人、朝鮮人は、白人アメリカ人の子弟から隔離して教育することにしました(1906)。中国人にかんしては、すでに中国人排斥法(1882)があり、ボストンとニューヨークで、中国人街に一斉手入れが行なわれ、居住許可証を持たない中国人多数が投獄されるという事件も起きています(1902)。米国海軍のアジア艦隊も創設します(1910)。カリフォルニアでは排日土地法が定められ(1913)日本人の土地取得を禁じます。
 日本による韓国併合(1910)にかんしては、すでに桂・タフト協定(1905)で合衆国は朝鮮(韓国)の特殊権益を承認しており、これは戦後のポーツマス条約でも日本の朝鮮における優越権を認める、としています。併合にも承認の声明を出しています。 
 中国に対してはタフト大統領(1909─13)のときに四国借款団に参加し利権を得ること(1910)に専念しています(ドル外交)が、これが辛亥革命の原因となりました。 
 第一次世界大戦後、パリ講和会議で太平洋のドイツ領をとる日本の主張を受け入れたため、中国では反日の五・四運動がおきます。共和党政権(1921-33)に代わって、日本の台頭を抑制しようとする政策がうちだされ、ワシントン会議と軍縮条約となります。また日本移民の排斥を実現するための割り当て移民法が成立します(1924)。 
 日本が柳条溝事件(1931)をおこしたときは様子見であったのが、満州国建国(1932)になるとフーヴァー政権はパリ不戦条約違反と非難し、武力による変更や門戸開放侵犯は認められないとし、さらに九ヶ国条約違反とも非難します。日本の中国進出が拡大するほどアメリカ(フランクリン=ローズヴェルト)の日本に対する圧力も加速されました。ワシントン軍縮条約の廃棄(1934)を日本は通告し対立はのっぴきならないところまでいきます。アメリカは日米通商航海条約を破棄(1939)し、日本に対する石油と鉄鉱石の輸出を制限(1940)し、日本軍による仏印(フランス領ヴェトナム)進駐がはじまると、ハル・ノート(中国とインドシナからの日本の軍隊と警察力の全面撤退)をつきつけました(1941)。 
 中国で国共内戦がはじまるとアメリカは蒋介石の国民党を支援(5000万ドルの借款)し、四大銀行のもっていた現銀を買いとったため、四大銀行の発行する法定貨幣(法幣の「元」)はイギリスのポンドとドルとにリンクします(1935)。対中武器貸与法(1941)も発動して国民党を支援しましたが、アメリカから来る大量の戦略物資を国民党幹部は私腹を肥やすめたに使い、中には日本軍に「密輸」するものもいました。腐敗した国民党とずる賢い共産党が抗日戦争をやりながら互いに争ってもいました。
 善隣外交の一環として独立を求めるフィリピンに対して10年後のフィリピンの独立を承認しました(1934、アメリカ議会は当時、上院・下院とも民主党が多数派でした)。独立の約束は「何年後」と決めて果たすのは珍しいことです。 
 ユダヤ人に対して合衆国政府がとくにとった政策というのはありません。他民族同様に移民を受け入れています。ただ上に書いた割り当て移民法の成立前後に、アメリカの大学では10%前後しかユダヤ人は入学させないという制限をしていきます。理由はユダヤ人が入学するとレベルが上がって授業についていけなくなるので困る、というだらしない苦情がアメリカ市民の学生から出ていたからでした。そのため、はじき出されたユダヤ人は北欧の大学に向かいました。
 ドイツ系アメリカ人を中心に反ユダヤ主義の宣伝・リンチは民間では当り前でした。拙著『各駅停車』でも次のように書いています。 

 莫大な利益をえたフォード(自動車会社フォード社の創設者)は、反ユダヤ主義者であったため、自分の所有する新聞に反ユダヤ・キャンペーンの特集記事をのせて、ユダヤ人金融資本をたおさねばアメリカの諸問題は解決しないとしつこく訴えつづけたものです。ナチスにも莫大な資金を提供しつづけたため、誕生日にはヒトラーから「ドイツ鷲最高勲章」をプレゼントされました(^_^;)。(p.440) 
 (アメリカ政府は)ユダヤ人の迫害にたいして戦争前も戦争中も何もしなかったのはなぜなのか。(p.443)

 このことを教えてくれた本は佐藤唯行著『アメリカのユダヤ人迫害史』(講談社新書)です。  

 さて、ごちゃごちゃ書きすぎました。字数150字のため、あまり書けません。この中から自信のあるものを書いたらいいです。予備校の解答にはフィリピンの独立約束に言及したものはありませんが、書いた方が問2を受け継ぐことになり、また「アジア」を広く書いたことになるはずです。

第3問 
問1 出題者に糟谷憲一が復帰してきたのか、これからしばらく朝鮮史が出るのかも知れない。中国もからまっているので渡辺治、吉田裕か。 
 いずれにしろ朝鮮・韓国史はよく出してきました(→一覧)。今年(2008)の問題の問1は1992年度の第3問(イ)のそっくりさんでした。時間も字数もまったく同じです。以下。

 ……朝鮮民衆は激しく抵抗したが、日本は直接これらの抵抗をうちくだき、ついに1910年8月韓国を併合した。次の用語をつかって日露戦争勃発から韓国併合までの過程をのべよ。(指定語句→)日韓議定書 第二次日韓協約 抗日義兵闘争 (200字)

 史料をあげた点と指定語句がないのはちがう問い方ですが、設問は同じ内容なので、この過去問の解答をそのまま張りつけてもいいでしょう。世界史のばあい、この史料も同じですが読む必要も理解する必要もありません。日本史の史料問題のように内容に食い込む設問はないからです。  

問2 「光緒新政」については、拙著『練習帳 new』p.102にこう書いています。

 ……ここでは変法運動挫折後のことをもう少し説明しておきます。  それは光緒改革(光緒新政)といわれるものです。改革の内容は,新軍(西洋式軍隊)の創設(1895),教育改革として留学生を派遣して小中学校と大学の設立をすすめる,科挙制の廃止(05)などがあり,他に六部の廃止(06),憲法大綱(08),軍機処の廃止(11)など多岐にわたりました。
 問題点は,新知識人を養成して清朝打倒勢力をつくる結果になり,清朝の思惑からはずれていったことです。また新政の費用のために重税をかけたことが物価騰貴につながり,各地で暴動・一揆が頻発,革命団体の結成があいつぐという事態になりました。辛亥革命がもう近くまできています。

 ここには改革の実例と結果とが書いてあります。ただ問いは「二つ以上あげてその結果も」とあるので、どこぞの予備校(Y)のように改革の名前をダラダラ羅列して、結果を総括的に述べると、「その結果」とあるのに、なんの改革のどういう結果なのか判断しがたい解答にならないように注意すべきです。したがって書きやすいのは、憲法大綱と新軍、あるいは科挙廃止でしょう。 
 憲法大綱は、日露戦争後の立憲要求の高まりに応え、明治憲法をモデルに立憲制に移行する約束で、変法運動にあった保皇立憲の再現です。かつ国会開設の約束もあり、早く開くべきだという国会速開運動がおこり、その結果1910年には期限を5年に短縮して1913年開設を約束します。もちろん翌年、辛亥革命がおき、これは実現しません。革命政府は臨時約法をつくります。もう皇帝制は要らない共和政憲法に転換していきます。
 新軍の創設は1895年ですが、この西洋式軍隊はこの新政のときにどんどん拡大されました。初めは7300名の新軍で発足したのが、辛亥革命直前には14個師団と18個混成旅団で約17万人の兵士をかかえるまでになります。ドイツや日本に留学して帰国した兵士たちが将校となり、かれらの中に革命組織ができます。湖北省の組織は共進会、文学社などで、革命の直前には新軍15000人中5000人がこれらの組織に入っていたくらいでした(小島・丸山共著『中国近現代史』岩波新書、p69)。かれらが革命の口火を切り、清朝側の新軍とも戦いながら独立を果たしていきます。光緒新政は革命を育成したのです。
 科挙廃止は、帝国主義の進出の下では文学(国語)だけの科挙では歯が立たず、経済学・物理学・化学が必要になってきました。近代的な大学、中・小学校、各種専門学校の設立を変法運動のときに目指しましたが、実行されたのは京師大学堂(のちの北京大学)の創立だけでした(これが唯一の変法運動の成果)。1901年の学制では、学部(文部省)を設置し、科挙の廃止(1905)、留学生の派遣、これらによる新型官僚の養成などでした。この留学生たちも革命団体に参加していきます。清朝にとっての延命策は自滅策でもあったのです。