世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

京大世界史2018

世界史B(4問題100点)
第1問(20点)
 内外の圧力で崩壊の危機に瀕(ひん)していた、近代のオスマン帝国や成立初期のトルコ共和国では、どのような人々を結集して統合を維持するかという問題が重要であった。歴代の指導者たちは、それぞれ異なる理念にもとづいて特定の人々を糾合することで、国家の解体を食い止めようとした。オスマン帝国の大宰相ミドハト=パシャ、皇帝アブデュルハミト2世、統一と進歩委員会(もしくは、統一と進歩団)、そしてトルコ共和国初代大統領ムスタファ=ケマルが、いかにして国家の統合を図ったかを、時系列に沿って300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

 

第2問(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[   ]の中に最も適切な語句を入れ下線部(1)〜(24)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 秦王扇政(えいせい)は、前221年に(1)を滅ぼし「天下一統」を成し遂げると、「王」に代わる新たな称号を臣下に議論させた。丞相らは「泰皇」なる称号を答申したが、(2)秦王はこれを退け「皇帝」と号することを自ら定めた。以来二千年以上の長きにわたって、「皇帝」が中国における君主の称号として用いられることとなった。
 「皇帝」は、唯一無二の存在と観念されるのが通例であるが、歴史上、複数の皇帝が並び立ったことも珍しくない。たとえば「三国時代」である。220年、(3)後漢の献帝から帝位を禅譲された(4)曹丕が魏王朝を開き洛陽を都としたのに対し、漢室の末裔を標榜する[ a ]は成都で皇帝に即位し(蜀)、次いで孫権が江南で帝位に即いた(呉)。魏は263年に魏軍の侵攻により滅亡、呉も280年に滅び、中国は再び単独の皇帝により統治されるに至るが、魂も265年、可馬炎が建てた晋に取って代わられていた。
 晋による統一は八王の乱に始まる動乱の前に潰(つい)え去り、江南に難を避けた華北出身の貴族らが晋の皇族を皇帝と仰ぐ政権を建康に樹立、その後、(5)門閥貴族が軍人出身の皇帝を奉戴する王朝の時代が百数十年の長きにわたって継続した。華北では、「五胡十六国」の時代を経て、(6)鮮卑による王朝が5世紀半ばに華北統ーを果たした
 隋末の大混乱を収拾し中国を統一した唐王朝は、(7)第2代皇帝太宗の時、北アジア遊牧世界の覇者であった東突厭を服属させ、太宗は鉄勒諸部から「天可汗」の称号を奉られた。(8)統一を果たしたチベットに対しては、皇女を嫁がせて関係の安定を図った。
 唐の第3代皇帝高宗の皇后となった(9)武照(則天武后)は、690年、皇帝に即位し国号を「周」と改めた。(10)中国史上初の女性皇帝の誕生である。後継者に指名されたのは彼女が高宗との間にもうけた男子であったが、彼の即位直後、国号は「唐」に復された。
 10世紀後半に中華を再統合した宋王朝は、(11)失地回復を目指して契丹(遼)と対立したが、1004年、両国の間に講和が成立した。「澶淵の盟」と呼ばれるこの和約では、国境の現状維持、宋から契丹に(12)歳幣をおくることなどが取り決められた。両国皇帝は互いに相手を「皇帝」と認め、名分の上では対等の関係となった。
 12世紀前半、女真の建てた金に都を奪われ、(13)上皇と皇帝を北方に拉致された宋では、高宗が河南で即位したものの、金軍の攻撃を受けて各地を転々とした。やがて杭州を行在(あんざい)と定めると、高宗は、主戦派と(14)講和派が対立する中、金との和睦を決断する。この結果、准水を両国の国境とすることが定められたほか、宋は金に対して臣下の礼をとり、毎年貢納品をおくることとなった。


 (1) 戦国時代、斉の都には多くの学者が招かれ、斉王は彼らに支援の手を差し伸べたとされる。「稷下(しょっか)の学士」と称されたこれら学者のうち、「性悪説」を説いたことで知られる人物は誰か。
 (2) このとき彼は、自らの死後の呼び名についても定めている。その呼び名を答えよ。
 (3) この時代、ある宦官によって製紙法が改良された。その宦官の名前を答えよ。
 (4) 彼が皇帝に即位した年に創始された官吏登用制度は何か。
 (5) この時代、対句を用いた華麗典雅な文体が流行する。その名称を答えよ。
 (6) 華北を統一してから約半世紀後、この王朝は洛陽への遷都を行う。この遷都を断行した皇帝は誰か。
 (7) 彼の治世に陸路インドに赴き、帰国後は『大般若波羅蜜多経』などの仏典を漢訳した僧侶は誰か。
 (8) 7世紀前半、チベットを統一した人物は誰か。
 (9) 仏教を信奉した彼女は、5世紀末から洛陽南郊に造営が始められた石窟に、壮大な仏像を造らせた。その仏教石窟の名称を答えよ。
 (10) 皇帝とはならなかったものの、朝廷で絶大な権力を振るった女性は少なくない。このうち、清の同治帝・光緒帝の時代に朝廷の実権を掌握した人物は誰か。
 (11) ここで言う「失地」とは、契丹が後晋王朝の成立を援助した代償として譲渡された地域を指す。その地域は歴史上何と呼ばれているか。
 (12) 歳幣として宋から契丹におくられた品は絹と何か。その品名を答えよ。
 (13) 文化・芸術を愛好し、自らも絵筆をとったことで知られるこの人物が得意とした画風は何と呼ばれているか。
 (14) 高宗を金との和平に導いた講和派の代表的人物とは誰か。

B 現在、中華人民共和国には4つの直轄市が存在する。北京市を除く3つの直轄市にはかつて租界が存在した。
 最も早くに租界が置かれたのは1842年の南京条約によって開港された上海であった。1845年にイギリス租界、1848年にアメリカ租界、1849年にフランス租界が設置され、1854年にはイギリス租界とアメリカ租界が合併して共同租界となった。租界はもともと外国人の居住地であったが、(15)太平天国の乱によって大量の中国人難民が流入したことを契機として、中国人の居住も認められることになった。共同租界には工部局、フランス租界には公董局と呼ばれる行政機関が置かれ、独自の警察組織や司法制度を有していた。租界は中国の主権が及ばず、比較的自由な言論活動が可能であったことから、(16)革命活動の拠点のーつとなった。
 上海は中国経済の中心でもあった。1910年代から1930年代にかけて、上海港の貿易額は全中国の4割から5割を占めた。また、上海には(17)紡績業を中心に数多くの工場が建てられた。上海の文化的繁栄はこうした経済発展に下支えされていた。1937年、日中戦争が勃発すると、戦火は上海にも及び、租界は日本軍占領地域のなかの「孤島」となる。1941年12月、日本軍が上海の共同租界に進駐した。1943年に日本が共同租界を返還すると、(18)フランスもフランス租界を返還し、上海の租界の歴史は幕を閉じた。
 直轄市のうち最も人口が少ない[ b ]市は、1860年の北京条約によって開港され、イギリス、フランス、アメリカが租界を設置した。次いで、(19)日清戦争後の数年間にドイツ、日本、ロシア、(20)ベルギーなどが次々と租界を開設した。この前後の時期、直隷総督・北洋大臣の(21)李鴻章や袁世凱が[ b ]を拠点に近代化政策を相次いで実施した。(22)[ b ]は政治の中心地である北京に近いこともあって、数多くの政治家、軍人、官僚、財界人、文人が居を構えていた。[ b ]には最も多い時には8か国の租界があったが、(23)1917年にはドイツとオーストリア=ハンガリーの租界が接収され、1924年にはソ連、1931年にはベルギーの租界が返還された。さらに、1943年には日本租界を含むすべての租界が中国側に返還された。
 直轄市のうち人口も面積も最大の[ c ]市に租界があったことはあまり知られていない。というのも、[ c ]の租界は、上記の2都市とは違って、政治的、経済的影響力をほとんど持たなかったからである。[ c ]で唯一の租界である日本租界は1901年に設置されたが、1926年になっても[ c ]に居留する日本人は100名余りで、このうち租界に居住していたのは20名余りにすぎなかった。[ c ]の日本人居留民は中国人による租界回収運動により、たびたび引き揚げを余儀なくされた。1937年の3度目の引き揚げ後、国民政府は日本租界を回収した。翌年、(24)国民政府は[ c ]に遷都し、抗戦を続けた。


 (15) (ア) 太平天国軍を平定するために曾国藩が組織した軍隊は何か。
 (イ) 太平天国軍との戦いでウォードの戦死後に常勝軍を指揮し、のちスーダンで戦死したイギリスの軍人は誰か。
 (16) 1921年に上海で組織された政党の創設者の一人で、『青年雑誌』(のちの『新青年』)を刊行したことでも知られる人物は誰か。
 (17) 日本人が経営する紡績工場での労働争議を契機として1925年に起こった反帝国主義運動を何と呼ぶか。
 (18) 日本の圧力を受けてフランス租界を返還した対ドイツ協力政権を何と呼ぶか。
 (19) 日清戦争の契機となった甲午農民戦争は、東学の乱とも呼ばれる。東学の創始者は誰か。
 (20) フランドル(現在のベルギーの一部)出身のイエズス会士で、17世紀半ばに中国に至り、アダム=シャールを補佐して暦法の改定をおこなった人物は誰か。
 (21) (ア) 李鴻章と伊藤博文は朝鮮の開化派が起こしたある政治的事件の処理を巡って1885年に条約を締結した。この政治的事件は何か。
 (イ) (ア)の政治的事件は、対外戦争での清の劣勢を好機と見た開化派が起こしたものである。この対外戦争とは何か。
 (22) この都市の日本租界で暮らしていた溥儀は、満洲事変勃発後に日本軍に連れ出され、1932年に満洲国執政に就任した。それ以前に中国東北地方を支配し、のち西安事件を起こした人物は誰か。
 (23) 中国が連合国側に立って第一次世界大戦に参戦したことがこの背景にある。同年、アメリカも連合国側に立って第一次世界大戦に参戦した。アメリカ参戦の最大の契機となったドイツ軍の軍事作戦は何か。
 (24) (ア) 1938年12月にこの都市を脱出、1940年に南京国民政府を樹立して、その主席に就任した人物は誰か。
 (ィ) 1919年に上海で樹立された大韓民国臨時政府は、1940年にこの都市に移転する。大韓民国臨時政府初代大統領で、1948年に大韓民国初代大統領となった人物は誰か。

 

第3問(20点)
 中世ヨーロッパの十字軍運動は200年近くにわたって続けられた。その間、その性格はどのように変化したのか、また、十字軍運動は中世ヨーロッパの政治・宗教・経済にどのような影響を及ぼしたのか、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。


第4問(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[   ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(25)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A エジプトに、都市[ a ]が建設されたのは紀元前4世紀のことであった。地中海世界の東西南北から文物の集まるこの都市に開設された図書館は名高く、膨大な蔵書を誇った。エジプトがローマ帝国の支配下にあった紀元2世紀半ば、[ a ]で、この知的伝統の上に立って、『天文学大全』でも知られる[ b ]が『地理学』を書いた。同書は天文学と(1)幾何学を用いて地球の形態や大きさを測り平面地図に表現する方法を記し、既知世界の8,000以上の地点を経度・緯度で示した。オリジナルは失われているが、後に(2)ビザンツ帝国で作られた写本には、地図が付されている。
 12世紀の半ばには、(3)コルドバに学んだイドリーシーが、キリスト教、ユダヤ教、イスラーム教の共存する(4)シチリア王国の国王のために、南を上にした数十葉の地図を付した『世界横断を望む者の慰みの書』を著した。[ b ]やラテン語の地理書に加え、この頃すでに数百年の伝統を築いていたアラブの地理学のエッセンスを吸収した成果であったが、キリスト教世界、イスラーム世界双方で影響は限定的だった。
 中世ヨーロッパの地理的世界観をよく表すのは、(5)1300年頃の作とされる、イギリスのヘレフォード図である。中心に聖地を置き、上部にアジア、右下にアフリカ、そして左下にヨーロッパが配される。
 新しいタイプの地図は近世に生み出された。1512年に東フランドルの小都市に誕生したメルカトルは、ルーヴァン大学などで(6)人文主義教育を受けた。1536年には卓越した銅版彫刻の技術を駆使して、(7)地球儀の製作にかかわった。順調に評価を高めていったが、1544年には(8)ルタ一派の異端として一時投獄された。その危機を乗り越え、1569年には、彼の名を後世にとどめることになるメルカトル投影図法による世界地図を発表した。これは、球体を円筒に投影して平面に展開したところに特徴がある。目指す方角を正確に示すこの地図を、彼は、(9)当時世界の海にのりだしていくようになった航海者たちのために作成した。
 1666年、ルイ14世は(10)科学アカデミーを設立し、翌年パリ天文台を建てた。ここで4代にわたり天文台長をつとめたカッシーニ家は、天文学の技術を地図作成に応用し、三角測量によって、内政や軍事に求められるフランス王国の正確な地図を徐々に完成させていった。1793年、こうして作られた地図一式は、カッシーニ家から没収され国有化される。それ以降、カッシーニの地図は、王の版図ではなく単一のフランス「国(国民)」を象徴するものとなり、カッシーニの科学的測地法は他の国々に採用された。地図は、19世紀以降の国民国家や海外植民地帝国の形成に大きな役割を果たし、(11)「ラテンアメリカや「中央アジア」のような新たな地域概念は、現代まで世界認識を規定している。


 (1) この学問の祖と言われる人物の名を記せ。
 (2) 11世紀頃から行われ始め、この社会に大きな変容をもたらしたプロノイア制について、簡潔に説明せよ。
 (3) この地出身のイブン=ルシュドは、ある哲学者の作品に高度な注釈を施したことで知られる。その哲学者の名前を記せ。
 (4) 13世紀末にこの国から分離独立した王国の名を記せ。
 (5) この頃の大きな出来事であるアナーニ事件の概略を説明せよ。
 (6) 「人文主義の王者」とも称せられた、ネーデルラント出身の学者の名を記せ。
 (7) この製作を依頼したのは、東フランドルを含む広大な地域を支配したカトリックの皇帝である。その名を記せ。
 (8) 彼に数年遅れ、1519年にチューリヒで宗教改革を始めた人物の名を記せ。
 (9) この時代に行われたマゼランの大航海が目指した、香料の特産地の名を記せ。
 (10) フランスにおけるアカデミーは1635年設立のアカデミ一=フランセーズをもって嚆矢(こうし)とする。ルイ13世の宰相でこれを設立した人物の名を記せ。
 (11) この呼称は、19世紀後半にアメリカ大陸への進出をねらうフランスで用いられるようになった。1861年にナポレオン3世によってなされた軍事介入の対象となった国の名を(ア)に、この介入を撃退した大統領の名を(イ)に、それぞれ記せ。

B 近現代史家エリック=ホブズボームは、産業革命とフランス革命という「二重の革命」に始まり第一次世界大戦で終わる時代を「長い19世紀」と位置づけた。ホブズボームによれば、「長い19世紀」とは、「二重の革命」を経て経済的・社会的・政治的に力を蓄えていったブルジョワジーという社会階層と、ブルジョワジーの地位向上とその新たな地位を正当化する(12)自由主義イデオロギーの時代であった。
 イギリスの産業革命は、イギリスの対アジア貿易赤字に対応するための輸入代替の動きを大きな契機として始まった。イギリスではそれに先行する時代に、私的所有権が保障され、(13)農業革命が進行するなど、工業化の条件が整っていた。綿工業から始まった産業革命は、19世紀が進むにつれて、鉄鋼、機械など、重工業部門に拡大していった。この過程で、(14)資本家を中心とするブルジョワジーが経済的・社会的な力を強め、新たな中間層の中核を形成する一方、(15)伝統的な中間層の一翼を担った職人属はその少なからぬ部分が没落し、新たな下層である労働者層に吸収されていった
 フランス革命は、貴族層の一部、ブルジョワジー、サンキュロットと呼ばれた都市下層民衆、および農民という、多様な勢力が交錯する複合革命であった。「第三身分」が中核となって結成された議会は、封建的特権の廃止や人権宣言の採択、および立憲君主政の憲法の制定を実現したが、憲法制定後に開催された議会では、(16)立憲君主政の定着を求める勢力がさらなる民主化を求める勢力に敗北した。(17)対外戦争の危機の中で新たに構成された議会の下で、ブルジョワジーとサンキュロットが連携し、王政が廃止された。まもなく急進派と穏健派の間に新たな対立が生じ、急進派が穏健派を排除して恐怖政治のもとで独裁的な権力を行使するようになったが、対外的な危機が一段落し、恐怖政治に対する不満が高まると、(18)権力から排除されていた諸勢力はクーデタによって急進派を排除した。しかし、穏健派が主導する新政府は復活した王党派とサンキュロットの板挟みとなって安定せず、フランスを取り巻く国際情勢が再び緊迫する中で、ナポレオンが台頭する。(19)民法典の編纂(へんさん)や商工業の振興に代表される彼の施策は、おおむねブルジョワジーの利益と合致するものであった
 「二重の革命」の影響は広範囲に及んだ。フランスにおいて典型的に実現されたとされる「国民国家」は、ヨーロッパ内外を問わず政治的なモデルと見なされるようになった。これが近現代の世界におけるナショナリズムの大きな源流のひとつである。(20)1848年にハプスブルク帝国内に噴出した民族の自治や独立を求める動きや、イタリアとドイツの統一国家建設は、「国民国家」という新たな規範がヨーロッパの政治に与えたインパクトを物語るものであった。また、多くの欧米諸国では、国民の権利意識や政治参加を求める主張が強まり、一定程度の民主化が進展した。民主化の潮流は、一方では、(21)労働者層の権利意識を高め、ブルジョワジー主導の自由主義的秩序の変革を目指す社会主義思想の普及につながったが、他方では、拡張的な対外政策への大衆的な支持の高まりや、(22)「国民」とは異質な存在と見なされた集団への差別にもつながった。「長い19世紀」を終わらせることとなる第一次世界大戦は、こうして蓄積されていたナショナリズムのエネルギーの爆発という側面を有した。
 一方、ヨーロッパとアメリカ合衆国で工業化が進展した結果、欧米世界は、世界の他地域に対して圧倒的に強力な経済力と軍事力を獲得していった。(23)欧米以外の多くの地域では、工業化した諸国に経済的に従属する形で経済開発が行われ、19世紀以前とは大きく異なる貿易パターンが出現した。国民国家の建設および工業化を進めた諸国とそれに遅れた諸国との間の力関係は、前者の後者に対する圧倒的な軍事力の行使や、不平等条約として表面化した。(24)19世紀中葉から後半にかけて、欧米以外の諸国における上からの改革の動きは、経済や軍事の面で欧米諸国に追いつくことを大きな目標としていたが、その多くは挫折することとなった。のちにフランス革命前の「第三身分」になぞらえて「第三世界」と呼ばれるようになる地域の多くは、19世紀末までに欧米諸国の植民地や勢力範囲に分割されることとなる。これらの地域に台頭する(25)反植民地主義的ナショナリズムは、ホブズボームが「短い20世紀」と呼ぶ時代の世界史を大きく動かす原動力のひとつとなっていく。


 (12) 主著『経済学および、課税の原理』で、比較優位に基づく自由貿易の利益を説いた人物の名を記せ。
 (13) 18世紀から19世紀初頭にかけて、イギリスにおいて議会主導で行われた農地改革を何と呼ぶか。
 (14) 1830年代末から1840年代にかけて、イギリスでは、ブルジョワジーがみずからの利益を実現するために、ある法律の廃止を要求する圧力団体を結成し、法律廃止を実現した。この法律の名称を記せ。
 (15) イングランド北・中部の手工業者や労働者が起こしたラダイト運動とは、どのような運動であったか。
 (16) この勢力を何と呼ぶか。
 (17) この議会の名称を記せ。
 (18) この事件を何と呼ぶか。
 (19) 19世紀前半のフランスでは、工業化をめざす政策が採用されたにもかかわらず、実際の工業化の進展は緩慢であった。その理由を述べよ。
 (20) このときに、ある民族集団は、一時的にハプスブルク帝国から独立した政権を樹立した。この民族集団の名を記せ。
 (21) 1886年にアメリカ合衆国で結成された、熟練労働者を中心とする労働組合の名称、を記せ。
 (22) 19世紀末のフランスで発生したある事件は、反ユダヤ主義を反映するものであるとして、ゾラなどの知識人から批判を浴びた。この事件の名を記せ。
 (23) 19世紀前半に、イギリス、インド、中国の間に出現した三角貿易を通じて、イギリスは対アジア貿易で黒字を計上するようになった。この貿易黒字は、どのようにして実現されるようになったのか。イギリスとインドの貿易商品に言及しつつ、簡潔に説明せよ。
 (24) 19世紀後半に清で行われた富国強兵をめざす改革運動を何と呼ぶか。
 (25) 1925年にホー=チ=ミンが結成し、のちにベトナムの独立運動を中心となって担っていく組織の母体となった団体の名称を記せ。

 

コメント

第1問
 課題は「崩壊の危機に瀕していた……異なる理念にもとづいて特定の人々を糾合することで、国家の解体を食い止めようとした。オスマン帝国の大宰相ミドハト=パシャ、皇帝アブデュルハミト2世、統一と進歩委員会(もしくは、統一と進歩団)、そしてトルコ共和国初代大統領ムスタファ=ケマルが、いかにして国家の統合を図ったかを、時系列に沿って」でした。
 危機に対する解体防止策を時間順に書いてくれ、というものでした。4つの人物・団体について、「異なる理念にもとづいて特定の人々を糾合」したか、をていねいに解説することが求められています。
 ミドハト=パシャにとっての危機は、タンジマート(恩恵改革)の下で西欧的な工業化をすすめていくうち、「土着産業の没落をうながし、外国資本への従属がかえってすすんだ(詳説世界史)」ことでした。クリミア戦争に勝利しながらも、戦費を借りたたために大きな負債が重なりました。またボスニアの反乱に対するオスマン帝国の対応に対してロシアの非難がかまびすしく、戦争も予想される状況でした。この危機をどう打開するかが課題でした。
 あらゆる面での遅れを痛感したミドハト=パシャは、近代的な憲法を制定することで課題の答えにします。近代的な市民の権利をもとに二院制議会と責任内閣制を原則にしました。議会や内閣の権限を拡大することはスルタン権力を規制するものでした。ムスリム(イスラム教徒)と非ムスリムの平等も規定しています。「安倍談話」の中でアジア最初の憲法を日本国憲法と勘違いした表明がありましたが、このミドハト憲法がアジア最初の憲法です。そのようにセンター試験でも出題されました(1998年度問7)。「特定の人々」とは近代化を推進してきた立嫌派です。これに該当する表現としてしは、2014年度に改訂した用語集に「新オスマン人」が加わりました。頻度は少なく2です。説明ではこうあります。

 「新オスマン人」:宗教の違いをこえて「オスマン人」として共存・協力を呼びかけるオスマン主義にたち、自由主義的立憲運動を推進し人々。

 ミドハト=パシャ自身がこれに該当し、反専制・自由主義・立憲を主張する人々のことでした。しかしこの誤句が使えなくてもいでしょう。つまり西欧的な立憲政治を導入すべきと考えていた人々です。

 しかし君主権の強化をねらっていたアブデュルハミト2世は、即位したばかりであり、憲法は容認しながらも、露土戦争が始まったので非常時大権を利用して憲法を停止しました。立憲君主政は、1年2ヶ月しかつづきませんでした。叔父アブデュルアズィズがミドハト=パシャによってクーデターで廃位され、その後を継いだ兄のムラト5世も精神疾患ですぐに退位しました。このような弱い地位をなんとか強力なものにしたいと考えたようです。スルタン=カリフ制を強化することが危機への対応でした。「特定の人々」とは専制政治を支持する保守派です。パン=イスラーム主義(西欧に対抗してムスリムの団結を)を固辞し、皇帝は秘密警察を結成して密告を奨励し、軍部を利用して厳しい弾圧を行ないました。
 
 統一と進歩委員会(青年トルコ党、青年トルコ人)は、憲法復活をねらう知識人・開明的軍部グループの団体です。ロシア第一革命(1905)、イラン立憲革命(1906)という周辺国の立憲の動きが憲法復活を求める運動を促します。またアブデュルハミト2世の軍隊の一部だけ優遇したり、給与遅配、兵器不足など、冷遇に不満をもっているグループ・青年将校たちがおり、かれらが「特定の人々」です。自己の危機を打開するものが憲法の復活でした。サロニカ市の軍が蜂起して、かれらの革命が成功しました。再び立憲君主政となります。

 ムスタファ=ケマルの危機は、モロッコ事件を契機とする伊土戦争、バルカン戦争による領土縮小、そして第一次世界大戦の敗戦です。どの戦争にも参戦して負傷したケマルは、啓蒙思想に心酔した士官学校卒業のエリートで、アブデュルハミト2世の姿勢に反感を持っていました。第一次世界大戦終結とともに、イスタンブールのスルタンに対してセーヴル条約がつきつけられ、帝国の大幅な領土縮小が強制されました。ここに危機は全国民的なものになりました。オスマン帝国議会議員たちはアンカラで大国民議会を開きます。条約で認められた地帯を奪うべくギリシア軍が入ってきました(イズミル出兵)。ギリシア軍に対して、ケマル=パシャ率いる抵抗軍「国民軍」が対抗し勝利します。アンカラ政府は大国民議会で、スルタン制廃止を決議することになりました。イスタンブールとアンカラの二重権力をアンカラに一元化しました。ケマルは議会にカリフ制の廃止も決議させ(1924)、政教分離の新国家体制をつくりあげます。これらは啓蒙思想の実現でした。脱イスラムの動きは、一院制議会、主権在民、任期4年の大統領制、一夫一婦制、女性のチャドルを廃し参政権を認めて女性解放も実現、イスラーム暦やトルコ帽の廃止、文字改革(ローマ字採用)と矢継ぎ早に改革を実行しました(トルコ革命)。セーヴル条約はローザンヌ条約に改訂させました。ここでの「特定の人々」は青年将校に一般の人々も入ります。

第2問 解説省略

第3問
 課題は「(1)性格はどのように変化したのか、中世ヨーロッパの(2)政治・(3)宗教・(4)経済にどのような影響を及ぼしたのか」の4点でした。
 (1)性格は初めは「聖地回復の聖戦」であったものが、どう変化したか、ということでもあり、これは明快に現れるのは第4回十字軍でした。依頼してきたビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを陥れて、この都市を略奪し、帝国の所有していた商業基地をうばったことでした。ヴェネツィア商人の意図が第一に完徹された十字軍でした。今もヴェネツィアのサンマルコ大聖堂の屋上に、そのときの戦利品が秘蔵されています。この第4回からを後期十字軍、第3回までを前期十字軍と区別します。商業的利益が優先し、聖戦でなくなったと、とるからです。この第4回十字軍の後には少年十字軍(1212)といわるものもあり、少年少女たちはムスリムに売り渡されました。
 ただし予備校の解答例にあるように「第6・7回十字軍でのエジプト・チュニジア遠征に見られるように世俗的要素が強まった」のではありません。「第6・7回十字軍」はルイ9世が指揮した十字軍であり、第6回はルイ9世がイェルサレム奪回のために指揮しており、何も世俗性はありません。「エジプトへ」行ったから「世俗的」というのも変なとりかたです。イェルサレムを支配していたのはカイロを都にしているアイユーブ朝であり、第1回十字軍からセルジューク朝とだけ戦ったのでなく、イェルサレムではカイロをつくったファーティマ朝と戦いイェルサレムを奪っていて、その後もアイユーブ朝・マムルーク朝というエジプトの支配者がイェルサレムを領有しており、イェルサレムを確保ししようとしたらエジプト遠征も不可欠であったのです。第7回もチュニジアのスルタンがキリスト教に改宗しそうだというガセネタを信じて指揮したもので、ここにも世俗性はありません。ルイ9世が死後に聖人になったのはこの行動のゆえでした。

 (2)政治への影響
 「中世ヨーロッパ」は西欧だけを考える必要はありません。とくに十字軍は東欧、とくに当時最大の帝国たるビザンツ帝国と関係した軍事行動であり、十字軍兵士は東欧諸国を通過していきました。この問題の類題は 2018年一橋第3問の空間革命があります。この問題文にも「ヨーロッパ」とありますが、東欧・ビザンツ帝国も考慮すると全体像が見えてきます。
 政治面の十字軍の影響は、以前の皇帝権の強い時代(オットー1世の時代)が、11世紀からの叙任権闘争と十字軍の初期の成功で教皇権がたかまっていくことでした。教皇権は宗教だから「政治」に入らないと考える必要はありません。当時の西欧の土地の3分1は教会領であり、そこに指令がだせるトップは教皇であり、たんにイタリア半島にある教皇領だけの領主でありません。ましてインノケンティウス3世のときには英王ジョンを破門にし、仏王フィリップ2世も破門し、ラテン帝国も破門にできる君主でした。ポルトガル伯爵をスペインから独立することを認めるとともに自己の家臣にしました。上記の英仏王も家臣として臣従させることで破門を解きました。皇帝に代わって全欧に軍事行動を呼びかけることのできる唯一の君主でした。十字軍はヨーロッパの最高権限が教皇に存在することを証明したデモンストレーションでした。
 しかし十字軍の失速とともに教皇に呼びかけに応じる各国の王・騎士は少なくなり、パレスティナにも十字軍の基地はなくなりました(1291)。しかしルイ9世のように率先して十字軍を指揮しようとするフランス王の権威はたかまりました。ただこれをもって西欧全体に「国内での中央集権化が進展」(ある予備校の解答)などと書いてはだめです。いくらなんでも絶対主義の時代がすぐ近づいたのではありません。権威がたかまるのと、集権という体制ができるのとはちがいます。教皇・貴族の没落(アナーニ事件・ばら戦争・ブルゴーニュ戦争)と身分制議会(模範議会・三部会)の成立という、14〜15世紀の2世紀がまだ必要です。

 (3)宗教への影響
 教皇の浮沈は上の政治で扱ったので、他の宗教面の影響を考えます。なにより十字軍が当時は「巡礼」の一つであったのように、巡礼熱が西欧全体に広がっていて、「開墾運動、オランダの干拓、エルベ川以東への東方植民、イベリア半島の国土回復運動、巡礼の流行などがそれである。なかでも大規模な西ヨーロッパの拡大が、十字軍であった。……この間、聖地への巡礼の保護を目的として、ドイツ騎士団などの宗教騎士団が各地で活躍した。(詳説世界史)」と。また東京書籍では「十字軍とその影響」という章で「キリスト教が庶民の世界にまで広まるとともに、ローマ、イェルサレム、サンティアゴ=デ=コンポステラなどへの聖地巡礼がさかんになった。ところが、キリスト教の聖地の一つであるイェルサレムは、……」と書いてます。
 しかし宗教的な情熱は、他の宗教への排他的な運動にもむすびつきました。ユダヤ人迫害です。ユダヤ人は中世都市の一角ゲットーに隔離され、胸にユダヤ人の星マークを付けたり、ユダヤ人はキリスト教徒を告発したり,不利な証言をしたりしてはならない,キリスト教徒を食事に招待したり、また結婚したりできない、キリスト教徒を農奴その他として雇用することもできない、と2度のラテラノ公会議で(第3回1179,第4回1215)決定されました。これらは今もつづくユダヤ人迫害の起源です。
 また「北の十字軍」といわれる東方植民は、この問題の十字軍と連動してスラヴ人地帯への征服と布教がおこなわれました。たとえば北ドイツの諸侯は第2回十字軍に参加するかわりに、北方の異教徒(スラヴ人のこと)に対する十字軍を起こさせてほしいという要請に教皇は認可を与えています(1147)。異教徒であるがためにスラヴ人の多くの諸民族が虐殺され、子供は奴隷化され、ドイツ人の植民地にされました。現在のポーランドから南はウクライナの地帯までドイツ人騎士・商人・修道士たちが蹂躙していきました。
 教会建築では、イスラーム建築のもつポインテッドアーチという尖った屋根をつくることがはやり、ロマネスク様式をゴシック様式に変えました。どこまでも高く高く伸びようとする「石の森」といわれるゴシック教会が高さを競って建てられました。

 (4)経済への影響
 何より十字軍の後半はイタリア商人の利益が追求されたように、地中海世界におけるイタリア商人の地位が高まります。ヴェネツィアとジェノヴァが覇をきそい、とくに前者がイタリア半島から東地中海(レヴァント)貿易の覇者となりました。カイロのマムルーク朝との貿易は、インドのグジャラート半島(港ディウ)との交易につながっていました。地中海とペルシャ湾を結ぶ「東方貿易」は西欧商業の復興「商業ルネサンス」と呼ばれるほどに全欧にまたがる広域経済に発展しました。地中海世界が起点となり、北の北海・バルト海の交易圏、シャンパーニュを中心に途中の中継地交易圏も生まれました。
 しかしこの地中海を軸とするヨコの交易の発展は、それまでスカンディナヴィア半島とウクライナ、バグダードにいたるタテの交易を衰えさせ、東欧・ロシア諸国の分裂をきたすことになりました。さらに13世紀にモンゴル人の来襲がおき、都市の破壊と略奪がおきました。東欧は14〜15世紀の「名君の世紀」になって回復してきます。

第4問 解説省略
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解答例
第2問
A
a 劉備
問 1荀子 2始皇帝 3蔡倫 4九品官人法 5四六駢儷体(四六体) 6孝文帝 7玄奘 8ソンツェン=ガンポ 9龍門石窟 10西太后 11燕雲十六州 12銀 13院体画 14秦檜
B b 天津 c 重慶
問 15ア 廂軍 イ ゴードン 16陳独秀 17五・三〇運動 18ヴィシー政府 19崔済愚 20フェルビースト 21 ア 甲申事変 イ 清仏戦争 22張学良 23無制限潜水艦作戦 24 ア 汪兆銘(汪精衛)イ 李承晩

第4問
A a アレクサンドリア b プトレマイオス
1エウクレイデス 2貴族・将軍たちに軍事奉仕の代償に、国有地の管理を容認したが、分権化の要因となる。3アリストテレス 4ナポリ王国 5仏王フィリップ4世の聖職者課税に反対した教皇ボニファティウス8世を逮捕し、釈放後憤死せしめた事件 6エラスムス 7カール5世 8ツヴィングリ 9モルッカ諸島 10リシュリュー 11ア メキシコ イ フアレス
B 12リカード 13第2次囲い込み(エンクロージュア) 14穀物法 15ナポレオン戦争中におきた機械打ち壊し運動 16フイヤン派 17国民公会 18テルミドールの反動(9日のクーデタ) 19農業社会として安定していて、中小農民が多く、囲い込みが起こらなかったから 20マジャール人 21アメリカ労働総同盟(AFL)  22ドレフュス事件 23イギリス綿製品を買わない中国に対してインド産アヘンを密輸出することで得た銀で中国茶を買っても、銀が残った。24洋務運動 25ヴェトナム青年革命同志会

2017阪大世界史

第1問(共通)
 次の文章は、フィレンツェの商人であったフランチェスコ・ペゴロッティが1330年頃に編纂した『商業の手引』の一部である。これを読んで、下の問1〜問2に答えなさい。

 中国はきわめて多数の都市や町を含む地方である。なかでも、特別な都市すなわち首都があり、そこには多くの商人が集まり、交易量も膨大である。その都市はカンバリクと呼ばれる。(中略)
 1人の商人が、通訳1人・召使い2人を連れて、25.000フロリン金貨に相当する品物を持っていくと、中国までの途上で60〜80ソンミ*の銀を支出すると見積もられる。節約すれば支出はそれ以上にならない。また、中国からタナ*に戻る際の費用は、生活費や召使いへの賃金さらにその他の諸経費を含めて、荷駄獣1頭につき5ソンミもしくはそれ以下である。銀1ソンモは5フロリン金貨に換算できる。(中略)ジェノヴァやヴェネツィアから中国へ旅しようとするなら、麻布を持っていくとよい。ウルゲンチ*に行けばこれらをうまく売ることができる。ウルゲンチでは銀塊を買い、これを持って、他のものは買わずに進むとよい。(中略)
  商人が中国まで運んできた銀はすべて、中国の君主がとりあげて彼の金庫にしまってしまう。そして銀を持ってきた商人には、引き換えに紙幣が与えられる。この紙幣は黄色い紙で、中国の君主の印が捺されている。この紙幣はバーリシュと呼ばれ、これで絹織物やその他、買いたい品物を買うことができる。この国のすべての人々は、この紙幣を受け取るよう定められている。」(中略)中国では、銀1ソンモで3枚から3枚半のダマスク絹が入手でき、また同様に銀1ソンモで3枚半から5枚のナシジ織を購入できる。

 *ソンミ:ソンモの複数形。ソンモは約370gの銀塊をさし、貨幣単位としても使われた。
 *タナ:黒海北岸の都市
 *ウルゲンチ:中央アジアの都市

問1. この書物が編纂された当時のイタリアの政治状況について、地域差やさまざまな政治・宗教勢力に注意しながら、説明しなさい(150字程度)。

問2. 引用史料の下線部で述べられているシステムが当時の中国経済に与えた影響について、前後の時代やユーラシア西方地域との相違点などにも注意しながら、説明しなさい(250字程度)。

第2問(共通)
 2017年は、ロシア革命(十一月革命)が起こってから100周年にあたる。ロシア革命は、生産手段を公有化した最初の社会主義革命であった。ロシア革命とその結果成立したソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦)によって、何が達成され、何が課題として残されたのか。次の用語をすべて使って説明しなさい(300字程度)。

 民族自決 五カ年計画 冷戦 人工衛星

第3問〔文学部のみ〕
 次に示す図1は、紀元後2世紀頃のガンダーラ地域で制作されたと考えられる仏像である。また図1の矢印で指示した囲み部分を拡大したものが図2であり、ギリシア神話に登場する英雄ヘラクレスを表わしたものと考えられている。このような像がつくられた歴史的背景を文化交流と仏教の発展という二つの側面に注目しながら、説明しなさい(200字程度)。

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第3問〔外国語学部のみ)
 太平洋(the Pacific Ocean)とは、南米大陸を越えたマゼランがグアム島へ至る航海の際に嵐に遭わなかったことから「平穏な海(Mare Pacificum)」と名付けたことに由来する。この世界最大の大洋にはオーストラリア大陸をはじめ、メラネシア、ミクロネシア、ポリネシアに区分される島々が点在する。今日では「環太平洋地域(the Pacific Rim)」という地域概念が生まれ、アジア太平洋経済協力(APEC)や環太平洋パートナーシップ協定(TPP)のように、太平洋を囲む国家間で協力が進展しつつある。下の問1〜問3に答えなさい。

問1. ヨーロッパにおいて太平洋という地域のイメージは探検家の業績から刺激されることとなった。ボリネシアの島々を探検して現地の人々と交流し、現地の情報をヨーロッバヘ伝えた人物について、当てはまるものの記号をすべて記入しなさい。

 ア、コロンブス  イ、タスマン  ウ、クック
 エ、アムンセン(アムンゼン)

問2. もともと大西洋国家であったアメリカ合衆国は、今日の環太平洋地域における協力を主導している。アメリカ合衆国は、太平洋を囲む地域に対してどのように政治的な発言力を有するようになったか。1860年代〜90年代と1940年代後半〜80年代のそれぞれの過程についてその時期に起きた戦争と関連させながら説明しなさい(それぞれ80字程度)。
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コメント
第1問
問1. 課題は「当時(1330年頃)のイタリアの政治状況について、地域差やさまざまな政治・宗教勢力に注意しながら」でした。
 課題そのものが解答を示唆しています。つまり「さまざまな政治・宗教勢力」に分裂していて、「政治状況」は統一には程遠い状況であったということです。これについてはたいてい教科書にそれを示す地図が載っています。とくに「ルネサンス時代のイタリア」(詳説世界史、p.205)として、北部には西にサヴォイ王国、そのすぐ南にミラノ公国、ジェノヴァ共和国があり、東北部にはヴェネツィア共和国、中部にはフィレンツェ公国、ボローニャ公国やシエナ共和国が割拠しています。そして中部には帯のようにローマ教皇領があり、南部は最大の国たる両シチリア王国があります。この状況は統一される19世紀までほとんど変わらないで分裂したままでした。このモザイク状態の半島で、「政治……勢力」としては、都市間と都市内部で皇帝党(ギベリン)と教皇党(ゲルフ)の抗争が起きています。またこれらの都市国家がコムーネという名で呼ばれるように、貴族や大商人らが周辺の中小都市や農村も支配下におく自治的な経営をしていて、皇帝から特許状をもらっています。「宗教勢力」たるローマ教皇は、1303年のアナーニ事件、アヴィニョンに教皇庁が移る「教皇のパビロン捕囚」とシスマ(教会大分裂、1378〜1417)を体験しています。これらの一部を書けば解答になります。

問2. 課題は「システムが当時の①中国経済に与えた影響について、②前後の時代やユーラシア西方地域との相違点などにも注意しながら」でした。
 難問です。下線部は紙幣しか使えない元朝の方針が「中国経済に与えた影響」という経済学のような問題です。紙幣はどれたけでも刷ることができ、一方で無価値な紙幣とちがい、価値のある銀塊を元朝政府は独り占めにしてしまう、というこの「システム」はどんな影響を与えたか、という問いでした。
 紙幣はそれ自身は無価値ですが「買いたい品物を買うことができる」という疑似価値が付けられていて、本物の銀と同等の機能を果たしています。すると「中国の君主の印が捺されている」という根拠があれば、信用の印なので、軽い紙幣だけで経済は回ることができる、ということで、流通を盛んにする、という影響が考えられます。また銀塊を独占する元朝政府に富をもたらし、ますます信用の度合が増します。豊かな中国の品物が中国を軸にして周辺にも遠隔の地にも行き渡る、と考えられます。
 しかしながら、「国教とされたラマ教の保護にも巨費が投じられ、その財源をうるために交鈔の乱発・塩税の増徴・新しい税目の設置などがくり返されて民衆の生活は疲弊した(詳解世界史)」と豊かな銀塊を湯水のように使いだすと、紙幣「交鈔」の信用度も落ちてしまい、紙幣の紙くず化が進行します。
 阪大の教師たちが著した『市民のための世界史』には、次のように書いてあります。

 帝国全域で銀を基本的な貨幣として取引がおこなわれ、それを補うために紙幣(交紗)も発行された。陸海のネットワークの結節点として建設された首都の大都には莫大な財貨が集中し、集まった富はモンゴル王侯から御用商人への投資などにより帝国全土に循環した。……朱元璋(洪武帝・在位1368〜98年)は、多くのモンゴル人を服属させただけでなく、民衆を職業別に区分し編成する方法(注)、紙幣の使用などにおいて、元朝の遺産を引き継いだ。(注:ただし元朝と違い、銀の裏付けがなかったため、15世紀には価格が暴落し、使われなくなっていった。)

 明朝も実は紙幣を発行します。ある予備校(K)の解答文では「明では、紙幣は使用されなくなったが、銀をもとにした貨幣制度は引き続いて実施された」とありました、まるで発行されなかったかのようにも採れます。ちゃんと紙幣を印刷して発行しています。明朝前半は流通していました。わたしその1枚を持っています。もう500年前のものなので紙が黒ずんでいて読めないので、ネットにある画像を貼りつけておきます。上段に「大明通行宝鈔」と印字されているのが判読できますか? この「大明」が明朝を指しています。

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 なおこの問題は「影響」を問うているのに、たんに貨幣の歴史的流れを書いている答案例(O)があります。それではだめです。宋代の銅銭・紙幣から紙幣一本の元朝、そして明朝の銀流通と。これ書いて何の応答になっているのか?

 ② 西方地域との相違点は、紙幣がないことです。紙幣だけ流通させるというやり方は西方にはなく金貨・銀貨・銅貨を発行して流通させています。それは秤量(ひょうりょう)貨幣といって、重さと質で価値を測って流通する貨幣です。金貨は金そのものでなくても、金に近い価値で流通する、いわば「現生(げんなま)」です。それ自身に価値があります。ビザンツ帝国の金貨ソリドゥス金貨のように純度98%というのもあり、ローマ帝国末期の純度30%という偽金に近いものもあります。
 西方、とくにイスラーム世界の貨幣については2003年度センター試験・世界史B・追試の第3問・Bに次の記事がありました。

イスラム世界では7世紀に即位したカリフ・アブド・アルマリクの統治下で初めて貨幣改革(通貨統一)がなされ、独自のディーナール金貨、ディルハム銀貨などが発行された。この金貨はビザンツ金貨・銀貨やササン朝ペルシア銀貨を継承するものであった。この貨幣改革によって、広域にわたる経済活動が促進された。また改革の際に、貨幣の図案からは、偶像崇拝を禁ずるイスラム教の教義に従って図像が取り除かれ、『クルアーン(コーラン)』の一節や支配者名など、アラビア文字中心の図案に変更された。さらに、この改革が発達を促進した貨幣経済の下で、アター制が展開したが、徴税機構の混乱などから、イクター制がこれに取って代わった。

第3問
 課題は「ロシア革命とその結果成立したソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦)によって、何が達成され、何が課題として残されたのか(指定語句→民族自決 五カ年計画 冷戦 人工衛星)」でした。これを(300字程度)で書く。
 「達成」というプラス面と「課題」という達成できなかったマイナス面とを書け、という課題です。
 こういう問題の場合にソ連史を流れとして書いてしまわないこと。指定語句がさも流れを書かないと完結しないような出し方をしているのに注意です。
 あれもこれも書けませんが、列挙してみましょう。
 達成。①ロマノフ朝を倒して共和政国家をつくります。
 ②後で崩れるとしても市民的な自由を認めています。つまり民主主義です。ロシア革命はたんに社会主義革命というだけでなく、それまで果たされなかった民主主義革命、あるいはブルジョワ革命もやらなくてはならなかったのです。1905年の第一ロシア革命のさいにいったん憲法制定・国会開設とまでいき選挙も行われたのに、ストルイピンが改悪していきました。ああ、なんか「流れ」に吸収されそうな文章になりました。気をつけなくては。つまり市民的な自由である、言論・集会・結社・信仰の自由を認めました。男女平等も実現しました。
 ③社会主義としては、土地の国有化と、その使用を農民に許可する、というかたちにしました。つまり大土地所有者がいなくなりました。大企業も国有化します。いずれ中小企業も国有化しますが、戦時共産主義のさいに中小企業は私営にもどしますが、大企業は国有化のままでした。④五か年計画によって、農業国を集団化と重工業化によって工業国(工業中心の国)に変えました。
 ⑤民族自決も実現しました。あくまで各民族国家の連合・連邦というかたちにしました。表向きでしたが。
 課題は限界でもあり、失敗でもあります。ゴルバチョフがペレストロイカ(改革)・グラスノスチ(情報公開)をやらねばならなかった、という切り換えで初期の革命時の政策が実現しなかったことを証明しています。いや実現しなかった、というよりその反対のものをつくりあげた、といったほうが正確です。
 上の達成したはずの①共和政・②民主主義は共産党独裁、いや個人独裁に堕落していき、専制君主政にひとしい体制になりました。とくに民主主義は否定されました。人権を否定し、反体制のひとびとを逮捕・投獄・強制移住・強制収容所(ラーゲリ/グラーグ)送りといった監獄社会、巨大粛清マシーン(ソルジェニーツィンの『収容所群島』)をつくりあげました。五か年計画のさいに意図的に「富農」をつくることで、社会主義国には富農は要らず、貧農の味方であることを偽装しました。富農とされた者たちは銃殺か強制移住が課され、強引に人減らしが実行されます。移住した者たちには死が待っていて、死ぬために移住させられました。ソ連は全土に476カ所の強制収容所とその支部・牢獄を土台にして経営した国家でした。ソ連崩壊後も秘密警察の一員であり、保安庁長官であったプーチンはこの体制の傾向を引き継いでいます。
 ③④ 社会主義は、土地、機械、道具、原材料という「生産手段」を国有化します。少なくともソ連は国家が経済のすべてを統制するので、国有化した以上、市場で売買されないので、「(市場)価格」が存在しません。なので生産手段を使った事業の採算を判断できません。となれば非効率にならざるをえず、貧困が広がり、経済「成長」が阻害されます。本多勝一の『新ソビエト紀行』には次のような話が載っています。

 ホテルで昼食をとっていたときビタリクが言った——「ロシアは豊かですねえ。革命以来70余年間ああいうふうに盗んだり私物化したりしても、なんとかやってこれたんだから」。
 彼は食堂の従業員たちが帰ってゆくところを見て言っているのだ。ケーキだのパイだのお茶の葉だのを、手に手に袋に入れて出てゆく。
 「あれは堂々と盗んで出てくるんです。全員が日常的にやっているもんだからお互いさまで、かくす必要がないんですね。ときには民衆が普通では買えないものを安く手に入れるということもあるけど、たいていは泥棒です」
 月給200ルーブルでは絶対的に生活できないので、それぞれがこのように職場で泥棒やアルバイトや私物化をやって帰り、友人・同僚・親類といったコネの社会、つまりは「計画経済の裏側」の世界で物々交換して助けあう。ということになると、泥棒や私物化の可能な職業ほど人気が高く、逆にそれが困難になるほど人気がなくなる。前者の典型のひとつが食堂の従業員や国営食料品店だ。とくに食料品店の場合、自分たちの分をまず確保した上で、2番目にヤミに流す分、第3にようやく公式に売る分、という順序なので、庶民の中では食品店従業員が最も金持ちとされている。……計画経済は略奪的な完全放任無計画経済がその実態に近いことになろう。

 ⑤レーニンは『平和に関する布告』で交戦国と「民族自決に基づく無併合・無賠償」をアピールしました。そしてソ連は共和国・自治共和国の連邦というかたちをとったので民族自決は実現しました。しかしこれらの諸国は共産党の下部組織として位置づけられ従属しているのが実状でした。宗教(正教・イスラーム教)は弾圧され、民族自決が封印されていきます。レーニンは『国家と革命』の中で中央集権を批判し、民族自決は「民族の政治的分離独立の権利」を指していました。だが一方でレーニンは政治家としては中央集権論者でもありました。結局、著書やアピールで理想論を唱えても、それを自ら裏切っていったのが実状でした。このことは東欧諸国を従属的な「衛星国」にして、その自治性を否定していった経緯からも明らかです。反ソの動きはたいてい軍事的な鎮圧で応じました(東ベルリン暴動、ハンガリー暴動、プラハの春)。
 指定語句の「人工衛星」が大事なのは、1957年10月ソ連がスプートニク1号の打ち上げに成功したが、何も宇宙開発ができる、という点ではなく、衛星を飛ばす技術であるロケットを空でなく敵に打ち込める、という点にあります。大陸間弾道弾(ICBM) の開発につながった点です。冷戦の深刻化です。

第3問〔文学部のみ〕
 課題は「このような像がつくられた歴史的背景を文化交流と仏教の発展という二つの側面に注目しながら」でした。①文化交流と②仏教の発展について書くことです。
 ① なんか仏像と「英雄ヘラクレスを表わしたものと考えられている」は違和感があります。この関連が分からなくても、一応「交流」の史実は答えられるでしょう。つまりアレクサンドロス大王の東方遠征、それによるヘレニズム文化の東伝、それがアフガニスタンにすでにあったインド文化、とくに仏教と融合して、初めて仏像が造られた、融合の時期はインドではクシャーナ朝の保護をうけた大乗仏教普及期でもあった、という内容です。
 なお「英雄ヘラクレス」は仏教では仏教を守ってくれる執金剛神(しゅこんごうじん)という武神に変身します。仏教はいろんなものを吸収するお化けみたいなところがあります。
 ②「仏教の発展」はこの融合面が教義にも表れてきます。それまでの小乗仏教(上座部仏教)では出家した僧侶だけが救済(解脱、悟りの世界)に入れる、自己救済に専念する修行的な仏教でした。それが出家しなくても、在家のままで救済される。衆生済度(しゅじょうさいど)といって、生きとし生けるものすべてが救済される、大きな乗りものに乗れますよ、という意味をこめて大乗仏教ともいいます。それが北伝仏教として中国・朝鮮・日本へと伝わっていきました。またブッダだけでなく、他人のために苦行をするする修行者を菩薩(ブッダに近い仏)として信仰する菩薩信仰も広がり、崇めるものが増加します。多神的な仏教です。

第3問〔外国語学部のみ)
問1. 「ボリネシアの島々を探検して現地の人々と交流し、現地の情報をヨーロッバヘ伝えた人物」を選べ、という問題。コロンブスはキューバまで行ったが中南米を越えて太平洋には入っていません。またアムンゼンは南極に到達した探検家です。するとタスマニア島・ニュージーランド・フィジー島を回ったタスマン、ベーリング海峡からニュージーランドまで探検しハワイ島まで、ほぼ太平洋全域を回ったクックが該当します。

問2. 「アメリカ合衆国は、今日の環太平洋地域における協力を主導している。アメリカ合衆国は、太平洋を囲む地域に対してどのように政治的な発言力を有するようになったか。①1860年代〜90年代と②1940年代後半〜80年代のそれぞれの過程についてその時期に起きた戦争と関連させながら説明しなさい(それぞれ80字程度)。
 ①これは想像力をかきたてる問題です。アメリカが「環太平洋地域」でなにをしたか、というので、90年代の米西戦争でグアム・フィリピン領有、ハワイの併合、ジョン=ヘイの門戸開放宣言はすぐ浮かぶでしょう、ただ60年代は浮かぶか? 想起できない場合は東アジア、つまり中国・日本・朝鮮の地図を描いてみる。するとこの3地域にも何かしてないか……、と想像してみる。アロー戦争中の太平天国の乱で常勝軍を創設したのはアメリカのウォードでした。それを英国人ゴードンが受け継ぎます。もっと少し前に日本にペリーの黒船が沖縄(ここで琉米修好条約を締結)から日本にのぼり、日米修好通商条約を1858年に結び、これは60年にワシントン会議で批准書の交換をしています。アメリカ側の全権はハリスだったのでハリス条約ともいいます。1865年にアメリカは英仏、オランダとともに兵庫開港要求事件をおこします。開港したはずの日本は鎖国に戻りがちなため安政五カ国条約の勅許と兵庫の早期開港を迫った事件です。なんとか1868年に神戸港が開き、鳥羽・伏見の戦いで逃げる徳川慶喜をアメリカの軍艦イロコイ号で江戸まで脱出させています。
 少し細かいが、(ジェネラル・)シャーマン号が、1866年に朝鮮半島(羊角島)に近づいて朝鮮農民から反撃をうけて撤退しています。江華島でも交戦しています(1867)。

 ②1940年代後半〜80年代
 40年代はアジア・太平洋戦争で米国は、東アジア・東南アジア一帯を侵略した日本軍の撃退に成功します。原爆を落としてトドメを差しました。
 40年代の末の1950年から朝鮮戦争を展開します。表向きは国連軍でしたが米国が主導します。鴨緑江に近づくと中国が参戦します。日本の自衛隊の起源もできます。米軍の基地は沖縄に集中するようになります。
 またこの1950年からベトナムへの介入を始めます。フランスは54年のジュネーヴ休戦協定で撤退しますが米軍が肩代わりをすることになり、75年まで泥沼にはまります。その間、ニクソン訪中があり中国とは国交交渉を始めます。米中国交正常化はやっと1979年に実現します。台湾(中華民国)・韓国・フィリピン・日本・オーストラリアなどと軍事同盟を結び中国・ベトナムに対する包囲網を築きました(米華相互防衛条約・米韓相互防衛条約・米比相互防衛条約・日米安全保障条約・太平洋安全保障条約・東南アジア条約機構など)。 

問3. 「ヨーロッパでは1993年にヨーロッパ連合(EU)が発足した。アジア太平洋経済協力と比較した場合ヨーロッパ連合に見られる協力の特徴はどのような点にあったか」という問い。
 この問題の類題は、一橋の過去問(2015年第2問)「ECとASEANの比較(400字)」があります。阪大の問題はアジア太平洋経済協力(APEC)なので、ASEANより広い国々を集めています。
 共通点は広域な超国家的な協力機構であり、後で加盟国を増やしていった点、平和維持に貢献しているも共通しています。この問題集の「特徴」は相違点と同じ意味なので、この共通点は要りません。
 ヨーロッパ連合(EU)はその結束性が強く、国家を越えた組織として各国の法を越えた法・議会・裁判所・通貨などをもち、事実上国境のない世界をつくっています。それに対してアジア太平洋経済協力(APEC)は政治的な独立は維持し、主に経済的な協力機構として機能しています。政治的な声明は出しても拘束力はありません。

 

一橋世界史2018


 次の文章を読んで、問いに答えない。
 人間は自分の「空間」についてもある一定の意識をもっているが、これは大きな歴史的変遷に左右されるものである。種々さまざまだ生活形態には同じく種々さまざまな空間が対応している。同時代においてさえも日々の生活の実践の場面では、個々の人間の環境はかれらのさまざまな職業によってすでにさまざまに規定されている。大都会の人間は農夫とはちがったふうに世界を考える。捕鯨船乗組員はオペラ歌手とはちがった生活空間をもっており、また飛行家にとって世界と人生は他の人々とは別の光の中に現われるだけでなく、別の大きさ、深み、そして別の地平において現われてくる。
 (中略)クリストファー・コロンブスがコペルニクスの出現を待ってはいなかったと同様に、歴史的な諸力も学問を待ってはいない。歴史の力の新しい前進によって、新たなエネルギーの爆発によって新しい土地、新しい海が人間の全体意識の範囲の内に入ってくるたびごとに、歴史的存在の空間もまた変わってゆく。そして政治的・歴史的な活動の新たな尺度と次元が、新しい学問、新しい秩序が……始まるのだ。この拡大・発展がひじょうに根深くまた思いがけないものであるために、ただ人間の標準や尺度、外的な地平だけでなく、空間概念そのものの構造まで変わってしまうということもある。ここにおいて空間革命ということが問題になりうる。
 (カール・シュミット著、生松敬三/前野光弘訳『陸と海と一世界史的一考察』より引用。但し、一部改変)

問い ヨーロッパの歴史を考えるとき、この文章で述べられるような「空間革命」が11〜13世紀にかけて見られたと考えられる。それはどのようなきっかけによるものだったか、また、結果としてヨーロッパでどのような経済・社会・文化上の変化が生じたか、考察しなさい。(400字以内)


 近代ドイツの史学史に関する次の文章を読み、問いに答えなさい。

 総じて言えば、一概に古代経済史研究とは称しても、歴史学派〔経済学〕におけるものと〔近代歴史学の〕古典古代学におけるものとは、研究への志向の契機においても、事象の対象化の方法においても、ひとしからざるものが存するのである。歴史学派経済学はその根本の性格においては依然として経済学なのであって──即ち歴史学ではないのであって──古代にも生活のー特殊価値たる経済を発見せんとすることが最も主要な研究契機を形作ってゐるのに、古典古代学にあっては、経済をもそのうちに含むところの古代世界への親炙が研究契機になってゐる。歴史学派においては全ヨーロッパ的経済発展上の然るべき位置に古代経済を排列することが問題になってゐるのに、古典古代学においては、古代と現代とを本来等質の両世界として、又等質たるべき両世界として表象することが主要問題になってゐる。古典古代学にも発展の理念は存するけれども、それは等質の両世界における、同一律動のそして自界完了的なる発展の理念であって、全ヨーロッパ的、又は全人類的発展の観念ではない。古代の事象は、それが経済世界を構成する方向において対象化せられるのが歴史学派経済学における方法であるのに、古典古代学においては、古代の事象はそれが歴史的現実的なる古代を形成する方向において対象化せられる。もしかくの如き観察が──多数の異例は別として──一般的に下されうるものとすれば、古代経済に関する論争が単に史料の技術的操作の辺にのみ存するものではない所以と、論争のよって来るところの精神史的・文化史的深所とをも、同時に理解しうるわけであらう
 (『上原専祿著作集3 ドイツ近代歴史学研究新版』より引用。但し、一部改変)

問い 文章中の下線部について、歴史学派経済学と近代歴史学の相違とはいかなるものであり、また、それはどのようにして生じたのか、両者の成立した歴史的コンテクストを対比させつつ考察しなさい。(400字以内)


 次の文章は、ある朝鮮人革命家が、アメリカのジャーナリストに語った回想を元に書かれたものである。これを読んで、問いに答えなさい。(問1、問2をあわせて400字以内)

 先生は、中学校の教室の前に芝居じみた厳粛さで立ち、生涯忘れられない美しい言葉のあふれる演説をした──今日それはなんと反語的に響くことか!
 「この日、朝鮮独立の宣言はなされた。朝鮮全土に平和なデモ行動が行われよう。われわれはただ独立と民主主義を求めるのみだ。誰もわれわれの正当な要求を拒むことはできない。」
 私たちは彼に率いられて街に出、何千という他の学校の生徒や街の人々と隊伍を組み、歌いながらスローガンを叫びながら町中を行進した。
 デモの途中、町の中で大衆集会が開かれ、そこで新たな独立宣言が読みあげられた。この宣言は国際主義的心情の色彩が濃く、平和精神と万国の国際的信義の擁護とをうたっていた。また中国とインドに共闘の呼びかけを行っているが、中国は山東半島の一部を日本に引き渡す運びとなった日英の秘密条約が発覚してからそれに応じてきた
 私は世界的大運動に重要な役割を演じているような気持ちで、至福千年がついに来たのだと思いこんでいた。しばらくして伝わってきたヴェルサイユの裏切りのショックは大変なもので、私などまるで心臓が裂けてとび出すかと思った。
 (ニム・ウェールズ著、松平いを子訳『アリランの歌』より引用。但し、一部改変)

問1 この文章全体で描写されている運動と下線①が示す運動について、それぞれの名称を示しなさい。

問2 下線②で示されている会議に言及しつつ、両運動の背景および、展開過程、意義を論じなさい。

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コメント

第1問
 過去問1982年の導入文・問題とほぼ同じものでした。ちがうのは300字から400字になっていること、「政治」が「社会」に置き換わったことくらいです。過去問とほぼそっくりな問題を出すということは朝鮮史でも見られますが、この大学の怠慢性を表しているのか、受験生はそれほど古い過去問は解いてこないはずとナメているのか?
 1982年の問い方は以下のものです。このブログの1982年は導入文を省略していますが、ほぼ2018年と同じです。

 中世中期のヨーロッパにおいても著者のいう空間像の変化・空間革命に対応する現象があった。それはどのようなきっかけによるものであったか。またその空間革命の内容をそれ以前の空間意識と対比しながら経済、政治、文化の諸側面について説明せよ。

 この問い方は「以前の空間意識と対比しながら」と今年の「変化」という問いかたより明快性を求めているようにとれます。ただ「変化」とはbeforeとafterであり以前の空間から以後の空間と相違をはっきり書くことは変りません。
 また「中世中期」という言葉が分かりにくかったためか、今年は「11〜13世紀」と時期を指示しています。もしかして出題者はかつての受験生だったのかも知れない。中世は300年ずつ分けて前期・中期・後期と区分するのでなく、前期ははじめの500年間を指し、11〜13世紀を中期とし、後の14〜15世紀を末期(後期)とします。この時代区分は拙著『世界史論述練習帳new』(パレード)でも指摘しています。

 問われているのは「「空間革命」……(1)それはどのようなきっかけによるものだったか、また、結果としてヨーロッパでどのような⑵経済・⑶社会・⑷文化上の変化が生じたか」でした。(1)は十字軍・東方植民・レコンキスタの三個です。ともに軍事行動です。東方植民は過去問2013年度に出題されたテーマであり、『北の十字軍 ヨーロッパの北方拡大』ともいう行動です。これらの軍事行動を初期膨張ともいいます。「きっかけ」は何かが動き出す、ここでは革命がおきる際の勢いを指しているので、たんに気候の温暖化とか、三圃制という技術では弱い「背景」的なものです。
 ⑵⑶⑷はそれぞれ「変化」を書くので、以前と以後を双方とも書けば6つの課題が課せられています。

 ところで空間革命とは何かが気になります。ヒントは導入文にあり、「別の大きさ、深み、そして別の地平……新しい土地、新しい海……、新しい学問、新しい秩序」と書いていて、質的な中身の変化でなく三次元的な広がりを強調しています。
 たとえば次のような解答例があります。

エルベ川以東への東方植民やセルジューク朝の圧力を受けたビザンツ帝国の要請による十字軍遠征、イベリア半島でのキリスト教徒によるレコンキスタが行われ、ノルマン人も南イタリアやシチリア島を征服した。

 これは「きっかけ」にあたる軍事行動そのものですが、さてこの行動の「結果として」どのような「空間革命」が起きたといいたいのでしょうか? 書いてありません。結果として、エルベ川とピレネー山脈とカルパティア山脈の中に閉じ込められていた閉鎖的な空間(before)が、その東部(東欧)に南部(イベリア半島)に東南部(バルカン半島から小アジア・レヴァント)にと広げられ、ヨーロッパが拡大されたヨーロッパ(after)に変貌してきました。
 先の作答者は「きっかけ」と「背景」を混同しているようです。この解答文の前に、「気候が温暖化し、マジャール人ら異民族の活動も止んで社会的安定が訪れると、三圃制など新農業技術の導入もあり、生産力が拡大し人口も増加して」と書いています。この内容は「きっかけ」でなく背景です。
 「きっかけ」と「背景」はどうちがうのでしょう? 前者は、導入文に「クリストファー・コロンブスがコペルニクスの出現を待ってはいなかったと同様に、歴史的な諸力も学問を待ってはいない。歴史の力の新しい前進によって、新たなエネルギーの爆発によって」とあるように何か革命が起きる「前進……爆発」という事件を指しています。「背景」なら学問が該当します。先の解答例の温暖化・三圃制・安定は事件がおきるバックグラウンドや状況のことです。「きっかけ」は「起爆剤・引き金・端緒・呼び水」になるものを指しています。
 次のような解答例はどうでしょうか?

人々の移動が活発化し、都市への人口流入も進んだ。遠隔地商業も発達し、北イタリアのヴェネツィアなどはレヴァント貿易で繁栄した。アルプス以北でも貨幣経済が浸透し、定期市も開催され、中世都市は特許状を得て自治権を獲得した。

 これは経済の変化を書いたのでしょうか? またbeforeの空間がどういものかかがはっきりしません。これはafterを書いているのですが、その内容に空間的なものとしては、「都市への人口流入……レヴァント貿易で繁栄した。アルプス以北でも」といった点が該当するにもかかわらず、空間革命としてこれらを説明していません。
 つまり以前に中世都市という空間はなく、この11〜13世紀に農村と都市の二重空間に変貌したのです。また商業空間は地中海世界にほぼ限られていたものが、北海・バルト海・レヴァント(東地中海)もふくむ全欧に広がったのです。
 「人口流入も進ん……貨幣経済が浸透」は空間というよりも質的な変化なので書かなくていいものです。
 また「社会」の変化はどれがそうなのかはっきりしません。経済と社会をいっしよくたにしたのかも知れません。しかしこれでは得点はとりにくい。「社会」と指定されたら、特別に社会の変化はこうだと説明すべきです。どうやら都市への人口流入を社会的変化としているようで、それなら「社会」を書いてから「経済」を書いたという順が、課題文と合っていません。できるだけ、経済空間の革命は……、社会空間の革命は……、という順で説明すべきです。
 「社会」は政治以外のことを書けばいいのですが(拙著『世界史論述練習帳new』のコラム「社会とはなに?」を参照)、すでに「経済」「文化」は別枠になるので、それ以外とすれば、都市と農村、民族、共同体のあり方、などが考えられます。都市と農村の二重構造はすでに説明しました。民族的にはアラブ人・ベルベル人・ギリシア人(ビザンツ帝国)に包囲されていた西欧は、イスラーム教徒・正教徒を打ち破って、キリスト教徒の集団が進出して、自己の世界を拡大しました。十字軍は当時は巡礼とみられていましたが、その巡礼が盛んとなり、スペインのサンチャゴ=デ=コンポステラへ、イェルサレムへと足が伸ばされました。旅行の空間が拡大しています。

 「文化」空間の革命はどうでしょう? 次の解答文はどうでしょう?

イスラーム世界との接点となったパレルモやトレドではギリシア語やアラビア語文献がラテン語に翻訳され、古典古代文化やイスラーム文化が西ヨーロッパに流入してスコラ学などの発展を促し、新知識を求め人々が集まった都市には大学が設立された。

 書いてある内容にまちがいはありませんが、空間として書かれているのは大学だけです。以前の空間は何だったのでしょう? 修道院や宮殿でした。カロリング=ルネサンスの宮殿、クリュニー修道院のような狭い空間に学問は限られていました。それが11〜13世紀に次々と大学が創設され、学問内容もカトリック教会内の狭いものでなくイスラーム文明の広範な学問を取り入れました。このイスラーム文明を受け入れる「12世紀ルネサンス」という翻訳活動もさかんでした。以前はアーヘンの宮殿でラテン語の復活やカロリング小字体で古典の写本をつくることに専念していました。それがアリストテレスという広い学問を導入して、体系的なスコラ学を完成しました。学問領域も神学だけでなく、法学・医学も加わり、練金術も研究されました。
 また都市には、暗いロマネスク様式に代わり、ギルド毎のゴシック様式の教会が建てられ、ステンドグラスの輝く空間が出現しました。
 他人の答案を批判対象にしたので、わたしの答案もあげておきます。批判の対象にしてください。

(わたしの解答例)
きっかけは十字軍・レコンキスタ・東方植民などの遠征である。経済面の商工業空間は地中海商圏だけであったが、革命の結果、北海・バルト海商圏、中継地のシャンパーニュ、フランドル、更にレヴァント地方も含む全欧的な空間に広がった。社会面の以前は、領主・農奴による古典荘園で孤立していたが、革命後は中世都市とギルドが生まれ、農村と都市の二重構造に変った。民族的にはアラブ人・ベルベル人・ギリシア人に包囲されていた西欧は、イスラーム教徒・正教徒を打ち破って、キリスト教徒が自己拡大をとげた。巡礼はサンチャゴ=デ=コンポステラやイェルサレムへと足が伸ばされた。文化面は文字文化が宮廷や修道院の閉鎖的空間に限られていた。「12世紀ルネサンス」による革命後は大学の学問、世俗文学、都市のゴシック寺院に拡大した。神学だけでなく、アリストテレスを軸とした広い学問領域に拡大し、医学も法学も練金術も研究するように変った。

第2問
 一橋の特徴がよく表れた問題です。大学の講義・試験をそのまま高校生・受験生にぶつける、という落差の大きさです。悪くいえば、あまりの鈍感さです。高校生がどういう世界史を学んできたのか考慮せず、自分の学問が高校生にも分かるはずだという、自己陶酔的・自閉症的な問題です。古代経済史研究(近代歴史学)と歴史学派経済学の比較を求められても、近代歴史学による古代経済史研究がどのようなものか教科書には一切書いてないし、「歴史学派経済学」としてリストの名は挙がっていても、それがどのような経済学なのかハッキリしません。

先駆者リストは、古典派経済学とことなり、おくれた発展段階にある国民経済は国家の保護を必要とすると説いて、ドイツ関税同盟の結成に努力した(詳説世界史)
ドイツのリストは、後発資本主義国の立場から、国家による産業の保護育成の必要を唱え、のちの歴史学派経済学の先がけとなった。(東京書籍)

 という二つの教科書では、「国家の保護」は共通した説明をしていますが、前者の「発展段階にある国民経済」、後者の「後発資本主義国の立場」が「歴史学」派のなんらかのヒントにはなっているとまでは推理できます。しかし古代経済史研究がどのようなものか分からない場合、比較のしようもありません。

 近代歴史学についての教科書の記事は、

ランケらが史料の厳密な検討によって正確な史実を究明する近代史学を基礎づけた(詳説世界史)
近代歴史学の基礎を固めたランケ(東京書籍)

 これをもとに歴史学派経済学は「史料の厳密な検討によって正確な史実を究明」しない学問なのか……、と疑ってみてもらちの明かないことでしょう。受験生の手元にこれを証明する何があるのでしょうか?
 受験生としてはこの問題に対して白紙で返すのが、一つの抗議の姿勢になります。たぶん白紙の多さに採点したひとたち(教授)も納得したのではないでしょうか? 自分が高校生だったときにこの問題は解けたか? 無理だなあ、という感想になるでしょう。
 それでもなんとか書かなくては、という脅迫の中で、考えるとすれば、導入文の文章しか手がかりはありません。文章を拾ってみると、
 
(1)歴史学派経済学は経済学
  全ヨーロッパ的経済発展上の然るべき位置に古代経済を排列する
  全人類的発展の観念
  古代の事象は、それが経済世界を構成する方向
(2)(近代歴史学による)古典古代学は古代世界への親炙が研究契機
  古代と現代とを本来等質の両世界として表象
  自界完了的
  古代の事象はそれが歴史的現実的なる古代を形成する方向

 難解そうな言いまわしがあるけれど、単純化すれば(1)の研究対象は経済学であり、(2)は歴史学なので、ちがうのだ、という馬鹿馬鹿しいくらいの主張です。(1)は経済だけを対象にしていて、(2)は経済も含む古代世界全体を対象にしている、(1)は「古代経済を排列する」とあるように、現代までつづく経済の発展に関心があり、(2)にはそんな関心はない、というものです。

 下線部の「もしかくの如き観察が──多数の異例は別として──一般的に下されうるものとすれば、古代経済に関する論争が単に史料の技術的操作の辺にのみ存するものではない所以と、論争のよって来るところの精神史的・文化史的深所とをも、同時に理解しうるわけであらう」は分かりにくい文章です。「論争」ってどんな「古代経済に関する」論争があったのか日本の高校生が知っているのでしょうか? もし経済学部の大学生に聞いたら知っている学生は何人いるでしょうか?
 導入文のどこにも精神的・文化史的な説明がありません。この下線部を根拠にして、課題文は「歴史学派経済学と近代歴史学の相違とはいかなるものであり、また、それはどのようにして生じたのか、両者の成立した歴史的コンテクストを対比させつつ考察しなさい」は難題・奇問・狂問です。歴史的コンテクスト(歴史的背景)の「対比」といっても同じ「近代」の中での対比です。

 導入文をもとに、それを受験生なりに説明してみることの他、手だてはないようです。「導入文の解説」が問題なの? ということに疑問に感じつつも、やっみることにします。

歴史学派経済学は全欧的経済発展上の然るべき位置に古代経済を排列する、ということを課題にしており、ギリシア・ローマの歴史はドイツ近代の歴史につながる土台として位置づけようとした。そこには啓蒙思想の影響がみられ、たんなる過去の過ぎ去った歴史とはとらず、連続した全人類的発展の観念をもち、古代の事象は、それが経済世界を構成する方向性をもったものととらえる。とくに歴史学派は当時の経済問題の解決策の一つとして古代史を論争の対象にしていた。そこにはどのような政策が現今の問題を解決するかという実践的な課題をかかえていた。しかし近代歴史学による古典古代学は、古代世界そのものが研究の契機であり対象である。古代は古代として現代と切り離して考察の対象としており、人類史の初期事象として考えるような連続性は意識しておらず、古代は古代で完結した、現代とは必ずしも関連性をもった歴史とはみなしていない。まして政策的な課題を自己の課題としてはいない。

 といったことになるでしょう。
 しかし、これでいいのか、晴れないので、導入文の原文を読んでみることにしました。
 導入文の「総じて言えば」で始まる論文の題は『歴史的経済派の古代経済史研究』というもので、たくさんのドイツ人歴史家の著書・論文を紹介しています。だが、この問題の課題である「近代歴史学」との比較をしている部分はありません。ランケのことを述べた個所もなくて、ただ歴史学派の古代研究を解説してから、結論として、いきなり、「総じて言えば、」と近代歴史学との比較論に入っています。出題者はこの導入文を大学の講義で解説しているのかも知れませんが、受験生には知りようもありません。
 歴史学派経済学の中にマックス=ヴェーバーを入れて、彼について結構書いてありますが、ヴェバーはヴェーバー独自の法制史・社会史の研究があり、古代研究の一面を提示しています。しかし、受験生がこのヴェーバーを使えるとはおもえません。
 またアダム=スミスとフリードリヒ=リストの相違点を明解に書いていますが、これは経済学と経済学の英独間の論争であり、ここで問題になっている古代経済史論争ではありません。
 受験生の立場にたてば、リストとランケでしか「歴史学派経済学と近代歴史学の相違……対比させつつ考察しなさい」の解答は出せそうにありません。ところが上原專祿がこの論文に書いているようにリストは「主著『政治経済の国民的体系』が問題になる限りにおいては、古代経済について関説するところは極めて少い(p.42)」「古代経済に積極的関心を示して居らない(p.51)」のです。ならばリストが言及していない古代経済について、さも言及したかのように作文をすることになります。
 こういう論文を元にこの問題が出題されること自体が異常というほかありません。
 ランケが「厳密な検討によって正確な史実を究明する近代史学を基礎づけた」と言ったとしても、その著作を読んだひとは、そうは受けとらないはずです。西欧至上主義に毒されていて、上原專祿も別の論文でビスマルクの考えに近いことを説明しています。こうなると、どういう対比が可能なのか、ますます怪しいことになります。リストもドイツ優遇の政策をとるべきと唱えた人物で、共通性が多いといわねばなりません。
 予備校の解答例をネットでご覧ください。「対比」にはならず、共通点を書いています。どこがどう対比されているのか作答者たちも訳がわからなくなったようです。たいていどちらも国家の保護・国民固有の歴史・国民国家の強調(ナショナリズム)などとを書いていて、対比になっていません。

第3問
問1 「描写されている運動」と「下線①が示す運動」の名称。
 引用文の「朝鮮独立の宣言……平和なデモ行動」とあるので朝鮮の三一運動(三・一独立運動)と推理できます。また山東利権(二十一カ条要求の一部)をめぐる同時期の中国の運動として五四運動(五・四運動)が想起できます。

問2 下線②で示されている会議(ヴェルサイユの裏切り)に言及しつつ、両運動の背景および、展開過程、意義を、という課題。三一運動と五四運動の双方とも背景・展開・意義を書かなくてはならないので、6個の要求があります。予備校の解答例では、両国に共通する国際的な背景を書いていても、双方でちがう背景もあるのに書いていません。どれが意義に当たるのか明快な説明もありません。採点官にこれがそうだろうなあ、と推測させるものになっています。課題文のように、背景は……、展開は……、意義は……、と書くのが望ましい。自分の解答を明解にします。

 共通する国際的な背景が「ヴェルサイユの裏切り」、つまり十四ヵ条の民族自決が適用されなかったこと、二十一カ条廃棄が認知されなかったことですが、その他にロシア革命、東欧諸国独立のニュース、アジア諸国の独立運動のニュースがありました。裏切られた、といっても東欧諸国は18年の段階で独立運動と独立宣言を行っていて、パリ講和会議の承認をまっていたのですが、アジアでは戦争中に独立宣言を出したところはないので、遅れた運動であったこと、アジアの独立を認める考えが西欧列強にこの段階ではなかったことも考慮すると、「裏切り」は無理な表現ともとれます。
 しかしロシア革命の影響は大きく、各地でソヴィエト政権ができる情勢でした。北京大学の李大釗はロシア革命を「庶民の勝利」とマルクス主義研究会をつくりました。これが後の共産党に発展します。

 朝鮮の背景は、19世紀末からの義兵闘争がありながら、日本軍は韓国を併合して植民地化していました。すでに過酷な武断支配が10年つづいていて、その間、約2万人の義兵を殺害しています。「保安法」「新聞紙法」「出版法」「朝鮮笞刑令」などによって言論・集会・結社という市民的な自由を奪い、「三人以上集会スルヲ許サレズ」という圧迫を加えていました。
 経済面では、「土地調査令」「森林令」などの法令により莫大な国有地や民有地を略奪し、東洋拓殖株式會社という土地売買の会社を皇室・財閥によって設立し、これを日本人移民に安く払い下げる事業をすすめました。日本人地主は1909〜15年の間に692人から6969人に増えます(朴慶植『朝鮮三・一独立運動』平凡社)。「日本人が1人移民すると、5人の朝鮮人が流民になった」といわれました(林えいだい『清算されない昭和』岩波書店)。
 文化的には、「朝鮮教育令」(1911)を公布し、日本語の使用を強制し、朝鮮の歴史、地理を教科目からなくしました。書堂(私立学校)に対する規制をきびしくし、法令違反にたいしては学校閉鎖を断行したため、1910年に1973校あったのが、19年には742校となり、学生数も8万余から3万8千余に減ってしまいました(朴慶植・前掲書)。
 1919年1月幽閉されていた高宗が突如死去しました。日本人による毒殺とみられています。

 展開過程は、まず1月からのパリ講和会議の開催にともない、日本に留学していた学生たちが独立宣言書を書いて日本政府・朝鮮総督府・各国大使館などに送り、2月8日にYMCA会館で留学生大会を開き、独立宣言書を読んで「大韓独立万歳」を叫びました。逮捕される者が増えていきましたが、韓国内に刺激をあたえ、パゴダ公園で独立宣言書が読まれてデモ活動に入りました。すると日本から帰国するものたち(約360人)も加わり、全国的な運動に発展しました。学生・市民・農民・工場労働者・儒生・宗教家・官吏(両班)など全階層が参加します。
 非暴力(無抵抗主義)の原則としてデモをしましたが、日本側の対応は銃殺でした。弾圧による朝鮮人の死者は、日本側の発表で7509名、負傷者1万5849名、被逮捕者4万6306名、被焼却民家715戸、同教会47、同学校2となっていますが、実数は数倍になるでしょう。まるで戦場で掃討作戦をおこなったような弾圧です。
 なかでも韓国で知られていて日本で知られていない殺戮は「水原提巌里」のものです。

 4月15日午後、日本軍一中尉〔有田俊夫ー引用者〕の指揮する一隊が水原郡の南方の提巌里〔郷南面ー引用者〕に入り、村民に諭示することがあると称してキリスト教徒および天道教徒30余人を教会に集合させた。そして教会の窓や戸を堅く閉ざし、ほしいままに兵隊は教会堂内に射撃を加えた。堂内の一婦人が抱いていた幼児を窓の外にだし、「私は殺されてもこの子の命は助けてほしい」とたのんだが、日本兵はその子の頭を突き剌して殺した。堂内の人々もほとんど死傷した。日本兵はさらに放火して教会堂を焼いた。洪某が傷を負って窓外にとびだしたところ日本兵はこれを射殺した。康某の妻は夜着(よぎ)でからだをつつみ、かきねの下にかくれたが、日本兵は銃剣で突き殺し、夜着をかぶせて焼いた。また洪夫人が火を消そうとしたところを射殺され、幼児2人もまた殺された。また1人の若い婦人はその夫を救おうとしてやってきて殺された。こうして教会堂内で殺されたものぱ22人、教会の庭で死んだものは6人で屍体は焼却された。日本兵はまた采巌里(ママ)の民家31戸に放火したが、火は8面15村落317戸に延焼し、死者は39人に達した。さらに近隣の村落で連日銃撃、焼却、殴打などの蛮行がおこなわれ、死者は千余人にのぼった。(朴殷植『朝鮮独立運動の血史1』p.212〜213)

 この半島の運動は、波及して上海に大韓民国臨時政府の設立に、朝鮮人が多く住む中国東北地方の間島や沿海州で活動につながりました。また日本側の軍事的な鎮圧は、この後に起きた関東大震災時における朝鮮人虐殺に連動しました。1919年当時、朝鮮で政務総監の水野錬太郎、警察局長の赤地濃、憲兵司令官の石光真臣、京畿道憲兵分隊長の甘粕正彦は、23年には日本に帰国していて、内相・警視総監・東京南部警備司令官・憲兵大尉となり治安の中心でした。日本で殺戮を再現する面々です。

 三一運動の意義は、第一に軍事的な弾圧にもかかわらず、全階層・全民族がこぞって参加したため、それまでの儒生や元兵士による義兵闘争とちがい非暴力の運動を展開したこと。第二に、周辺地域の運動にも影響をあたえました。とくに中国領内に亡命して伝えたものたちがいて、5月7日におこなうはずのものが「五四」運動に早まりました。第三に、日本は武断政治を文化政治に転換して、いくらか朝鮮語の新聞・雑誌の発行、社会.労働団体の結成などを認めました。

 中国の背景は、辛亥革命への失望があり、軍閥が割拠していて中国の行く末を多くのひとが心配していました。北京大学長の蔡元培は革新的な学者を招いて大学改革を実施しており、「新文化運動」がおこっていて、白話運動に共鳴した魯迅の『狂人日記』が発表されました。また陳独秀は雑誌『新青年』を発行し孔子を否定して「デモクラシーとサイエンス」先生に学ぼうと呼びかけていました。経済面では、第一次世界大戦間に欧米企業が後退したため、紡績、製粉、マッチ、タバコ、石鹸などの軽工業を中心に、民族産業が戦争中に発展しました。労働者の数も戦争中に60万人から200万人に一気に増えました。しかし長時間労働が課せられ、結社、集会、ストは刑罰で禁止されていました。戦争中に二十一カ条要求が日本からつきつけられ、それを容認した北京政府や日本から懐を暖めてもらっている軍閥への反発が強まっていました。
 運動の展開過程は、本来二十一カ条要求を受けて入れた「国恥」記念日たる5月7日に大規模デモを予定していたのが、北京大学の学生が4日に天安門広場で「二十一ヵ条を取消せ」「青島を返せ」「売国賊を懲罰せよ」とプラカードをかかげて市内をデモ行進したことが波及し、売国奴宅の襲撃、警察との衝突に発展、逮捕される学生もいました。逮捕のニュースは市民にも、全国の都市にも衝撃をあたえ、ストが頻発することになりました。これを受けて北京政府はヴェルサイユ条約の調印拒否、売国奴とされて高官の罷免を決めました。初めて女性たちも街頭に出てデモをした運動でした。
 意義は、5月4日を今も「青年節」として祝っているように、学生を中心に、いわゆる「大衆」、権力も金もない学生、市民、商人、労働者が運動の主体となり、それまで一部革命家・民族資本家たちの活動であったのが、そうではないひとひどが生活の場でたちあがったこと。第二に、排除すべきは、中国を圧迫する日本・英国などの帝国主義列強であること、その状態を許す古い勢力たる軍閥の打倒しなくてはならないこと、そのことを志向する中国国民党と共産党の結成されたこと、などです。

 上の解説を参考に、君の解答をつくってみてください。

東大世界史2018

東大世界史2018
第1問
 近現代の社会が直面した大きな課題は、性別による差異や差別をどうとらえるかであった。18世紀以降、欧米を中心に啓蒙思想が広がり、国民主権を基礎とする国家の形成が求められたが、女性は参政権を付与されず、政治から排除された。学問や芸術、社会活動など、女性が社会で活躍する事例も多かったが、家庭内や賃労働の現場では、性別による差別は存在し、強まることもあった。
 このような状況の中で、19世紀を通じて高まりをみせたのが、女性参政権獲得運動である。男性の普通選挙要求とも並行して進められたこの運動が成果をあげたのは、19世紀末以降であった。国や地域によって時期は異なっていたが、ニュージーランドやオーストラリアでは19世紀末から20世紀初頭に、フランスや日本では第二次世界大戦末期以降に女性参政権が認められた。とはいえ、参政権獲得によって、女性の権利や地位の平等が実現したわけではなかった。その後、20世紀後半には、根強い社会的差別や抑圧からの解放を目指す運動が繰り広げられていくことになる。
 以上のことを踏まえ、19〜20世紀の男性中心の社会の中で活躍した女性の活動について、また女性参政権獲得の歩みや女性解放運動について、具体的に記述しなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。

 キュリー(マリー) 産業革命 女性差別撤廃条約(1979) 人権宣言 総力戦 第4次選挙法改正(1918) ナイティンゲール フェミニズム

第2問
 現在に至るまで、宗教は人の心を強くとらえ、社会を動かす大きな原動力となってきた。宗教の生成、伝播、変容などに関する以下の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭(1)〜(3)の番号を付して答えなさい。

問(1) インドは、さまざまな宗教を生み出し、またいくつもの改革運動を経験してきた。古代インドでは、部族社会がくずれると、政治・経済の中心はガンジス川上流域から中・下流域へと移動し、都市国家が生まれた。そして、それらの中から、マガダ国がガンジス川流域の統ーを成し遂げた。こうした状況の中で、仏教やジャイナ教などが生まれた。また、これらの宗教はその後も変化を遂げてきた。これに関する以下の(a)・(b)・(c)の問いに、冒頭に(a)・(b)・(c)を付して答えなさい。

 (a) 新たに生まれた仏教やジャイナ教に共通のいくつかの特徴を3行以内で記しなさい。
 (b) 仏教やジャイナ教などの新宗教が出現する一方で、従来の宗教でも改革の動きが進んでいた。その動きから出てきた哲学の名称を書きなさい。
 (c) 紀元前後になると仏教の中から新しい運動が生まれた。この運動を担つた人々は、この仏教を大乗仏教と呼んだが、その特徴を3行以内で記しなさい。

問(2) 中国においては、仏教やキリスト教など外来の宗教は、時に王朝による弾圧や布教の禁止を経ながらも、長い時間をかけて浸透した。これに関する以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

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 (a) 図版1は、北魏の太武帝がおこなった仏教に対する弾圧の後に、都の近くに造られた石窟である。この都の名称と石窟の名称を記し、さらにその位置を図版2のA〜Cから1つ選んで記号で記しなさい。

 (b) 清朝でキリスト教の布教が制限されていく過程を3行以内で記しなさい。

問(3) 1517年に始まる宗教改革は西欧キリスト教世界の様相を一変させたが、教会を刷新しようとする動きはそれ以前にも見られたし、宗教改革開始以後、プロテスタンテイズムの内部においても見られた。これに関する以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) 13世紀に設立されたフランチェスコ会(フランシスコ会)やドミニコ会は、それまでの西欧キリスト教世界の修道会とは異なる活動形態をとっていた。その特徴を2行以内で記しなさい。
 (b) イギリス国教会の成立の経緯と、成立した国教会に対するカルヴァン派(ピューリタン)の批判点とを、4行以内で記しなさい。

第3問
 世界史において、ある地域の政治的・文化的なまとまりは、文字・言語や宗教、都市の様態などによって特徴づけられ、またそれらの移り変わりに伴って、まとまりの形も変化してきた。下に掲げた図版や地図、資料を見ながら、このような、地域や人々のまとまりとその変容に関する以下の設問(1)〜(10)に答えなさい。解答は解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(10)の番号を付して記しなさい。

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問(1) 10〜13世紀頃のユーラシア東方では、新たに成立した王権が、独自の文字を創出して統治に用いるという事象が広く見られた。図版aは、10世紀にモンゴル系の遊牧国家が創り出した文字である。この国家が、南に接する王朝から割譲させた領域を何というか、記しなさい。

問(2) 13世紀にモンゴル高原に建てられた帝国は、周囲の国家をつぎつぎに併合するとともに、有用な制度や人材を取り入れた。図版bは、この帝国が、滅ぼした国家の制度を引き継いで発行した紙幣であり、そこには、領内から迎えた宗教指導者に新たに作らせた文字が記されている。その新たな文字を何というか、記しなさい。

問(3) 図版cに含まれるのは、インドシナ半島で漢字を基にして作られた文字であり、13世紀に成立した王朝の頃に次第に用いられるようになった。この王朝は、その南方にある、半島東岸の地域に領域を拡大している。漢字文化圏とは異なる文化圏である、その領域にあった国を何というか、記しなさい。

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問(4) 430年、地図中の都市Aの司教は、攻め寄せてきた部族集団に包囲される中、その生涯を閉じた。
 (a) 若い頃にマニ教に関心を示し、その膨大な著作が中世西欧世界に大きな影響を及ぼした、この司教の名前を記しなさい。
 (b) また、この攻め寄せてきた部族集団は数年後には都市Bも征服した。この部族集団名を記しなさい。解答に際しては、(a)・(b)それぞれについて改行して記述しなさい。

問(5) 次の資料は、地図中の都市Cに関する1154年頃の記述である。下線部①は、直前の時期に起きたこの都市の支配者勢力の交替に伴って、旧来の宗教施設[ あ ]が新支配者勢力の信奉する宗教の施設に変化したことを述べている。この変化を1行で説明しなさい。

 アル=カスル地区は、いにしえの城塞地区で、どこの国でもそう呼ばれている。三つの道路が走っており、その真ん中の通りに沿って、塔のある宮殿、素晴らしく高貴な館、多くの[ あ ]、商館、浴場、大商店が立ち並んでいる。残りの二つの通りに沿っても美しい館、そびえ立つ建物、多くの浴場、商館がある。この地区には、①大きな[ あ ]、あるいは少なくともかつて[ あ ]とされた建物があり、今は昔のようになっている
  イドリーシー『遠き世界を知りたいと望む者の慰みの書』(歴史学研究会編『世界史史料2』より、一部表記変更)

問(6) ウルグアイなど南米で勇名を馳せたある人物は、1860年9月に地図中の都市Dに入り、サルデーニャ王国による国民国家建設に大きな役割を果たした。その一方で、彼の生まれ故郷の港町は同年4月にサルデーニャ王国から隣国に割譲され、その新たな国民国家に帰属することはなかった。この割譲された港町の名前を記しなさい。

問(7) 地図中の都市Aを含む地域は近代以降植民地とされていたが、20世紀後半に起きたこの地域の独立運動とそれに伴う政情不安が契機になり、宗主国の体制が転換することになった。この転換した後の体制の名称を記しなさい。

料X
 世界で[ い ]のようにすばらしい都市は稀である。…[ い ]は、②信徒たちの長ウスマーン閣下の時代にイスラームを受容した。…ティムール=ベグが首都とした。ティムール=ベグ以前に、彼ほどに強大な君主が[ い ]を首都としたことはなかった。
   バ一ブル(間野英ニ訳)『バ一ブル=ナーマ』(一部表記変更)

資料Y
 ティムールがわれわれに最初の謁見を賜った宮殿のある庭園は、ディルクシャーと呼ばれていた。そしてその周辺の果樹園の中には、壁が絹かもしくはそれに似たような天幕が、数多く張られていた。…今までお話ししてきたこれらの殿下(ティムール)の果樹園、宮殿などは[ い ]の町のすぐ近くにあり、そのかなたは広大な平原で、そこには河から分かれる多くの水路が耕地の間を貫流している。その平原で、最近、ティムールは自身のための帳幕を設営させた。
    クラヴィホ(山田信夫訳)『ティムール帝国紀行』(一部表記変更)

問(8) 次の図ア〜エのうち、資料X・Yで述べられている都市[ い ]を描いたものを選び、その記号を記しなさい。

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問(9) (a)資料X中の下線部②の記述は正確ではないが、[ い ]を含む地域において、住民の信仰する宗教が変わったことは事実である。この改宗が進行する以前に、主にゾロアスター教を信仰し、遠距離商業で活躍していた、この地域の人々は何と呼ばれるか、その名称を答えなさい。(b)また、下線部②に記されている人物を含む、ムスリム共同体の初期の4人の指導者は特に何と呼ばれるか、その名称を記しなさい。解答に際しては、(a)・(b)それぞれについて改行して記しなさい。

問(10) 資料Xは、もと[ い ]の君主であった著者の自伝である。この著者が創設した王朝の宮廷で発達し、現在のパキスタンの国語となった言語の名称を記しなさい。

………………………………………

コメント

第1問
 2018年度は異様に長い導入文でした。前段で性差別の長い歴史があったことを述べ、次段では、女性参政権運動があり、実現は19世紀末以降からと述べています。さいごの段落で課題が示されます。このうち次段目の説明は正確ではなく、19世紀の半ばから米国の各州で女性参政権は実現していました。たとえば一橋の過去問(2010)に次のような導入文があります。

女性たちの参政権運動は、1848年にセネカ・フォールズにて開催されたアメリカ女性の権利獲得のための集会から始まったといわれる。19世紀後半には女性団体が運動を展開し、1920年になってようやく憲法修正19条により「合衆国市民の投票権は、性別を理由として、合衆国またはいかなる州によっても、これを拒否または制限されてはならない」と定められ、女性の連邦政治への参加が可能となった。

 この1848年から始まって、各州で実現しました。ワイオミング州の1869年、ユタ準州の1870年、ミシガン州とミネソタ州は1875年、ワシントン準州が1883年、コロラド州が1893年とつづきます。「1920年」は連邦憲法で定められたので、合衆国全体での実現になります。この修正19条は総仕上げ、最終段階としてあったということです。
 東大の過去問の類題としては1990年の「第一次世界大戦から1920年代の大衆的政治運動(600字)」が該当します。この大衆の運動の中に女性参政権運動も入っていたからです。
 さて2018年の課題は「19〜20世紀の男性中心の社会の中で活躍した女性の活動について、また女性参政権獲得の歩みや女性解放運動について、具体的に記述しなさい」というものでした。つまり「女性」の「活動」をまず書かなくてはならず、「女性参政権獲得の歩み女性解放運動」も女性・女性が強調されていることです。男性が運動したことでなく、男性が女性に「与えてやった」「認めてやった」参政権でもなく、女性側の活動、女性の獲得運動を書いてほしい、それも「具体的に」ということです
 予備校の解答例がネットで公表されているので、ご覧になり、「女性」側の運動がどれだけ書いてあるか、数えてみるといいでしょう。活躍・運動したのが誰なのか分からない解答例がほとんどです。書いてあるのは、この問題の導入文と同様な女性参政権の歴史・状況・結果で、女性の運動面の具体的事例に乏しいことです。まったく書いてない解答例もあります。課題を素直にとれない反面教師として、書いてはいけない「模範」事例として読むといいでしょう。日本がジェンダー・ギャップ指数で、世界144カ国中114位という現状がこれらの解答例も反映しています。
https://kokai.jp/2017/11/04/男女格差指数2017-日本114位(global-gender-gap-report-2017)/

 しかし指定語句となったキュリー(マリー)やナイティンゲールには活動の広がりがあまりありません。キュリーは完全に個人の研究に没頭していて、女性たちが彼女についていくという「運動」のようなものではありません。女性の国際的地位を上げた一人にはちがいありませんが。
 ナイティンゲールは看護師としてクリミア戦争の地にいき、病院の不衛生さを嘆き、便所掃除から始めて、戦地報告書を提出したことから軍と保健制度の改革につながりました。このことに刺激されてデュナンが赤十字国際委員会を設立します。といって女性の地位向上のための運動になったという訳ではありません。むしろ彼女は統計学の先駆者として学問のほうでの評価が高いひとです。
 なお指定語句の「キュリー(マリー)」はキュリーだけ書いてもいいはずです。他にキュリーは書けませんし、下線を引いておけば指定されたマリーを使ったことの表示になります。どうしもマリーも出題者が書いてほしいのであったら、「マリー=キュリー」と表示したはずです。娘のイレーネ=キュリーのほうが政治運動をおこなったのですが。
 運動指導者といいがたい二人しか女性の名前が指定されていません。東大らしい意地悪い指定語句の出し方です。解答する立場の受験生は、他の運動をおこなった女性の名とともに女性側の運動を列挙していかなくてはなりません。予備校の解答に女性の名前が指定語句以外にわずかしかないのは、この東大のだましに引かかったせいでしょう。
 合格した受験生が、合否がわからない段階で送ってくれた再現答案は以下のものです。問題の趣旨をよくとらえた解答になっています。

女性の活動で著名なものとして、まずラジウムを発見したキュリー夫人が挙げられる。ストウ夫人は『アンクル=トムの小屋』を書いて、奴隷制に関して社会に大きく影響した。ナイティンゲールはクリミア戦争で献身的な貢献を見せ、その後の赤十字設立に寄与した。女性参政権の歩みや女性解放運動については、まず文学でフェミニズムの風を起こしたイプセンの『人形の家』が挙げられる。また、女性の社会貢献が進むに応じて、これらの運動は高揚した。日本では、産業革命が起きて製糸業などの軽工業の機械化が進むと、女工が酷使されて生産された生糸が日本の主要な輸出品となった。これにより、20世紀初頭には平塚らいてうらによる女性解放運動や、女性参政権要求運動が盛んになった。また、世界大戦もこれらの運動活性化の契機となった。世界大戦は、戦場で戦う男性のみならず、女性も軍需産業に従事して戦争に参加する総力戦であった。そのため、大戦後はイギリスで第4次選挙法改正が行われ女性参政権が認められたことなどに見られるように、女性の地位は確かに向上した。これらの運動は、民衆の動きによるもののみならず、政権が主導して行われた例もあった。洪秀全の拝上帝会は、中国の伝統的なてん足を廃止した。ムスタファ=ケマルは、イスラームの女性抑圧の悪しき伝統を断ち切り、トルコ改革で女性参政権を与えた。女性差別撤廃条約人権宣言は使い方がわかりませんでした。

 女性の活動・運動にあたるものをたどってみましょう。
 初めはフランス革命中にオランプ=ド=グージュがおり、『人権宣言』の中の「人間」には女性が含まれていないと抗議し、『女性および女性市民の権利宣言(女権宣言)』を書いて発表したひとです。その10条に「処刑台にのぼる権利と同様に、演壇にのぼる権利をもたねばならない」と訴え、処刑台のほうにのぼらされました。ただ、これは不可欠なデータとというわけではない。教科書には書いてありませんから。
 次は一橋の問題文にあったアメリカ合衆国の女性参政権獲得運動について書けたら書くといいでしょう。19世紀の半ばから各州毎に運動があり、その成果がみられました。
 パリ=コミューンで女性に参政権が与えられたことがあります。
 また世紀末にイギリス女性の運動は活発になり、その指導者エメリン=パンクハーストの名をあげた教科書もあります。『詳説世界史研究』にも載っています。『未来を花束にして(Suffragette)』という映画にもなり、パンクハーストをメリルストリーブが演じました。「言葉でなく行動を」という過激な運動は、映像終盤の衝撃的なエミリー=デイヴィソンの訴えにもなりました。これは Youtube の記録フィルムでも見ることができます。
https://www、youtube、com/watch?v=-G4fJ9I_wQg
 第一次世界大戦の最中に二つの運動と結果があります。ロシア革命において、1917年2月23日、女工たちが「パンを!」の声をあげて街頭に出たことが革命の発端となり、はじめは軍隊が群衆に発砲して鎮圧につとめましたが、やがて兵士も反乱に寝返っていき、ソヴィェト政府は男女同権の選挙権を認めました。
 もう一つが戦前からの女性たちの運動と、結果として教科書に書いてある第4回選挙法改正(1918)で、イギリスでは30歳以上の女性に選挙権が拡大されました。これが戦後に労働党政権を生みます。
 大戦の影響はいろいろ見られます。「総力戦体制のもとで、女性も軍需工場に動員され、男性の仕事を肩がわりするようになった。また、国家は、戦争にあらゆる力を結集するために、男性にも女性にも国民としての役割を与え、国民として自覚させることを通じて……戦争に協力させることが必要になった。女性参政権は、女性運動の成果ではあったが、世界戦争の時代とも深くかかわっていたのである。(東京書籍)」という記事。工場だけでなく戦場に看護婦・兵士として参加した女性もいました。
 アメリカ合衆国では女性参政権は修正19条で全州に強制されました。ドイツのヴァイマール憲法で女性参政権が認められています。この背景として、ドイツでも19世紀に運動があり、「ドイツ婦人参政権協会」(1902)がアニタ=アウクスブルクによって結成されています。マルクス主義者として活動したローザ=ルクセンブルクは多くの聴衆に呼びかけて戦争中はスパルタクス団をつくり、戦後ドイツ共産党を結成しました。
 トルコの改革でも女性に参政権が与えられました。また女性のチャドル(ヴェール)を廃し、一夫一婦制が樹立されました。トルコにも女性側の運動がありました。
 戦争中から戦後にかけてアジアの民族運動はさかんになりますが、日本でもそうでした。中学生の教科書には次のような記事があります。

 (11)始まりは女一揆 ─米騒動と民衆運動─
米俵のゆくえ
 1918年7月、富山県東水橋町(富山市)の港で、何を運ぶ仕事をする女性たちが、山と積まれた米俵を前に、考え込んでいました。米はたくさんあるのに、なぜ米の値段が上がり続け、こんなに生活が苦しいのか。女性たちは、米が他の地域に運び出されるために、米価が上がるのだと考えました。
 そこで、米商人に、「米をよそ(他県など)へやらんといてくれ」と要求しましたが、聞き入れられません。そのため、数百人の女性たちが、実力で米の船積みを中止させ、安売りを求めて米屋に押しかけました。
 8月、富山県の女性たちの行動が新聞で報道されると、米の安売りを求める運動が広がります。たとえば名古屋では、鶴舞公園に、だれかがよびかけたわけでもないのに、たくさんの人が集まり、多い日は5万人にもなりました。その多くは労働者や職人でした。集まった人びとは、安売りを求めて米屋に向かい、警察官と激しく衝突しました。(『ともに学ぶ人間の歴史』学び社、p.214)
 戦後の1919年のことは、この中学生の教科書では、こう書いてます。

 1919年4月、京城(ソウル)から約100km 離れた並川という町の市場に、およそ3000人の人びとが集まっていました。「3月1日に、京城で独立が宣言された。私たちも独立万歳を叫ぼう」という演説があり、太極旗がふられました。人びとは、いっせいに、「独立マンセー(万歳)」と叫びました。このなかに、女子学生柳寛順(ユグァンスン)も加わっていました。
 柳寛順は、京城で、友だちと3月1日のデモに行こうとしましたが、学校が禁止したため、参加できませんでした。ふるさとの町で、両親といっしょに集会に参加しました。
 日本の憲兵隊が、集まった人びとに向かつて発砲し両親は殺されました。柳寛順も逮捕されて、裁判にかけられ、 翌年10月、刑務所に入れられたまま死亡しました。最後まで、朝鮮独立の意志をすてなかったといわれます。(p.212)

 日本での1919年に関しては以下のように書いてあります。

 平塚らいてう……当時、女性には選挙権も財産権もなく、 自分の意思で結婚する自由もありませんでした。太陽である男性に従い、月のように生きることが、女性のあり方だとされていたのです。『青鞜』は、このような考えや制度を打ち破り、女性の人間としての可能性を開かせようと、よびかけました。
 新聞や雑誌は『青鞜』を激しく非難しましたが、女性たちからは共感の手紙が多く寄せられました。……1919年、平塚らいてうと市川房枝は、女性の社会的地位を向上させるために、女性の団結を訴え新婦人協会をつくりました。(p.216)

 この教科書は中学生用ですが、以上の例のように具体的で分かりやすく、東大がよく出題する民衆運動をていねいに書いていて、東大受験に役に立つ内容であることが分かります。お薦めの教科書です。反日教科書だと産経新聞が泣きわめいていますが、子どもの泣き言にひとしく、無視しましよう。わめく理由は、「慰安婦(日本軍性奴隷被害者)」問題をとりあげたからです。次のような記事があります。

 1991年の韓国の金学順(キムハクスン)の証言をきっかけとして日本政府は、戦時下の女性への暴力と人権侵害についての調査を行った。そして、1993年にお詫びと反省の気持ちをしめす政府見解を発表した。このように、東アジアでも戦時下の人権侵害を問い直す動きがすすんだ。アメリ力・オランダなど各国の議会もこの問題を取り上げた。(p.281)
 同ページに「河野洋平官房長官談話」も載っています。この教科書は文科省の検定を通過した、れっきとした教科書です。

 1920年代の運動として「少女たちの労働争議」もあげています。
 
 1927年、岡谷(長野県)の製糸工場で、労働争議が起こった。労働者たちは、会社に次のような要求を出した。「労働組合に入る自由を認め、組合に入ったととで差別や解雇をしないでほしい」「賃金を上げてほしい」「食事や衛生を改善してほしい」
 会社が要求を認めなかったため、平均17歳の工女たち1213人は、いっせいに労働をやめるストライキに入った。12歳の少女もこれに参加した。会社は、親に連絡して娘を引き取らせ、外に出ていた工女を寄宿舎からしめ出した。多くの工女が解雇されて争議は終わったが、そののち、ほかの工場では食事が改善され、賃金が引き上げられるようになった。(p.215)

 欧州における第二次世界大戦中の運動として、2つ女性の例をあげています。白バラ運動のゾフィー=ショル(21歳)、オランダにおいてドイツ占領軍に対する抵抗運動(レジスタンス)に加わった少女オードリー=ヘプバーン(後の女優)です(p.240〜241)。

 戦後は、世界人権宣言が国連で発表され(1950)、その序文に「基本的人権、人間の尊厳及び価値並びに男女の同権についての信念を再確認し、かつ、一層大きな自由のうちで社会的進歩と生活水準の向上とを促進することを決意したので、……」と外務省のページに載っています。(https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/1b_001.html
 指定語句の「女性差別撤廃条約(1979)」も外務省のページにあります(https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/josi/index.html)。
 世界人権宣言の趣旨に基づき設立された、民間の国際的人権擁護機関(NGO)として「アムネスティ=インターナショナル(1961)があります。女性への差別にたいしても果敢に告発・運動を繰り返しています。(http://www.amnesty.or.jp/human-rights/topic/women/)その功績でノーベル平和賞を授与されています(1977)。
 戦後、女性で大統領になった方は増えましたが、それは運動になるのか疑問です。活躍・地位向上の一つではあります。
 日本における男女雇用均等法(1985)が通ったのには、多くの女性弁護士の運動がありました。

 以上の運動にあたるものは総括的にはフェミニズム(女権)運動だといわれもします。ただフェミニズムは一般に戦後の選挙権だけではなく、広く社会全般(政治、文化、宗教、職場、家庭、教育、医療)における女性差別を撤廃しようという運動です。男中心の「近代」社会への批判でもありました。
 1960年代からウーマン・リブ活動といわれるものがアメリカからはじまり、つくられた「女らしさ」を拒否する、性差だけでなく人種・民族・階級の差別のない社会・世界へと市民運動のかたちをとりました。それが国際婦人年世界会議(1975年)を開催するところまで行き、いくつもの都市でこの会議は開かれます。
 アメリカの公民権運動でも女性がきっかけでした。黒人ローザ・パークスさんが、バスの白人席を譲るのを拒んだだめ逮捕され、バス・ボイコット事件となります。これにキング牧師が呼応して大きな運動に発展しました。ローザは米国連邦議会から「公民権運動の母」と呼ばれます。

 日本では、内閣府男女共同参画局を設けていろいろ提言・勧告をしていますが、実態は世界的にも惨めな状況であることは初めの方で指摘しました。なかなか目覚めない日本人男性。セクハラをめぐる最近の政府の対応も、その遅れを可視化しました。「セクハラ罪という罪はない」の答弁書、政府が閣議決定(2018.5.18)というニュースです。「婦人に参政権を与えたのは失敗だった」とも発言している人物(麻生太郎)なので、これは不思議な発言ではありません。
 
第2問
問(1) 
 (a) 仏教やジャイナ教に共通のいくつかの特徴という問い。共に人生を苦悩ととらえ、この苦悩から解放される道を説きました。バラモンの権威、その祭儀を否定し、それに伴う身分を度外視した信徒の集団を形成しました。クシャトリヤやヴァイシャが信徒となりました。

 (b) 仏教やジャイナ教などの新宗教が出現……その動きから出てきた哲学の名称は、ウパニシャッド哲学。その説くところは焚我一如(ブラフマンとアートマンの一体化)という。苦脳に縛られ、輪廻から抜け出せない解脱の境地らしい。自己陶酔的な逃避思想ではないのか?

 (c) 大乗仏教の特徴。出家僧だけが解脱できるとする考えを否定して一般人も解脱・救済の道があるとする仏教。とくに自己の救済より他人の救済(利他行)に専念する僧侶、これを菩薩といい、この菩薩も仏に近い存在として崇拝します。菩薩は仏陀の弟子、高僧、仏教学者などを指し、わかりにくい。

問(2)
 (a) 図版1は、北魏の太武帝……都の近くに造られた石窟である。この都の名称と石窟の名称……位置を図版2から。
 3代皇帝の太武帝のときは都は平城で、現代の大同にあたります。地図上のBが内蒙古自治区と山西省の境にあたり、燕雲十六州の雲州でもあり、その近郊に雲崗石窟があります。

 (b) 清朝でキリスト教の布教が制限されていく過程。康熙帝が典礼問題を機にイエズス会士だけに制限し、次帝の雍正帝が皇帝継承をめぐる際に雍正帝と反対の立場に立ったことと、広東での会士と民間人の衝突事件を理由に全面禁止しました。雍正帝の理由は書かなくてもいいでしょう。

問(3)
 (a) フランチェスコ会(フランシスコ会)やドミニコ会は、それまでの西欧キリスト教世界の修道会とは異なる活動形態をとっていた。その特徴。
 「それまで」としてクリュニー修道院を想起してみます。この修道会はベネディクト戒律を厳守することで信頼され、大土地所有者の寄進を受けるようになり、西欧で1200院も増設するほどの支持をあつめました。改革運動の中心でありながら、次第に豪奢な建物になっていきます。二つの修道会はこうした俗化を嫌い、寄進は受けずに托鉢(市民の施し)で生きる道を選びます。大きな荘園と醸造所をかかえた地方ではなく、都市の中で説教と道路・橋の建設工事に邁進する、という働き者の修道士たちでした。

 (b) イギリス国教会の成立の経緯と、成立した国教会に対するカルヴァン派(ピューリタン)の批判点。
 経緯はヘンリ8世が離婚問題を機に首長法で創設し、エリザベス1世が統一法で確立した、と書けばいいでしょう。批判点はあくまで(ピューリタン)の立場からです。国教会は教義面でカルヴァン派を採用しながらも、旧教の儀式・礼服・祭式をそのまま残したため、もっとそれらは簡素にすべきこと、あるいは廃止すべきであり(クリスマスや復活祭は廃止)、国教会の首長(Head)を国王にしたことに対して神こそ首長であるべきで、司教の権限も弱めること、聖職者も結婚を認めるべきである、などでした。

第3問
問(1) 図版aは、10世紀にモンゴル系の遊牧国家が創り出した文字である。この国家が、南に接する王朝から割譲させた領域。……図版a が分からなくても、10世紀・モンゴル系とあれば国家は契丹(遼)しかない。それが北宋から後晋建国を助けて石敬瑭に割譲させた燕雲十六州です。

問(2) 図版b の上段の文字は「至元通行宝鈔」、その左右に縦書きで奇妙な文字、パスパ文字が印字されています。この紙幣の大きさは、タテ30cm、ヨコ21.5cm です。東京銀行のそばに貨幣博物館があり、そこに現物が展示してあります。

問(3) 図版c はチュノム(字喃)ですが、この文字をつくった陳朝が「その南方にある、半島東岸の地域に領域を拡大している。漢字文化圏とは異なる文化圏である、その領域にあった国を何というか」という問い。北ヴェトナムの南、チャンパー(国)です。中国では占城と呼んだ国です。

問(4) 430年、地図中の都市Aの司教は、攻め寄せてきた部族集団に包囲される中、その生涯を閉じた。……ヒッポ市(ヒッポレギウス)です。チュニジアの国境に近いアルジェリア東北部の都市(現アンナバ市)です。ヴァンダル人に攻められ陥落しました。
 (a) 若い頃にマニ教に関心を示し、その膨大な著作が中世西欧世界に大きな影響を及ぼした、この司教の名前……マニ教からの回心を描いた『告白』の著者アウグスティヌスです。

 (b) また、この攻め寄せてきた部族集団は数年後には都市Bも征服した。この部族集団名を記しなさい。……B のカルタゴ市もせめてここを都とし、さらに北のコルシカ島もサルディーニア島も、ローマ市にも侵攻しました。

問(5) 都市C はパレルモ市。「1154年頃の記述」とは、ここにノルマン人が進出してアラブ人を追放したため、それまでのイスラーム教・モスクからキリスト教の教会に変貌したことを指しているはずです。
 1154年は西欧ではプランタジネット朝創始の年(『世界史年代ワンフレーズnew』(パレード)の覚え方では「プランタジネット、い1い1交5信4」)ですが、両シチリア王国も近い年代で1130年(「いい漁師、ト1ト1さん3を0[トトは魚のこと]」)。両シチリア王国は、ノルマン朝の貴族たちがシチリア島を征服し、半島南部のナポリにも根拠をおいてできた親族国家でした。

問(6) 「ウルグアイなど南米で勇名を馳せたある人物」について知らなくても、「1860年9月に地図中の都市Dに入り、サルデーニャ王国による国民国家建設に大きな役割を果たした……」とあればガリバルディの名が浮かぶはず。都市D はナポリ市です。統一戦争はフランス(ナポレオン3世)が助けてくれたためにサヴォイとともにニース港市を割譲しました。

問(7) 宗主国の体制が転換することになった。この転換した後の体制。アルジェリア独立戦争のことです。当時、フランスでは独立戦争といわずテロと叫んでいましたが、今は独立闘争であったことを認めています。映画『アルジェの戦い』は壮絶な殺しあいを描いていました。第四共和政はインドシナ戦争でも苦戦し、アルジェリア戦争でも苦戦していて、アルジェ市のフランス人コロン(植民者)たちがド=ゴールの登場を要請して蜂起したことから第四共和政はつぶれ、第五共和政が成立することになります。この政変はド=ゴールが仕組んだという説があります。

問(8) ティムールの都がサマルカンドだという問題は、センター試験でなんども問われてきた基本的なことです(90、96、01追、04追、06)。地図のアはコンスタンティノープル、地図のウは長安、地図のエはバグダード、と分かれば、見たことがなくても正解は「イ」となります。

問(9) (a)[ い ]を含む地域において、……遠距離商業で活躍していた、この地域の人々。サマルカンド市がアム川とシル川の間にあるソグディアナの住民のことで、ソグド人です。

(b) 初期の4人の指導者は特に何と呼ばれるか。正統カリフ。

問(10) 現在のパキスタンの国語は、ウルドゥー語です。インダス川流域に8世紀以降、多くの民族・兵士が往来したためできた混成語です。

2018合格メール

Aさん 0215 1120
中谷先生こんにちは
津田塾大学を第一志望にしていたAです
本日合格発表があり無事、国際関係学科に合格しました❗️
センター後は英語と国語で手一杯でしたが、
先生の予想問題、そしてこれまでの添削指導のおかげで自信を持って世界史の試験に臨めました。先生なくして合格はなかったです。本当にありがとうございました。
ボロボロになった各駅停車とワンフレーズは試験場でお守りがわりでした☺️これからも大切にします。
本当にありがとうございました。
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Bくん 0310 1300
東京大学合格しました!
本当に2年間もずっと添削してくださって、ありがとうございますの一言では表せないくらいの感謝です。
先生のして下さった添削を印刷して大事に使いました。先生の添削がなく、予備校や赤本の薄っぺらい解答しかなかったら、東大世界史の面白さや深みも味わえなかったと思います。
先生の世の中の受験生になるだけ正しいことを教え広めようという、非営利的な姿勢もブログや添削サービスから理解出来て、教育者のあるべき姿だと感じました。
本番でも問題に対して解答することを意識して、使えなかった指定語句も練習帳の通りに処理しました。
本当に先生について行って良かったです。ありがとうございました🙇🙇🙇
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Cくん 0310 1302
こんにちは。京都大学法学部に無事合格することが出来ました。
実は私は仮面浪人で、さらに今年文転した身です。
予備校に通わず参考書で勉強していたのですが、先生の世界史論述練習帳はとても学習の役に立ちました。
先生の添削からも学ぶことが多く、合格の一因に必ずなっていると思います。
春から、念願の法学を一生懸命学んできます。本当にありがとうございました。
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Dくん 0310 1926
添削でお世話になったDです。
東京大学文科三類、無事に合格することができました。
論述の右も左も分からない状態から、論述練習帳で学び、先生の添削を受け、本当に先生のお陰でこのような結果を残すことができたと思います。
先生の世界史に対する考えに触れることは知的好奇心が高められ、勉強自体を楽しむことができました。本当にありがとうございました。
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Eくん 0310 1831
こんばんは
桐朋高校卒業のEです。
東大文科3類、合格していました!
先生の添削はとてもためになり、本番でも役に立ったのですが、肝心の第1問は女性史に関する知識と常識が全く足りず、うまく書くことが出来ませんでしたが、第2問はきちんとポイントを詰めた解答ができたと思います❗
たくさん添削していただきありがとうございました!先生のお陰で、苦手だった世界史が好きになり、面白いと思えるようになりました。本当にありがとうございます❗
………………………………………
Fくん 0515 1332
昨年度添削でお世話になったFです。
報告遅れましたが、無事東京大学文科2類合格しました。
昨日開示がきて、世界史は45点でした。参考になれば幸いです。
本当にありがとうございました!!!

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疑問教室:北アジア・チベット史

北アジア・チベット史の疑問
Q1 スキタイはイラン系、柔然はモンゴル系、突厥はトルコ系とは言いますが、そもそもイラン系、モンゴル系、トルコ系の定義とは何なのか? 何をもって何系と判断しているのでしょうか? 

1A たしかに「系」は漠然とした表現ですね。基本的には、遊牧民の「支配層の民族出身」から言う表現です。支配層という限定をするのは、その下にいる支配されている民族は、いろいろあると考えられるからです。蒙古高原の支配は、匈奴からはじまり、鮮卑、柔然、そして突厥・ウイグルとつづきますが、匈奴の後に鮮卑が支配層になったということであり、それ以前の支配層であった匈奴がまったく居なくなったのではなく、鮮卑族の支配下に匈奴はいるのです。民族がごっそり居なくなることではありません。6世紀からトルコ系の突厥が支配することになったとしても、その下にそれまでの多くの民族は残っているのです。
 たとえば元朝のとき漢人と位置づけられたなかに、それまで華北を支配していた契丹族や女真族が漢人とともにいました。国はなくなっても民族は生き残っています。13世紀にモンゴル人の帝国が蒙古高原からはじまってできますが、実はモンゴル人というのも蒙古族の一派(部族)にすぎず、他にオイラート、タタール、オングート、ケレイトなどと種々の部族がいたのですが、モンゴル族のチンギス=ハンによって部族間戦争の決着がつき統一を実現したので、すべてがモンゴル人の支配下にはいると、以後、モンゴル帝国と呼びならわしています。さもすべてがモンゴル人であるかのように。
 また「系」を印欧語族という表現の代わりに印欧系ともつかっています。これは「系」の前の名詞で語族を表していることが分かるはずです。双方まぜている場合もあるでしょう。


Q2 山川の用語集p.44の「ウイグル」の欄に「マニ教を信仰し……」とあって、同p.142の「回部」の欄には「イスラーム系トルコ族(ウイグル人)」という説明があります。ウイグル人はいつの間にイスラム教徒になったんですか。

2A はじめは安史の乱に唐側を支援して中国に入り、蒙古に帰るときにマニ教僧侶を連れてかえり、それがマニ教を信仰するきっかけでした。そのあとに仏教がはやり、キルギスに押されて西走(840)し、現在の新疆ウイグル自治区に入ってからイスラーム教に触れ、これを信仰するようになります。3回も宗教を変えたという珍しい民族です。現在はイスラーム教徒のままで変わっていません。イスラーム教徒になれば変わる可能性はないでしょう。


Q3 ウイグルの西走と中央アジアのトルコ化にはどういう関係があるのですか?

3A ウイグル人がトルコ人ですから、かれらが移動して住みついた地域は「トルキスタン(トルコ人の住む地)」と呼ばれます。840年にキルギスに追い立てられて西走し、940年にカラ=ハン朝ができてからが「トルコ化」のスタートです。その後、セルジューク朝がすぐ西のシル川下流域ででき、これがイランに、そしてイラクへと南下していって、西アジア一帯のトルコ化につながります。


Q4 ベラサグンってドコらへんですか?

4A カラ=ハン朝の都として出てきます。天山山脈の北側でバルハシ湖の南です。もし吉川弘文館の『標準世界史地図』をもっていたらp23にでていくす。もっていなくても、10世紀頃の歴史地図か12世紀のカラ=キタイ(西遼)の地図を探せばたいてい書いてあるはずです。フス・オルダと名前に変わっている場合もあります。


Q5 ダライ・ラマとパンチェン・ラマと活仏の用語の使い分けはどうなってるのでしょうか? ダライ・ラマもパンチェン・ラマも活仏ですよね? また、パンチェン・ラマはダライ・ラマを継承するのではないのですか?
 さらに……、実教出版の教科書p309には「(モンゴルでは)その後、活仏の死を機に共和政が宣言され、1924年9月モンゴル人民共和国が成立した」とあります。この場合の活仏とは具体的には誰なのですか? 活仏は一人ではないと思うのですが……。

5A 活仏に4人あり、それに権威の差があるようです。第一はもちろんダライ・ラマで(最高法王ともいいます)、次がパンチェン・ラマ(副法王ともいいます)、ここまでがチベットのラマたち。そして三番目がモンゴルにおけるジェプツンダンパ(ツェブツンダンバ)・フトクト(ホトクト)、四番目が青海におけるシャンジャ・フトクト。このうちの三番目のジェブツンダンバ8世であるボグドゲゲンがボグド・ハーンとして1911年に独立宣言をし、この人が亡くなって共和政に、ということです。一方のチベットのダライ・ラマ(13世トゥプテン・ギャツォ)も1912年に独立宣言をしていますが、現在の第14世テンジン・ギャツォの代に中華人民共和国軍がチベット進駐を行い(1950年)、ダライ・ラマは一度は「チベット自治区準備委員会」に参画しますが、1959年のラサでの反乱を機にインドに亡命し、ダラムサーラに亡命政権を樹立して現在に至っています。ところが10代パンチェン・ラマはチベットにとどまり、チベット人民自治区代表委員をつとめています。つまり中国側に認められた活仏なのです。
 パンチェン・ラマはダライ・ラマを継承するのではないのですか?  ……政治的には中国が強引にそうしているだけで、宗教的には、これはありえないのではないでしょうか?   モンゴルにおける活仏はいつ現れたのか、という疑問がわきます。ジェプツンダンパの起源は、外モンゴリアでラマ教に帰依した16世紀のアバダイ・ハーンに由来します。17世紀後半にこのハーンの曾孫にボグドゲゲンと呼ばれる活仏が出ます。清朝もこの活仏を保護し、ボグドゲゲンは以後8代続き、1924年に廃止されるまでその地位にありました。(平凡社百科事典の「ラマ教」の項目を参照しました)


Q6 1907年の英露協商で、「イランでの両国の勢力範囲の取り決め、アフガニスタンはイギリスの勢力範囲」まではわかるけど、なんでいきなり「チベットは中国の主権を認めた」んですか。

6A 英露協商で、チベットでの中国の宗主権を認め内政不干渉を守る……というのは、逆に言えばロシアにチベットに干渉してもらいたくない、ロシアによるチベットの植民地化は困りますよ。それでは中央アジアにぐっとロシアが南下してしまい、英領インドが危なくなる。それよりここは妥協していただいて、ドイツに対抗して手を結びましょう、というものです。実はすでに清朝とチベットのことは互いに内約済みでした。清朝には宗主権というあいまいな外交権をチベットの頭ごなしに英清間で決めています。ダライ・ラマ13世が清朝から完全に独立したがっていることを知っていたので、英軍を派遣して脅しており、また後でチベットとも1904年にラサ条約を結んでその独立性を暗に認めています。こうした二枚舌と刀を使って既成事実をつくっておいてロシアに認めさせたのです。この間の事情抜きに、いきなりチベットの話が出てくるのが教科書っつうものですよ。