世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史2022

第1問
 内陸アジアに位置するパミール高原の東西に広がる乾燥地帯と、そこに点在するオアシス都市は、ユーラシア大陸の交易ネットワークの中心として、様々な文化が交錯する場であった。この地は、トルコ化が進むなかで、ペルシア語で「トルコ人の地域」を意味するトルキスタンの名で呼ばれるようになった。トルキスタンの支配をめぐり、その周辺の地域に興った勢力がたびたび進出してきたが、その一方で、トルキスタンに勃興した勢力が、周辺の地域に影響を及ぼすこともあった。
 以上のことを踏まえて、8世紀から19世紀までの時期におけるトルキスタンの歴史的展開について記述せよ。解答は解答欄(イ)に20行以内で記し、次の8つの語句をそれぞれ必ず一度は用い、その語句に下線を引くこと。

 アンカラの戦い カラハン朝 乾隆帝 宋
 トルコ=イスラーム文化 バーブル 
 ブハラ・ヒヴァ両ハン国 ホラズム朝

第2問
 支配や統治には、法や制度が不可欠である。それらは、基盤となる理念や思想と、それを具体化する運動を通じてつくられることが多い。このことに関連する以下の3つの設問に答えよ。解答は、解答欄(口)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して記せ。

問(1) イスラーム教が支配宗教となった地域や国家では、民族や出自にかかわらず、宗教を第一とする統治体制が敷かれることが多かった。そこでは、啓典『クルアーン(コーラン)』と預言者ムハンマドの言行がもとになったイスラーム法が重視された。このことに関する以下の(a)・(b)・(c)の問いに、冒頭に(a)・(b)・(c)を付して答えよ。

 (a) 最古の成文法の一つであるハンムラビ法典は、イスラーム法にも影響を与えたとされる。この法典が制定された時期と、その内容の特徴を、2行以内で説明せよ。

 (b) 14世紀に北アフリカの諸王朝に仕え、『世界史序説(歴史序説)』を著して王朝の興亡の法則性を説いた学者の名前を記せ。

 (c) 1979年のイラン革命では、イスラーム法に通じた宗教指導者(法学者)ホメイニらが中心となり、それまでのイランで推進されていた政策を批判した。このとき批判された政策について、2行以内で説明せよ。

問(2) 中世から近世にかけてのヨーロッパでは、多くの国が君主を頂点とする統治体制のもとにあった。君主の権力に関しては、それを強化することで体制を安定させようとする試みや、それが恣意的にならないよう抑制する試みがみられた。このことに関する以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)·(b)を付して答えよ。

 (a) 大憲章(マグナ=カルタ)が作成された経緯を、課税をめぐる事柄を中心に、4行以内で説明せよ。

 (b) マキアヴェリが『君主論』で述べた主張について、2行以内で説明せよ。

問(3) 19世紀末の清では、日清戦争における敗北を契機に、国家の存亡をめぐる危機意識が高まった。この結果生じた運動について、以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)·(b)を付して答えよ。

 (a) この運動の中心となり、後に日本に亡命した2名の人物の名前を記せ。
 (b) この運動の主張と経緯を4行以内で説明せよ。

第3問
 戦争や軍事的な衝突は、国際秩序や権力のあり方を大きく変えただけでなく、人々の生活や意識にも多大な影響を与えてきた。このことに関連する以下の設問(1)〜(10)に答えよ。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(10)の番号を付して記せ。

問(1) イスラーム教成立以前のアラビア半島には、エチオピア高原を拠点とする王国が紅海を渡ってたびたび侵攻し、イエメン地方に影響力を及ぼしていた。4世紀にキリスト教を受容したこの王国の名称を記せ。

問(2) 1096年に遠征を開始した十字軍は、イェルサレム王国などの十字軍国家を建設した。当初、イスラーム勢力の側は地方勢力の分立により、十字軍に対抗することができなかった。しかし、13世紀末になって十字軍の最後の拠点ァッコン(アッコ、アッカー)が陥落し、十字軍勢力はシリア地方から駆逐された。このときアッコンを陥落させた王朝の名称を記せ。

問(3) 1511年にポルトガルはマラッカを占領した。マラッカは東南アジアの海上交易の一大中心拠点であったため、ムスリム商人たちは拠点をマラッカから移動させて対抗し、東南アジア各地の港に新たな交易中心地が発展することになった。こうして新たに発展した交易港のうち、スマトラ島北西部にあり、インド洋に面した港市の名前を記せ。

問(4) 16世紀、アメリカ大陸に進出したスペイン人征服者たちは、多数の先住民を殺害し、現地の社会を破壊した。また、彼らは征服地の農園や鉱山などで先住民に過酷な労働を強制した。スペイン人征服者のこのような行為を告発し、先住民の救済を訴えて『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を著した人物の名前を記せ。

問(5) プロイセンは、ナポレオン軍に敗れて首都を制圧され、フランスとの過酷な内容の講和条約の締結を余儀なくされた。国家存亡の危機を目の当たりにして、連続講演「ドイツ国民に告ぐ」をおこない、国民意識の覚醒を訴えた哲学者の名前を記せ。

問(6) ヨーロッパ諸国も加わった多国間戦争のさなか、ナイティンゲールは38名の女性看護師とともにオスマン帝国に派遣され、その首都イスタンブルの対岸にある傷病兵のための病院で、看護体制の改革に尽力した。この戦争でオスマン帝国側に立って参戦した国のうち、サルデーニャ以外の2か国の名を記せ。

問(7) 南北戦争後のアメリカ合衆国では、北部を中心に工業発展がめざましく、西部も開拓によって農業が発展した。合衆国の東西を結んで人・物・情報の流れを促し、経済発展に大きく寄与した鉄道は何と呼ばれるか。その名称を記せ。

問(8) 第一次世界大戦に敗れたドイツでは、帝政が崩壊し、当時、世界で最も民主主義的といわれたヴァイマル憲法を擁する共和国が成立した。この憲法は、代議制民主主義の弱点を補うというねらいから、国民に直接立法の可能性を与え、同時に国民の直接選挙で選ばれる大統領に首相任免権や緊急措置権など大きな権限を与えていた。世界恐慌のさなか、1932年に大統領に再選され、翌年にヒトラーを首相に任命した人物の名前を記せ。

問(9) 1945年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾して降伏した。翌15日には昭和天皇がラジオを通じてポツダム宣言受諾を国民に明らかにした。その日本の占領下にあったインドネシアでは、8月17日にインドネシア共和国の成立が宣言されたが、この宣言を読み上げ、インドネシア共和国の初代大統領となった人物の名前を記せ。

問(10) 第3次中東戦争の結果、イスラエルは占領地をさらに拡大させ、それによって多数の難民が新たに発生した。一方、占領地に残ったパレスチナ人住民のあいだで、1987年末から投石などによるイスラエルに対する抵抗運動が始まった。この抵抗運動の名称をカタカナで記せ。
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第1問
 一つの地域での民族・国家の興亡、とくに東大らしく一定の地域で、文化が交錯する場、という設定は、過去問でも、キリスト教文化圏がイスラーム世界からうけた影響(1986)、地中海世界と周辺文明(1995)、イベリア半島史(1999)、エジプト5000年史(2001)、オランダの世界史的役割(2010)、きわめて広い地域でしたが、ロシアの対外政策と西欧列強の対応(2014)も入れてもいいでしょう。5〜9世紀の地中海世界(2021)も入ります。まさか来年度はウクライナを軸にした民族興亡史を出すでしょう……か。
 東西から次々と諸民族が入ってきたり、ここを根拠地に周辺に侵出したり、の東西トルキスタンの歴史です。流れ(時間経過)の問題でもありますから、タテに8〜19の数字を出来事のあるなしにかかわらず書くのが構想メモの原則です(なぜかは拙著『世界史論述練習帳new』参照)。その上で、興亡したトルコ人を初めとした民族、勢力(国家・王朝)、文化、事件などを書き込みます。もちろん文化が主役でなく、「興った勢力」という民族的政治的な勢力を書くことが第一で、文化の諸相はそれに付随するものです。このやり方と同じことを出題者が書いていて、びっくりしました。もっとも、ありきたりのやり方ではあります。→https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400186951.pdf
 
8 突厥ウイグル(744) ←唐の都護府設置
9 キルギスウイグル西走(840)、サーマン朝(874)
10 カラハン朝(940)、イスラーム教信仰、宋(960)
11 西夏セルジューク朝成立(1038)、ホラズム朝(1077)
12 西遼(カラ=キタイ、1132)
13 モンゴル帝国(1206)
14  チャガタイ=ハン国、オゴタイ=ハン国
  ティムール帝国(1370)
15 アンカラの戦い(1402)、ティムールのこの地域進出、ティムール帝国滅亡(1500) 
16 トルコ=イスラーム文化(ティムール帝国)、バーブルはここからインド進出・ムガル帝国
17 康熙帝のこの地域進出
18 乾隆帝の新疆(1759)、ロシアがこの地域進出
19 ロシアのブハラ・ヒヴァ両ハン国保護国化、イリ条約(1881)

 あちこちカッコ(  )の中に年代を入れましたが、こんなこと書けませんか? でも正確には書こうとしたら、これくらいは必要です。『世界史年代ワンフレーズnew』でかんたんに覚えられますよ。
 ウイグル74(なし)4
 ウイグル840
 サーマン朝は、874
 カラハン朝 カラカラ、940
 宋 宋、堅960
 ホラズム朝 ほーらず、入1077い
 西夏セルジューク朝 成果競る、父10さん38
 西遼(カラ=キタイ) 空期待、い1132
 チンギス(モンゴル帝国の成立) チンギス、天1206
 ティムール帝国 ティー・ルーム、ジュ1ーサ3ー慣70
 アンカラの戦い(永楽帝・フス) 1402 
 ティムール帝国滅亡 ティー・ルーム滅亡、イチ15ノー0ノー0
 ムガル帝国 無我〜一1526
 康熙帝(ルイ14世親政) 康煕・ルイはヒ1ーロ6ー・ル61
 イリ条約 イリリイ、イ1881

 さて以上ですが、読むだけで、もういくつか覚えたでしょう。
 課題は簡単にいえば「トルキスタン興亡史」です。導入文に「トルキスタンの支配をめぐり、その周辺の地域に興った勢力がたびたび進出してきたが、その一方で、トルキスタンに勃興した勢力が、周辺の地域に影響を及ぼす」と。これを8〜19世紀の長期で描くことです。
 8世紀はこの地域の支配者であった突厥が、同じトルコ系のウイグルに交代する時期でした。突厥が支配していた時代は、隋唐との対決があり、服属して唐の都護府支配下に置かれています。東西に分かれた東突厥はまず唐に滅ぼされ、再建した者たちはウイグルに滅ぼされました(744)。どうしてか、この突厥のことは予備校の解答例に書いたものはありませんでした。トルコ系による支配はかれらから始まるのに。
 しかしウイグルキルギスに追い立てられ、かれらの西走(840)が、西トルキスタンをトルコ化し、ここにカラハン朝を建て(940)、すでに進出していたイラン系のサーマン朝を滅ぼします(999)。このカラハン朝は、また、トルコ人として初めてイスラーム化した王朝でもあります。
 このカラハン朝を追撃しに来るのが、東方の勢力でした。宋と金が結び、遼は西方に追い立てられ、このトルキスタン地域に西遼(カラ=キタイ)が耶律大石によってつくられます。キタイ族はモンゴル系ですが、13世紀のモンゴル時代を準備します。
 この間、トルコ系民族はこの地域から西アジア世界に軍人奴隷「マムルーク」としてアラブ人・イラン人の王朝に雇われていき、かれらの王朝も各地でできることになります。このマムルークの浸透を書いた答案例もありませんでした。「周辺の地域に影響」として書いてあってもいいものです。
 東大は2012年度の第2問・問2でかれらのことを問うています。アッバース朝西トルキスタンに進出した際に戦争捕虜としたり奴隷として買ったことが起源となり、次第にイスラーム世界に入ってきたものです。とくに第8代カリフのムウタスィム (ムータシム、在位 833-842) が親衛隊として使い始めてからです。
 このマムルークたちが、サーマン朝のマムルークであった者がガズナ朝をつくってインドに侵出し、インドイスラーム化の道をひらき、デリー=スルタン朝(奴隷朝)も開くことになります。またカイロのアイユーブ朝を奪いマムルーク朝をつくったのもかれらでした。
 11世紀、カラハン朝から西に移動したトルコ人はシル川下流セルジューク朝を興しました。この王朝は南下してバグダードに入城した後、部下がホラズム朝としてこの地域で独立します(1077)。
 西遼に話しをもどすと、モンゴル人に追い立てられたナイマンが、西遼を奪い、その短い支配もチンギスが襲っています。そしてその西を支配していたホラズム朝も、チンギスは滅ぼします。
 チンギスは奴隷朝へも攻撃をしていますが成功していません。これは細かいので書かなくてもいいでしょう。
 チンギス死後は、チャガタイ=ハン国の支配下にはいり、これが東西に分裂して、西チャガタイ=ハン国からティムール帝国が登場してきます。このティムールもデリー=スルタン朝のうちトゥグルク朝を攻撃し、部下を置いてきましたが、この部下がつくる王朝がサイイド朝(1414年、コンスタンツ公会議)です。
 さらにティムールはアンカラの戦いでオスマン帝国をいったん滅ぼします。モスクワの近くまで行き、東はサマルカンドからシル川中流のオトラルで病死するまで荒らし回りました。現代のプーチンのようです。しかしこの荒ぶれた男は都のサマルカンドに多くの文化人を集め、文化振興につとめ、指定語句にある「トルコ=イスラーム文化」が成立した、と評価します。この「トルコ=イスラーム文化」をどこで使ったかが評価の対象になるでしょう。
 1500年ちょうどに滅亡したティムール帝国はトルコ系ウズベク族がここを支配します。今もそれは変わっていません。かれらがつくる国々が、ブハラ(ボハラ)=ハン国、ヒヴァ=ハン国、コーカンド=ハン国です。今は、北からカザフスタンウズベキスタントルクメニスタンと呼んでいる地域です。
 このティムール帝国の滅亡は、サマルカンドで復興策に失敗したバーブルをインドに向かわせ、インドでムガル帝国を建てることにつながりました。
 どちらかといえば、西トルキスタンの興亡が多いですが、東トルキスタン清朝による侵出が康熙帝から始まっていて、乾隆帝の段階で天山山脈の北部のジュンガル(準部)と東トルキスタン(回部)を合わせて新疆(new frontier)と呼ぶことになります。
 19世紀になると「ブハラ・ヒヴァ両ハン国」も保護国化し、コーカンド=ハン国も保護国化します。その目的はシベリアの毛皮とちがい、棉花です。さらにイリ事件を利用して新疆に入ってきました。左宗棠の抵抗はありながら国境を削られてイリ条約が結ばれます。

第2問
問(1)(a) 「ハンムラビ法典……が制定された時期と、その内容の特徴」という問題。時期は前18世紀、内容は「刑法・民法・商法など多方面」、特色は「刑法……同害復讐の原則、身分によって刑罰に差がつけられていることに特色がある(かんたんには同害刑法と身分法)」(どちらも東京書籍)で十分ですが、「王は神の代理として統治(詳説世界史)」とも注があり、スーサ出土の写真には神から王が法典をいただくレリーフが付いているので、「神授」である、という点を指摘してもよい。

(b) 14世紀に北アフリカの諸王朝に仕え、『世界史序説(歴史序説)』の著者は、イブン=ハルドゥーン。

(c) 1979年のイラン革命では、イスラーム法……それまでのイランで推進されていた政策を批判した。このとき批判された政策、という問い。「政策」とはパフレヴィー国王の白色革命を説明したらいい。土地改革・文盲率低下・女性参政権・工業化・教育振興・西欧型の商店導入など。とくに土地改革は重要ですが、農地分配をしても農民に灌漑をつくる資力がなく、貧農より地主層に土地が買い取られるまずい結果を生みます。嫌われたのが掛け合いで値段を決める従来の商人の方法を止めさせ、公定価格を決めたことでした。

問(2)(a) 「大憲章(マグナ=カルタ)が作成された経緯を、課税をめぐる事柄を中心に」といろいろな課税要因を挙げることです。まずフランスに敗北し続けたため軍事費の増額の必要性、この費用を貴族たちへの課税でまかなおうとしたため貴族の反発がおき、そのため国王が勝手に課税を決めるな、貴族会議の承認が必要だ、と要求したことでした。
 下のイギリスの教科書の図がよく表しています。

(b)「マキアヴェリが『君主論』で述べた主張」とは、あまり教科書では書いてありません、せいぜい「政治を宗教や道徳とは別個のものとして論じ」という程度で、これは「主張」になるでしょうか? 強力な君主になるためには、どのような術策を用いるべきかを論じたもので、権謀術数を使え、信仰厚く慈悲深くある必要はないが、信仰厚く慈悲深いひとだと見られるために、その振りをせよ、運命の女神の頬をぶちたたいてでも、強引にものごとを遂行せよ、愛されるより恐れられるほうが安全だ、イタリアは統一されるべきだ、などとと説きました。

問(3) 「日清戦争における敗北を契機に、国家の存亡をめぐる危機意識が高まった。この結果生じた運動」
(a) 「この運動の中心となり、後に日本に亡命した2名の人物の名前」は、中心人物で康有為と梁啓超。この二人ですが、ただ日清戦争の危機意識の中で動いたのは変法運動をおこなった二人だけでなく、戦争中にハワイで興中会をつくった孫文も該当します。ただ次の問題(b)からは、変法運動だけなのだろうと推理できます。
(b) 「この(変法)運動の主張と経緯」。主張は、洋務運動が富国強兵の技術導入にすぎず、それでは不十分であり、日本の明治維新にならって立憲と議会政治の導入を説いた。経緯は、光緒帝とわずかの官僚にしか支持は得られず、西太后が戊戌の政変で改革を挫折させます。「百日維新」と揶揄するくらいに短いものでした。寝ている光緒帝を西太后が「起きなさい」と叩き起こして、「今やっていることを止めなさい」と怒鳴りつけ、皇帝を幽閉しました。

第3問
問(1) 教科書(詳説)ではクシュ王国滅亡の原因として「4世紀にエチオピアアクスム王国によってほろぼされた」と出てきます。東京書籍では「アクスム王国は、4世紀に、クシュ王国を征服してナイル川中流域に進出したが、このときキリスト教を受容した」と。

問(2) 「アッコンを陥落させた王朝」はカイロの王朝です。初め十字軍はセルジューク朝と戦いましたが、イェルサレム占領後は、その南を支配していたカイロの3王朝と戦うことになりました。

問(3) 「交易港のうち、スマトラ島北西部にあり、インド洋に面した港市の名前」とはアチェ王国のこと。世界史は歴史地図を見ながら勉強しましょう、という教訓。

問(4) 先住民の救済を訴えて『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を著した人物(ラス=カサス)はカール5世に訴えていて、恐ろしいのは犬たちの記録です。「彼らを狩り出すために猟犬を檸猛な犬に仕込んだ。犬はインディオをひとりでも見つけると、瞬く間に彼を八つ裂きにした。また、犬は豚を餌食にする時よりもはるかに嬉々として、インディオに襲いかかり、食い殺した。こうして、その獰猛な犬は甚だしい害を加え、大勢のインディオを食い殺した」(岩波文庫、p.28)。日本軍が南京で生きた人間を捜索するために使ったのも、このような犬でした(笠原十九司『体験者27人が語る南京事件』高文研、p.214)。  

問(5) センター試験でも何度も問われたフィヒテ

問(6) クリミア戦争で「オスマン帝国側に立って参戦した国のうち、サルデーニャ以外の2か国の名」は英仏。

問(7) 南北戦争後の」とは1869年の大陸横断鉄道の開通です(『ワンフレーズ』語呂→(スエズ)運河・鉄道で、ひと1869ット)。

問(8) 「ヒトラーを首相に任命した人物」は第一次世界大戦の英雄とたたえられたヒンデンブルク大統領。

問(9) 「インドネシア共和国の初代大統領」は宗主国オランダに留学し、帰国してインドネシア国民党を創設したスカルノ

問(10) 「投石などによるイスラエルに対する抵抗運動」は主に青年・子どもたちが戦う戦い方(インティファーダ)。